著者 竹内 昭
出版者 法政大学教養部
雑誌名 法政大学教養部紀要. 人文科学編
巻 66
ページ 29‑53
発行年 1988‑01
URL http://doi.org/10.15002/00005391
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定言命法はカソトの道徳理論を構成する最も重要な概念の一つであるが、カント自身それは唯一であると言ったり、他方ではいくつかあるように論じたりで、その意図するところは必ずしも明瞭ではない。したがってこの点に関して従来さまざまな解釈がなされてきた。そこでここでは定言命法の意図を肌確にするために、カソトの所論を、主として『道徳形而上学の荻礎づけ』(の、ミミ侭鷺飼いミ」§§ご鼻烏、の登賀国詔)に即し、かつこれまでの主な解釈を参考にし、さらに妓近の解釈を紹介しながら、整理してみよう。よく知られているように、カントは人の行為を規定する指示を命法と名づけ、それを仮言命法と定一一一一口命法とに分ける。そこではじめに『基礎づけ」に説かれている命法一般とその分類について見、さらに定言命法のすべての「方式」句・吋日&(口)を摘出する。まず命法一般については『韮礎づけ』のとくに第二章、の・伝⑭の第一一一段落からの・伝←の第一段落にいたる四つの段落で詳しく説かれる。それによれば、「ある客観的な灰皿が意志に対して強制するものである限りにおいて、そ
カントの定言命法とその諸方式について
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ういう原理の表象は(理性の)命令と呼ばれ、この命令の方式は命法冒円吋凰『と呼ばれる」。「およそ命法は〈べし〉呼罵口という語によって表現され、この語によって、班性の窓観的な法則によっては必ずしも限定されないような主観的な性質をもつ意志に対して、皿性の容脱的な法則がもつ関係(強制)が示される。命法は、何かをなすあるいはなさないことが善であると一訂肌するが、しかしそれを言い側かせる机手は、あることをなすのが稗であると示されても必ずしもそれを実行するとは限らないような意志である」。ここで「理性の群観的な法則によっては必ずしも限定されないような主観的な性蹴をもつ意志」「必ずしもそれを災行するとは限らないような恵志」とは人間の意志のことである。したがって、命法は「神の意志やまた一般に聖なる恋志には通川せず」、人側の意志にの糸適川される。「神の意志や聖なる意志」は完全に善である意志であるから、この場合はい。]一目は必要なく、三・房口(欲する)が自らの法則と一致する。すなわち人間なら「私は’すべきである」というところを、この種の行為者は「私は欲する」と言えばよい。以上によって命法の定義が導かれる。すなわち「命法とは、意欲一般を規定する窓観的な法則と、征意の理性的存在洲の愈志I例えば人間の意志lの主観的な不完全性との関係を表示す恐力式である」.続いての・虐牢の第二段落からの・凸のの第一一一段落にいたる八つの段落では命法が分類される。まず命法は二分される。すなわち「およそ命法は、仮言的に命令するか、それとも定言的に命令するかである。仮一一一一口的命法は、人が欲している(あるいは欲することが可能な)何か他のものを得るための手段としての可能な行為が、尖践的に必然的であることを提示する。定高命法は、行為を何か他のⅡ的に関係させずに、それ自体だけで窓肌的・必然的であることを提示する命法であると一一局えるであろう」。銃く段落でこの二つの命法について詳しく論じられるが、以下にそれを要約して示す。ある徹の客観的な原理は、あるⅡ的を達成するという愈図に条件づけられている。言いかえればその祇の原理は、理性的な行為老がⅡ的を欲したときにその行為料が必然的に従う原理である。こういう原理を仮言命法と一一両い、「もし私がこのⅡ的を欲するなら、私はlをすべきである」という一般的な形式をもつ。この原理は、私たちが
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すでに欲している(あるいは欲することができる)Ⅱ的を述成する手段としての稗であるような行為を突風させる。したがってこれは、行為が別の何かあるものを得るための手段としてのみ善である場合である。仮言命法はさらに二つに分けられる。Ⅱ的が雌に私たちが欲することができるものであれば、命法は蓋然的・災践的、すなわち技術的である。蓋然的な原理は、ある目的が私たちにとって可能であるかという課題と、どうしたらこの目的が達成できるかを指示する命法とからなる。これはさらに熟練の①⑪○厘.函】o房の津の命法と呼ばれ、この命法が命ずろ行為は「巧玖である」あるいは「布川である」という意味で灘である。したがってこの場合、このようなⅡ的が理性的であるか、あるいはそれ自体善であるかということはⅢ題にならず、ただこのH的を達成するには何をしなければならないかがⅢ題となるだけである。したがって、この命法は仙川に対処する手段を、これから起こるであろう可能的な(蓋然的な)ことにどう対処したらよいかという形で教える。この場合は目的に対する手段に緒通しなければならないために「熟練」と言うのであろう。他力、Ⅱ的がいかなる理性的な行為者も自然的な本性によって求めるものであれば、命法は突然的・実践的、すなわち実用的である。実然的な原理は、幸福を求めようとする意図をもった行為が、実践的に必然的であることを指示する命法である。これはさらに怜刑臼侭,可の芹の命法と呼ばれ、自分自身の幸福を得るための手段を選択する熟練を示す。この場〈川、すべての理性的な行為渚がその自然的な水性によって欲する目的は幸福であり、そしてこの突川的な命法によって命令された行為は、「怜刑である」という窓味で糠である。ここで怜刑璽口mは』ロ日日の対錠語で、刻図⑭のが深い知恵について言うのに対して、【盲晒は抜け、のない才卸について言う。したがってこの命法は自分自身が現実に(実践的に)もつ蹴側l幸福竃求めることlのための手段を選択する巧熟さの知恵を教える、と銑ることができる.さてこうした条件付きの命法に対して、無条件な客観的な原理がある。この種の原理は理性的な行為者を必然的に従属させるが、しかしもっと先の日的を前もって欲することにもとづくのではない。この原理は定言命法と言われ、「もし」という先行する条件をもたない「私はlをすべきである」という一般的な形式で示される。この命法は必然的・突践的な原理であって、それにもとづく行為は、意図、Ⅱ的をもたずにそれ自身で善である。言いかえ
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ここでは、仮脅命法は定計命法を理解させる役制を負わされたものであって、中心諏題は定言命法である。もちろん近徳の突磯的な識論では仮言命法も近要であるが、それを肌らかにするためにも、まずその根拠になる定言命法が解明されなければならない。近徳の形式的な根本原肌として要諦された定言命法は何か、が『拙礎づけ』の主題(の「つ)だからである。あることの根本原理は「つであるはずで、それを表す定言命法もしたがってただ一つでなければならない訳で、それはカソトも川記している(いふ圏輔二段瀞)ことである。しかし災際には、この命法 れぱ、この命法は、蓉娩的で無条件でかつ絶対であるという意味で、必然的である。したがってこれは近微性の紙条件な命法であり、それが命令する行為は近徳的に諜である。この道徳的な雑はそれ自身馨であって、単に何らかのその先のⅡ的を達成する手段としての灘ではない。それ故定言命法は、近徽の命法として、行為の爽圃やその行為から期待される成果を無視して、まったく行為の形式と行為そのものを生じさせる原理を意味する。仮言的であれ定言的であれ、いずれにしても命法はそれぞれの独制を意味する。その強制の途いをカソトは熟練の規則幻の、の岸、怜刑の勧告”;n厘口、、近徽の命令○のg庁の(法則(肝協3と区別する。そしてこのうち法則の* 命令だけ肌道徳的に絶対的な拘束力、すなわち無条件的、杵帆的、池印皿妥当的な必然性という概念をもつとする。巾以上の命法の分馴は伝統諭珊学における判断の輸狐にもとづくものであることは明らかである。歯ず仮誹匂図院R…屈疋一風屍……跡・けば「関係」海鳥5口の特徴を、蓋然科・匡四月日:、突然;…・回⑫8、必然“且旨吋9は「槻机」旨・』農際の特徴を援用したものである。なお「関係」の特徴には選言片冒傍はくもあるが、カソトはこれには言及していない。形式的に言えば「甲か、乙か(丙か、……)、いずれかをなせ」という場合が成立するはずであるが、しかしこのうちある一つをなすときには、その根底にそれを選択する条件がなければならない。したがって選言も条件付という点では結局仮言と同じである。それ故広く条件付き命法という意味で仮言に選言を含めて言ったものと思われる。貧祁粋理健批判』切閉,司僅笛口RdnD岸・参照。)
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掘る。 (1)「汝の絡率が將迎的法則となることを、汝が同時にその格率によって欲しうる場合にのゑ、その絡率に従って行為せよ」(⑪.』臼飾二段蕗)。「普通的法則」としては、(1a)「汝はつねに、自分が同時に法川として静湿性をもつことを欲しうるような格不に従って行為せよ」(⑭怠『鋪二段落)とも書かれている。同じ趣意は、(1b)「すべての班性的存在満が向らの行為を判定するための格率はつねに、その格率が普遍的法則として役立つべきことを彼ら自らが欲しうるようなものでなければならない」(⑭。bの第三段落)。また、(1c)「それ自身を同時に普遍的法則たらしめうるような格率に従って行為せよ」G・急の節五段落)。さらに、(1.)「汝の格率が、あたかも同時に(すべての理性的存在者に妥当する)普遍的法則として役立ちうるように行為せよ」(、。』葛飾二段落)。「意志の原珊」として述ぺられるつぎの命題も同じ趣旨とゑられる。(1e)「ある格率が普遍的法則である、ということと両立しうるような格率以外の格率によって行為してはならない」(、L笈第二段落)。同じく「意志の唯一の原理」の力式は、すでに第一章に現れている。すなわち、(1f)「私の格率が普遍的法則になるべきことを、私もまた欲しうるように行励し、決してそれ以外の行動をとるべきではない」(い←8節一段落)。なおまたこれは「行為の法則」として、(19)「行為の主観的原則すなわち格率は、同時に秤観的にも、すなわち諜週的原則としても妥当するように、したがって私たち自身の将遮的立法に役立ちうるように、選ばれなければならない」G・仁①鉱二段落)という形にも言いかえられる。つぎの簡潔な表現もこれに加えることができよう。(1h)「理性のすべての格率が法則としての瞥迦妥当性をもつべしという肌なる原班」(の上白飾二段落)。つぎに「自然法則の方式」と名づけられるような命題が、前記第一の方式に(一つおいて)続く段落で示され はその方式と称してこの恋のさまざまな場所でさまざまな形で表現されている。そこでつぎに、定訂命法の力式と言われているものを、原文の趣意に即して拾い上げ、縦理してみよう。まず「定言命法は一つしかない」と言って示されるのはつぎの命題で、「将過的法則の方式」と鋼づけることがまずできる。
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(2)「汝の行為の格率が、汝の意志によって、あたかも普遍的な自然法則となるかのように行為せよ」(の.←巳筑四段落)。同じことは、(2a)「それ自身を同時に杵迎的な自然法川と率なしうるような格率に従って行為せよ」(⑪・念『第二段落)とも表現される。また、(2b)「桁率は、それが普遍的な自然法川として妥当すぺきであるかのように選ばれなければならない」(の.怠の節二段藩)。節三は「理性的存在者はⅡ的自体として存在する」という命題を根拠として成り立つ実践的命法で、したがって「Ⅱ的自体の方式」と名づけられる。(3)「汝自身の人格の中にも他のすべての人格の中にもある人間性を、単に手段としてではなく、つねに同時にⅡ的として扱うように行為せよ」(⑫.だし節一段落)。これをつぎのように言いかえる。(3a)「理性的存在者はすべて、自分自身ならびに他のすべての理性的存在者を決して単に手段としてではなく、つねに同時に、的自体として扱うぺきである」命・←囹飾四段藩)。(3b)「理性的存在洲は、その水性上月的であり、したがって、的n体であるから、いかなる格率に対してもおよそ相対的かつ任意な、的を制限する条件としての征を果たさなければならない」(⑭念の節四段落)。(3c)「いかなる肌仙的存在満(汝自身ならびに他人)との側係においても、その理性的存在者が汝の格率において同時に、的日休とゑなされるように行為せよ」(m・念『第三段落)。(3.)「目的の主体すなわち理性的存在譜そのものは、決して叩に手段としてではなく、およそ手段を仇川する際の岐測の制限的な条件として、すなわちつねに同時に目的として、行為のすべての格率の根底におかれなければならない」(、上潴筋一段落)。鮒四は、肌性的存在者の意志の本性を「普遍的法則の立法(我)」とみなし、それを原理として成り立つ命題で、* したがってこれは「北川通的法則立法者の力式」と名づけることができる。ここにはこの一一一口韮の含まれる命題をすべて染める。
*}】}ここで「普遍的法則の立法」「普遍的法則(の)立法者」の原語はそれぞれ》向]]的のョの】月のCいの簡函・ず§ぬ(画一]、の日のごいのいの〔侭のケの巳)〈(:》の日&一いの日図pmDmC(闘いのケの日の⑫。]】日展で、これをこのように訳したのはペィトソ説によっている。ペ
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(4)「普遍的な法則を立法する意志としての、おのおののⅢ性的存在者の意志という理念」(の。←閏鋪一段落)。これは命令の形をとっていないが、カソトの叙述の脈庁からみればこれを鉱四航の力式の荻木におかざるをえない。それは一つおいて続く段落で、これとほとんど同じ語句を「第三の方式」と名づけていることからも明らかである(詳しくは後述)。より力式らしい形としては、「意志の原理」として(Te)に統いて)述べられる命題がある。すなわち、(4a)「意志がその格率によって、自分自身を同時に普遍的法則の立法者とみなしうるような仕方でのみ行為すること」(⑪畠鼠飾二段落)。これもまた面接は命令形になっていないが、前後の文脈から染て他の力式と同じように扱うことができる。(4b)「およそ理性的存在者は、自分の意志のすべての桁率によって自分自身を普遍的法則の立法者とみなし、この観点から自分自身と自分の行為とを判定しなければならない」(⑫.(g第二段
グー、
、=ノ。4I、
イトソは:筐、の日の目の○のいの薗頭のず5mRを「普通的立法」(ロ日くqの■]一周厨一貫】・ロ)と訳すのは無意味だとし、「普遍的な法則を立てること」としなければならないと言う。すなわち.》巳」ぬの日①甘.・は.bのいの旨今.の承にかかるのであって、.bのいの?いい85m.《全体にかかるのではないとするのである(『鳶○貝績さ軋日』ごSs貝》烏》〆ぐ員.】・)。確かにドイツ語の一般的な川法としてはP曰くの日旦]⑬四⑭]農。□にちがいないが、カソトの文脈から謎糸とれる恋側から承れば、このように訳さざるをえない。すなわち「立法」あるいは法を制定することそのことに普遍的も特殊的もなく、あるのは作られる法則(律)の内容が將退的か、特殊的か、ということである。そしてカソトの一荷う意志の本性は「立法」であって(の.怠い節三段落)、その能力は、意志が自ら「普遍的な法則」を作ることを意味しているのである。したがって「立法者」は「洲迎的に立法する人」ではなくて【「粁通的な法則を立てる人」でなければならない。そこでペイトソは尖際に、前瀦を8口・58【・【【且く円困]]角二、あるいは日陰9m(且ぐ・川凶EP葛、後者を色曰の白びの『ヨゲ。g鳥のの§』ぐ・日、』]:と訳している(ペイトソ訳o35風§謡ミニ忌昌s匂い符へ『】&日冴)。またペイトソは先の圃町では(而及していないが、・も圖薗m・けooomon媚7百回い←.(m・念H節一段落)も同じ用法であって、「実践的立法」では意味をなさず、「実践的な法則の立法」でなⅥければならない。彼も何訳撫ではこれを8月§の貝・帛己3.㎡】・巳崗ョと訳している。なお、後に検討するV・画スヴェールも「自律の方式」として、これまた後述するペィトソの〈力式Ⅲ〉と全く同じ訳文を引川している(末尾文献勺・・8)。しかしL,W・ペックは巨日くq⑪こ]の、一切]貝】・ロと訳しているし(窪O・蒼蒼Qミロミミ宍ロミ勉○ミヨ月旦、日88【勾圏“・黄)、邦訳櫛(あるいは解説啓)にも、杵兇した範肌では、ペイトソ説を採川している、あるいはそのように訳しているものはな
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鮒一ば、カントの文字どおりの文脈l定薑命法は「唯一である」「三つの原理」をもつ、等Iに疑剛を呈し、諸方式をこの文脈から離れて分類した上で、複数を主要方式として並立させる解釈である。第二は、カント自身の主張に従い、その趣意に沿うように諸方式を整理し、基本方式を一つとし他を派生方式として再構成しようとする解釈である。前者の代表としてH・J・ペイトン説(ご局o貝企召、苛巳ざ83貝蔦を中心に)を、後者の代表として小倉志祥説(『カントの倫理思想』をとりあげる(末尾文献欄参照)。 定言命法の主要な方式を以上のように四項に分額したこと、そして『基礎づけ』の第二章を中心に散在する、方式を表すさまざまな命題(あるいはそれに蛾ずるもの)を拾い上げてそれぞれにふり分けたこと、それ脚体、すでに論者の解釈の力向を示している。しかしここではそれを論ずるに先立って、従来の代表的な解釈を二つ選んで検 * 蕗)。「励川的の国」の概念が入るつぎの一一一方式J⑦、すべて「立法(者)」概念を伴うため、ここに分激して考える。(4c)「およそ格率は自らの立法にJもとづき、脚然の国としての可能な目的の国と調和すべきである」(の,命の鈍五段落)。(4.)「およそ理性的存在者は、自らの格率によってつねに普遍的な目的の国における立法者であるかのように行為しなければならない」(⑫.怠い第二段落)。(4e)「汝は、単に可能的であるにすぎない目的の国における普遍的法則の立法者の格率によって行為せよ」(い←g第一段落)。*「立法(者)」と「日悶の国」との密接な関係については、m・心いい第二段落と同節五段落で簡潔に説かれ、の,念⑪第一一段落でさらに詳しく川らか仁されている。したがって普遍的法則の「立法者」はただちに「側的の国の成負」でなければならないのである(の.怠い第三段滞)。それ故ここでは「Ⅱ的の国」概念が入る方式を「普通的法則立法者の方式」のヴァリエーションと承なす。
討して糸よう。
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すなわち《力式1,》脚然法則の方式「汝の行為の桁率が、汝の意志によって、あたかも普遍的な自然法則となるかのように行為せよ」。〈方式Ⅱ》Ⅱ的自体の力式「汝自身の人格の中にも他のすべての人格の中にもある人間性を、単に手段としてではなく、つねに同時に、的として扱うように行為せよ」。《力式Ⅶ》自律の方式* 「汝の意志がその絡率によって、自分n身を同時に慨過的法則の立法者と象なしうるように行為せよ」。《力式Ⅲ、》Ⅱ的の国の力式* 「汝は汝の格率によってつねに坐脚遍的な日的の国における立法者であるかのように行為せよ」。*ここで《力式Ⅲ》と《力式Ⅲa》の命題は、ペィトソが他の力式と合わせるために命令形に直したもので、カソトの原文とは多少異なっている。すなわち前者の命題はご恩且」向い。L島』日国富]]・』員。け“§の富2日。⑫】・ずいの]ず鷺目的」・局ずぃ]の“】一mの日の旨の□ぬのm6,.ヶ。且ヶ。§・旨の口冨目の・展となっているが、原文では全体が刷文であって、..△のヨゴ屋の貝は:旦閂ゴ昌・驍・である。また後者は・・四口且】:Pこい・ワロロロ日・ず』§の昌画〆】日8)&3.岸・】口召吻・偶38口何m○』》&日僅、の3§目冗の】・芹旦周吋ョ・・岸o勘剖のい[・農であるが、原文では:月日…ず目民:]⑰;舅§目【目のヨのいの:・ヶ:§“]:ワ研垈属月ずいのけの菖図泓日9〕839月甘い何の3,.回のゴ;Q】の:B凶行638河図、廓;Ni際。 為せよ」。 まずペイトソは「私たちは、カソトが定言命法の唯一の方式で満足するよう期待したのだが、災際はそうはならなかった。それどころか、カソトは五つもの異なった方式で私たちを混乱させ、しかもまったく奇妙なことに、あたかも方式は一一一つしかないかのように語る価向も示している」と言い、定言命法を五つの力式に分緬する(潴白)。
《方式I》普遍的法則の方式「汝の格率が杵通的法則となることを、汝が同時にその絡率によって欲しうる場今にの糸、その格率に従って行
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さてペイトソは、《方式l》すなわち「普通的法則の方式」を小心に堀えて他をそれに従屈させる、あるいはしばしば畷視する伝統的な解釈をとらず、この五つの力式を対等に扱っている。すなわち.兇すると」《力式I》と《方式Ⅲ》とはその差異が無視できるほど密接に類似しているから、それを同じものと見、そしてそれを上位の特別な位雌に戯けば、残りの《力式‐剛》〈力式Ⅱ》《力式川副》は従鰯的な方式lつまり道徳雌の絲遍的かつ脳禰の臓理としての《方式l》を直観や懸柵に適用する手段となる方式lとみなされるかも知れないが、しかしそうはならないと言う。ペイントは、そう解釈できるカソト向身の記述も確かにあるが(⑭.怠の‐怠司)、そうなら『実践班性批判』で《方式Ⅲ》が「純粋実践理性の原則」弓汝の意志の絡率が、つねに同時に普遮的な法則を立法する原理として妥当しうるように行為せよ」沢、・戸・雪)と猪づけられて、《方式l》より優位に置かれる理山がなくなると言うのである。しかしペイトソは、すでに力式の命名から分かるように、兀力式をさらに三つに雛班し《力式l》と《方式Ia》、《方式Ⅲ》と《方式Ⅲa》との間には濡接な関係があることを認めている。そこで以下これらの兀力式に対するペイトソ自身の解釈と性烙づけをまとめておく(これについては曰喬、貝へ§、片口』gssRl昏、・巳合よりの、Cs貝ごミ討旦鳶』烏昆§ご鳥旦学与貫』.』①溢(己殿)中の少:-固い。{岳の鷺、巨日の日のほうが伽潔に樅皿されているので、ここでは後満を小心に前者で柵足しながらまとめる)。《方式》I(普遍的法則の方式)が私たちに命ずるのは、譜遍的な法則そのものにもとづいて行為することである。すなわち人間の行為の根底にあるのは無条件な蓉観的な原理であって、この方式はそれに従えということであ 弓聞P8で..』ロR》:」のヨの《《はそれぞれ・・の甘〕&の⑪ぐの3働口威晩のゴ・“のロ。《:》の①]:《・を言いかえたものである。(原文との爽同を承るためペイトンの著書はK・シェソクによる独訳木によった。)まずこの分狐と前述の水稲の分緬とを対照させておく。《力式l》《力式la》《力式Ⅱ》はそれぞれ(1)(2)(3)にあたる。しかし《力式Ⅲ》と《力式Ⅲ組》は何じ力式の別表現とみて区別せず、それぞれ(4a)(4.)として、ともに(4)に組承入れた。お称もこれらを合わせて「将週的法則立法渚の方式」と統一した。(排しくは後に述べる。)
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る。これをカソトは「唯一の」定言命法と言うのであるが、その意味は、この方式が特殊な定言命法の「原理」であるということである。それは、仮言命法「汝が目的を欲するなら、汝はその手段を欲するべきである」がすべての特殊な(共体的な)仮言命法の原理であるのと同様である。特殊な仮言命法はこの原理としての仮言命法の適用例であり、特殊な定言命法、例えば「汝殺すなかれ」、は原理としての定言命法の適川例なのである。このような特殊な定一一一一m命法はその原理としての「定言命法」から導川される。したがって特殊な内容への言及を排除した原理は、ただ原理の形式、あるいは形式的な原理、あるいは普迎的法Ⅲそのものにならざるをえないのである。《方式Ia》(自然法則の方式)は《方式I》に従属するものであるが、それとは全く別種のもので、前者が自由の粁迦的法川であるのに対して、これは脚然の粁過的法則にかかわっている。自然の法則は木釆は原凶と結央の法則であるにもかかわらず、カソトが私たちの格率が「あたかも」自然の法則である「かのように」考えよ、と言っている場合、彼はそれらの法則をⅡ的に適う(すなわちⅢ的論的な)法則と扱っている。カソトはすでに、脚然はlあるいは少なくとも人川的な向然はlⅡ的諭的である、あるいは彼がのちに単なる機械論ではなく自然の風と呼ぶものである、と考えている。すなわちカソトは自然存在、とくに右機体を「あたかも」それが目的をもつ「かのように」考察することによって、有機体をよりよく理解することができないかどうかをみなければならない、と主張しているのである。人間的な自然を理解するためには、側的の概念ははるかに必要性が商い。何故なら、自ら目的を立てるのが人間的な自然の本質的な特徴だからである。《力式Ⅱ》(Ⅱ的自体の力式)は、すべての行為はⅡ的をもつ、という行為の第二の側面を明らかにする。何故ならすべての理性的な行為は、とりわけ一つの原理をもつ理性的な行為は、行為をする前にある目的を設定しなければならないからである。目的を設定する理性的な行為者、すなわち人桁だけが、的自体でありうる。人格だけが無条件かつ絶対的な価値をもちうるから、それを単にⅢ対的な価値だけをしつような目的を達成するための手段として川いることは間違っている。このような目的自体がなければ無条件な善はないし、行為の岐商原理はないし、そもそも定言命法もない。このように、この方式は《方式I》と同じく、すべての行為は原理と目的をもたなければ
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* 《方式Ⅲ》(自体の力式)は、理性的な意志は向い分が従う法則を立てるという原理、すなわち自律の原理に従っている。この力式は一見して《方式I》の単なるくり返しであるように思われるが、しかしこれは、定言命法が私たちに単に普遍的な法則に従うようにだけでなく、私たち自身が理性的な行為者として作る辨遍的法則に従うように命令する、という理論を明確にする利点をもっている。これはカントにとって道徳性の岐問原理の鮫も飯要な方式である(『実践理性批判』湾)。自律は、単に法則に従うだけでなく法則を立てるものとしての道徳的な人格がJもつ無条件なすなわち絶対的な価値の源泉である。この力式は「緋過的法則の力式」と「Ⅱ的n体の力式」とを紬合することから導かれる。理性的な行為者は法則の普遍性(すべての行為者に対する客観的な妥当性)の力でその法則に拘束されているだけでなく、Ⅱ的の主体として同時にその法則の立法者でなければならないからである(「Ⅱ的胤休としての班性的存在満は、彼がいかなる法則に服従していようとも、それらすべての法川に関して、自分、身を同時に普遍的法則を立法するJものと家なさなければならない」ぃ・念⑰第二段落)。*ペイトソはし目身い厨・衝けの」シHい§】8斤ではの.←8節四段落とそれに枕く段落の二つの段滞に「自祁の方式」と凡川しをつけて、この方式をその刷孤にかかげているが、『基礎づけ』の原文ではこの箇所にはなく、彼自身が「目的の国の力式」と見出しをつけている箇所(⑪.←厨第二段落-⑪・念一節一一一段落)の二つ側の段落にある。しかし冨⑯。R侭。「苛貝●胃‐鳶、§息では正しい適例が注記で折摘されている。
* 《方式Ⅲa》(Ⅱ的の国の方式)は直接に「山川律の方式」から川てくる。理性的な行為者がすべて山川分自身で作った普遮的な法則に従うかぎり、彼ら僻一つの風lすなわち国家あるいは政齢的統一体lを織成すろ.これらの法則が、理性的な行為者がお互い同士を、的n体として扱うよう命ずるかぎり、このように構成された国はⅡ的の ある。 ならないという、まさに定喬命法の水伍から沸かれる。そして、この力式は人格がもつ人間性そのものに対する聯泣を命じているが、このことは《方式I》を補うために必要である。というのは、《方式I》は、人間の間にいかなる恐意的かつ不公平な差異も設けてはならないという意味において、人によって差別することを排除するからで
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納局ペイトソはこれらの五つの力式の関係を、すでに力式の稀号付けから窺えるように、「粁週的法則の方式」と「目的自体の方式」と「自律の方式」を主要三方式とし、「自然法則の方式」を「普遍的法則の方式」に、「目的の国の方式」を「自律の力式」に従風させて解釈する。以上はペイトン説の概要であるが、これに対して小倉志祥は、定言命法の諸方式とその相互関係に注意を喚起したペイトンの功縦を談えつつも、異議を隅える(三七二頁)。小倉は、冗力式を立てる点ではペイトンと同じであるが、ペイトンの〈力式l》を「基本法式」、《方式Ia》を「第一法式」、《方式I》と《方式Ⅲ》をそれぞれ「第二法式」と「鮒三法式」、《方式Ⅲa》を「第三法式系」と名づけている。そして小食は、定言命法には「埜木法式」ただ一つしかないというカソト自身に従えば、ペイトソの解釈と必ずしも一致しないと言う。すなわち「カントは定愈命法の雑木法式から更に三法式を源出している」と解釈するのである。この考えに従って展附される小介の諸力式の解釈を以下に要約する(一一一七三瓦以下)。「雑木法式」(静遍的法川の方式)は倫理的世界に関する「理性の理念」である。そしてこの「雅木法式」から三力式が灘川されるのであるが、この源川の区分原理(形式と磁料と全休性)に叡知界の排成要紫が活川されていることは、三力式がこの方式の直観化であると側時にそれに内在する構成要素の導出という意義をもっていることを示している。「鉱一法式」(脚然法則の方式)は道徳的意志が普週的法則に服従するという要素を、然法川との 国である。このような目的の囚の成災(およそ打限な皿性的行為調)とその岐商元廿(一個の無限な理性的行為者)とは区別されなければならない。理性的な行為者は、このような国の一立法老として、「尊厳」と呼ばれるもの、すなわち本圃的な、無条件な、無比の価値をもっているのである。*この方式もペイトソ、身がシ:]]“肘。[岳の鈩凋ロョの貝で「Ⅱ的の国の力式」と兄川しをつけている簡所(前注参照)の日賦にかかげられているが、災際にはそこではなくて、後の「殿紬全体のⅣ検討」と几川しをつけている箇所(の.台『鮒二段瀞-m・造○節一段落)の一一一つⅡの段落にある。《刀式Ⅲ》の勘合と同じく、割⑯n日§、『8【尋53斡月では正しい箇所が注記されている。
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まずロスヴェールは解釈の川発点である剛題点をつぎのように要約する。「いわゆる定言命法から導かれた諸力式は原型の方式の超越論的な再方式化を意味するのか、それとも人間学的な例証にすぎないのか」すなわち「諸力式は、たとい定言命法の普遍的な方式のようにァ・プリオリな純粋判断ではないとしても、ァ・プリオリな総合判断の意味をもつのか、それともそれらはあまりはっきりしない人間学的な方式なのか」。しかし「こうした問題が定言命法を〈評価の原理〉(私たちの善の知識)と〈実行の原理〉(私たちの善をなす力)の両者としていくらか説 つぎに般近の定言命法の解釈の発展を展望する。これについてはV・ロスヴェールが、一九六六年から一九七六年の一○年間に限定してその解釈の発展を簡潔にまとめているので、それを概説する(末尾文献欄参照。著者はそこでカソトの実践哲学を、「定言命法」の他に、「遊鰍的な意志」「肢高悲」「実践理性」の四税目に分けて論じて 類比によって直観化して示し、第二法式(目的自体の方式)は意志の全体が法則に服従するとしても、しかしまさに主体であって属性ではないという要素を、目的手段の系列のうちには見られない目的自体であることによって示し、「第三法式」(自律の方式)は前二者の綜合として全体的統一という要素を、道徳的意志がゑずからの服従すべき法則の同時に根源であることによって、示している。「第三法式」には直観化の機能は認められず、「基本法式」に内在していた道徳の原理の「対自化」である。これに即応した直観化は「第三法式系」(目的の国の方式)である。「基本法式」と「館三法式」とは逆徳の原理の「即自性」と「対自性」の関係としてとらえられる。「即自」から「対自」の間には「第一法式」と「第二法式」における道徳的意志の「原理的な自己展開」が介在している。かくて自律の方式としての「節三法式」が唯一の定言命法である。この「第三法式」は道徳の岐高原理の意味をもち、『実践理性批判』においては「純粋実践理性の根本法則」として掲げられる。いる)。
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43 に、そのⅡ的や意脚の文脈でのこの法則の定育的な命令によって生ずるのである。 のものの純粋に形式的な原理の価接の覚知から生ずるのではなくて、行為満としての人川が自分の生活を営むとき 性の最高原理、すなわち「自律の方式」の方式化の下準備となる。この説によれば、道徳法則の意識は定言命法そ 従うばかりでなく、この法則の源泉でなければならない」。これらの「分析的な」特徴に属する方式はカソトの道徳 ならない」、②「理性的な意志はⅡ的自体として存しなければならない」、③「理性的な意志は単に普遍的な法則に れぞれつぎのような「分析的な」特徴が対応している。すなわち⑩「理性的な意志は藩通的な法則に従わなければ ての人間の力式」、③「側的の例の力式」とともに「倫理的な」特徴を表現する。そしてこれらの派生方式にはそ 原理である。この普遍的な力式は、それから派生した三方式、すなわち⑩「自然法則の方式」、②「Ⅱ的自体とし な方式」(普遍的法則の方式)であるが、それは形式的な原理、すなわち定言命法の形式的な合法則性を言明する 行動への案内として実践的に有川な道徳的な原迎を力式化している。この両澗の特徴の荻礎は定霄命法の「将迦的 ばならない根本的な前提を力式化し、他力では私たちは「倫理的な」特徴をもっており、そこでカソトは道徳的な ている。言いかえれば、私たちは一力では「分析的な」特徴をもっており、そこでカソトは道徳性が韮づかなけれ なわちカソトは一方では絶対的な義務の概念を与え、他力では道徳的な行動のための助言を力式化することを試み 第一説によれば、この問題が解決されなかったのは、カソトが同時に二つのことをなしているからだとする。す 閂曰鳳蜘凰ぐの幻の鳥冒P・昏嵐‐幻且§の『(■召の)叩:‐§・ 凰冤の.・毎§‐曾且(§の『(H@『の)叩の?『い・飾五説の区嘱・冨・・ロ日くの§博・已冨:B:吻員・日一F:吻叩同けの○日の伽・罰】・陛 宛§§・『ミ頁§匂い『Bい②(這昼)函]や『‐圏の.(未兄)。節四説同・臣口・国・同・・《日け:厨・口]]○口の○貝のm・回8」H§の7 の。。『ぬの巳PBg冨目・p9gm『.(未見)。飾三説の】]ず:〕・幻・・勺8.・目P』句・gP房日】ロ穴….m同旨8旦向 ゴ:DB、8ミミ・…、3ミミ時、s鍋;』§51§§ござ:曾息凰冒鳳恥□目印・罵言鳥、忽、§翁》の」・国… *第一説ョ旨陰:)日.○・・恩⑯o・蔦督旦蒼○貝§、§』守S:(§》田・a・口邑の、.(未見)。飾二説国僅圓吻・可呉・ (勺・Hm①)。この川越に対する解釈を、画スヴェールは五人の説を引き〈川いに川して論ずる。 * 明するのに砿要であるとしても、依然として派生した諸力式の位慨の側題には満足する解鱒を与えられなかった」
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この説によれば、派生力式のそれぞれをカソトのⅢ的論的な法則の理論に関係させて解釈するミイトン説のように)必要はない。例えば、然法則の方式は、実践的な鋭域における理性的存在者の盗格をもった存在者の活動と科学的な釧域におけるそれとの比較によって、そしてそれ故実殴打学における法則の概念と理論哲学における法則の概念との狐拙によって、祓接に難きだされうる。そして残りの力式はこの論証にもとづけられる。結局カソトの唯一の関心事は、すでに諦週的な法則のなかに含まれているものを説川することである。 的な方式なのである。 って、その逆ではない。それ故、方式化されたものの数は感覚が多様であるのと同様に無制限である。この説は、カソトの識論の分析的な特徴と倫班的な特徴とを区別する原川である北側主我にはかかわらず、「自然法川の力式」「Ⅱ的自体としての人間の力式」「Ⅱ的の国の力式」の三方式を、逆徳法則の要求を道徳的判断力の格率におきかえて臓観にする手続きを明記するものとする。館山説は、定言命法はただ一つしかないというカソトの討叫を強調することによって、派生力式の位価の問題にとりくむ。その窓味は、定言命法の本圃と、この単一の水面が派生方式のなかでさまざまな仕力で表現されうる力法との両洲を説明しうる一つの概念を考えなければならない、ということである。その概念は必然性と粋通性を含む合理性の概念である。この概念は理論哲学において重要な役割を減ずるばかりでなく、実践哲学においても合法則性の地位を説明しなければならないときに中心となるものである。理性的存在者にとっては、その合理性の課題は道徳的な行為の規則として役立ちうる思噸だけであって、与えられた行為が合理的かどうかを決定することは、* それが満よそ介班性lすなわち濡過化適性a・…鰹一…言)の雑木的な婆と一致するかどうかを恥純順剛うことである。要するに、理性的存在者が行為を稗週化適性の規耶に従わせる必要条件が、まさに定言命法の普遍
*この説の原論文(口・腕”・屋口)によれば、「普遍化適性とは、理性的存在者をその実践的な活動に関して導きうる単に可能な脱淋のことであるが、それはちょうど同じ規噸が理性的存在新の知性的な渦動において知識の探究を決定するのと同梯である」と筒う。弓・因)。
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節五説は定言命法の解釈の新しい基盤をひらく岐近の試盈で、これは現行の解釈の三つの教義を批判することから識諭をはじめる.三つの教護とはすなわち’㈹カソトが定筒命法に与えたいくつかの方式化されたしのは等しい趣意をもっているのではなく、あるものは(とくに方式1〔粁週的法則の方式〕は)他の諦力式とは異なった意味を伝えるものである、ということ、⑪道徳と不道徳とを分ける究極の要因は直観的・主観的なものである、ということ、⑥不道徳伽は格率の対象であるⅡ的と、理性の一定のⅡ的ないしは諾Ⅱ的との間の不一致に起川する、と
いう うこ
ことと、
、’-1*この一一一教義の原文(のうちとく匡何)は引川者の書きかえによって却って分かりにくくなっているので、原論文(旨・の匠巳風)によって訳した。この三つの教義による結果はふつうつぎのようになる。すなわち、定言命法の数力式のなかには二つの特徴があり、あるものはあるⅡ的、つまり道徳性を決定する役制(道徳的な肋機)には関係しない力式に帰し、そして他のものはある目的、つまり合法則性、言いかえれば、たとえ正当な動機があってなされたとしてもなされるべきではなかったということ、を決定する役削に関係するような方式に帰する、ということである。しかし第五説によれば、派生力式間の区別は正当な動機と合法川仙の間の区別にもとづいているという考えは、定言命法の諸力式の間の違いについてのカソト自身の言明を反映しているのではない。カソトの要点は、普遍的な方式は形式的で抽象的な考えの表現であるが、その他の方式は直観に帰し私たちに獄批を与える、ということである。それらの方式は、抽象的な原理が現実性を得るときにそれ自体を示すような道徳的な法則の相貌を私たちに与える。たといさまざまな派生方式の川には迎いがあるとしても、それはただそれらの明瞭さと好象に関係しているだけであって、それらの意味にではない。それらは類推としては、本質的には全く同じ道徳性の抽象的な原理である。規準としては、それらはまさしく一つの原理をもっているのであり、迎いはただ力法だけである。それ故、道徳的な行為と不近徳な行為とを区別する側題は、Ⅱ的諭的な法則によって設定されたⅡ的と関係することによっては解決されえない。カソトは目的論的な用語は使わない。カソトの言うのは、格率が道徳的と判断ざ * である。
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れるために、普遍化され、自然の法則にされ、あるいは目的の国の体系の部分となりうるということでは不十分である、ということである。私たちはまた格串が道徳的になることを「欲する」ことができなければならない。この意欲の可能性は、私たちの絡率について我定を下すための試金石である。定言命法はふつう逆徳性の形式的な概坤にあてられる。それ故、カソトが定言命法のなかに意欲の要素を含めたことは驚くべきことである。この意欲の対象は、理性かあるいは傾向かによって命ぜられて生薙だされうるあるⅡ的に向けられている現象的な意志とはちがって、法則として普通化された格率を是認することができる。しかしそれは道徳的な法則の放定に向けられているのであって、道徳的な行為に向けられているのではない。この説によれば、このような逝徳的な恋志の究極の要因は理性的な、すなわち叡知的な存在者の水性である。したがってこの説は、目的自体としての人間の方式における目的への言及を叡知的存在者への言及として解釈するが、しかしこの方式においては単に消極的にである。ここでは職種的な概念を「本体的人間」(げoBopopBの8口)と名づけ、それは定言命法に従ういかなるⅡ的のための代理でもないし、Ⅱ的自体としての人間でも、Ⅱ的の国でも、自然の体系でも、自由でもない、という。「現象的人間」(けoBogの口・日2.口)としての私たちにとっては、それは私たち脚身を理性的なものとして投影した考えであるが、理性的であれば私たちは本体的である。しかしカントは「本体的人間」としての人間を道徳性のための面接の規準としているのではない、何故なら、道徳性は「本体的人間」の価値のゆえにではなく、道徳性の将狐的で絶対的な性格のゆえに、私たちに課せられているからである、とこの脱は主張する。その意味は、不道徳な規則を欲するのが不可能であるのは、このような規則は私たちが「本体的人間」であることを受け入れる規則と両立しないからであるが、それが不可能であることは一つの原理としての定言命法によっては説明されえない、ということである。この結論は道徳的な評価を人間の自律にまで商め
したがって、無条件な道徳的な意志に対するカソトの正当化は日徽の概念であり、この概念は純粋に理性的な凶果性に関係する。しかしこの因果性は、行為の感性的な機能における感性的な因果性であることから切り離しては ることになる。
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いかなる現実性ももたない。言いかえれば、遊徳的な愈志の意図は、私たちの私利を制限しそれらを目的自体と熱なされた他人の幸福を図って広げる行動のなかに維持される。この説はこれをカソトの主要点の一つとするが、それは彼が側的n体としての人間の力式の雅礎として自純の原理を力式化しているからだ、と言う。たとい近徳的な意志は道徳法則の裁定に委ねられているとしても、逆鯨的な意志は道徳法則を将週的な合法剛性の代理として設定したのではない。自律の概念によれば、法則は道徳的な意志によって裁定されるものであるから、それ自体この決定力ある活動の原理なのである。この鮒五説は祓接には弟一説に対する批判として成立したものであるが、給果としてペイトソ批判にもなってい
さて以上の諸解釈を糸ながら、本稿〈2〉でまとめた諮力式をここで改めて検討して承よう。まずカソトの文字どおりの言明に即して方式の全体を概観する。(1)「絲遍的法則の力式」を唯一の定言命法とするのは、すでにみたように、「定言命法はただ一つである」(、L偶飾二段瀞)と前侭してこの方式を提示することから明らかである。そして「道徳的判定においては、……定言命法の普遍的方式を基礎とするほうがよい」(の・あの節五段落)、「この原理〔普遍的法則の方式〕はまた意志の岐商の法則である」(の。怠『飾二段落)という箇所も、この力式が雑木であることを示している。なおまたこの方 以上mスヴヱールのまとめた五つの説を擬肌すると、鍬一説、鍬二説、鍬三純、蛎四説は総励l細部にはもちろん解釈のちがいはあってもl唯一の定一言命法を定め、他の識力式を派生方式と熟て、それらをどう眺絡づけるか、という問題を立てる点で一致しており、それに対して第五説は、方式は唯一で、諸派生方式と承えるのは唯一の方式の方法としての表現のちがいであって、本質的には全く同じ道徳性の抽象的な原理と解釈する。
ろ。
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式のヴァリエーショソ(上記(16から(1h)としてまとめた)は他の方式と比べて一番多く、それが各所に散在していることもその証拠になろう。それに対して方式(2)「同然法則の方式」、(3)「目的自体の方式」、(4)「辨遍的法則立法者の方式」が派生方式であるのは、「道徳の原理を提示する〔これらの〕三つの様式は結局は同一法則の三とおりの方式にほかならず、そのうちの一方式は他の二方式をおのずから自らのうちに合一している」によって明らかであり、そしてこれらの派生方式は「主観的・実践的というべき兼異をもち、それによって派生方式は「理性の理念を直観に(ある種の類挑によって)近づけ、したがってさらに感慨に近づけるために役立つ」という性格をもつのである(⑪。怠の第二段落)。なおこれらが派生方式であることは節二軍末尼の四つの段落(ペイトソがレロロー】m厨。(岳の沙HmpBの口斤で「識論全体の再検討」と名づける箇所)で詳しく述べられる。またこれらの三派生方式の性格とそれらの関係については、の.念○第四段落でまずまとめて説かれる。すなわち「およそ実践的法則立法の根拠は、客観的には、規則と、(第一の原理に従って)規則に法則(結局は自然法則)たる資格を与える普遍性の形式とにあるが、主観的には、目的にあり、しかも(第二の原理に従って)あらゆる目的の主体は、的n体としてのおのおのの班性的存在満なのである。ここから意志の鮒三の突践的原理が生ずる」。ここで節一、第二、鮒三の(尖践的)原理というのは、方式(2)(3)(4)のことである。上に象たように派生力式は普遍的な法則を直観・感慨に週川するものであるから、それらはまた格率とゑなされる。そこで今度はこれらを裕率の形に言いかえて、のL患鋪二段落l第五段落で詳しく説く。すなわち、およそ格率は「第一に醤通性を成立させる形式をもつ」。これは(2)「自然法則の方式」の性格で、この観点からこれを道徳的命法と言いかえられたのが(2b)「格率は、それが普遍的な自然法則として妥当すぺきであるかのように選ばれなければならない」である。つぎにおよそ格率は「弟二に実質、すなわち目的をもつ」。これは(3)「目的自体の方式」の性格で、この点から言いかえられたのが(3b)「理性的存在者は、その本性上目的であり、したがって目的自体であるから、いかなる烙率に対してもおよそ机対的かつ任意なⅢ的を制限する条件としての征を染たさなければならない」であ
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ろ。さらにおよそ格部は「鮒三に自らに対する全面的な規定をもつ」。これは(4)「普泗的法則立法新の力式」の性格で、この点から言いかえられたのが(4c)「およそ格率は自らの立法にもとづき、自然の国としての可能な川的の何と調和すぺぎである」である。このようにゑると、カソトの叙述の仕方そのものはたしかに基本方式と三つの派生方式という形になる。しかし形あるいは叙述としてはそうであっても、その結果あるいは意図を読みとると、雑木方式(1)が道徳の形式的な原理で、派生力式(2)(3)(4)がその実質的な原理(泣側・感情に通川する)というのではない。ここで派生力式の意味は実践倫理的な原則ではなくて、韮水力式の別表塊あるいは表Ⅲヴァリエーシ副ソと承ることができる。荻水力式と派生方式とを区別しないとすると、ペイトソ説のように複数対等並立と象られるが、しかしそうではなく、結局は定言命法は文字どおり「唯一」なのである。ただし「唯一の」原則に複数の派生原理が付随するのではなくて、雑木も派生も合わせて定言命法は「ただ一つしかない」のである。唯一の原則とは「自律の原理」のことである。以下その根拠を象よう。方式(1)が「自律の原理」であることは、第二章の木諭の結びである「道徳性の燈簡原珊としての意志の自祁」の標題をもつ段落で明らかにされる。すなわち「意志の自律は、意志の特性であり、意志はこの特性によって(愈欲の対象のいかなる性寅にもかかわりたく)自分自身に対して法則となる。すると自律の原理はつぎのようになる。すなわち〈意欲が何かを選択する際には、その選択の格率がその同じ意欲のなかに、同時に磐遍的法則として含まれているという仕方でしか選択してはならない〉。……このn律の原理が道徳学の唯一の原理であることは、道徳性の諸概念を分析するだけで十分に説明される。何故ならこの分析によって明らかにされることは、道徳性の原理は定言命法でなければならないこと、そうしてこの命法が命ずるのはまさにこの日徽であって、それ以上でもそれ以下でもないということ、だからである。」(の.倉eここで「自律の原理」として〈〉内に言う力式は(1)の言いかえであることは直ちに明らかである。そして
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続く文章でこれこそ定言命法だと言うのである。また力式(4)は水稲ではカソトの言明どおりに「杵氾的法則立法満の力式」と詔づけたが、その意味からみれば、ペイトソ、小倉説に言うように「自律の力(法)式」と豹づけることができる。しかし舷悔に言えばこれは方式というよりも「自律の原理」、あるいはもっと粘確に言えば「理念」(、.△旨第一段落)である。「立法者の方式」が側作の原皿であることはつぎの引川にはっきりと示されている。「人は、人川がその義務によって法則に紬びつけられていることは知っていたが、しかし人川が自分自身の立法で、しかも普遍的な法則にのゑ服従するものである、ということ、また人間が自分、身の意志ではあるが、しかし自然のⅡ的に合うように普遍的な法則を立法する意志に従って行動するよう義務づけられているだけである、ということ、に気づかなかったのである。……私はこの原則を意志の自律の原理と呼び、他のすべての、他律に属すると私の考える原理に対立させることにする。」(の・念⑪飾四段落・の.怠い第一段落)さらに方式(2)と(3)が(4)と惜接な関係をもつこと、あるいは(4)の要素であることは、すでにこの三者の関係をゑた(⑰.怠の第三段落1節五段落で)ことから明らかである。すなわち、(2)は命法の「形式」の性格を示し、それを命法の方式に表現したのが(2b)であり、(3)は命法の「実質」としての性格を示し、それを方式に表現したのが(3.)であり、そうしてこの形式と実質を総合する機能をもつのが(4)である。要するに意志が「間仲」であるためには「自然法則」のように窓観的であり、「目的脚休」でなければならないのである。それを示すのが(4c)で、格率は立法にもとづき「自然の回としての可能なⅡ的の国と調和」すべきだ、と言う
なお方式(1)と(4)が「自体の原理」であることは、(4a)が(1e)の言いかえであることが明記されているG・鰻瞳飾二段落)ことからも明らかである。この自律の原理が、のちに『尖践理性批判』で「純粋災践皿性の根木法則」として採川されるのである。すなわち「汝の意志の絡率が、つねにN時に普遍的な法則を立法する原川として妥当しうるように行為せよ」(留少医。 のである。
2少巨酉・ぐご印g)。貝』このようにみてくると、結局定言命法には雑木方式も派生刀式もなく、「唯一」であることになる。人に絶対に命令する力式の源泉は理性的な意志であり、そういう意志の性格を残りたく枚挙したのが命法の諸力式なのである。すなわち意志は「粁迦的」にことをなすものであり、しかも「向然法則」のように窓観的になすものであり、「それ、体側的」であり、「將通的な法則の源泉そのもの」(したがって「Ⅱ的の国の成瓜」)でなければならない、と言うのである。諸命法は原則の実現を命ずるかのように装いながら、実はその命法の主体である理性的な意志そのものの性硲づけをしているのである。この要素をすべて総合したものが「自律」であり、これが唯一の定言命法の性格で、この唯一の命法が『実践理性批判』で一言う「根木法則」なのである。要するに諸力式は、「自律の原理」を理性的な意志のさまざまな性格に川しての命法の形への言いかえである。これは先に引川した「……道徳性の原理は定言命法でなければならないこと、そして命法が命ずるのはまさにこの、作であって、それ以下でもそれ以上でもない」(の・倉○節二段瀞)ことからも明らかである。尖践理性の木質は、その岐商原則としての「自作の原理」であり、それは結肋理論理性とちがって命法の形にならざろをえず、この命令形こそ原則の完全さを表すのである。理論理性の原理が命令形にならないのは、その原理の安定さを示すのではなくて、却ってその不完全さの証拠であろう。人は自他に対していろいろと命γろが、その命令の根拠は何か、に対する解審が「定言命法」として説くことなのである。(了)
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