早稲田大学大学院 先進理工学研究科
博士論文審査報告書
論 文 題 目
多 細 胞 性 シ ア ノ バ ク テ リ ア に み ら れ る 自 己 組 織 的 な パ タ ー ン 形 成 の 解 析
A n a l y s i s o f S e l f - O r g a n i z e d P a t t e r n F o r m a t i o n i n M u l t i c e l l u l a r C y a n o b a c t e r i a
申 請 者
石原 潤一
Junichi ISHIHARA
電気・情報生命専攻 細胞分子ネットワーク研究
2015 年 7 月
1
糸 状 性 ( 多 細 胞 性 ) シ ア ノ バ ク テ リ ア A n a b a e n a s p . P C C 7 1 2 0( 以 下 、
A n a b a e n a と 呼 ぶ ) は 、 通 常 の 培 養 条 件 下 で は 光 合 成 を 行 う 栄 養 細 胞 の み が
直 鎖 状 に 連 な る フ ィ ラ メ ン ト を 形 成 す る が 、 窒 素 化 合 物 を 含 ま な い 培 地 で 培 養 し た 場 合( 以 下 、窒 素 飢 餓 条 件 と 呼 ぶ )、窒 素 固 定 に 特 化 し た ヘ テ ロ シ ス ト と 呼 ば れ る 分 化 細 胞 を 形 成 す る 。 ヘ テ ロ シ ス ト は 分 裂 能 を 失 っ て お り 、 栄 養 細 胞 の フ ィ ラ メ ン ト 中 に 、 お よ そ 1 0 細 胞 に 1 細 胞 の 間 隔 で 現 れ る た め 、 こ の 分 化 パ タ ー ン は 細 胞 に よ る 空 間 秩 序 形 成 の 単 純 な モ デ ル と 考 え ら れ て い る 。 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 に 関 与 す る 遺 伝 子 と し て 、 分 化 を 促 進 す る h e t R 遺 伝 子 、 隣 接 細 胞 の 分 化 を 抑 制 す る p a t S 遺 伝 子 と h e t N 遺 伝 子 が 知 ら れ て お り 、こ れ ら の 遺 伝 子 の 過 剰 発 現 や 欠 損 に よ り , 分 化 パ タ ー ン に 乱 れ を 生 じ る 。 こ れ ら の 遺 伝 子 は 、H e t R 蛋 白 質 に よ る h e t R 自 身 お よ び p a t S 遺 伝 子 の 転 写 活 性 化 、
P a t S 蛋 白 質 に よ る H e t R 蛋 白 質 の 機 能 抑 制 な ど 、 い わ ゆ る
A c t i v a t o r- I n h i b i t o r 系 と 同 等 な 制 御 関 係 を 作 っ て お り 、 さ ら に P a t S が 隣 の 細 胞 に も 移 動 ( 拡 散 ) し う る と 考 え ら れ て い る こ と な ど か ら 、Tu r i n g の 拡 散 不 安 定 性 に 基 づ く 周 期 的 細 胞 分 化 機 構 の 一 つ で あ る 可 能 性 が 示 唆 さ れ て い る 。 し か し 一 方 で P a t S の 拡 散 係 数 な ど 計 測 困 難 な パ ラ メ ー タ が 多 く 存 在 す る こ と か ら 、 現 状 の 生 物 学 的 技 術 で は Tu r i n g 拡 散 不 安 定 性 で あ る こ と を 直 接 検 証 す る の は 難 し い 。 ま た 観 察 さ れ る ヘ テ ロ シ ス ト 間 の 細 胞 数 は ほ ぼ 一 定 の 値 に 固 定 さ れ る と い う よ り 、 実 際 に は 大 き な 分 散 を 持 っ た 分 布 に 従 っ て お り 、 細 胞 は む し ろ 確 率 的 な 振 る 舞 い を す る と 考 え ら れ る 。
そ こ で 申 請 者 は 、 詳 細 な 観 察 が 可 能 な 細 胞 単 位 の 振 る 舞 い に 注 目 し 、 そ の 確 率 的 挙 動 を 明 ら か に す る 目 的 で 、 数 理 モ デ ル と 計 測 デ ー タ を 組 み 合 わ せ た 解 析 的 研 究 を 行 っ た 。 細 胞 の 確 率 的 挙 動 を 取 り 込 ん だ 現 象 論 的 数 理 モ デ ル を 構 築 し 、 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 の 時 間 発 展 の 計 測 デ ー タ と 統 計 的 な 比 較 を 行 う こ と で 、 細 胞 増 殖 や 分 化 を 特 徴 づ け る 重 要 な パ ラ メ ー タ を 決 定 し た 。 ま た こ の 過 程 で 、 栄 養 細 胞 の 増 殖 と 分 化 に よ る 分 断 の 繰 り 返 し に よ り 実 現 さ れ る ヘ テ ロ シ ス ト 間 距 離 の 定 常 状 態 、 と い う 困 難 な 問 題 を 解 く た め の 数 理 解 析 法 を 考 案 し た 。 こ れ ら の 解 析 の 結 果 と し て 、 窒 素 飢 餓 条 件 下 に お か れ た 初 期 と 後 期 と で 細 胞 分 化 の 制 御 が 異 な っ て い る こ と 、 ま た そ の 違 い は 細 胞 の 齢 ( 細 胞 分 裂 後 の 経 過 時 間 , 論 文 中 で は 細 胞 成 熟 度 指 数 と し て 表 現 ) に 対 す る 依 存 性 だ け で あ る こ と を 明 ら か に し た 。
一 方 で 申 請 者 は 、 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 に 関 わ る 物 質 的 基 盤 に 注 目 し た 研 究 も 行 っ た 。 通 常 の 細 胞 生 物 学 的 解 析 で は 、 標 的 と す る 生 体 分 子 や タ ン パ ク 質 を 蛍 光 標 識 す る こ と で 、 細 胞 内 で の 分 子 の 時 空 間 動 態 を 計 測 す る こ と が 多 い 。 し か し 、 こ の 方 法 で は 、 標 識 で き る 生 物 種 が 限 ら れ る ほ か , 標 識 に よ る 標 的 分 子 の 性 質 や 動 態 の 変 化 の 可 能 性 が 無 視 で き な か っ た 。 そ こ で 申 請 者 は 、 非 標 識 で 生 体 分 子 の 動 態 を 計 測 で き る 有 効 な 手 法 と し て 注 目 さ れ て い る ラ マ ン 散 乱 分 光 計 測 法 に 注 目 し た 。 ヘ テ ロ シ ス ト 細 胞 と 栄 養 細 胞 の そ れ ぞ れ を ラ マ ン 散 乱 分 光 計 測 す る こ と で 、 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 に 伴 う 生 体 分 子 濃 度 変 化 を 、
2 ラ マ ン ス ペ ク ト ル で 捉 え る こ と を 試 み た 。
本 論 文 は 4 章 か ら な っ て い る 。
1 章 で は 、 生 物 現 象 に 見 ら れ る 空 間 制 御 に つ い て 概 観 し 、 そ の よ う な 制 御 機 構 を 研 究 す る モ デ ル と し て 多 細 胞 シ ア ノ バ ク テ リ ア に つ い て 紹 介 し て い る 。 前 者 に つ い て は 、 規 則 的 な 空 間 配 置 と し て 代 表 的 な 生 命 現 象 を 紹 介 し 、 ま た そ れ ら に 対 し て の 、主 に 理 論 的 な 取 り 組 み の 歴 史 を 紹 介 し て い る 。Tu r i n g の 拡 散 不 安 定 性 に つ い て 重 点 的 に 取 り 上 げ て い る 一 方 で 、 こ の 機 構 を 実 際 の 生 命 現 象 で 証 明 す る こ と の 問 題 点 に つ い て も 深 く 考 察 さ れ て お り 、 現 状 に 対 す る 客 観 的 で 正 確 な 分 析 が な さ れ て い る 。 多 細 胞 性 シ ア ノ バ ク テ リ ア に お い て は 、 一 次 元 状 ( 直 鎖 状 ) の フ ィ ラ メ ン ト に 見 ら れ る パ タ ー ン で あ る こ と 、 パ タ ー ン 形 成 に 関 す る 経 時 的 な 観 察 が 可 能 で あ る こ と な ど 、 多 く の メ リ ッ ト が 指 摘 さ れ て い る 。
2 章 で は 、 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 パ タ ー ン の 理 論 的 解 析 が 述 べ ら れ て い る 。 先 行 研 究 で 得 ら れ た ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 に 関 す る 細 胞 系 譜 観 察 デ ー タ を 再 解 析 し 、 細 胞 分 裂 周 期 な ど の 時 間 依 存 性 を 解 析 し た 。 そ の 結 果 、 窒 素 飢 餓 開 始 後 、6 3
~6 5 時 間 を 初 期 ス テ ー ジ 、6 9 時 間 以 降 を 後 期 ス テ ー ジ と し て 分 け ら れ る こ と を 見 い だ し た 。 こ の 解 析 を 元 に 、 シ ア ノ バ ク テ リ ア 栄 養 細 胞 の 確 率 的 挙 動 に 基 づ く 、 直 鎖 状 フ ィ ラ メ ン ト の 一 次 元 の セ ル オ ー ト マ ト ン モ デ ル を 構 築 し た 。 モ デ ル で は 、 栄 養 細 胞 と ヘ テ ロ シ ス ト 細 胞 の 区 別 が あ り 、 そ れ ぞ れ の 栄 養 細 胞 は 細 胞 成 熟 度 指 数 と い う 分 裂 後 の 時 間 に ほ ぼ 相 当 す る 指 数 を 持 つ 。 細 胞 分 裂 率 、 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 率 、 成 熟 率 が 、 そ れ ぞ れ 細 胞 成 熟 度 指 数 の 増 加 関 数 と し て あ ら わ さ れ る 。 ま た ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 に は 、 近 接 の ヘ テ ロ シ ス ト か ら の 距 離 に 依 存 す る 抑 制 的 な 効 果 が 含 ま れ て い る 。 こ の モ デ ル に 対 し て 、 数 値 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン を 行 い 、 ヘ テ ロ シ ス ト 間 細 胞 数 の 密 度 分 布 を 、 実 際 の シ ア ノ バ ク テ リ ア の 細 胞 系 譜 と 比 較 し た 。 さ ら に ヘ テ ロ シ ス ト 間 細 胞 数 の 密 度 分 布 を 、近 似 的 に 計 算 す る 新 規 の 数 学 的 方 法 を 考 案 し た 。こ の 解 析 方 法 は 、 各 細 胞 の 細 胞 成 熟 度 指 数 の 定 常 分 布 を 求 め る 段 階 と 、 そ の 結 果 を 用 い て ヘ テ ロ シ ス ト 間 細 胞 数 の 定 常 分 布 を 求 め る 段 階 と の 二 つ に 分 か れ て い る 。 そ れ ぞ れ の 段 階 で 、 細 胞 の ダ イ ナ ミ ク ス が 互 い に 独 立 で あ る こ と 、 フ ィ ラ メ ン ト 間 の ダ イ ナ ミ ク ス が 互 い に 独 立 で あ る こ と が 仮 定 さ れ て い る 。 こ の 方 法 に よ り 得 ら れ た ヘ テ ロ シ ス ト 間 細 胞 数 の 密 度 分 布 は 、 数 値 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン の 結 果 と ほ ぼ 完 全 に 一 致 し た 。 簡 単 な ア イ デ ア に よ り 、 困 難 な 問 題 を 解 く 優 れ た 方 法 で あ る 。 続 い て さ ら に 、 こ の 方 法 に よ っ て 得 ら れ た ヘ テ ロ シ ス ト 間 距 離 の 分 布 と 、 顕 微 鏡 観 察 か ら 得 ら れ た ヘ テ ロ シ ス ト 間 細 胞 数 と を カ ル バ ッ ク ・ ラ イ ブ ラ ー 情 報 量 を 用 い て 比 較 し 、 統 計 的 指 標 に 基 づ き 未 知 の パ ラ メ ー タ 値 を 推 定 し た 。 同 様 の 解 析 を 初 期 ス テ ー ジ と 後 期 ス テ ー ジ の そ れ ぞ れ で 行 う こ と で 、細 胞 分 化 制 御 が こ れ ら 二 つ の 制 御 の 間 で 異 な っ て い る こ と を 明 ら か に し 、 そ の 違 い は 初 期 ス テ ー ジ 分 化 率 が 細 胞 成 熟 度 指 数 に 依 存 し な い こ と で あ る こ
3 と を 明 ら か に し た 。
第 3 章 で は 、 ラ マ ン 散 乱 分 光 計 測 を 用 い て 、 ヘ テ ロ シ ス ト 細 胞 分 化 に お け る 生 体 分 子 変 化 を 捉 え ら れ る か 試 み る 解 析 を 行 っ た 。 ま ず 新 し い 計 測 法 で あ る ラ マ ン 散 乱 分 光 計 測 に つ い て 、 詳 細 で 分 か り や す い 解 説 を 行 っ て い る 。 そ の 上 で 、 ヘ テ ロ シ ス ト 細 胞 と 栄 養 細 胞 数 個 に 対 し て 計 測 を 行 い 、 そ の 結 果 と し て 得 ら れ る ラ マ ン 分 光 ス ペ ク ト ル を 主 成 分 分 析 等 に よ り 解 析 を 行 っ た 。 そ の 結 果 、 細 胞 分 化 に 伴 っ て 消 失 す る 波 長 と し て 1 6 2 0 c m- 1 の バ ン ド を 発 見 し た 。 標 準 試 薬 を 用 い た 解 析 か ら 、 こ の バ ン ド 成 分 が 光 合 成 の 集 光 色 素 蛋 白 質 複 合 体 フ ィ コ ビ リ ソ ー ム の 構 成 要 素 フ ィ コ シ ア ニ ン に 由 来 す る も の で あ る こ と が 特 定 さ れ た 。 ラ マ ン 分 光 ス ペ ク ト ル の 解 析 に よ り 得 ら れ た 、 特 徴 的 波 長 の 変 化 は 申 請 者 の モ デ ル の 仮 定 を サ ポ ー ト す る も の だ と の 主 張 が 述 べ ら れ て い る 。 ま た 、 現 時 点 で 蛍 光 レ ポ ー タ ー を 用 い な い 場 合 の 、 最 も 初 期 に 観 察 さ れ る ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 関 連 現 象 の 可 視 化 で あ り 、 今 後 、 遺 伝 子 組 換 え 技 術 を 適 用 で き な い 糸 状 性 バ ク テ リ ア の 分 化 ダ イ ナ ミ ク ス の 解 析 に も 適 用 で き る と 考 え ら れ る 。
第 4 章 で は 、 第 2、3 章 で 示 し た 研 究 結 果 を 総 括 し 、 シ ア ノ バ ク テ リ ア の パ タ ー ン 形 成 機 構 に つ い て 深 く 考 察 す る と と も に 、 今 後 の 展 望 が 記 述 さ れ て い る 。 特 に 、 細 胞 レ ベ ル の 分 化 制 御 に 関 し て 、 理 論 的 に 提 唱 さ れ た 他 の 可 能 な メ カ ニ ズ ム と の 比 較 が 考 察 さ れ て お り 、 申 請 者 の モ デ ル の 妥 当 性 が 示 さ れ て い る 。 ヘ テ ロ シ ス ト 分 化 に 関 す る モ デ ル と し て は 、 多 く の 理 論 的 な 解 析 が な さ れ て き た が 、 分 散 の 大 き な ヘ テ ロ シ ス ト 分 布 自 体 を モ デ ル 化 す る こ と は ほ と ん ど 行 わ れ て お ら ず 、 ヘ テ ロ シ ス ト に 関 す る 実 験 生 物 学 的 研 究 に も 大 き な 影 響 を も た ら す と 期 待 さ れ る 。 ま た 、 ラ マ ン 散 乱 分 光 法 は 、 ま だ そ の 生 物 学 的 応 用 が 始 ま っ て 間 も な い 技 術 で あ る が 、 本 論 文 に お け る 研 究 は 、 細 胞 レ ベ ル の 分 化 ダ イ ナ ミ ク ス へ の 適 用 の 先 行 例 を 示 し た 点 で も 重 要 な 貢 献 を な し た も の と 評 価 で き る 。
以 上 の 内 容 は 、 形 態 形 成 研 究 の 基 礎 的 な 課 題 に 対 し 、 シ ア ノ バ ク テ リ ア な ら で は の 特 性 を 活 か し て 新 た な 作 業 仮 説 を 導 入 す る と と も に 、 興 味 深 い 知 見 を 与 え る も の で あ り 、 学 術 的 に 高 く 評 価 で き る 。よ っ て 、 本 論 文 は 博 士 ( 理 学 ) の 学 位 論 文 と し て 価 値 の あ る も の と 認 め る 。
2 0 1 5 年 6 月
審 査 員
( 主 査 ) 早 稲 田 大 学 教 授 博 士 ( 理 学 ) 名 古 屋 大 学 岩 崎 秀 雄 早 稲 田 大 学 教 授 博 士 ( 理 学 ) 京 都 大 学 岡 野 俊 行 早 稲 田 大 学 教 授 博 士 ( 理 学 ) 東 京 工 業 大 学 高 松 敦 子
理 化 学 研 究 所 主 任 研 究 員 博 士 ( 理 学 ) 九 州 大 学 望 月 敦 史