巻 68
号 1
ページ 30‑48
発行年 2006‑08‑12
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011231
フランツ・ローゼンツヴァイクによる ユダヤ教とキリスト教の再認識
Recognizing anew of Judaism and Christianity by Franz Rosenzweig
森 山 徹
Toru Moriyama
キーワード
アウシュヴィッツ以前、アウシュヴィッツ以後、ユダヤ教とキリスト教、ローゼンツ ヴァイク、レヴィナス、
KEY WORDS
Before Auschwitz, After Auschwitz, Judaism and Christianity, Rosenzweig, Levinas,
要旨
本稿の目的は、「アウシュヴィッツ以後」の現代において、ユダヤ教とキリスト教 をどのように捉え直すのかということを、フランツ・ローゼンツヴァイクの思想を通 して検討することにある。キリスト教への改宗の一歩手前でユダヤ教に回帰したロー ゼンツヴァイクは、ユダヤ教の特異性を再発見し、同時にキリスト教も承認する道を 探る。彼にとってユダヤ教とキリスト教とは、同じ「永遠」に基礎を置きながらも、
互いに「相補性」と「排他性」を持ち、「救済」を待ち望む二つの型として理解され ていた。レヴィナスは、「真理のメシア的認識論」という見地からローゼンツヴァイ クの両宗教理解を評価し、「アウシュヴィッツ以後」の現代においても現実性を持っ ていると主張した。
SUMMARY
The purpose of this paper is to examine the Jewish and Christian responses to the
“after Auschwitz”period and how they are being regarded through the works of Franz
Rosenzweig. Stopping just before conversion to Christianity Rosenzweig retraces the singularity of his Judaism while discovering its relation to Christianity. He addresses how the understanding of “eternity”is laid out in Judaism and Christianity, and how the waiting for “redemption”in each of these respective religions contains “mutually exclu-
sive” and “complimentary” elements. Lastly, Levinas evaluates highly Rosenzweigʼs Judeo-Christian understanding through his “Messianic epistemology of truth”and reveals how Rosenzweigʼs ideas are meaningful to our “after Auschwitz”days.
Ⅰ 問題の所在
筆者が研究の課題としてとりあげるのは、現代におけるユダヤ教とキリスト教の関 係の再認識という問題である。現代の文脈に即してユダヤ教―キリスト教の問題を考 える時、われわれは第二次世界大戦下での「ホロコースト」を無視することはできな い。第二次大戦後、「アウシュヴィッツ以後」 という言葉の下に、ユダヤ人の組織的 大虐殺という出来事をどのように受け止めていくのかという議論がなされた。キリス ト教側にも、ドイツの神学者たちが中心になってユダヤ教徒と積極的に対話し、「ア ウシュヴィッツ以前」のキリスト教神学を再吟味する動きが生まれた。これは、キリ スト教文明がその発展の陰で絶えずユダヤ教徒を抑圧してきたのではないか、その究 極的な発露としてアウシュヴィッツに象徴されるところのユダヤ人大虐殺が生じてし まったのではないか、という深刻な問いかけから始まっている。
このような問題意識の中で、筆者がユダヤ教の思想家ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig 1886-1929)を取り上げる理由は二つある。一つ目は、彼が「アウシュヴ
ィッツ以前」のドイツにあって形骸化しているとみなされていたユダヤ教を捉えなお し、キリスト教との関係においてユダヤ教を独自の視点で位置づけようとしたことに ある。二つ目は、近代ドイツにおいて両宗教を深く呼吸した彼の思想が「アウシュヴ ィッツ以後」のキリスト教神学にとって新しい地平を開く可能性を秘めているのでは ないかと考えるからである。よって本稿では、彼のユダヤ教とキリスト教の構想がど のような契機のもとに起こり(Ⅱ)、主著『救済の星』 で具体的にどのように展開さ れ(Ⅲ)、「アウシュヴィッツ以後」においても両宗教間において何らかの有効性を保 持しているのか(Ⅳ)を考察し、「アウシュヴィッツ以後」の両宗教間の関係におけ るローゼンツヴァイクの思想的意義を明らかにしたいと考える 。
Ⅱ 「アウシュヴィッツ以前」における、
あるユダヤ教徒とキリスト教徒との対話
フランツ・ローゼンツヴァイクは、1886年12月25日にドイツのカッセルでユダヤ人 の裕福な家庭の下に生まれ、初めに医学を、次いで歴史と哲学を専攻し、ヘーゲル研 究者としての道を歩む。青年期、修学時の殊に宗教的実践において彼に決定的な影響 を与えたのは、キリスト教に改宗したユダヤ人であるいとこや友人たちであった 。 当時のドイツに生きるユダヤ人にとって、1871年以降に与えられた「解放」 は近代 的な「反ユダヤ主義」の脅威を呼び起こし、多くのユダヤ人は積極的にドイツ社会へ
「同化」するための一つの手段としてキリスト教へ改宗しようとした 。また当時の特 権階級に属した知識・ユダヤ人たちの一部は、歴史と文明とに充満するキリスト教精 神に比べ自らの宗教(ユダヤ教)を形骸化した過去の遺物としてとらえ、内面的な渇 きを抱えて自発的にキリスト教へ改宗していった 。1913年7月7日の夜、ローゼン ツヴァイクも同化キリスト教徒であり友人のローゼンストックと夜通し語り合う中で キリスト教への改宗を一旦は説得されたかに見えたが、三ヶ月後の手紙の中で「それ
(キリスト教への改宗)は可能ではありません。それはもう必要ではありません」と 書き記す 。
当初キリスト教へ改宗することを受け入れたかに見えたローゼンツヴァイクが、そ の一歩手前でユダヤ教に踏みとどまるというこの決断は、いったいどのような理由に よってなされるに至ったのか。ここでは以下モーゼスの論を手がかりに、第一次大戦 下の中で行われたローゼンツヴァイク(ユダヤ教徒)とローゼンストック(同化キリ スト教徒)との対話から、ローゼンツヴァイクがユダヤ教とキリスト教を捉え直した その契機を探ってみたい。
ローゼンツヴァイクのユダヤ教への回帰を知ったローゼンストックは、その手紙の 中で、彼のユダヤ教への固執とはキリスト教の教義が「ユダヤ人の頑なさ」と伝統的 に形容してきたものであり、なぜあなたのような優れた人物がこのような「頑なさ」
にとらわれてしまったのかわかならい、と失望の意をあらわにした 。これに対して 1916年10月の手紙の中で、ローゼンツヴァイクは、「ユダヤ人の頑なさ」とは、まさ にキリスト教の教義であるということを認めつつ、ローゼンストックに向けて次のよ うに問い直す。「しかし、この「ユダヤ人の頑なさ」という同様の見解は、ユダヤ人 の教義でもあるのだろうか 」 。
ここでローゼンツヴァイクは、「ユダヤ人の頑なさ」という主題に疑問符をつける。
なぜならこの「問い直し」という身振りは、「ユダヤ人の頑なさ」という教義が、「ユ ダヤ民族の「客観的属性」ではなく、キリスト教神学のひとつの範疇」 ではなかっ たのか、ということを間接的に指示するからである。つまり、「キリスト教神学の範 疇としてのユダヤ教」と「ユダヤ人にとってのユダヤ教」とは本来的な「差異」があ るということをローゼンツヴァイクはこの「問い直し」によって間接的にではあるが 明らかにしようとしたのである。
そして自ら発したこの問いに引き続いて、ローゼンツヴァイクは次のように答える。
「まさに、それ(ユダヤ人の頑なさという教義)は、ユダヤ人の教義である」 と。
しかし彼は即座に、「われわれ(ユダヤ教)の教義においてはまったく異なった場所 を占めており、それは(世界を)統治(rule)するために選ばれたというキリスト教徒 の意識と対応している」 という。つまり彼はここでこの「ユダヤ教の頑なさ」とい う教義からユダヤ教とキリスト教の異なった二つの見解が導き出されるということと、
この教義に関する両宗教の見解が対応していると指摘するのである。ローゼンツヴァ イクにとって「ユダヤ人の頑なさ」という教義は、その卑俗な形態においては「傲 慢」をまとい、高貴な(普遍的な)形態では「選び」の観念によって表明されるとこ ろのものであった 。この往復書簡に限定すれば、ローゼンツヴァイクがユダヤ教に 踏みとどまった理由の一端がこのユダヤ教の「選び」の再発見にあったと考えること は十分に可能である。
これに対してローゼンストックは、ユダヤ教の「選び」という観念が、自分こそ世 界の中心であると思い込む古代民族に共通の古臭い神話を再現したものでしかなく、
もはやキリスト教的な文明の中ではいかなる正当性も持ちえないと反論する 。彼に とって民族や宗教は、歴史の一時期においてある普遍的な役割を担っているが、その 時代が過ぎればそれは過去の出来事となって現在の出来事の土台を供給するのであり、
確かにユダヤ教も過去の一時代を担っていたが、キリスト教が生まれ、それが最も開 花している現在(20c初頭)において、ユダヤ教が自らの民族・宗教を「選び」によ って基礎付けることは「盲目的な時代錯誤」以外の何物でもなかったのである。モー ゼスはこのローゼンストックの主張を「神学的狂乱」という名の下に論じているが 、 このローゼンストックの反論は、まさにローゼンツヴァイクが指摘した「キリスト教 神学の範疇におけるユダヤ教」という認識の一つの枠組みを代弁していると受け取る ことができる。
モーゼスはこの両者の対話において、ユダヤ教とキリスト教の関係が結果的には
「何ひとつ解決されていない」 ということを認めながら、しかしこの対話の意味を 次のように指摘している。すなわち、一つ目は「キリスト教神学の範疇におけるユダ ヤ教」と「ユダヤ人自身のユダヤ教」という視点の「差異」の提示であり、二つ目は
その「差異」に基づいた両宗教相互の「還元不能な他者性」の開示である。長い間キ リスト教はユダヤ教を「過去の一時代を担った」が「現在では意味を持たないもの」
として自らの神学の範疇に位置づけてきた。また同化し世俗化しようとした多くの知 識・ユダヤ人自身も「キリスト教神学の範疇としてのユダヤ教」という見解をキリス ト教側から逆投影する仕方で内面化してきた。そのような中でローゼンツヴァイクは、
「ユダヤ人の頑なさ」と「選び」という教義の認識からも見られるように、ユダヤ教 そのものの「特異性」を「ユダヤ教に即して」描き直そうとする。彼は、このような
「特異性」への気付きの契機となったこの対話が、一見して相手の存在を完膚なきま でに否定するがごとき敵対的批判の応酬の様子を呈しているにもかかわらず、結果と してこの両宗教の「根源的他性」が回復されていく経過としての意義を有するという ことを、知っていたように見える 。そして、このようなローゼンツヴァイクの身振 りを、「異化(dissimilation)」という言葉の下に丁寧に洗い出し位置づけたモーゼスの 指摘は傾聴に値するだろう。しかし、ここではいまだ両宗教の「根源的他性」が回復 されたに過ぎない。われわれはローゼンツヴァイクが「異化」によって「根源的他 性」を回復したユダヤ教とキリスト教がどのような関係性を持ちうるのかという具体 的な内容にまで足を踏み入れなければならない。
Ⅲ 「救済の星」におけるユダヤ教とキリスト教
前述のように、ローゼンストックとの対話によって、ローゼンツヴァイクは両宗教 の「差異」と「根源的他性」を自覚するに至った。それでは彼は具体的に両宗教をど のように構想し、両宗教の関係をどのように構想していたのだろうか。
ローゼンツヴァイクが自身のユダヤ教とキリスト教の問題を組織的に叙述したもの、
それは主著『救済の星』である。第一次大戦下のバルカン半島の最前線で書き始めら れた(1919〜1921)この著書は、三部構成を成す哲学的著述であり、ユダヤ教とキリス ト教の具体的なあり方については主に第三部に詳述されている。よってここでは『救 済の星』の第三部から彼の両宗教の具体的な構想を「共同体(Gemeinschaft)」とい う観点から考察したい 。
Ⅲ‑1 「ユダヤ教共同体」と「キリスト教共同体」
《ユダヤ教》ユダヤ教共同体については、「血縁共同体」、「土地」、「言語」、「法」に
わけて考えられる。まずユダヤ教共同体の特色は、「血」によって保証される「血縁 共同体」にある。ユダヤ教共同体の永遠性は、祖父から孫へと受け継がれていく
「血」の中にあり、この「血」のみが現在の只中で未来への保証を与えることができ る 。ここで注意しなければならないことは、このはなはだ誤解をこうむりやすい
「血」という言葉が、人種的弁別、もしくは優越性を意味しているわけではないとい うことである(後述するように、この語が意味するものとは、まさしくユダヤ教共同 体が「世」から区別され己自身の内に根ざすという事態を象徴的に言い表しているの である) 。それに対して世の共同体はそうではない。世の共同体は、自身の「土地」
を守ることによってのみ統一を果たすのであって、「血」に信頼を置くことはない。
しかし「土地」は民を育みもすれば縛りもする。共同体の統一の基盤としての「土 地」を重要視するがゆえに、民はその「土地」の支配者への追従を強いられ、最終的 にはその「土地」のゆえに民は裏切られるのである 。それではユダヤ教共同体にと って「土地」はどのような意味を持つのだろうか。ローゼンツヴァイクは、このこと を聖書に沿ってアブラハムの召命とカナンへの移住、エジプトへの避難とそこからの 脱出、そして統一王国時代とバビロン捕囚と、順々に説き起こす。このことから、聖 書に書かれた「約束の地」とは、「切望される地」という意味を持つとローゼンツヴ ァイクは言う。ユダヤ教共同体にとって「土地」とは神のものであり、民は寄留者で 借用人に過ぎないのである 。このような「土地」とは異なり、寄留者であるところ のユダヤ教共同体と共にあるのは、「言語(ヘブライ語)」である。一般的な「言語」
は永遠なものではなく、民とともに生まれて死に、変化し同化する。しかしユダヤ教 共同体の「言語」は、他の共同体の言語と決して同一化しない。なぜならこの「言 語」はもともと日々の生活の中では使用されていないからである。ユダヤ教共同体に とって、ある特定の「土地」に根付かないことが「土地」の聖性を保持するように、
聖なる「言語」の聖性は、ある特定の土地の「言語」に根付くことをゆるさず、これ によって民は世の生活から守られ、「永遠」へと連れ戻されるのである 。この「言 語」を通して与えられた「法」が「トーラー」であり、変化する生活上の出来事は、
あたかもすでに「トーラー」によって記され啓示されたものとしてあらわれ、これに よってユダヤ教徒たちは現世的・歴史的な関連性から取り除かれ、自らの聖なる生活 を保持しうるのである 。
このようなユダヤ教共同体の特色とは、「世」と「聖」の区別、そしてこの「聖」
に基づいた共同体の継続という点にある。「血」、「土地」、「言語」において、ユダヤ 教徒はその国の人々、文化、生活に織り合わされることはない。また場と時において も自らの内にある「永遠性」に「根」を持ち、地上では永久にさすらう者となる 。 しかし反面、このような共同体のあり方は、「世」とそれに付随する「歴史」からの
「苛立ち」を買うことになるのであり、事実この共同体は歴史上絶えず歴史上の諸民 族や諸国家によって拒絶され、うわべの敗北と崩壊を経験してきた 。つまり、ロー ゼンツヴァイクにおけるユダヤ教共同体とは、「永遠」とともにあるがゆえに必然的 に「世」からの「迫害」を招く、そのような共同体でもある。このような共同体的な あり方は一面において「超歴史的(meta-historic religion)」であるといえる。事実彼は このことについて「永遠の民(ユダヤ教共同体)は国家が目指している目的に既に到 達している」と述べている 。また別の箇所において、ローゼンツヴァイクは「無限 の点」という比喩を用いてこの「ユダヤ教共同体」を説明している。つまりこの「無 限の点」とは決して拭い去れないという事実によってのみ成ることができるものであ り 、ユダヤ教共同体とはこの点が点であり続けるということにおいて存在するので ある。このように、ローゼンツヴァイクにとってユダヤ教共同体が存在する条件とは、
「自らの内に根付き」、途切れることなく「血」を継承することにあり、これによって 共同体に「永遠」が保証されるのである。
《キリスト教》それでは、キリスト教共同体の特色とはどのようなものであるのだ ろうか。キリスト教共同体については、「個人」、「証言」、「エクレシア」、「兄弟愛」
にわけて考えられる 。
まずキリスト教共同体は、神によって導き出された「個人」によってキリストへの 信仰が「証言」されなければならない。なぜなら、ユダヤ教共同体が自身の民を生み 続けることによって自らの信仰を証する、つまり彼らの存在自体が信仰そのものであ るのとは異なり、キリスト教共同体は、血筋、民族、諸王国、年齢、地位、性別、肌 の色、能力、力など、全てのものが異なる中で、「個人」によって「証言」された
「信仰」が「運ばれる」ことを通してしか形成することができないからである。この キリストへの信仰の下に「個人」の統一は打ち立てられ、その統一とはまさに「エク レシア」と呼ばれる 。それではこの「エクレシア」の具体的な内容とはどのような ものなのだろうか。キリスト教共同体としてのこの「エクレシア」は、「個人」の統 一のゆえに、「個人」は全くの自由でなければならない。このキリストへの信仰を
「証言」する「個人」とは、他の誰かと置き換え不可能な存在なのである。「男性」と
「女性」、「年配の者」と「若者」、「主人」と「奴隷」、「金持ち」と「貧しき者」、「賢 い者」と「愚かな者」、「ローマ人」と「異邦人」等、「エクレシア」はある「個人」
に別の「個人」を置き換えたりはしない。「個人」は「エクレシア」の中で、その性 質・状態・境遇の変化なしに、自らが神によって世界に創造された一部であるという ことを受け入れる、このことにおいて自由なのである。同時に「個人」は、「エクレ シア」における他の「個人」としての「兄弟」の「証言」の中に自身と同様にキリス トを見る。これによって「自由な人間はすべての奴隷」となる。なぜなら彼らの兄弟
の最も小さきものになすことは、世の裁きにおいて戻って来られる主になすことにな るからである 。この自由と従属の中で、「エクレシア」は「個人」の固有性を残し たまま互いを結びつける「兄弟愛」を生み、「兄弟愛」は「エクレシア」を補強し、
また拡張する。そして、この「兄弟愛」だけが、民族、人種、階級、年齢などのわけ 隔てられた境界線を飛び越し、「個人」相互を結びつけることができるのである。「個 人」によるキリストへの信仰の「証言」と、それによって統一された「エクレシア」
の中に生まれる「兄弟愛」によるはたらきこそ、ローゼンツヴァイクが「宣教」と呼 ぶところのものである。
ここでのキリスト教共同体の特色とは、「エクレシア」の統一の仕方と内容にある。
神によって世から呼び出された「個人」がキリストへの信仰の「証言」によって「エ クレシア」を生み、この「エクレシア」は「個人」相互の間に生まれた「兄弟愛」を 通して、様々な境界線を乗り越えて「世」へと「宣教」していく。このような共同体 のあり方について、ローゼンツヴァイクは「無限の線」という比喩を用いて説明して いる。「無限の線」とは限界を超えた広がりの可能性から成立する。つまり、ユダヤ 教共同体にとって諸国民との混交から純潔を守ることが自己の永遠を保持するのと同 様に、キリスト教共同体は自己を無限に拡張する「宣教」によって永遠に参入すると いうのである 。しかしその反面、このような共同体のあり方は、「世」との妥協の 危機を不可避の前提としており、「宣教」におけるこの交わりの中で堕落していく可 能性を絶えず内に孕んでいる。つまりローゼンツヴァイクにおけるキリスト教共同体 とは、「宣教」を通して「世」に拡張していくがゆえに必然的に「世俗化」を招く、
そのような共同体でもある。このようなキリスト教共同体は、キリストの最初の到来 から再臨までの間(=時間)、国家と教会を通じて(=場所)、絶えず「永遠の途上に ある存在」として定義できる。
以上、「共同体」という観点からローゼンツヴァイクにおけるユダヤ教とキリスト 教の構想を概観してきた。それでは彼にとって、この両宗教の関係はどのように位置 づけられるのか。
Ⅲ‑2 両宗教共同体の関係の再認識
ローゼンツヴァイクはユダヤ教―キリスト教共同体の関係について至る所で「星」
と「光」の比喩を用いて象徴的に言及している。それは次のようなものである。
《「火」が「星」の中心で燃えている。この中心の「火」からのみ「光」が外へ輝き、
否応無しに外部へ流れ出す。中心の「火」は絶えず止むことなく燃え続けなければな らない。この「火」の炎は自身の内で養われ他にその滋養をもとめることはない》 。
ここに出てくる「星」をユダヤ教共同体に、「光」をキリスト教共同体に、そして
「火」を永遠に置き換えてみれば、両宗教の関係の大まかな枠組みがみてとれる。つ まり、ユダヤ教共同体の内側に永遠が保持され、この永遠から世へと輝くのがキリス ト教共同体なのである。このことは前節において「世」と自らを区別し自らの内に
「根」を持つユダヤ教共同体と、「宣教」として「世」へと積極的に拡張していくキリ スト教共同体と対応している。このように、ユダヤ教共同体とキリスト教共同体とは、
互いに同じ「永遠」に基礎付けられ、「救済」を待ち望むという点において「共通」
していると言うことができる。
しかしその一方で、両者は共に永遠性に基礎を置きながらも、そこから派生するあ り方は異なっている。ユダヤ教共同体は「永遠」としての内部に集中し、キリスト教 共同体は「世」としての外部へと拡張する。そして内部にのみ集中するがゆえに外部 から起こるユダヤ教共同体への「迫害」と、外部へと拡張するがゆえに内部の妥協を 強いられるキリスト教共同体の「世俗化」。このように、二つの共同体のあり方は外 部としての「世」と、内部としての「永遠」への向き合い方という点において「対照 的」であると言うことができる。ローゼンツヴァイクが「ユダヤ教(共同体)とキリ スト教(共同体)は、社会学的基礎において並んだものとして、そして対照的に位置 づけられる」 と言うその内容とは、両者が同じ「永遠」に基づき「救済」を待望す るという点において「共通」しており、「世」との関わりにおいては「対照的」であ るということを意味しているのである。
このように見るとき、ローゼンツヴァイクにおけるユダヤ教共同体とキリスト教共 同体とは、「世」において救済を目指す二つの存在の型を意味しているということが できる。ローゼンツヴァイクにとってのこの二つの宗教共同体は、「永遠」という基 礎に共通した土台を持ちつつ、「永遠」と「世」に対しては「対照的」なあり方を示 すだけでなく、さらに「救済」を待ち望み実現する二つの型として考えられていたと 言うことができる。このことから、両宗教共同体の関係は「相補的」であると言える。
Ⅲ‑3 両宗教共同体における問題とその克服の可能性
しかしローゼンツヴァイクは、両宗教共同体の関係が単に「相補的」でのみあると は考えていなかった。それは前節とは別の項にある「星」と「光」の比喩の中に描か
れている。
《永遠の民の炎は自らの内に燃え続け、(そこから生まれた)その光は世界を照らす が、炎それ自身はそのこと(光が世界を照らしていること)を知らない》
この比喩では、ユダヤ教共同体が自らの内部に既にある永遠性に集中するがゆえに、
キリスト教共同体と密接な関係を持ちつつも、本質的に外部へと拡張するキリスト教 共同体には無関心であるということが語られていると解釈できる。この問題は形を変 えて再三言及されている 。「星」と「光」意外にも「種はそこから発芽する木を知 らない 」という比喩などで、再三この問題は指摘されている。つまりローゼンツヴ ァイクは、前節で取り上げた「永遠」と「世」に対する両宗教共同体間の「対照性」
が、ここではそのままユダヤ教共同体のキリスト教共同体に対する「無関心」を生ん でいると考えていたと言うことができる。
これに対して、キリスト教共同体はユダヤ教共同体にどのように対するのか。これ は、「教会」と「国家」の問題としてローゼンツヴァイクが執拗に言及してきた問題 であり別項で詳細に論じられなければならないが、ここではその要点だけを概観しよ う 。キリスト教共同体が「世」としての外部へと「拡張」するがゆえに、「世」と の妥協として「世俗化」を必然的に招くということは前節で触れた。ローゼンツヴァ イクにとって、このキリスト教共同体の「世俗化」が、「国家」と結びついて起こる
「選び」の観念こそが問題なのである 。ローゼンツヴァイクは、大戦による民族 間・国家間の争いが、各自が自ら歴史の一時代を担いうるとした「選び」の自覚に基 づいており、それこそまさに「選び」の政治的・世俗的なキリスト教化に他ならなか ったと考えていた 。これに対してユダヤ教共同体の主張する「選び」の観念は、民 族の結束を高め、国家の統一と暴力(戦争と革命)を正当化するこの「選び」の観念 に、絶えず対立してきたのである。ローゼンツヴァイクにとって、前節で言及したユ ダヤ教が必然的にこうむる外部からの「迫害」が、事実上この世俗化したキリスト教 共同体の「選び」の観念との耐えざる緊張と破綻であったと考えていたという可能性 を、われわれは注意深く検討しなければならないだろう 。このようにローゼンツヴ ァイクは、「永遠」と「救済」という「共通性」を有するがゆえに生じる両宗教共同 体間の「排他性」を適切に指摘していたと考えられる。
しかし一方でローゼンツヴァイクは、両宗教間相互のこのような問題に対する克服 の契機にも言及している。この問題に関しては彼の二つの示唆を紹介するにとどめた い。一つ目は、「ただユダヤ教徒のみが、キリスト教によって世の民に残された神話 的統一を所有している」 という言及である。これはキリスト教共同体が「世」に広
めた「宣教」が「世俗化」していくということに対して、ユダヤ教共同体のみがこの 世俗化された「宣教」を統一する力あるいは原理を有すると解釈できないだろうか。
ここには、ローゼンツヴァイクが「宣教」によって必然的に「世俗化」してしまうキ リスト教共同体を回復する可能性を有する存在としてユダヤ教共同体を提示している のではないかと考えられる。
二つ目は、再び「星」と「光」の比喩の内にある。
《「星」の燃える中心から「光」が放たれ、それは時の長い夜を抜け自らの道を探す。
それは永遠の道であってこの世の道ではない。それは時を否定せず、時を通り抜ける ことを前提としており、時を支配しなければならない》 。
ここには「光」としてのキリスト教共同体の「世」に対する役割が述べられている。
ここで触れられているキリスト教共同体とは、ただ「世」へと拡張していくだけでは なく、時を通り抜け、時を支配する、そのような目的を持って描かれている。『救済 の星』の第三部において、「世」の救済という文脈の中で語られるこの比喩は、「世」
の直接的、具体的な救済は「世」を否定し、「世」に無関心なユダヤ教共同体ではな く、「世」に積極的に出て行き、「世」を支配するキリスト教共同体において成し遂げ られるということを暗示していると考えられるのではないだろうか。
このようにローゼンツヴァイクは、「永遠」と「救済」に基づいた両宗教共同体の
「特異性」は、単に「相補的」にのみ働くのではなく、「排他的」にも働くと考えてい たことがわかる。そしてこの「排他的特異性」なるものは、「相補性」と表裏の関係 でもある。例えばユダヤ教共同体においてキリスト教共同体に対する「無関心」とい う「排他性」は、「世俗化するキリスト教(共同体)を統一する起源としての役割」
という「相補性」と表裏である。またキリスト教共同体においてユダヤ教共同体に対 する「迫害」という「排他性」は、「世に対して無関心なユダヤ教(共同体)に代わ って救済の働きなす」という「相補性」と表裏である。このようにローゼンツヴァイ クが描こうとしていた両宗教間の特筆すべき点とは、両宗教共同体が持つ「特異性」
が相手の共同体に対して同時に「相補性」と「排他性」を有しているという「ねじれ た関係」の提示にあったと言える。
以上、両宗教共同体の具体的なあり方とその関係の問題等を考察した。ユダヤ教共 同体を「キリスト教神学の範疇におけるユダヤ教」という視点から捉えなおしたロー ゼンツヴァイクは、ユダヤ教共同体とキリスト教共同体双方の「特異性」を提示し
(Ⅲ‑1)、その両共同体が共通の基盤(永遠)と目的(救済)を有していること(Ⅲ‑
2)、しかしそれがために二つの共同体の関係は「相補的特異性」と「排他的特異性」
が絡まりあう「ねじれた関係」にあるということ(Ⅲ‑3)を確認した。ここまで両宗 教共同体の特徴と関係を際立たせるためにやや抽象的な言葉を用いて彼の論を整理し てきたが、このことから「アウシュヴィッツ以前」の両宗教関係に対して次のような ことが言えるだろう。それは、ローゼンツヴァイクがキリスト教共同体の影響力が色 濃く残る20世紀初頭のドイツにあって、また「解放」とともに引き起こされた「反ユ ダヤ主義」によって「ドイツ社会への同化」か「パレスチナへの移住」かという選択 を迫られる中にあって、ユダヤ教共同体が「包括的」か「排他的」でしかなかったキ リスト教共同体に対して「相補的」な関係にもあると主張したことにある。
それではローゼンツヴァイクのこのような「ユダヤ教―キリスト教両共同体の関係 の認識」が、果たして「アウシュヴィッツ以後」の現代に生きるわれわれにどのよう な示唆を与えてくれるのであろうか。次章ではこのローゼンツヴァイクの思想が「ア ウシュヴィッツ以後」にどれほどの射程を有しているのかを検討してみたい。
Ⅳ 「アウシュヴィッツ以後」におけるローゼンツヴァイクの射程
歴史的見地に立てば、ローゼンツヴァイクはナチズムによるユダヤ人の組織的大量 虐殺を経験する以前にこの世を去った。この点において、彼の思想が「現実性」に乏 しいという批判は十分に可能である。事実、彼の死後のユダヤ教徒は、結果的に「国 家」を持ち、あたかも彼が描いたキリスト教共同体のように世俗化への道を進んでい るように見える。またキリスト教徒が多く住む一部の地域においては、さらに自らの
「選び」と「国家」との区別が曖昧になりつつあるように見える。このような中で、
「アウシュビッツ以後」のローゼンツヴァイクの思想的意義はどのような点にあるの だろうか。
E・レヴィナスは、この歴史的事実を認めつつもローゼンツヴァイクについて次の ように語っている。「『贖いの星』の出版からすでに六十年の歳月が流れた。しかも、
その間にショアーが起こった。にもかかわらず、ローゼンツヴァイクの人格、『贖い の星』という書物、ひいては彼の哲学のすべてが瞠目すべきものであり、多大なアク チュアリティーを保持している」 。レヴィナスがこのように語るその内実を見るこ とは、「アウシュヴィッツ以後」のローゼンツヴァイクの思想の射程を見定める上で、
われわれに一つの視点を供給してくれるように思う。ここでは、レヴィナスによるロ ーゼンツヴァイク解釈を、ユダヤ教共同体とキリスト教共同体の関係に限定して概観 し、それによってユダヤ教―キリスト教間の関係におけるローゼンツヴァイクの現代 的意義の一端に触れたい。
レヴィナスにとって、ユダヤ教―キリスト教の関係においてローゼンツヴァイクが 果たした役割は、彼のユダヤ教への回帰とそれにもとづいたキリスト教の承認という 事態の中に集約されている。前述したとおり、ローゼンツヴァイクはキリスト教へ改 宗する一歩手前でユダヤ教に踏みとどまり、ユダヤ教の価値を再認識する 。レヴィ ナスは、このキリスト教への接近とユダヤ教への回帰という一連の道程が、ローゼン ツヴァイク個人の問題に留まらず、近代ヨーロッパ・ユダヤ教共同体の問題そのもの をも指し示していると言うのである 。この二重の運動が同時にキリスト教の深い承 認へも導いたということをレヴィナスは次のように語っている。「このユダヤ教徒
(ローゼンツヴァイク)によると、自分が報じることなきキリスト教も、暴力に委ね られた世界の贖いにとっては、ユダヤ教と同様に必要不可欠なものなのです。ユダヤ 教徒たちにはキリスト教は必要ではないが、キリスト教は世界にとって必要なので す」 。それでは、キリスト教を必要としないはずのユダヤ教徒でありながら、なお 世界にはキリスト教も必要であると言うその根拠は果たして何なのか。それはローゼ ンツヴァイクに固有の「真理観」にあるとレヴィナスは言う。それは、まずユダヤ教 とキリスト教の真理が神のうちにあり 、人間的なもののうちでは分節され分断され ているという前提を有している 。このような真理とは、決して「一般化」「普遍化」
などの「抽象」によって把持されるのではなく 、一人の人間の生をとおして証言す るという振る舞いを通してしか顕現しないのである 。世界の贖いのためにはどちら か一方ではなく両者が必要不可欠であるとするこの関係の在り方を、レヴィナスは
「真理のメシア的認識論」と呼ぶ。この「真理のメシア的認識論」に基づく時、ロー ゼンツヴァイクのユダヤ教への回帰とキリスト教の承認の歴史的意味が鮮やかに浮き 上がるのである。ローゼンツヴァイクにとってユダヤ人はキリスト教徒の視点から見 てもユダヤ人であり続けなければならなかったのであり 、キリスト教徒もまたキリ スト教に即してキリスト教徒であり続けることが、真理の顕現にとって必要なのであ った。それゆえに、ユダヤ教にとどまるというローゼンツヴァイクの決断と生活その ものが、同時にキリスト教に対する賛辞となったのだとレヴィナスは受け止めるので ある。
以上のように、レヴィナスは「真理のメシア的認識論」という観点において、ロー ゼンツヴァイクのユダヤ教とキリスト教の認識が「アウシュヴィッツ以後」の現代に おいても意味を持っているということを明らかにした。レヴィナスは、ホロコースト という出来事が西欧文明世界の危機であり、それを可能ならしめた背景にはキリスト 教の存在が否定しようもなく横たわっていたということを明確に指摘している 。彼 にとってヒトラー主義を生み出したヨーロッパとは、まさしく福音が述べ伝えられた キリスト教的ヨーロッパだったのである 。このレヴィナスの言葉を前にして、われ
われキリスト教徒は、キリスト教側の決定的な「排他性」が究極的なかたちで露見し た後もなお、「キリスト教も世界の贖いにとってはユダヤ教と同様に必要不可欠なも のである」というローゼンツヴァイク⎜レヴィナスの認識を、どのように受け止めて いくべきなのだろうか。
Ⅴ 結びにかえて
ここでもう一度、本論の流れを整理しよう。まず(Ⅰ)において、ローゼンツヴァイ クの思想が、「アウシュヴィッツ以後」の両宗教間の関係において何らかの有効性を 秘めているのかという提議をした。(Ⅱ)では、彼の両宗教の再認識が、「キリスト教 神学の範疇におけるユダヤ教」という枠組みからのユダヤ教の「根源的他性」の回復 を契機としていることを、また(Ⅲ)では、彼の両宗教共同体の具体的内容とその関係 の問題等を概観し、両宗教共同体が根源的な「相補的特異性」と「排他的特異性」を 有した「ねじれた」関係にあるということを考察した。そして(Ⅳ)では、レヴィナス を通して、「アウシュヴィッツ以後」の現代においても「真理のメシア的認識論」に 基づいたローゼンツヴァイクのユダヤ教―キリスト教の認識はその有効性を保持して いるということを確認した。
それでは「アウシュヴィッツ以後」の現代において、われわれはローゼンツヴァイ ク⎜レヴィナスのユダヤ教⎜キリスト教の見解をどのように受け止めるのか。結論か ら言えば、彼らの見解は現代において両宗教関係の問題に何らかの具体的、直接的な
「解決・解消」を主眼には置いていないように見える。むしろ逆に、彼らは何らかの
「解決・解消」を目的とするような対話の在り方をどこまでも宙吊りにすることによ って両宗教の「差異」を留め置くこと、そして両宗教の「特異性」とそこから派生す る「ねじれ」を「ねじれ」のままに保持するような「共生」への一つの明確な方向性 を示していると考えられる。このことによって、彼らの見解は「アウシュヴィッツ以 前」におけるキリスト教へのユダヤ教の同一化や、第二次大戦におけるユダヤ人の最 終的解決としてのホロコースト、そして「アウシュヴィッツ以後」の問題の解消とい う目的をもったユダヤ教徒とキリスト教徒との対話という在り方とは異なった、別の 関係の地平を切り開こうとしたのではないだろうか。
また見方を変えれば、彼らの見解は現代の諸宗教間関係において提示されている
「宗教多元主義的モデル」とは異なった関係を示唆していると考えられる。つまり、
従来「宗教多元主義的モデル」にとって「排他主義的モデル」や「包括主義的モデ ル」が克服すべき典型であったのに対し、ローゼンツヴァイク⎜レヴィナスの見解は
自らの特異性として「排他性」や「包括性」をむしろ含みつつ、「相補的」でありか つ「共生」できるような方向性を指示しているのである。このような方向性こそが、
今後のわれわれにとってユダヤ教とキリスト教を考える上での一つの基礎であり同時 に課題ともなりうると考える。
しかし、一方では「アウシュヴィッツ以後」の現代において両宗教に特有のもう一 つの問題が横たわっている。それはホロコーストを契機として誕生した国家としての
「イスラエル」の問題である。パレスチナ人であり同時にルター派の牧師でもあるミ トリ・ラヘブは、「アウシュヴィッツ以後」のキリスト教神学者たちが、自らを反省 するあまりしばしば親イスラエル/反パレスチナという見方を一方的に補強する役割 を担っていると指摘している 。この指摘はローゼンツヴァイク―レヴィナスの両宗 教における見解にも妥当するだろう。なぜなら、彼らが提示する両宗教の思想的枠組 みは、ユダヤ教とキリスト教のみを問題にしている以上、イスラエル国およびその周 辺に住むパレスチナ人や周辺諸外国のムスリムに対して決定的な政治的排他性を持つ ことになるからである 。今後われわれがユダヤ教とキリスト教を考える上でのもう 一つの課題は、イスラム教も視野に入れた三つの一神教がそれぞれの「特異性」を保 持しつつも「共生」できるような関係性の模索にあるのではないだろうか。現時点で 筆者にそのような三宗教の具体的構想があるわけではないが、現代の文脈においてユ ダヤ教とキリスト教の関係のみを考えるということが一面において多くの危険性を持 っているということに、自戒の意味も込めて触れておきたい。
本稿は、2006年3月15日に同志社大学で開催された日本基督教学会近畿支部会における研究発表に加筆・
修正したものである。
注
1 これは Theodor W. Adornoが1949年にエッセイ『文化批判と社会』の中で「アウシュヴィッツ以後、詩 を書くことは野蛮だ」と記した深刻な問いかけに端を発している。
2 本稿のⅢで用いる『救済の星』のテキストは、主に Franz Rosenzweig,The Star of Redemption, Trans- lated by Barbara E, Galli;Wisconsin, 2005を用いており、必要に応じて Franz Rosenzweig,Der Stern der
Erlosung, Suhrkamp Verlag, 1988を参照している。
3 本稿では、「ユダヤ人(Der Jude)」と「ユダヤ民族(Das judische Volk)」という語を多用している。ロ ーゼンツヴァイクを語る上でこの二つの語の厳密な定義については多くの議論があるが、紙幅の都合上、
本稿でこの問題を扱うことは控えたい。よって本稿では、これらの用語を使用するに際して「ユダヤ人 の家庭に生まれ、ユダヤ教を信仰する者」という緩やかなものにとどめる。
4 http://www.rosenzweig-gesellschaft.org/
5 神聖ローマ帝国を解体された19世紀のドイツは、40近くの独立主権国家がゆるやかな連合を組んでおり、
ユダヤ人の処遇は各連邦国家で異なっていた。しかし「啓蒙思想」が広まり、次第に身分階級が崩れて いく中で、ゲットー(ユダヤ人の隔離居住区域)に住み、身分を限定されていたユダヤ人たちの「解 放」が問題に上がり、1871年、事実上ユダヤ人はドイツ人と同じ権利を有するものとなる。これが一般 に言われるところのユダヤ人の「解放」である。しかしそれは、体制側(キリスト教徒側)の状況の変 化や動向如何により、削減や撤廃がいつでも可能であるという雰囲気の中にあった。
6 手島勲矢編、『わかるユダヤ学』、日本実業出版社、2002年、186‑187頁
7 19世紀から20世紀においてドイツに生きたユダヤ人の苦悩と彷徨については、以下を参照。野村真理、
『西欧とユダヤのはざま―近代ドイツ・ユダヤ人問題』、南窓社、1992年
8 Fritz A.Rothschild,Jewish Perspective on Christianity, The Crossroad Publishing Company 370 Lexington
Avenue, New York,1990,p160
9 Stephane Moses, “LʼANGE DE LʼHISTOIRE Rosenzweig, Benjamin, Scholem”, Edition du Seuil, 1992,[ス テファヌ・モーゼス、「異化」『歴史の天使 ローゼンツヴァイク ベンヤミン ショーレム』、合田正 人訳、法政大学出版局2003年、34‑35頁]
10 Fritz A.Rothschild,Jewish Perspective on Christianity, p.175 11 モーゼス「異化」37頁
12 Fritz A.Rothschild,Jewish Perspective on Christianity, p175 13 Ibid,
14 Ibid, p3
15 モーゼス「異化」. 40‑41頁 16 同掲書 53頁
17 同上
18 同掲書 41‑42頁
19 ユダヤ教―キリスト教を問題にする時のローゼンツヴァイクの思想的特長は、宗教を「教義」以上に
「宗教的生活」あるいは「宗教共同体」として取り扱うことにあるように見える。この問題については 以下の著作を参照されたい。Julius Guttmann,Philosophies of Judaism, London, 1964[ユリウス・グッ トマン、『ユダヤ哲学―聖書時代からローゼンツヴァイクに至る―』、合田正人訳、みすず書房、2002年 20 The Star of Redemption, p317
21 モーゼス「異化」45頁 22 The Star of Redemption, p318 23 Ibid, p319
24 Ibid, pp320‑321 25 Ibid, pp323‑324 26 Ibid, p324
27 Nahum N.Glatzer, “Franz Rosenzweig : His Life and Thought”, Hackett Publishing Company, 1998, pXXⅡ 28 The Star of Redemption, p351
29 Ibid, p362
30 ここでキリスト教徒の側からすれば、ローゼンツヴァイクのキリスト教理解にはどれほどの説得力があ るのかという疑念が生まれる。確かに、ローゼンツヴァイクが最終的には一ユダヤ教徒として『救済の 星』を書き、生涯を送ったという事実からすれば、彼のキリスト教理解は一ユダヤ教徒によるキリスト 教解釈という域を出ないであろう。しかし、ユダヤ教に回帰する以前の彼の業績(ヘーゲルとシェリン グ)や『救済の星』に引用される福音書、パウロ、ヨハネ、アウグスティヌス、テルトゥリアヌス、ト マス・アクィナス、ルター等の膨大な引用、当時の神学者(ローゼンストックやカール・バルト)との 対話と交友から見ても、ローゼンツヴァイクのキリスト教理解がユダヤ教側からの一方的な見解である と単純に決め付けるわけにはいかないであろう。
31 The Star of Redemption, pp363‑364 32 Ibid, p364
33 Ibid.
34 Ibid, p217
35 “The New Thinking”, in Franz Rosenzweig : His Life and Thought., p204 36 The Star of Redemption, p355
37 このユダヤ教の「無関心」と世の関係について、別の箇所では「ユダヤ人の真の永遠性が異質なままに とどまり、国家や世界史をいらだたせる」とも指摘している(Ibid, p354,Der Stern der Erlosung, p371)」。
38 Ibid, p357
39 この問題についてグラッツァーは、端的に次のように指摘している。「永遠に歴史を通じて途上にある キリスト教徒は、超歴史的存在として、永遠を理解することを認められたユダヤ教徒に憤慨する」
(Glatzer, Ibid,)。
40 ローゼンツヴァイクは別の箇所で、この「選び」の観念と「国家」との関係について次のように指摘し ている。「個々の国民の全生活を決定付けるということはできないが、ある高揚した瞬間においてのみ、
その根拠(Grund)になることができる」(Der Stern der Erlosung, p366)。
41 Fritz A.Rothschild,Jewish Perspective on Christianity, p179 42 The Star of Redemption, p369
43 Ibid, p349 44 Ibid, p357
45 Emmanuel Levinas :A lʼheure des nations, Edition de Minuit,1988[エマニュエル・レヴィナス『諸国民 の時に』合田正人訳、法政大学出版局、1993年、249頁(傍点引用者)]、レヴィナスは、この「アクチ ュアル」という言葉の意味を、「現時的」であるという場合のことではなく、「ユダヤ人の咽喉下に突き つけられており、出来事はただその本質を隠蔽する役にしか立たぬような、生き死にに関わる問題が
「ぬきさしならぬ」という場合の意味(『困難な自由』p.224)」であると注釈している。
またこのレヴィナスの引用の中での彼が引用している「贖いの星」とは、本稿で扱っている「救済の 星」と同じThe Star of Redemptionである。
46 Emmanuel Levinas,Difficile Liberte, Albin Michel, 1963[エマニュエル・レヴィナス『困難な自由⎜ユダ ヤ教についての試論⎜』内田樹訳、国文社、1985年、189頁].
47 それゆえに、レヴィナスはローゼンツヴァイクが「今もなお私たちの偉大な同時代人」という地位を得 ているという(レヴィナス『外の主体』p.90)。
48 Emmanuel Levinas,Hors Sujet, Fata Morgana,1987[エマニュエル・レヴィナス『外の主体』合田正人 訳、みすず書房、1997年、89頁].
49 レヴィナス『困難な自由』219頁 50 レヴィナス『外の主体』105頁 51 レヴィナス『困難な自由』219頁 52 レヴィナス『外の主体』105頁 53 同上
54 レヴィナス『困難な自由』182‑183頁
55 しかし同時にレヴィナスは、この悲惨な出来事がユダヤ教徒とキリスト教徒とを接近する機会を与えた と言う。ナチズムによって徹底したユダヤ人虐殺が行われた中で、迫害されるユダヤ人をかくまい、避 難所を提供していたキリスト教徒たちは、「深甚なる謝意という忘れられることのない称号(同掲書.
186頁)」をユダヤ人たちからかちえたのであった。キリスト教的ヨーロッパという文明の危機に際して なお、キリスト教に生きる個人や諸団体との接近が成り立ったというこの事実を、レヴィナスは正当に 評価するのである。
56 Mitri Raheb,I am a Palestinian Christian, Fortress Press, 1995[ミトリ・ラヘブ、『私はパレスチナ人ク リスチャン』、日本基督教団出版局、2004年、122‑124頁
57 全ての歴史的宗教は創られたものであり、ユダヤ教とキリスト教のみが創られた宗教でない非宗教的な にものかであると語るローゼンツヴァイクは、イスラム教もユダヤ教とキリスト教の擬製(parody)で あると言っている(“The New Thinking”, in Franz Rosenzweig : His Life and Thought, p203)。またレ ヴィナスも、真理を立証する仕方はユダヤ教とキリスト教の二つの仕方しかないと断言している(レヴ ィナス『困難な自由』219頁)。