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わ が 国 にお け る肢 体 不 自由児 施 設 の歴 史 的展 開(上)

一緑 成 会 整 育 園 の歴 史 を中心 に一

由美子

は じめ に

本 論 文 は,修 士 論 文 と して 書 い た も の に,加 筆 修 正 を し た も の で あ る。 本 論 文 に お い て は,明 治 期 以 後 の 肢 体 不 自由児 対 策 の大 ま か な 流 れ を 追 いな が ら,肢 体 不 自由児施 設 の成 り立 ち を概 括 しよ う と試 み た の で あ るが, まだ や っ と輪 郭 を描 い た程 度 の粗 削 りの もので あ るが,社 会事 業 史 の研 究 の 中 で も,心 身障 害 児 関 係 施 設 の歴 史 に関 す る研究 は,ま だ数 も少 な く,特 に肢 体 不 自由児 関係 は殆 どな い状 態 な ので,思 い切 って発 表 す る こと と した。

な お,紙 数 の都 合 に よ り,論 文 は上 下2回 に分 け て搭載 し,そ の構 成 は,「 目 次」 の通 りで あ る。

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は じめ に

第 一章 第一 節

わが国 におけ る肢体不 自由児施設 の性格

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肢体不 自由児問題 の顕在化

(1)明 治 期 (2)大 正 期

第二節 肢体不 自由児施設 の設立

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柏学園

光明養護学校 東星学園

第三節 高木憲次 の療育 の定義 と整肢僚護園

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高木 憲 次 の業績 と整 肢 僚 護 園 の設 立 高木 憲 次 の ク リュ ッペ ルハ イ ム とは

肢体不 自由 とい う言葉 の提唱 と施設療育 の定義

第二章 第一節 第二節 第三節 第 四節 第五節 第六節

333455556689088888888888891111111111111

児童福祉法 の設立 と緑成会整育設立過程192

児童福祉法 の設立 と肢体不 自由児施設 の法政化192 児童福祉施設最低基準 の制定 と肢体不 自由児施設193

東京身体 障害者公共職業補導所 の設立 と補導所付属病院 ………193 緑成会整育園 の設立 と多摩 緑成学園196

設立 当初 の子供達

緑成会整育園 の発展 と西多摩地 区での地域活動

199 202 206

文 献 リス ト 2Q7

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これ以後次号

第三章 障害児問題 の変容 と緑成会整育 園の対応

第一節 障害原因 の急速 な変化 と肢体不 自由児施設 の対応 (1)肢 体不 自由児施設 の全県設置

(2)障 害原因 の急速 な変化 とその影響 第二節 重症心身障害児対策 の展 開

第三節 緑成会整育園の設備充実

第四節 収容児 の病種変化 と整育 園の対応

第五節 多 田園長 の緑成会整育園の将来構想 と突然 の死去

第 四章1970年 以 降 のわ が国 の肢体 不 自由児施 設 の 展 開 と緑 成 会 整 育 園

第一 節 肢 体 不 自由児 施 設 の運 営 に大 きな影 響 を与 え た 出来 事 (1)障 害者 運 動 の高 ま り

ボバ ー ス法 ・ボ イ タ法 の紹 介 とそ の影響 第二 節 養 護 学校 義 務 化 と肢 体 不 自由児 施 設

第三 節 肢 体 不 自由児 施 設 の対 応

(1)児 童福 祉 施 設 最低 基 準 の改正

(2)1980年 以 降 の肢 体 不 自由児施 設 の動 向 第 四節1970〜1980年 まで の緑 成 会 整育 園 の動 向

(1)正 林 園長 の就 任 か ら重 度 棟 建設 まで (2)入 園 児 の状 況 と施 設職 員

第 五節1980年 か ら現在 まで の緑 成 会 整育 園 の動 向

わが国 における肢体不 自由児施設 の歴史 的展開 とその分析 緑成会整育園の歴史的展開 とその分析

今後の課題

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緑 成会 整 育 園 関 係 資料

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一肢体 不 自由児施 設 の歴 史 を見 る視 点 一

わが 国 にお け る肢 体 不 自由児 に対 す る対 策 が,貧 民 に対 す る対策 か ら分 離 さ れ,障 害 とい う特 殊 な ニ ー ドへ の対 応 と して行 われ るよ うに な った の は,整 形 外 科 学 の進 歩 に よ って で あ る。

肢 体不 自由児施 設 に よ る療 育 体 制 の確立 に先 駆 的役 割 を果 た した整形 外 科 医 た ち は,そ の実 践 を通 して,あ るい は,諸 外 国 の制 度 に学 ぶ 中 で,肢 体 不 自 由 児 を真 に救 うため には,不 自由児 の持 っ 問題 の複 雑 性 か ら単 に医学 的治 療 を 行

うだ けで は不十 分 で,治 療 ・教育 ・職 業 指導 を一 貫 して行 う こ とが で き る,多 機 能 な施設 で の一 貫 した指 導 が必須 の条 件 で あ る と考 え,こ の考 え を基 礎 に施 設 療育 の体 制 を造 って 来 た の で あ った。

しか しな が ら,施 設 にお け る療 育 体 制 の中 で,治 療 ・教 育 ・職 業 訓 練 の 機 能 は,平 等 に位 置 付 け られ発 展 したの で はなか った。 療育 の 中核 的役 割 を果 た し て きた もの は,あ くまで も病 院体 制 を中心 に した,医 療(治 療 と医 学 的 リハ ビ

リテー シ ョンを含 む)で あ った。

わが国 の肢 体 不 自由児施 設 は,1947(S22)年 児 童 福 祉 法 の 制 定 に よ って, 法 的根 拠 を 得 て40年 足 らず の間 に,障 害 を引 き起 こす 原 因 の激 しい 変 化 と,社 会 の障害者 に対 す る意識 の変 革,障 害 者 自身 の権 利 主 張 の運 動 に よ って,そ 性 格 の著 しい転換 を余 儀 な くされ た。

その転 換 の過程 で,実 際上 も っ と も大 きな問題 とな った もの は,施 設 療 育 体 制 の中核 を なす 医療 の質(医 学 的 リハ ビ リテ ー シ ョ ンを含 む)が,障 害 の原 因

とな る疾 患 の変化 に的確 な対 応 が で き るか否 か で あ った。

た とえ ば,発 足 当時 の肢 体 不 自由児 施 設 で の医療 の基 礎 は,小 児 整 形 外 科 の 治 療 と,そ の後 の 医学 的 リハ ビ リテ ー シ ョ ンで あ った が,障 害 の原 因 が 脳 性 麻 痺 な ど,脳 神経 の もの に変 わ って行 く中 で,必 要 な 医 療 分 野 は,小 児 神 経 等, 他 領 域 に広 が って い った。

その結 果,医 療 の質 を新 しい障 害 原 因 に応 じて転換 し向上 させ て行 く こ とが

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で きた施設 は,総 合 療 育 セ ンター等,幾 っ か の タイ プの施 設 に転 換 す る こ とが で きたが,一 方,財 政 的事 情 等 に阻 な まれ て,医 療 の質 的 転 換 を 図 れ な か った 施設 は,施 設 存 続 とい う目的 か ら,異 な った役割 を担 うよ うに な って い った の で あ る。 す なわ ち,医 療 的 ニ ー ドは比 較 的低 いが,養 護 問題 を持 っ 障 害 児 の 生 活 の場 と して の役 割 に活路 を見 出 そ うと した ので あ る。

本 論 文 で中心 的 に取 り上 げ る緑 成 会整 育 園 は,ま さに その一 例 で あ る。

緑 成 会 整 育 園 は,児 童福 祉 法 制定 後,初 めて公 式 に認可 され た長 い歴 史 を も っ肢 体 不 自由児施 設 で あ る。 この施設 の歴 史 的 営 み を 追 う中 で,上 に述 べ た, 医療 の質 的 転 換 を軸 と した肢 体 不 自由児 施 設 のわ が 国 に お け る歩 み を 見渡 し, その ことを通 して,肢 体不 自由児施 設 の本 来 の役 割 を検討 し,今 後 の心 身 障 害 児 施設 の あ るべ き姿 を探 る手 掛 か りを 引 き出 す事 が本 論 文 の 主 な 狙 い で あ る。

特 に,療 育 とい う目的 を中心 に して発 達 した肢 体 不 自 由児 施設 が,も っぱ ら医 療 の質 を軸 に して性 格 の転換 を行 って きた結 果,そ こに欠 けて い た生 活 の 場 と

して の役 割 の認識 を め ぐる考 察 を加 え,障 害 児施 設 改 革 の今 後 の課題 と したい。

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第1章 わ が 国 に お け る肢 体 不 自 由児 施 設 の 性 格

一戦 前 の肢 体 不 自由児 対策 の展 開 を通 して 一

第 一 節 肢 体 不 自 由 児 問 題 の 顕 在 化 (1)明 治期

明治 の初 期 には,児 童 も成 人 も区別 されず 一般 の貧 民 対 策 の 中 で扱 わ れ て い た。 障 害 を持 った児童 も同様 の扱 いで あ った。 収 容 によ る貧民 対 策 の歴 史 を見 る と,養 育 院(明 治5年)等 に は,非 障 害,障 害 の 区 別 な く収 容 さ れ て い た。

明治2年 に出 され た 「大 聖 寺 藩 山 田m朗,梅 田五 月 の 「貧 院取 建 方 の 儀 に付 建 白書 』 の 中 で肢 体不 自由児 の能 力 開発 的 処 遇 に関 す る提 案 が 見 られ た。 しか し建 白書 の趣 旨は,貧 院 の必 要 性 を説 い た もの で あ る。」(注1)で,あ った。

明治20年 代 頃 にな る と,欧 米 の慈善 事 業 の思 想 が わ が国 に取 り入 れ られ,児 を成 人 と区別 し,児 童 の保 護 施設 を造 る事 は,一 般 化 し,保 護 施 設 も数 多 く造 られ るよ うにな ったが,そ れ らの施 設 にお いて も障害,非 障 害 を あ え て 区 別 し なか った。 只,自 ら も障害 者 で あ る渡 辺 大 吉 が 明治36年 に静 岡 県富 士 市 に設 立 した,富 士育 児 院 は,「(収 容 児 童 は主 と して心 身 障害 児 で,特 に 当 時 一 般 孤 児 育 児 院 で収 容 を拒 否 され た,重 症 肢 体 不 自由児童 を収 容 し,収 容 力 に 余 力 が あれ ば,一 般 孤 貧 児 を収容 して お ります。)と あ る よ うに,肢 体 不 自 由 児 が 優 先 され て い た。」(注2)。 しか し,障 害 とい う特 殊 状 況 に起 因 した 問 題 が顕 在 化 し,そ れ に対 す る特 別 の処 遇 が行 わ れ る よ うに な ったの は,整 形 外 科 の わ が 国へ の紹 介 と,教 育 サ イ ドか らの取 組 が,行 わ れ るよ うに な って か らで あ っ た。

明治 初期 の わ が国 の医学 界 に は,漢 方 医学 と西洋 医学 とが混在 す る状 態で あ っ たが,明 治10年 に東 京帝 国大 学 医 学部 が 開設 され,ド イ ッか ら医 学 者 を 招 い た り,留 学 生 を ドイ ツ,オ ー ス トリア等 に送 って,西 洋 医 学 を積 極 的 に 取 り入 れ た。 明治39年 に この医 学 部 にわ が国 初 の整形 外 科教室 が開設 され,ド イ ッやオ マ ス トリアで,整 形 外 科 的 矯正 術 を学 ん で帰国 した 田代義 徳 が,初 代 の教授 とな っ

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た。 明治41(1908)年 に は,外 来,入 院合 わせ て1年 間 に1400人 を,ま た大 正 期 に は2000人 の患者 を扱 い(注3),そ の多 くが小 児 で あ った(注4)。 この 実 践 を通 して,医 療 の視 点 か ら見 た,肢 体 不 自由児 の問題 が顕 在 化 して き た の で あ る。

一方,教 育 の サ イ ドか ら見 る と,明 治5年 に公 布 され た学 制 に は 「廃 人 学校」

の規 定 が あ り,障 害 児教 育 も範 疇 に含 まれて いた。 しか し,肢 体 不 自 由児 に 関 して は,こ れ らの教 育実 践 は,全 く行 わ れず,ま た,明 治12年 に学 制 に代 わ り 公布 され た教 育 令 に お いて児童 一般 の就 学 義務 が規 定 され たが,障 害児 につ い て は,明 治14年 の文部 省 か ら府 県 へ の布 達 「就 学 督 責 親 則 起 心 得 」 に お い て ,

「就学 スル能 ハ ラサ ル事故 ア リ ト認 ム ヘ キ者 」 の 中 心 に 「廃 疾 の者 」 を あ げ, 事 実 上 の就 学 猶 予 ・免 除 を認 め る事 とな った。

(2)大 正 期

日露戦 争 後,日 本 の資 本主 義 はそ の基 盤 を確 立 した が,引 き続 く富 国 強 兵 策 の 中,教 育 行 政 にお い て は児 童 の体位 向上 が強調 され、 養護 が注 目 を集 め る よ うにな り,ま た,教 育 者 の欧 米 視察 に よ って,障 害 児 の特 殊 教 育 に対 す る関心 が 高 ま る よ うに な った。

一 方,就 学率 の高 ま りの 中で,軽 度 の肢体 不 自由児 も学 校 に在 籍 す る こ と も 多 くな り,体 操 教 師 はそ の取 扱 いに苦 心 して いた。 その一 人 柏 倉松 蔵 は,当 時

日本 に輸入 され た ばか りの医療 体 操 に関 心 を持 ち,そ の研 究 のた め,在 職 して いた小 学校 を休 学 して 田代義 徳 の教 室 に入局 し(大 正7年) ,後 に 田代 教 授 の 指 導 の下 に各 種 の肢 体 不 自由児 実 態 調 査 に参 加 した。

この時期 に は,教 育 ・医学 両 面 か ら障 害 児 に対 す る実 態調 査 が行 わ れ ,肢 体 不 自由 を初 め,障 害児 問題 の顕 在化 に大 きな役割 を果 た した。

教 育 サ イ ドで は,就 学 率 が99.8%に 達 した明治44年,医 師 三 宅 鉱 一 が,東 市 内15区 の就 学 免 除 ・猶 予 児童 の調 査 を実 施 し身 体不 具 の た め就 学 免 除 の者25 名,普 通 学 童 と一 緒 の授 業 困 難 な児 童 が490名 い る と指 摘 して い た(注5)。

「大 正9年 文部 省 は,『 肢者 数 』23434人 と発表 した」(注6)。

医学 サ イ ドにお いて は,田 代 義徳 が,大 正6年 に東 京府 慈善 協会 第 三 部(衛 生 治 療)部 長 と して,「 手足 の不 自由者 の実 態 調 査及 び救済案」を提 唱 し(注7)

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これ に基 づ き,東 大 整形 外 科 教 室 を 中心 と して実 態 調査 が行 わ れ た。

第 二=節 肢 体 不 自 由児施 設 の成 立

明治36年 に設 立 され た富士 育児 院 の主 要 な収容 児 は肢 体不 自由児 であ ったが, 施 設 の基盤 は養 護 施設 で あ って,肢 体 不 自 由児 の 問題 に正 面 か ら対応 した もの で はなか った。

本 格 的 な肢 体 不 自由児 施 設 の成 立 は大 正 に入 ってか らで あ る。

(1>柏 学 園

肢 体 不 自由児 を収容 し,そ の治療 ・教 育 を 目的 と して 発 足 した施 設 と して, 第 一 に上 げ られ る もの は,全 節 で述 べ た柏倉 松 蔵 が大正10年 に私 財 を投 じて 設 立 した柏 学 園 で あ る。 柏 倉 松 蔵 は,医 療 体 操 の効 果 を経 験 し,そ の 普 及 を志 し たが,医 療 体 操 に対 す る学 校体 育 の反応 のな さ に絶 望 し,ま た,医 療 体 操 を 実 施 す る に は,大 変 に努 力 を要 す るた め,特 に肢 体 不 自由児 が 継続 して 体 操 を 続 けて行 け るよ う,集 団 で行 う ことが効果 的 で はな いか と考 え,独 自 の肢 体 不 自 由児 施設 を造 る こ とを計 画 した(注8)師 で あ る田代義 徳 の助 言 を得 て設 立 し た この学 園 は,身 体 の不 自由 な児童 で,障 害 の原 因,種 類,程 度,知 能 障 害 の 有 無 に よ って,入 園対 象 を制 限 す る事 はなか った(注9)。

(2)光 明 養護 学 校

大 正14年 に東 京 帝 国 大学 を退 官 した田代 義 徳 は,東 京市 議 会 議 員 に な り,そ こで肢 体 不 自由児 対 策 の必要 性 にっ いて様 々 な提 言 を行 ったが,こ の事 が,わ が 国最 初 の肢 体 不 自由児 養護 学 校,光 明養 護 学校 の設 立 に大 きな影響 を与え た。

東 京 市 教育 局 で は,昭 和5年6月 に,市 内 の小 学 校 児 童 を対 象 に実 態 調 査 を 行 い,体 操 を免 除 しな けれ ばな らな い程 度 の関 節 及 び筋 肉 の異常 の あ る児 童 が 718名 い る こ とを確 認 した(注10)。 「上 記 資 料 を基 に 田代 義 徳 は 同5年7月 東 京市 本 会 議 で 『不 具 児 教 育所 』 の設 置 を提 案 」(注11),こ れ を きっか け と し

て,肢 体 不 自 由児学 校 設 立 の気 運 が高 ま り,昭 和7年5月 に1学 級15名 の光 明 養 護 学校 が開 校 した。

(3)東 星 学 園

30年 余 り児 童 の保護 事 業 に従事 して来 た 日本 基 督 教 婦 人 矯 風 会 の守 屋 東 は,

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その実 践 を通 じて,知 能 障害 はな いが 一般 児 童 と共 に動 く事 ので きな い肢 体 不 自由児 の存 在 に気 付 いて お り,そ の対 策 に苦 心 して いたが,高 木 憲 次 の提 唱 す る ク リュ ッペ ルハ イ ム(高 木 憲 次 と ク リュ ッペ ルハ イ ムにっ い て は,次 節 で ま とめ て述 べ る)に 共 感 し,そ の指 導 を受 け て,昭 和14年,私 財 と婦 人 会 の募 金 等 で,玉 川村 上 野 毛 に定数24名 の東 星学 園 を設立 した。 この施設 に は,専 任 教 師1名 を雇 用 して,入 園児 に は整 形外 科 治 療 と同 時 に教 育 を行 うと い う,高 木 憲次 の提 唱 した ク リュ ッペル ハ イ ム をわ が国 で最初 に実 現 した ものであ ったが, 戦 時体 制 の強化 と と もに事 業 を維 持 す る事 が で きな くな り,わ ず か4年 後 の 昭 和18年 に閉 園 せ ざ るを得 なか った。

第三節 高木憲次の療育 の定義 と整肢療護園 (1)高 木憲次 の業績 と整肢療護園 の設立

わが国の肢体不 自由児施設 の設立 にっいて,高 木憲次の果 た した役割 は大 き

い 。

高 木 憲 次 は,1915(大 正4)年 東 京 帝 国 大 学 整 形 外 科 医 局 に入 局 し,田 代 義 徳 の 指 導 の 基 で 多 くの 肢 体 不 自 由 児 と接 す る こ と に な っ た。 大 正5〜7年 に か け て,下 谷 万 年 町 ・本 所 ・深 川 ・本 郷 小 学 校 に お い て,田 代 教 授 の 指 示 で 肢 体 不 自 由 児(者)の 実 態 調 査 を 実 施 した。

この 調 査 を通 じ,長 期 間 の 治 療 を 必 要 と す る整 形 外 科 的 疾 患 を持 っ 児 童 に は, 治 療 と同 時 に教 育 の 機 会 を与 え る事 が 必 要 で あ る と痛 感 し,1918(大 正7)年 本 郷 小 学 校 同 窓 会 で 「夢 の 楽 園 教 療 所 」 の 説 を 講 演(注12)し,こ れ が,高 憲 次 の肢 体 不 自 由 児 施 設 療 育 の 考 え 方 の 基 礎 と な っ た 。 こ の 考 え 方 は,1922

(大 正11)年 よ り,1年7ヵ 月 の ドイ ッ留 学 に よ って,さ らに進 展 した。

当 時 の ドイ ッで は,1906年 に プ ロ イ セ ン政 府 が ク リュ ペ ル 調 査 を 行 い,そ を 基 に,1920年 肢 体 不 自 由 者 保 護 法 が 公 布 さ れ た 後 で(注13),高 木 は 「第 一 次 大 戦 の 敗 戦 国 で あ る ドイ ッ が,乏 し い 資 材 を や り く り し て,全 国 に100以 上 の ク リ ュ ペ ル ハ イ ム を 作 り維 持 して い る こ と に感 銘 を 受 け た 」(注14)と 述 べ て い る。

ドイ ッ留 学 の 経 験 か ら,高 木 は,ク リ ュ ペ ル に は,整 形 外 科 的 治 療 ・教 育 に

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加 えて,残 存 能 力 に合 わせ た職 業 訓 練 と,職 業 相談 が必 要 で あ る と考 え た。 こ の施設 の形 体 を体系 化 した ものが,図1で あ る。

図1高 木 憲 次 の考 え た身 体 障害 者 へ の対 策 の あ りか た

「ク リュ ッペ ルハ イ ム」 が肢体 不 自由児施 設 に 当 た る。

1整 形 外 科 学 ノ 進 歩

/智 能 健 全 「ク リュ ッ ペ ル 」

\ 努 力 ノ 意 志 「ク リュ ッ ペ ル 」 醤 治 教 護 事 業

1.實 地 醤 家 ノ 整 形 外 科 的 教 養,認 2.「 ク リ ュ ッ ペ ル 」 ノ早 期 検 診,治 A豫

3.申 告,家 庭 探 訪

4.相 談 所(Kruppelberatungsstelle)

Kruppelversorgungsstelle

B

C収 容救護

1・ 外 来 診 察 治 療 所{

Tagesheiem 2.「 ク リ ュ ッ ペ ル 」 學 校

3.「 ク リ ュ ッ ペ ル 」 豫 備 校(Kruppelvorubungsschule) 1.「 ク リ ュ ッ ペ ル 」(Vollheim)

a‑!l‑

b・教 育{購

一{欝 撫

d.職 業 紹 介 及 授 産 2.不 具 廃 疾 院(Siechenheim) 3.智 能 薄 弱 児 教 導 所

「高 木 憲 次 一 人 と 業 績 一 」278P

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高 木 憲 次 は,こ の 構 想 を 実 現 し よ う と して 文 部 省,財 界 な ど に あ ら ゆ る機 会 に働 きか け た が,構 想 実 現 は 容 易 で は な か った。

1937(昭 和12)年 支 那 事 変 が 勃 発 し,政 府 と して は,傷 疲 軍 人 対 策 が 急 務 と な り,そ の 有 用 な方 法 と して,高 木 憲 次 の 構 想 が 注 目 を 集 あ る よ う に な っ た 。 そ の 結 果,政 界 ・財 界 ・軍 人 を 巻 き込 ん で,肢 体 不 自 由 者 療 護 建 設 委 員 会 を 設 立,財 界 に 寄 付 金 を 募 っ た と こ ろ,寄 付 金 は,予 定 を越 え て 集 ま っ た。 と こ ろ

が,同12年 の秋 に,傷 病 兵 ・傷 瘍 軍 人 の 取 扱 い は,一 切 政 府 が 行 う と い う,方 針 が 決 ま り,建 設 予 定 の施 設 に お い て は,一 般 の 肢 体 不 自 由 者 を 扱 う事 が で き

る よ う に な っ た。

こ う して,1942(昭 和17)年,板 橋 区 に,定 数105床 の 整 肢 療 護 園 が 設 立 さ れ た(注15)。 建 物 は,診 療 棟 ・厚 生 棟 ・義 肢 装 具 研 究 所 等 か らな る総 面 積,6600 平 方 メ ー トル の 立 派 な も の で,入 園 者 は,子 供 だ け で な く,成 人 も扱 い,当 時, 大 学 病 院 で は入 院 ベ ッ ド数 の 不 足 で で き な か った,長 期 間 を 要 す る慢 性 の 疾 患

を治 療 し,大 き な 成 果 を 上 げ た(注16)。

しか し,1944(昭 和19)年 よ り空 襲 が 激 し くな り,終 戦 ま で に6回 の 空 襲 を 受 け,ガ レー ジ と看 護 婦 宿 舎 を残 す の み に な っ た。

(2)高 木 憲 次 の ク リ ュ ッペ ル ハ イ ム と は

高 木 憲 次 は,ド イ ッ の ク リ ュ ッ ペ ル ハ イ ム か ら多 く の も の を 学 ん だ か,

「 「ク リュ ッペ ル 』 を精 神 的 異 常 者 扱 ひ を し… … 中 略 … … 患 児 を 精 神 的 に 歪 め る者 と決 め て か か っ て,こ れ が 矯 正 と処 理 に あ る い は特 殊 教 育 に,余 り に も拘 泥 し過 ぎて い る点 が 腋 に落 ち な か っ た」(注17)と,述 べ,帰 国 に 際 し て,「 ① 先 ず 肢 体 不 自 由 児 の 精 神 的 擁護 案 を考 え よ う ② 手 術 者 た る も の は,手 術 後, 罹 患 肢 体 の 快 復 に よ って 患 児 が 生 業 能 力 を獲 得 した こ と を 見 と ど け る べ き で あ る」(注18)を 決 意 し,施 設 作 り に 専 心 す る の で あ る 。 こ の よ う な 視 点 か ら , 高 木 の 主 張 す る ク リ ュ ッペ ル ハ イ ム の,基 礎 的 な 機 能 は整 形 外 科 の 病 院 で あ っ

た 。

す で に 設 立 して い た,柏 学 園 に っ い て は,こ の 機 能 が 十 分 で は な か っ た こ と か ら,ク リュ ッペ ル シ ュ ー レ(肢 体 不 自 由児 の た め の 学 校)と して 評 価 したが , 彼 の 主 張 す る ク リュ ッペ ル ハ イ ム と は,区 別 して 考 え て い た 。

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ま た,病 院機 能 と教 育 機能 に っ いて は,一 っ の組 織 の中 で統 一 して 行 う こ と を主 張 し,「二 機 関 を分立 せ しめ爾 も有 機 的 関係 を 保 持 し恰 か も一一機 関 の 如 く 協 力 せ しめ な けれ ば な らぬ。」(注19)と した,光 明学 校 の初代 校 長 結 城 捨 次 郎

とは,意 見 を異 に した。

(3)肢 体 不 自由 とい う言 葉 の提 唱 と施 設 療育 の定 義

高 木 憲次 が提 唱 した,治 療 ・教 育 ・職業 訓 練 機 能 を兼 ね備 え た 「ク リュ ッペ ルハ イ ム」 は,整 肢療 護 園 の設 立 で,現 実 の もの とな り,こ の 考 え が,戦 後 の 肢 体 不 自 由児 施 設 の展 開 の基 礎 とな るの で,こ こで,療 育 とそ の対 象 で あ る肢 体 不 自由 の定 義,療 育施 設 の性 格 にっ い て,さ らに明 確 に して 置 くた あ,二

の事 を書 き加 え て お きた い。

●肢 体 不 自由 と い う障 害 の名 称 は,1929年(昭 和4)頃 高木 憲 次 に よ って,提 唱 され た。 彼 はか ね て よ り,カ タワ ・ア シナ エ ・カ タチ ンバ な どの 言 葉 が,肢 体 不 自由 を持 っ子 供 達 の心 を傷 付 け,悪 影 響 を及 ぼ す こ とを大 変 懸 念 して い た

が,「 ア シナ エの為 に高 等 小 学 校 に入 学 で きな か った一 少 女 が,下 校 す る他 の 生 徒 に,ア シナ エ ・カ タ ワな ど といわ れ て悲 観 し,川 に飛 び込 ん で 自殺 した」

とて う新 聞記 事 を見 て,適 切 な名称 を探 さな けれ ば と い う思 い を強 く した。 そ して,自 分 が診 察 して い た多 くの患 者 に意 見 を 聞 き,「 欠 け て い る所 が あ る と い って批 判 され た くな い。 姿 ・形 ・動 作 な ど にっ い て批 判 表現 され るよ うな名 称 で呼 ば れ た くな い。 不 自由 を感 じて い るの は 自分 自身 で あ って,他 人 か ら批 判 され な けれ ば な らな い責 務 も負 い 目 もな い。」 とい う患 児 の意 見 を 手 掛 か り

と し,医 学 的 に も十 分 使 用 に耐 え る言 葉 を造 ろ う と した(注20)。 そ して,下 記 の条件 を満 たす もの と して,肢 体 不 自由 とい う言葉 を提 唱 したの で あ る。

療 育 の 目標 は単 に乱 れ た形 態 を整 え る事 よ り も,む しろ損 なわ れ 多 機 能 を回 復 させ る事 に あ る。 従 って療 育 の対 象 とな る ものの名 称 も形 態 異常 を 現 した もの よ りも,機 能 障害 を表 現 した もの で な けれ ば な らな い。

身 体 の うち不 自由 な箇 所 を解 剖学 的 に限 定 的 に表現 す る もの で あ る事

あ る原 因 が あ って そ の結 果 と して生 じた もの を表現 で き る こ と(し か も, 広 い範 囲 の原 因 か ら生 じた もの を現 せ る可 能 性 の あ る もの)(注21)

●療 育 の定義 は 「現 代 の科 学 を総 動員 して不 自 由な 肢 体 を 出 来 る だ け克 服 し,

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幸 いに も快復 した ら 『肢体 の復 活 能 力』 そ の ものを(残 存能 力 で はな い)出 来 る丈 け有 効 に活 用 さ せ,以 て 自活 の途 の 立 っ よ う に 育 成 す る こ と で あ る 」 (注22)と し,そ の療 育 の対象 と して の肢 体 不 自由児 の定 義 は

「1肢 体 の機 能 に不 自由 な と ころ あ り,そ の儘 将 来生 業 を営 む上 に支 障 を き たす虞 あ る児 童 を肢 体 不 自由 とす。

2就 中現 代 の医 学 で は,不 治 で あ り,し か も仲 々症 状 の 固 定 しな い者 は

「肢 体 の不 治 永 患 者 症」 と称 して い る

3小 児 麻 痺 とか,間 接 結 核或 い は阻 血性 拘 縮 の如 く,そ の治 療 に長 期 間 を 要 す る疾 患 を第一 種 の肢 体不 自由児 と して い る… … 中 略」(注23)

以 上述 べ て きた よ うに,整 形外 科 の わが 国 へ の導 入 と,そ の臨 床 に携 わ って 来 た,田 代 義 徳 や,高 木 憲 次等 の先 覚者 の実 践 を通 じて わ が国 の肢 体 不 自 由児 問 題 は健 在 化 した。 また,肢 体不 自由児 の持 つ問 題 の 多面 性 に着 目 した高 木 憲 次 の肢 体 不 自由児 療 育 施 設 の提 唱 は,肢 体 不 自由児 問題 へ の対 処 の仕 方 に科 学 的 な方 法 を与 え,肢 体 不 自由児 の取 扱 い を慈 善 的 保護 か ら,治 療 的処 遇 へ と発 展 させ て い ったの で あ る。

同 時 に ま た,高 木 憲 次 の医 師 と して の立 場 か らの発 想 は,肢 体 不 自由 児 施 設 に,病 院機 能 の優 位 性 とい う性 格 付 けを与 え たの で あ る。

1今 野 文信講 述 高橋流 里子 筆 肢 体不 自由児 の福祉対 策」 『戦 前 ・戦 中 期 にお け る 障害者 福祉対 策』 財 団法人 社会 福祉研 究所 平成2年3月25日P53よ り引用 21に 同 じP54よ り引用

3田 代義 徳 整 形外科 の現 在及 将来」 『医事 新 聞第1148号 』 東 京 大 学 医学 部 整 形 外 科教 室 開校70周 年 記 念会編 「田代 義徳先 生 人 と業 績』1975年P982

4[ρU7Ω

1に 同 じ 1に 同 じ 1に 同 じ 1に 同 じ 柏 蔵 松 蔵

P55

..

P58よ り引用 P58

肢 体不 自由児 の治療 と家 庭 及 学 校 』 柏 学 園 昭和31年6月10日

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P11^12

98に 同 じP17〜21

10杉 浦守邦 「日本最初 の肢体 不 自由児学校 ・柏 学園 と柏 倉 松蔵」 山形 大 学 教 育 学 部 養護 教室 昭和61年P258〜259

11高 橋流 里子著 「戦 前 の 障 害 概 念 の検 討 一肢 体 不 自由 児 施 設 の処 遇 を通 じて 一」

社会 福祉 第28・29合併号 』 日本女 子大 学社会 福祉 学 科 平 成 元 年9月30日P17 か ら引用

12田 波幸 夫編 『高木 憲次 一人 と一業績』 財団法 人 日本 肢体 不 自由児協 会 昭 和42年 12月P29

13一 番 ケ瀬康 子他 編 講座 障害者 の福 祉1(障 害者 の福 祉 と人権)』 光 生 館1987年 12月25日P81〜82

1412に 同 じP81〜95 1512に 同 じP81〜95 1612に 同 じP88〜95

1712に 同 じP41か らの引用 1812に 同 じP41か らの引用

19全 国肢体 不 自由養護 学校 長会編 『肢体 不 自由児教育 の発展 改定 増補 版』 社 会 福 祉 法 人 日本 肢体不 自由児協会 昭和56年5月21日P20か らの引用

2012に 同 じP53〜55

21高 木 憲次 「肢体 不 自由 とは」 『肢 体不 自由児 の療育 第2号 』 財 団法 人 日本 肢 体 不 自 由児協 会 昭和26年7月1日

22高 木憲次 「療育 の基本 理念」 『肢体不 自由児 の療育 第1号 』 財 団 法 人 日本 肢 体 不 自由児協会 昭和26年1月P7か らの引用

2322に 同 じP8か らの引用

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第2章 児童 福祉 法 の成 立 と

緑 成 会整 育 園 の成 立 過 程

第1節 児童福 祉法 の成立 と肢体不 自由児施設 の法制化

児 童 福 祉 法 は,敗 戦 後 の深 刻 な生 活 困窮 の中 で の,多 数 の戦 災孤 児や不老児 ・ 引揚 孤 児 対策 の必 要 が,成 立 の契 機 とな った もの で あ った。

政 府 は,最 初 これ らの児 童 の保 護 の 問題 を一 般 生 活 困 窮者 の対 策 の中 で 取 り 扱 って い たが,具 体 的 な成 果 は上 が らな か った。 戦 後 最 初 の,具 体 的 な 児 童 保 護 対 策 は,1946(S21)4月 に出 され た 「浮 浪 児 そ の 他 の 児 童 等 の応 急 措 置 実 施 に関 す る件 」 と同 年9月 の 「主 要地 方 浮 浪 児保 護 要 綱 」 で,こ れ は,児 童 の 保 護 とい うよ り浮 浪 児 の取 締 りに近 い性 格 を持 っ もの で,こ の要 綱 に基 づ き, いわ ゆ る浮 浪 児 の刈 り込 み を行 ったが,効 果 は思 うよ うに上 が らなか った。 こ の様 な経 験 を通 して,政 府 は包 括 的 な児 童保 護 対 策 の必要 性 を認 識 して いった。

厚生 省 は,法 案 の作成 に 当 た り 「児 童 福 祉法 草 案 起 草委 員 会 」 を設 け た。 こ の委員 会 に は,民 間 の児 童 施 設 関係 者 や,社 会 事 業研 究 者 等,多 くの有 識 者 が 選 ばれ た が,高 木 憲 次 も,こ の委 員 の一人 で あ った。

児 童 福 祉 法 全 体 の成 立 過 程 の中 で,法 の 目的 は,要 保 護 児 童 の保 護 と,非 行 少 年 の対 策 とい う社 会 防 衛 的色 彩 の強 い もの か ら,一 般 児 童 の健全 育成 と福 祉 の増 進 とい う,よ り広 い もの に,転 換 して い くの で あ るが,こ の転換の力 とな っ た の は,婦 人 運 動 ・教 育運 動 等 の各 種民 主 団体 の立 法 過 程 で の運 動 であ った。

しか し,こ の様 な背景 の 中 に あ って も 「肢体 不 自由児 の療 育 を この法 律 の 中 に盛 り込 む こ とに は,多 くの難 色 が示 され た。 当時,こ の種 の事 業 は,整 肢 療 護 園 に よ って,少 数 の識 者 の関心 を よん だ程 度 で,ま だ一 般 の人 達 に,広 く理 解 され る と ころ まで はい って い なか った。」(注1)

高木 憲 次 は,粘 り強 く各 委員 を説 得 し,法 第7条 の児 童 福 祉 施 設 の 中 に,療 育 施 設 と して肢 体 不 自由児施 設 を盛 り込 み,ま た 法43条 に お い て,「 身 体 の 不

自由 な児 童 を治 療 す る と と もに,独 立 自活 に必要 な知 識 技 能 を与 え る こ とを 目

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的 とす る施 設 とす る」 と規 定 す る こ と に成 功 した 。

と こ ろ で,高 木 憲 次 の 主 張 す る 療 育 施 設 の 三 つ の 柱 の 一 つ で あ る,「 教 育 」 と い う言 葉 を,法 の 中 に 是 非 入 れ た い と主 張 した が,教 育 は 文 部 省 の 管 轄 で あ る と い う行 政 上 の理 由 に よ って 果 た す こ とが で き な か っ た。

児 童 福 祉 法 は,1947(S22)12月12日 制 定 さ れ,翌 年1月1日 施 行 さ れ た。

こ の様 に して,肢 体 不 自 由 児 施 設 が,法 的 根 拠 を得 た こ と で,全 国 へ の 普 及 の 基 礎 を得 た の で あ った 。

第2節 児童福 祉施設最 低基準 の制定 と肢体 不 自由児施設

児童 福 祉 法 が成立 す る と,厚 生 省 児 童局 は次 の段 階 と して,児 童 福 祉 施 設 の 最 低基 準 の制 定 を行 った。 この制定 にっ いて も,高 木 憲次 は,中 央 児 童 福 祉 審 議 会 委員 と して関与 した。

1948(S23)年 に交 付 され た最 低 基 準(厚 生 省 令 第613号)に よ る と,肢 体 不 自由児 施 設 は,療 育 施 設 の一 っ と位 置付 け られ(第85条(注2)),「 肢 体 不 自由児施 設 とは,肢 体 の機 能 の不 自由 な児童 を入 所 させ る医療 法 の病院 を い う」

(第85条2)(注3)と 定 義 され,そ の職 員構 成 につ いて は,第89条5で 「肢 体 不 自由児 施設 の長 及 び医 師 は整 形 外科 の診 療 に相 当 の経 験 を有 す る医師 で な け れ ば な らな い」(注4)と 規 定 され た。

高木 憲 次 は細 部 にお いて は,よ り高 い最 低 基 準 の設 定 を望 ん で お り,こ の 基 準 に満 足 して いた訳 で はな いが(注5),高 木憲 次 の主 張 した 整 形 外 科 病 院 を 基 盤 と した肢 体不 自由児 療 育 施設 の体 系 は,ほ ぼ全面 的 に最 低 基 準 に盛 り込 ま れ,そ の後 の肢 体不 自由児 施設 の性 格 に大 きな影 響 を与 え た。

第3節 東京 身体障 害者公共職 業補導所 の設立 と補導所 付属病 院

戦 前 にお け る,身 体 障 害者 の施 策 の多 くは,傷 瘍 軍 人 対 策 と して 行 わ れ て き たが,敗 戦後 の 占領 政 策 の中 で,軍 人 に対 す る特 権 的 な政 策 はす べ て 解 体 させ

られ た。 しか し,そ の一 方 で は,戦 争 に よ って生 み 出 され た多 くの 傷瘍 軍 人 に

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対 して,早 急 になん らか の対 策 を建 て る事 が必 要 で あ り,こ れ が,戦 後 の身 体 障 害者 福 祉施 策 を進 め る引 き金 とな った。

この様 な背 景 の 中で,1948年(S23)7月,小 平 市 小 川 に,わ が 国 最 初 の 身 体 障害 者職 業 補 導所 が建 設 され る事 に な り,労 働 省 が 東 京都 に この事 業 を 委 託

した。

この補 導 所 の初 代 所 長 宮 崎吉 則 氏 は,「 そ の年 の11月1日 に一 期 生 と して52 名 の生 徒 を預 か った の です が,こ の内 の20名 近 い生 徒 が,手 術 を す る こ とで 今 よ り も っと も っと使 い良 い手 足 とな り,働 き易 い身体 にな る とい う事 で した。」

(注6)と 述 べ て い る。

この こ とを,宮 崎氏 に示 唆 したの は,当 時都 立 広 尾 病 院 の整 形 外 科 医 長 を し て い た,故 多 田富士 夫 博 士 で,博 士 は委託 され て補導 所 の生 徒 の 健 康 診 断 を担 当 して いた。

宮 崎所 長 は,直 ぐに生 徒 の数 人 を広 尾病 院 に入 院 させ た が,身 体 障 害 者 福 祉 法 もまだ成 立 して い な い時 期 で,そ の医療 費 の捻 出 に苦 労 し,あ ち こ ち と掛 け 合 って や っ と生 活 保 護 法 の適 用 を受 け,と りあ えず の 医療 費 を支払 うこ とが で

きた。

翌1949(S24)年1月,二 期 生62名 が 入 所 し,そ の 中 に は手 術 を受 け れ ば, 身体 の状 態 が 改善 され る者 も沢 山 い た。 又,一 期 二 期 生 合 わ せ て114名 が 寮 生 活 を して いれ ば,健 康上 の トラ ブル も日常 的 で あ った。

しか し,当 時 の小 川 に は医者 も歯 医者 も一 軒 もな く,交 通 機 関 は ポ ッポ汽 車 といわ れ た電 車 が走 って い るだ け の無 医地 区 で,生 徒 の健 康 上 の問題 に 充 分 対 処 す る こ とが で きなか った。

宮 崎 所長 は,生 徒 の身体 の状 態 を改善 す るた めだ けで な く,無 医 地 区 で あ る この地 域 の 医療 問題 の解 決 の た あ に,ぜ ひ補 導 所 に付 属 病 院 が 欲 しい と考 え, 労 働 省 を初 め都 の い ろ い ろの局 に交渉 して 回 ったが,国 立 や都立 と して の予 算 措 置 は受 け る こ とが で きな か った。

けれ ど も幸 いな こ とに,5万 坪 に も及 ぶ 都有 地 を 自 由 に 使 う こ とが で き た。

又,当 時 の安 井 都 知事 が,「 こ こに身 障者 の メ ッカ を作 り,さ らに三多 摩 復 興 の 基 地 に と大 理 想 をか か げ」(注7)い ろ い ろ力 添 え を した の で,宮 崎 所 長 は多

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田博士 の協 力 も得 て,病 院建 設 に着手 す る事 が で きた。1949(S24)年5月 導 所 の建 物 を一 部 借 用 して病 院 開設 の 申請 を行 い,同6月 認可 され た。

開設 当 時 の病 床 数 は26,内 科 ・小 児科 ・整 形 外 科 ・外 科 ・歯 科 ・泌尿 器 科 の 6科 か らな り,院 長 は多 田博士 で あ った。 当初,経 営 の主 体 は明 確 で な く,多 摩 緑 成 会 とい う財 団 を申請 し,財 団 経 営 とい う形 が整 った の は,翌 年3月 の事 で,現 在 で は考 え られ な い,戦 後 の混乱 期 だ か ら可 能 で あ った病 院 の ス タ ー ト で あ った。

尚,余 談 で あ るが,発 足 時 の財 団 独 自の基本 財 産 は百 万 円 で,こ の財 政 基 盤 の弱 さが,将 来 緑 成 会 整育 園 運営 の大 きな障 害 とな るので あ る。

第四節 緑成会整育園の設立 と多摩緑成学園

多 田博 士 は(注8),東 大 整 形外 科 の医 局 に属 し高 木 憲次 教 授 の弟 子 と して, 肢 体不 自由児 の療育 体 制 の整備 に強 い関心 と熱 意 を持 って い た。 前 章 で見 て き た よ うに,当 時 の我 が国 にお いて は,肢 体 障 害 者 に対 す る医 療 や教 育 の 体 制 は 皆 無 に等 しい状 況 で あ ったか ら,補 導所 に入 所 して来 る肢 体 障 害 者 を 見 て も, 職 業訓 練 を す る前 に,治 療 と基 礎 教 育 の必 要 な者 が 大半 を 占め て い た。

「名前 ば か りの病 院 が で き,希 望 者 を どん どん手 術 して み る と,ほ とん ど が今 まで と見 違 え るほ ど よ くな り,身 体 が よ くな る と同 時 に性 格 まで 明 る くな り ま

した。」(注9)と い う事 が 目の前 で実 証 され て い ったの で,宮 崎 所 長 も多 田院 長 も補 導 所 病 院 へ の児 童 の入 院 と治療 に力 を い れ た。

しか し,前 章 で す で に指摘 した よ うに,病 気 の性 質 上,入 院 治 療 を受 け る子 供達 は長 期 の入 院 を余 儀 な くされ,只 ベ ッ ドで無為 な 日々 を送 らな けれ ば な ら

な い ことにつ いて,多 田博 士 は心 を悩 ませ て い た。

1949(S24)年12月1日,こ の状態 を少 しで も改善 す るため に,補 導 所 付 属 病 院 の2病 室 に入 院 中 の6名 の児 童 に対 し,講 師 を招 いて1日2〜3時 間英語 ・ 社会 等 の授 業 の真 似 ご とを始 め た。 これ は,本 当 に授 業 の真 似 ご と と言 う言 葉

に相 応 した小 さな試 みで あ ったが,子 供 達 は大変 に喜 んで授 業 を受 けた。 この 経 験 を励 み と して,治 療 と教 育 を一 貫 して 行 う施 設 を設 立 しよ う とい う動 きが

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参照

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