1
揚子江艦隊と砲艦「宇治」の数奇な運命
――知られざる日中戦争、解放戦争―― 田辺義明(文教大学) 前言 海は世界につながる。その水が川から流れ出ずることは、みな知っている。 九州長崎県人であった故下田直春教授は、長崎市内の書店でH、G、ウエルズの『世界 文化小史』原書を初めて手にしたという。それは師が高校生の時代だったと回述している。 のちに教授は、その一書を角川書店から文庫本として訳出した。いつの時代にも、長崎は 新しい文明の渡来地であったのであろう。筆者が教授の指導を仰いだ立教大学も、いまは 東京にあるが、明治期には大阪英和学舎といい、またその由来は長崎“出島”の外語塾であっ たとされる。この因縁にも、進取の気質が育まれる同地の風土がうかがい知れる。 また第2次大戦期まで長崎県には、佐世保に日本海軍の「鎮守府」が置かれ、中国大陸を 含む、東シナ海の覇権をここで司っていた。 戦艦「大和」型の第2号艦として知られる戦 艦「武蔵」は、長崎の三菱造船所ドックで建 造された。ここは軍事的にも西の要であり、2 日本の中国大陸進出の出発地であった。 【写真、河用砲艦】 1.揚子江艦隊 ① 河用砲艦とは 中国大陸を流れる「長江」は、かつて日本では「揚子江」と呼ばれて、世界屈指の長大 河川である。“日中戦争”が火を噴く以前から、日本が列強とならんで支配権の拡張を進めた その流域には、邦人居留民の生活する都市が点在した。その地まで脚を伸ばすには、長江 の河口から中流域、さらに上流の奥地へと内陸河川を遡航する必要がある。とくに日本の 国家権益が取り沙汰されるような、いわば海外領土に準じた地区には、邦人保護を名目に 武装警察力が配置されていた。そのような地域としては上海、南京、武漢(漢口を含むい わゆる武漢三鎮)、九江、重慶などが知られている。それら諸都市をつなぐ交通機関は主と して、長江を上り下りする船舶であった。その船舶の安全航行には、沿岸の治安維持も必 要とされ、流域に既得権益を有する列強は武装艦艇をこぞって派遣していた。アメリカ、 イギリス、イタリアそして日本などがそれぞれ河川艦隊を保有して、国家主権を代表させ 支配権を誇示していた。 「揚子江艦隊」とは、日本海軍における正式な呼称ではなかった。昭和の日本映画『揚 子江艦隊』(1939 年、東宝)が巷で話題となり、この呼び方が一般には定着した。日本海 軍と書いたが、これら各国の河川艦隊は大陸の中央部にありながら、どの国でもその海軍
3 に属していた。日本海軍で、それが正式な「常備艦隊」として認知されたのは「支那方面 艦隊」が発足して、第1~3「遣支艦隊」から編成された 37 年以降である。しかしそれ以 前から日本海軍は流域に艦隊規模の兵力を置いていた。そこで主力として用いられていた 武装艦艇が「河用砲艦」である。日本では、内陸河川用船舶の技術がその戦後は空白とな ったが、当時は多数の河用艦艇、河用船舶が日本で建造されていた。 その特徴とするのは、まず吃水が河川を遡航するために極めて浅く、それに対して乗組 員、収容者ほか陸戦隊などの居住区が大きいが、構造上艦体内にはそれを配置できず、し たがって上部構造物が長大となり、しかもそれが二層以上の楼閣を形成していること。固 有の兵装は必要とされたが、これも構造物との兼ね合いで、最小限度のものを搭載するに 留めて、通常は平射、高射両用の中口径砲を前後に振り分けて配置しており、必要時には 陸戦用の野砲などを積載して沿岸射撃を行なったということ。しかし当初(42 年まで)の 主たる任務は、あくまでも国家権益の具現であるため、フネそのものが正規の「軍艦籍」 にあり、座乗する指揮官も巡洋艦なみの「佐官」が充てられたこと。また重要なのは日本 内地とも直接連絡が可能な、佐世保鎮守府に到達する無線通信設備を有したこと。主機(エ ンジン)は、流れに反航するために高出力が要求され、また燃料の現地調達が必要な場合 を考慮して、それが石炭、石油を問わず、粗悪なものも使用できるものとしたこと(ただ し後期の建造艦では石油専燃となった)。艦全体の大きさが、河川で使い易い3~400t の基準排水量であったこと。これらが特徴となる。フネに普段なじみのない読者には、東
4 京ディズニーランドの遊戯施設としてある河川用蒸気船を模した「マーク、トウェイン号」 を思い浮かべて頂ければよい。それに備砲をつければイメージはより近づく。日本の河用 砲艦は「外輪船」ではないが、英語の「ガンボート」そのもので、それはまさに字の如く 「砲艦外交」の代表格とされていた。 日本海軍における河用砲艦の整備は 1903 年、砲艦「隅田(1代)」、「伏見」がイギリス に発注、購入されたのに始まる。両艦はイギリスのJ、I、ソーニクラフト社(現在のボ スパー、ソーニクラフト社)で建造。さらに解体のうえ、上海まで舶送、同地にて儀装さ れた。おりしも上海での工事中に日露戦争が起こったため、完成はその終結後となって、 06 年に竣工、就役した。第一次世界大戦では、上海で一時的に武装解除、抑留されたが、 32 年の第一次上海事変には現役復帰しており、35 年の解役、売却まで長江流域の警備に使 用された。浅吃水のこの種の艦艇は、戦時には兵装を強化し重量が増加するために、水面 と甲板とのクリアランスがさらに狭まって、上甲板を流水が洗うことすらあった。また上 流への遡航では、「三峡」などの難所での座礁事故も頻発した。 上記の「支那方面艦隊」は隷下に、直轄部隊と3個の「遣支艦隊」を置いて構成された。 そのうち長江方面に主力が向けられたのは「第1遣支艦隊」である。41年12月当時そ れは10隻の河用砲艦「宇治(2代)」、「安宅」、「勢多」、「堅田」、「比良」、「保津」、「熱海」、 「二見」、「伏見」、「隅田(2代)」からなり、この艦隊にはほかに「漢口方面特別根拠地隊」、 「特設九江警備隊」があった。また南京地区より下流には直轄部隊の「上海特別根拠地隊」
5 の駆逐艦3隻と河用砲艦「鳥羽」および南京警備隊、第 13 砲艦隊、第 14 砲艦隊と第1砲 艇隊、第2砲艇隊 0 が充当されていた。さらにこの地区における海軍歩兵としての「上海 特別陸戦隊」は知られるところである。 蛇足であるが、中国大陸では別方面にも河用砲艦はあった。そのなかには満州国海軍に 提供された砲艦「平辺」、「平定」型(基準排水量 260~290t)などがある。軍事強国ソ連 と直接対峙する黒龍江を控えて、それらは重武装を必要としたが、外地派遣ではないため、 通信能力や収容力は要求されていない。また満州国内の松花江、牡丹江などでは、張学良 軍の残存艦艇や徴用船とともに使用された。これらは当初、満州国海軍江防艦隊に所属し ていたが、その海軍の廃止により、満州国江上軍に配置換えされた。 長江とそれに接する洞庭湖の水面にも、さらに小型の「砲艇」からなる海軍のいわばミ ニ艦隊が配置されていた。これらは正規の軍艦籍を持たないが、日本海軍の作戦艦艇であ った。中国大陸での戦線拡大に伴って運河、用水路、クリークなどで、陸軍部隊が作戦上 に船舶を必要とする場面もあったが、その際は内火艇を武装するか、現地で舟を調達し武 装兵を乗せて陸軍部隊が運用した。 海軍「支那方面艦隊」の作戦区域には、ほかに「広東方面特別根拠地隊」、「アモイ方面 特別根拠地隊」、「青島方面特別根拠地隊」があり、またのちには「海南警備府」も併合さ れた。この「支那方面艦隊」は独立した作戦機構で、「聯合艦隊」の指揮下に入ることはな かった。【写真、砲艦「安宅」】
6 ② 日中戦争の拡大と河用砲艦 それまで、くすぶっていた日中戦争が、一気に 拡大したのは 1937 年北京郊外の「盧溝橋」にお ける1発の銃声によってであった。この年、戦火は南京に及ぶ。時を同じくして、上海に 在泊したアメリカ海軍の河用砲艦「パネー」は、日本軍航空機による誤爆を受けて沈没し た。これは現代の歴史教科書に「パネー号事件」と記されており、世に知られる事項とな ったが、ことは日本側の謝罪、賠償で収拾した。河用砲艦が世間の脚光を浴びた一つの事 件である。これを境に、次第に長江沿岸も戦争状態となった。そのために「支那方面艦隊」 は、海軍上層に艦艇の増強を繰り返し具申したがかなわず、採り得る手近な方策は砲艦「安 宅」の投入で、加えて待望されたのは「安宅」類似の新造砲艦の投入であった。本来「安 宅」の前身は、日本本土の沿岸砲艦「勿来(なこそ)」で、支那方面に転用するに際しては、 その呼称(字面)が中国文ではまさに「来るなかれ」となるため、不都合があった。そこ で急遽「安宅」と改称したという逸話がある。ここでは駆逐艦以下の艦艇とはちがい、こ の当時まで河用砲艦は「軍艦籍」にあり、命名は天皇の裁可を仰いでいたために、手続き は複雑であったようだ(帝国海軍の「軍艦籍」には権威があった)。 従来型の河用砲艦は日本国内で製造されても、淡水用で吃水の浅いこの種の艦艇は海水 面では浮力が過大となり重心が上昇し過ぎるため、自航して東シナ海は横断できない。艦
7 体を組み上げる前に、それを儀装機器とともに輸送船へ積み込み、上海で組み立てを行な った。その後は、大陸内部に封じ込めである。しかし「安宅」はそれまでの経緯によって、 制限つきながら外洋にも進出できる艦形とされた。【写真2、安宅】 戦線拡大に伴って新造投入された砲艦が、40年6月から竣工した「橋立(2代)」型2 隻の「橋立」、「宇治(2代)」である。これらは海軍「第三次補充計画」で建造され、かの 戦艦「大和」とまさに同時の計画によって37年に予算化されており、風雲急を告げる時 代を反映していた。これらが河用砲艦として日本国内では最後の新造となった。しかしこ のタイプは河用砲艦としても、他にはない特殊な設計によっていて、まず吃水は一般の砲 艦と同じく河川における作戦行動のため、上流への遡航が必要で、つとめて浅く造られて おり「平底」であるが、「橋立」型は「安宅」に倣って制限つきながら航洋性も有して、沿 岸での警備活動も可能とされた。また戦隊旗艦としての設備も附されていた。この2隻の 建造時にはすでに中国大陸は戦争状態であり、欧州に眼を移すと第二次世界大戦も始まっ ていて、最初から戦時設計となっていた。備砲への防盾追加や、バイタル、パート(主要 部分)には防弾装甲が施され、河用砲艦の艦体構成よりも、沿岸艦艇のそれに近くなった。 大きさも、外洋へ限定的ながら進出することで、公式試運転時の排水量は1110t となっ た。この設計が結果的には、のち日本海軍の“お家事情”にも、働きを見せることになった。 そのような事情とは何か、以下次章を参照されたい。
8 2. 海軍の“お家事情”とは 日本海軍は、まず戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦からなる正面装備の艦隊を整備する ことに専念していた。いわゆる「艦隊決戦」を意識するあまり、ここに深刻な事態が生ま れようとは、考えつく者はいなかったようだ。その事態とは大きく2項目ある。 ① 友鶴事件の影響 当時の日本海軍には、艦艇をすべて自国で建造でき、その設計は先進海軍国であるイギ リス、アメリカに比しても劣らないとする自前の技術への過信があった。1930 年の「ロン ドン海軍条約」により、駆逐艦には厳しい制限が行なわれたが、従前から日本海軍は、予 期される対米戦においては機動力のある軽巡洋艦を旗艦に据えて、隷下の駆逐艦を実働力 とした「水雷戦隊」の充実によって、アメリカ海軍の正面勢力を迎え撃つという作戦を構 想していた。つまり軽快で、また航洋力のある駆逐艦部隊を展開して、目標の敵大型艦に 魚雷による先制攻撃を仕掛けようとしていた。そこで「条約」の下において採り得る策と して着目されたのが、基準排水量 600t未満の小艦艇には、兵装その他に制限が及ばない という点であった。それによって「第一次補充計画」では、計画排水量 535tの範囲内に、 正規駆逐艦と同等の強火力、重兵装艦艇を建造することになった。ここに生まれたのが水 雷艇「千鳥」型である。 「駆逐艦(デストロイヤー)」の下位にある「フリゲイト」にも満たず、そのまた下の「コ
9 ルベット」よりもさらに小型の「スループ」に類される 600tという排水量に、5インチ 砲塔3基、533 ㎜魚雷発射管4射線という要求の「千鳥」型基本設計は、無理を重ねたも のだった。実際に完成した艦は満載排水量が 700t を超えるものになり、さらに公式試運転 でも操舵するだけで大傾斜となって、トップ、ヘビー(高重心)で復原性(安定性)が明 らかに不足していた。とりあえずこの艦型にはバルジ(吃水線下の増加重量)が装着され たが、これも根本的な解決策ではなかった。完成した艦は、正しくは「艦(シップ)」では なく「艇(ボート)」であって、公的にも駆逐艦に類別できる訳もなく、大正末期に区分廃 止となっていた「水雷艇」という艦種を復活させることにした。このようにして、「実質は 駆逐艦なみ」という小型艦艇が戦力として登場した。これらは順次、佐世保鎮守府の第2 1水雷隊に編入された。 1934年3月12日その1隻である水雷艇「友鶴」は、同型の「千鳥」、「真鶴」とと もに、第21水雷隊の旗艦である軽巡洋艦「龍田」を標的とした夜襲訓練に、外洋の東シ ナ海へと展開していた。折からの荒天で演習中止の指示が出て、編隊を組み帰投しようと したが、そこで僚艇が「友鶴」の発光信号を見失った。それが旗艦にも通報され、艦隊司 令は「友鶴」の姿がないことを認めた。ただちに艦隊集結が命じられ、航空機も動員して の捜索が行なわれた。結果、「龍田」は昼過ぎに転覆した「友鶴」を発見、海面に船底を見 せた艇体内部には生存者の反応が感知できた。母港佐世保に急ぎ曳航された「友鶴」の内 部には圧縮空気が送り込まれ、さらに生存者に牛乳などが差し入れられて若干の人員が救
10 出された。しかし殉職者は98名を数えることとなった。これがのちに「友鶴事件」と呼 ばれる惨事で、この事実は公にされなかったが、海軍内部の関係者には大きな衝撃を与え た。 さらに翌年には、続いて「第4艦隊事件」と呼ばれる設計上の問題による事故が発覚し、 ここに日本海軍の艦隊は、荒天時の行動能力を疑問視する意見も出されるに至った。これ らの教訓から、急いで対策が講じられ、すべての艦艇で兵装の見直しが行なわれ、必要性 が認められれば直ちに改造が施されることになった。軍艦の火力を減じるという工事には、 用兵者たちが強い痛みを感じたが、それは止むを得ないものでもあった。 ② 日米開戦と護衛艦艇の不足 日本海軍の「艦隊決戦」を重んじるという性格は、「友鶴事件」後も基本的に変化はしな かった。戦列艦と輸送船舶護衛の補助艦艇とを明確に区分できないということが露呈して も、まだ日清、日露戦争における大海戦での日本艦隊の華々しい勝利、その幻影にとり付 かれたといわれても仕方のないほど、海軍はいわゆる「大鑑巨砲」に頼り、正面装備の拡 充のみを志向していた。アメリカが仮想敵国のレベルから、次第に実在性を帯びた敵国と 認識されるようになるにつれ、そのアメリカの攻撃力を凌ごうという努力が不断に重ねら れた。水雷戦であっても、それは攻撃の一手法であって、相手とするのはなによりも敵大 型艦である。しきりに「攻撃こそ最大の防禦」が叫ばれ、自分が護りの側に廻るという立
11 場の変化を想定していなかった。結局それによって一般船舶の「護衛」という海軍の必要 かつ不可欠な行動には消極的とされていた。輸送船からなるコンボイ(船団)のエスコー ト、シップ(護衛艦艇)である「海防艦」は、日米開戦に及んでも、それに分類される日 露戦争で鹵獲した老朽艦を除いて、開戦時点では北方漁業水域警備用の4隻が筆頭、とい う総合戦力における著しいアンバランスを招くことになった。 この対米英開戦によって、長江におけるアメリカ2隻、イギリス1隻の河用砲艦が日本 海軍に捕獲され、のち43年イタリアの降伏によって砲艦、施設艦1隻ずつが接収され、 また中立国ポルトガルからも砲艦1隻が購入されて、それらはその後いずれも日本海軍籍 の軍艦とされた。 日米戦争のステージ(戦域)が展開されるにつれ、日本の輸送船へのアメリカ潜水艦に よる雷撃は執拗を極めた。さらに場面が西太平洋海域に波及してから、アメリカ航空母艦 が近海を遊弋することになり、空母搭載航空機による爆撃、雷撃も被害を増加させて行っ た。それに対して日本側が採った対抗策は、輸送船に「陸軍」の船舶工兵、砲兵を乗せ、 わずかな備砲で反撃を試みるというものであった。航行する船舶と乗員の生命を、もっぱ ら陸軍部隊の自衛に委ねていたことが、世間に周知されていないのが日本海軍の名誉にと っては幸いであろう。これにより商船隊からなる輸送船団の被害は甚大となり、日本の保 有する一般船舶は急速に損耗して行った。日本内地では食料、燃料に事欠くようになり、 また兵站線が途切れることで南方の前線部隊は孤立して行った。この問題が輸送動脈の隘
12 路である「護衛の欠如」という事柄に由来する、と気づかれた時は遅きに失していた。潜 水艦、航空機などによる船舶の被害が著しいとして海上交通路確保のために、43年11 月ようやく海軍は「海上護衛総司令部」を設置した。この機関は、海上護衛と対潜水艦作 戦に関して各鎮守府、警備府司令長官を指揮し、「聯合艦隊」および「支那方面艦隊」司令 長官と相互に協力する任務を与えられていた。護衛用途の海防艦が決定的に不足しており、 そこで海防艦「1号」型(丙型、奇数番号艦)、同「2号」型(丁型、偶数番号艦)の併せ て100隻以上の新造と、海防艦「鵜来」型の増備が44年に至って行なわれた。しかし 事態の深刻さは、それら護衛艦艇が完備されるまで海軍も座視していられるものではなか った。以上が海軍の“お家事情”であった。 3.軍艦「宇治」の運命 さきの「橋立(2代)」型砲艦の2番手が、「宇治(2代)」である。「第三次補充計画」に よって1937年度予算で建造され、それは41年4月30日大阪鉄工所櫻島造船所で竣 工した。ただちに横須賀鎮守府籍となり「第1遣支艦隊」づけで、12月から長江方面で の警備任務に従事した。43年8月「揚子江方面特別根拠地隊」に編入され、翌44年に は「上海方面特別根拠地隊」配備となった。しかし上述の護衛艦艇の不足を補うために、 この艦の沿岸における行動能力に目が着けられて、同年8月21日駆逐艦「蓮」に随伴し て、那覇を出港するチモ103船団(和浦丸、対馬丸など)の護衛作戦に充当されること
13 となった。航海途中には、対馬丸を被雷喪失したものの、砲艦「宇治」は無傷で長崎に到 着した。これ以後、何度か同艦は戦火をくぐり抜けた。泊地防空砲台の役目を務めたと指 摘する資料もある(確実な戦史は残っていない)。ともかく幾度かの戦役 においても致命的損傷を免れたのは、この艦の“強運”がなせる業であったのかも知れない。 【写真、砲艦「宇治」】 上海に戻された「宇治」は在泊中、翌 45年8月15日の敗戦を迎えた。それ から1ヶ月も経たない9月13日には、上海江南造船工廠を国民党軍海軍総司令官陳紹寛 提督が視察に訪れ、すぐに同艦を自軍に接収することとし、砲艦「長治」と改称した。そ の際には、乗り組んでいた日本海軍のもと将兵28名が、中国側の慣熟訓練に積極的な協 力をした。台湾海軍(当時の国民党軍)の記録では、「長治」は河用砲艦でありながら対潜 水艦兵装としての爆雷投下軌条を備え、また先進的なFCS(射撃管制装置)、レーダー、 ソナーを装備していたという。 「長治」は陳紹寛提督の台湾避難の誘因ともなった。接収からまもなく蒋介石は、同艦 を渤海湾での作戦に差し向けたが、陳紹寛提督は内戦に消極的で「長治」による台湾渡航 を企てて、蒋介石の激しい怒りを買った。それによって12月26日に陳紹寛提督は海軍 の総司令官職から罷免され、長年続いた蒋介石直系の軍閥における海軍指導権を巡る争い
14 にも、ここで終止符が打たれることになった。 47、48年と「長治」は国共内戦の北部戦線に投入され、営口、威海衛、秦皇島など の地域で、作戦活動、遅退行動(撤退支援)に就いた。翌49年9月に国民党軍が上海を 失ったときは、同艦は呉淞口の封鎖任務にあたっていた。 同月19日、夜闇に乗じた共産党地下工作班は、艦内の反乱「起義(革命決起)」に呼応 して同艦に乗り込み、反乱グループ(その総勢は37名を数えた)は艦長の胡敬端上校(大 佐)を始め、副長、航海士、砲術長など国民党側士官12名を殺害した。なおその胡敬端 上校は1937年上海において、中国魚雷艇「史102号」を率いて日本軍艦「出雲」に 突撃を敢行した艇長として知られている。この起義のあと「長治」は長江を、南京へと回 航されたが、同月22日国民党軍の航空部隊は安徽省において、同艦を爆撃し大破、浸水 させた。しかし共産党軍(同年4月23日より解放軍海軍)は川の浅瀬への着底に成功し、 艦を復旧可能な状態に保持することができた。 同年12月には解放軍海軍はすぐに同艦を引き揚げ、整備、修復のうえ「81号」艦と 名づけた。その「81」の数字が意味するところは、解放軍の前身である毛沢東率いる共 産党系武装集団が、江西省南昌で初めて革命決起した1927年8月1日という日付に由 来している。解放軍の記録では、50年4月この「81号」艦は、その地名に因んでさら に「南昌」と改められ、第6艦隊旗艦として艦番号「210」を与えられた。また初代艦 長は郭成森少校(少佐)で彼には、かつて国民党軍では「長治」の代理副長でありながら、
15 影では革命決起を画策していたという共産党への功績があった。 同年4月23日は新生「南昌」にとっては記念すべき日となった。長江の南京草鞋峡の 河面において中国人民解放軍華東軍区海軍1周年式典として、艦艇の命名式が挙行された。 その模様を中国の艦船研究専門誌における回顧記事から、ここに引用しよう。 「‥‥天にも届かんとする銅鑼、太鼓と礼砲のなかで、1枚ずつの赤幕が開くたび、銀 灰色の艦艇が1隻ずつ展示され、その斬新な艦容と艦名を現した――“井岡山”、“南昌”、“延 安”、“遵義”、“古田”、“興国”‥‥これらは中央政府と中央人民革命軍事委員会が革命聖地 の名を第1陣の艦艇につけたもので、革命聖地の“星々之火(ささやかな灯火がやがて草原 を焼き尽くす=革命用語)”と、祖国の“青い国土”を表している。」(呉瑞虎「人民海軍艦艇 命名探秘」、中国艦船研究院『現代艦船』1998年2月号、北京、国外非公開、当時)。 これと同時に命名された戦闘艦艇51隻、揚陸艦艇52隻、補助艦艇31隻、それが黎 明期における解放軍海軍の戦力すべてであった。その命名の由来と艦種(解放軍分類)に は、「護衛艦」=革命史上の由緒ある地名、「砲艇」=革命史上の県庁所在地、「掃海艇」= 解放区の有名な村落、「戦車揚陸艦」=革命根拠地の山岳、というような規則性があった。 命名式場では、のちに軍中央で活躍した(国防相、副首相まで昇格、03年死去)、華東 軍区海軍司令員兼任政治委員の張愛萍が旗艦「南昌」のうえで、中央人民政府と中央人民 革命軍事委員会からの「命名状」と、「軍旗」、「艦長旗」、「艦首旗」などを交付した。その あと張愛萍は、毛沢東主席、朱徳総司令官の肖像を掲げ、全将兵にこの名誉の価値と自分
16 たちの使命の重要さについて訓示したという。 新編第6艦隊旗艦となった「南昌」は、ここに再出発の門出を祝った。この時期に同艦 は、建造以来の前部2連装、後部単装の 4.7 インチ主砲などの兵装を、ソ連駆逐艦と同規 格の130ミリ単装砲(対水上、対空両用)2門と、加えてやはりソ連規格の37ミリ機 関砲 6 門とに換装している。それによって艦容は改められ、今度はソ連型駆逐艦にも近似 した。その姿で数次にわたる台湾海峡の紛争にも登場し、またプロレタリア文化大革命中、 「南昌」の前で将兵たちが『毛主席語録』を学習する写真も公表されている。 【写真、「南昌」】 日本の帝国軍艦「宇治」として生ま れ、敗戦後は中国国民党軍砲艦「長治」 となり、さらに革命決起によって人民 解放軍艦隊旗艦「南昌」へと身を転じ た、という「数奇な運命」はだれにも予想し得なかった。その後も同艦は中華人民共和国 の戦力として、80 年代まで東海艦隊に服役していたことを報告して置こう。 〔参考文献〕 ケンプ、トリー著、長野洋子訳『長江パトロール――中国におけるアメリカ海軍』出版協 同社(海人社)。
17 田辺義明『中国社会の構成原理――建国 50 年の社会学』新泉社、1999年。 月刊『世界の艦船』逐次号、海人社(本書は全体にわたる参考資料である)。 月刊『艦船知識』逐次号、艦船知識出版社、北京(公開発行)。 月刊『現代艦船』逐次号、中国艦船研究院、北京(当時、国外非公開)。 中国、台湾、日本の下記URL: http://go4.163.com/cdzyp50/ (中国)『海上騎士――駆逐艦』。 http://www.yaox.com/cwm/index.html/ (台湾)『中国軍艦博物館』。 http://asahi-net.or.jp/ (日本)。 ほか 【備考】 本稿は2年間にわたる情報整理ののちに、「中国社会学」、「日中関係史」におけるひとつ の試みとして執筆されたものである。筆者は、いままで歴史を論じたことはなく、また専 門外との指摘も受けるであろう。よって小論はあくまでも著者の「社会学」における「応 用領域」の産物である。またこのこだわりには、筆者のたんなる思い入れもある。しかし いまこそ日中両国間の歴史をあらためて考えなおす必要があり、その文脈でお読みいただ ければ、それにまさる幸いはないと考える。 本稿はお二人の専門家に、草稿をご覧いただいて、それぞれのご意見を承っている。ま ず海事史の専門家として知られるもと外交官の川村庸也氏。川村氏によって、とくに当時
18 の各国海軍編成についての情報を加えることができた。また社会学者として明星大学名誉 教授の福永安祥氏からは、とくにご自身が終戦直前の45年6月に、海軍士官として長崎 の大村海軍航空基地から上海に飛び、遣支艦隊上海特別陸戦隊の撤収工作に従事したとい う貴重な体験からの見解を頂戴した。この碩学お二人によって、本稿がようやく上梓でき たといえる。筆者として感謝に耐えない。 【著者】 文教大学国際学部(湘南校舎)。 兼任、静岡大学教養教育 教官。 2003 TANABE Yoshiaki