会化」と政策形成(3)
著者 申 龍徹
出版者 法学志林協会
雑誌名 法学志林
巻 101
号 2
ページ 147‑197
発行年 2004‑02‑09
URL http://doi.org/10.15002/00005689
はじめにl視角と対象第二章都市計画公園の変容と衛生行政の公園観一都市公園政策を取り上げる理由第一節都市計画法制と震災復興計画公園二分析視点と方法l分析軸としての機能の社会化につい第二節公園用地の創出I「3%公園地留保」と受益者負
て担三研究の制約と展望について第三節東京緑地計画と防空緑地四本稿の構成第四節児童公園の形成と厚生行政の展開第一章近代的都市公園の発祥と伝播(以上、一○○巻三号)第一節初期都市公園の形成第二節太政官布達公園の展開第三節遊園から都市計画公園へ第四節初期公園論の展開1枚民官思想の一断面(以上、一○○巻二号)
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化一と政策形成(三)(申)’四七
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」 と政策形成(三)
申
龍
徹
一「戦災復興計画基本指針」と「再検討」
明治六(一八七三)年の太政官布達第一六号から戦前における東京都の公園の管理は、府と市によって担われてい
た。すなわち、明治三一(一八九八)年の東京市制実施までは、東京府下一五区の公園は府知事によって管理運営さ
れていた。それ以降は、東京市長が府知事の監督を受け、内務大臣の認可のもとで市区改正による設計公園の新設・
整備を行う一方、市独自の公園用地買収や改良を進めていた。しかし、公園の迅的整備は震災復興計画によって大幅
な拡張をみたものの、震災復興事業の完了とともに東京府は、公園緑地に対する方針を変えていくことになった。す
なわち、主に「東京緑地計画」の推進を通じて山岳地帯の景勝地における便益施設や保護施設に中心をおいた健民施
策から日華事変以降の「防空」が当面の目的とされ、緑地帯計画における大緑地の整備だけに限定することになった。
他方、東京市においては、市域合併にともない新市域となった地域に区画整理事業・都市計画公園を通じた公園の
新設にかかわっていた。また、民間人の有志による公園の寄付や恩賜公園が最盛期を迎えていたことなどが重なり合
い、戦前の公園は蟄的な面においては大幅な進捗をみたものの、その機能は「施設化」の上に限定されるものであっ
た。しかも、このような機能的に歪められていた公園緑地の量的拡大は終戦後の混乱期において、自力・他力によっ
第三章量的拡大政策と公園機能の複合化
第一節戦災復興計画と都市公園の消滅 法学志林第一○一巻第二号
一
四ハ
て消滅していくことになる。その主な理由は、公園の法制度の不備と管理活動の欠如であった。これらは「空地
性」・「永続性」をその制度的規範とする公園政策においては致命的な要因であり、その結果は、終戦後の困難期を通
じて多くの公園の転用ないし廃止に直接結びついていた。
戦災復興事業の最高指針である「戦災地復興計画基本指針」は、内務省国土局計画課が中心となって方針の策定を(1) 行い、昭和二○(’九四五)年九月七日に代表府県の都市計画主務課長を召集・討議し、|応の成案を得た。そこで、
同(一九四五)年一○月一二日に全国都市計画主任官会議を開き、戦災復興という新しい事態に対応するための「復
興基本方針」を示し、同(一九四五)年一二月三○日に閣議決定された。これにしたがい戦災復興計画の所管官庁と
して「戦災復興院」が設置され、土地利用計画、街路計画、駅前広場計画、緑地計画、緑地地域などの各種都市計画(リ』)施設の計画標準については、昭和一一一(一九四六)年九月以降戦災復興院より順次通達された。
この戦後最初であり、最大となった「戦災復興計画基本指針」(昭和二○年一二月三○日閣議決定)における公園
緑地関連事項は、「東京緑地計画」において示された「緑地」という空間概念というよりは公園を個別施設として見
倣していた。その緑地政策の中においての公園は、「公園運動場、公園道路其の他の緑地は都市、集落の性格および
土地利用計画に応じ系統的に配置せられること、緑地の総面積は市街地面積の一○%以上を目途として整備せられる
こと、必要に応じ市街外周において農地、山林、原野、河川等空地の保存を図る為緑地帯を指定し其の他の緑地と相(3) まって市街地への編入を図ること」などが決定された。
ところが、当時の経済的状況などの考慮という側面からこの戦災復興計画の規模についての「戦災復興都市計画の
再検討に関する基本方針」(以下、「再検討」)が行われることとなった。この「再検討」の目的は、過大な街路計画、
都市公園政策の歴史的恋忍過程における一機能の社会化」と政策形成(三三申)一四九
法学志林第一○一巻第二号一五○広場計画、緑地計画などの縮小、羅災地における建築制限の緩和、区画整理事業の縮小による三か年計画の立案など
であった。しかし、三か年の期間に関して、経験や事業費の縮小は戦災復興計画の意図を損なう恐れがあることなど(4) が指摘され、結局「五か年計画」となった。この「再検討」においては、個別施設としての「児童公園」および「運
動場」が公園計画の中心に置かれていたが、それは、前述した戦前の内務省・厚生省の公園に対する基本方針が連続
されていることを明確に示していた。この基本方針は、続く「戦災復興都市計画再検討実施要綱」にも影響を与え、
閣議決定された「戦災復興都市計画の促進について」の「三)公園、緑地」項の中では、「公園緑地の計画について
は出来得る限り縮小することとし、とくに焼残りの家屋の多い公園緑地或は帯状の緑地で広幅の街路と重複のきらい(5) のあるものは之を廃止する」との内容が示された。その内容は「一一一事業(七)公共空地事業」において、「用地の確
保に重点をおくこと、簡単な整地と最小限度の施設を行って一応利用に供すること、事業は児童公園の整備に重点を
おき大人の利用する運動広場の如きは簡単な施設に留めることなどの方針に沿って検討し事業の節減に努力する―よ
うに注意を促したものであった。
以上の方針に基づき行われた「再検討」により、圭丞泉都においては、公園緑地の事業費が当初計画の約一五%の一
○億円となった。これによって、吉星泉の公園緑地は、消極的な一‐現状維持」ないし戦災地の一部復興だけにと留めざるを得なくなった。この「再検討」の縮小方針に先立って、終戦後の各種都市計画施設の計画標準については、終戦の年八月末から内務省国土局計画課を中心として街路、広場、公園などの計画標準ならびに換地計算法、土地区画整理事業実施要綱などの再検討が先行されていた。ところが、この「戦災都市復興計画」という「特別都市計画法」に基づいて計画を決定した理由は他のところにあった。すなわち、「戦災地復興都市計画基本方針」の内容が示すよう
二戦災と公園の消滅
戦時・戦後直後における公園の被害や消滅は、戦災者の仮埋葬・仮設住宅地の建設・駐留軍接収・戦災者による不
法的占有という戦災による「直接原因」と、農地解放と政教分離政策等の「戦後改革原因」、管理規則の不備によって統一的な管理活動の不在を生じさせていた「法制度要因」によって区別される。しかし、戦後改革及び戦災の直接被害という社会状況要因より、法制度要因のほうが、公園行政においてはもっとも根本的な問題であった。昭和二○(6) 年から昭和三○年にかけての一○年間の間、失われた公園地は全部で一六一二か所、面積にして約九三万坪であった。中には、競馬・競輪・オートレース用地二九か所、約二五万坪)なども含まれていた。その上、公園地内における施設物の設置に関する可否問題もこの時期多く見られたが、日比谷公園内における近代美術館の建設問題や上野公園(7) 内のプロ野球の殿堂建設問題、新宿御苑におけるプール建設問題などがその代表的事例であった。
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一五一 に、市街地の大部分を焼失したこの際、新しい「都市改造」を行うという旧内務省の思惑がその中に潜んでいた。それは、大正期以降の各種都市計画が政治的な理由により挫折してきた経験があり、市街地における被害の復興に留めるではなく、人為による戦災を震災復興のような好機とし、帝都改造を超え全国の改造を射程にいれていたのである。この際の各種標準は、昭和八(一九三一一一)より決められていた各種都市計画標準について検討を加え、戦災復興計画標準として決定したのであった。「戦災復興都市計画標準」としては、昭和一一一二九四六)年一○月一日の「戦災都市における土地利用計画の設定について」(復計第一九三号)の戦災復興院計画局長、建築局長連名通牒ならびに街路、駅前広場、緑地計画標準、緑地地域指定標準などがあった。
法学志林第一○一巻第二号一五二
他方、直接な戦災要因として、大きな被害をもたらしたのは公園緑窮地の「農地化」であり、その次が昭和一八二
九三三)年の閣議決定によって行われた金属回収および比較的大きな面積をもつ公園緑地の軍用基地化、兎泉空襲に
よる被災者の処理によるものであった。すなわち、戦時中における食料の増産のため公園緑地が臨時農場化され、多
くの公園緑地がそのまま戦後の農地開放の対象とされた一方、「金属回収要綱」によっては、多くの公園に設置され
ていた金属外柵、遊戯器具、銅像などが回収され、井の頭公園にあった杉の大樹木の多くも戦災死者収納棺材として(8) 伐採された。また、奉丞泉空襲の後一一万人の死者のため猿江公園、上野公園、隅田公園など一一一○か所、面積にいて一
万坪の公園が仮埋葬地となった。その際、非常措置屍体処理事務が通常時公園業務の一部とされ、葬務関係事務を担
当していた公園緑地部が一括して担当した。これらの被害内容については多くの公園関係文献が取り上げていること
を勘案し、ここでは公園の消滅ならびに公園地の転用にもっとも大きな被害をもたらした「農地解放「|と「政教分
離」および公園管理に関する制度不備および活動の問題により廃止まで至った「虎ノ門公園」問題に限定して述べる
ことにする。
三農地解放と公用公園緑地の廃止
戦時中において大面積の公園緑地が食料増産のための基地として考慮されるのは、昭和一八(一九三一一一)年頃からであった。東京都においては「大緑地増産協力臨機処置要綱」が決められ、都市計画事業により買収済みの緑地の大
部分は農耕地に振り向けられた。その上、東京都有財産条例第六条により臨時かつ特別に当該緑地の地元の農事実行組合に貸し付けることとなった。その際、土地使用料は旧来の公園地使用料などとは関係なく、附近の慣習的小作料
を勘案し、極めて廉価にし、その生産品から一定を供出させ大緑地造成のために動因されていた勤労報国隊の用に供
するほか、都下動物園の飼料に充てられた。
このような戦時中の公園緑地の農地化はしばらく続いたが、昭和二二(一九四七)年一一月に政府から農政第二四
六○号「土地区画整理施行地区二関スル自作農創設特別法第四号ノ指定基準等二関スル件」が各知事宛に通達され、
公園緑地の農地化を本格的に推進することになった。この通達の主な内容は、「特別都市計画法による区画整理施行
地区については、全地域中一割までの農地は指定する。ただし、|団地に三町歩以上のものは指定しない。……道路、
公営住宅等、公用または公共用予定地で、昭和一一三年一一一月一一一一日まで事業計画を実施する見込みのないもの[は農
地として指定する]」【[]は筆者注】とのことであった。これを受け、各都道府県においては「土地区画整理地区
等指定委員会」が設けられ、公園・緑地・墓地用であって買収済みの公共有地の内、現実に農耕地となっている土地
を本来の目的に戻すべきか、農地となっている現状を尊重しこれを永続させるために本来目的である公用を廃止すべ(9) きかについての議論が展開された。しかし、公園・緑地を存続しようとする「存続論」よりは、食糧危機に際し現実的な増産政策の必要性が優先された。昭和二二(一九四七)年一○月に農地解放に関する通達が出され、「土地区画整理施行地区に関する自作農創設特別措置法第五条第四号の指定基準等については、既に昭和二二年農政四六○号において通達したが、公園緑地等都
市計画法第一六条第一頁の施設に関する同法同号の指定とその他の取り扱いも、同通牒によって処理されたい。……
公園または公共用予定地には、公園緑地も含まれているが政府において保有する場合でも食料事情が好転するまでは
農地を公園緑地とする」とその理由を説明していた。この農地解放によって、戦前の公園緑地の六三%、面積にして
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一五三
封建社会において社寺・神社は社会を櫛成する重要な施設とされ、幕府は社寺を保謹し、朱印地・除地下付の制度
を行ってきた。江戸時代においてこれらの社寺は膨大な土地を所有しており、自給自足が可能な状態であった。しか
し、明治新政府の「上地令」によってこれらの社寺所有地は公収され、従来直作の土地で税金を納めていたものだけ
が課税の対象から除外されることになった。その結果、社寺の経済が急速に崩壊し、政府はその救済を目的として、
明治三二〈一八九九)年四月に「国有土地森林原野下戻法」を公布した。それは、社寺上地処分または官民有地区分
によって官有地に編入され現に国有に属している土地について、その所有または分収の事実があるものに限り、主務
大臣に下戻の申請ができるようにしたものであり、申請の結果によって正式に下戻を受ける仕組みであった。その際、不許可によって行政裁判をかけられることもしばしばあっため、明治政府は「境内地が朱印地・除地であることだけ 四政教分離と社寺境内地公園の消滅大政官布達公園から戦前にかけて、公園用地の多くが古来名所や社寺境内地を物的基盤としてきたことは、すでに述べたが、旧社寺境内地というのは元来官有地とされていた土地であった。とくに、明一工ハ(一八七三)年の公園地指定以降、東京において設置された公園の中、麹町・湯島・白山・四谷などは神社の境内地であり、その神社の要望や市区改正設計によって公園地として設定された。しかし、この社寺境内地に公園を設けることには複雑な歴史的問(川)題が潜んでいた。 法学志林第一○一巻第二号一五四
約一四○万坪あまりが農地として解放され、次に述べる「政教谷藤堅による社寺境内地公園の消滅とともに、戦後公
園緑認地政策に大きな量的被害をもたらした。
東京において昭和二一一年から昭和三○年にかけて解除された面積は全域・一部合わせ、約一二二万六千坪であった。すなわち、昭和二○二九四五)年の終戦直前に都市計画決定を見た公園緑地は、約四六一万坪であり、実際に事業を行った面積は約二九一万坪であった。が、この「農地解放」と「政教分離」によって消滅した境内地公園の総面積(Ⅲ) は、その半分以上の約一五○万坪であったことから、その被害面積の大きさがわかる。 和二二(一九四七)公用廃止となった。 で、その私有権があるという証拠にはならない」との立場で対応していた。しかし、明治四三(一九一○)年に至り、上記の境内地が朱印などによって免除されていたことは反対の証拠がない限り私有地であるとの判決があったため、境内地公園の還元を求める請求が数多く起こり、東京においては芝・浅草公園地の一部が所有権の移転が実現され、浅草公園地は消滅に至った。
この社寺境内地の公園用地問題は、大正一四(一九二四)年の「国有財産法」の公布の際、社寺境内地は新たに
「公用財産」(法第二条規定)に指定され、「従来より引き続いて寺院仏堂の用に供する雑種財産はその用に供する間
は無償でその寺院仏堂に貸付したもの」(法第二四条規定)と定められ、私有権の行使が容認された。しかし、この
ような一時的処方では公園用地の問題は完全な解決に至らず、昭和一四二九三九)年の「宗教団体法」を経て、昭
和二二(一九四七)年の「宗教法人法」においての完全な政教分離にともない、社寺境内地の拘束は完全に解除され、
五虎ノ門公園問題と公園管理の不備
終戦機における公園の消滅問題はその原因が、かならずしも戦災に限らないところに問題の所在があった。ここで
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)’五五
法学志林第一○一巻第二号一五六
取り上げる「虎ノ門公園」問題は、数多くあった公園の消滅ないし廃止の一つに事例に過ぎないかもしれない。しか
し、公園の設置よりむしろ、設置されている公園を管理していくことの重要性を認識させた戦後最大の事件であった。
この虎ノ門公園の廃止をめぐっての論争は、大きな政治的議論としてその後一○年も続くことになったが、これが後
に管理法制的性格の強い「都市公園法」を生むきっかけとなった。すでに述べたように、大政官布達以降の公園地は
地盤国有地であり、基本的には内務省所管の公共財産としてその管理は地方機関であった府県知事に委任、市町村に
再委任される構造であった。そのため、国有財産でありながらも実際上の管理において、本来公園の目的にそぐわな
い不適切な管理が公園軽視という戦前の公園賛沢論の中で連続していた。
公園の管理については、大正三(一九一四)年に公布された「公共団体ノ管理スル公共用地上物件ノ使用一一関スル
法律」(法律第三七号)の第一条において、「公共団体二於テ管理スル道路、公園、堤塘、溝渠其ノ他公共ノ用一一供ス
ル土地物件ヲ濫二使用シ又ハ許可ノ条件一一反シテ使用スル者二対シ、管理者ダル行政庁ハ、地上物件ノ撤去其ノ他原
状回復ノ為必要ナル措置ヲ命ズルコトヲ得」と規定していた。この法律条項の趣旨は、公園が不法的に占有・使用さ
れることに対して公園管理者である地方長に公園管理の法的根拠を付与したものであるが、厳守されていなかった。
この公園に関する不適切な管理について、当時の建設省では一‐標記公園[大政官布達公園]は、明治六(一八七
三)年太政官布達第一六号に基づき国が直接公共の用に供するために設置し、これを公共団体に管理せしめている由
緒ある公園であるが其の後これらの公園の区域内にその機能を著しく害すると認められる施設が設けられているもの
がある現況を鑑み、とくに当該公園中地盤が国有に属する区域内にこれらの施設を公園区域外に蒋転し、若しくは公(吃)園施設に切り替一えるなど適切な措置を講じ、もって公園の管理運営の万全を期せられたい」【[]は筆者注】と述べ、
六公園の消滅経緯(旧)「虎ノ門公園」は、市区改正設計によって公園に決定され、大正二一(一九一四)年に開園した旧設計公園であった。
この公園は面積約二千坪で、公園中央には旧江戸城外濠の石垣の一部が残されていて、その周りには小さな池が造ら
れ、一種の史跡公園であり街区公園でもあった。この公園の潰廃問題が起こったのは、昭和二六(一九五一)年のこ
とであった。終戦とともに駐留軍によって接収されていた「虎ノ門公園」の一部が解除され、ニューェンパイャーモ
ーターというフォード自動車の関連会社がその部分の使用を許可され、外国車の修理・部品の販売・ガソリンスタン
ドなどに供用していた。ところが、使用許可条件となっていた四か年の期限が終了したにもかかわらずそのまま使用
を続けていたため、この不法占有状態が国会の決算委員会において取り上げられ、速やかに本来の公園に復元すべき
との姿勢で還元が求められた。
この公園の復元問題に関して、関連する行政側の意見は二つに分かれていた。本来の公園への復元を主張したのは、
東京都と建設省であり、公園として機能を失っている現状を重視し公園を廃止し雑種財産として処理すべきであると
の立場を執ったのが会計検査院と大蔵省であった。このような図式が成立するのは、公園用地をめぐって戦前から続(M) いてきた構造的な対立が潜んでいたか實bであった。
この「虎ノ門公園」の用地還元問題は、大蔵大臣と建設大臣の話し合いにより、公園を廃止しその用地は普通財産
として大蔵省に引き継ぐことで合意した。しかし、国会審議においては依然として公園として復元を望む意見が多く、
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一五七 その管理の徹底を指示していたものの管理上の混乱は拡大されていた。
法学志林第一○一巻第二号一五八
大蔵省も公園復元の方向で訴訟に持ち込んだ。法務省が国側の当事者として一○年におよぶ訴訟の末、裁判所による
和解勧告が出された。その結果、公園地は国有財産として払い下げとなり、三井不動産株式会社の所有となった。
この「虎ノ門公園」が廃止されるに至った決定的な原因は、当時のGHQによる東京都への「公園地使用要請」で
あった。すなわち、昭和二一一一(一九四八)年頃からニューェンパイャーモーターという会社が公園地を使用できるよ
うGHQと通産省からの要請が重泉都に寄せられた。奉丞泉都は都議会の承認を経て使用させることを建設省へ照会し
たが、建設省は当該公園地が「地盤国有公園」であることを理由に使用面積(六五一坪)、使用期間(四か年)の条
件付で承認するとの回答を出し、翌昭和二四(’九四九)年二月に衷泉都から使用許可が下りた。
しかし、この措置について大蔵省が「地盤国有公園を第三者に貸し付ける場合は、大蔵省において貸し付けるのが
当然であるから、公園を廃止して変換すべきである」と反発し、これに対し建設省は「国有公園地は普通財産である
が、現在は普通財産のうち公共物として建設省の所管となっている。虎ノ門公園は、四か年間暫定的に貸したもので、(旧)期間満了の際建築物を撤去させるのが適当で、期間満了前に解除する}」とはできない」と反論していた。
この問題の直接的な原因は、最初に建設省が使用許可時につけた条件における公園地の建物に関する項目であった。その条件とは、期間満了後の解体が容易な木造建築物としたことであった。しかし、兎泉都においてこの虎ノ門の公
園地が甲種防火地帯であり、木造二階建ては許されないので解体や材料の再利用などを考え、組立式の鉄骨構造物を
許可したことが大きな問題へと拡大していた。その結果、公園地は大蔵省の主張通り、建設省から用途廃止後引継ぎ
で渡され、国有財産として引き下げられたが、本来「空地性」と「永続性」を原則とした公園地が行政側の管理不十分により公園地としての機能を失い、開発業者に奪われたことに問題の深刻性があった。
七公園の管理問題とその対応
他方、戦後間もない時期に公園行政の関する問題点が、ただ都市公園の管理にかかわる法制度の不備だけに限定さ
れていたとはいえない多様な原因があった。その原因は広く公園関係者の間で認知され、ほぼ共通的な認識として議
論が展開されていたが、「公園思想の普及、公園愛護の酸成、都市緑化、公園計画標準、レクリエーション計画、社寺境内地公園共用、駐留章による公園地接収問題、公園管理行政機構の問題」などが主な内容であった。
しかし、このような諸問題の根本にあったのは戦前から貫いてきた公園に対する軽視的認識、すなわち公園や運動
場などの屋外レクリエーション施設が、直ちに個人の経済生活に結びつかないものであるという「公園不要論」であ
った。その主な内容は、「公園に対する一般市民の理解不足、レクリエーション行政における無計画性であり、その(服)無関心と計画性の欠如により公園計画の困難、用地問題と財政問題が生じている」と指摘されていた。すなわち、賛
沢論ないし不要論のような公園軽視の社会的風潮が都市における公園整備の必要性に影響し、計画と実施における大
きな乖離を生じさせる原因であった。そのため、この時期の公園管理をめぐる議論の中には、当面の公園計画におい
て公園用地の確保や財政的措置という現実的手段をいかに確保していくのかについての議論も盛んに行われていた。公園は用地を取得した時に事業の八割を完了するという行政慣行がうまれ、公園の設置の第一歩はなによりもその用地確保に傾斜していた。それは、国有地の公園化および戦後の「国有財産法」の改正にともない行われた旧軍用地の公園化などが公園の量的拡大に寄与したように、国庫補助(金)による公園地の確保が必須であるとの認識に影響さ
れたものであった。
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化「|と政策形成(三)(申)一五九
その上、昭和二二(一九四七)年の四月に「地方自治法」(法律第六七号)が制定され第二条以下の規定において、
「普通地方公共団体はその区域内におけるその他の行政事務で国の事務に属しないものを処理する。三、公園、運動
場、広場、緑地、道路、橋染、河川を設置し若しくは管理し、またこれらを使用する権利を規制する」ということが 怯学志林第一○一巻第二号一六○
具体的な用地確保の具体的な方法としては、「受益者負担による公園設置費用の捻出、水利地域税の活用、超過収
用による余剰地の売却による経費利用、区画整理による公園地の確保」の積極的な活用のほかに、「公共団体による
計画地の先買権の法制化(ドイツ)、市町村計画法による付加価値税・緑地帯法の国家融資里々医(イギリス)、公園
区における課稗瞳確の設定(アメリカ)のほか、目的税の復活、公園特別会計ないし基金の設定、特別融資の一々圧、民
間一訂付金や後援会への援助」などの諸外国の法制度も研究されるべき論点として取り上げられていた。また、将来物
価賃金などの上昇にともない公園の維持管理費において問題が生じることを考え、平均交付金の算定基準に公園面積
を加えるための法的措置の検討とともに入園料使用料等の収入の増加、地元後援会の設置(公園愛護会など)、失業
対策費の活用などが考慮すべき事項であった。
他方、現行の都市計画法だけでは、公園の管理に大きな問題点が内包されていることが、徐々に認識されてきた。
それは、太政官布達以来の地盤国有公園の管理について、布達に基づく規制策は明確なものではなく、戦後に制定さ
れた「地方自治法」の公共施設管理規定だけでは公園維持管理および運営において生じている問題に対応できないこ
とへの懸念であった。実際、多くの公園地が管理不足や管理規定の不備によって、転用されつつあったため、公園財
政の確立とともに公園管理の適正化、管理基準の作成、保勝地の公園指定などを盛り込んだ公園法制の新設が求めら(、)れていた。
定められ、公園事務の処理が自治体に属することとされた。
ところが、昭和二三(’九四八)年の六月に制定された「国有財産法」の第三条二項の「二、公共福祉用財産」の規定に、「国において直接公共の用に供し、若しくは供するものと規定した公園若しくは広場または公共のために保全する記念物若しくは国宝その他の重要文化財」という条項が設けられたものの、現実の公園実態、すなわち、現存する市町村の公園が法規定通りの「国において直接公共の用に供する」ものではなかった。そこで、建設省は検討の
末、「国において直接、道路、河川、水路、港湾その他公共の用に供する財産であって公共福祉用財産以外のもの」
と同法に規定されたいわゆる「公共物」として公園を扱うことにきめ、更に同法規定九条に基づいて、建設省管理の
公園を地方公共団体の長に委任維持させることとなった。戦前より太政官布達以来大部分の公園の用地は地盤国有であり、基本的には内務省所管の公共財産で、内務省(中(旧)央)か壷b府県に、また府県から市町村にその管理を委任、再委任管理するという機関委任の体制であった。国有財産
でありながらも実際の維持管理が自治体により、「かなり自由になされることで公園本来の目的に沿わない不適切な管理がまかり通っていた」ことが指摘されていた。それは、公園本来の目的が大政官布達のように遊園的なものへの
イメージが強かったこと、また公園の維持管理に関する費用の調達がほぼすべての公園で任される、いわば「独立採(脳)算制」であったことによって公園軽視の可能性はすでに初期公園行政から内包されていたのであった。
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)〈申)一一ハー
一「都市公園法」の制定
公園に関する単独法の必要性は大正期から専門家の間では重要な課題として指摘されてきたが、内務省の「公共財
産」と大蔵省の「雑種財産」という組織間の所有権に関する見識相違があり、長い間公園に関する単独法の検討は放
置されていた。しかし、前述のように、戦中から戦後にかけて公園の消滅や管理不備による廃嘘化が目立ち、公園に
関する単独法制定の動きは活発化した。公園の保存や設置に関する公園計画が「戦災復興計画」において扱われたこ
とにより、その施設基準や公園管理の基準などの検討も始まっていた。「都市公園法」案は、昭和三一(一九五六)
年に国会に提出され、四月に原案通りに可決され法律第七九号として公布された。同年九月には「都市公園法施行
令」(政令第二九○号)が、また同年一○月には「都市公園法施行規則」(建設省令第三○号)がそれぞれ施行された。
この「都市公園法」は、都市公園の管理を明確にすることに重点が置かれ、従来の慣習的な公園管理に頼ってきた
公園行政は都市公園に関する諸問題に対応できる基本的根拠をもつことになった。主な内容としては、「都市公園の
配置と規模、施設に関する技術的基準を決めたこと、公園敷地内における建蔽率を決めたこと、地方公共団体(公園
管理者)が公園管理者以外の者に公園施設の設置および管理を代行させる場合の規定が設けられたこと、公園施設以外の工作物などの占用の規定が定められたこと、公園管理者は特別な場合を除く他公園の全部または一部を廃止して
はならないことを規定したこと、公園台帳の作成保管義務の規定を定めたこと、国は政令で決めるところにより都市
公園の新設・改築に要する費用の一部を補助する制度を設けたこと」などであり、都市公園に関する管理上の対象と 第二節「都市公園法」の制定と公園整備の多様化 法学志林第一○一巻第二号一一ハーー
二昭和三○年代の公園管理状況
太政官布達による公園の開設から九○年を迎えた昭和三八(一九六三)年頃は、戦災復興事業がある程度進捗を見
た上、東京オリンピックの開催を控え、高速道路をはじめ幹線道路・地下鉄など交通網の整備、上下水道など公共的
な施設の建設・改造・拡張が急激に整備された時期であった。
しかし、このような急激な都市施設の整備が行われていたにもかかわらず、公園事業だけが施設の整備から管理ま
で劣悪な状況のままであった。この時期、東京都における都市公園の全体数は四四五か所で、その面積は約二一七万
坪(七一七脆)であり、公園管理にかかわる人数は八・三三人であった。それは、管理者一人の担当が平均七千坪の
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一一ハーーー 責任主体(第一、二条)および占用などの諸基準(第六条~第一○条)を条例によって明確に定めること(第一八(卯)条)が最大の特徴であった。また、|人当り都市公園面積の標準を六㎡に規定したほか、都市公園を九種類に分類し、(別)〈理)公園の敷地に対する建造物の建蔽率を二%、運動施設の場合五○%以内とするなどの詳細な基準が設けられた。
他方、都市公園の設置に関する戦後最初の基準は、昭和二六(一九五一)年六月に建設省が出した通達「公園施設(郷)基準制定について」がその最初であった。その通達によれば、公園施設基準の対象は、「地盤国有公園に属する公園
(国営公園を除く)、都市計画事業または特別都市計画事業および別途事業により営造物として設置した公園並び建設
中の公園、土地区画整理により生じる公園」であり、公園の配置その他公園計画上必要な事項ならびに公園の分類に
ついては昭和二一(一九四六)年の戦復第四八一号による「緑地計画標準」に準拠するようとし、各公園内施設の詳
細基準を通達していた。
三河川敷地の公園化
終戦直後の「特別都市計画法」および昭和二五(’九五○)年の「首都建設法」に代わって昭和三一(’九五六)
年の四月に制定された「首都圏整備法」はその目的を、「首都圏整備に関する総合的な計画を策定し、その実施を推
進することによって、わが国の政治、経済、文化等の中心にふさわしい首都圏の建設とその秩序ある発展を図るこ
と」(第一条)においてあったが、公園・緑地等の空地に関する事項は「基本計画」の内、。既成市街地、近郊地帯(路)および市街地開発区域の整備に関する事項」の中で取り上げられていた。また、昭和一一一二(一九五七)年には「首都
圏整備計画第一次一○か年計画」が樹立され、緊急の整備を必要とする公園緑地として、児童公園(一三○か所、約
一一一一一一他)、近隣公園(一一七か所、約五七胆)、大公園(三四か所、約三一八胆)、他に遮断緑地(一一一か所)を設けるこ
とが決定された。 法学志林第一○一巻第二号一六四
管理面積、施設利用者平均三万人に達していたほか、公園清掃の主力であった失業対策事業の場合には一人平均一、(別)四○○坪を管理区域として受持つという計算からは劣悪な管理活動の一面がわかるところであった。
また、未開設の都市公園の管理には、不当な占有や損害行為による問題が散在しており、公園の管理およびその利
用に深刻な被害をもたらしていた。たとえば、東京都の公園地として設定されている九四か所、九七万坪の未開設公
園地の中には、一二万坪余が不適格物件、すなわち、都営住宅・学校・病院・官公署建築の敷地として充当されてい
るものや戦後住宅の不足による宅地の一時的提供が立ち退き不可能となっているものが含まれており、管理活動の手
が届かないまま放置されていた。
他方、「首都圏整備計画」における全体の公園・緑地計画については、東京都市計画地方審議会の中に「公園緑地
特別委員会」が組織され、研究調査が進められた。この「公園緑地特別委員会」においては、「事業化不可能な計画
の廃止、その代用に河川・池沼・社寺境内・官公有地等の公共空地は積極的に確保するとともに、準公園的施設の保
護」のほか、「小公園は都市の中高層不煙化計画実施によって立体化後生じる空地の確保し整備する」といった内容(邪)の調査結果が都市計画地方審議会に報告された。この報告に基づき、公園緑地に関する実効性をともなった公園緑地
計画の大改定が行われ、昭和三二(一九五七)年一二月に建設省告示第一、六八九号として公示され、明治一一一六(|(幻)九○六)年の「東京市区改正新設計」以降の、都市計画公園緑地に関するすべての告一水は廃止された。
昭和三○年代後半から昭和四○年代にかけて都市公園の整備は主に、主要河川の公園化が進められた。この時期は、
自然保護思想の普及にともなう経済成長の歪みが、生活環境の悪化に連動した時期でもあり、自然的環境に対する保
護および保全に関する関心が高まり、各種の制度が法制化される時期でもあった。すなわち、昭和四○年代前半の公
害防止関連法制の整備をはじめ、昭和四二(’九六七)年から昭和四五(一九七○)年にかけて「公害対策基本
法」・「大気汚染防止法」・「海洋汚染防止法」・「水質汚濁防止法」・「公害負担法」・「公害紛争処理法」などの規制関係
の法制化のほか、昭和四七(’九七二)年には、「自然環境保護法」・「都市緑地保全法」・「生産緑地法」・「国土利用
計画法」などの自然の保全を図る法制が整備された。
こうした中、昭和四○年代前後して公園需要、中でも運動機能に対する需要の拡散にしたがい、用地費など事業化
に財政的負担の少ない河川の高水敷の都市公園化が盛んに行われた。これは、昭和四○二九六五)年に定められた
「河川敷地占用許可準則」により、大都市周辺部の河川敷地の公園化が容易になったからであった。すなわち、昭和
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)’六五
東京都における公園緑地の本格的な整備事業は、昭和四四二九六九)年度を起点としている。すなわち、昭和四
四二九六九)年の「東京都中期計画’六九」においてはじめて公園緑地が「中項目」に位置づけられ、昭和六○
(一九八五)年を目標年次とし、一人当たり公園緑地面積三㎡/人を基準値に都全域において三、七八○m(都立公
園「八九○烟を含む)の整備計画が決定された。また短期計画として、昭和四五年から四七年にかけて整備目標約(鋤)一一九○岨、経費約一七四億円が策定された。 法学志林第一○一巻第二号一一ハーハ
三五(一九六○)年頃までは河川敷地の公園化などに関する政策的動向はなかったが、同年一月に衷皐都建設局長が
建設省に対して問い合わせた結果、建設省からは「地方公共団体が河川法第一八条の規定により地方行政長の許可を
受けて河川敷地を占用し、これに設置した公園であっても、都市計画法第二条の規定により決定された都市計画区域
の存する場合又は同法第三条の規定により都市計画の施設として決定されている場合においては、都市公園法に規定
する都市公園に該当するものとして解する」(昭和三五年四月、建設計東第二四号)ということが回答され、河川敷
地の公園化への道が開かれた。この後の昭和四○二九六五)年には「河川敷地の占用許可について」(昭和四○年
建設省発河第一九九号建設事務次官通達)によって河川敷地の開放が正式に決定され、占用許可の際には公園緑地を
優先するよう通達されていた。その理由としては、児童の遊び場の重要性・緊急性とともに一般財源の不足に対する(邪)公園用地の確保が主なものであった。また、昭和四七(一九七二)年の「都市公園等整備緊急措置法」の制定以降、
都の財政における都市公園整備事業費が大幅に増額され、昭和五○年代からは近郊緑地の買収による公園化が進めら
れた。
他方、この「新都市計画法」によって都市計画の策定に関する権限の一部が特別区長に移譲され、区立公園の整備
は著しく進捗した。昭和四五二九七○)年における区部の公園整備量は全体として約三八○妃であったが、その一
○年後の昭和五五二九八○)年には約一、○三○埴にまで拡大していた。また、この「新都市計画法」の制定にはく釦)自然保護に対する市民意識の吉向まりの影響もあり、国分寺市の殿ヶ谷庭園の場合がその典型的な事例であった。
この「新都市計画法」における公園整備の基本方針は「市街地区域」に重点をおきながら、「既成市街地」、「既成市街地周辺部」、「新市街地」に区別され、それぞれの地域ごとの整備方針が定められた。まず、「既成市街地」にお
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一六七 原則として立てていた。 四「新都市計画法」と都市公園整備昭和四四二九六九)年の「新都市計画法」においての「都市公園」は、都市計画法の第一一条一頁二号規定、「公園、緑地、広場、墓苑その他の公共空地」の中に含まれており、その施行規則第七条(公共空地の種類)、同第二五条(公園の技術的な細目)によって規定されていた。また、建設省通達「都市計画法の施行について」のⅣ、「都(加)市施設に関する貢(四)」において公園の種類およびその名称を指一不していた。この「新都市計画法」においては、都市計画決定権限の変化にともない、同法第一五条一頁三号規定「一つの市町村の区域を超える広域の見地から決定すべき都市施設、または根幹的都市施設」については、都市計画の決定権者を当該知事の決定と規定していた。また、公園の整備については「市街化区域」の整備を重点的に行うものとし、市街化を促進する恐れのないものなどについては「市街化調整区域」においても定め得るが、住区を構成する基幹的施設である近隣公園・児童公園については、原則として「市街化調整区域」には定めないものとし、やむを得ない場合を除き、公園関連事業は施行しない方針を
法学志林第一○一巻第二号一六八
いては、小規模の都市施設などは市街地再開発事業や土地区画整理事業を通じて順次整備していくこととし、根幹的都市施設である大公園などの整備が優先的に取り上げられていた。つぎの、「既成市街地周辺部」においては、公共設備の整備が遅れている道路、公園などの都市施設の整備が優先された。そのための公共施設の整備計画を詳細まで定め得る土地区画整理事業の都市計画を早期に定めることとし、|っの地区には一つの近隣公園と四つの児童公園を
整備することが決まった。それにより一○年後の一人当たり公園面積は四・六㎡と想定された。
また、「新市街地」においては、都市の骨格となる一般公園から近隣住区内の必要施設である児童公園まで都市計画として定め、新住宅市街地開発事業、土地区画整理事業などを通じて大規模な面的整備事業を行うことが決まった。
しかし、これらの方針において注目される点は、既成市街地および既成市街地周辺地域において整備できないまたは
既成市街地において不足している公園必要面積の不足分を新市街地において補い、全体としては平均的公園面積の上
昇を念頭においたことであった。
他方、「新都市計画法」における公園分野の整備には、費用の分担が明確に示されていた。土地区画整理事業、市
街地再開発事筆志どの市街地開発事業によらない単独事業の公園整備に必要な経費については、用地費および施設な
どの工事費の全額を公共主体が負担することや、市街地開発事業による面的公園整備に必要とされる経費については、原則として面的整備を行う区域面積の三%に該当する用地の取得費用は面的整備を行う者が負担し、施設などの工事費用に関しては七割を公共主体が、残りの三割を民間が負担することになった。その上、既成市街地における面的整備事業の場合、整備区域の三%にあたる用地の購入が困難な時には一割を公共主体が負担しうるが、原則には開発者(犯)である民間が全額負担することとなった。たとえば、昭和四六(一九七一)年から昭和五五(一九八○)年までの一
五長期整備計画の必要と「中間答申」
他方、昭和四六二九七一)年に至って、戦後における都市公園政策の大きな転換を求めた中間答申が、「都市計
画中央審議会」(以下、「中央審議会』から出され、国営公園などの広域公園の整備を中心とする「量的拡大」政策
が策定されることとなった。建設省において都市計画の諮問機関として設置されたこの-1中央審議会」の答申がもつ
最大の特徴は、答申の主な内容が建設省の重要政策として成立するところにあるが、昭和四六二九七一)年の「都
市における公園緑地等の計画的な整備を推進するための方策に関する中間答申」をはじめ総計一二回の公園政策に関
する重要な答申が出されており、主に制度の創設にかかわるもの、都市公園整備の長期的計画の重点事業にかかわる(卿}もの、都市緑化施策の全般にかかわるものに大別された。そのうち、昭和四六(一九七一)年の「都市における公園
緑地等の計画的な整備を推進するための方策に関する中間答申」は、戦後の都市公園政策に対し、整備の体系および(狐)理論的基礎を提供し、都市公園政策の転換を促したものとされた。その内容においては、「環境問題への対応、民間
設備投資に対して公共投資の立ち後れたため社会資本の不足が深刻化、生活環境の悪化等による公共施設・サービス
へのニーズ増加、社会資本・生活基盤整備の課題、経済政策において『成長追求型』から『成長活用型』へ、『産業
都市公園政策の歴史的変避過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一六九 ○か年における市街化区域の公園整備に必要な投資経費の試算として、全体としては公共主体による投資額が一兆一、五○○億円、民間による投資額が七千億円で総計一兆八千七○○億円が総投資額として算定されていた。とくに、「新市街地」における投資額の二二.五%としていたが、それは「既成市街地」において不足している公園面積の改善のためであり、大規模の公園として整備することで、その不足を補おうとするものであった。
六「都市公園等整備緊急措置法」
戦後において都市環境の悪化が目立ち、生活における都市装圃の欠如は深刻さを増していた。戦前において確保さ
れてきた公園緑地はもちろん、民間において保存維持されてきた民有地等の急激な都市化と、それに連動した自然的
環境の宅地化や工場地化によって、都市における大避なオープンスペースの激減を招いた。
都市公園等の整備が本格的に行われるようになったのは、このような社会情勢の変化に反応した結果であるが、そ
の具体的な整備計画が打ち出されたのは、都市公園法の制定から一五年も遅れた昭和四六(一九七二年の都市計画
中央審議会の答申においてであった。当時は、観光や屋外レクリエーションに関する社会的需要も飛躍的に高まり、 法学志林第一○一巻第二号一七○
基盤整備型』から『生活基盤整備型』への質的転換」という社会状況の変化を指摘していた。その上、。仲的空間とし
ての「にわ」に代わる新たな空間の必要、公害および災害に対する都市の貧弱化、国民所得水準向上による社会的欲(鵠)求(レクリエーション機能)の増大などに対応する長期的政策の必要を促していた。
また、将来的な都市公園政策に関して長期構想を発表し、その長期構想においては、①環境対策の一環としての都
市公園行政の位圃づけ、②上位計画、都市計画法に基づく土地利用計画、都市施設等の計画との連携、調整・都市環
境渉遥脅のための基幹公園(住区基幹公園および都市基幹公園)の整備、③公害、災害防止のための公害、災害対策緑
地(緩衝緑地など)の整備、④広域レクリエーション需要に対応する大規模公園(広域公園、レクリエーション都
市)の整備などを取り上げ、その早期確立を至急な課題として掲げた。この答申は、「緑のマスタープラン」の全国
的成立をうながし、戦後低迷していた都市公園政策を量的整備に傾斜させる契機を提供するものであった。
健康やレクリエーションを大規模の設置を通じた量的拡大公園に求めることとなった。すなわち、都市公園の整備に
関する長期計画の策定の必要から、昭和四四二九六九)年に建設省において「都市公園問題研究会」が設けられ、{鍋)都市公園整備に当たっての財政問題や長期構想等が議論された。その後、スポーツとレクリエーション需要への対応
として出されたのが昭和四五(一九七○)年の「レクリエーション都市整備要綱」であり、後の昭和四七二九七
二)年には「都市公園等整備緊急措置法」ならびに「都市公園等整備五か年計画」が次々と打ち出された。中でも、
「都市公園等整備緊急措置法」は、「都市公園等整備五か年計画」(以下、「五か年計画」を骨子として、政府におい
て五か年計画を実施するための必要措置を講ずることや自治体が本計画に即して都市公園の緊急的な整備を目的とし
た戦後最大の計画であった。
この「五か年計画」における公園など整備の基本的方向性は、この「五か年計画」の策定が主な内容とされる「都
市公園等整備緊急措置法」とその母胎となった昭和四六二九七一)年の都市計画中央審議会の「都市における公園
緑地等の計画的整備を推進するための方策に関する中間答申」における、都市公園の整備が立ち後れた原因分析にお
いて明確に現れていた。すなわち、この「中間答申」は、都市公園が他の都市基盤設備に比べその整備が立ち後れて
いる主な原因を、「高度経済成長の過程を通じて資源配分が産業部門ないし産業基盤整備を優先的に行った他に、従
来の都市公園の整備が市町村単位で進められたために、大都市地域では広域にわたる都市公園の整備の体制が立ち後(師)れていた」と指摘していた。このような問題認識は、都市公園などの整備に対する予算措置の拡大と大規模広域公園
の整備の必要性に直接結びつき、「五か年計画」の策定および後の「都市公園法」の改正によって着実に現実化され
ていた・
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)
一
七
一
七「都市公園等緊急整備五か年計画」の実施
「都市公園等整備緊急措置法」と同時に策定された「第一次都市公園整備等五か年計画」(以下、「第一次計画」は、
昭和四七(一九七一)年度末の全国都市計画区域人口一人当たり都市公園面積約二.八㎡/人を、昭和四九(一九七
六)年度末までに約四.二㎡/人へ、五年間整備総面積約一六、五○○畑にすることを目標とし、総額整備費九千億
円の投資が決まった。この「第一次計画」によって整備された都市公園等の面積は約八、三○○順であり、この整備
量は明治六(一八七一一一)年の太政官布達より第一次計画前までに整備されていた全国都市公園面積約二三、六○○胆
の三分の一に当たる膨大な量であった。この「第一次計画」は計画終了年を待たず、計画年次を一年繰り上げて「第
二次計画」が昭和五一(一九七六)年に開始された。その後も「五か年計画」によって都市公園の急速な整備が進められた。たとえば、昭和五○二九七五)年度には 法学志林第一○一巻第二号一七二
この「都市公園等整備緊急措置法」(法律第六七号)はその目的を「都市公園等の緊急かつ計画的な整備を促進す
ることにより、都市環墳一の改善を図り、もって都市の健康な発展と住民の心身健康の保持増進に寄与すること(第一
条)」とし、対象となる「都市公園等整備事業」を法第二条の一一において、「都市公園等の新設または改築に関する事
業」として定義した。主な内壗ロには、「五か年計画」の策定とそのための財源措置を識ずることによって構成され、
「五か年計画」の期間内に行う事窒お実施の目標や量の設定を指示し、計画策定の際には経済企画庁および国土庁長
官との協議の義務づけが定められ、「都市公園等整備緊急措置法」および「五か年計画」が、上位計画としての経済
計画や国土計画(「全国総合開発計画」)の枠組において相関性をもって規定されていたことがわかる。
一「現状維持」の整備政策
明治六(一八七三)年に遡る都市公園政策は一○○年以上の歴史をもつが、第二次大戦後の高度経済成長以前まで
の都市には、農地、雑木林、社寺境内、個人宅地緑地など都市公園の機能の一部を代替する存在が、都市内に残って
いたこともあって、都市施設としての都市公園の整備はきわめて緩慢なテンポで進んできた。
昭和三○年代よりの高度経済成長により、大都市圏の中心では人口・産業などの集中が起こる一方、市街地はスプ
ロール現象により外延化されつつあった。とくに、首都圏では昭和三○年代後半に人口急増帯が次第に郊外部へ移行
するドーナッツ現象が進み始めた。すなわち、市街地のスプロール化が進むことにつれ、外禄部では農業的土地利用
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一七三 都市公園の数一二、二四一か所、面積は一一一一、九四八mとなり、|人当たりの都市公園面積は約一一一.四㎡となった。これは、終戦直後の昭和二五(’九五○)年の一一、五六九か所、面積一一一一、六三○旭および昭和四六(五か年計画の(銘)前年、一九七一)年度の都市公園数一二、一一一一○か所、面積一一一一一、六一一一一一一胆に比べ大幅な避的整備であった。引き続き、昭和五一(一九七六)年からの「第二次都市公園等整備五か年計画」期間中に約一○、六○○m、昭和五六(’九八一)年からの「第三次都市公園整備等五か年計画」期間中に約一二、四○○畑、さらに昭和六一(一九八六)年からの「第四次都市公園整備等五か年計画」中には約九、二○○旭の都市公園がそれぞれ整備されることとなった。その結果、昭和六○二九八五)年度末の都市公園等の整備現況は都市公園四八、一二五か所、面積五四、八七○烟であり、|人当たりの都市公園面積は四・九㎡となった。
第三節都市緑化とレクリエーション機能の拡大
法学志林第一○一巻第二号一七四と都市的土地利用の無秩序な混存床状態が顕著化するなど大都市圏における都市構造の変質が生じていた。
この都市化の進展・深化とともない都市内に存続していた私的・公的空間の緑とオープンスペースは工業基盤地・
宅地開発等に転化し、急激に失われたため、昭和三一(一九五六)年の「「首都圏整備法」においては無秩序な都市
化状況の拡大を防ぐための「近郊緑地帯」が設けられた。しかし、大都市における人口・産業集中の抑制策として試
みられたこの「グリーンベルト」の構想は地元の反対により実現されず、昭和四○(一九六五)年の「首都圏整備
法」の改正に至り、「近郊緑地帯」は「近郊●整備地帯」に改められ、事実上の廃止となった。
他方、都市の緑化については、昭和二九年二九五四)に建設省において、「広域緑地計画」(|っの都市を単位と
した計画ではなく複数の都市または県区域、またそれ以上の圏域を対象とした計画)の策定を指示したが、当時には
広域緑地計画に対する認識が少なかったことが原因となり、期待通りの成果はなかった。
ところが、昭和三五(一九六○)年以降、都市の過密化・自然環埼一の破壊および次第にレクリエーションに対する
需要が大きくなり、公園整備事業に対する国庫補助が順次拡大された。それにしたがい、自治体においても都市公園
に関する従来の整備計画の見直しおよび新たに立案を行う都市が増加した。そして、昭和四○年代に入り、公害問題
からの自然環境の保護・保全が、とくに「緑化」ないし「緑」に対する認識として急速に広がり、組織の新設、条例
の策定等が目立つようになった。更泉の市町村における緑化および公園関連組織もこの時期盛んに行われていた。
しかし、このような整備面積の急増にもかかわらず、都市基幹施設としての都市公園の整備は、他の道路・住宅・{鍋)下水道などの都市装置に比較し国の公共事業費および建設省関係予算における割ムロは依然として低い状況であった。その要因は、予算配分における比率の低さは都市公園などを非生産的な部門として見放す戦前の賛沢論的の継承であ
二都市緑化の展開
戦後公園政策が公園管理の欠如による公園地の消滅によって進められたこととは反対に、戦後の緑地計画に関する
法制度の展開は、戦前からの連続線上において行われていた。それは「東京緑地計画」において採用された「グリー
ンベルト計画」の流れであり、戦後の一‐特別都市計画法」においても「緑地地域」が制度として設けられた。この
「緑地地域制度」は、地域制緑地として昭和四一(’九六六)年の「歴史的風土保存のための特別措置法」、昭和四三
二九六八)年の「首都圏近郊緑地保全法」のもとで、地域計画として位置づけられ保存地区の指定と保存計画の策
定という現状凍結的な土地利用規制と損失補償を伴った地域地区制度であった。
前述したように、昭和四三(一九六八)年の「新都市計画法」の制定は従来の緑地制度と比べ、いくつか点におい
てその有効性が評価された。その内容は、「区域区分制度の導入により、旧緑地地域制度に相当する部分が調整区域
として位置づけられたこと、地域地区としての風致地区制度の強化によって行為の規制を知事認可制にしたこと、都
市施設としての公園・緑地などが公共空地という施設に統一され公園・緑地・広場・墓園・その他の公共空地という
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(三)(申)一七五 った。すなわち、「公共事業‐|における産業基盤整備への優先的投資が重視され市民生活の基盤整備としての都市公(側)園整備は、周知の如き昭和四○年代を待たなければな『bなかった。その上、戦前型公園政策における徹底的に中央集権的な整備政策を継承し維持してきた画一的・全国的な公園政策の枠組が、計画中心の制度的枠組を提示することに留まり、管理法の性格が強い「都市公園法」の制定にもかかわらず、公園整備に関する政策は「現状維持」の次元を脱皮できなかったからであった。
これらの緑地に対する計画は緑地制度の変化に連動した形で用意されていくが、この時期の緑地に関する計画論の
特徴は地域緑地制度のような「保全手法論」と、他方は都市公園の整備において見られる「施設整備計画論」によっ
て構成されていた。この二つの計画論は一見相反するように見えるが、「用地を買収できれば公園で、買収できなけ(他)れば緑地」という空間的保存と整備を同時並列に調和させるところに戦後緑地計画の特徴があった。
昭和四○年代を境に昭和五○年代の都市緑化ないし緑の各種計画は、このような緑地計画論における「現実的合理
化」、すなわち、地域地区制による保全施策と営造物である都市公園の整備施策による整備施策への一体化の結果で
あったと考えられる。つまり、行政施策としての都市公園整備と、民有の緑とオープンスペースの整備・保全がここ
において「都市緑化」として融合・統合されることとなった。その上、このような現状維持および消極的な整備に重
点が置かれた公園緑地の整備施策は、社会的な状況変化とその技術的整備手法の進展により、計画論自体が「凍結保
全」から指標化された目標の設定にともなう量的・質的整備が地域の満足度にシフトしていく結果を促し、計画論の
主な対象は定量的な分析手法による計画指標化、すなわち緑の量的水準が行政の施策目標水準として採用される傾向〈紐)を生むことになった。 法学志林第一○一巻第二号一七六
定義がなされたこと、開発許可制が導入され-定規模以上の開発に対して公園緑地の整備基準が決められたこと、土
地区画整理事業についての公共施設(主として児童公園)の配置および宅地の整備に関する事項が都市計画で定めら(狐)れたこ上」」などであった。
三レクリエーション需要と広域公園の整備