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琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

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(1)

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

著者 佐野 静代

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 43‑62

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027764

(2)

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

著者 佐野,静代

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 43‑62

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027764

(3)

琵 琶 湖 の

﹁ 杓 の 銭

﹂ と 中 近 世 の 堅 田

・ 菅 浦

佐 野 静 代

は じ め に 享保

一九 年︵ 一七 三四

︶︑ 近 江国 膳所 藩主 の命 に よ って 編 纂 され た 地 誌 書﹃ 近江 輿 地 志略

﹄に は

︑浅 井 郡の 項 と し て 以下 のよ うに 不思 議な 一節 があ る︒ 尾

上村

今 西村 の北 にあ り︑ 相傳 尾上 湊と いふ は此 地に て朝 日湊 と云 ふも 是也

︑子 細あ って 今に 湖中 猟船 より 杓 の 銭と 號し て運 上を とる

︒土 民云 ふ廃 帝綸 旨 をな し 下 され て 湖 水の 猟 頭 と なる 故 に︑ 堅 田の 猟 師 よ り﹁ うぐ ひ

﹂ 百

・樽 二つ を正 月二 十日 に尾 上村 にお くる とい ふ︒ 一説 に廃 帝に あら ず聖 武天 皇の 綸旨 なり とも いへ り︑ 今焼 失 し てな し!

︒ 文中

の﹁ 堅田 の猟 師﹂ とは

︑中 世の 鴨社 御厨 以来 の伝 統を 持ち

︑近 世に も湖 上特 権を 保持 した 滋賀 郡堅 田の 漁撈 集 団 であ る"

︒ 対す る尾 上は 琵琶 湖の 北東 岸に 位置 する 一村 落に すぎ ず︑ 近世 に突 出 し た 漁業 活 動 を行 っ て いた わ け で

― 43 ―

(4)

も ない

︒こ の尾 上に 堅田 側が 毎年

﹁運 上﹂ を納 めて いた とい う本 書の 記述 は︑ きわ めて 特異 なも のと いえ る︒ この 記 事 に最 初に 目を とめ たの は︑ 琵琶 湖漁 業 史研 究 の 先駆 者

︑伊 賀 敏郎 で あ っ た︒ 伊賀 は

﹁尾 上 共有 文 書﹂ の 分 析か ら

︑ こ の慣 行が 近世 末期 まで 実在 した こと を明 らか にし たう えで

︑し かし

﹁そ の由 来竝 びに これ を﹁ 杓の 銭﹂ と称 した 理 由 は判 然せ ぬ﹂ と述 べて いる

!

︒ 堅田 は琵 琶湖 の舟 運に も強 大な 権利 を持 ち︑ 中世 には

﹁上 乗﹂ の利 権と して 浦々 から 上納 金を 得て いた こと が知 ら れ る"

︒ この よう に琵 琶湖 中で 最も 優勢 であ った はず の堅 田が

︑尾 上に 対 し て だけ は 逆 に湖 水 の﹁ 運 上﹂ を払 わ ね ば な らな かっ たと いう 事実 は︑ どの よう に理 解さ れる べき であ ろう か︒ 管見 の限 りで は︑ 伊賀 以外 にこ の問 題を 取り 上 げ た研 究は みら れな い︒ そこ で本 稿で は︑ 堅田 から 尾上 へ差 し出 され た﹁ 運上

﹂の 理由 と︑ それ がな ぜ﹁ 杓の 銭﹂ と呼 ばれ たの か︑ この 呼 称 の意 味に つい て明 らか にし たい

︒結 論か ら言 えば

︑そ れは 堅田 と中 世惣 村と して 著名 な菅 浦と の︑ 中世 以来 の関 係 に 起因 する もの だっ たこ とに なる

︒ 1

.

堅 田 から 尾 上 への

﹁ 運 上﹂ 伊賀

はそ の著

﹃滋 賀縣 漁業 史﹄ にお いて

︑近 世の

﹁尾 上区 有文 書﹂ のう ち堅 田か らの

﹁運 上﹂ につ いて 記す 以下 の 四 点を 紹介 して いる

︒ A.

﹁ 指上 申手 形之 事﹂ 寛文 十一 年︵ 一六 七一

︶正 月廿 七日 B.

﹁ 指上 申手 形之 事﹂ 貞享 四年

︵一 六八 七︶ 七月 六日

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 44 ―

(5)

C.

﹁ 一札 之事

﹂貞 享五 年︵ 一六 八八

︶正 月八 日 D.

﹁ 乍恐 人皇 四十 五代 聖武 天皇 様往 古! 大切 也由 緒書 之写

﹂慶 応四 年︵ 一八 六八

︶四 月 この うち Aで は︑ 堅田 より 毎 年正 月 の﹁ 二 番下 り

﹂の 際 に︑

﹁上 酒 五 斗﹂ と﹁ 頭 うぐ い

﹂七

〇 尾を 持 参 する は ず で あ った のが

︑今 年は 都合 で﹁ 二月 下り

﹂ま で延 引し たい 旨の 願い 出が なさ れて いる

︒そ れか ら十 六年 後の Bは

︑堅 田 が 当年 の﹁ 上酒 五斗

﹂と

﹁頭 うぐ い﹂ 七〇 尾を 怠っ たこ とに つい て︑ 大津 百艘 船仲 間年 寄衆 を仲 介と して 詫び たも の で ある

︒伊 賀は あげ てい ない もの の︑ 尾上 共有 文書 には もう 一通

︑堅 田か らの

﹁運 上﹂ に関 わる 無年 紀の 書状

︵二 月 晦 日付 け︶ があ り︑ 尾上 村よ り﹁ 大津 小野 半之 介様

﹂宛 てに

︑舟 奉行 が替 わっ てか ら堅 田が 運上 を持 参し なく なっ た た め︑ 尾上 村支 配の 場所 への 入猟 を断 る旨 を 差し 出 し てい る

︵こ れ を史 料 Eと す る︶

︒ 小野 半 之 介と は 延 宝八 年 か ら 元 禄一 二年 まで 在任 した 大津 代官 小野 宗清 を指 し︑ また 船奉 行︵ 琵琶 湖の 船舶 およ び漁 撈等 の用 益を 管轄

︶の 交替 と は

︑天 正期 以来 歴代 船奉 行に 任命 され てき た観 音寺 の僧 侶が

︑貞 享二 年に 罷免 され たこ とを 指す とみ られ る︒ よっ て 史 料E はB と同 じく 貞享 期の もの と推 定さ れ︑ この 頃尾 上と 堅田 の間 で﹁ 運上

﹂を めぐ る相 論が 起こ った こと を示 し て いる

!

︒こ の相 論で は尾 上側 の訴 えが 容れ られ

︑そ の主 張に 沿っ た内 済が 大津 百 艘 船 仲間 年 寄 衆を 仲 人 とし て 進 め ら れた

︒こ の結 果が B・ Cな ので あり

︑C では 未納 分の 酒と うぐ い七 十の 代銀 を四 匁三 分と 定め

︑尾 上に 届け るこ と が 記さ れて いる

︒な おD は︑ この

﹁運 上﹂ の由 来に 関す る幕 末の 口碑 を記 した もの で︑ 聖武 天皇 の竹 生島 行幸 の折 に 尾 上村 と菅 浦村 が船 頭を つと めた ため

︑前 者に は山 林が

︑後 者に は湖 水の 権利 が与 えら れた こと

︑そ の後 両者 はこ れ を 取り 替え て︑ 尾上 が水 面を 領し たこ と が記 さ れ てい る

︒﹁ 堅 田之 猟 師 共﹂ が﹁ 海 之年 貢

﹂と し て毎 年 正 月に 酒 と 肴 を 持参 する こと や︑ それ が﹁ 只今 ニ迄 無変 毎年

﹂続 いて いる こと も述 べら れて いる

︒ ここ で︑ 上記 の史 料群 につ いて

︑伊 賀の 指摘 以外 にも 注目 すべ き点 をあ げて おき たい

︒ま ずB によ れば

︑こ の﹁ 運

― 45 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(6)

﹂と は舟 運で はな く﹁ 獵仕 り候

﹂た めの もの で︑ 尾上 村の 漁場 への 入漁 料と 位置 づけ られ る︒ よっ てこ の当 時の 堅 田 は︑ そも そも 尾上 村支 配の 水域 に対 して 漁業 権を 持っ てい なか った こと がう かが える 点に 注意 した い︒ この こと は E の尾 上村 支配 の場 所へ の﹁ 入猟 断り

﹂と いう 文面 から も裏 付け られ る︒ 第二 に︑ この 尾上 の漁 場で 漁を 行っ てい た 堅 田 猟 師と は

︑C に﹁ 釣猟 師

﹂と 書 かれ て い る こと か ら︑ 近 世の

﹁堅 田 四 方﹂ の うち 小 番 城 と 呼 ば れ る 地 区 に 居 住 し

︑延 縄漁 を主 業と して いた 集団 であ った こと が判 明す る︒ この 堅田 の延 縄漁 は水 深六

〇$ まで の深 い水 域で 操業 が 可 能で あり

︑水 深十 五$ まで の浅 水域 を対 象と する 琵琶 湖の 一般 的な 沿岸 漁と は大 きく 異な るこ とが 特徴 であ る!

︒ そ れで は

︑こ の 堅田 釣 漁 師た ち が 入 漁し た 尾 上村 支 配 の 漁場 と は︑ 具 体的 に は どの 範 囲 の 水域 だ っ た の で あ ろ う か

︒こ の 点 につ い て は︑ Aと Dに 関 連す る 記 述 がみ ら れ る︒ Aに は︑ 今 後も し 運 上 の酒 肴 を 持 参 し な か っ た 場 合 に は

︑﹁ 南 ハい での 濱光 妙一 ぐの はり 境︑ 西ハ 竹生 嶋︑ 北ハ 塩 津 之浦 迄 尾 上村 之 獵 場 へ参 る 間 敷候

﹂と の 文 言が み ら れ る

︒こ のう ち漁 場の 南限 を示 す﹁ いで の濱 光妙 一ぐ のは り境

﹂に つい て伊 賀は 不明 とし てい るが

︑筆 者は

﹁沖 島共 有 文 書﹂ 中に

︑宝 永五 年︵ 一七

〇八

︶の 尾上 村 の 水鳥 猟 場 の四 至 と し て︑ 南堺 は

﹁光 明 之塚 切

﹂︑

﹁ 西沖 ハ つ ゝ ら尾 切

﹁北 ハ塩 津入 江﹂ とあ るこ とに 注目 した い"

︒﹁ 光 明之 塚﹂ とは

﹁い での 濱 光 妙﹂ に 通ず る も のと 考 え られ

︑尾 上 の 水 鳥 猟 場 の南 限 は 早崎 村 領 猟 場と の 境 界︑ おそ ら く 海老 江 村 付 近と み ら れる こ と から

︑﹁ い で の 濱光 妙 一 ぐ の は り 境

﹂ も この 付近 を指 すと 推定 され る︒ した がっ て﹁ 尾上 区有 文書

﹂A で示 され る尾 上村 の漁 場と は︑ 海老 江│ 竹生 島│ 塩 津 を囲 む水 域と 推定 され る︵ 図1

︶︒ この 範 囲 は︑

﹁ 沖島 共 有 文書

﹂に 記 さ れた 水 鳥 猟 場と も 多 くが 重 な って お り#

︑尾 上 村が こ の 時期 実 際 に漁 を 行 っ て いた 水域 と考 えら れる

︒し かし なが ら尾 上村 の支 配下 にあ った 水域 とは

︑当 時尾 上が 実態 とし ては 出漁 して いな か っ た 水 域も 含 め ると

︑こ の 範 囲 をさ ら に こえ る も ので あ っ た 可能 性 が ある

︒そ れ を 示唆 す る の が 前 掲D の 史 料 で あ

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 46 ―

(7)

る︒ D で は尾 上 村 の領 海 と し て︑

﹁ 北 ハ 海 之 涯 横 波 限︑ 西 ハ海 津前

︑南 ハ漕 先霞 限﹂ をあ げ︑ この 範囲 はも とも と

﹁ 菅之 浦 持 分之 湖 海﹂ で あっ た こ と︑ そ れ を﹁ 長 浜 ニ 御 城有 之節

﹂に

﹁当 村持 分之 山林

﹂と 引き 替え たも のと 述 べて いる

︒こ こで 伝承 され る菅 浦か ら尾 上に 譲ら れた 領 海の 範囲 は︑ 前掲 Aで 西境 とさ れた 竹生 島を 越え て琵 琶 湖西 岸の 海津 まで 及ぶ もの であ り︑ 大浦 湾を も含 む広 範 な水 域と なっ てい る︒ この 文書 は幕 末の もの にす ぎな い とは いえ

︑し かし 筆者 はこ れを 単な る伝 承と して 片付 け るこ とは でき ない と考 える

︒な ぜな ら︑ 慶長 期に 菅浦 村 と尾 上村 が湖 水と 山林 を交 換し たと する 書状 が︑ 中世 以 来の 惣村 文書 であ る﹁ 菅浦 文書

﹂の なか に伝 存し てい る から であ る︒ 以下

︑こ の問 題に つい て追 及し たい

1 尾上村と菅浦村の漁場位置関係図

― 47 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(8)

.

菅 浦 と尾 上 の

﹁か へ 地 かへ 海

﹁ 菅浦 文書

﹂中 には

︑慶 長元 年の 年紀 を持 つ次 のよ うな 書状 が存 在す る︵ 菅浦 文書 九四 四号

!

︿史 料1

﹁ おの へ八 ふせ とう ミと かへ 地事

さし 趣申 かへ 地か へ海 手形 之事 一︑ 菅浦 村之 りや うは をお のゑ 村

渡︑ 一︑ おの ゑ村 之山 八ふ せ平 をみ ち

仕︑ 菅浦 江御 かへ

︑ 右 之か へ み ち・ か へ う ミ 両 方 相 対 を 以︑ か ゑ 申 所 実 正 明 白 也

︑し か れ と も

︑本 証 文 ハ 菅 浦 村

を く 子 細 者︑ 若後

!お のへ 村と 菅浦 村と せん さく 仕候 時︑ 本証 文残

置 不申 候て ハ︑ 菅浦 村之 う ミ のり や う はし れ 不 申 候

付而

︑本 証文 菅浦 村

をく

︑若 又此 かへ うミ のり やう は

︑脇

!何 角さ また け入 申 候ハ ゝ

︑菅 浦 村 之本 証文 を出

︑ 申わ け仕 候而 らち 明ケ 可申 候︑ 為後 日仍 而如 件︑

慶帳 元年

浅井 郡菅 浦村 申 ノ二 月一 日

惣 中判 浅 井郡 おの ゑ村 惣中 様ま いる

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 48 ―

(9)

この 書状 は従 来慶 長期 の真 正な 文書 とさ れて きた が!

︑ しか し最 近東 幸代 によ っ て こ の年 紀 に は疑 義 が 出さ れ て お り"

︑即 これ を正 文と する こと は困 難で ある

︒た だし

︑前 章で 述べ た貞 享四 年の 堅 田 と の相 論 時 には 尾 上 村の 漁 場 関 連 文書 が整 えら れて いた 可能 性が 高い こと を勘 案す ると

︑本 文書 の作 成は 少な くと もそ れ以 前に は遡 るも のと 考え ら れ る#

︒ 史 料1 の文 中 の﹁ お のゑ 村 之 山八 ふ せ 平﹂ と は︑ 塩津 湾 を 挟ん だ 尾 上 の対 岸

︑葛 籠 尾崎 に あ る 現 在 の 鉢 伏 山 で あ り

︑菅 浦集 落の 背後 に位 置し てい る︵ 前掲 図1

︶︒ 尾 上村 は こ こに 飛 地 を持 っ て い たこ と に なる が

︑た し かに 近 世 に は 葛籠 尾崎 の東 側一 帯は

﹁向 山﹂ と呼 ばれ て︑ 対岸 の片 山や 延勝 寺・ 今西 の 持 山 ある い は 草場 と さ れて い た$

︒よ っ て 史料 1は 菅浦 がこ の山 に道 をつ くり

︑持 地と する のと 引き 替え に︑ 尾上 に菅 浦の

﹁う ミの りや うは

﹂す なわ ち漁 場 を 渡す こと を約 束し たも ので ある

︒じ つ は﹁ 尾上 共 有 文書

﹂の な か にも

︑こ れ と 同 文の 写 し が﹁ 替地 替 う み 証文 案

﹂ と して 存在 して いる

%

︒慶 長の 年紀 は仮 託で ある とし ても

︑近 世初 期の 両 村 に はた し か に﹁ かへ 地 か へ海

﹂を 必 要 と す るよ うな 事情 があ った こと が推 定さ れる

︒ この 湖と 山の 交換 につ いて は︑ その 背景 に菅 浦の 近世 にお ける 生業 の変 化が あっ たこ とを 考え ねば なら ない

︒菅 浦 は 一 三 世紀 以 来 漁撈 に 深 く 携わ っ て おり

︑蔵 人 所・ 内 蔵寮 供 御 人 とし て 漁 業権 益 の 保持 に 努 め てき た イ メ ー ジ が 強 い&

︒し かし 戦国 期に は山 畑で の油 桐︵ 絞油 原料

︶栽 培を 本格 化さ せて お り

︑柴

・割 木 出荷 と あ わせ て 湖 から 山 稼 ぎ へ と生 業の 場を シフ トさ せて いっ た様 相が 認め られ てい る'

︒ 慶安 四 年

︵一 六 五一

︶の 菅 浦 村で は

︑年 貢 の全 収 納 高 の 約五 八% を油 実で 納め るま でと なっ てお り︑ 菅浦 にお ける 油桐 栽培 の 重 要 性が 指 摘 され て い る(

︒ 近世 初 頭

︑こ の 山 畑 の 新規 開 拓 のた め に 村 域の 背 後 斜面 が 必 要と な り

︑尾 上 村の 山 地 と菅 浦 の 湖面 と の 交 換が 成 立 した も の で あ ろ う)

︒近 世の 菅浦 では 中世 の状 況と は異 なり

︑湖 水の 小物 成も みら れず 漁撈 活動 が 低 調 であ っ た こと が 指 摘さ れ て い

― 49 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(10)

る が!

︑ それ は上 のよ うな 漁業 から 山稼 ぎへ の生 業の シフ トに よる もの と考 えら れる

"

︒ 史料 1の 文面 には

︑菅 浦か ら尾 上に 引き 渡さ れた 漁場 の範 囲を 示す 直接 的な 表現 はみ られ ない

︒し かし 文中 の﹁ 本 証 文残 シ置 不申 候て ハ︑ 菅浦 村之 うミ のり やう はし れ不 申候

﹂と いう 表現 から は︑ これ とは 別に 菅浦 の手 元に 残さ れ た

﹁本 証文

﹂に

︑漁 場の 範囲 が明 記さ れて いた こと がわ かる

︒で はこ の﹁ 本証 文﹂ とは いか なる もの であ った のだ ろ う か︒ こ の点 に つ いて は

︑す で に田 中 克 行 の詳 細 な 考察 が あ る#

︒ 田 中は こ の﹁ 本 証 文﹂ を︑

﹁ 菅 浦 文 書﹂ の 中 世 の﹁ 堅 田 浦・ 菅浦 庄契 約状

﹂︵ 三 九七 号︶ を指 すも のと して いる

︒そ の文 面は 以下 の通 りで ある

︿史 料2

﹁ かた ゝの 証文 之状

﹂ 近江 国堅 田与 菅浦 海上 相論 事︑

右契 約之 趣者

︑海 津之 地頭 所之 御媒 介仰 申︑ 潮上 のす なと りの しし はう しを 定申 処如 此︑ 然塩 津口 西東

!大 崎 同・ 海津 前不 可子 細者 也︑ 就中 小野 江・ 片山 ほう ちや う被 直差 候条

︑殊 更以 喜悦 候︑ 然間 此上 者海 上す なと り

によ て︑ 聊雖 為︑ 子々 孫々 違乱 妨成 申︑ 更々 不可 有者 也︑ 仍為 後年 証拠 明鏡 四時 はう し状 如件

︑ 今堅 田

道賢

︵花 押︶ 西 浦

妙願

︵花 押︶

次郎 左衛 門︵ 花押

︶ 惣 領

道寂

︵花 押︶

道信

︵花 押︶ 道満

︵花 押︶

道観

︵花 押︶

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 50 ―

(11)

道忍

︵花 押︶ 応永 四年 十一 月廿 四日 この

契約 状は 応永 四年

︵一 三九 七︶

︑ 菅浦 と堅 田の 間で 起 こ った 漁 業 相論 の 結 果 とし て 結 ばれ た も ので

︑菅 浦 と 堅 田 との

﹁す なと りの しし はう し︵ 漁 の四 至 榜 示︶

﹂を 示 し てい る

︒つ ま り ここ に 記 され た

﹁塩 津 口西 東! 大 崎 同・ 海 津 前﹂ まで の水 域で は︑ 堅田 側の 操業 は排 除さ れて おり

︑こ の範 囲が 一四 世紀 にお ける 菅浦 の支 配水 面だ った こと に な る︒ この 応永 の契 約状 が近 世初 期に

﹁本 証文

﹂と 呼ば れ︑ 尾上 との

﹁か へ地 かへ 海﹂ の拠 りど ころ とさ れた のは

︑尾 上 に ゆず られ た菅 浦の 領海 がこ れに 相当 する から に他 なら ない

︒し たが って

︑こ の四 至内 の水 域こ そが 近世 尾上 の領 海 と なっ た範 囲で あっ たこ とに なる

︒こ のよ うな 推定 の下 では

︑前 章の 尾上 共有 文書 のD が尾 上村 の領 海を

﹁北 ハ海 之 涯 横波 限︑ 西ハ 海津 前︑ 南ハ 漕先 霞限

﹂と 表現 して いた こと も︑ 全く の虚 構と は言 い切 れな いこ とに なろ う︒ こ うし て 尾 上は 菅 浦 から 広 大 な 領海 を 得 たと 推 定 さ れる が

︑し か し彼 ら は その 水 域 に 自ら 出 漁 した の で は な か っ た

︒後 述す るよ うに

︑尾 上は これ を堅 田の 漁師 に下 請け させ たの であ る︒ 尾上 自身 はな ぜこ の漁 場で 操業 しな かっ た の か︑ そし て︑ 堅田 から のい わば 入漁 料が なぜ

﹁杓 の銭

﹂と 呼ば れた のか

︑そ の理 由を 明ら かに する ため に︑ 次章 で こ の四 至内 の水 域の 実態 につ いて 考え てみ たい

― 51 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(12)

.

菅 浦 の領 海 の 範囲 前章

の史 料2 では

︑﹁ す なと りの しし はう し︵ 漁の 四至 榜示

︶﹂ は﹁ 塩津 口西 東! 大崎 同・ 海津 前﹂ と表 現さ れて い る

︒で はこ の応 永契 約状 の示 す菅 浦の 領海 とは

︑実 際に はど のよ うな 範囲 であ った のか

﹁ 塩津

﹂と は 塩 津湾 の 最 奥に 位 置 す る集 落 で あり

︵前 掲 図 1︶

︑ ま た﹁ 大 崎﹂ が 現 在 の 海 津 大 崎 を 指 し

︑﹁ 海 津 前

﹂ が 海 津 集落 の 前 面を 意 味 す るこ と に つい て は これ ま で 異 論は な い︒ し かし 筆 者 は︑

﹁塩 津 口 東 西﹂ と い う 表 現 に は

︑ 先 行研 究で は論 じら れて いな い具 体的 な意 味が あっ たと 考え る︒ これ は漠 然と 塩津 付近 を示 した 語で はな く︑ 地元 で は ある 特定 の地 点を 指示 する 呼称 だか らで ある

︒菅 浦の 漁師 達は 今日 なお

︑図 1の 塩津 湾中 程の a点 とb 点を 結ん だ ラ イン を﹁ シオ ツグ チ﹂ と呼 んで いる

!

︒こ の両 地点 につ いて

︑a は﹁ 岩屋

﹂と い う 岬 で菅 浦 と 月出 村 と の村 界 に あ

た り︑ bは 山梨 子村 と片 山村 の村 界で

﹁ウ ロ ガ ミ︵ 浦神

︶﹂ と 呼 ばれ る 有漏 神 社 の 鎮座 地 で ある

︒有 漏 神 社は 漁 師 達 の 信仰 を 集 め た舟 楫 の 神で

︑湖 岸 に 位置 す る そ の鳥 居 は 航行 上 の ラン ド マ ー クと な っ てい た"

︒社 伝 に よれ ば

︑﹁ 往 昔 湖上 操舟 の神 とし て鎮 座し

︑遠 く江 南堅 田方 面の 漁民

︑こ の地 に出 漁す るこ とも 多く

︑そ の舟 操守 護の 神と して 崇 敬 し た﹂ と いう

#

﹁塩 津 口東 西

﹂と は︑ こ の 湖上 の ラ ンド マ ー クと な る 両 地点 を 東 西に 結 ん だラ イ ン と いえ る の で は ない だろ うか

︒ いま

﹁塩 津口 東西

﹂の 位置 をこ こ に比 定 す ると

︑菅 浦 と 堅田 と の 漁 の四 至

﹁塩 津 口西 東! 大 崎 同・ 海 津前

﹂と は

︑ 図 1の 点線 とし て復 原さ れる

︒こ の図 によ れば

︑塩 津湾 でも a│ bラ イン 以南 まで は堅 田の 入漁 が認 めら れて いた こ と にな る︒ ただ し史 料2 文中 には

﹁就 中小 野江

・片 山ほ うち やう 被直 差候 条︑ 殊更 以喜 悦候

﹂と あり

︑尾 上・ 片山 が

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 52 ―

(13)

こ こで

﹁ほ うち やう

︵方 張︶

﹂︑ す なわ ち浅 い沿 岸部 に適 した 四つ 手網 漁を 行っ てい たと みら れる こと にも 注意 して お き たい

%

︒ 一方

︑菅 浦側 にと って 領海 とな る範 囲は

︑! 塩津 湾の a│ b以 北と

︑"

大浦 湾か ら菅 浦前 面の 水域

︑お よび

#海 津 前 の水 面だ った こと にな る︒ した がっ てこ れら の水 域が

︑近 世初 期に 菅浦 村か ら尾 上村 へと 譲ら れた

﹁湖 水﹂ の具 体 的 な内 容で あっ たと 推定 され る︒ この うち 中世 の菅 浦に とっ てよ り本 質的 な漁 場は

︑"

の大 浦湾

〜菅 浦前 面の 水域 で あ っ た と推 定 さ れる

︒一 四 世 紀 の菅 浦 は 堅田 と の 相論 を 繰 り 返し て い るが

&

︑応 永 頃 と 推 定 さ れ る 相 論 に 際 し て'

︑ 堅 田 が 侵入 し て 網を 打 っ た のは 菅 浦 の﹁ まゑ の う ら﹂( で あり

︑菅 浦 側 は﹁ 於 此浦 十 八 丁之 内

︑堅 田 人々 あ ミ を う た せ す候 所﹂ とし て︑ この 水域 から 堅田 を閉 め出 すこ とに 躍起 にな って い る)

︒こ の よう な 相 論の 実 態 は︑ 換言 す れ ば 堅 田側 にと って もす でに 一四 世紀 から

︑こ の水 域が 魅力 的な 漁場 に映 って いた こと を示 して いよ う︒ 近世 初期 に菅 浦が 尾上 に譲 った 領海 とは

︑こ のよ うな 空間 的実 体を 持つ 水域 であ った

︒し かし これ を受 け取 った 尾 上 村が

︑そ のう ち最 も重 要な

"

の 水域 に︑ 自ら はほ とん ど出 漁し てい なか った こと に注 意し たい

︒そ の理 由は

︑当 漁 場 の水 深に ある と考 えら れる

︒図 1に みる よう に"

の漁 場境 界線 付近 の水 深は 六〇

$に 達し てい るが

︑こ れは 前近 代 の 琵琶 湖漁 業で は堅 田の 延縄 漁だ けが 到達 しう る漁 撈の 限界 水深 に 相 当す る*

︒す な わち 近 世 まで の 地 引 網・

!な ど 琵 琶湖 の一 般的 な沿 岸漁 法で は︑ 水深 一五

$ま での 水域 でし か操 業で きな かっ たた め︑ 尾上 自身 はこ の水 域に おい て 行 使で きる 漁撈 技術 を持 って いな かっ たこ とに なる

︒そ こで 尾上 は︑ 自ら 出漁 する ので はな く堅 田へ 下請 けさ せる こ と を選 択し たと 考え られ る︒ この 菅浦 前面 水域 での 漁撈 の実 態に つい ては

︑す でに 前稿 でも 分析 した と こ ろ であ る が+

︑ 菅 浦沖 か ら 竹生 島 に か け ては 琵琶 湖の 固有 種で ある ビワ マス とイ ワト コナ マズ の主 要生 息地 であ り︑ 延縄 漁の みが これ ら二 種を 味覚 のよ い

― 53 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(14)

晩 秋〜 冬期 に捕 獲す るこ とが 可能 であ った

"

︒菅 浦の 沖合 域は

︑延 縄漁 にと って は 琵 琶 湖中 で 最 良と も い える 漁 場 だ っ たの であ り︑ 堅田 はそ の価 値を 知っ てい たか らこ そ︑ 中 世か ら 度 々入 漁 し て相 論 を 引 き起 こ し てい た の で あろ う

︒ 中 世の 菅浦 は供 御人 とな るこ とで この 水域 から 堅田 を排 除し

︑堅 田側 の沖 取り によ る漁 獲圧 から 水産 資源 を守 って い た

︒し かし 中世 末期 から 近世 初頭 にか けて

︑菅 浦の 生業 は油 桐栽 培を 中心 とす る山 稼ぎ にシ フト し︑ 漁業 から は遠 ざ か って いく

︒そ れに かわ って 堅田 が尾 上か らの 下請 けの 形で

︑入 漁を 実現 させ たと 推定 され る︒ この 漁場 請負 の代 価 こ そが

︑﹁ 杓 の銭

﹂と 呼ば れた もの だっ たこ とに なる

︒ 堅田 から

﹁杓 の銭

﹂と して 酒と とも に尾 上に 納め られ た﹁ 頭う ぐい

﹂と は︑ 冬期 の大 型の ウグ イと 考え られ る︒ 一 般 に︑ 琵琶 湖の ウグ イは 産卵 遡河 する 三月 以降 が漁 期と され

︑そ れ以 前の 湖中 の深 水域 にい る時 期の 漁獲 は困 難で あ る

︒し かし 堅田 の漁 師た ちは 延縄 漁に よっ てこ れを 捕獲 する こと がで き︑ 明治 期ま でウ グイ は彼 らに とっ て重 要な 漁 獲 対 象 魚種 と な って い た#

︒ し た がっ て

︑﹁ 頭 うぐ い

﹂七

〇 尾と い う 貢 納物 は

︑堅 田 釣漁 師 の 沖合 漁 を 象 徴す る 獲 物 だ った とい えよ う︒

.

竹 生 島神 領 と

﹁杓 の 銭

﹁ 杓の 銭﹂ とい う呼 称の 由来 につ いて も︑ 中世 の 菅浦 と の 関わ り か ら 分析 さ れ るべ き と 考え る

︒前 章 の! 大 浦湾

〜 菅 浦 前 面の 水 域 は︑ 菅浦 に と っ て最 も 重 要な 漁 場 であ っ た が︑ こ の範 囲 が すべ て 描 き込 ま れ た 中世 の 絵 図 が 存 在 す る

︒著 名な

﹁近 江国 菅浦 与大 浦下 庄堺 絵図

﹂︵ 以 下︑ 菅浦 絵図 と略 称す る︶ であ る︵ 図2

︶︒ この 絵図 をめ ぐる 先行 研究 は数 多く

︑そ のほ とん どは 絵図 の成 立年 代を 探 る こ とを 目 的 とし て い る$

︒ しか し 本 稿

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 54 ―

(15)

2 近江国菅浦与大浦下庄堺絵図

(菅浦区所蔵、滋賀大学経済学部附属史料館写真提供)

― 55 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(16)

で は︑ この 絵図 の描 写す る範 囲と

︑そ こに 含ま れる 水域 の意 味に つい て考 察し たい

︒ こ の絵 図 は 菅浦 と 大 浦庄 と の 堺 相論 に 関 わっ て 作 成 され た も ので

︑そ の 主 題は 係 争 地 の境 界 を 描写 す る こ と に あ る

︒そ れは 著名 な日 差・ 諸河 の耕 地の 帰属 問題 であ った

︒し かし

︑こ れら 係争 地の 描写 以上 に大 きな スペ ース が割 か れ てい るの が︑ 画面 下半 分の 竹生 島の 部分 であ る︒ 絵図 の下 半分 は

︑﹁ 竹 生 島を 描 く ため だ け に存 在

"

し て お り︑ そ の 描 写 に相 論 現 場を 上 回 る ほど の 力 点が 置 か れて い る こ とに 対 し て︑ これ ま で 多く の 研 究 者か ら 疑 問が 出 さ れ て き た

︒こ の問 題に つい て瀬 田勝 哉は

︑本 図の 画面 下半 分の 描き 方は 鎌倉 南北 朝期 に流 行し た宮 曼荼 羅あ るい は縁 起絵 と 共 通す るも ので あり

︑本 絵図 の作 成に は縁 起絵 を積 極的 に利 用で きる 者 が 関 与し て い たと す る#

︒ そ こで 瀬 田 は︑ 菅 浦 絵図 の作 成は 暦応 の相 論時 に︑ 当時 の菅 浦の 領主

・竹 生島 の下 で行 われ たと 結論 して いる

︒ 黒田 日出 男は 瀬田 の論 点を うけ て︑ 菅浦 絵図 が竹 生島 を大 きく 描い てい るの は︑ 菅浦 が竹 生島 の神 領で ある こと を 強 調 す る た め で あ り︑ す な わ ち 菅 浦 絵 図 は︑ 神 領 菅 浦 を 大 浦 庄 と の 堺 相 論 か ら 守 ろ う と す る 意 図 で 描 か れ た と す る$

︒黒 田は この 絵図 の構 図に つい て︑

﹁ 中心 に描 かれ た竹 生島 が︑ その 背後 に二 つ の 半 島状 の 地 を従 え て い る表 現

﹂ と する が︑ この

﹁二 つの 半島

﹂と は葛 籠尾 崎と 海津 大崎 であ り︑ そこ に挟 まれ てい るの はす なわ ち前 章で 述べ た! の 大 浦湾

〜菅 浦前 面に かけ ての 水域 であ る︒ 黒田 の指 摘す るよ うに

︑本 図で の竹 生島 の位 置は 現実 より もか なり 西方 に 寄 っ て おり

︑竹 生 島 が両 半 島 の 真ん 中

︑す な わち

!の 水 域 たる

﹁大 浦 湾 を 塞い で い るか の よ うに

﹂描 か れ て い る%

︒ こ の構 図は

︑竹 生島 が当 水域 を領 して いた こと を強 調し

︑菅 浦の

﹁地

﹂だ けで なく

︑! の水 域も また 竹生 島神 領で あ っ たこ とを 示し てい よう

︒こ のよ うに 菅浦 絵図 が日 差・ 諸河 だけ でな く︑ 湖上 用益 を含 む広 域の 領有 を主 張し て作 成 さ れた 可能 性は

︑す でに 下坂 や小 山に よっ ても 指摘 され てい る&

︒ そも そも 菅浦 絵図 の作 成に 用い られ たと いう 縁起 絵と は︑

﹁ 竹生 島縁 起﹂ を絵 解き する ため のも ので あり

︑﹁ 竹生 島

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 56 ―

(17)

縁 起﹂ 自体 は南 北朝 初期 には すで に成 立し てい た!

︒ この

﹁竹 生島 縁起

﹂が 盛 ん に 喧伝 さ れ た時 期 と は︑ まさ し く 竹 生 島が 菅浦 の領 主と して 相論 に積 極的 に関 与し てい た建 武・ 暦応 の頃 に重 な っ て いる

"

︒こ の 時 期の 菅 浦 側の 相 論 文 書 では

︑竹 生島 明神 の神 威が 盛ん に強 調さ れて おり

︑そ れは さな がら

﹁竹 生島 縁起 のダ イジ ェス ト版

﹂で あっ たこ と も 指摘 され てい る#

︒ 菅浦 住民 が内 蔵寮 供御 人や 日吉 神人 にと どま らず

︑竹 生 島 の 神人

・寄 人 的 存在 で あ った こ と を 想 像さ せる 内容 とい える

︒ この

﹁竹 生島 縁起

﹂の 本文 には

︑漁 場を テー マと する 本稿 の関 心と 関わ って 注目 すべ き点 があ る︒ 縁起 には

︑竹 生 島 の 浅 井姫 命 が﹁ 召 諸魚 令 運 重 石︒ 今云 魚 崎︒ 魚 集之 處 也︒ 又 召諸 鳥 令 落 殖木 種

︒今 猶 衆鳥 来 集 之 岑 也︒

$ と あ り

︑ こ の女 神が 魚鳥 を寄 りつ かせ る神 とし て描 かれ てい る︒ 中世 には

﹁魚 の寄 る神

﹂と いう 観念 があ り︑ それ が伊 勢神 宮 の 阿漕 浦な ど 神 祇 供祭 の 漁 場・ 御厨 を 設 定す る 根 拠 とな っ て いる こ と は︑ 苅米 一 志 が 指摘 し て いる と こ ろ であ る%

︒ 魚 と水 鳥は いず れも 琵琶 湖で は重 要な 捕獲 対象 であ り︑ すな わち 竹生 島の 神に は漁 の神 とし ての 性格 が濃 厚に 認め ら れ る&

︒ 神自 身が 魚を 呼び 寄せ た水 域と は往 々に して 良好 な漁 場で あ り

︑そ こ では 神 人 漁民 だ け が︑ 供祭

・神 事 の 名 目 にお いて 漁撈 を行 うこ とが でき た︒ 竹生 島神 領と して 菅浦 絵図 に描 かれ た上 記の 水域 では

︑菅 浦の 住民 達が 竹生 島 の 女神 すな わち 弁才 天に 捧げ る供 御の 漁場 とし て︑ 湖上 特権 確保 を意 図し たこ とが 想定 され る︒ ここ にお いて

︑こ の漁 場の 請負 料が

﹁杓 の 銭﹂ と呼 ば れ たこ と の 意味 も 明 瞭 に浮 か び 上が っ て こ よう

︒﹁ 杓

﹂と は

﹁柄 杓﹂ で ある が

︑そ れ は中 世 の 勧 進・ 喜捨 を 乞 う時 に 用 いら れ る 道 具で あ っ た'

︒ 例え ば 清 水寺

・長 命 寺 な ど 中 世 の 社寺 参詣 曼荼 羅に は︑ 柄杓 によ って 参詣 者た ちか ら寄 進の 銭を 受け 取っ てい る社 僧・ 神人 たち の姿 が多 く描 かれ て い る︒ すな わち

﹁杓 の銭

﹂の 原義 は神 仏に 捧げ られ る金 銭で あり

︑尾 上の 受け 取る

﹁杓 の銭

﹂と は︑ 本来 は竹 生島 の 女 神︑ すな わち 漁の 神と して の弁 才天 に捧 げら れる も ので あ っ たと 推 定 され る

︒弁 才 天 が魚 を 寄 りつ か せ た 湖面 は

― 57 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(18)

中 世 に は竹 生 島 神人 た る 菅 浦住 民 の 漁場 で あ った が

︑近 世 初 期に は 菅 浦の 手 を 離れ て 尾 上 村へ 譲 ら れる こ と に な っ た

︒そ の際

︑実 際の 漁場 行使 者と なっ た堅 田か ら支 払わ れる

﹁運 上﹂ は︑ 神領 へ立 ち入 る代 価と して

﹁杓 の銭

﹂の 名 で 呼ば れた ので はな いだ ろう か︒ 近世 末期 まで 続い た尾 上の

﹁杓 の銭

﹂の 慣行 は︑ 一四 世紀 の菅 浦絵 図に も描 かれ た 神 領と して の菅 浦の 湖面 領有 に由 来す るも のだ った と結 論づ けた い︒ お

わ り に 本稿

では 一八 世紀 の地 誌書 に記 され た尾 上村 と堅 田の

﹁杓 の銭

﹂慣 行に 注目 し︑ その 由来 が中 世の 菅浦 およ び竹 生 島 の漁 場支 配に たど れる 可能 性を 提起 した

︒近 世の 口碑 にす ぎな いと 思わ れた 断片 的な 記述 から

︑中 世の 堅田 と菅 浦 を めぐ る漁 場相 論や 漁場 の実 態に つい て︑ 数々 の知 見を 見出 すこ とが 可能 であ る︒ 菅浦 は尾 上と の﹁ かへ 地か へ海

﹂に 際し て領 海の 四至 を記 す﹁ 本証 文﹂ を手 元に 残し 置い たが

︑二 章の 史料 1に あ る よう に︑ 尾上 に対 して は︑ もし

﹁此 かへ うミ のり やう はニ 付テ

︑脇

!何 角さ また け入 申候 ハゝ

︑菅 浦村 之本 証文 を 出 シ︑ 申わ け仕 候而 らち 明ケ 可申 候﹂ こと を約 束し てい た︒ 実際 に尾 上と 堅田 との 間で は︑ 第一 章で 述べ たよ うに 貞 享 四 年 に﹁ 運 上﹂ を め ぐ っ て 相 論 が 起 こ っ て お り

︑そ の 際 尾 上 側 の 有 力 な 証 拠 と し て︑ 菅 浦 の 保 管 す る﹁ 本 証 文

︵応 永四 年の 契約 状︶ が﹁ かへ 地か へ海

﹂証 文と とも に提 出さ れた と考 えら れる

︒田 中が すで に指 摘し てい るよ うに

﹁菅 浦文 書﹂ のう ちに 応永 の契 約状 の 写 しが 二 通 あり

︑そ の 一 通︵ 七 九七 号

︶の 文 末に

﹁お の 江・ 堅 田出 入 ニ 付︑ 此 通 おの へ与 遣申 候跡 書﹂ とあ るの は!

︑ この 折の こと では ない かと 推測 され る︒

﹁ 杓の 銭﹂ 慣行 が幕 末ま で続 いて いた こと を考 慮す れば

︑当 水 域 の漁 場 と して の 重 要 性は 近 世 を通 じ て 継続 し て い

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 58 ―

(19)

た もの と推 定さ れる が︑ 一方

︑一 九世 紀に は︑ 竹生 島の

﹁方 八町 之内

﹂は 殺生 禁断 の地 とさ れ︑ 禁漁 区と なっ てい る 様 相を 見る こと がで きる

#

た だ し︑ 堅 田の 釣 猟 師 が風 待 ち のた め に 島に 寄 港 す る場 合 の あっ た こ とも 知 ら れ$

︑ 堅 田 が島 付近 の漁 場に おい て︑ 変わ らず に延 縄漁 を行 って いた こと も明 らか であ る︒ この 竹生 島の 周囲 八町 の殺 生禁 断が いつ の時 代 まで 遡 る か︑ それ を 示 す史 料 は 残 って い な い︒ しか し こ の こと は

︑ 竹 生島 への 信仰 をめ ぐる 時代 的な 変遷 を反 映す るも ので はな いか と考 える

︒竹 生島 は神 仏習 合の 島で ある が︑ 黒田 日 出 男が すで に指 摘す るよ うに

︑中 世の 菅浦 絵図 では 宝厳 寺︵ 神宮 寺︶ より も弁 才天 社︵ 都久 夫須 麻社

︶の 方に 表現 の 中 心が 置か れて いた

%

︒前 述の 竹生 島縁 起や 謡曲

﹁竹 生島

﹂に おい ても

︑漁 人の 信 仰 を 集め る 弁 才天 の 姿 が濃 厚 で あ る

︒し かし やが て西 国札 所と して 宝厳 寺の 観音 信 仰へ と 比 重が 移 っ てい く に つ れて

︑﹁ 観 音 の眼 前

﹂で の 殺生 が 忌 ま れ るよ うに なっ た可 能性 が推 定さ れる

︒神 人以 外は 禁漁 とさ れた 神祇 供祭 の漁 場か ら︑ 観音 霊場 の殺 生禁 断へ とい う 空 間認 識の 変容 プロ セス をう かが うこ とが でき よう

﹇ 付 記

﹈ 本 稿 は 長 浜 市 文 化 的 景 観 保 存 活 用 委 員 会 の

﹁ 菅 浦 の 集 落 景 観 保 存 調 査

﹂ に お い て

︑ 聞 き 取 り 調 査 の 際 に 地 元 の 皆 様 よ り い た だ い た 御 教 示 を 構 想 の 端 緒 と し て い る

︒ 調 査 時 の 区 長 島 田 均 様 は じ め

︑ 菅 浦 絵 図 の 掲 載 を ご 許 可 い た だ い た 現 区 長 島 内 悦 路 様 お よ び 菅 浦 区 の 皆 様 に 厚 く 御 礼 申 し 上 げ た い

! 註 寒 川 辰 清

﹃ 近 江 輿 地 志 略

﹄︵ 本 稿 で は 刊 本 と し て 宇 野 健 一

﹃ 新 註 近 江 輿 地 志 略 全

﹄ 弘 文 堂 書 店

︑ 一 九 七 六 を 用 い た

︶︒

"

堅 田 の 詳 細 に つ い て は

︑ 林 屋 辰 三 郎

・ 飛 鳥 井 雅 道

・ 森 谷 剋 久 編

﹃ 新 修 大 津 市 史 2 中 世

﹄ 一 九 七 九 お よ び 同

﹃ 新 修 大 津 市 史 3 近 世 前 期

﹄ 一 九 八

〇 に 解 説 が あ る

― 59 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(20)

! 伊 賀 敏 郎

﹃ 滋 賀 縣 漁 業 史 上

︵ 概 説

︶﹄ 滋 賀 県 漁 業 協 同 組 合 連 合 会

︑ 一 九 五 四

"

鍛 代 敏 雄 に よ れ ば

︑ 一 六 世 紀 の 堅 田 は 尾 上 か ら も

﹁ 上 乗

﹂ 職 に 伴 う 課 役 銭 と し て 一 貫 三 百 文 を 徴 収 し て い た と い う

︒ 同

﹁ 戦 国 時 代 の 関 所 に つ い て の 一 試 論

│ 近 江 国 沖 島 の 湖 上 関 を め ぐ っ て

﹂ 日 本 歴 史 五

〇 七 号

︑ 一 九 九

︵ の ち に 同 著

﹃ 中 世 後 期 の 寺 社 と 経 済

﹄ 思 文 閣 出 版

︑ 一 九 九 九 に 所 収

︶︒

# 尾 上 の

﹁ 太 田 家 文 書

﹂ に は E と 同 文 の 無 年 紀 の 書 状 が あ る が

︑ そ の 年 を

﹁ 卯

﹂ と し て い る の で

︑ や は り B と 同 じ く 貞 享 四 年 の も の と 推 定 さ れ る

$ 滋 賀 県 内 務 部

﹃ 滋 賀 県 漁 具 の 説 明 と 漁 業 手 続

﹄ 滋 賀 県 内 務 部

︑ 一 九 三 四

% 沖 島 共 有 文 書

﹁ 鳥 猟 場 境 之 覚 書

﹂ 宝 永 五 年

︵ 一 七

〇 八

︶ 九 月

&

た だ し 琵 琶 湖 の 水 鳥 の 猟 場 は 魚 漁 と は 別 の 秩 序 と し て 領 域 が 設 定 さ れ て い る た め

︑ 魚 の 漁 場 範 囲 と 完 全 に 合 致 し て い る わ け で は な い こ と に も 注 意 が 必 要 で あ る

︒ 水 鳥 猟 場 の 設 定 の 論 理 に つ い て は

︑ 東 幸 代

﹁ 江 戸 時 代 に お け る 琵 琶 湖 の 鳥 猟 に つ い て

│ 猟 場 支 配 の 観 点 か ら

﹂︵ 西 川 幸 治

・ 村 井 康 彦 編

﹃ 環 琵 琶 湖 地 域 論

﹄ 思 文 閣 出 版

︑ 二

〇 三

︶ を 参 照

︒ ' 以 下

︑ 菅 浦 文 書 の 引 用 は

︑ 滋 賀 大 学 経 済 学 部 史 料 館 編

﹃ 菅 浦 文 書 上

﹄ 滋 賀 大 学 日 本 経 済 文 化 研 究 所

︑ 一 九 六

︑ 同

﹃ 菅 浦 文 書 下

﹄︑ 一 九 六 七 の 文 書 番 号 に よ る

︒ な お

︑ こ の 書 状 に つ い て は

︑ 後 述 の 応 永 四 年 の 契 約 状 と の 関 わ り で

︑ 田 中 克 行 が 分 析 を 加 え て い る

︵ 田 中 克 行

﹃ 中 世 の 惣 村 と 文 書

﹄ 山 川 出 版 社

︑ 一 九 九 八

︑ 五 三

│ 六 六 頁

︶︒ 以 下 の 菅 浦 文 書 の 翻 刻 は 田 中 の 校 訂 に 従 っ た

︒ ( 前 掲' 田 中 論 文

︒ ) 東 幸 代 は こ の 文 書 の 年 紀 表 記 に 矛 盾 の あ る こ と を 指 摘 し て お り

︵ 慶 長 へ の 改 元 は 文 禄 五 年 一

〇 月 に 下 る 点

︶︑ そ の 真 正 性 に は 疑 問 が 提 起 さ れ て い る

︵ 東 氏 の ご 教 示 に よ る

︶︒ 東 幸 代

﹁ 近 世 の 菅 浦

﹂︵ 長 浜 市 文 化 的 景 観 保 存 活 用 委 員 会 編

﹃ 菅 浦 の 集 落 景 観 保 存 調 査 報 告 書

﹄ 長 浜 市 教 育 委 員 会

︑ 印 刷 中

︶︒

* 前 章 で 触 れ た よ う に

︑ 貞 享 四 年 の

﹁ 運 上

﹂ を め ぐ る 相 論 で は 尾 上 側 の 主 張 が 全 面 的 に 認 め ら れ て お り

︑ こ の 相 論 に 際 し て 菅 浦 と も 連 携 の う え

︑ 関 係 文 書 が 提 出 さ れ た 可 能 性 が 高 い

︒ 前 章 の 史 料 B で も

︑ 堅 田 か ら の 手 形 と し て

︑ 今 後 も し

﹁ 運 上

﹂ を 怠 っ た 場 合 に は

﹁ 尾 上 村 の 証 文

割 之 内 ヘ ハ 参 申 間 敷 候

﹂ と あ り

︑ こ の 時 す で に 尾 上 の 漁 場 支 配 を 示 す

﹁ 証 文

﹂ が 存 在 し て い た こ と が わ か る

︒ な お

︑﹁ 証 文

﹂ に つ い て の 詳 細 は 以 下 に 述 べ る

︒ + 古 関 大 樹

﹁ 葛 籠 尾 半 島 の 争 論 と 絵 図

﹂︵ 高 月 町 編

﹃ 高 月 町 史 景 観

・ 文 化 財 編 分 冊 一

﹄ 二

〇 六

︶ 一 七

│ 一 七 三 頁

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 60 ―

(21)

% 尾 上 共 有 文 書

﹁ 替 地 替 う み 証 文 案

﹂ 慶 帳 元 年 申 二 月 一 日

&

例 え ば 網 野 善 彦

﹃ 日 本 中 世 の 非 農 業 民 と 天 皇

﹄ 岩 波 書 店

︑ 一 九 八 四 に み え る 菅 浦 供 御 人 像 な ど

︒ ' 赤 松 俊 秀

﹁ 戦 国 時 代 の 菅 浦

│ 供 御 人 と 惣 続 論

﹂ 京 都 大 学 文 学 部 研 究 紀 要 五

︑ 一 九 五 九

︑ 一 八 三

│ 二 三 七 頁

︒ ( 太 田 浩 司

﹁ 中 世 菅 浦 に お け る 村 落 領 域 構 成

│ 景 観 復 原 を 通 し て

﹂ 史 林 七

│ 四

︑ 一 九 八 七

︑ 一 一 四

│ 一 四 九 頁

︒ ) 水 野 章 二 は

︑ 中 世 後 期 の 村 落 の 新 た な 柴 確 保 の 動 き に つ い て

︑﹁ 山 林 資 源 に ア ク セ ス す る に は

︑ 山 へ 入 る 道 作 り が 前 提 だ っ た

﹂ こ と を 指 摘 し て い る

︵ 同

﹁ 中 世 の 里 山 空 間

﹂︵ 勝 山 清 次 先 生 退 職 記 念 事 業 会

﹃ 勝 山 清 次 先 生 退 職 記 念 献 呈 論 文 集

﹄ 京 都 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 日 本 史 研 究 室

︑ 二

〇 一 三

︶ 四

〇 一

│ 四 二

〇 頁

︶︒

﹁ お の ゑ 村 之 山 八 ふ せ 平 を み ち ニ 仕

﹂ と い う 菅 浦 の 動 き も

︑ 山 畑 を 主 眼 と は す る が

︑ こ れ に 合 致 す る も の で あ ろ う

* 前 掲$ 東 論 文

︒ + こ の 山 稼 ぎ へ の シ フ ト に 伴 う 菅 浦 の 背 後 山 地 の 環 境 変 化 に つ い て は

︑ 別 稿 に て 詳 述 し て い る

︒ 佐 野 静 代

﹁ 水 辺 の 生 活 と 中 近 世 の 景 観

﹂︵ 長 浜 市 文 化 的 景 観 保 存 活 用 委 員 会 編

﹃ 菅 浦 の 集 落 景 観 保 存 調 査 報 告 書

﹄ 長 浜 市 教 育 委 員 会

︑ 印 刷 中

︶︒ , 前 掲# 田 中 論 文

︒ - 地 元 で の 聞 き 取 り に 際 し て は

︑ 菅 浦 区 長

︵ 当 時

︶ の 島 田 均 氏 に お 世 話 に な っ た

︒ . 長 谷 川 博 美

﹁ 阿 曽 津 千 軒 と 有 漏 神 社 考

︵ 前

︶﹂ 民 俗 文 化 五 八 四

︑ 二

〇 一 二

︑ 六 七 三 八

│ 六 七 四

〇 頁

︒ / な お

︑ 地 元 の 伝 承 で は

︑ 堅 田 の 延 縄 漁 民 達 が 当 地 付 近 の 阿 曽 津 の 竹 を 伐 っ て 船 棹 に 用 い て い た と い う

︵ 高 月 町 教 育 委 員 会 編

﹃ 高 月 町 の む か し 話

﹄ 一 九 八

︶︒ 0 文 中 の

﹁ ほ う ち や う

﹂ が 方 張 を さ す 可 能 性 に つ い て は

︑ す で に 伊 賀

︵ 前 掲!

︶ と 田 中

︵ 前 掲#

︶ の 指 摘 が あ る

︒ 1 菅 浦 文 書 三 九 七 号

︑ 三 九 八 号

︒ 2 菅 浦 文 書 三 九 二 号

〜 三 九 六 号 に 記 さ れ る こ の 相 論 は 無 年 号 で あ る が

︑ 前 掲# 田 中 論 文 で は こ れ を 他 の 文 書 群 と の 関 係 か ら 応 永 五

・ 六 年 頃 と 推 定 し て い る

︒ 3 菅 浦 文 書 三 九 五 号

︒ 4 菅 浦 文 書 三 九 三 号

︒ 5 前 掲"

︒ 6 佐 野 静 代

﹁ 琵 琶 湖 の 自 然 環 境 か ら み た 中 世 堅 田 の 漁 撈 活 動

﹂ 史 林 第 九 六 巻 五 号

︑ 二

〇 一 三

︑ 三 六

│ 六 九 頁

― 61 ― 琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦

(22)

"

滋 賀 県 教 育 委 員 会 編

﹃ 琵 琶 湖 総 合 開 発 地 域 民 俗 文 化 財 特 別 調 査 報 告 書 二 び わ 湖 の 専 業 漁 撈

﹄︶ 一 九 八

︑ 一 四 八 頁

# 釣 猟 師 組

︵ 小 番 城

︶ 共 有 文 書

﹁ 水 産 會 へ 上 申 ノ 一 年 間 ノ 漁 獲 高

﹂ 明 治 十 五 年 九 月

︵ 喜 多 村 俊 夫

﹃ 江 州 堅 田 漁 業 史 料

﹄ ア チ ッ ク ミ ュ ー ゼ ア ム

︑ 一 九 四 二 で の 文 書 番 号 一 六 九

︶︒

$ 黒 田 日 出 男

﹁ 竹 生 嶋 神 領 菅 浦 の 堺 相 論

﹁ 近 江 国 菅 浦 与 大 浦 下 庄 堺 絵 図

﹂︵ 同

﹃ 中 世 荘 園 絵 図 の 解 釈 学

﹄ 東 京 大 学 出 版 会

︑ 二

︶ に 研 究 史 の 整 理 が あ る

% 前 掲! 田 中 論 文

︑ 三 五 頁

&

瀬 田 勝 哉

﹁ 菅 浦 絵 図 考

﹂ 武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 七 巻 二 号

︑ 一 九 七 六

︑ 一

│ 三 九 頁

︒ ' 前 掲$

︒ ( 前 掲$

︒ ) 下 坂 守

﹁ 古 絵 図 と 古 文 書

│ 堺 相 論 絵 図 を 中 心 に

﹂︵ 京 都 国 立 博 物 館 編

﹃ 古 絵 図 の 世 界

﹄ 一 九 八 四

︶︒ 小 山 靖 憲

﹁ 菅 浦 絵 図 の コ ス モ ロ ジ ー

﹂︵ 同

﹃ 中 世 村 落 と 荘 園 絵 図

﹄ 東 京 大 学 出 版 会

︑ 一 九 八 七

︶︒

*

﹁ 諸 寺 縁 起 集

﹂ 所 載

﹁ 竹 生 島 縁 起

﹂ の 解 題

︵ 鈴 木 学 術 財 団

﹃ 大 日 本 佛 教 全 書

﹄ 第 九 三 巻 解 題 三

︑ 一 九 七 三

︶ に よ る

︒ + そ の 論 証 に つ い て は

︑ 前 掲&

瀬 田 論 文 に 詳 し い

︒ , 前 掲&

︒ 例 え ば

﹁ 檀 那 院 衆 徒 等 申 状

﹂︵ 菅 浦 文 書 六 二 七 号

︶ で は

﹁ 弁 才 天 女 垂 迹 之 勝 地

﹂ で あ る 竹 生 島 の 霊 威 と

︑ そ の 領 地 で

﹁ 不 断 常 燈 所 進 地

﹂ で あ る 菅 浦 の 位 置 づ け が 説 か れ て い る

︒ -

﹁ 諸 寺 縁 起 集

﹂ 竹 生 島 縁 起

︵ 鈴 木 学 術 財 団

﹃ 大 日 本 佛 教 全 書

﹄ 第 八 三 巻 寺 誌 部 一

︑ 一 九 七 三

︶︒ . 苅 米 一 志

﹁ 日 本 中 世 に お け る 殺 生 観 と 狩 猟

・ 漁 撈 の 世 界

﹂ 史 潮 四

〇 号

︑ 一 九 九 六

︑ 六

│ 三

〇 頁

︒ / 謡 曲

﹁ 竹 生 島

﹂ で も 浦 の 漁 師 に 身 を 変 え た 龍 神 と 天 女

︵ 弁 才 天

︶ が 登 場 し て お り

︑ 漁 民 の 信 仰 を 集 め て い た こ と が う か が え る

︒ 0 保 立 道 久

﹁ 腰 袋 と

﹃ 桃 太 郎

﹄﹂

︵ 同

﹃ 物 語 の 中 世

│ 神 話

・ 説 話

・ 民 話 の 歴 史 学

﹄ 講 談 社

︑ 二

〇 一 三 に 所 収

︶︒ 1 前 掲! 田 中 論 文

︒ 2 竹 生 島 文 書

﹁ 堅 田 釣 猟 惣 代 一 札

﹂ 天 保 二 年 九 月

︒ 3 前 掲2 に よ る

︒ 4 前 掲$

琵琶湖の「杓の銭」と中近世の堅田・菅浦 ― 62 ―

図 2 近江国菅浦与大浦下庄堺絵図

参照

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