室町時代における玄宗・楊貴妃像 : 『梅花無尽蔵
』を中心に
著者 村木 桂子
雑誌名 文化學年報
号 62
ページ 529‑545
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027756
室町時代における玄宗・楊貴妃像 : 『梅花無尽蔵
』を中心に
著者 村木,桂子
雑誌名 文化學年報
号 62
ページ 529‑545
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027756
室 町 時 代 に お け る 玄 宗
・ 楊 貴 妃 像
│
│
﹃ 梅花 無 尽 蔵﹄ を 中 心に
│
│
村 木 桂 子
は じ め に 唐
の玄 宗 皇 帝︵
685
〜
762
︑在 位
712
〜
756
︶と 楊 貴 妃︵
719
〜
756
︶を 題 材と す る 絵画 は
︑平 安 時 代 か ら 江 戸 時 代 に わ た り︑ 出典 を広 げ︑ 形式 を増 大し
︑様 式を 変化 させ
︑用 途を 追加 しな がら 連綿 と描 き継 がれ てき た︒ この 玄宗 と楊 貴妃 を 題材 とす る絵 画で 現存 する もの は︑ ほと んど が桃 山時 代以 降の 作例 であ る︒ これ ら現 存作 品の 主題 を見 ると
︑平 安時 代 より 描き 継が れて きた 白居 易の 詩﹁ 長恨 歌﹂ に基 づく
﹁長 恨歌 図﹂ に加 えて
︑五 代の 王仁 裕の
﹃開 元天 寶遺 事﹄ に掲 載 され た玄 宗関 連の 逸話 に基 づく
﹁玄 宗故 事図
﹂と もよ ぶべ き絵 画が 新た に出 現し たこ とが わか る!
︒ この
﹁玄 宗故 事図
﹂は
︑狩 野一 渓︵ 慶長 四〜 寛文 二年
︑
1599
〜
1662
︶が 著し た﹃ 後素 集﹄ に掲 載の 画題 と共 通す るも の が少 なく ない
︒﹃ 後 素集
﹄は
︑画 題解 説に 多く の頁 を割 い てお り
︑な か でも 玄 宗 お よび 楊 貴 妃関 連 の 画題 は 四 十 ほど が 記 さ れて い る︒ そ の内 訳 を み ると
︑玄 宗 の 画題 は
︑﹁ 帝 王﹂ の部 の 三 十 七件 の う ち十 六 件 を 占 め
︑楊 貴 妃 の 画 題 は︑
﹁美 人﹂ の部 三十 六件 のう ち︑ 楊貴 妃の 三 人の 姉 で ある 韓 国 夫 人︑
!
国 夫 人︑ 秦国 夫 人 を描 く﹁
!
国夜 遊 図﹂ を 含 む十 五 件を 挙げ てい る︒ この ほか 玄宗 およ び楊 貴妃 関連 の画 題は︑﹁ 仕 臣﹂ 二件
︑﹁ 器用
﹂二 件︑
﹁ 仙女
﹂一 件︑
﹁隠 逸﹂ 一件
― 529 ―
が 確認 でき る︒ また
︑こ れら の画 題の うち 十二 件 は︑
﹃ 開元 天 寶 遺事
﹄の 逸 話 と 共通 す る もの で
︑桃 山 時代 か ら 江 戸時 代 初期 にか けて
﹁風 流陣 図﹂ や﹁ 並笛 図﹂ など の玄 宗お よび 楊貴 妃関 連の 画題 に基 づく 絵画 が多 数制 作さ れた こと を裏 付 けて いる
︒す なわ ち︑ 中国 から もた らさ れた
﹃開 元 天 寶遺 事
﹄は
︑禅 僧 など の 限 ら れた 知 識 人に 享 受 され て い た が︑ 狩 野派 の門 弟に 資す るた めに 編纂 され た﹃ 後素 集﹄ で改 めて 画題 とし て紹 介さ れる こと によ って
︑玄 宗と 楊貴 妃の 逸話 は
︑中 国の 宮廷 風俗 を描 く画 題と して 成立 し︑ 広く 流布 して いっ たの であ る!
︒ ただ し︑ 室町 時代 の作 例は
︑南 禅寺 所蔵 の︽ 扇面 貼交 屏風
︾に 貼り 付け られ た数 面の 扇面 など がわ ずか に遺 るば かり で あり
︑現 存作 品か ら室 町時 代の 玄宗
・楊 貴妃 像の 様相 がい かな るも ので あっ たの かを 具体 的に 把握 する こと は困 難で あ る︒ とは いえ
︑十 五世 紀半 ば以 降に 五山 文学 にお いて 楊貴 妃関 係の 題画 詩が 急増 し︑ 禅林 での 楊貴 妃愛 好の 風潮 がが 絵 画の 内容 に反 映さ れた だけ では なく
︑﹃ 後 素集
﹄に 掲載 され た 画題 の 内 容に お い て も原 典 と のず れ を 生じ さ せ た もの が 認め られ ると いう
"
︒ そこ で本 稿で は︑ 第一 章で 南禅 寺所 蔵の
︽扇 面貼 交屏 風︾ の扇 面の うち
︑五 山の 禅僧 の着 賛の ある
﹁玄 宗故 事図
﹂が ど のよ うな 内容 のも ので ある かを 確認 する
︒第 二章 では
︑室 町時 代中 期か ら末 期に 活躍 した 万里 集九
︵正 長元
〜文 亀三 年
︑
1428
〜
1503
︶の 詩文 集で ある
﹃梅 花無 尽蔵
﹄に おけ る玄 宗お よび 楊貴 妃関 連の 題画 詩を 取り 上げ
︑室 町時 代末 期の 玄 宗・ 楊貴 妃像 の特 徴を 明ら かに する
︒五 山文 学の 中か らと くに 万里 集九 の詩 文集 を取 り上 げる のは
︑玄 宗・ 楊貴 妃関 連 の絵 画に ちな んだ 詩を 多数 詠ん でい るこ とと
︑万 里集 九自 身が 応仁 の乱 後に 還俗 して 都か ら地 方へ 移住 し︑ 地方 の豪 族 など との 交流 を通 して 当時 の玄 宗・ 楊貴 妃像 に対 する 禅林 の嗜 好の みな らず 世俗 の嗜 好を 理解 する こと がで きる から で ある
︒
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 530 ―
第一 章 南禅 寺 の
︽扇 面 貼 交屏 風
︾ 南禅
寺所 蔵の
︽扇 面貼 交屏 風︾ は︑ 二百 四十 面の 扇面 を一 扇に つき 五面 ずつ を整 然と 貼り 交ぜ て六 曲八 隻の 屏風 に仕 立 て た もの で あ る︒ 寺伝 に よ る と︑ この 屏 風 は後 陽 成 天皇
︵
1571
〜
1617
︑在 位
1586
〜
1611
︶の 御 下賜 品 と し て 伝 え ら れ てい るも ので
︑こ の伝 承に 従う なら ば︑ 後陽 成天 皇が 崩御 する 元和 三年 以前 には
︑す でに 屏風 形式 にな って いた と考 え ら れ る!
︒ これ ら の 夥し い 数 の 扇面 は
︑す べ てに 摺 畳 あと が 認 め ら れ︑ 実 際 に 扇 と し て 使 用 さ れ て い た こ と が わ か る
︒そ れは
︑本 屏風 が当 初か ら屏 風と して 鑑賞 する ため に意 図的 に扇 面と いう 形状 を選 択し たも ので はな く︑ 手元 に遺 っ た 扇 面を あ る 時点 で 屏 風 に貼 付 さ れた も の と考 え ら れ てい る"
︒そ れ ゆえ
︑こ れ ら の扇 面 に は︑ 山 水︑ 人 物︑ 花 鳥︑ 走 獣 な どの 図 様 が水 墨 や 金 碧濃 彩 な どの 技 法 で描 か れ て おり
︑当 時 流 通し て い た扇 面 の 多 彩な 様 相 を見 る こ とが で き る
︒ま た︑ それ らは
︑十 六世 紀初 めか ら十 七世 紀初 めま での およ そ百 年間 に制 作さ れた もの であ る︒ とい うの は︑ この う ち︑ 三十 五面 の扇 面に は︑ 南禅 寺に 縁の ある 十五 人の 禅僧 達の 着賛 があ り︑ 彼ら の生 没年 から おお よそ の制 作年 代が わ かる から であ る︒ この 賛者 うち
︑最 も古 いも のは 月舟 寿桂
︵生 年未 詳〜 天文 二年
︑
1533
︶ で︑ 最も 新し いも のは 後陽 成 天皇 の詩 会に 参加 した 集雲 守藤
︵天 文七
〜元 和七 年︑
1538
〜
1621
︶ であ る#
︒ 本 屏 風 に お け る 玄 宗 お よ び 楊 貴 妃 に ま つ わ る 画 題 は︑
﹁風 流 陣 図﹂ が 三 面︑
﹁明 皇 蝶 幸 図﹂ が 二 面︑
﹁明 皇 撃 梧 図﹂
︑
﹁明 皇乗 車図
﹂︑
﹁ 並笛 図﹂
︑﹁ 護 花鈴 図﹂
︑﹁ 李 白清 平調 図﹂ が 各一 面 の 合計 十 面 で あり
︑こ れ ら はす べ て 金碧 濃 彩 で 描か れ てい る︒ これ は︑ 本屏 風に 貼付 され た漢 の高 祖︑ 秦の 始皇 帝な どの 中国 皇帝 を描 いた 故事 図十 九面 のう ち︑ 玄宗 単独 を 描い たも のが 八 面 を数 え る こと か ら も︑ 玄宗 関 連 の 画題 が 当 時の 禅 林 にお い て 大 いに 人 気 があ っ た こと が 窺 え る$
︒ ま た
︑玄 宗 およ び 楊 貴 妃 関 連 の 十 面 の う ち
﹁風 流 陣 図
﹂︵ 二 百 十 二 面
︶︵ 図 1︶ に は
%
春 龍 喜︵1510
〜
1593
︶︑
﹁風 流 陣
― 531 ― 室町時代における玄宗・楊貴妃像
図
﹂︵ 二 百 三十 三 面︶ に は維 杏 永 哲︵
?〜
1603
頃
︶︑
﹁ 明皇 蝶 幸 図﹂
︵三 十 七 面
︶に は 雪 嶺 永 瑾︵
?〜
1537
︶の 題 詩 が 認 め られ るこ とか ら︑ これ らは 室町 時代 末期 の﹁ 玄宗 故事 図﹂ の絵 画遺 品と して 注目 に値 する
︒ 例え ば︑
"
春 龍喜 の題 詩 が 付さ れ た﹁ 風 流陣 図
﹂︵ 二 百 十二 面
︶︵ 図1
︶の 題 詩 と﹃ 開元 天 寶 遺事
﹄お よ び
﹃後 素 集﹄ の
﹁風 流陣
﹂の 記述 を順 に見 ると 次の とお りで ある
︒ 恩
露妝 新楊 太真
干 戈叢 裡闘 妃嬪
三 郎不 識承 平後
花 陣散 成兵 馬塵
め ぐ
よ そお ひ
︵恩 を露 まれ 妝新 たな 楊太 真︑ 干戈 の叢 裡妃 嬪を 闘は す︑ 三郎 承平 の後 を識 らず
︑花 陣散 り兵 馬の 塵を 成す
︶
︻現 代語 訳︼ 玄 宗の 恩寵 を受 けて
︑粧 いも 新た にし た美 しい 楊太 真は
︑武 器に 見立 てた 花枝 を低 木の 茂み のよ うに 立た せた 中で 妃 嬪を 闘わ せた
︒玄 宗は
︑長 く続 いた 太平 の世 の後 がど のよ うに なっ たか を知 らな かっ た︒ 花軍 の陣 が崩 れて 散り 散 りに なっ た様 子は
︑あ たか も戦 場で 兵馬 のた てる 土埃 のよ うだ
︒
﹃開 元天 寶遺 事﹄ 巻下
天 寶!
風 流陣 明 皇 與 貴妃
︑毎 至 酒 酣︑ 使妃 子 統 宮 妓百 餘 人︑ 帝 統小 中 貴 百餘 人
︑排 兩 陣 于 掖 庭 中︑ 目 爲 風 流 陣
︒以 霞 被 錦 被 張 之
︑爲 旗幟 攻
#
相$
︑敗 者罰 之巨
%
以 戲笑︑時 議以 爲不 祥之 兆︑ 後果 有祿 山兵 亂︑ 天意 人事 不偶 然也
︒
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 532 ―
︻現 代語 訳︼ 玄 宗と 楊貴 妃は 酒宴 が酣 にな ると
︑楊 貴妃 は宮 女百 人を
︑玄 宗は 臣下 百人 をそ れぞ れ統 べて
︑太 液庭 に二 軍に 分け て 陣営 を構 えて これ を風 流陣 とし た︒ 錦や 綾で 飾っ た幟 で両 軍が 攻撃 しあ う︒ 敗者 は罰 とし て大 盃の 酒を 飲み 干し て
︑戯 れに 笑い さざ めく ので ある
︒当 時の 人々 は︑ この よ う な戦 の 真 似事 は 不 吉 な兆 し で ある と 語 り合 っ て い た︒ 後 年安 禄山 の乱 が起 こる が︑ 天の 道理 も人 間の 営み も偶 然な もの はな かっ たの であ る︒
﹃後 素集
﹄美 人 明 皇と 貴妃
︑酒 酣の 時︑ 官女 百余 人を 両陣 にわ け太 液庭 にて 花枝 を持
︑相 たゝ かふ
︑是 を見 て楽 しめ る体
︒
!
春 龍 喜の 題画 詩は︑﹃ 開 元天 寶遺 事﹄ の玄 宗と 楊貴 妃の 風 流陣 の 故 事を 踏 ま え てい る の は明 ら か だが
︑両 者 は 風 流陣 と いう 宮廷 風俗 の様 相だ けで なく
︑太 平の 世の 後に 起こ る安 禄山 の乱 への 警告 とも いう べき 文言 を記 して いる
︒そ れに 対 して
︑﹃ 後 素集
﹄で は︑
﹃開 元天 寶遺 事﹄ の﹁ 風流 陣﹂ の逸 話 の 前半 部 分 の花 軍 の 様 子を 描 く こと を 目 的と し て お り︑ 華 麗な 宮廷 風俗 のみ を画 題と して 採用 して いる こと がわ かる
︒こ の扇 面に は︑ 右に 玄宗
︑左 に楊 貴妃 の陣 を配 し︑ それ ぞ れに 花枝 を捧 げも った 宮女 を従 えて いる 図様 が︑ 鮮や かな 色彩 で描 かれ てい る︒ この 図様 は﹃ 後素 集﹄ の記 述と ほぼ 合 致し てお り︑ この 平面 で明 るい 色遣 いの 画面 には
︑宮 殿に 迫る 兵馬 の描 写な どの 不吉 な兆 しを 連想 させ るモ チー フは 全 く 描 か れ て い な い︒ さ ら に
︑江 戸 初 期 の 作 例 で あ る︽ 風 流 陣 図 屏 風
︾︵ 六 曲 一 双
︑紙 本 金 地 著 色︑
各
159.8
×
358.4
cm
︑岡 山 県立 博 物 館蔵
︑図 2︶ に おい て も︑ 右 隻 に玄 宗 の 陣を
︑左 隻 に 楊貴 妃 の 陣 を配 す る 図様 は 南 禅寺 の 扇 面 と同 様 の 構 成で あ り︑ 図 様か ら は﹁ 長 恨 歌﹂ に詠 わ れ た不 吉 な 兆し は 窺 う こと は で きな い
︒こ の こ と か ら も
︑風 流 陣 図 が
﹃後 素集
﹄の 記述 に忠 実に
︑宮 廷風 俗を 描く こと に重 点 を置 い て いる こ と が わか り
︑画 面 の大 き さ に関 わ ら ず︑ 画 題に
― 533 ― 室町時代における玄宗・楊貴妃像
よ って モチ ーフ やそ の配 置が 定型 化し てい る状 況を 示し てい る︒ 五山 詩の 玄宗
・楊 貴妃 関連 の詩 文で は︑ 戦乱 を暗 示す る 文 言を 挿 入 した り
︑自 然 や 音声 の 描 写で 戦 乱 を暗 示 し た り︑ 華 麗な 宮廷 風俗 の情 景を 戦乱 時と 対応 させ たり して 作詩 する 傾向 があ る と いう
!
︒五 山 詩 では
︑絵 画 の 図様 を そ の まま 正 確に 詩句 に反 映さ せて 詠っ てい るわ けで なく
︑ま た逆 に詩 句の 内容 を忠 実に 絵画 化し てい るわ けで はな いの は勿 論で あ る︒ その ため
︑両 者に は表 現上 の乖 離が 生ず るが
︑失 われ た図 様を 復元 する ため に︑ 禅僧 の残 した 題画 詩︵ 着賛
︶は 重 要 な 手が か り を与 え て く れる と 同 時に
︑当 時 の 禅僧 が 玄 宗 およ び 楊 貴妃 を 白 居易 の﹁ 長 恨 歌﹂
︑陳 鴻 の
﹁長 恨 歌 伝﹂ な どで 得た 文学 的素 養を 基に して 享受 して いた こと がわ かる だろ う︒ 第二 章
﹃梅 花 無 尽蔵
﹄ に みる 玄 宗
・楊 貴 妃 像
︵1
︶万 里集 九 万里 集九
︵正 長元
〜文 亀三 年︑
1428
〜
1503
︶ は︑ 室町 時代 中期 から 末期 に 生 きた 禅 僧 であ る"
︒は じ めは 東 福 寺 に入 り
︑そ の後 相国 寺に 移り
︑雲 頂院 の大 圭宗 价に 師事 して 修行 を積 み︑ 相国 寺の 蔵主 とな った
︒四 十歳 の頃 に応 仁の 乱を 避 けて
︑京 都を 離れ 各地 を放 浪の 末︑ 美濃 の鵜 沼に 辿り 着き 還俗 した
︒こ の地 で﹁ 梅花 無尽 蔵﹂ と名 付け た庵 で生 活を し なが ら︑ 作詩 の指 導︑ 詩の 教授 など で生 計を たて
︑五 十八 歳︵ 文明 十七 年︑
1485
︶の 時に
︑太 田道 灌の 招き を受 けて 江 戸に 下る が︑ 道灌 の死 後に 再び 美濃 に戻 って いる
︒江 戸行 きの 様子 は︑ 彼の 詩文 集で ある
﹃梅 花無 尽蔵
﹄に 詳し い︒ と ころ で
︑三 百 三十 五 年 続い た 五 山 文学 は い くつ か の 時 期に 区 切 られ る が︑ 蔭 木英 雄 は そ れを 次 の 四期 に 分 け て い る
︒す なわ ち弘 安二 年︵
1274
︶ま で を 五山 文 学 以前 と し︑ 第 一 期を 興 隆 期︵
〜元 徳 二年
︑
1330
︶︑ 第二 期 を 最 盛期
︵〜 至 徳三 年︑
1386
︶︑ 第 三期 を爛 熟期
︵〜 応仁 元年
︑
1467
︶︑ 第 四期 を 衰 頽期
︵〜 元 和元 年
︑
1615
︶ とす る#
︒こ れ に よる
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 534 ―
と
︑万 里集 九の 詩は
︑応 仁の 乱以 降の 第四 期に 分類 され るが
︑こ の時 期は 京都 の禅 林で 育ま れた 五山 文学 が︑ 戦乱 を避 け て各 地へ 疎開 する 僧た ちに よっ て︑ 地方 へ一 気に 伝播 した 時期 であ る︒ 美濃 に仮 寓し た万 里集 九も 周縁 の文 化に 大き な 影響 を与 えた こと は想 像に 難く ない
︒と はい え︑ 土地 の豪 族や 武士 らと 積極 的に 交流 した 万里 集九 の詩 風が
︑京 都時 代 と 比 べて 変 容 した わ け で はな く
︑他 の 禅僧 達 と 同様 に
︑以 前 と 代わ ら ぬ 風雅 の 生 活を 継 続 し よう と 固 執し て い た た め
︑第 四期 の詩 風は
︑第 三期 とと くに 異な る特 徴を 見出 すこ とは 出来 ない とい う!
︒
︵2
︶題 画詩 の分 析
﹃ 梅花 無尽 蔵﹄ の第 一巻 から 第三 巻下 には
︑七 言絶 句 がほ ぼ 年 代順 に 採 録 され て い る︒ 表は
︑玄 宗 お よび 楊 貴 妃 に関 連 す る 主な 題 画 詩や 賛 を 十 四件 選 ん で一 覧 に した も の で ある
︒な お
︑本 稿 で用 い る﹃ 梅 花 無 尽 蔵
﹄の 本 文
︑解 釈 な ど は
︑お もに 市木 武雄 注釈
﹃梅 花無 尽蔵 注釈
﹄︵ 第 一巻
〜第 四巻
︑続 群書 類従 完成 会︑ 一九 九三 年︶ を参 照し た︒ これ らの 題画 詩を みる と︑ 必ず しも 出典 が一 つで はな く︑ 複数 の逸 話が 織り 交ぜ られ て詩 句が 形成 され てい るこ とが わ かる
︒今 かり にこ れら の題 画詩 を出 典別 にみ ると
︑A の﹁ 長恨 歌﹂ に基 づく もの
︑B の﹁ 長恨 歌﹂ 以外 の逸 話に 基づ く もの の二 つに 分け るこ とが 出来 る︒ Aは 主と して 白居 易の 詩﹁ 長恨 歌﹂ や陳 鴻の
﹁長 恨歌 伝﹂ に基 づく もの で︑ 蓬莱 仙 宮や 比翼 連理
︑華 清宮 など を詩 句に 盛り 込み
︑玄 宗と 楊貴 妃の 悲恋 を叙 情的 に詠 って いる
︒B は﹁ 長恨 歌﹂ 以外 の玄 宗
・楊 貴妃 関連 の逸 話に 基づ くも ので
︑こ れに は﹃ 旧唐 書﹄
﹃ 唐書
﹄﹃ 楊太 真外 伝﹄ など の歴 史書
︑伝 記の 記述 に基 づい て いる
︒こ れら の出 典は
︑古 代︑ 中世 より 貴族 階級 で培 われ てき た文 学的 関心 に基 づく 玄宗
・楊 貴妃 受容 の伝 統に 則っ た もの であ る︒ それ ばか りで なく
︑B では 杜甫 や李 白が 詠ん だ玄 宗・ 楊貴 妃関 連の 詩を 引用 した り︑ A︑ Bの 出典 に関 わ らず
︑楊 貴妃 の美 しさ を示 す﹁ 海棠 の睡 り未 だ足 らず
﹂と いう 詩句 を頻 繁に 用い たり する など
︑中 国の 詩文 に対 する 文 学的 関心 が更 に強 化さ れて いる こと がわ かる
︒つ まり 禅僧 たち は︑ 玄宗 の恩 寵を 受け る楊 貴妃 の幸 運や 美し さを 中国
― 535 ― 室町時代における玄宗・楊貴妃像
の 詩文 をふ まえ て制 作し てい るの であ る︒ この 禅林 での 楊貴 妃嗜 好は
︑貴 族階 級の 楊貴 妃嗜 好と 相俟 って
︑彼 女に 焦点 を あて た題 画詩 が量 産さ れる こと にな った とい う!
︒ ただ し︑ これ らの 題画 詩を 出典 によ って A︑ Bに 分け たも のの
︑必 ずし も一 つの 題画 詩に 対し て︑ 一つ のエ ピソ ード が 対応 して いる わけ では なく
︑複 数 のエ ピ ソ ード が 配 され て い る もの が 多 い︒ 例え ば
︑表 の2
﹁貴 妃 学 笛 図﹂ は︑
﹃後 素 集﹄ に記 載の
﹁玄 宗楊 貴妃 に笛 を教 へ給 体﹂ とい う﹁ 並笛 図﹂ を描 いた もの であ る︒ 題詩 を見 ると
︑楊 貴妃 が笛 を学 ぶ 情 景 に加 え て︑ 楊 貴妃 の 容 貌 の美 し さ を海 棠 の 花に 喩 え る のは 前 述 のと お り であ る が
︑画 中 に梅 を 描 くこ と に よ っ て
︑一 つの 花に 二つ の実 をつ ける 鴛鴦 梅を 暗示 し︑ そこ から さら に﹁ 長恨 歌﹂ に詠 われ た夫 婦の 仲睦 まじ さを 象徴 する
﹁比 翼連 理﹂ を導 き出 すな ど︑ その 作詩 はい ささ か技 巧 的で あ る︒ こ のよ う に 題 画詩 に 盛 り込 ま れ た多 様 な 逸 話は
︑画 中 に描 きき れな かっ た楊 貴妃 像を 文字 によ って 補足 する もの であ り︑ これ を鑑 賞す るた めに は︑ 中国 の文 学や 歴史 に対 す る深 い素 養が 不可 欠で あっ たと いえ る︒ これ は︑ 第一 章で 述べ た南 禅寺 の︽ 扇面 貼交 屏風
︾﹁ 風 流陣 図﹂ の題 画詩 が︑
﹃後 素集
﹄の 画題 解説 では 触れ なか った 戦乱 につ いて 言 及し て い なが ら
︑扇 面 の 図様 に は 宮廷 風 俗 のみ が 描 か れ︑ 題画 詩 の内 容と 図様 が必 ずし も合 致し てい ない こと と同 様で ある
︒な ぜな ら︑ 五山 の禅 僧は
︑抒 情の 文学 より も︑ 構築 の文 学
︑あ るい は理 智の 文学 を好 む傾 向に あっ たた め︑ より 複雑 な構 成の 詩が 形成 され る結 果と なっ たの であ る︒ 表の 1か ら9 の題 画詩 は︑ 玄宗 や楊 貴妃
︑あ るい は李 白︑ 鍾馗 など が登 場す るが
︑こ れら の絵 画は
︑詩 句の 内容 から 類 推す ると
︑い ずれ も宮 廷風 俗を 描く 故事 人物 画で あっ たこ とは 間違 いな い︒ とこ ろが 10︑ から 14は
︑菊 や牡 丹な どの 花 木や 山茶 花に 鳥を 配し た純 粋な 花鳥 画で ある にも 関わ らず
︑そ こに 一見 モチ ーフ とは 関係 のな い楊 貴妃 のエ ピソ ード が
︑花 の艶 やか さや 清楚 さを 表現 する ため の比 喩と して 詩句 に取 り入 れら れて いる こと が注 目に 値す る︒ 例え ば︑ 12の
﹁山 茶飛 鳥図
屏 風﹂ の題 画詩 は次 のと おり であ る︒
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 536 ―
山 茶顔 色︑ 尚紅 肥︒ 應是 深宮
︑印 醉妃
︒畫 角︑ 漁陽
︑未 吹起
︒一 枝何 事︑ 鳥先 飛︒
︻現 代語 訳︼
﹁山 茶花 と飛 んで いる 鳥の 絵﹂
︵屏 風︶ 山 茶花 の花 の色 は︑ まだ 赤く 肥え てい るが
︑こ れは おそ らく は︑ 奥深 い宮 殿内 で朝 早く から 酒に 酔っ てい る楊 貴妃 と も云 うべ きで あろ う︒ 安禄 山が 乱を 起こ した あの 漁陽 では
︑ま だい くさ の笛 が吹 き鳴 らさ れて いな いの に︑ どう し て木 の枝 から 鳥が 飛び 立っ てい るの であ ろう か︒ この
絵は
︑赤 くふ っく らと した 山茶 花の 花か ら鳥 が飛 び立 つ様 子を 描い た花 鳥画 であ ろう
︒さ しず め︑ 万里 集九 と同 時 代を 生き た瑞 渓 周 鳳の 着 賛 のあ る
︽山 茶 小禽 図
︾︵ 図3
︑紙 本 墨 画 着色
︑
79.4
×
28.2 cm
︑一 四 七 三年
︑京 都 国 立 博物 館
︶の よう な図 様の 絵画 であ ろう か︒ 例え ばこ の︽ 山茶 小禽 図︾ の題 画詩 には
︑次 のよ うな 詩文 が記 され てい る!
枝 々厚 葉映 深花
南 國曾 聞此 樹嘉
一 鳥飛 来報 春否
在 山猶 似認 家茶
︻現 代語 訳︼ 枝 ごと の厚 い葉 は深 く咲 く花 に映 えて いる
︒南 国で はこ の木 を喜 ぶと いう こと だ︒ 鳥が 飛ん でき たが
︑春 を告 げて い るの であ ろう か︒ 山に はえ るこ の山 茶で はあ るが
︑家 園の 茶の 木と みま ごう ばか りだ
︽ 山茶 小禽 図︾ は︑ 幹や 枝を 辺角 の構 図に 取り
︑緑 色の 肉 厚の 葉 に 白地 に 紅 を 刷い た 山 茶花 の 色 彩を 対 比 さ せ︑ 中央
― 537 ― 室町時代における玄宗・楊貴妃像
に 小禽 を配 して おり
︑そ の絵 は自 然風 景を 切り 取っ てき たか のよ うな 印象 を受 ける
︒こ の瑞 渓周 鳳と 前述 の万 里集 九の 詩 を比 較す ると
︑瑞 渓周 鳳は
︑絵 画の 情景 を素 直に 詩に 置き 換え てい るこ とが 良く 分か る︒ しか し︑ 万里 集九 は︑ 画中 の 山茶 花の 赤い 花の 色か ら朝 早く から 酒に 酔っ た楊 貴妃 の上 気し た頬 を連 想し
︑急 に鳥 が飛 び立 った のは
︑迫 り来 る安 禄 山の 軍勢 に起 因す ると いう よう に︑
﹃ 開元 天 寶遺 事
﹄や
﹁長 恨 歌﹂ の故 事 を 持 ち込 ん で︑ 花 鳥画 の 中 から 詩 を 読 み解 こ うと 試み てい るの であ る︒ これ は︑ かつ て室 町時 代前 期に 隆盛 した 詩画 軸が 中国 の詩 の教 養を 背景 とし て︑ 絵画 に詩 を 視覚 的に 具体 的に 連想 しよ うと する 態度 に通 じる
!
︒一 見何 の変 哲も ない 花 鳥 や花 木 を 描く 絵 画 でさ え も︑ 詩 を 付す こ とに よっ て︑ 楊貴 妃の 栄華 と凋 落を それ らに 擬 え て巧 み に 対比 す る こ とが で き るの で あ る︒ それ は
︑﹁ 長 恨 歌﹂ をは じ めと する 文献 資料 に対 する 深い 見識 と理 解が なけ れば 成立 しえ ない
︑博 識な 万里 集九 なら では の詩 であ る︒ 万里 は自 分 の作 品に 出 典 の自 註 を つけ る な ど博 学 を 誇 示す る 傾 向が あ り"
︑ 花 鳥画 に 楊 貴 妃︑ 安禄 山 の 乱の 故 事 を用 い た の も︑ 万 里の 史癖 のな せる もの であ ると いう
#
︒前 述の よう に︑ 玄宗
・楊 貴妃 を題 材 と する 五 山 詩に は
︑戦 乱 を暗 示 す る 文言 を 挿入 した り︑ 自然 や音 声の 描写 で戦 乱を 暗示 した りす る特 徴が ある
$
︒そ れは 五 山 詩の 作 詩 の特 徴 で ある の は 確 かだ が
︑五 山文 学の 第四 期に 位置 し︑ 応仁 の乱 を逃 れて
︑地 方を 彷徨 った 万里 集九 の境 遇が
︑玄 宗の 蜀へ の逃 避行 に重 ね合 わ され て︑ 単な る花 鳥画 にさ えも 戦乱 の情 景を 詠み 込ま せた ので はな いだ ろう か︒ お わ り に 五山
文学 の末 期に 位置 づけ られ る万 里集 九の
﹃梅 花無 尽蔵
﹄は
︑五 山文 学の 享受 者が 都の 禅僧 だけ では なく
︑地 方の 豪 族 や 武士 な ど に拡 散 し た 時期 で あ った
︒し か し︑ 五 山文 学 は
︑地 方 で土 着 化 や世 俗 化 する こ と は な か っ た
︒そ れ ゆ え
︑質 的変 化が 起こ るこ とも なか った
︒な ぜな ら彼 らの 詠う 隠逸 や脱 俗は
︑文 学的 観念 的世 界で のみ 感得 する こと がで
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 538 ―
き るか らで ある
︒ 万里 集九 は︑
﹃ 梅花 無尽 蔵﹄ の題 画詩 以外 の詩 文 にお い て も︑ 玄宗
・楊 貴 妃 に 関す る 故 事を 頻 繁 に引 用 し て いる
︒し か し な がら
︑五 山 の 禅僧 に よ る 文学 と 絵 画に よ る 楊貴 妃 愛 好 は︑ 即座 に 世 俗の 世 界 に敷 衍 し て いっ た わ けで は な か っ た
︒こ のこ とは
︑後 年﹃ 後素 集﹄ など によ って
︑玄 宗関 連の 逸話 が画 題と して 簡略 化さ れ︑ 定型 化さ れて はじ めて
︑そ の 図様 とと もに 爆発 的に 広が って いっ たの であ る︒ 言い 換え れば
︑文 学的 世界 と距 離を 置く こと によ って
︑玄 宗・ 楊貴 妃 像は 世俗 空間 を彩 る風 俗画 の対 象と なっ たと いえ るだ ろう
︒
! 註
﹃ 開 元 天 寶 遺 事
﹄ は
︑ 玄 宗 皇 帝 治 世 の 開 元
︵713
〜741
︶ 年 間 お よ び 天 寶
︵742
〜755
︶ 年 間 に 皇 帝 と そ の 周 辺 で お こ っ た さ ま ざ ま な 事 蹟 を 記 し て お り
︑ 当 時 の 宮 廷 の 様 相 が 垣 間 見 え る 逸 話 を 多 数 収 録 し て い る
︒
"
狩 野 一 渓 が 著 し た
﹃ 後 素 集
﹄︵ 坂 崎 坦 編
﹃ 日 本 画 論 大 観
﹄ 上
︑ ア ル ス
︑ 一 九 二 九 年 所 収
︶ は 元 和 九 年
︵1623
︶ の 自 跋 が あ り
︑ 全 三 巻 か ら な っ て い る
︒ 第 一 巻 の 前 半 で
﹃ 図 絵 宝 鑑
﹄ な ど の 中 国 の 畫 論 を 取 り 上 げ て そ の 解 説 を お こ な っ て お り
︑ 巻 末 に は
﹃ 君 台 観 左 右 帳 記
﹄ を 掲 載 し て お り
︑ 画 題 解 説 に 多 く の 頁 数 を 割 い て 紹 介 し て い る
︒
# 岩 山 泰 三
﹁ 五 山 詩 に お け る 楊 貴 妃 像
│ 題 画 詩 と
﹃ 後 素 集
﹄﹂
﹃ 国 文 学 研 究
﹄ 一 三 一 号
︑ 二
〇
〇
〇 年
︑ 四 七
〜 五 二 頁
$ 武 田 恒 夫
﹃ 南 禅 寺 扇 面 屏 風
﹄ フ ジ ア ー ト 出 版
︑ 一 九 六
〇 年
︑ 一 二
〜 一 三 頁
︒ な お
︑ 武 田 は 三 十 五 面 の 扇 面 に 施 し た 禅 僧 の 着 賛 状 況 を ふ ま え る と
︑ こ の 屏 風 が 後 陽 成 天 皇 の 御 下 賜 品 で あ る と す る よ り も
︑ 南 禅 寺 に 伝 世 し た 可 能 性 を 指 摘 し て い る
︒
% 並 木 誠 士
﹃ 絵 画 の 変
│ 日 本 美 術 の 絢 爛 た る 開 花
﹄﹁ 中 公 新 書
﹂ 一 九 八 七
︑ 中 央 公 論 新 社
︑ 二
〇
〇 九 年
︑ 一 一
〇
〜 一 一 一 頁
&
同 前
︑ 一 五
〜 一 八 頁 ' 南 禅 寺 所 蔵 の
︽ 扇 面 貼 交 屏 風
︾ で は
︑ 中 国 の 皇 帝 の 故 事 を 描 い た も の と し て 計 十 九 面 を 数 え る が
︑ 玄 宗 関 連 の 八 面 を 除 く 内 訳 は 次 の 通 り で あ る
︒ 漢 の 高 祖 の
﹁ 鴻 門 宴 図
﹂ 三 面
︑ 漢 の 武 帝 に 関 す る
﹁ 漢 武 延 年 図
﹂ 一 面
︑ 後 漢 光 武 帝 に 関 す る
﹁ 厳 子 陵 客 星 館
﹂ 二 面
︑ 韓 高 祖 の
﹁ 封 韓 信 図
﹂ 一 面
︑ 秦 の 始 皇 帝 の
﹁ 荊 軻 刺 秦 王 図
﹂ 二 面
︑﹁ 阿 房 宮
﹂ 一 面
︑ 周 の
﹁ 文 王 呂 尚 図
﹂ 一 面 で あ る
︒
― 539 ― 室町時代における玄宗・楊貴妃像
! 五 代
・ 王 仁 裕 撰
﹃ 開 元 天 寶 遺 事
﹄ の 記 述 は
︑ 丁 如 明 輯 校
﹃ 開 元 天 寶 遺 事 十 種
﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社
︑ 一 九 八 五 年 所 収
︑ 六 八 頁
︶ か ら 引 用 し た
︒
"
岩 山 泰 三
﹁ 五 山 詩 に お け る 楊 貴 妃 像
│ 題 画 詩 と
﹃ 後 素 集
﹄﹂
︵ 同 前
︶ 五 二
〜 五 四 頁
# 万 里 集 九 に つ い て の 記 述 は
︑ 万 里 集 九 著 市 木 武 雄 注 釈
﹃ 梅 花 無 尽 蔵 注 釈
﹄ 第 一 巻
︵ 続 群 書 類 従 完 成 会
︑ 一 九 九 三 年
︑ 二
〜 三 頁
︶︑ 島 田 修 二 郎
︑ 入 矢 義 高 監 修
﹃ 禅 林 画 賛 中 世 水 墨 画 を 読 む
﹄︵ 毎 日 新 聞 社
︑ 一 九 八 七 年
︑ 賛 者 題 者 略 伝 四 三 頁
︶ を 参 照 し た
︒
$ 蔭 木 英 雄
﹃ 中 世 禅 林 詩 史
﹄ 笠 間 書 院
︑ 一 九 九 四 年
︑ 一 一 頁
% 同 前
︑ 一 二
〜 一 三 頁
&
岩 山 泰 三
﹁﹃ 後 素 集
﹄ 玄 宗 楊 貴 妃 関 係 画 題 攷
﹂﹃ 和 漢 比 較 文 学
﹄ 第 四 九 号
︑ 二
〇 一 二 年
︑ 八 六
〜 八 七 頁 ' 島 田 修 二 郎
︑ 入 矢 義 高 監 修
﹃ 禅 林 画 賛 中 世 水 墨 画 を 読 む
﹄︵ 前 出
︶ 四 三 三
〜 四 三 四 頁 ( 太 田 孝 彦
﹁ 室 町 時 代 前 期 に お け る 詩 画 軸 制 作 の 課 題
│ 祭 文 新 月 図 の 分 析
︵ 二
︶
│
﹂﹃ 帝 塚 山 学 院 大 学 研 究 論 集
﹄ 第 十 二 集
︑ 一 九 七 七 年
︑ 三 二 頁 ) 蔭 木 英 雄
﹃ 中 世 禅 林 詩 史
﹄ 笠 間 書 院
︑ 一 九 九 四 年
︑ 四 七 三 頁
* 万 里 集 九 著 市 木 武 雄 注 釈
﹃ 梅 花 無 尽 蔵 注 釈
﹄ 第 一 巻
︵ 前 出
︶ 二 三 四 頁 + 岩 山 泰 三
﹁ 五 山 詩 に お け る 楊 貴 妃 像
│ 題 画 詩 と
﹃ 後 素 集
﹄﹂
︵ 前 出
︶ 五 二
〜 五 四 頁
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 540 ―
図1 《風流陣図》(《扇面貼交屏風》のうち部分、南禅寺)
図3 《山茶小禽図》(紙本墨画着色、79.4×28.2 cm、
京都国立博物館)
図2 《風流陣図屏風》(六曲一双、紙本金地著色、各159.8×358.4 cm、岡山県立博物館)
― 541 ― 室町時代における玄宗・楊貴妃像
表
﹃ 梅 花 無 尽 蔵
﹄ に 見 る 玄 宗
・ 楊 貴 妃 関 連 の 画 賛 注 1.
﹃ 梅 花 無 尽 蔵
﹄ の 本 文
︑ 読 み 下 し 文
︑ 解 釈 な ど は
︑ お も に 市 木 武 雄
﹃ 梅 花 無 尽 蔵 注 釈
﹄ 第 一 巻
〜 第 四 巻
︑ 続 群 書 類 従 寛 政 会
︑ 一 九 九 四 年 を 参 照 し た
︒ 2. 分 類 の A は 主 と し て 長 恨 歌 に 基 づ く も の
︑ B は 長 恨 歌 以 外 の 逸 話 に 基 づ く も の
︑ C は 別 画 題 に 玄 宗
・ 楊 貴 妃 の 故 事 が 用 い ら て い る も の に 分 け た
︒
! 分 類 巻 名 番 号 題 名
/ 読 み 下 し 文
︵ 解 釈
︶
詩 文
/ 読 み 下 し 文
︵ 解 釈
︶
登 場 人 物 場 所 関 連 詩 句 出 典 1 A 第 二 77 便 面
︑ 楊 妃 吹 笛 圖 二 十 九 日
玉 笛
︑ 霓 裳
︑ 擧 指 吹
︒ 海 山 霞 遠
︑ 未 皈 時
︒ 餘 音 散 作 梨 花 雨
︒ 洗 盡 御 前 春 醉 姿
︒ 楊 貴 妃
蓬 莱 仙 宮
霓 裳 羽 衣
︑ 梨 花 雨
長 恨 歌
︑ 長 恨 歌 伝 便 面
︑ 楊 妃 吹 笛 圖 二 十 九 日
玉 笛 も て 霓 裳 を
︑ 指 を 擧 げ て 吹 く
︒ 海 山
︑ 霞 遠 く
︑ 未 だ 皈 ら ざ る の 時
︒ 餘 音 散 じ て 梨 花 の 雨 を 作 し
︑ 洗 ひ 盡 く す 御 前 の 春 醉 の 姿 を
︒︵ 楊 貴 妃 は 美 し い 玉 笛 で
︑ 玄 宗 の 作 曲 し た 霓 裳 羽 衣 の 曲 を
︑ 指 を あ げ て 吹 い て い る
︒ 今 や あ た り の 海 や 山 も 遠 く 霞 が か か り
︑ 玄 宗 の 使 者 と し て こ の 蓬 莱 山 に や っ て き た 方 士 は
︑ ま だ 長 安 の 都 に 帰 り 着 か な い 時 で あ る
︒ こ の 時 に 楊 貴 妃 の 吹 く 笛 の 余 音 は 四 方 に 散 り 響 き
︑ 楊 貴 妃 の 姿 を 思 わ せ る 梨 の 花 に 降 り そ そ ぐ 雨 と な る
︒ か つ て 楊 貴 妃 が 玄 宗 の 御 前 で 酔 い し れ た 姿 を 洗 い 流 す の で あ る
︒︶ 2 A 第 二 197 貴 妃 學 笛 圖 殿 前 有 梅 花 故 代 梅 云
習 笛 長 生
︑ 睡 海 棠
︒ 妬 梅 花 悩 人 香
︒ 一 聲 吹 落
︑ 不 遺 恨
︒ 可 作 鴛 猶 可 作 鴦
︒
楊 貴 妃
長 生 殿 海 棠 睡 未 足
︑ 比 翼 連 理
︑ 鴛 鴦 梅
︵ 長 恨 歌
︶︑ 太 真 外 伝 貴 妃 學 笛 圖 殿 前 に 梅 花 有 り
︑ 故 に 梅 代 り て 云 ふ
︵﹁ 楊 貴 妃 が 笛 を 学 ん で い る 絵 図 に 賛 し た 詩
﹂ こ の 絵 に は
︑ 御 殿 の 前 に 梅 の 花 が 描 か れ て い る
︒
笛 を 長 生 に 習 い
︑ 海 棠 睡 る
︒ 梅 花 に 人 を 悩 ま す 香 あ る と 妬 む
︒ 一 聲 吹 き 落 さ ば
︑ 恨 み を 遺 さ ざ る も 鴛 と な る べ く
︑ 猶
︑ 鴦 に も あ る べ し
︒︵ 楊 貴 妃 は 長 生 殿 で 笛 を 学 ん で い る が
︑ そ の 姿 は
︑ 海 棠 の 花 が 睡 っ て い る よ う に 美 し い
︒ そ し て
︑ こ の 梅 の 花 が 人 を 悩 ま す よ い 香 り を 持 っ て い る の を 妬 ん で い る
︒ し か し
︑ そ の 笛 も 一 声 高 く 吹 い て 梅 の 花 を 落 と す な ら
︑ 恨 み を 残 さ な い だ ろ う
︒ 梅 の 花 は
︑ 鴛 鴦 梅 で
︑ 鴛 鴦 の 雄 に も 雌 に も な る こ と が 出 来 る
︒︶ 3 A
/ B 第 二 203 驪 山 圖
今 華 清 院
︑ 昨 阿 房
︒ 固 是
︑ 驪 山 春 夢 塲
︒ 禮 葉 寃 雖 焚 六 籍
︒ 海 棠 罪 在 嬲 三 郎
︒ 玄 宗
︑ 楊 貴 妃
︑ 始 皇 帝 華 清 宮 海 棠 睡 未 足 長 恨 歌 伝 驪 山 の 圖
今 の 華 清 院 は
︑ 昨 の 阿 房 な り
︒ 固 よ り 是
︑ 驪 山 は 春 夢 の 塲
︒ 禮 葉 の 寃 は
︑ 六 籍 を 焚 く と い え ど も
︑ 海 棠 の 罪 は
︑ 三 郎 を 嬲 る に あ り
︒︵ 今 の 華 清 宮 に 起 こ っ た 史 実 は
︑ 秦 の 時 代 の 阿 房 宮 の よ う で あ る
︒ 全 く こ の 華 清 宮 の あ っ た 驪 山 と い う 土 地 は
︑ は か な い 春 の 夜 の 夢 の よ う に
︑ 興 亡 の 歴 史 の 繰 り 返 さ れ た 地 で あ る
︒ 始 皇 帝 は 礼 を し る し た 書 物 も 無 用 だ と 濡 れ 衣 を き せ て
︑ 六 経 の 書 を 全 て 焼 い て し ま っ た
︒ 唐 の 安 史 の 乱 で の 楊 貴 妃 の 罪 は
︑ 玄 宗 を 嬲 り も の に し た 事 で あ る
︒︶ 4 B 第 一 8 楊 妃 圍 碁 圖 就 勝 定 院 王 潤 軒 會
滿 面 海 棠
︑ 紅 不 驚
︒ 黛 痕 掃 罷
︑ 又 碁"
︒ 華 清 一 夜
︑ 西 風 起
︒ 指 底 吹 醒 落 子 聲
︒ 楊 貴 妃
華 清 宮 海 棠 睡 未 足 明 皇 外 伝
︑ 唐 書
︵ 楊 貴 妃 伝
︶ 楊 妃
︑ 圍 碁 圖 勝 定 院 の 王 潤 軒 の 會 に
︵﹁ 楊 貴 妃 が 囲 碁 を 打 っ て い る 絵
﹂ 相 国 寺 の 勝 定 院 の 王 潤 軒 の 詩 会 に 参 っ て
︶
滿 面 の 海 棠
︑ 紅 驚 か ず
︒ 黛 痕 掃 ひ 罷 め て
︑ 又
︑ 碁"
︒ 華 清
︑ 一 夜
︑ 西 風 起 こ り
︑ 指 底 に 吹 き 醒 む
︑ 落 子 の 聲
︒︵ 楊 貴 妃 の 海 棠 の 花 の よ う に 美 し い 紅 い 頬 は 動 く こ と も な く
︑ 眉 の あ た り も
︑ 今 眉 墨 を つ け 終 え た ば か り で
︑ 麗 し い 姿 で 碁 盤 に 向 か っ て い る
︒ 楊 貴 妃 の 住 ま う 華 清 宮 で は
︑ 今 宵 秋 風 が 吹 き 始 め
︑ 指 先 で 碁 石 を 宇 津 尾 と が 冴 え 冴 え と 聞 こ え て く る
︒︶
室町時代における玄宗・楊貴妃像 ― 542 ―