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工場法の成立と青年問題自覚の性格
一日本青年運動史研究のふたつの問題一
大 串 隆 吉
課題の設定
課題設定の理由を説明しておこう.第一は,日本青年運動史を研究するにあ
たって,工場法を問題にする理由,第二は「青年問題の自覚の性格」とあるよ うになぜ「自覚の性格」を問題にするかという点である.
まず前者から述べよう.青年運動の発生は,児童労働の資本主義的解決一工 場法の成立一を前提としていると評価されている.竹内真一はr青年運動の歴 史と理論』(大月書店,1976)で,「工場法と教育法の制定による児童労働問題 の資本主義的解決」が「19世紀末から20世紀初頭における青年問題と青年運動 の登場の不可決の前提を構成している」(39ページ)と述べている.竹内の念 頭にあるのはイギリスやフラソスの場合であるが,わが国の場合その「前提」
はいかなる性格を持ったのであろうか.なお,ここであつかう時期は,工場法 が1911年(明治44年)に議会で決定されてから1916年(大正6年)の施行を 経て,1922年(大正11年)の最低年令法の成立にいたるまでの時期である.な ぜなら,工場法の目的は児童労働の禁止,保護i年令の設定にあり,戦前のそれ は最低年令法で確定されるからであり.そこに至るまでの立法の論理は基本的 には変っていないからである.
青年運動史において工場法の成立期をとりあげることは,青年運動発生の基
盤の性格をあきらかにすることであるが,これは農業青年の問題ではなく,工
場における青年の問題である.ところが,日本青年運動史の研究において,工場
法と青年運動の関係だけでなく,工場における青年の問題にたちいった検討は
おこなわれているとはいいがたい.吉田昇r青年運動』(金子書房.1952)では,
青年団運動と学生運動に叙述がしぼられている(注).宮坂広作「反体制運動と青 年の学習」(『現代教育学16・青年の問題』岩波書店・1961)では,青年期教育
の二重構造を克服しょうとする抵抗と要求という視点から青年運動についてふ れられているが,この場合でも工場法についてはふれられていない,「又労働運 動と青年同盟」「無産政党と教育」の項をおこして各々における要求項目を叙 述しながらも,その要求のでてくる基盤である労働青年の教育問題まで立ち入
っていない.
農村青年の問題と運動は,青年団の官製化や自主化運動とのかかわりで一定 程度あきらかにされてきている.しかし,工場における青年の問題の検討はそ れにくらべおくれているので日本青年運動史を総合的に論ずるにはまだ遠い.
今まで唯一と言ってよいとおもうが,総合的に論ずる試みをしたのは,桜井庄 太郎『日本青年史』(昭和27年)であるが,明治期の紡績女子労働者に叙述がし
ぼられてしまっている.
かって,私は,工場法と青年問題について「大正期青年労働者教育論の発生に ついて」)『日本社会教育学会紀要,No.7』)で,「工場法による児童労働問題の 形式的だが一応の解決は,16才以上の青年労働者問題を顕在化させたといえる」
と述べたが,この評価はあいまいで青年労働者問題の性格を充分吟味していた とは言えない.周知のように工場法は,不十分さをもった児童労働の禁止条項 と共に,労働者の保護年令規程や徒弟教育の問題を含んでいた.したがって,
「児童労働問題の形式的だが一応の解決」とだけ言えない面を持っており,保 護規程や徒弟教育問題にあらわれた青年の問題とかかわる点が検討されねばな
らない.
この保護規程一「国家による年少労働保護の実質と水準は,公教育機会の実 質的保障,そして教育年限の延長の問題を直接的に規程する(1)」. 1930年代に
おける義務教育年限延長問題や青年学校義務制にあたって,暉俊i義俊等は労働 保護の観点からそれらを主張し,最低年令法の保護規程を批判した(2).したがっ
(注)吉田は青年運動の基準を,R・H・コt−一・Lソの規定に従って青年と成人の世代的対
立においているので,青年労働者の運動は「労働組合の活動を通じて,勤労成人と
一緒に闘争を行ったので,とくに青年運動としての色彩を持たなかった」と断定し
ている.したがって工場法が視野に入らなかったのも当然である.
3 て,1930年代における労働保護と青年教育の問題を検討するにあたっても,工 場法成立期における保護規程の根拠を考察する必要があると考えられる.
次に,先にあげた第二の点,「自覚の性格」を問題にする理由に移ろう.平山 和彦r青年集団史研究序説.下巻』(新泉社,1978)は,第三部自主的青年団の研 究で下伊那のそれを論述している.そこで私の論稿「青年訓練所反対運動の論 理と実践⇔」(東京都立大学『人文学報』107号)を「若干下伊那における青年
(団)運動にも言及しているが,下伊那に関する限り,その内容にはとりたてて 特筆すべきものはみられない」と評している.
私の論稿は「(青年世代論的発想)が青年団自主化のひとつの論拠となってい ることに注意する必要がある」と,下伊那における自主化運動の基礎に青年世 代論があったことを分析したものである.この青年世代論は青年自身による青 年の自己認識の表現であり,それが青年団運動の性格を規定した面があり,青 年訓練所反対運動の論理の中にあらわれたのである.この点は,「青年訓練所 反対運動の論理と実践⇔」(東京都立大学『人文学報』113号)でふれた青年団
「階級分化論」の場合も同様である.
青年(団)運動の発生とその性格には,青年自身の自己認識(その世代的・歴 史的・社会的把握と位置づけ)が刻印されている.それは青年(団)運動史の事 実からもあきらかであって,青年運動的発想を論じた徳富蘇峰『新日本の青年』
(1887),彼の影響を強く受けた山本滝之助『田舎青年』(1891)にもみることが できる.これは大人が青年を語ってきただけでなく青年自身が自からを論じて
きたことを意味し,子どもとちがい自からを社会の中に位置づけ社会的運動の 主体になろうとする青年の特質がみられる.この点は,子どもとは区別された 青年という人生の時期の特徴とも言えるのである。すなわち青年期は,「主体 としての自己を発見一確立し,自己の存在を対社会とのかかわりで意識し自己 形成を目的意識的に追及することができる時期である.」(3)ことに示される.
このように考えると青年運動史の研究にあたって,青年の自己規定を分析す ることが必要である.それは青年集団史でも同様であり青年が青年集団を作る 意味付けになるだろう.平山和彦氏の青年集団史研究にはこの視角が抜けてい
るのであって,氏の拙稿に対する評価もその故であろう.
以上の理由からこの論稿では工場法の成立期における労働者階級の青年問題 自覚の性格も検討する.1911年の工場法はおこるであろう労働運動の対策とし ての意味も持っていたが,その成立時に労働者階級は組織だった運動をおこせ ず,唯一片山潜が発言したにすぎない.片山の発言は婦人労働の保護と児童労 働の禁止を主張しており,青年についての論及はみられない.しかし,友愛会 の発足以降労働組合運動が組織化されるに従い,労働者の保護や教育問題が論
じられ,青年についての論及も見られるのでその性格を検討してみる.
1. 保護年令の視角と徒弟問題
1911年(明治44年)に公布され,1917年(大正6年)に実施された工場法は,
15人以上の労働者を雇う工場という限定づきだったが,12才未満の児童労働を 禁止し,15才未満と女子の保護を眼目としていた.この保護年令は,男子と女 子による区別があった.男子の場合,12才以下の労働禁止と15才未満の保護.
女子の場合,12才以下の労働禁止と12才以上の保護と20才までの連続徹夜業禁 止である.この区切りは如何なる理由で作られたのであろうか.
工場法は1882年(明治15年)来成立が試みられたが,その過程で『職工事情』
r工場衛生資料』に結実する調査がおこなわれた.工場法公布に直接的影響を 及ぼした調査は内務省嘱託石原修を中心として行なわれ,『工場衛生調査資料』
(1910年),「衛生学上ヨリ見タル女工ノ現況」(1913年)や有名な講演「女工 と結核」で報告された.これらは,男子労働者についても含まれているが,主 に女子労働者に及ぼす「肉体消磨的労働条件」 (山田盛太郎)の深刻な影響を 分析したものである.
石原は,連続徹夜業の影響について夜業で減った体重が昼間に回復しないこ とを指摘して,次のように述べている.
「仮りに目方が昼夜業のとき恢復するとしてもそれは成長した人間であるな らばそれで身体の「バラソス」が立って行くかも知れませぬが,まだ発育時 代にあるのですから「バラソス」が取れませぬ.そこで例えばそれ以上発育
せぬということになるのであります.」(4)
この指摘は,女子労働者一般の問題であるのではなく「発育時代」にある女
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子労働者を問題にしていることを示している.こうした結果が結核のまんえん となってあらわれたのであるが,それは14才未満から20才未満に集中した.石 原は「衛生学ヨリ見タル女工之現況」で帰郷老中病気にかかった者は14〜16才 で最高であり,死亡者は16〜19才で最高点に達すると報告している(注).
こうした分析は立案者に影響を与え,女子労働者の徹夜業を19才まで禁止す る条項が,実施期間の猶予を条件として作られた.ここにあらわれている保護 年令の意図は,石原にあっては児童と区別された発育しつある時期の女子労働 者の問題に重点がおかれた.しかし,立法者の意図はその点を強調したのでは なく,優良な兵士を生み育てる為の母性保護,家族制度を守る為の女子労働者 の保護ということにあった.
では,男子労働者の場合はどうだったろうか.石原は男子の場合には20才ま での間に特有の時期を認めるだけの材料を示していない.しかし,法案を作製 した岡実によれば18才を妥当としていた.それは,満18才で男女共体重が成年 者と大差なくなるという理由と,「精神機能」の発達も身体の発育に並行する
という理由からであった.
「本来本邦幼少年者ノ身体ノ発育状態ヲ見ルニ男女共二満12才ニシテ漸ク其ノ体重ハ 成年者ノ半ハ即チ貫余二達シ……18才二至り男子ハ13貫5百目,女子12貫6百目ヲ算
シ成年者ト大差ナキニ至ル.故二叙上ノ発育状態二照セハ職工保護ノ年令界限ヲ18才 以上ト為スヲ至当ト認ムルモ,工業ノ現況二鑑ミ之二亜ク程度ノ16才ヲ以テ界限ト定
メタルモノナリ.」(岡実r工場法論』有斐閣 大正2年版,246ページ)
この18才区分論は,後労働科学研究所のメンパ・一によって,体重だけでなく胸囲,
身重,握力,背筋力,肺臓機能,基礎新陳代謝が検討されて同様の結論が得られてい る.これが義務教育年限延長や青年学校改革の論拠となった.暉俊義等「義務教育延 長の科学的根拠」(『社会政策時報』昭和12年3月号),籠山京r労働年齢論』(伊藤 書店,昭和19年)参照.
(注)石原が中心となった調査では,就業者だけでなく帰郷者も対象としたとこに特徴
がある.なぜなら,肺結核その他結核性疾患は,希少の例外をのぞいては,感染か
ら発病し死亡するまでの経過が長期にわたって緩慢に推移する慢性病である.した
がって,出稼女工の勤続年数が短かければ,感染し発病していても自覚症状があら
われないからである.『生活古典叢書5,女工と結核』(光生館,1970)の籠山京
の解説参照,又中村政則『日本の歴史,労働者と農民』 (小学館,1977)にも女子
労働者を多数おくりだした村の結核まんえん状況の叙述がある.
しかしながら,すでにみたように工場法は15才未満に一区切りをつけた.そ こには,ふたつの事情が考慮されていた.ひとつは,工場生産の視点からであ った.議会に提出された工場法案(1910年)が16才を保護年令としたことにつ いて,担当官岡実は先の引用にあるように「発育状態二照セハ職工保護ノ年令 界限ハ18才以上二為スヲ適当ト認ムルモ,工業ノ現況二鑑ミ之二亜ク程度ノ16 才ヲ以界限ト定メタルモノナリ」と説明した.しかし,もうひとつの見解であ る封建時代から続いてきた若者宿や武士の中にあった伝統的な年令区分にこの 16才保護説も押し切られた.衆議院の工場法案特別委員会は伝統的な発想があ ったことを,次のように報告している. 「我国ハ古来既二15才二達シマスレバ 夫レヲ以テ成人ノ期トシテ場合二依ツテハ戦争ニハ飛出スト云フ位ノコトモア ルノデアヅタ又サウ云ウ歴史モアル」(5)と.(ただし,この発想が,武士の流れ を組む発想か,若者宿からの発想かは検討を要する.)
かくして,1909年帝国議会に提出された保護の工場法案は15才未満に改めら れて通過した,しかし,ここにあげたふたつの理由は問題を内包していた.
ひとつは第一の理由にある「工業ノ現状二鑑ミ」にかかわることである.岡 は,この辺の事情を16才未満の男子労働者は7・8千人にすぎないことと,筋 力や技能を必要とする工場では16才以上を最低年令としていることをあげてい た(6).たしかに当時,基幹産業では「養成工」として採用したのは12〜17才で,
期間は6ケ年だったから,15・6才が一人前の職工になる最低年令となってい たと言える.しかし,それでも鉄鋼のような重筋労働では問題があったことが
指摘されている.(注)
第二にこの14才保護説は,15才以後は一一人前の労働者とみなしたから,青年 団の動向と比較しても問題を内在していた.山本滝之助は「地方青年団体」(19 09年)で15〜20才にひとつの時期を認めた青年会構想をえがいていた.それは 徴兵年令を一区切りとするものであり,「人生最大の危機を前に控えている」
(注)八幡製鉄所の田尻生五は,当時の養成工教育を回想して「製鉄所の作業が,健康
も未だ固らない15才のものに対して,実習迄やらせるというやふなことは無理であ
る.詰青年に達して筋骨が固まる前に中途で弱ってしまふ」と指摘した.『全国工
場鉱山労働者教育協議会記録』昭和2年参照.
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という認識に基づいていた.さらに,1915年の訓令「青年団体ノ指導発達二関 スル件」は20才までを青年団員の年令とした.この訓令を出させた田中義一は 青年団は「純正中正」でなければならないが,20才以上になると政治上の関係 を持つので「団員の年令を満20才に限定する必要が起るのである.男が20才即 ち徴兵適令を通過すると社会に独立して働く人となる(7)」と述べた.ここにみ られる徴兵適令一満20才=一人前という意識は.工場法の保護年令とくいちが
うものであった,
このずれの理由は.政策上の観点の相違一工業生産の利潤追及を前提とした保護論 (「工業生産ノ現状二鑑ミ」)と軍国主義的統制一に求められるが.これらは本質的な 矛盾ではない.風早八十二は,「産業的」見地は,「国防的」見地と抱合する必然性を 指摘している.(風早『日本社会教育政策史・上』青木文庫,1951年,165ページ).
この「矛盾」は,青年学校義務制によって解決されたと考えられる.ただし,なにゆ え徴兵年令を20才としたかは未だあきらかではない.
さて,工場法は1923年に改正され,工場労働者最低年令法が公布された.こ れらによって最低年令は14才,保護年令は1才上げられ16才未満となった.改 正した理由は国際的な圧力によるものであった.すなわち,1919年のワシソト
ン条約一工業二於テ使用セラルル年少者ノ夜業二関スル条約一で決められた18 才保護に対応したものであった.
しかし,この会議の際,日本は16才保護を主張して例外を認めさせた.その 論拠は,日本人はヨー一一 Pッパ人にくらべて年早く生理的に成熟するという三島 博士の説によるものであった(注).しかし,この説は先にみた18才保護とくいち
がうものであり,成人による基準のちがいがみられると共に,「工場ノ現状二 鑑ミ」という1910年工場法案の16才保護を追認するという性格を持っていた.
したがって,後労働科学研究所のメソバーから批判されることになる.
吉阪俊蔵『改正工場法論』 (昭和元年)は次のように説明している. 「其の理由と する所は人体の発育中発情期的発育に付日本人は欧州人に比して年早く成熟する.即 ち三島博士の説によれば日本人の発情期的発育は男子は12才より女子は11才より始ま って16才を以て完了するものである.此の年令を以て少年の年令制限となすべしとい うのであった.」(62ページ)なお三島通良博士については筆者には未だあきらかにな っていない.
徒弟の問題に移ろう.今までは体力にもとつく保護問題だったが,徒弟の問
ノ
題は教育の問題であった.工場法にもとつく工場法施行令第四章に徒弟の規程 を設けている.この規程では,徒弟は雇主との間に通常の雇用関係ではなくて 教育関係を持つものとして性格づけられていた.
斎藤泰明は次のように性格づけている「徒弟と業主との関係が,通常の雇用関係つ まり労務の提供とそれにもとつく対価の取得を目的とする経済関係でなく一つの教育 関係を含み,徒弟はその労務の提供に対し反対給付を求めることを目的とするもので はなく,一定の技能の同上ッ子偉ない修得を受けることを主眼とするものである.」
「年少労働の就業形態もしくは『徒弟制度』」(『大原社会問題研究所資料室報』No.112)
この徒弟は,いわゆる職人徒弟とは異なった工場徒弟である.それは,工場 法の前史である1888年の職工条例案と比較してみればあきらかである.職人徒 弟が大正期にあったことは事実であるが,この規程は重工業発展の為に熟練工 養成を目的としたものであった(8). しかし,この規程はほとんど有効性を持た
なかった.なぜなら大企業においては,すでに養成工養制度が確立していたし,
ガラス工場のような小企業では工場法による徒弟規程をきらい,職人徒弟制を 廃止して通常の雇用関係のなかでの見習的な技能修習に移行させたからである.
したがって,公的に技能者養成をめざそうとした工場法の規程は成功せず企業 内の閉鎖的な養成工制度に頼るか,見習的に実際の仕事の中での技術習得に頼
らざるを得ないのが一般的であったω.
徒弟を導入したところでは,その資格を尋小卒を最低年令とし,年限は3〜
6年であり,尋小卒の場合は徒弟期問が長く終了年令は17才ないしは18才であ った.したがって,技能上の点からみても一人前の職工となるのは17・8才で あり,労働力養成の点からみて18才位で区切るという状況が作られていたとみ てよかろう.そうすると,15才ないし16才で区切る労働力保護は,労働力養成 の状況とは一致しないことを意味した.労働力養成は労働力保護とは区別され て存在したわけである.
2. 労働者階級における自覚の性格 一熟練工としての青年一
1911年工場法が公布された当時,日本の労働運動は「冬の時代」であり,唯
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一片山潜を中心として社会党結成の動きがあった位である.しかし,工場法公 布の翌年1912年に友愛会が結成されてから,その機関紙r友愛新報』やr労働 及産業』,『友愛婦人』,関西同盟の『労働者新聞』が発刊され,労働者階級の青 年問題に関する自覚のあり方をみれる.ここでは以上の機関紙・誌からその点
を探ってみよう.
まず男子労働者からみてみよう.工場法施行(1916年)以前は都会に来る立 志青年への批判と警告が主であったが,施行後徒弟や見習職工が問題とされる ようになった.問題とされたのは,1.見習職工及び徒弟の教育問題2.賃金や 見習期間を中心とする待遇の問題であった.
教育問題では,熟練工の仕事の都合で見習工が左右され,又熟練工が指導者 としての資質を有してないことが問題にされた.そして,本稿と関連して注意 すべきことは,見習期間を修了した熟練工が青年と呼ばれていたことである.
r労働及産業』 (大正6年4月号)に載った「少年の工場生活問題」では少年
一見習工を指導する者を青年と呼んでいる(注),
この点は舞鶴海軍工廠や八幡製鉄の友愛会支部にもみられる.『八幡製鉄労 働運動誌』によれば,1920年に労働組合である同志会に青年団を作れという要 求が出され同志会青年部が作られた.この青年部を「急進派」と同書では呼ん でいるが,これは職工養成所出身者を組織の対象としたこと及び翌年解雇され た「急進派」労働者に20才未満の者がいないことから,青年部は養成工出身の
(注)「少年の工場生活問題」では次の指摘がされている.小学校を卒業して5年なり7
年がたつと技能を身につけ「押しも押されぬ職人」となる.そこで職工養成の施設
のない工場(中小企業であろう)では彼等が指導すべき立場になる.しかし,「彼
等は皆工程の監査厳しき下に従事して居る」から,「親切に手を執って仕事をする
段取などを教へぬでもないが先づ十中八九迄『オシャカ』を作る少年工の仕事を一
々細心に注意して居ては際限がない.それをして居ては自分の仕事が出来ぬ.自分
の成績に関係する.賃金に影響する.……生活の基礎迄危くして少年工を指導せむ
くとする職人はいない.」.しかも,彼等は見習工時代の苦しさを忘れ「日々起る苦
労と疲労とに煩はされ,深刻な感じは次第に鈍くなり,新に来し子供達の陰うつな
顔や嘆き悲しむ態を見ても,更に自分の少年工時代やその悲嘆やを顧みる程の思遣
りなき様」」になる.したがって,彼等には技術的にも精神的にも少年工を指導す
る余裕を質もないと指摘し,この見習工と「職人」とを対比して「敏感の少年と純
感の青年」と呼んだ.
熟練工を組織対象としていた.したがって青年とは熟練工を指した.又舞鶴海 軍工廠では,1917年に友愛会支部ができていたが,「其の側に見習工と其の成 業者,青少年約二百名が工場の青年を標榜して一団体を組織」した.(「職工気 質の研究」『労働及産業』66号)ここでは見習工と青年の間には区別が見られ,
青年は成業者一熟練工として考えられていたことがうかがえる.興味深いの は,r労働青年』2巻2号(大正6年3月号)誌上に載った「工場珍漫」で十 代の労働者を指して少年工と言っていることである.ここでは,労働青年が少 年工のことを書いているのだから,労働青年は20才台でありかつ熟練工を意味 していた.以上からみられるようにこの時期,青年労働者とは熟練工青年を指
していたのである.
熟練工である青年にとっては昇給や職階制度のあり方に関心が集中した.こ れは,海軍工廠や八幡製鉄という重工業の企業にみられた.熟練工の青年にと
って,職制と技術が同等ないし,それ以上にあるにもかかわらず情実や年功序 列によって正当な評価があたえられてないという不満があった.(注) そこから
(注) 八幡製鉄所の労働組合である同志会機関紙「東洋タイムス」5号(大正9年)に,
青年職工某は「昇給制度の改革」と題し次のように書いていた. 「吾々職工を指揮 する伍長が定期資格を無視し其の順番制を唯一の楯に取り,而かも情実に纒るは余 りに伍長の資格なき無智を笑はざるを得ない.大体製鉄所の伍長は薄野暮で何んで も年功さえ立てば伍長に挙げられ,又一度伍長になれば終身満期になるまで在職す る制度で所謂日本の随習を墨守したやりかた故情実に纒り官僚主義を守護神と仰ぎ 且つ事大思想の伍長が多い,依て是は昇給制度の改造と共に伍長制度を改造しなけ ればならぬ.第一は職工の互選として,第二は代議士の如く年限を4年に定め,第 三は伍長の権利及義務を制定することである.」
横須賀海軍工廠に,1916年中途採用された山本延寿は,その著『労働3年』(政 治研究会,大正10年)に次のように書いている. 「前述の職工採用に於ける職工採 用上に於ける情弊及其真因と欠陥の項を参照して貰ひたい.そして当局者等の多く が,情弊流者たる旧時代の人物にして真に文盲の徒たる彼の工手組長の古参者等の 老輩が,陰然実権者たる状態の下に時代錯誤と害毒を流布しつつある状態を相像せ よ,併して是等見習職工成業者が……青春の熱情を有し,此の社会に於ける知識階 級であり,随ては時代思想を意識的にも無意識的にも感得し得る可能性を有する人 々たるを想起せよ」 (56ページ)
なお,このように職階制度が問題にされたのは,山本延寿が吉野作造の教しえを受
け,同志会青年部が社会主義的労働運動からの影響を受けたということもあった.
11 八幡製鉄では職制の選挙制という要求があらわれた.ここには明治末期につく
られた養成工制度のもとで育った青年労働者の力量と,それ以前の技能的訓練 で身につけた職制クラスとの間の技能的力量の差があったと考えられる.
次に婦人労働者の問題に移ろう.友愛会は『労働及産業』に婦人版を設け,後
『友愛婦人』として独立させたが,婦人労働者に対する認識は,はなはだあい まいなものであった.労働者作家平沢計七は,『友愛婦人』大正8年9月号に富 士瓦斯紡績会社の様子を,又恩田和は同11月号に鐘淵紡績会社の様子を書いて いるが,紡績労働者の待遇を肯定的なものとして描き,前者は工場法成立に反 対した資本家の論理一貧困な農民子女が紡績に働いてこそ貧困でなくなる一と 通ずるものがあるし,後者は「経営家族主義」という宣伝をそのままうけ入れ たものになっており(注),後の富士瓦斯紡績争議(1925年)であきらかにされた問 題の片りんさえみられなかった.これは,石原修が示したリアルな認識さえ持 ちえていなかったことを示している.1919年のワシソトソ条約の代表派遣にあ たって婦人労働者の代表をおくる運動があり,友愛会八周年大会では婦人労働 監督官を設ける決議がされたのであるが,『友愛婦人』はこれらを反映してお らず,婦人労働者の問題をえぐりだそうとするより,娯楽的・修養的色彩が強 かったのである.1924年の『労働婦人版』になって婦人労働者の実情,例えば
「一旦女工となると若い娘はそれっきり育たなくなり,肺病やその他の恐ろし い病気にとりつかれ」等と問題にされるようになった.{10}
谷口善太郎は,1925年評議会が婦人部協議会を設けたことを述べるにあたっ て次のように指摘している.「今日までわが国労働組合運動においてこの婦人
(注) 「工場に働いている女工さん等に就いても面白い現象を記者は見ました.それは 年の幼いもの程,汚い着物を着て髪を荒れるに任せ,其の顔も大変いじていますが,
大きな人程着物のいいもの着,髪も綺麗に結び,其の顔も美しくなって愉庚相に働
いているという事です.これは一面日本の農村がいかに困っているかということを
示しているものと思います.つまり貧乏の為に顔迄もいじけている小さな女労働者
が紡績へ入ってだんだん腕も出来金も従って得られるので,だんだん其の顔迄が活
々して来るのだろうと思います.」(平沢「女工さんの生活」)。「工女の虐待,かねて
噂に聞いていたやうな,私の想像はすっかり消え失せました.むしろ,私はこれ程
の設備をして勉強せよ,勉強せよと迫られているのになぜもっと之を利用して勉強
されないのでせう.」(恩田「鐘ケ淵紡績会社を訪う」).
労働者の問題はほとんど顧られなかったといってよい.たまたま労働組合の大 会等で婦人労働者の問題が論じられたことはないでもないが,かかる場合は,
その案の内容いかんを問わず,ただそれが婦人の問題であるというだけで,興 味と冷笑と性的興奪とのうちに無責任に処理されてしまった.aD」と.
まとめにかえて
我が国の工場法公布にともなう保護年令の検討は,児童の問題だけでなく,
児童と大人の間にある成長期の年少労働者の問題を含んでおこなわれた.それ は,青年期にある女子労働者の問題を鮮明にしたし,男子労働者の場合18才を 保護年令とする必要は認められていた.このことは,産業上の要請と伝統的な 年令発想によって切りちぢめられはしたが,児童と大人一言いかえれば肉体的 に一人前の仕事が出来る労働者一との間にある特有な時期の存在を認めたこと を意味した.それは,労働力を発揮できる土台とも言うべき肉体的な面からだ けでなく,技術・技能を駆使できる一人前の労働者になる為に尋小卒後必要な 教育学習期間としての意味も工場法として公けに,又個別企業でも共通な傾向 として認められていた.が,工場法では前者の労働保護と後者の労働力養成で は年令にズレがあったのである.
児童と大人との特別の時期は,男子の場合労働者階級にあっては一人前の労 働者一「職工」となる準備期・養成期としてとらえられていたのであって,青 年労働者は,これとは別に一人前の労働者一熟練工としての青年という意味で とらえられていたのである.したがって,この時期青年問題は熟練工青年の問 題としてとらえられていたのである.他方,この準備期・養成期にある労働者 の問題は,教育問題として意識されつつあったことを意味する.そしてこの時 期の位置づけと課題は,全日本無産青年同盟や日本労働組合評議会青年部結成
と共に,教育問題と保護の問題として要求や政策が出されるようになる.
このように,児童と大人の間に保護の期間にしろ教育の期間にしろ,特有の
時期を認め,その時期の課題が自覚されつつあったところに熟練工青年の問題
の発想と共に工場法成立期に青年問題は顕在化していたのである.そして,こ
のような労働者階級における青年の問題と共に,一方に青年団の本格的な組織
化とかかわって農民の青年の問題があったのである.勤労青年の問題は,農民
13
青年と労働者の青年のふたつの筋であらわれてきていた.(婦人労働者による成 長しつつある女子青年問題の自覚の性格については,あらためて検討したい.)
(未完)
(注)
(1)木下春雄「高校教育論の歴史的視点」(『講座・高校生活指導1』明治図書,1972所
収,35ぺe−一・ジ)