著者 大谷 拓郎
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 55
ページ 23‑43
発行年 2001‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011394
本稿は、ブランコ体制二九三九’一九七五)の官製御用組合「スペイン組合組織○【彊已目Qopの百s8-国のロ,&・丘」をテーマとするものである。「スペイン組合組織」は、ブランコ体制下の唯一の組合として、労働統制を行い体制の一翼を担ったが、この組織の指導理念となったイデオロギーが、「国民サンディカリズム」である。本稿では「スペイン組合組織」という「体制の一要素」の中でスペイン・ファシズムの「理念」が貫徹されたのか否かを見ることによって、「体制」の中でスペイン・ファシズムの占めた位地を考察することとしたい。
|「国民サンディカリズム」の理念
(1)スペインのファシズム運動「ファランヘ」の掲げたイデ
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷)
ブランコ体制とスペイン組合組織
オロギー、「国民サンディカリズムロロQ・目一の冒曰○二m目」は、’九三四年十一月に発表された同党の「二七ケ条綱領(2)国『でロロ(○のQの}四句向・の]口の]○zの」に示されているが、そこでは国家至上主義が調われるとともに「われわれの国家は国民的保全事業の全体主義的道具となるであろう。全スペイン人が家族・地方共同体・組合の機能を通じそれに参加することとなろう。何者も政党を通じ参加することはない。(第六条)」として、組合に政治参加のチャンネルとしての役割が与えられている。第九条ではその組合がどのようなものとして捉えられているかが示される。「われわれはスペインを生産者達の一つの巨大な組合と考える。われわれはスペイン社会を国民経済完成の事業の中で各生産分野における垂直的組合制度
大谷拓
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まず、ブランコ体制の起源であるスペイン内戦について、概観することとする。’九一一一六年七月十七日、人民戦線政府に反対する軍部を中心としたクーデターが発生したが、早期の権力奪取はならず、内戦が開始された。内戦下、ブランコ将軍の権力が拡大し、ファランヘはこれに抵抗を示すものの結局は屈する。一九一一一七年四月十九日、ファランヘ内部の権力抗争に乗じたブランコは「政党統合令」を発布、反乱軍陣営の全政治勢力の統合を命じるとともに、日らその新党「伝統主義者とJONSのスペイン・ファランヘ」(以下「FETフェット」と称する)の党首に就任した。こうした経緯からも明らかなように、 によって集団化するだろう。」これらを整理すると、①国家至上主義②職能原理に基づく国家③組合を経路とする国政への参加の三点が、(3)抽出される。これを理念としての「国民サンディカリズム」と考えることとしたい。以下では、果たしてこの理念が、ブランコ体制の現実の中で実現されることとなったのか、現実の国民サンディカリズムの果たした役割はどのようなものだったのかを見ていきたい。 法政史学第五十五号
二「スペイン組合組織」の変遷 ファランヘが国家政党となったとはいってもそれは自力で政権を奪取したのではなく、ブランコによって国家政党の母体として選択されたといったほうが正確であろう。一九一一一八年一月三十日、第一次ブランコ内閣が成立した。このとき、「組合組織・活動省三三m〔の口・ロの○『ぬ目旨‐囚9.口ヨシ○・一sの白&8}」が設立され、組合のシステム(4)整備を一打うこととされた。(5)同年一一一月九日、「労働憲章胃の【・ロの一目【四宮一。」が公布され、ブランコ体制の労働統制の基本軸が定められた。「労働憲章」第二条では、「生産に参加するすべての要素は国民の至高の利益に従属する(’-1|)」として、国民的利害を個別的利害に優先させている。それゆえに、生産を妨害する争議行為は処罰されるものとされ(一一’二)、階級的利害を争議行為により防衛することは禁止された。第一一条で示された「国民の至高の利益」を、誰が解釈するのかという問題には、第一二条で答えが示される。すなわち、「すべての形態の所有は国家がその解釈を行うところの至高の国民利益に従属する(一二’一)」とされていることから明らかなように、国家がそれを判断する。第一一一一条では、組合(の日日8(・)システムの基本軸が
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示される。「スペイン人は労働と生産への参加によって組合組織を構成(一三l|)」し、「生産の全要素を包含する国および地方行動支部に編成される(’三’一一)」ものとされたが、「組合は生産における問題の検討に協力し、解決策の提示および労働条件の充足・監視・規制に参加する(一三’五)」との文一一一一口から明らかなように、これら組合は、階級闘争の機関ではなく、階級協調の機関としての位置付けを与えられた。以上、「労働憲章」の条文について考察したが、ここでは国家が解釈する「国民の至高の利益」に、全生産要素が従属すべきものとされている点に注目したい。先にみた「二七ケ条綱領」においても、国民的利害を個別的利害に優先させてはいた。しかし「誰が」その国民的利害を解釈するのか、という点について、明確にされてこなかった。それは、かっての、原初的理念としての国民サンディカリズムにおいては、組合が国政への参加の経路としても位置づけられていたからである。前述の「二七ケ条綱領」第六条では、国家は「全体主義的道具」であり「家族・地方(6)辻〈同体・組〈ロ」を通じ参加するものとされていた。つまりは、「労働憲章」のいう「国民的利害の解釈」に、「下から」の声も反映させようとしていたと考えられるのであ
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) る。しかし、この「労働憲章」をメルクマールとして国民(7)的利聿口はただ国家によってのみ解釈されることとなった。従って、国民的利害を判断する主体としての国家において、組合がどのような位地を占めることとなったのかが、国民サンディカリズムの理念の現実化の程度を示す指標となるだろう。次に戦後に「スペイン組合組織」として具体化されることとなる組合のシステムについてみてゆきたい。一九三九年一一一月二十八日、ブランコのマドリード入城で内戦は終結し、以後行政の文民化が進められた。八月には組合活動がFETに移管され、「スペイン組合組織」が成立する。以後、この「スペイン組合組織」の歴史を、①五○年代中期までの、アウタルキー(自給自足)政策下の労働統制を担った時期②六○年代中期までの、一連の日由化政策を行った時期③体制末期、労働運動の高揚により統制力を喪失した時期の三期に分けてみてゆくこととしたい。
内戦の終了後、ブランコ体制は、対外経済関係の極端な制限と国家による経済介入・産業規制とを二つの柱とする 1第一期「五○年代中期まで」
二 五
法政史学第五十五号
(8){日給自足経済の建設を[日指した。こうしたアウタルキー政策は、当初は金融界・産業界・大土地所有者といった経済的オリガーキーにとっても好ましいものであった。後進国スペインにおいて、工業化の推進のためには国家権力の介入・後援の必要性が強く意識されていたからである。こうして、経済界の要求に応える形で、アウタルキー経済政策の下での輸入代替工業化が推進される。それとともに、労働コストを低く抑えるための労働統制の制度化は、内戦の終結による国家機構の文民化に伴い加速することとなる。’九三九年八月八日、行政部門の再編成が行われ、組合組織・活動省は解体された。これに伴い、組合活動はFETに移管され、国民運動事務局(の①O『①白『宙○のロの日三の一二・二三○三・)に、組合全国代表eの}の、四・]opZpQopp}(9)Qのの冒昌・ロ(・のCzの)が設置された。ここに、DNSを長とする組合組織(○【ぬ目百四O】Sm百s8-両の己呂○一四○m向)が成立する。さきの機構改編によって、組合の全国指導部と、組合行政を担当する官庁とが分離されたことの意味について考えてみたい。これは、組合ヒエラルキーのピラミッド的構造を通って下部組合員の声が全国代表部にまで達したとしても、下部組合員の要求が行政に直接に反映される可能性はないことを意味 した。ファランヘの宿願であった組合の国家機関化は確かに達成されたが、組合の位置付けは、国家の経済政策を決定する組合ではなく、国家の経済政策に従う組合、というものであったのである。FETの組合組織のみが唯一国家(Ⅲ)により承認されることを規定した「組合統一法(Fの『9のロ日sQの曰S8})」(一九四○年一月二十六日)に続き、一九四○年十二月六日には、「組合構成法Pのご□のo・ロの(’一(巳・】S□の一・mのご&&(・の)」が定められ、OSE傘下の組合の構造が定められ、内戦中から進められてきた組合システムの制度化が完成をみる。同法により、組合は、「FETの指揮する義勇兵として組織」されることが宣言された。経営者の加入は強制とさ(u)れたが、労働者の加入は原則的には強制ではなかった。もとよりOSE以外の自由な労働組合が禁止されている以上、選択の余地は存在しないわけであるが、まず第一に組織すべき対象とされたのは経営者であり労働者ではなかった。組合全国代表(DNS)を頂点として県・地方レベルへとピラミッド型に広がるそのヒエラルキーについてみると、まず人事権のすべてを組合全国代表が握っているわけ(、)ではないことが重要である。産業別に組織される各組△□の |ヱハ
全国首長は、国民運動全国首長(ブランコ)が任命するこ(B)ととされた。初期のOSEの組織構造についてみてきた中で、二つの特徴を挙げることができる。第一に、経済を調整する権力を組合が持たない、という点。各組合の全国首長が、下からの選挙、または組合全国代表により任命されるのではなく、ブランコにより任命されるということからも明らかなように、経済を調整する権力は組合下部大衆でも組合全国代表でもなく、ブランコが握っていた。第二に、労働者の力の集中が排除されている点。OSEの下では、各労働者は産別の組合に分断して組織され、かっての大労働組合UGT(労働総同盟)・CNT(全国労働連合)のような力は持ち得なかった。従って、実際の権力を持たないOSEエリートの役割は、「生産分野における政府の政策遂行を保証する単なる(u)伝動ベルト」以上のものではあり得なかったし、与一えられたそのような役割からの逸脱は許されなかった。一九四一年十一月二十八日には、FETの党機構が再編成され、地方レベルでも、内務省の統制下にある県知事がFET県首長を兼任することとされ、これによりFET地(旧)方組織の独立性は消滅した。’九四三年七月十七日には、
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) OSEの原則が定められた。すなわち、国家指導部(]の{皇‐ロ日ロの]ロの菌Q・)の政令により、組合全国代表(DNS)によるトップダウン型の指揮系統「命令路線(一日3Dの日四三・)」と、組合員による下からの「代表路線(一曰3(焔)『のロ『の①の日曰く口)」とが峻別され、両路線ともにFETの政(Ⅳ)治的規律に従属すべきことが定められた。同日公布された政令では、制限的選挙制度の導入が提起されていたが、そこで定められた選挙制度において一般の組合加入者に許されたことは、組合地方代表部により作られた候補者リスト(旧)に基づいた間接的な投票行為のみであった。要するに、第二次世界大戦中のこの時期においては、OSEの制度化・官僚化が完成し、資本寄りの労働統制とい(旧)うその基本軸が定められた。しかし、労働者を統合すべき代表制度は、その明らかな虚構性から十分には機能していなかったと言うことができるだろう。OSEの代表制度が機能し始めるのは、ブランコ体制が第二次世界大戦における枢軸勢力の敗北を乗り越えて存続し続けるという見通し(m)が明らかとなった、一九四七年以降のことであった。以後、OSEは、体制参加の見返りとして与えられる特権的地位を求めて、代表制度を通じて労働統制に参加する下部指導者を獲得することに成功する。かくして、労働者の参
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加を促進することによって、体制内での自分たちの権力を維持しようとするOSEは、さらに「代表路線」を拡大してゆく。一九四七年三月には、組合選挙の規定が改められた。候補者への「政治的信頼性」の要求が排除され、組合員により選出されるポストは地方団体の長、各県の組合の(Ⅲ)長にまで拡大された。また同年八月十八日には、新たな代表職として「企業審査員(]こ『&・のQの向日ロ①の口)」制度が導入された。企業審査員は、企業内部における資本・技術・労働の協力を効果的にすることを目的として、労働者・企業・OSE・国家を等しく代表し、一定の決定権力(犯)を与壱えられていた。こうして、一定の開放が行われたことにより、OSEは傘下の労働者を統制しうる下部指導者の獲得に成功した。しかし、「代表路線」の裾野が拡大したことは、その反面では、代表路線が組合制度自体を破壊しようとする反体制派活動家にその門戸を開放することをも意味していた。従って、OSEが生産過程における実際の権力を与えられた際には、この矛盾が表面化する叫能性をはらんでいた。もっともこの段階では、給与と労働条件を決定する権限は労働省(二亘の(①ロ・ロの一目『四宮一。「組合組織・活動省」にかわり一九四○年設置)が握っており、産業問題は労働 法政史学第五十五号
次に、’九五○年代中期から一九六○年代中期までの、「自由化」の時期についてみることとする。東西冷戦の開始はスペインを国際的孤立から救った。経済的門戸開放が進められる中で、アウタルキー政策は放棄されるようになり、それとともに労働統制の在り方も見直しが加えられた。市場経済制度の導入を課題として意識し始めた経済界は、労働者の要求に対して、抑圧的手段よりも交渉による解決を図るようになってゆく。生産性と競争力の向上を第一義的に捉える立場から、抑圧的解決よりも協調的解決の万が低コストである、と考えるようになってきたのであ(型)る。’九五八年四月、「団体協定法FのごQの○・曰くの曰・の○・}のC‐ごく・の」が制定され、スペインにおける労働関係の在り方 省管轄下の労働裁判所で処理されることになっていたため、OSEは政府の産業政策の遂行を監視する機能しか(羽)持っていなかった。そのため、OSEが反体制派の浸透によって、そのコントロールを失うという事態は、経済的門戸開放による産業構造の変化に伴いOSEに大幅な権限委譲が行われた後のこととなる。
2第二期「六○年代中期まで」
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は大きく変化した。その第一節において「団体協定は、社会正義の精神、生産統一体・労働共同体の価値、生産率・(妬)生活水準の改善を促進するものである」として団体協定を肯定的に定義する同法は、賃金・労働条件決定のメカニズムを地方・セクターレベルに委譲するものである。(妬)団体協定の締結は、以下のようにしてなされる。①企業審査員を通じてのOSEへの申請により、審理開始②審理委員会内での労資の直接交渉③不一致の場合には労働省代表委員による調停行為、和解協定締結④これも不一致の場合、労働省が命じる仲裁協定が労働条件決定このようにして、団体交渉のシステムが整備されたことにより、それまでは体制の経済政策の伝動ベルトに留まっていたOSEに、労資双方を担う真の代表的性格が与えられることとなった。勿論、上記の団体協定締結過程からも明らかなように、実際には政府が介入する権利を留保しており、また合意に達した団体協定は労働省の承認を必要とし(”)ていた。そのような限界を有してはいたものの、労資の代表による直接交渉が、OSEの枠内で認められたことの意
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) 義は大きいものだった。大企業においては、OSEの介入を招くまでもなく、独自の企業内合意が達成されていたが、仲裁を要する争議の(羽)発生件数が増加するにつれて、各市町村のOSE本部は団体交渉の中心となっていった。’九五九年に始まる「経済安定化計向」によって、先進資本主義圏内での分業体制に参加する基盤を整えたブランコ体制は、経済面での門戸開放を一層推進してゆく。その
表1 「団体協定法」に基づく交渉数推移
(出典 DiarrioAγγ/bα,16defebrerodel963 quotedinRamonBulnes,Delsindicalismode represi6nalsindicalismodeintegraci6n HOγjzo"reeSPa刀oJ,21966.p、322notal7.)
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年 団体協定数 企業数 労働者数
1958 1 1 361
1959 179 53,760 427,686
1960 166 44,403 87,084
1961 412 93,949 771,652 1962 1,707 649,446 2,047,383
際、低廉かつ従順な労働力はスペイン経済にとって強力な武器となる訳であり、労働統制は維持されてゆくが、着実な経済成長に伴って一定限度の「自由化gのH三日」もまた進められることとなる。労働問題解決の中心的役割を担うこととなったOSEは、その代表性を拡大・開放する施策を次々に打ち出していった。一九六○年七月には、組合選挙の規定が改められ、「代表路線」の上位職階を獲得するためには下位にお(羽)ける予備選挙が必要とされるようになった。このようにOSEの代表性が拡大されつつあったことは事実ではある。しかし、これは、OSEの「代表路線」が労働者の要求を十分に反映するものに変化していったということを意味するものではない。「団体協定法」の条文から明らかなように、OSE内部で行われる団体交渉が不調に終わった際には、労働省の命じる仲裁協定が権威的に労資双方を拘束することとなっていた。この仲裁協定が資本寄りの立場からなされるであろうことは明らかであり、仲裁協定に不服な労働者と政府とが対立した際に、国家機構であるOSEがどちらの立場に立つべきであるかも、また明白であろう。つまり、OSEの「自由化」は、あくまでも表面的なものに留まらざるを得なかったのである。一九 法政史学第五十五号
六二年四月、鉱山労働者が団体交渉のルールに則って提出した賃上げ要求に対して、なんらの回答もなされなかったことを契機としてアストゥリァスで発生したストライキは、バスク・カタロニァ・バレンシアへと拡大し、五月の初めには一○万人から一五万人が参加する大規模なものへ(釦)と発展していった。自由化に関しては、この年にもう一つ重要な決定が下された。’九六二年九月二1日の政令によって刑法が修正され、それまでは国家に対する反逆とされていたストライキが、「非政治的目的」のものに限り、合法化されたのである。「団体協定法」により、不十分ながらも団体交渉の権利を認められた労働者は、ここにストライキの権利をも回復することとなった。現状が追認されたことにより、以後(、)争議行為はますます頻発してゆく。団体協定の締結を斡旋する権力を与えられ、その「代表路線」の門戸を開放し続けるOSEに対して、反体制派労働運動の側は一九六三年の組合選挙において自らの代表を送り込むことに成功する。労働運動の浸透が続く中、一九六四年に開催された第三回組合大会(○・口四のの・の】己-8|)では、OSEの機構が大きく改編された。全国・県レベルで、労働者と経営者を
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別個に代表する「評議会8口のa・」が創設されたのである。これは、OSE内で、労働者・経営者の自治が承認されたことを意味する。OSEの垂直(産別)組合は、同一産業内における労資双方を等しく代表し、利益の調整を図るはずのものであった。現実としては資本の利益が第一に重視され、そのような理念は一度も実現されることはなかったとはいえ、建て前としてはそうであったはずである。しかし、ここにその理念は遂に消失する。労働者・経営者のそれぞれの階級的利害の代表が、制度的に保証されたことの意義は大きい。組合の「口由化」は、遂に階級闘争の止揚という、国民サンディカリズムの理念の重要な部分を捨て去り、労資の階級口治を承認するまでに至った。こうした一連の改革によってOSE指導部が期待したことは、OSEに労働者が要求する代表性を与え、彼らを統合することだった。実際、地方においては、OSEの労働統制メカニズムは未だに影響力を有しており、当時の労働運動をめぐる対立と協力の関係は、奇妙な構図を描いていた。すなわち、OSE官僚と旧アナルコ・サンディカリストが官製組合組織を支配する一方で、国民サンディカリスト革命は裏切られ続けたと信ずるファランヘの純理派が、反体制派労働運動に合
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) 「口巾化」路線の破棄と、弾圧への転換は、OSEにとって、|っの時代の終わりを告げるものであった。以後、再び「代表路線」を閉ざしたOSEは、反体制派の浸透から日由になったことと引き替えに、労働者を統合する力を失ってゆく。OSEへの浸透・内部からの変革という見通しが立たなくなった労働運動は、必然的にその自律性を強め、また尖鋭化してゆくこととなる。労働運動の高揚と、それに起因する社会不安について論じる前に、一九六七年一月公布の「国家組織法Pの】○局‐(羽)ロヨ・ロロの一両の白Q・」について述べることとしたい。「フラ (犯)流する事態すら生じていたのである。この「自由化」の時期についてまとめるとするならば、もはや一方的な力による弾圧では抑えきれなくなってきた労働者のOSEの枠内での統合が試みられた時期ということができるだろう.しかし、六六年組合選挙の結果l反体制派労働運動の席巻lを受けて、「自由化」されたOSEを基囎とする新たな社会、という楽観的なビジョンは捨て去られ、労働運動は再び激しい弾圧に見舞われることとなる。
3第三期「終末期」
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ン.以後」を見越した国家組織の在り様を総合的に規定する同法はまた、それ以前の基本法を改正するものでもあつ(弘)たか蕾bである。この「国家組織法」により、どのような改正が行われたか、「労働憲章」について見ることとしたい。改正前の「労働憲章」においては、あらゆる争議行為は(妬)「国家に対する犯罪」とされていた。しかし、「経済的」ストライキが一九六二年に合法化されたことを反映して、改正後の「労働憲章」においては、「深刻に(傍点引用者)生産を妨害、あるいは侵害する個人的ないしは集団的行為は法により罰せられる(第一一条第二項)」と、この規定も緩和された。「垂直組合」という観念の後退もまた顕著だった。’九三八年版「労働憲章」には、「垂直組合は、それにより国家がその経済政策を遂行するところの、国家に奉仕する道具である」と、宣一一一一口する第一二条四項が存在したが、改正(妬)によりこの項目は削除された。それにかわり、組合内部での各階級の自治が調われることとなった。これもまた、経営者と労働者を別個に代表する、一九六四年の「経営者・労働者評議会」の創設に始まる動きに対応するものであると思われる。改正後の労働憲章第一三条三項は、「組合内 法政史学第五十五号
では法により定められた形態で、経営者・技術者・労働者の各々の職能連合(少の・・己9.口のの)が形成される。この連合は各々の特有の利益防衛のために、そして組合活動および組合を通じての政治的・経済的・社会的生活における共同体の任務への参加のための、自由で代表制の手段として組織されるものである。」と、何よりも同氏的利益を重視し、|枚岩的に支配される組合という観念を修正している。かくして、体制の制度的再編成によって、OSE・垂直組合はもはや国家の道具として定義されることもなく、組合職員がファランヘ主義者でなければならない、とする規(師)定も廃された。以後、個別利祐を代表する諸職能団体の連合体としての性格を、組合は強めてゆく。しかし、この「自由化」路線は、前述のように労働運動が組合エリートの予想した枠組みを越えて拡大を始めたことにより、その放棄を余儀なくされた。これに対して労働運動の側は、尖鋭化し、一九六七年以降は、労働運動の送り込んだ職場代表が追放されたことへの同情ストライキであるとか、メーデー記念デモといったように、争議行為の(犯)政治色が強まってゆく。’九六七年十二月、労働運動の弾圧は新たな局面を迎え
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る。十二月二日に下された最高裁判所の判決は、「政治的目的」以外のストライキを合法として刑法第二一三条を修正した一九六二年九月二十日の政令には、手続き上の問題(羽)があるとし、労働運動弾圧に法的根拠を与》えるものであった。弾圧と併行して、もはや時代遅れとなってしまった観のある組合のシステムを現実に適応させようとする試みも進められた。「国家組織法」により、「労働憲章」が改正されたことを受けて、組織改革を具体化する新たな立法が一九六八年の第四回組合集会の議題となり、組合集会は十月三日に、改正労働憲章の定めた枠組みに沿う答申をコルテスに上申した。この答申を下敷きとして、閣僚会議で法案が審議され、’九七一年二月十七日の「組合法Pの]の一己‐(㈹)一・巴」公布に至ることとなる。以下、この「組合法」について見てゆくこととしたい。「組合法」は、その前文において、職能団体(○局目一目・‐」・ロ①の勺『・{①の]・ロ巴のの)・組合・OSEの一一一つを、組合制度の構成要素として挙げるが、各構成要素の性格が職能団体との関係を中心として定義されている点は重要であると恩(似)われる。まず組合は、職能団体間の利益を調整するとともに共通
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) の利益を代表するものとして、すなわち職能団体間の協力の組織として再定義されている。そしてOSEもまた、組合レベルでは職能団体間の、国家的領域では職能団体と政府間の協調の組織として定義されている。すなわち、各階級の個別利益を代表する職能団体こそが、組合制度の基本軸として位置づけられていると考えられるのである。「組合活動の目的は、個人的・集団的・共同体的価値の完全な均衡の達成にある(前文)」として、階級的利益の制限が語られはするものの、「均衡の達成」というその表現は、国民的利益への個別利益の従属を説いていた、かっての国家至上主義的な文言から、大きく後退しているものであることは明らかである。「組合法」において、組合内部における各階級の□拾拡大が目指されたとするならば、その「自治」の性格如何が問題となる。すなわち、その自治は、生産者自治と国家機(蛆)構、単産者の経済規制と同家の経済的介入を等置する、サンディカリズムの理念の復活として解釈できるものであったのか、あるいはそうではなかったのかが、問題とされねばならない。この問題は、次の二点に整理することができるだろう。①生産者による経済調整と、国家による経済への介入と
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を等置するサンディカリズムの理念が復活を遂げたか。換言すれば、組合は政策決定過程に参加可能か。②組合内職能団体による各階級の自治を制度的に保証する、上部組織としての組合の民主化は達成されたか。以下、こうした観点から、「組合法」の条文についてみてゆくこととしたい。第一一一条は、職能団体と、構成・連携機関(○『ぬ四口・のQの8日己・の一・一○口『8.己ヨロgoご)である組合との関係について述べる。経営者・技術者・労働者の職能集団(缶、日マロロ・ロ①の)・職能連合(少の○・国9.口のの)・職能同盟(□三○口)(蛆)は職能団体であり、構成員の利益の代表と防衛とを目的とし、自由に選挙された代表により指導される(第三条第一項)。これに対して、職能団体間の利益を調整し、共通利益を代表する構成・連携機関(Ⅱ組合)は、臼巾に選挙された代表を通じて経営者・技術者・労働者に介入する(第一一一条第二項)。回者ともに、下部大衆の選挙による代表制が強調されているが、組合による上からの統制は維持されている。従って、上部組織である組合が真に民主化されない限りは、職能団体による階級自治は形式的なものに留まらざるを得なかっただろう。第八条では組合員の権利が規定され、ここに集会の臼 法政史学第五十五号
由・団結権などが承認されるわけであるが、組合員の義務について定める第九条第三項において、上からの命令への服従が規定されていることからも明らかなように、下部組織における民主化が内実を伴うものであったか否かは、上部組織の民主化次第であった点は、第三条の場合と同様である。第二四条は、組合を、「国民共同体の目的達成のための、経済的・社会的・職業的利益の経路であり、それらの利益を代表する」(第二四条第二項)ものとして定義する。改正前の「労働憲章」においては「国家に奉仕する道具」と定義されていた組合は、ここでは統制色を弱め、下部労働者大衆の声を国政へと反映させる経路として位置づけられているが、そのような「経路」として位置づけられた組合は、実際に下部労働者大衆の声を政策決定過程へと反映させることができたのだろうか。第二七条に示される組合の任務の内、体制の政策決定過程への参加と考えることができるのは、まず労働条件の最低基準決定への参加(第二七条第六項)であるが、労働行政の分野においては、労働省が常にOSEに優越する権力をもっていたのは前述の通りである。また、生産上の問題の解決策提示(第一一項)・市場の集中の調整への参加(第一二項)は、政策決定への
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積極的な参加というよりは、諮問機関的な在りようを想定していると思われる。要するに、組合の政策決定過程への参加は、限定的なものに留まったと考えられるのである。組合の役割が諮問的なものに留まる以上、政策決定過程において、資本に有利な選択を妨げるものはない。さきに整理した二つの問題点の内、「組合は政策決定過程に参加可能か」という第一の点については、組合の任務について検討する中で否定的な結論が得られた。次に、第二の問題点「組合の民主化」について考察することとしたい。第二八条.二九条は、組合の指導機関について述べている。組合の管理と運営は、組合議長と人評議会によりなされる(第二八条第一項)。組合の最高機関である大評議会は、それぞれ同数の「労働者・技術者同盟」代表と、「経営者同盟」代表から構成される(第二八条第三項)。この大評議会が、全体の4分の3の賛成票により組合議長を選出し、組合関係相(二三の可・口の宛の一四口・ロのmの日&‐(“)。&①の)がこれを任命する(第二九条第一項)こととなる。組合の全国指導者が、ブランコによる任命から、労使同数の大評議会による投票で選出されることとなった点は、民
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) 主的と評価することができるかもしれない。しかし、議長選出のためのハードルは四分の三の賛成票と高く設定されていた。大評議会において組合議長を選出することが不可能な場合には、組合関係相がこれを指名する(第二九条第二項)とされていたことを考え合わせると、実際の組合指導部の民主化の程度には疑問符を付けざるを得ない。かくして、第二の論点についても否定的な結論が得られる。「組合法」はサンディカリズムの理念を復活させるものではなかったし、職能団体による階級自治もまた、制度的に保障されない虚構に過ぎなかったと言うことができる(妬)だろう。国民サンディカリズムの制度化は当初から、その理念とはかけ離れたものだった。生産者自治と国家機構との等置ではなく国家機構の一方的優位という、内戦中に定められた基本軸は、変更されることはなかった。慈父の如き国家を代表して生産者間の紛争を調停するという、OSEのパターナリスティックな原理が時代錯誤のものとなった七○(妬)年代においても、その基本軸が変更されることはなかったことは、「組合法」の条文からも明らかである。その門戸を閉ざし、労働者の要求に応えることのできないOSEは、労働者に対する統制力を喪失してゆく。ペイ
五
ンの挙げるデータに従い、ストライキ件数について見れば、表2のようになっており、ストライキの発生が常態化していることが読み取れる。労働運動の高揚は、もはやOSEの表面的な改革によっては何らの影響も与えられないものとなっていたのである。oSEの統制力が衰退したことに伴い、政府が労使関係への介入を余儀なくされていった。一九七四年のバルセロナでは、労働者のほとんど半数が、OSEによる交渉が破綻した後に政府が定めた強制的(灯)裁定金を受け取ったという。一九七五年十一月二十日、ブランコが八二歳で死去した後、十二月十一一一日に即位したファン・カルロスー世は、体制の民主化政策を進めた。’九七七年には、労働者のストライキ権承認(一一一月四日)、国民運動解散(四月一日)、全労働組合合法化(四月二十四日)、勅令法によるOSE廃止(六月二日)と、矢継ぎ早に民主化政策が打ち出されここにoSEの歴史は終わりを告げたのである。以上、OSEの歴史を二期に区分し、それぞれの時期についてその在り方を見てきた。OSEとそのイデオロギー「国民サンディカリズム」は、制度化され現実化する中で、どのような役割を担うこととなったのか。最後にこの点について論じることとしたい。 法政史学第五十五号
表21 件数 402件 236 459 817 601 688 811 1193 855 1568
967~1976年のフ
ミ
ストライキ数
工鶚雨一Ⅲ|凹牒一川一M両
’一二ハ年 件数 参加労働者数 喪失労働時間
1967年 402件 27万2964名 245万6100時間 1968 236 111万4355 222万4100 1969 459 17万4719 554万9200 1970 817 36万6146 695万900 1971 601 26万6453 818万6500 1972 688 30万4725 746万9400 1973 811 44万1042 1112万251 1974 1193 62万5971 1818万8895 1975 855 55万6371 1035万5170 1976 1568 363万8952 1億1001万6240
1967-1975年のストライキ
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷)
■ストライキ件数
■参加労働者数(千人)
圃喪失労働時間(万時間)
2000 1750 1500 1250 1000 750 500 250 0
676869707172737475
(出典:OSEdatainWL、Bernecker,,,DieArbeiterbewegungunterdem Franquismus.”in:DjegU/ze〃Dy"α〃んA"toγ加花γD伽at"形",Munich,1982, p、131.quotedin:StanleyGPayne,TheFm"coRCg伽eZ〃919乃,Madison,
1987.p、555.table2L1)
結局のところ、国民サンディカリズムの理念のうち、第
三の点「国政への労働者大衆の直接参加を則能とする組
合」が実現されることはなかった。中立的普遍的であるはずの国家の介入は、実際には労働者大衆の声を反映しないままに、支配階級としての金融工業大ブルジョア・地主の利益に沿った形で運用されることとなった。ファシズム運
動の掲げていたある種の「理念」が、制度化の過程で換骨奪胎される現象は、スペインに限らず見られるものではあるが、スペインの場合にはその変質の原因は何よりもその制度化が進められた状況Ⅱスペイン内戦に求められるべきであろう。内戦下、支配階級によってファランヘが新体制の国家政党の母体として選択された。これはあくまでも支配階級の側の選択であって、自立した政治運動としてのファランヘが独力でその地位を獲得したのではなかったことは留意されねばならない。また、国民サンディカリズムの虚構性を覆い隠したのも、また内戦であった。内戦の集団的記憶(蛆)が、体制に反対する行動を制約し、疲弊した経済は、国家統制を正当化した。この中央集権的経済統制を行う国家機 三「国民サンディカリズム」の役割=
 ̄
七
構もまた、戦時機構の延長線上に位置するものだった。戦時機構においては、当然に軍事的勝利が最優先される。その巾で生産の効率を妨げる要素は排除され、組合は労働に秩序をもたらす警察的手段へと転化する。生産者自治に対する国家機構の優越という、内戦中に定められた基本軸が、ブランコ体制における国民サンディカリズムの現実を規定するものであった。内戦後には体制の「文民化」が開始されるが、軍人的思考の産物であるアウタルキー政策から明らかなように、五○年代中期までは内戦期の継続という性格をも持っていた。従って、国民サンディカリズムを掲げ創設されたOSEに期待された役割は、労働統制の道具というものでしかなかった。しかしこのような意味での労働統制は、アウタルキー政策により体制が閉じた世界にあることによってのみ可能なものであり、五○年代中盤以降本格化する体制の門戸開放に従って労働統制の在り方もまた変化してゆかざるを得ない。こうした状況下で、経済的合理性に則った労働政策を必要とする資本の要請にしたがい、’九五八年以降、OSEによる労働統制も「自由化」の局面を迎える。支配階級にとっての組合の「自由化」とは、労働者への一定限度の譲 法政史学第五十五号
歩による労働運動の沈静化・生産性の増加を目的とするものだった。また、FETの組合エリートにとっての「自由化」とは、OSEに労働者が要求する代表性を与え、これに労働者を統合することによって自らの権力基盤を強化することだった。’九五八年の「国民運動原則法」において、組合が国政への参加の経路として位置づけられてはいるものの、実際には政策決定過程への参加を保障する制度が作られなかったことは、この「自由化」が国民サンディカリズムの原初的理念への回帰志向をもったものではなかったことを示すとともに、自由化政策の限界をも明らかとする。「自由化」は、その虚構性ゆえに支配階級の意図した効果を発揮せず、かえって「自由化」の果実である代表制度の開放を通じての労働運動の浸透という結果を招いた。一九六六年の組合選挙において、OSEの下部「代表路線」が、ブランコ体制の労資関係の枠組み自体を否定する勢力に席巻されるという事態に直面したOSEは、「自由化」路線を放棄し、労働運動弾圧の警察的手段へと転化する。以後のOSEは、労働運動の弾圧と、組織構造を時代に適応させようとする試みとを同時並行的に進めてゆく。しかし、経済発展に伴う格差の拡大への不満を原動力とする労
八
働運動の台頭を抑えることはできなかった。 以上、OSEの役割を簡単に振り返ってみた。結論とし
ては、OSEは、資本寄りの立場からの労働統制、労働の資本への従属という体制の基本軸を保証するための機構と して用いられた。従って、そのイデオロギーである国民サ
ンディカリズム(生産者自治Ⅱ組合を通じての国政への参加)は、この基本軸を粉飾する役割を担ったといえるだろ
う。だが、この基本軸は、軍事的勝利がすべてに優先する戦時下という、特殊な状況下で定められたものであるだけ に、経済的合理性が追求される平時においては変わって行
かざるを得ないものであった。結局のところ、労働統制がアウタルキー政策という、自己完結した閉じた世界でしか有効に機能しなかった原因は、この点に求められる。 ブランコ体制においてスペイン・ファシズムは二つの役 割を担った。労働統制とプロパガンダである。小論では、 その内の労働統制について概観したわけだが、これはあく までも法制度上の分析に留まるものであり、労働現場の実
態面での検証や、農村組合に関しての言及を欠くものであることは言うまでもない。今後は、これらの局面について
の研究が、ブランコ体制を支えた一ファクターとしてのスペイン・ファシズムについて理解を深めるために必要となブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) るだろう。
註(1)「ファランヘ」に含まれる、あるいは合流する政治運動は、以下のように四つに分類することができる。①JONS(国民サンディカリスト攻撃会議]目白のQの○mのロのゴロ三四go目}の白s8ニの白)’一九一一二年十月一日結成。②スペイン・ファランヘ(ご}目、の房己目・一口)’一九三一一一年十月二十九日結成。③国民サンディヵリスト攻撃会議のスペイン・ファランヘ(宙一目、の房□目・}ロロの一口の]■ご日の○【①ロの弓四三四口。ご巴の白so四二の国)(同国Qの]口の]○三の)’’九一一一四年一一一月十四日、①と②が合同。④伝統主義者とJONSのスペイン・ファランヘ(FET(恵一‐四コ、①国のロロリ○一四日HmsQop巴】の白ごQの一回の]巨口(口のQの。〔のロの‐ゴロ三四go目}のごS8}】の白)’’九一一一七年四月十九日、「政党統合令」により③と伝統主義者(カルロス党)が合同。但し、一九四三年九月一一十一一一日の指令により、これを「政党」と呼ぶことは禁止され、以後は「国民運動」あるいはFETと呼ばれた。の白ご|の】○・審目の。この、己菖8用侭言の』畠ロムや忌・二四sの。□(三m8口のご)」受『も』胃以下、「政党統合令」公布後のファランヘについては、FETと表記する。
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 ̄
九
(2)の三国の】句【&のRニシニ屋【O・}の②・田ご言8&昏巨貴伊・己・P]君□(」の(・&・]C圏)》bb」ロニー」ヨ。但し、同書に収録されている綱領はFETの「二六ケ条綱領」であり、「二七ケ条綱領」から他勢力との提携を拒否する第酊条を削除したものである。以下、二七ケ条綱領の引用は第二七条を除き同書による。(3)拙稿「労働憲章と国民サンディカリズムーフランコ体制の労働統制についてl」「秋大史学」四四号、一九九八年、四五’四六頁。(4)S・G・ペイン、小箕俊介訳『ファランヘ党lスペイン・ファシズムの歴史』れんが書房新社、一九八一一年、二二七頁。(5)甸巨のHoQの一日国ウロ一○Qの》Qの日四目。□の」垣巽・のロ⑰ト昌の②コミsミ目貫8三&国Q」雪」七℃・竃1割.(6)○○]の⑫.。b・ロ(・b・」&。(7)前掲拙稿「労働憲章と国民サンディカリズム」、五五’五九頁。(8)戸門一衛「経済安定化計画の導入背景と展開lブランコ体制最大の経済転換」「スペイン史研究』二号、一九八四年、三八頁。(9)長谷川貴士「ブランコ体制と労働運動(1)(一九三九~’九七五)」『六甲台論集』(神戸大・院)三○巻一一号、’九八三年、一一○八’一一○九頁。(Ⅷ)シDmBo】P三一m色の一少・の。ワ『の一○の8日』の目○のQの}の日S8‐ 法政史学第五十五号
}】の閂巨。{HmpP巨厨{四》」垣】》l」》」回・のロ酊司。ご庁ロロロ・].(の□・)向包§pos・ミコロミミ⑰ミ○・国口『8-.局」@霊七・毛・(Ⅱ)囿四ごロp、》ロ苫の。宛の、ごョPb・淫四・(皿)一九四九年の段階での区分は以下の一一三組合。最終的には、産別組合は二八業種にまで拡大された。|》穀物○円‐のロ}①の一一卵果実および野菜同『日・のごロ・so(・のぎ○三‐○一冊一一一》オリーブ四率葡萄五》ビールおよび飲料六”砂糖七》木材およびコルク八亜牧畜九癖漁業一○血皮革業一一四繊維一二》製造業COヨのCQ。ご’三津金属一四魂ガラスおよび陶器一五》建設一六亜化学工業一七函燃料0.日宮呂ワーの一八蕊水利および電力’九蕊新聞・出版・グラフィックアート悪己の]・勺『のロのmごシ耳のの○国【一日の二○亜交通・コミュニケーション一一一“旅館業二二》保険・銀行・取引所の①、貝○口目8『因○一のロ一一一一一“興業と植民地物産(少の。【のごシロロロ一目・の冒忌の房烏。温□弓箭□&言号』回②冒号向いCロゴ○一・mmロ(】口、P岳乞・ロ・臣・)(⑬)シb回国BPO己・口芹・己・霞・(u)田口]【○巨【)の①ウ四の(国ロ・句HCB一二日風○円の(○句ロロg】。ご閂】①の睡日可の甸巴四口、】の(のごロso&因}】(P」c】@l」や『、.】ご抑甸【四口○①のFロロロ。ごロpQbp已勺【の⑰一○口(のQの.)・向』目⑮②口冨QsのmSgミヨ弓屋)の菖試の&ICのヨミペビロ己ロミ・○〆〔○Hg]@℃Pb・】四四・(旧)国一三○○gの声の①]口、ゴー・甸四一口ごmの固の己四do]ロロロロニの0吋の‐口は。□。〔斤可の句Hppoo-の(屋zのョ『の白芹のご・日叩向屋ご己のP苫、観旦。‐ 四○
この§ゴミこぐ○一・四つロ○・四」》舌・で・圏一口・屋・(肥)「代表路線」は、労働者の「社会部門」と経営者の「経済部門」とにさらに分けられる(長谷川「ブランコ体制と労働運動(1)」、二○九頁)。「代表路線」では、低い職階の者は直接選挙により選出されるが、高い職階の者は間接選挙及びFETの指名によって選出される(同論文、二○九頁注八九)。(Ⅳ)少で口BQPob・O-(・已・》」・(旧)ご己.(旧)商工会議所のような経営者の組織は、○のロの枠内でもその存続を許された。また、この時期に経営者達は産別組合内で労働者と分離して再組織された(国呈・貝・己・三・℃.』』←)。(別)ご己・己・圏団・(Ⅲ)長谷川「ブランコ体制と労働運動(1)」一二○頁。(皿)同論文、二一○頁。労働者五○人以上の企業は、必ず審査員会(企業の長と十人以内の審査員からなり、工場内の労働者・技術者・事務員により選出される)を設置すべきものとされた。しかし実際にはその設置は制限的であり、一九五三年には労働者一○○○人以上の企業、一九五六年には五○○人以上の企業にその設置が認められ、労働者五○人以上の企業で設置が認められたのは一九七一年になってからのことであった(同論文、二一○頁、注九六)。
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) (路)国&【○こ『)○℃・口(・ロ・鴎@・(皿)マルガリータ・エステベス「権威主義体制から民主体制への移行lスペインの場合」「論文集』(慶応大・院・法学研究科)二五号、一九八七年、三○四頁。(閉)長谷川「ブランコ体制と労働運動(1)」二二頁。(肥)同論文、一二一頁。(〃)団巴、。巨円.。b・O-(・ロ・田『・(肥)ペインによれば、「団体協定法」による団体協定の件数は、一九五八年に一件、五九年一七九件、六二年四一二件だったという(祠四目の.。言8用品言の七・」霊・)。ヒルズは、一九五九年に二○五件の団体協定が締結され、六万七九八○の企業、四一一一万三一一一一九名の労働者が影響を受けたとしている(二]の.○の。『ぬゆぎ巳菖・P・己・P」二Pp$P)。筆者は現在のところこれらの数値の食い違いについて確認する手段を持たないため、両説を併記するとともに付表には最も詳しいアパラシオのデータを用いた。(四)長谷川「ブランコ体制と労働運動(1)」二一一一頁。(別)四】}}の》○℃・口(・己・空乞・(別)国】」}の》○℃・ロ戸己・】ミ・ヒルズの挙げる、以後のストライキ発生件数は以下の通り○一九六三年七七七件一九六四年四八四件一九六五年一一三二件
四
一
一九六六年一七九件一九六七年五六七件タラゴナでの第四回組合集会における、OSE報告。但し、国】一一の6℃・三・℃.】ミ・より再引用。(皿)国四一(・貝○℃・三・℃.』色I医」・’九六四年に結成されたマドリード労働者委員会は、元々は純理派ファランヘ主義者と共産主義者との合作の産物である。(鍋)Pの】○円、口已OmQの}固のBQoQの①ロのHoQの$ヨ・のロトのど⑮⑫田富苫只ロ)旨の言(ロ{のPロロ・可》l」CP・(別)「国家組織法」以前の六編の基本法が改正され、一九六七年四月二十日に公布された。原誠、小林利郎、エンリーヶ・コントレーラス、牛島信明、黒田清彦編「スペイン・ハンドブック』三省堂、一九八二年、四五○’四五一頁。(鍋)国]一一の.。□・ロ芹・ロ・】缶・(弧)ご己・(師)国巴{。E【.。b・口(・ロ・田②.(胡)勺四目の.写冨8否、言の七・J詔・ブランコ体制においては、「労働憲章」第二条第四項の規定により、「偉大なる決起の日」七月十八日が、労働を讃える祝日とされていた。(胡)国】一一の》○℃・臼(・己・砦助・(仙)旧の】の日日nm]Q①』「Qの[のワ【のHoQの巴「」。①皀叩い⑮ビ⑩⑫甸巨ヨーロロ『ヨの苫『ロ行②》CD・】』『l】『。.(虹)職能団体については(蛆)を参照されたい。(岨)竹村英輔「イタリアの労働憲章」東京大学社会科学研究 法政史学第五十万号
所編『ファシズム期の国家と社会(5)lヨーロッパの法体制』東京大学出版会、’九七九年、二七四頁。(蛆)組合内の三種の職能団体の内、最上位に位置するのは職能同盟(□己。□)であり、労働者・技術者同盟(ロヨョロの日国富]&。『の⑰『日のC己8の)と経営者同盟(ご己。ごQの向日ロ①の口1.の)の一一つが存在する(第一一一一条第一一一項)。任意団体である職能連合(少のCQ囚Q目のの)は、経営者・技術者・労働者が個別利益の防衛のために構成することができるが、それぞれ組合内で対応する職能同盟に統合される(第一一一一条第一・’一項)。職能集団(シ、『巨冨9.コのの)の位置付けは不明な部分があるが、職能同盟の下位機関として扱っている。(坐)「組合法」公布に伴い、一九七一年新設された官庁。組合関係省大臣に組合全国代表は従属するものとされた。思百P田ご苫8用侭冒のも.□夢Ppつ・厨}〔・巨『6℃・口(・ロ・函一国・(妬)「組合諸結社(引用者注l職能団体)は、組合活動実行の可能性に乏しく、組合の労働者代表は、OSEの代表且つ労働者の代表という矛盾を担っていたので、この法も、労働者に要求を満足させる手段を与えなかった。」(長谷川「ブランコ体制と労働運動(1)」、二一四頁、注一一一一。)(妬)国四【○口[・CD.n房・ロ・】全・(⑭)ご己.(咄)中塚次郎「ブランコ独裁($器年l」召口年)」『歴史学
四
一
一
(付記)本論において史料として利用した、『基本法伊旦のの句目‐&日目巨のの』は、愛知県立大学の山本哲先生の御好意により参照させていただきました。ここに記して改めて感謝の意を表します。
ブランコ体制とスペイン組合組織(大谷) 研究」六九○号、’九九六年、’二一頁。
四=
 ̄