1. はじめに(Introduction)
本章では、まず本論文を理解するための執筆背景を紹介する。執筆背景では最初に平江 県の地理について述べる。次に、中国における漢語諸方言の全体像を紹介する。最後に、
本論文の研究目的及び研究対象を示す。
1.1.執筆背景(The background of this study)
平江県は湖南省に位置しているが、その方言は湖南省の方言と大きく異なり、贛語の一 下位方言とされている。贛語は主に江西省で話されている方言であり、湖南省においては 湘語が優勢方言である。贛語も湘語もその他の大方言と同じく、漢語の全体の歴史の解明 に重要な意味を持っているにもかかわらず、その研究は官話、呉語、粵語などより遅れて いる。90 年代に入ってから、湘語の研究は急速に発展してきたが、贛語に関する研究は、
湖南省のその他の方言より遅れている。平江県は湖南(湘語)、江西(贛語)、湖北(西南官話) の三省の交差地帯に位置しており、方言接触も考えられる。平江の方言の実態を明らかに することができれば、湘語、贛語の関係更には漢語諸方言の全体的歴史の解明にも大きな 意味を持つと考える。筆者は平江県三陽郷白箬村の出身で、昔から自分の方言に興味を持 ってきたが、中国の方言に関する著述などを見ると、平江の方言に関する記述が極めて少 ない上に、ほとんど音韻に関するものであることを感じている。
図 1 平江県の位置
平江県の方言は、地元の人の内省によると、図 2のように大まかにいくつかの大きな方 言に分かれるという。それぞれの方言(岑川鎮を除く)は互いに通じるが、特徴ははっきり している。
図 2 地元の人の内省による平江県内方言の区分
1.2.中国の方言(The dialects of Chinese)
中国の方言は大きく10大方言に分けられている。『中國語言地圖集』(朗文1988)による と漢語方言区分の第一の階層は十大方言區であり、これは即ち官話、晋語、吳語、湘語、
閩語、粵語、贛語、客家語、徽語、平話である。各方言の話者数は下記の表を参照された い。それぞれの方言分布は図 3 に示されている通りである。図 3 は游汝杰(2004: 4)によ るが、平江の位置は筆者が追加した。これらの各大方言グループの下に、更に下位方言が ある。特に官話は8つの下位方言を持っている(図 4を参照)。
表 1 漢語各大方言の話者数
方言區 官話 晉語 吳語 贛語 湘語 閩語 粵語 客家語 平話 徽語
人口數(万人) 66,224 4,570 6,975 3,127 3,085 5,507 4,021 3,500 200 312 名次(順位) 1 4 2 7 8 3 5 6 10 9 游汝杰(2004: 4)
図 3 漢語南方八大方言分布図
漢語方言の階層では区、片、点という用語を用いる。これに関しては、游汝杰(2004)に 詳しく述べられている。「漢語方言の地理上における区分は少なくとも3つの階層に分けら れる。即ち区―片―点である。(中略)方言地理学における階層は方言分類学における階層 と対応させることができる。区―方言;片―下位方言;小片―土語群;点―土語」(游汝杰
2004: 4)。本論文では最も大きな方言グループを、~語、その下の方言を、~方言と呼ぶ。
更に、次の用語については下記のように使い分けることにする。
北京官話 方言の記述との対照の時に使用する。
普通話 共通語の影響などについて言及する時に用いる。
なお大陸で出版されている先行研究の研究者の氏名は基本的に簡体字を使うが、見出し や図表番号のみフォントを揃うため、繁体字を使う。
図 4 漢語諸方言の階層 贛語の下位分類は下記のように8つの地域に分けられる。
昌靖片 南昌、靖安
宜瀏片 宜春、萍鄉、湘東瀏陽一帶 吉茶片 吉安、蓮花、湘東茶陵一帶
撫廣片 撫州、廣昌 鷹弋片 鷹潭、弋陽
大通片 鄂東南大冶、通城、監利 耒資片 湘東耒陽、資興
洞綏片 湘西南洞口(大部分)、綏寧(北部)、隆回(北部) 図 5 贛語の下位方言
湖南省内の湘語の下位分類は下記のように3つの地域に分けられる。
長益片 长沙、株洲、湘潭、宁乡、望城、湘阴、汨罗、岳阳(部分)、南县、
沅江、益阳、桃江、安化东部、安乡南部、浏阳西部、平江岑川 湘語 娄邵片 娄底、湘乡、双峰、涟源、冷水江、新化、安化西部、邵阳、邵东、
新邵、隆回南部、武冈、城步、新宁、祁阳、祁东、洞口东部 辰溆片 辰溪、徐璞、泸溪
図 6 湖南省にある湘語の下位方言
1.3.研究目的(The aim of this study)
平江方言に関する先行研究は、音韻のみを対象としたもの、語彙のみを対象としたもの にほぼ限られると言っていい。そのため、文法に関する記述は皆無に近い。本論文では平 江方言の音韻及び文法の全面的な記述を目指す。平江方言には更に下位方言がいくつかあ り、方言差があるので、具体的な記述をする前に、まず各地の方言差について述べる。方 言差では筆者の実地調査で得た平江各地 8-9地点の方言のデータに基づき、発音、語彙、
漢 語 諸 方 言
徽語 晋語 呉語 閩語 官話 客家語 贛語 湘語 粤語 平話
江淮官話 西南官話 北方系官話
北京官話 東北官話 冀魯官話 膠遼官話 中原官話 蘭銀官話 南方系官話
贛語
文法の面から、その相違を見る。その後は一地点の方言を詳しく記述する。まず音韻の面 では、伝統的な中国語学の研究方法だけではなく、言語学的方法も用いて、この方言の音 韻論を立てる。具体的には、発音や発話を通して、それぞれの音の出現環境や変化などを 詳しく調べ、精密な音韻論にまとめる。文法論では、品詞論、統語論、形態論および語構 成、語彙的側面に分けて記述する。品詞論では、品詞の立て方、それぞれの品詞の機能に ついて記述し、特に平江方言での特徴的な現象については周辺の方言とも比較対照をする。
統語論では文レベルと句レベルに分けて記述を行う。形態論では平江方言の接辞付加、重 複などの手段による語形成について述べる。語彙的側面では呼称システム特に親族呼称に ついで述べる。全般的な記述を行った後に、この方言の特徴を明らかにする。これらの特 徴を近隣諸方言の特徴と比較対照し、最後に諸方言における平江方言の位置づけを行う。
現行の方言分類は主に音韻特徴に基づいて行っているため、方言事実の通りに分類できて いないと思われる方言が多く見られる。筆者は音韻、語彙、文法での特徴から総合的に平 江方言の帰属を探ることにする。
1.4.研究対象(Research target)
本論文の研究対象は湖南省平江県内の方言であるが、先行研究によると平江県内には贛 語、湘語、客家語などがある。平江の方言については许宝华・宫田一郎(1999: 11付録)に よると、下記のように分類されるという。
赣语。昌靖片。东部黄金乡说客话,属客话铜鼓片。西北部岑川乡说湘语,属湘语长益片。
贛語。昌靖下位方言。東部の黄金郷は客家語を使用し、客家語銅鼓下位方言に属す。西北部の岑 川郷は湘語を使用し、湘語長益下位方言に属す。
许宝华・宫田一郎(1999: 11付録)
このうち、贛語とされているものには更に下位分類が必要である。詳しくは4章の方言 差で述べるが、図 7は平江県内方言の大まかな分類図である。以下は平江県内で贛語とさ れているものを平江方言と呼び、その他の方言も含む場合は平江諸方言と呼ぶことにする。
なお、本論文で研究の対象とするのは主にこの贛語とされているもののうち、城関方言地 域の方言である。
城関方言区
平江県内の方言 贛語とされているもの 東北方言区 平江方言
(平江諸方言) 西郷方言区
湘語 岑川郷
客家語 黃金洞郷
図 7 平江諸方言の分類
方言差(4章)に関する論述では、その他の下位方言との比較対照も行うため、平江諸方 言を扱うこととする。文法論については、ほとんどが城関方言地域の方言(以下平江城関方 言と呼ぶ)に関するもののみになる。