指
定
研
究
大
谷
文
書
中
の
漢
証 『大
谷
文
書
集
成
』m
資
料
の
研
究
W
に むけ
てー
袋
都
築
李
猪
市
小
渡
北
晶
飼
川
田邊
村
済
祥
良
義
子
搶
夫
文
久
久
高
一
、
二、
三、
は じ め に麹
氏 高 昌 国 時代
の写
経 行業
に つ い て 大 谷 文 書 の 漢文
医書
類 の概
要 と 整 理 … 大 谷 文 書 を中
心 に し て ー一
、は
じ
め
に
龍
谷 大学
大 宮 図 書 館 蔵 大 谷 文書
中
の 漢 語資
料
約
六 〇 〇 〇点
の う ち 五 〇 〇 〇 点 に つ い て は、
小 田 義 久 氏 に よ っ て 整 理 が 進 め ら れ、
そ の 成 果 はき 『 大 谷 文
書
集成
』1
〜 皿 と し て順
次 公刊
さ れ て き た。
し か し な が ら、
大 谷 文 書 の従
来 の 分 類名
で 言 え ぼ、
「胡
漢 両 語 文 献 」(
大 谷 文 書 七 〇 〇一
大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究
一
NII-Electronic Library Service 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究 二 〜 七 五 五 二 号
)
、 「 流 沙 残闕
」(
大谷
九 〇 〇一
〜 九一
六 六号
)
、
「橘
資
料
」(
大 谷一
一
〇 〇一
〜一
一
一
六 三 号)
及 び 別 置 「極
小 断 片 」(
大 谷一
〇 〇 〇一
〜】
〇 六 六 八号
)
の 中 の 漢 語 資料
約
一
〇 〇 〇 点 に つ い て は 整 理 が終
了 し て お ら ず、
「 大 谷 文 書 集 成 』1
〜m
に は未
収
で あ る 。 そ の後、
小 田 氏ロ
ワ こ を 代 表 と す る 仏 教 文 化研
究 所 の 共同
研 究 に よ っ て 「 流 沙 残 闕 」 の 整 理 を 終 え、
そ の 成 果 の一
部 が 論 文 と し て 発 表 さ れ た も の の 、 「 胡 漢 両 語 文 献 」 「 橘資
料
」 「 極 小 断 片 」 に つ い て は依
然 と し て 未 公開
の ま ま で あ る。
本指
定
研 究 は、
こ の 「 胡 漢 両 語 文 献 」 「 橘資
料 」 「極
小 断 片 」 に つ い て移
録・
同定
作業
な ど の 整 理 を進
め、
「 流 沙 残 闕 」 も 含 め て 『 大 谷 文 書集
成
』W
と し て編
纂 し 、 公 刊 す る こ と を 目 的 と す る。
こ の 『 大 谷 文書
集
成』
N
の 公刊
を も っ て、
龍 谷 大学
大 宮 図 書 館 蔵 大 谷 文 書中
の 漢 語資
料 は す べ て 整 理 を 終 え る こ と に な る 。 と こ ろ で、
周知
の よ う に 大 谷 文 書 は 大 半 が零
細 な断
片
で あ り、
従
っ て そ こ に 記 さ れ て い る 文 字 数 も 少 な く、
仏 典 な ど の 写 本 の 同 定 は 困 難 を き わ め て き た 。 だ が 近 年 の コ ン ピ ュ ー タ ー 技 術 の 飛 躍的
な 展開
に よ っ て、
仏
典・
道経
を は じ め、
多 く の中
国古
典
籍 の 検索
が 可 能 と な り、
大 谷 文書
の同
定 も 急 速 に容
易 な も の と な っ た。
た だ し 、 と く に一
九 八 〇 年代
に 刊 行 さ れ た 『 大 谷 文 書 集成
」1
、11
に つ い て は パ ソ コ ン検
索 が 想 像 も で き な か っ た時
代 の所
産 で あ り、
写 本 に つ い て は 仏 教、
道
教、
文 学、
薬
方、
占
書、
性 質 不 明 な ど に 大 ま か に 分 類 さ れ て は い る が、
ほ と ん ど が 同 定 さ れ て い な い 。 こ こ 数年
の 間 に、
「 大 谷 文 書集
成
』 と し て 公 開 さ れ た 主 に 仏 典・
道 経 写 本 に つ い て、
中 国 の研
究
者 な ど に よ っ て 同 定 作 業 が 大幅
にヘ
ヨ進 め ら れ て き た 。 し か し
、
や は り厳
密 な 意味
で の録
文作
成
・
同定
作 業 な ど は 、 原 文書
を 所蔵
し て い る 龍 谷 大 学 の 責 務 で あ る 。 本 指 定 研 究 で は、
時代
的 な 制約
の た め に 題 目 不詳
の ま ま に な っ て い た 写本
の 同 定 も併
行 し て 進 め て 「 大 谷 文 書 集 成 』1
、
11 の 不 備 を補
い つ つ、
「 大 谷 文 書 集成
』1
〜
W
の 目 録 を 作 成 す る 予 定 で あ る 。 つ ま り は 大 谷 文 書中
の 漢 語 資 料 目 録 と な る が 、 日 録 が完
成 す れ ば 大 谷 文 書・
漢語
資 料 の 全 体像
を 見 通 す こ と が 可能
と な ろ う 。 と は い え、
な お 依 然 と し て多
く の課
題 が残
さ れ て い る 。 こ れ も 周 知 の よ う に、
大谷
探 検 隊将
来 の ト ル フ ァ ン 文 書 は戦
中・
戦後
を 通 じ て さ ま ざ ま な事
情 か ら 国 内 外 に 散 逸 し た 。 た と え ば 、 中 国 の旅
順 博物
館
に は数
万 点 に 及 ぶ 大谷
探 検 隊将
来 の敦
煌・
ト ル フ ァ ン文
書 が 所蔵
さ れ て お り、
二 〇 〇 六 年 に は 仏 典・
道
経 の約
二 六 〇 〇 〇点
の う ち ほ ぼ一
四 〇 〇 〇点
に つ い て、
移
録 と 同 定 を 行 い、
写 真 を付
し た 旅 順博
物館
・
龍 谷 大 学 共 編 『 ト ル フ ァ ン 出 土 漢 文仏
典
断 片 選 影 」(
法蔵
館)
が 公 刊 さ れ た 。 そ れ に よ っ て、
龍
谷
大学
大 宮 図 書館
蔵
の 大 谷 文 書 と 綴合
す る も の も 明 ら か に な り、
N工 工一
Eleotronlo Llbrary
(
4}
ま た 大 谷探
検
隊 よ る 西域
調 査直
後
の一
九}
四年
に 刊 行 さ れ た『
西域
考
古 図譜
』 に 図 版 が 掲 載 さ れ て い て も、
現在
は 所 在 不 明 と さ れ て き た 文 書 も 含 ま れ て い る こ と が 判 明 し た 。従
っ て 『 大 谷 文書
集成
』 皿 に掲
載 さ れ て い る 八 〇 〇 〇 番 台 の 『 西 域 考古
図
譜』
所 収 文書
の一
部 は、
旅 順 博 物館
に 所蔵
さ れ て い る こ と に な る 。 ま た、
ベ ル リ ン 国 立 図書
館
に所
蔵
さ れ て い る ド イ ツ探
検
隊 将来
の ト ル フ ァ ン 文 書 に も 大 谷 文 書 と関
わ り の あ る も の〔
5)
が含
ま れ て い る。
さ ら に、
中 国 に お け る ト ル フ ァ ン地
域 の 発 掘 調 査 が 進 め ら れ、
膨 大 な点
数
の 文 書 が 発 見 さ れ た だ け で な く、
大
谷 探 検 隊 が 発 掘 し た 墓 域 の再
調 査 も 行 わ れ て 大 谷 文 書 の 断 片 と み ら れ る 文書
群 も明
ら か に さ れ た 。 龍 谷 大学
大宮
図 書館
蔵 の 大 谷 文書
に つ い て は、
こ れ ら の 国 内 外 に 散 逸 し た も の、
各 国 が 収集
し た も の、
新 た に 発掘
さ れ た も の な ど と の 関 わ り の 中 で 、 総 合 的 に整
理・
研 究 さ れ な け れ ば な ら な い だ ろ う 。 ま た、
コ ン ピ ュ ー タ ー に よ る検
索 が 可 能 と な っ た仏
典・
道
経
を は じ め と す る古
典
籍 の写
本
は 同 定 が 比 較 的 容 易 で あ る が、
当 時 の 人 々 の 日 常 に 密着
し て い た 医家
類、
天 文 算 法 類、
術数
類 な ど の 写本
に つ い て は、
今 な お 電 子 化 が 実施
さ れ て お らず、
依然
と し て同
定 が 困 難 で あ る。
敦 煌 文書
に つ い て は こ れ ら の 写本
の 整 理 も 進 ん で い る も の の 、 大 谷 文 書 は 零 細 な 断 片 か ら構
成
さ れ る た め、
手
が か り は き わ め て 乏 し い 。 こ こ に掲
載 す る 二 つ の論
考 は、
こ う し た 課 題 に 取 り 組 ん だ も の で あ る。
小 田義
久 「麹
氏 高 昌 国 時代
の 写 経 行 業 に つ い て 」 は、
六 〜 七 世 紀 に ト ル フ ァ ン を支
配 し た 麭 氏高
昌 国 の時
代
に 行 わ れ た 写経
の 「 識 語 」 に つ い て、
大
谷 文書
を 中 心 に 旅 順博
物館
蔵 の大
谷 探検
隊 将来
ト ル フ ァ ン 文 書 の 他、
日 本各
地、
中
国、
ド イ ツ 、 イ ギ リ ス な ど に 分 散 し て い る ト ル フ ァ ン 文 書中
の 写経
の 識 語 を 抽 出 し、
麩
氏 高昌
国時
代
の 写 経 の あ り 方 を 通 観 し た も の で あ る。
猪
飼 祥 夫 「 大 谷 文書
の 漢 文医
書 類 の 概 要 と 整 理 」 は、
こ れ ま で ほ と ん ど 研究
さ れ て こ な か っ た 大 谷 文書
の 薬 方書
や 鍼 灸書
の 写 本 断片
に つ い て 移録
と 同定
を 行 い、
ト ル フ ァ ン 地域
に お け る 薬 方・
鍼 灸 の特
徴 を 論 じ た も の で あ る。
こ れ に よ っ て 大 谷 文 書 中 の 医 家 類 写本
の一
部
が解
明 さ れ る こ と に な る 。現
在、
国
際 敦 煌 プ ロ ジ ェ ク ト(
HU 勹)
に よ っ て 、 大 谷 文 書 の か な り の 部 分 が パ ソ コ ン の 画 面 上 で 簡便
に閲
覧
で き る よ う に な っ た(
二 〇 〇 七 年 十一
月 現在、
五 〇 〇 〇 番 台 ま で)
。 近 い 将 来、
大 谷文
書 の す べ て が イ ン タ ー ネ ッ ト 上 で閲
覧
可 能 と な る 。 た だ し、
そ の た め に も 大 谷 文 書 の番
号 か ら そ の内
容 が 把 握 で き る よ う な目
録
が 必 要 で あ る 。 大 谷 文書
中 の漢
語 資料
だ け で な く、
胡 語 資料
も 含 め た 総 合 目 録 の作
成 が 次 の 課 題 と な ろ う。
大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究NII-Electronic Library Service 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究 注
(
1)
龍 谷 大 学 善 本 叢 書 五、
一
〇、
.
「
三、
法 蔵 館、
冖
九 八 四、
「
九 八 九 年、
二 〇 〇 三 年。
(
2)
小 田 義 久 「『
流 沙 残 闕 』 に つ い て 」(
『 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要』
四 四、
二 〇 〇 五 年)
。
(
3)
劉 安 志・
石 墨 林 「 大 谷 文 書 集 成 仏 教 資 料 考 辨」
(
『 魏 晋 南 北 朝 隋 唐 史 資 料」
二 〇、
二 〇 〇 三 年一
二 月〕
、
陳 国 畑・
劉 安 志 主 編 『 吐 魯 番 文 書 総R
」
(
武 漢 大 四 学 出 版 社、
二 〇 〇 五 年)、
張 娜 麗 『 西 域 出 土 文 書 の 基 礎 的 研 究 」(
汲 古 書 院、
二 〇 〇 六 年)
な ど 。(
4)
香 川 黙 識 編、
国 華 社、
「
九「
五 年。
〔
一
ひ)
西 脇 常 記『
ド イ ツ 将 来 の ト ル フ ァ ン 漢 語 文 書 』(
京 都 大 学 学 術 出 版 会、
二 〇 〇 二 年)
な ど 参 照。
蔀
築晶
子 )二 、
麹
氏
高
昌
国
時
代
の写
経
行
業
に
つ いて
1
大
谷 文書
を 中 心 に し て−
一
六世
紀 の初
頭、
金 城楡
中
出身
の 麹 嘉(
在 位 五 〇}
〜
五 二 五)
は、
西 域 の 吐 魯 番 盆 地 に、
漢
人 中 心 の 麹 氏 高 昌 国 を 建 国 し た 。 当 時、
吐 魯番
地 域 に は 、 北方
胡
族 の支
配 と そ の 圧力
が 波 及 し つ つ あ り 、 そ の た め に 漢 人 に よ る 麹 氏高
昌
国成
立 ま で は、
こ れ ら 胡 族 の 影響
下 で 目 ま ぐ る し い 権 力 の 交代
劇
が、
繰
り 返 さ れ て い た の で あ る 。 こ の経
緯
の詳
細
は 、 『 魏 書 』巻
一
〇一
・
高
昌
伝
に詳
述 さ れ て い る。
そ し て 、 こ の 事 を 次 の よ う に 記 述 し て い る。
※(
)
は 筆者
加
筆 。 即 ち、
「 和 平 元年
( 四 六 〇 ) 、(
沮渠
安 周 は)
蠕 蠕 の た め に 并 せ ら る ( 沮 渠 氏 高 昌 国滅
亡)
。 蠕 蠕〔
柔 然)
は 闕 伯 周 を 以 て 高 昌 王 と な す(
闕 氏 高 昌 国 成 立)
。
其
の 王 と 称 す る は、
此 よ り始
ま る な り 。 太和
の 初 ( 四 七 七)
( 閾)
伯 周 死 し、
子 の(
閾)
義 成 が 立 つ も 、 歳餘
に し て従
兄首
帰 の殺
す 所 と な る。
(
首帰
は)
自
ら 立 つ て 高昌
王 と な る 。(
太和
)
五年
( 四 八こ
、
高車
王 の 可 至羅
(
阿 伏 至 羅)
は 首 帰 兄 弟 を 殺 し 、 敦 煌 人 の張
孟 明 を 以 て 王 と な す(
張 氏 高 昌国
成
立)
。(
張 孟 明 ) は 後 に 国 人 の殺
す 所 と な り、
(
国 人 は)
馬 儒 を 立 て て 王 と な す〔
四 九 六 年・
馬 氏高
昌
国成
」
3五)
。(
馬 儒 は)
鍵 顧 禮 と麹
嘉 を 以 て 左 右長
史 に任
命 す。
( 太 和)
二 十一
年
(
四 九 七)
(
十 二 月、
馬 儒 は ) 司 馬 の 王 體 玄 を 派 遣 し、
表 を 奉 じ て(
北魏
に)
朝
貢 し 、 師(
軍 隊)
に よ る 迎 接 を 請 い、
国 を 挙 げ て 内 徙 せ ん こ と を 求 め た 。 高祖
(
孝 文帝
)
は 之 を 納 れ(
四 九 八 年)
、
明 威将
軍 の韓
安 保 を 派 遣 し、
騎千
餘 を率
い て こ れ に赴
か し め 、 伊 吾(
の 地)
五 百 里 を割
き、
(
馬)
儒 を 以 て 之 に 居 ら し め ん と し た 。羊
榛 水 に 至 る 。(
馬)
儒 は、
(
鞏 顧)
縄
と(
麹 ) 嘉 に 歩 騎一
千
五 百 を率
い さ せ、
(
韓)
安 保 を 迎 え さ せ た。
高 昌 を 去 る 四 百 里、
而 る に(
韓
) 安 保 は 至 ら な か っ た 。(
鞏 顧)
禮 等 は 高 昌 に 還 え り、
(
韓)
安 保 も亦
伊吾
(
ハ ミ)
に 還 っ た。
〔
韓
)
安保
は 使 い の 韓 興 安 等 十 二 人 を 遣 わ し、
高 昌 に 使 い さ せ た 。 〔 馬 )儒
も ま た 鞏顧
禮 に世
子 の 義 舒 を 将 い せ し め、
(
韓
) 安 保 を 迎 え る た め 白 棘城
(
ピ チ ャ ン)
に 至 っ た 。 高 昌 を 去 る 百 六 十 里 で あ っ た 。 而 る に、
高昌
の舊
人 た ち の 情 は、
本
土(
高
昌)
を 恋 し く 思 い 、東
遷 を 願 わ な か っ た 。(
そ こ で)
相
與
に(
馬 ) 儒 を 殺 し、
麹嘉
を 立 て て 王 と し た(
五 〇一
年・
大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究 五NII-Electronic Library Service 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究 六
麹
氏高
昌 国成
立)
。
(
麹
)
嘉 は、
字 を 靈鳳
と い っ た。
金
城楡
中(
甘
肅省
楡 中 縣 西 北)
の 人 で あ る 。 既 に 立 つ や、
ま た 蠕 蠕 の 那 蓋(
四 九 二〜
五 〇 六)
に臣
た り。
(
反 蠕蠕
の 鞏)
顧
禮
は、
(
馬)
義
舒 と、
(
北 魏 の韓
)
安
保
に随
っ て 洛 陽 に 至 り(
亡 命 し た V 。蠕
蠕 の 主 で あ る(
那 蓋 の 子 の)
伏 圖(
五 〇 六〜
五 〇 八)
が高
車 ( 族)
の た め に殺
さ れ る に 及 び、
(
麹)
嘉 は ま た高
車
の 臣 と な っ た 。 初 め、
(
車師
〉
前
部 の 胡 人 は 悉 く 高車
に よ り 徙 さ れ る 所 と な り、
焉 耆(
カ ラ シ ャ ー ル)
に 移 さ れ た。
焉 耆 は ま た 蝋 嗹(
エ フ タ ル)
の た め に 破滅
せ ら れ、
(
焉
耆 の)
国 人 は 分 散 し、
衆
は 自 立 す る こ と が 出来
ず、
王 を ( 麹)
嘉
に 請 う た 。(
そ こ で麹
)
嘉
は(
自
分 の)
第 二 子 を遺
っ て 焉 耆 王 と な し、
以 て 之(
焉 耆)
の 主 と な し た。
(
北 魏 宣 武帝
の)
永 平 元年
( 五 〇 八 ) 十 月 、 ( 麹)
嘉 は 兄 の 子 の(
私署
)
左衞
将
軍 田 地 太 守 の(
麹)
孝 亮 を 京 師 ( 洛 陽)
に(
入)
朝
せ し め(
北 魏 へ の)
内徙
を 求 め、
軍 の 迎 援 を 乞 う た 。(
そ こ で 世 宗 は)
龍 驤 将軍
の 孟威
を 遣 わ し、
涼 州(
武威
)
の 兵 三 千 人 を 発 し て、
こ れ(
高 昌 国 人)
を 迎 え る こ と に し た 。(
こ の 軍 は涼
州 を 発 し)
伊 吾 に 至 っ た が 、 時 期 を 失 し て 反 っ て き た(
こ の作
戦 は 失 敗 し た)
。
こ れ よ り後、
(
高 昌 は)
十 餘 回 遣 使 し、
珠 像、
白
黒貂
裘、
名
馬、
塩枕
(
鷄
鳴
枕)
等
を 献 上 し、
款誠
備 さ に 至 る も、
惟
優 旨 を 賜 る の み で、
卒 い に 重 ね て(
高 昌 国 を 北 魏 に)
迎 え る こ と は な か っ た。
(
永 平)
三年
(
五一
〇)
二月
四H
、
〔
麹)
嘉 は、
使 を 遣 わ し て朝
貢
し た 。世
宗
( 宣 武帝
)
は ま た(
龍
驤 将 軍 の)
孟 威 を遣
わ し、
詔 し て こ れ をこ 労 し た 。 延
昌
中(
五 = 二)
、
(
北魏
は麹
)
嘉 を 以 て 持節
・
平 西将
軍・
瓜
州 刺史
・
泰
臨
縣
開
国 伯 と 為 し た(
三 月十
二 日)
。私
署 の 王 は 故 の 如 く で あ っ た 。(
ー 中略
ー)
(
孝 明帝
の )神
亀 元年
(
五冖
八)
冬、
( 麹)
孝
亮 は 復 び 求援
内徙
を 表 る も、
朝 廷 は こ れ を 許 さ ず 。 正 光 元年
( 五 二 〇 ) 肅宗
は假
員
外将
軍
趙義
等
を 遣 わ し て(
麹)
嘉
に 使 せ し め た 。(
麹
)
嘉
の 朝 貢 は 絶 えず
。 ま た 、(
麹
嘉 は 五 二一
年
六 月 ) 使 い を 遣 わ し て 表 を 奉 り、
辺 遐 な る を 以 て典
酷
を 習 は ざ る に よ り、
五經
・
諸
史
を 借 り る こ と を 求 め、
并
せ て国
子 助 教 の 劉 變 を博
士 と 為 す こ と を請
う 。 肅 宗 は こ れ を 許 し た。
(
五 二 五年
麹)
嘉
死 す 。(
北 魏 孝 明帝
は)
鎮
西 将 軍 涼 州 刺史
を ( 嘉 に)
贈 っ た 。(
以下
省
略)
』 と あ る 。 以 上、
論 述 し た こ と か ら も 伺 え る よ う に、
北 涼滅
亡時
(
四 三 九 年)
に 河 西 の武
威(
姑
藏)
よ り 西域
の 吐魯
番
盆 地 に 難 を 避 け、
こ の 地 に 建 国 し た 沮渠
氏 高昌
国 は、
そ の 滅 後 四十
年
の 間 に、
闕 氏・
張 氏・
馬 氏 と め ま ぐ る し く政
権 が 交 代、
最
後 に麹
氏高
昌 国 の 建 国 を み た わ け で あ り 、 こ の こ と は 先 に 論 述 し た 通 り で あ る。
こ の よ う に、
め ま ぐ る し く 変化
し た政
権
の 交代
劇 は、
こ の 地 に 進出
し て き た 北 方 の 高車
族 や 蠕 蠕(
柔 然)
族 の 介 入 に ょ っ て 引 き 起 こ さ れ た も の で あ つ た 。 こ の 地 域 の 人 々 は こ の よ う な 北 方胡
族 の 支配
と 圧力
か ら 逃 れ る た め に、
し ば し ば 東 方 の 中 国 王 朝 に 朝 貢 す る と 共 に 、救
援 を 請 う た の で あ る 。 し か し、
五 〇一
年、
麹 嘉 に よ っ て 麹 氏 高 昌 国 が 建 国 さ れ る や、
こ の 地 域 の 政権
は や や 安定
を み る に 至 つ N工 工一
Eleotronlo Llbraryた 。 そ の
後、
麹
氏 高 昌 国 は、
六 四 〇年
に 唐 の 太 宗 が 派 遣 し た 大 将 軍 侯 君集
の 遠征
軍
に よ っ て滅
ぼ さ れ る ま で、
南 北朝
時
代 か ら 隋 朝 を 経 て 唐 初 に 至 る ま で、
東方
の 中 国 と 北方
の 異 民 族 の 二 大勢
力 の 狭 間 に あ り な が ら、
高
昌 城 を 中 心 に独
自 の国
家体
制 を 維持
し、
十
代 百 四 十年
問 存 続 し 続 け た の で あ る 。 高 昌故
城 の 北 約 四 キ ロ ば か り の 所 に、
阿 斯 塔 那〔
三 堡 )・
哈
拉 和 卓(
二 堡)
古
墓 群 が 分 布 し て い る 。 こ れ ら は 東 西 約 五 キ ロ、
南
北 約 ニ キ ロ 、 面 積 は約
十 万 平 方 キ ロ で あ る が、
高昌
国時
代 の有
力 漢 人 の 墓 域 で あ っ た 。 こ こ に は、
三世
紀
か ら 八 世 紀 に か け て の 古 墓 群 が 散 在 す る 。 こ の 墓 地 か ら 出 土 し た 墓表
を調
査 す る と、
高
昌 国 時 代 の豪
族 に は、
高 昌 出 身 の麹
氏 の他
に 、 敦 煌出
身 の 張氏、
索 氏、
陰 氏、
宋 氏、
王 氏、
李 氏、
氾 氏 な ど、
あ る い は 張 掖、
武
威、
晋 昌 な ど 河 西 回廊
地 域 の出
身者
達
も い た こ と が判
明 す る 。 し た が っ て 吐 魯番
地 域 に は、
敦 煌 や 河 西 回 廊 地 域 か ら の 移住
者〔
2)
も 多 く居
た こ と を こ れ ら の 墓 表 は 証 明 す る 。 吐魯
番 地 域 に は 、 こ の他
に も 交 河 古 城(
ヤ ー ル ポ ト)
、
葡 萄 溝(
ブ ル ユ ク)
、 吐 峪 溝(
ト ユ ク)
、
勝 金 口〔
セ ン ギ ン)
、
伯 孜克
里 克(
ベ ゼ ク リ ク ) な ど の 遺 跡群
が 存在
す る 。 こ れ ら 吐 魯 番 の 遺跡
に関
す る 学 術 調 査 は、
二十
世 紀初
頭 に な っ て ド イ ツ、
イ ギ リ ス、
日本、
中 国 な ど の諸
国 に よ っ て 実 施 さ れ た。
ド イ ツ で は、
一
九 〇 二 年 か ら]
九〇
七年
に か け て、
グ リ ュ ン ウ ェ ー デ ル や ル・
コ ッ ク に よ り、
三 回 に わ た っ て こ の 地 域 の探
検 が 行 わ れ て い る。
イ ギ リ ス で は、
一
九「
四年
か ら一
五 年 に か け て ス タ イ ン探
検
隊 、 日本
で は}
九「
二 年 に こ の 地 を 訪 れ た 大 谷探
検 隊 の 吉 川 小一
郎・
橘 瑞 超 両 氏 に よ る 発 掘 調 査、
中
国 で は、
一
九 三 〇年
に 行 わ れ た 西 北 科学
考 査 団 の一
員 で あ っ た 黄 文 弼 博 士 に よ る学
術
調 査、
さ ら に 戦 後 、】
九 五 九年
よ り十
三 回 に わ た っ て 実 施 さ れ た 新 疆維
吾 尓自
治 区 博 物 館 に よ る ア ス タ ー ナ・
カ ラ ホ ー ジ ャ 古 墓群
の 発掘
調 査、
あ る い は 現 在、
吐 魯 番博
物 館 が 中 心 と な っ て実
施 し て い る こ の 地 区 の研
究 調 査 な ど が 著 名 な 調 査 で あ る 。 こ の よ う な 各 国 に よ る 発 掘調
査 に よ っ て、
吐魯
番 地 区 か ら 将来
さ れ た 古 文書
群
は、
そ の ほ と ん ど が 地 中 よ り発
掘 さ れ た も の で あ る。
従
っ て 大 多 数 の 文書
は 小 断 片 ば か り で あ る 。 大 谷探
検
隊 の 場 合 で も、
こ の 地 区 の遺
跡 や 古 墓群、
寺
院 趾 な ど を 発 掘 し 、 二 次 利 用廃
紙
や 埋 納 文書
あ る い は 写 経 断 片 な ど を 多数
将来
し た 。 文 書 の 中 に は、
現 地 の官
人 や]
般 人 か ら 直 接 購 入 し た も の や 寄 贈 さ れ た も の 等 も含
ま れ て い る。
こ れ ら の う ち 二 次 利 用 廃 紙 に つ い て は 、 そ の 殆 ど が 西 州時
代
の官
庁 文書
群 で あ る 。 そ れ ら は一
連
の 土 地制
度 関 係 文書
や 北館
文 書 、 物 価文
書、
天 山 縣 到 来文
書、
籍帳、
兵 役 関 係 文 書、
大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究 匕NII-Electronic Library Service 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究 八 マ
ロ
経 済関
係文
書 等 々 そ の内
容 は多
岐 に わ た っ て い る 。 古 墓中
か ら 出 土 し た 埋納
文 書 に は、
唐代
の 告 身 や 高 昌 国 時代
の隨
葬
衣
物 疏、
靈 芝 雲 彩 画 断 片ユ や
青
龍 彩 画 断 片 な ど が検
出 さ れ て い る 。 ま た、
大 谷 文 書中
に み ら れ る 写 経断
片 は、
吐魯
番
地 区 の 廃寺
址 や 諸 遺跡
か ら 発掘
将 来 さ れ た も の で あ る の で、
敦
煌 千 仏 洞 出 土本
に 見 ら れ る よ う な 巻 子本
の 体 裁 で は 残 つ て い な い 。 大 谷 探 検 隊 が 将 来 し た大
谷 文 書 中 の 写経
断 片 群 を 検 す る に、
そ の 多 く は 零細
な 断 片 群 で あ る。
し か し 、 た と え 零 細 な 断 片 で あ っ て も 、 そ れ ら の 写 経 目 的 や そ の内
容 に つ い て は、
敦
煌 出 土本
と ま っ た く 同一
で あ る こ と を 見 逃 す こ と は出
来
な い 。 敦 煌 出 土 本 に み ら れ る 漢 語 文献
の多
く は、
そ の殆
ど が書
写 仏 典 で あ る 。 こ れ ら に は 、一
切經
や 願經
等 の他
に 僧 尼 が 学 習 の た め に 書 写 し た 受 持經
類 も か な り多
く 含 ま れ て い る よ う に 思 う。
こ れ ら 大 量 の 敦 煌 文 書 に つ い て は、
す で に 各国
研 究 者 等 に よ っ て 整冖
5)
理・
研
究 が な さ れ、
種 々 の す ぐ れ た 目録
類 が作
成
さ れ て い る 。 こ れ ら 目 録 類 に 見 ら れ る約
一
万 九 千点
以 上 の 写 経 の う ち、
特
に 多 量 に書
写 さ れ た経
典 を そ の 順 に 列挙
す れ ば 次 の如
く で あ る(
池 田 温 『 敦 煌 文 書 の世
界 』名
著
刊
行 会、
三 四 〜 三 五 頁)
。 妙 法 連 華 經(
姚 秦・
鳩摩
羅 什 訳)
三 二 四 三 点、
大 般 若
波
羅蜜
多
經(
唐
・
玄奘
訳)
二 五 三 二点、
金 剛 般 若 波
羅
蜜經
(
姚秦
・
鳩 摩 羅 什 訳)
}
六 九 七 点、
金 光 明 最 勝 王 經
(
唐
・
義
浄 訳)
九 六 三点、
維
摩誥
所 説經
(
姚 秦・
鳩摩
羅 什 訳 ) 七 六 六 点、
大 涅
槃
經(
北
涼・
曇 無 讖訳
〉 五 九 三 点 と な っ て い る 。 こ れ に 因 る と、
敦 煌 出 土本
に は玄
奘
訳 や義
淨 訳 な ど に因
る、
九 世 紀 か ら 十世
紀 に か け て の 写経
の 多 い こ と が判
明 す る 。 ま た、
羅 什 訳 の 法華
經 が 当 時 は よ く 流行
し 、 そ の写
経 も よ く 行 わ れ て い た こ と を物
語
っ て い る。
こ れ に 対 し て 、 大 谷 探検
隊 が 吐 魯番
地 区 や 西 域 各 地 よ り 蒐 集 し た 写 経 断片
の う ち、
旅 順 博 物 館 が 所 蔵 す る 断 片(
約 二 万 三 千 点)
の 調 査 報告
を 見 る に、
写 經 断 片 の 件 数 の多
い 順 に こ れ を 列挙
す れ ば、
次 の如
く に な る 。妙 法 蓮 華 經
(
姚 秦.
羅 什 訳)
三一
五 二 片、
大 涅 槃 經
(
北
涼・
曇
無讖
訳
)
二 八 二 三 片、
大 般 若 波 羅 蜜
多
經
(
唐
・
玄 奘 訳)
六 五 六片、
金 剛 般 若 波
羅
蜜 經(
姚 秦.
羅
什 訳 V 四 七 〇 片。
大 智
度
論 (姚
秦・
羅
什
訳)
四 六 四 片 。金 光 明 經
(
北 涼 ・ 曇 無 讖 訳 V 三 七 五 片。
摩 訶
般
若 波 羅蜜
經
( 姚秦
・
羅什
訳 ) 四ユ 九 片 と な っ て い る
。
敦
煌 で も 吐 魯番
で も 、羅
什訳
の 妙法
蓮 華 經 が 最 も 多 く書
写 さ れ て い る こ と は 同 様 で あ る が、
特 に 吐魯
番
地 区 で は、
北
涼 の 曇 無 讖 や 姚 秦 の 羅 什 訳 と い っ た 古 い 仏 典、
即 ち、
五世
紀 頃 に 翻 訳 さ れ た 仏 典 の 書 写 断片
が 多 く 残 っ て い る点
が 特徴
的 で あ る 。 ま た 、 巻 子本
で は な く 写 経 の 断片
が 多 く 見 ら れ る と 云 う こ と は、
こ れ ら の 写経
断 片 が 各 地 の寺
院
趾 や古
城 跡 か ら発
掘 将 来 さ れ た も の で あ る こ と を 物語
っ て い る 。 た だ 大 谷探
検 隊 将 来 の 出 土 品 に つ い て は、
周 知 の ご と く そ の 出 土 地 不 明 の も の が多
い 点 が 指摘
さ れ て い る 。 し か し、
近 年 は 総 合 調 査 の 結 果、
ド イ ツ や中
国 の将
来 品 と 綴 合 す る も の も 多 く 発 見 さ れ る よ う に な り 、 こ れ ら の来
源 が明
に な り つ つ あ る。
次 に、
次 章 で は、
新 た に 発 見 さ れ た『
識 N工 工一
Eleotronlo Llbrary語
』 を も つ高
昌 国時
代 の写
経 、 た い 。 あ る い は 既 発 表 の 高昌
写 経等
に つ い て、
こ れ ら を麹
氏 高 昌国
時代
の 各 国 王 ご と に 列 挙 し 、 若 干 の検
討 を 加 え て み初
代 ( 照 武 王 ) 麹嘉
(
在位
二 四年
間、
五 〇 二 〜 五 二 五)
時 代 の 写経
L
「 大 品 經 巻 第
一
』左 衛 将 軍 田 地 太
守
麹 孝 亮 題 記 ( 六 世紀
前 期)
(
二 三 ・ 六 × 二・
五)
旅
順 博物
館
所 蔵。
罫 あ り 。(
前欠
)
大 品 經圏
圏
E
日
國
園
鬪
躪
士
左
衛
将 軍田
圃
太 守出
提麹
孝亮
ヱ
(
後欠
)
※ 『 ト ル フ ァ ン 選
影
』 二〇
〇 頁 。圉
は残
画 に て 判 読(
以 「 全 て 同 じ ) 。 こ の識
語 は、
二 行 し か残
っ て い な い。
し か し こ れ を見
て 先ず
目
に つ く の は 、先
述 し た 『魏
書 』 巻】
○ = 咼 昌 伝 に 見 え る 麹 孝 亮 の 名 で あ る 。 彼 は高
昌
国 王麹
嘉
の 兄 の 子 で、
左 衛将
軍 田 地 太 守 を拝
命 し て い た 入 物 で あ る。
こ の 初代
国 王 麹 嘉 と 華 北 に 君臨
し た 北 魏 と の 交 通 は十
四 回 行 な わ れ て い る が、
麹
孝
亮 は第
一
回 の 永 平 元 年(
五 〇 八 )十
月 と、
第十
二 回 の神
亀 元年
(
五一
八)
冬
の 二 回、
高
昌 国 よ り 北 魏 に 派 遣 さ れ て い る。
こ れ ら の 目的
は、
北
魏 へ の 内 徒 で あ つ た 。 し か し こ れ ら は、
何 れ も 成 功 を み な か っ た の で あ る 。 さ ら に、
『周
書
』 巻 五 十 異 域下
高 昌伝
に よ れ ば、
高 昌 国 に は 「 公 二 人 有 り 。 皆 其 の 王 子 な り。
一
を交
河 公 と な し一
を 田 地 公 と な す 。 次 に 左右
衛 あ り 。 云 々 」 と 記 し て い る 。 初 代 高 昌 国 王 麹 嘉 に は、
麹
光
と 麹 堅 の 二 人 の 王 子 が お り、
麹 光 が 世 子 で あ っ た 。 こ の よ う に見
れ ぼ、
麹 光 が 交河
公 で あ り、
麹 堅 が 田 地 公 で い ず れ も 郡 王 で あ っ た こ と が考
え ら れ る 。 そ し て こ れ ら の 下 に 従 兄弟
の 左衛
将 軍 田 地 太守
の 麹孝
亮
と右
衛
将軍
交 河 太 守 の麹
某(
麹
氏 の 血 族)
の い た こ と が 考 え ら れ る 。 ま た、
麹
孝
亮 は こ こ で は 清 信 士 と 記 し て い る の で、
彼
は仏
教 を 信 じ る 優 婆 塞 で あ っ た こ と が判
明 す る 。 ま た、
書
写
し た 『 大 品經
』 は、
亀 茲 国 出 身 の 鳩摩
羅
什 が 弘 始 六年
(
四 〇 四)
に 長 安 で 訳 出 し た 大 品 般 若 經 二 十 七 巻 の こ と で あ ろ う 。 写 経 の 目 的 は、
願經
な の か 供 養經
か は 明 ら か で な い が、
形 式的
に み る と 沮渠
氏高
昌
国 時代
に 大 涼 王 沮渠
安 周 が、
承 平十
五年
(
四 五 七)
に 書 吏 に 書 写 さ せ た と こ ろ の 『 仏説
菩 薩藏
經 』 第一
の書
写 形 式 に よ 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究九
NII-Electronic Library Service 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究
一
〇 〈 似 て お り、
北 涼仏
教
の な ご り が感
じ ら れ る。
そ こ で 左 に こ の 『 仏 説菩
薩藏
經
』 の 識 語 を 参 考 の た め に 掲 げ て お こ う 。 『仏
説 菩 薩 藏 經巻
一
』北
涼 承 平一
五 年(
四 五 七)
涼 王 且 渠 安 周 題 記1
廿 六 帋 半
2
佛 説 菩薩
藏經
第
一
]
校 竟3
大 涼 王 大 且渠
安 周 所 供養
經4
承 平
十
五 年 歳 在 了 酉(
以 下 省 略 V す)
面)
※書
道 博 物 館 所蔵
。 池 田 『識
語 』 八 七 頁 。 王 素 『編
年
』 = 二 二〜
= 三 二頁
。 こ れ を 見 る に 、 書写
仏
典名
を 書 き、
そ の 下 に =校
竟 」 と 記 し、
そ の次
に 写經
供 養者
の 姓名
を 記 し て い る と こ ろ が よ く 似 て い る わ け で あ る 。 ま た 、 円 地 太 守 の 下 に 「出
提
」 と 記 し て い る。
こ の 出提
に つ い て は 何 を 意 味 し て い る の か 目下
の と こ ろ は 不 明 で あ る 。 あ え て 類 推 す る な ら ば、
ヘ
ユ 河 西 地方
で は 正光
五年
(
五 二 四)
六 月 に 秦 州 の 莫折
大
提 、 莫 折念
生 父 子 が 反 乱 を 起 こ し た た め に、
河 西 回廊
が 不 通 と な っ た 事件
が あ る の で、
出提
と は こ の 大提
の 乱 を 鎮 め る た め に出
陣 し た こ と を 意 味 す る も の か と も 思 う が、
確 証 は な く 目 下 の と こ ろ こ れ を 明確
に す る こ と は出
来 な い。
a
北
魏・
延 昌 四 年(
五一
五〉
五 月 勝 鬘經
疏 高 昌 客 道 人得
受 題 記(
ス タ イ ンS
・
五 二 四、
池 田 『 識 語』
一
〇 六 頁。
)
N工 工
一
Eleotronlo Llbrary Servloe北 魏 第 六
代
孝文
帝
(
四 六 七 〜 四 九 九)
は、
四 九 四年
に 都 を 洛 陽 に遷
し、
漢
化 政策
を 実施
し た。
そ の 後 を継
い だ 宣武
帝 ( 四 九 九 〜 五一
四)
の 時 代 、 五 〇 六年
冬 に は 法 雲 が 『 勝鬘
経
』 を 講 じ て祈
雨 し て い る し、
五 〇 九 年 に は 洛 陽 に 永 明 寺 を 創 建 し て い る 。 『 洛 陽伽
藍 記 』 巻 第 四 に よ る と、
こ の こ ろ洛
陽 で は 仏 教 が 盛 ん で 、 仏 像 が 多 く 造 ら れ 、仏
典 の 翻 訳 も 盛 ん に行
わ れ て い た 。 そ れ は多
く の外
国 の 沙 門 た ち の 来朝
に よ る も の で あ っ た 。 当 時北
魏 に は一
万 二千
の 寺 院 が 有 っ た と い う 。 宣武
帝
は、
外 国僧
を収
容 す る た め に永
明 寺 を創
建 し た 。 こ の 寺 は 僧 房 の棟
々 が一
千 余 間 も 連 な り、
外 国 の 沙 門 三 千余
人 が こ こ に 居 住 し て い た と い う 。 こ の 永 明 寺 に 止宿
し て勝
鬘 経 の 研 究 を行
な い 、 こ の経
の 注 釈 書 を書
写 し た 高 昌 国 の 客〔
12〕
僧
得 受 な る 者 の 居 た こ と が、
ス タ イ ン本
(
S
五 二 四 ) の識
語
に よ っ て 知 ら れ る 。 そ こ に は、
「 延昌
四 年(
五一
五)
五 月 廿 三 日、
於 京 承(
永 ) 明寺 冩 勝 鬘 疏
]
部
。高
昌客
道
人 得 受 所 供養
許
。 」(
池 田 『 識 語』
一
〇 六 頁 V と 記 さ れ て い る 。得
受 と い う の は 法 名 で あ ろ う か 。 国 王 麹 嘉 の 命 に よ り 洛 陽 に派
遣 さ れ た 僧 で あ っ た と 思 わ れ る。
そ し て 、彼
は 恐 ら く 延 昌 四 年 九 月 二十
日 に派
遣 さ れ た 第 八 回 の 遣使
が 帰 国時
に こ れ と 行 を 共 に し、
敦 煌 に 立 ち 寄 っ た 際、
い ず れ か の寺
院
に こ の 写 経 を 奉 納 し た の で あ ろ う。
こ の 識語
か ら は、
こ の よ う な状
況 が伺
わ れ る の で あ る。
五 二 五 年 に 王 の 麹嘉
が 卒 す る と、
世 子 の 麹 光 が 継 位 し て 第 二代
の 国 王 に な っ た 。 麹光
は、
甘 露(
五 二 六 〜 五 三 〇 ) と 云 う 年号
を 建 て 、 五 年 間 在位
し た 。 五 三 〇年
麹
光 が卒
す る と 弟(
麹
嘉 の 子)
の麹
堅 が第
三 代 の 国 王 と し て 継位
し た。
彼
の在
位 は十
八 年 間 で 、章
和(
五 三一
〜 五 四 八 ) と い う年
号 を建
て て い る 。 ま た 麹 堅 は 南朝
の 梁 に遣
使 す る と と も に 北朝
の 北 魏 に も 朝 貢 し た。
五 四 八年、
麹
堅 が 卒 す る や 子 の 玄 喜 が 継 位 し 第 四 代 の 王 と な っ た 。 彼 の在
位 は 二 年 で、
永平
(
五 四 九 〜 五 五 〇)
と い う年
号
を建
て て い る 。 五 五〇
年麹
玄 喜 が卒
す る と 、 そ の 子 ( 姓名
不 明)
が 継 位 し、
第
五 代 の 王 と し て、
和 平(
五 五一
〜
五 五 四)
と い う年
号 を 建 て た 。 彼 の在
位 は、
四 年間
で あ っ た 。 こ の 第 二代
か ら第
五 代 の 国 王 時 代 に お け る高
昌
国 の写
経 行業
に つ い て は 、 い ず れ も 識 語 を 有 す る 写 経断
片 が出
土 し て い な い の で、
い ま の 時 点 で は こ の時
代
に お け る 写 経 行 業 を 明確
に す る こ と は 出来
な い 。 た だ し、
建 国初
期 に お い て は、
例 え ば 初代
の 麹嘉
は、
北
魏
仏 教 の 導 入 に努
め た ば か り で な く、
中 国伝
統 の 儒学
の 導 入 に も 力 を い れ て い た 。 そ し て、
五 二}
年
六 月 の 北 魏 遣使
の 際 に は、
五 経・
諸
史
を北
魏 よ り借
り 受 け る こ と を 求 め る と 共 に、
国 子 助 教 の 劉 燮 を 博 士 に す る こ と を も 請 い、
北
魏
の 孝 明帝
は こ れ を 許 可 し て い る 。 こ の よ う な こ と か ら も わ か る よ う に、
麹
氏 高 昌 国 で は 東 方 の大
国
で あ る 中 国 の 文 化 〔 仏教
を含
む)
を 導 入 す る こ と に 力 を 注 い で い た の で あ る 。 そ し て こ の よ う な努
力 の成
果 は、
第 六代
の 国 王 麹 寳茂
の 頃 か ら、
顕 著 に 現 れ 始 め る の で あ る 。第
六 代 の 高 昌 王 麹 寶 茂(
麹玄
喜 の 子)
は、
五 五 五年
か ら 五 六 〇年
ま で の 六 年間
国 王 の地
位 に あ り、
建 昌(
五 五 五 〜 五 六 〇)
と い う年
号 を 建 て た 。 こ の高
昌 王麹
寶 茂時
代 の写
経 と し て は、
次
の 三点
を挙
げ る こ と が で き る。
一
高
昌・
建
昌
二年
( 五 五 六)
『維
摩義
記巻
第
四 』(
吐 峪溝
出 土)
※ 『 西 域 考古
図譜
』 下、
仏
典 付録
三 −一
。 池 田『
識語
』]
二 九 頁。
王素
『 編年
」→
六 〇 頁 。 大 正 八 五、
三 五 四、
C
。 二北
周・
武
成
元年
( 五 五 九)
『
妙 法 蓮 華 経巻
第 三』
※
書
道 博物
館 藏 ※高
昌 丁 谷窟
(
ト ユ ク)
比 丘 の 道 全 が 書 写 。 池 田 「識
語 』 =冖
九 頁 。 大 谷 文 書 中 の 漢 語 資 料 の 研 究]
一
NII-Electronic Library Service