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こぺる No.033(1995)

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日(毎月1固25日発行)ISSN 0919-4843

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こべる刊行会

NO.

33

部落解放同盟綱領改正案をめぐって告活渇 量よりも質 吉田賢作 綱領改正にあたって 土 方 鉄 「仕事と福祉」の白昼夢 吉田智弥 ひろば⑬ 歴 史の真実を知りたくて 一一師岡論文「古地図の復権」に思う すみだいくこ 第27回『こぺる』合評会から

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部落解放同盟綱領 改 正 案 を め ぐ っ て ③

量よりも質

場違いな前置きになるが最近、大勢で練り上げる文章 というものにうんざりしている。この六月、衆議院の ﹁歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議﹂をめぐ るやっさもっさを見聞してからだ。結果は舞文曲筆。文 章を﹁足して二で割る﹂作業は実にむなしい。 もとより部落解放同盟の綱領改正案についてもそうだ というのではない。五月、編集長から寄稿の誘いがあっ たのをまっすぐ受けとめて、自分なりの一言を述べよう と 思 っ て い た 。 現綱領と改正案の文章を見比べると改正よりも変化と 呼ぶほうがふさわしい気がする。﹁全国に散在する六千 部 落 、 三 百 万 の 部 落 民 は : : : ﹂ で 始 ま る 文 章 の ほ と ん ど は 入 れ 替 わ る 。 ﹁今日に至るもなお階級搾取とその政治的支配の手段 である身分差別によって、屈辱と貧困と抑圧の中に岬吟 させられている﹂﹁資本主義の私的所有からくる矛盾は 拡大﹂﹁独占資本とそれに奉仕する反動的政治体制、す なわち帝国主義・軍国主義﹂など階級的史観を込めた語 調 は す べ て な く な っ た 。 改正案では目的を部落の完全解放の一点にあるとしつ つ、その展望は﹁全ての人が人権を等しく認め、高め合 ぃ、互いの違いを尊重し合う社会﹂の実現の中に見いだ せるとする。はしよって言うなら﹁階級敵﹂は影を潜め すべての人は﹁自主・共生・創造﹂の旗印のもとに結集 す る 条 件 を 持 つ こ と に な る 。 こうした変化を私なりの日常感覚に照らしてみたい。 ﹁ときあたかも我々は、歴史の大転換期にある﹂と改正 案はいう。転換の指針は﹁人権・平和・環境﹂であり部 落の完全解放を展望しうる地平に位置しているとする。 それは確かなところだろう。政治や経済の分野でいま多 く の 人 は 転 換 期 で あ る こ と を 実 感 し て い る 。 また、戦争をはさんだ過去については﹁天皇制軍国主 義の苛烈な弾圧の前に、終に侵略戦争への協力を余儀な くされた。痛恨の歴史である﹂と振り返る。表現は不十 分だが、現綱領にある﹁全国水平社の闘いも前進をはば ま れ た ﹂ よ り も 実 感 は 伴 う 。 こぺる 1

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概して改正案は部落外の多くの人に親しみゃすく受け 入れられやすい文脈で終始している。それは前文に続く 箇条書きの部分でより明確になっている。現綱領はその 表題を﹁要求網目﹂とし、五十九項目が並ぶ。改正案は ﹁基本目標﹂としており、十三項目。冒頭に﹁我々は、 五いの尊厳と自主解放の精神をもって団結し、広範な 人々のもと部落解放の﹃よき日﹄をめざす﹂とある。 ただ、改正案の提案にさいしては、新綱領を平易で簡 素なものとし、学習テキストとして別途﹁解説書﹂をつ くるという説明がされている。案の﹁字面﹂だけでは解 釈が届かない部分があるのかもしれない。 改正案が引き継いだ骨格の一つに﹁糾弾﹂がある。私 がいま接点を持つ滋賀県の﹁土地問い合わせ事件﹂から その意味を考えてみたい。一九九二年三月、彦根市の同 和対策課に草津市の市民が電話をし、彦根市内の地番を あげてそこが﹁同和地区﹂であるかどうかを聞いたとい う 出 来 事 だ 。 詳しい経過ははぶくが、この問い合わせは﹁部落の土 地は買い手がつかない﹂という不動産業界の﹁常識﹂が 動機になっていた。電話をした人︵仮に A さ ん と い う ︶ は過去十年ほど断続して業界でアルバイトをしていた。 物件を探して業者に持ち込む。売買がまとまると、なに がしかのマージンが入る。資格はないが知識と経験は豊 富 だ っ た 。 彦 根 の 土 地 は 、 A さんが複数の知人と組んで買おうと していた。バブルがはじけて地価が下がった時期だ。値 上がりを待って転売する目算だったらしい。交渉は A さ んに任された。現地を見て便利がよいことを確かめたが 交渉の途中で不安にかられる。便利がよいにしては売主 の言い値が安いのである。﹁業界で得た認識に基づいて つ い 、 そ こ が 同 和 地 区 で は な い か と い う 不 安 を 抱 い た ﹂ と A さ ん は 言 っ て い る 。 ﹁事件﹂は部落解放同盟滋賀県連合会が取り組むよう になった。この七月までに﹁糾弾学習会﹂が二度聞かれ て い る 。 A さ ん は ア ウ ト サ イ ダ ー で あ る 。 業 界 は 最 初 、 無関係との立場をとろうとしたようだが結局、関係者と して社団法人の二団体が出席している。私は﹁反差別国 際連帯解放研究所しが﹂の会員として、一昨年からこれ ら の 動 き に 接 し て き た 。 ここでは﹁糾弾学習会﹂について触れておく。場所は 草津市役所の大会議室が会場に当てられ、午後七時から 二、三時間の予定で聞かれる。当事者本人、不動産団体 と県、市などの行政機闘が同盟県連側と向き合い、それ

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ぞれの後部に双方の関係者や傍聴者が座る。運動側が糾 弾要綱を、本人は反省文、業界、行政関係が見解を提示 し、それに対する質疑応答で始まる。ハチマキ、ゼッケ ン 姿 は な く 、 怒 号 が 飛 ぶ こ と も な い 。 この糾弾会に至るまで六回にわたる﹁対策会議﹂が聞 かれた。参加者は同盟県連のほか県、市などの行政関係 者で、その聞に問題を整理し、当事者からの聞き取りも 行われた。二年間このような進行を検証してきた私とし ては過去の﹁糾弾批判﹂に当てはまるようなものを感じ ない。むしろ、差別の深部に迫る糸口を見いだし、互い に学ぶという意味で糾弾は必要だと思っている。 現綱領にはなくて改正案に見られる言葉は多いが、そ の一つ﹁﹃解放が目的、事業は手段﹄の原則を堅持﹂に 触れておきたい。この﹁原則﹂はこれまで運動内部では しばしば取り上げられてきたが、部落外ではあまり聞か れなかった。その食い違いが周辺部の差別観もからまっ てはねかえってきた。﹁なぜ部落だけがよくなるの﹂と い う 声 で あ る 。 滋賀県のある町で、毎年一回、ほほ全域にわたる住民 の自治会がそれぞれ﹁地域懇談会﹂を聞いてきた。部落 問題を主題にしており、私も講師団の一人として参加し ている。その町では九一年から三年間、懇談会のテ l マ を﹁なぜ寝た子を起こすのか﹂﹁部落差別は今でもある のか﹂﹁なぜ同和対策事業は必要なのか﹂の三つに絞っ た 。 そ れ ま で の 縁 談 融 会 で 出 た 質 問 の 中 で 多 い も の を 取 り 上 げ た の だ と い う 。 同和対策事業の意義については、こうした懇談会で行 政側から同和対策審議会の答申にそった説明が何度も行 われてきた。しか

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一方、質問のほうも途絶えることが なかった。環境改善が進むにつれ、頭で分かっても気持 ちが付いていかないという人々が多いからだ。﹁解放が 目的、事業は手段﹂という言葉にも人々にはなじみがな か っ た 。 先に総務庁から発表された九三年度全国実態調査の結 果によると、住宅地区改良事業などの施行地区では八 七%の住宅が完了区域内にある。それちは面的整備であ り当然、部落の外観も一新されているはずだ。滋賀県の その町の﹁地区懇談会﹂で出る質問はあながち﹁ねた み﹂ばかりでもあるまい。部落問題を同対審答申のレベ ルに止めずより率直に、より深いところで理解しあえる 時期がきたと私には思える。滋賀の町の﹁地区懇談会﹂ も昨年からは﹁自由に話す会﹂に切り替わった。本音で 語 り 合 う 機 運 が 出 て き た の で あ る 。 こベる 3

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部落解放同盟中央本部編の﹁新たな解放理論の創造へ むけて/中央理論委員会︹提言︺﹂︵九三年・解放出版 社︶を読むと、こんどの綱領改正案に至る経過がよく分 かる。九二年八月から一年間、第三期運動論、差別実態 論、同和行政論、解放教育論の各作業部会で組織外から の提言も求めながらまとめられた提言だ。そして﹁﹃特 措法﹄という﹃特別な時代﹄を、﹃当たり前の時代﹄と してとらえてきた感覚から脱却﹂することが提起されて い る 。 うかつなことだが、それを読むうち、私もマスコミ関 係者の一人として意見を求められたことを思い出した。 まとまりのない話をしたのではないかと思うが、天皇制 については常に明確な態度をとるべきこと、﹃同和はこ わい考﹂は敵視すべきでなく懐の深い意見交換を望みた いことなどを意見として述べた。多数者たる天皇支持層 への配慮がのぞく一方で教条的な傾向が時として感じら れ た か ら で あ る 。 一九六五年、同和対策審議会は﹁時あたかも政府は社 会開発の基本方針をうち出し、高度経済成長に伴う社会 経済の大きな変動がみられようとしている﹂と答申の前 文でうたい﹁まさに同和問題を解決すべき絶好の機会と いうべきである﹂とした。すべてに量的拡大が予感され る時代だった。あれから三十年。世界情勢から説き起こ す ま で も な く 社 会 は 転 換 期 に あ る 。 部落問題もいろいろな面で﹁量よりも質へ﹂の時代に 入ったと見る。ただ、部落差別は転換期にあっても自然 となくなるものではないだろう。先にあげた﹁土地問い 合わせ事件﹂などは部落の環境改善が進んだいま、起こ るはずはないことになる。しかし現実には市場価格の形 成に差別が組み込まれているし、それが﹁事件﹂を引き 起こしたのだった。組織だけではなくて、市民レベルの 営 み が 大 切 だ と 思 う 。 今回の改正案と比べてみて、改めて現綱領が時代に合 わなくなっていることを痛感した。そこで改正案のほう に意義を認めるのだが、しかし、字面だけではやはり十 分ではない。これからの組織としての論議と実践を注目 し よ う 。

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部落解放同盟綱領 改正案をめぐって④

綱領改正にあたって

土方

鉄 ︵ 作 家 ︶ ︵

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︶ 部落解放同盟は、さる五月三十日から、ひらかれた五 二 回 全 国 大 会 で 、 綱 領 改 正 案 を 提 案 し た 。 ﹃ 解 放 教 育 ﹄ 九 五 年 七 月 号 に 、 大 会 二 号 議 案 全 文 が 、 掲 載 さ れ て い る 。 そ れ に よ る と 、 ﹁ l 、国内外の情勢が激変し、従来の イデオロギー対立から人権・平和・環境を軸とした対立 に 転 換 ﹂ し た こ と 。 ﹁ 2 、部落の現状が変化﹂したこと を 、 改 正 の 理 由 に 挙 げ て い る 。 したがって新綱領は、﹁第一に部落の変化と部落解放 運動の発展、第二に時代の変化と部落解放運動の新たな 目標、第三に部落解放同盟の運動と組織の基本性格を明 確 に す る こ と が 重 要 ﹂ と 述 べ て い る 。 さ ら に 、 ﹁ 基 本 的 視 点 ﹂ と し て 、 ﹁ 平 易 で 簡 素 ﹂ ︵ こ の こ と は 賛 成 ︶ 、 つ ぎ に 、 ﹁ 大 衆 団 体 と し て の 性 格 を よ り い っそう明確にし、階級的史観ではなく民主主義・人権主 義 の 観 点 を 貫 く こ と 。 ﹂ そ の 理 由 は 、 ﹁ こ れ ま で の 組 織 分 裂の多くが、政党や党派のセクト主義にもとづく﹂から で あ る と し て い る 。 ついで、﹁部落の完全解放の状態を一定規定する﹂と し て い る 。 以上の、改正案の前提にも、もちろん問題点がある。 たとえば、﹁イデオロギー対立から人権・平和・環境 を軸とした対立に転換﹂した、という断定は正しいのだ ろうか。このようにいうことで、昨日までの思想を、検 証ぬきで、古靴のように捨て去っていいのだろうか。 水平社の創立いらい、マルクス主義に依拠し、現状分 析にも、解放の方向の策定にも、前提とされてきた。 水平社創立者たちが、影響をうけたのは、佐野学であ ったことは、有名な事実である。彼はまぎれもなく、マ ルクス主義者であった。また堺利彦、大杉栄、山川均ら に も 接 し 、 日 本 社 会 社 義 同 盟 に 加 盟 し て い る 。 こういったことが誤りならば、徹底的な自己批判を先 行 さ せ ね ば な る ま い 。 過 去 の 数 か ず の 方 針 が 、 ︵

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︶ こべる 誤りであったのか、否か、は 5

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っきりさせるべきである。すくなくとも、敗戦後の部落 解放運動の、検証が必須である。その点、改正案前文、 三節の文言だけでは、納得できない。これでは、すべて が、上手くいったかのごとき、錯覚を覚える。今日の時 点に立って、欠陥もしくは誤りはなかったのか。 たとえば、﹁三つの命題﹂は、正しかったのか否か。 それらを、考えるにあたって、なによりも大事なことは、 部落がどう変わったか、部落民がどう変わったか、でな ければならない。そこのところを、﹁国内外の情勢が激 変﹂ですまされても、納得できるものではない。すくな くとも、部落ならびに部落民が、どのように、激変した のか、は明確に示されねばならない。居住組織としての 運動体が、最初に明らかにすべきは、そのことであろう。 ﹁ 激 変 ﹂ だ け で は 、 実 は な に も い っ て い な い に 等 し い 。 昨今、社会主義は﹁流行﹂遅れのように、みなす者ら がいるが、それは正しい態度とはいえまい。 人権という概念にしても、階級的視点ぬきでは、実に 暖味模糊なものとならざるを得ない。それが今日の人権 状況ではないのか。そもそも、資本主義国日本において、 本当に人権が確立するとでも、起草者は考えているのだ ろ う か 。 たとえば、老人にたいする、福祉政策の貧弱さをみて も理解されよう。神戸の擢災した老人は、仮設住宅で、 死去しても、十日間も放置されていたではないか。 この事件に象徴的にみられるような、老人政策・福祉 政策の現実を、みるならば、﹁人権・平和・環境を軸と した対立に転換﹂したなどと呑気なことは、いえる訳が な U

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︶ また起草者は、﹁イデオロギー対立﹂が転換した、と い う が 、 果 た し て そ う だ ろ う か 。 なるほど、米ソ対立は、ソ連の崩壊によって、解消し た。それでもって、社会主義が敗北し、資本主義の優位 が 、 確 定 し た の だ ろ う か 。 わたしは、断じてそうではないと、主張する。 たしかに、ソ連共産党は倒れたが、けっして社会主義 は、倒れてはいない。ソ連共産党の一党独裁が、崩壊し たのであって、ソ連で行われてきた、社会主義は、本来、 社会主義に値しなかったのではないか。なぜならば、本 来、共産主義・社会主義と、一党独裁とは、矛盾するも のだ。本来の労農独裁が、書記長独裁に変質したところ に、ソ連の根本的悲劇があった。さらに、東欧諸国の変

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草も、ソ連の、各国への属国あっかいが、崩壊したもの と い え よ 、 っ 。 ひるがえって、わが国では総保守化が、進行し、保 守・革新の境界が暖味になってきている。これは、重大 な 危 機 的 状 況 で あ る 。 ﹁イデオロギー対立﹂が、転換したなどといっている のは、われわれの足元に、巨大な裂け目が口を開けてい るのに、気づいていない、ことである。われわれがそこ へ墜落するのは、眼にみえている、といわねばなるまい。 こうはいっても、なにも生硬な社会科学的用語を、用 いろというのではない。ことばは、﹁平易で簡素﹂であ ることには、さきに賛成した。もっとも、やさしく書く のは、なにも無思想になることと同じではない。文章を やさしく書くためには、書き手が、深い理解に達してい な け れ ば な ら な い 。 起草者が、きわめて暖味な現状認識で、﹁部落の現状 が変化﹂したといっているが、変化そのものを、正確に はとらえ得ていないのではないか、とすら疑われる。 部落解放同盟が、党派ではなく、大衆団体であること に、認識の違いはない。しかしながら、﹁大衆団体とし ての性格﹂を、明確にするとス﹁階級史観ではなく民主 主義・人権主義の観点を貫く﹂ことになるのか、理解の い か な い と こ ろ で あ る 。 階級史観に立つと、反民主主義、反人権主義になると で も 、 い う の で あ ろ う か 。 ︵

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︶ 提案は﹁綱領改正案﹂に連動させて、﹁新規約﹂を作 成するという。示された﹁綱領改正案﹂からは、いかな る組織形態を、構想しているのか、想像することができ ない。現体制を無批判に、維持するのには、反対である。 ソ連および東欧諸国の党組織が、おこなった一党独裁 的組織形態は、克服されねばならない。 具体的にいうと、現行の上部機関、下部組織といった 上意下達形の弊害である。方針はすべて、上部機関すな わち中央が、起案・決定し、指示・通達するというので は、地域の組織は、単なる操り人形である。したがって 地域からの発想・提案が、基礎にあって、重視され、そ れが、実現に向かう組織が望ましい。つまり地域の組織 が基本におかれる組織形態である。その意味でネット ワーキング型が、地域の組織の、自主性、自発性を喚起 する。地域組織が、相互に結びつけばよく、あとは全国 集約センター︵指導部ではない︶があればいいのだ。 こペる 7

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部落解放同盟綱領 改正案をめぐって⑤

白昼夢

吉田智弥

︵ 奈 良 県 地 方 自 治 研 究 セ ン タ ー ︶ 奈良県だけではない。全研︵全国集会︶の﹁部落産 業 ﹂ 分 科 会 に も 参 加 し た こ と が あ る が 、 そ こ で の 議 論 は 、 実 際 に 経 営 に 行 き 詰 ま っ て い る 人 た ち 向 け で は な か っ た 。 というより、一番肝心な金儲けのリアリズムは棚上げさ れていた︵ように私には見えた︶。それ以前の全研は知 らないが、私が我慢して座っていた年には、きわめて一 般的な﹁部落産業の危機﹂が啓蒙的に語られただけであ っ た 。 一 昨 年 か ら 奈 良 の 県 研 ︵ 部 落 解 放 研 究 ・ 奈 良 県 集 会 ︶ は二つの﹁県連﹂の主催で行われるようになったが、昨 年からは、その両方共で﹁部落産業﹂をテ l マ に し た 分 科会がもたれなくなった。組織が分裂する前々年には ﹁仕事と福祉﹂という分科会があり、更にその前には ﹁ 部 落 産 業 ﹂ だ け を テ l マにした分科会が設けられてい た 。 比較的に﹁大﹂規模な部落が多い奈良県では、かつて はグローブ・ミット、毛皮革製品、ヘツプサンダル、軽 装履き、桐材加工品、花︵鼻︶緒、紳士靴、スキ i 靴 、 スポーツシューズなど、いずれも労働集約型の﹁部落産 業﹂がかなりの賑わいを見せていた。なかでも代表的な グ ロ ー ブ ・ ミ ッ ト の 場 合 に は 、 輸 出 商 品 の 花 形 と し て 、 その収益高で一時は県内全産業の上位にランクされたこ と さ え あ っ た 。 だが、十数年も前からそれらの﹁部落産業﹂は軒並み に全面的な方向転換を強いられている。それにはさまざ まな理由がある。だが何よりも第一に息子たちが後を継 がなくなった。親方たちは﹁ワシの代でしまいや﹂とい 、 つ ノ 。 同 テ l マ の 分 科 会 の 廃 止 ︵ 中 断 ? ︶ は 言 、 つ ま で も な く 、 従来の概念でいう﹁部落産業﹂の衰退と対応している。 と同時に、それまでの十数年、繰り返し県研で議論され てきた部落産業﹁振興策﹂が、現場の企業家たちゃ労働 者たちに説得力を持つものとしては届かなかったという ことでもある。それは有効な起死回生策の内実を備えて い な か っ た 。

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なるほど、つい先頃まで部落の家族たちを養ってきた 仕事はたいていが長時間労働か、逆に何日も暇を持て余 すような波があるか、挨や汚れや臭いや寒さや無理な姿 勢を我慢させられる悪い労働環境か、それらと重なって の低賃金がついてまわった。仕事によってはなまじの学 校の勉強が邪魔になったから、あとになって家業を継い だ人たちに﹁経営の近代化﹂を要求するのは、自家撞着 でなければ勝手すぎる評論といえた。 誰だって決まった時間に出退勤して、安定した給料が ほしい。こんなことは当り前の要求で議論の余地はない。 すでにおやじたちの世代も、雨の心配をせずに、親方に 気兼ねせずに、決まった休みのとれる会社にネクタイを しめて働きに行きたいと考えてきた。いま息子たちに、 どういう理屈をもって被差別印の﹁部落産業の後継者た れ ﹂ と 言 え る の か 。 それよりも﹁一般﹂社会でわが息子たちの出世する日 がくる。それらが部落の多くの親たちの見果てぬ夢でも あったれば尚更、息子たちの晴れ姿こそが具体的で現実 的な﹁部落解放﹂そのものである。その時、主観的な意 味では、差別される理由は少なくともその家族からは縁 遠 く な る だ ろ う 。 実際、息子たちが地場の部落産業から逃れて、ムラの 外はおろか大都市の大企業に勤められるようになったの は、解放同盟による粘り強い就職差別撤廃闘争の成果で あるといえた。有名企業にまで統一応募用紙を採用させ てきた闘いがあればこそ、若き部落出身者の本来の能力 を精いっぱいに伸ばせる条件が手に入ったのである。そ れは大きな﹁勝利﹂であった。だが同じことを繰り返せ ば、戦後の部落解放運動の大きな前進が青年たちをムラ から雄飛させた。その結果、後継者がいなくなって部落 産業からの転業者が続出した。県研から﹁部落産業﹂の 分 科 会 が 消 え た 。 単純化をおそれずにいえば、そうした三段論法か四段 論法は確実に成立する。そしてこの皮肉というか弁証法 的というかの過程は常識的にいえば不可逆的であろう。 だが、分裂する前の奈良県連が、それまでの﹁部落産 業﹂に代えて﹁仕事と福祉﹂を分科会のテ l マ に 選 ん だ のは、実はそうした一方通行の流れに抗しようという思 想と意志があったと私は受け止めている。主宰者の解放 同盟は、行き詰まった部落産業の方向転換の先を﹁福祉 産業﹂に求められないかと提起しようとした。経営者た ちにそうした新しい︵必ず儲る!︶業種への転業を促し、 こベる 9

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もともとの不安定就労者や部落産業を追われた失業者た ちに、福祉関係の何らかの資格を獲得する必要とメリッ トを訴えようとした。奈良産業大学の吉村励教授は、そ うした長期計画にむけて、県内に福祉大学をつくる夢を 語 っ た 。 そこに可能性があること。或はそうした可能性を現実 に転化するための条件整備を急がねばならないこと。そ れらの方針の理論的裏付けと大衆的な意志統一が県研の 場で行われるならば、ネクタイのビジネスマンとは明ら かに異なる労働者像を青年たちに示せるではないか。人 民の海のモデルともいうべき︽よき日︾に似せた新しい ムラづくりが、そこで現実的な課題として設定できるで は な い か 。 司会者や助言者としてそうした分科会への参加を招請 された私には、それらの目論見は画期的に思えたし、そ うした展望を語りあう準備会の議論には本当に心が騒い だ。ええトシしたおっさんたちが集まってこんな議論が できるとは、解放同盟いうところはすごいなと思った。 だが周知のように、一方ではそうした意気込みが準備 されながら、同じ時期に奈良県連は組織分裂を選択した のだった。研究者や活動家たちの県研にかけた思惑は一 頓座した。企業家たちはそうした理念を解放同盟に求め るよりも、当面の資金繰りと税金対策でつながりを持つ 方への期待をますます強めた。 ところで、そもそも何が問われていたのか。一般的に 運動体にとって︽綱領︾とは何なのか。研ぎ澄まされた ような理念の正しさを求める議論はむろん大切なことだ ろう。だが、何よりもそれは大衆的な共鳴を組織するた めの言葉であらねばならない。であれば、呼びかける相 手のメシを食うための現実的な利害感覚は無視されるべ きではない。解放への日めくりをモノ・カネで数えよう とするのは確かにニヒリズムだが、解放同盟が頼りにな らない時にはモノ・カネしかないという判断は残念なが ら正解である。その延長上には、出ていった息子たちが 誇りをもって自分のおやじをふりかえる日は来ない、と いう代償を支払わねばならないとしても。 解放同盟の綱領は、﹁部落に残るのはカスばっかりや﹂ というおやじたちに届かねばならない。

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ひろば⑬

歴史の真実を

I

師 岡 論 文 寸 古 地 図 の 復 権 ﹂ に 思 う

l ラ イ タ ー ︶ ﹁械多﹂という言葉の意味を知ったときの、被差別部 落の人たちの怒りとおののき||それを胸に刻みながら、 師岡さんは、なおも﹁穣多村﹂﹁非人小屋﹂と明記され た古地図が修正されずに発刊されることを望む。 それはなぜか。歴史を正しく理解するためには、﹁ど こで﹂という場所の要素が欠かせないという当たり前の 思いからである。当時の場所を確かめようとしたら当時 の地図がいる。もし被差別部落の所在地が消されていた ら、部落の正しい歴史はわからない。それにもかかわら ず、ある時期から古地図は、部落の所在地を示す言葉を す べ て 消 し て 公 開 さ れ る こ と に な っ た 。 師岡さんはその経過を事実にそってわかりやすくまと め て い る 。 い き さ つ を 知 ら な か っ た 人 で も 、 ﹁ な る ほ ど 、 解放同盟の言い分はこうだったのか﹂とあらためて感じ ることがあるだろう。被差別部落や部落解放運動との関 わりがことさら深い師岡さんにとって、部落の人びとが ﹁糠多村﹂という文字から受ける衝撃と怒りの強さはも はや他人事ではないと思う。それにもかかわらず、彼は ﹁穣多村﹂や﹁非人小屋﹂と明記された古地図の出版 ︵ 柏 書 房 ︶ に 熱 い エ l ル を 送 る の で あ る 。 古地図は当時のままの姿で復刻されるべきであること、 古地図が古地図として読まれる成熟した文化の回復が早 急に望まれること、師岡さんの思いはそこにある。古地 図 に 当 時 の ま ま の 姿 を 願 う の は 、 ﹁ 械 多 村 ﹂ ﹁ 非 人 小 屋 ﹂ という記述こそ、身分差別が厳然としであった時代の証 明だからである。それらが抹消されるということは、 ﹁地図のうえでは部落そのものが歴史をもたない。根無 し草と化してしまった﹂ことだという師岡さんの嘆きに 大 い に 共 感 し た 。 こぺる いままで推測するよりほかなかったことが、古文書や 11

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古地図によって明確に裏づけられるというのは、誰にと ってもわくわくするものだろう。師同さんが、幕末の若 狭出身の一庶民の自伝を、亡き妻笑子さんとまとめた際、 史料にでてくる﹁飛伝持﹂について推理するくだりはま ことに興味深い。これは﹁悲田寺﹂のあて字で、京都と 近在の非人たちを統轄していた﹁悲田院﹂のことだとい うことまでわかっても、古地図で探すことができず、ど うにも落ち着かなかったと述懐されている。 しかし、あらたに刊行された柏書房の無修正版﹃慶 長・昭和京都地図集成﹄によって、師岡さんはついに 所在地を突き止めることができた。﹁悲田院﹂は承応三 年︵一六五四︶の絵図にイラストっきで示され、元禄一 四年︵一七

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一︶に作られた地図では、﹁堂々たるかま えの集落﹂として彩色して描かれていたのである。それ を見つけたときの師岡さんの興奮が行聞から伝わってく る。京都の地理に不案内な私でも、現在の京都市立美術 館がその跡地と知って、三百年を超える暮らしの息づか い を 聞 く 思 い だ っ た 。 この絵地図の所有者である大塚隆さんは、私財をなげ うって古地図の収集に心血をそそがれたそうだが、この ように完全な形で刊行されてはじめて、彼の多年にわた る執念と努力は、歴史の真実から学ぼうとする人たちの 共 有 の 財 産 に な っ た の で あ る 。 ﹁ 積 多 村 ﹂ や ﹁ 非 人 小 屋 ﹂ が消された地図から、私たちは差別することが当たり前 だった身分社会の全体を読み取ることはできない。なに より重要なことは、その地図がその時代につくられたと いう事実である。それゆえ、師岡さんも強調されるよう に﹁古地図を出版する以上、できるかぎり忠実に復元す る こ と が 第 一 ﹂ な の で あ ろ う 。 では、古地図の無修正の展示、販売、出版などが部落 解放同盟からきびしく糾弾されたころにくらべると、時 代は成熟しているのであろうか。あのころ、歴史的な身 分を示す地名が記された古地図はすべて、﹁現在の被差 別 部 落 ︵ の 所 在 地 ︶ と 重 な り 、 部 落 に 一 対 す る 差 別 意 識 を よびさますもの﹂と見なされたのである。忠実に復元さ れ た 柏 書 房 版 は 出 版 さ れ て 一 年 一 一 一 カ 月 た つ が 、 版 元 に た

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いする異議はまだどこからも来ていないという。あれほ どきびしい糾弾をした彼らが︵いや、この言い方は正し くない。私自身、同盟員歴一九年の解放同盟員なのだか ら、﹁私たち﹂と言うべきだろう︶、いまだに行動を起こ さないのはなぜなのか、私にはたいへん気にかかるとこ ろ で あ る 。 古地図にかかわる糾弾闘争の時代にくらべると、部落 つまりどちらの側の意識も確実に変わってき の 内 と 外 、 たということなのか。そして、もはや古地図の完全復刻 版が差別を引き起こすような状況ではないという認識な のであろうか。あるいは、古地図の公開によって傷つく 部落民がいても、それは、克服されるべき個人の課題だ と見なしているのだろうか。わが組織の見解をぜひとも 聞きたいものである。いずれにしても、両側から超える 第一歩が、しっかり踏みだされたと理解していいのであ ろうか。思えば、当時の糾弾はまことにきびしく、﹁賎 称﹂の載った古地図の公聞は部落差別を助長する、とい う考え方をいささかも変えなかったのである。 もちろん、古地図によってすべての被差別部落の所在 地が確認できるわけではない。大阪の場合、解放会館と いう名称が市販される地図にのっているし、解放同盟の 支部名もオープンである。ある地名が被差別部落かどう か調べようとする人にとって、無修正の古地図がそれほ ど有効なのか、私にはわからない。また、古地図といえ ども、﹁械多村﹂などの賎称が使われると、社会意識と しての差別意識が増大するという見方にも、私は納得で きないでいる。差別意識は、偏った歴史観や通説からか き立てられるものだ。たとえ歴史的事実から差別意識を 植えつけられる人がいても、それは学び方の問題であっ て、﹁その事実﹂の責任ではない。だからこそ、後世に よる改ざんや修正のされていない歴史資料が大切なのだ ろう。﹁同和教育などと称して、なにも知らない子ども にまで、わざわざ部落問題を教える必要はない。それが、 差別意識をつくっていくのだ﹂という世間の通説に断じ て同情できないのも同じ理由からである。 しかし、当時の糾弾を正当なものとして受けとめよう とした心ある人びとを苦しめたのは、差別意識と古地図 の関係などではなかったろう。﹁古地図によって苦しめ られ、絶望している人が実際にいる﹂という事実||そ れを突きつけられたとき、彼らは修正に納得せざるをえ こぺる 13

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なかったのだろう。自分から出身を明らかにしている部 落民ならともかく、部落出身であることをいっ、誰から、 どんな形であばかれるか、心休まるときのない人たちが いるという事実、﹁穣多村﹂と記されているのを知った とき、お前はその身分の末商なのだとあらためて思い知 ら さ れ 、 やり場のない怒りに問えている人がいるという 事実、誠実であればあるほど、人はその事実がもっ重さ を、秤にかけることなどできなかったのである。 被差別部落に住んで二

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年になるが、いまだにたじろ ぎ、言葉を失ってしまう場面がある。ぞれは、部落の人 たちの心の奥にある﹁出身が明らかになることへの抵 抗﹂を思い知らされたときである。それはじつにさまざ まな表れ方をする。年配者には年配者の、若者には若者 のこだわりと抵抗があるのである。 今年の三月、解放同盟の女性活動家の仲間たちと部落 解放全国女性集会に参加したときのことだ。会場の東京 都大田区立体育館まで J R の 駅 か ら 遠 く は な か っ た が 、 雨がひどくなってきたのでタクシーに乗った。運転手さ んは乗客四人までの車に五人乗せてくれたほどだから、 融通のきく人なのだろう。﹁五人で乗ったら、パスより 安いよねえ﹂と快活に笑ったあと、﹁体育館まで、今日 は何回も送ってるけど、あそこでなにかあるの?﹂と聞 いてきたのである。私たち五人のだれも返事をしなかっ た。私にはそのときみんなが黙っていた心理を正確に分 析することができない。﹁知っているのに、わざと聞い ているのではないか﹂といぶかしく思ったのかも知れな いし、部落問題について説明するのが面倒だったのかも 日 L E ミ o b u 川 み Aユ 匂 し 私が答えを控えたのは、ほかの四人が無言だったから である。正直に答えるのがはばかられた。彼女たちは、 みんな被差別部落で生まれ育ち、支部の活動では指導的 な立場にいた。﹁宗教の関係の人?﹂というのが彼のつ ぎの質問だったが、それにはみんな即座に否定した。 ﹁じゃあ、どういう集まりなんですか?﹂と食いさがる 運転手さんに、相変わらずだれも答えない。不自然な沈 黙に耐えられなかった私はハラを決めて話しだした。

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﹁女のひとは職場や家庭で、まだまだしんどいですから ね。女性の権利について話しあうために、日本じゅうか ら集まって来たんですよ﹂﹁ああ、新聞なんかによくで てるよね、フェミニズムとか﹂と、運転手さんが話しに のってきたとたん、後部座席の仲間のひとりが、﹁そこ までやで!﹂と私を制止したのである。それは、明らか に私の話しすぎをいさめる調子だったので、運転手さん はすぐしゃべるのをやめて、さりげなくバックミラーを うかがった。私には、後部座席の客をあらためて観察し ているようにしか見えなかったのである。 四 私の仲間たちは、とめなければ部落のことまでもしゃ べりそうな私にたいして、明らかに不快な感情をもった のである。たしかに私は、とめられなければ、部落のこ とを話していた。どんな形であれ、興味をもって尋ねた 人には答えるのが、私の流儀なのである。では、なぜ彼 女たちは私にしゃべらせなかったのか、私はいまでもそ れを彼女たちに確かめることができずにいる。 短い時間で私が正しく伝えられるかどうか不安だった のかも知れないし、部落出身者ではない私が、たんに語 葉の力で、﹁自分たちにとって﹂大事な問題を話そうと することが不愉快だったのかも知れない。あるいは、一 般に部落問題にたいする社会意識が関西地方より高くな いと言われる東京で、部落民宣言をすることには抵抗が あったのかも知れない。いや、部落出身を明らかにする ことの重さをわかるはずがない私に、それをされるのが 許せなかったのかも知れない。ひょっとしたら、自分た ちの人生に重要なかかわりを持つとは思えない運転手さ んに、そこまで教える必要はないと思ったのかも知れな い。部落民宣言は、しかるべき信頼関係のなかでするべ きもの、タクシーのなかで世間話のようにするのは嫌だ という気持ちだったのかも知れない いったいどれが当たっているのか、私にはわからない。 推測の全部が違っているかも知れない。ただひとつたし かなことは、﹁そこまで聞かれたのだから、私たちの活 こベる 動について説明するいいチャンスだったのではないの か﹂という正論︵?︶は通らないということである。被 15

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差別部落に住んで理解できたことは、﹁部落出身である 多くの人が、出身を知られることにたいして、非常に複 雑な思いを持っている﹂という事実である。しかし、複 雑な思いがあるのを知ることは、かならずしもその思い に共感し、納得できるということではない。 忠実に復元された古地図の公開に、いたたまれない思 いをもっ部落民がいることはたしかであり、そんなもの を野放しにされては困ると怒る人もいる、だろう。そうい う人がいることを理解することと、だから古地図の公開 は見合わせるべきということは、別の問題なのである。 古地図によって苦しみ、絶望する部落民がいても、また は、現在の被差別部落と重ねて差別意識をかき立てられ る人聞がいても、それは古地図の責任ではない。 柏書房発行の古地図によって、不幸になる部落民はい るかも知れない。しかし、彼らが幸福になる方法をいっ しょに考え、ともに行動することは、断じて古地図の発 行に抗議することではないはずだ。 ﹁古地図を古地図として観ることのできない衰弱した 文化状況の克服﹂に望みをつなぎ、かつ努力される師岡 さんの姿勢に、被差別部落に生きるひとりの母親として 大いに励まされた。﹁痛みを癒すのに必要なのは歴史の 真実であって、改寵ではない﹂という彼の言葉に心から 納得する。部落民として生きる子どもたちに必要なこと は、まさに﹁部落のなかに人びとが生きてきた生活﹂を 正 し く 知 る こ と な の で あ る 。 私たちの子どもたちは、古地図を古地図として見るこ とによってしか自立できないのである。

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第 幻 回 ﹁ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 ︵ 叩 ・ お ︶ か ら ﹁こうりょう﹂と開いて綱領の二文字 が即座に頭に浮かぶ人は、社会運動の経 験がかなりあるとみてよろしい。何人か の身近な若い人にたずねても﹁なんなの、 それ﹂という顔つきをされました。この 言葉はもう死語になりつつあるのかもし れません。言葉が死んだからと言ってど うってことはないのですが、運動と組織 の目標がはっきりしないのは、やはり困 ります。部落解放同盟中央本部が、綱領 という大方針を変えようとするには、そ れなりの意図があるにちがいありません。 問題は、それが同盟員にどこまで受けと められているかです。 十月号の論文﹁﹃綱領改正案﹄の議論 に先立つもの﹂の筆者中村勉さんは、現 実の運動、それも支部活動の中から﹁変 わらなければ﹂﹁変えなければ﹂という 動きがあって、綱領が変えられるのなら 話はわかるけれど、今回の綱領改正は順 序が逆ではないかとおっしゃる。基層レ ベルにおける運動が直面している課題が はっきりさせられないままに、あれこれ のビジョンを描いても結局のところは、 一片の文章づくり、画餅に終わってしま うのではないかということでしょう。中 村さんには、綱領改正案について﹁まと もに議論ができるほどに、日常的な解放 運動を地域内外に向けて展開している支 部が、全国的に一体どれほどあるのか﹂ ﹁具体的かつ前向きに議論を展開するこ とのできる﹃熱と光﹄を持ち続けている 支部が、各府県において一体どれほど在 るというのか﹂との疑問がある。﹁自分 たち自らが、地域を変革していくための 活動を創造してい﹂こうとしない住民意 識の水準、実態への痛切な思いがある。 支部といっても千差万別で、毎月集ま りを開いて暮らしのこと、運動のことを 話しあうところもあれば、集会があると きだけ集まり、あとは知らん顔のところ もある。支部が支部として活動するその 根幹が萎えていては綱領論議など、どだ い無理というのはよくわかります。支部 が生き生きと活動することの方が先決で、 そのためには地域内の人間関係、自治体 職員やご近所との関係をどのように変え ていくかが肝心だ、と中村さんは考える。 ﹁差別意識による視えない壁と差別によ って閉ざされたことによる自閉の壁﹂を 突きくずすことなしに、部落解放は展望 されないとの主張には説得力があります。 中村さんの話にうなづく人、表情がやわ らいでいく人を眺めているうちに、対話 がとぎれ、関係がゆがみ、ねじれている 現実を、ふっと思い起こしてしまった次 第 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ﹁こぺる﹄合評会のお知らせ 十 二 月 一 一 一 一 一 日 ︵ 土 ︶ 午 後 二 時 よ り 話 題 提 供 者 畑 中 敏 之 住 回 一 郎 さ ん の ﹃ ﹁ 部 落 史 ﹂ の 終 わ り ﹄ への書評の感想︵仮︶ 、 、 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー

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第二会議室 m O 七 五 四 一 五 一 O 一 二 O 忘年会のお知らせ 今年度の忘年会を京都部落史研究所と の共催にて開きます。ぜひ、ご出席くだ さ い 。 十 二 月 一 一 一 一 一 日 ︵ 土 ︶ 午 後 五 時 半 よ り 於 鳳 舞 ︵ E O 七 五 | 一 一 一 一 一 一 | 五 七 七 六 ︶ 会 費 五 、 000 円 ※お申込みは、左記宛てに、十一一月十 五日までにお願いいたします。 京都部落史研究所 EO 七五ー四一五一 O 三 二 こぺる事務局︵阿昨社気付︶ mO 七五ー二五六二三六四 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所 京都市上京区寺町通今出川上jレ四丁目鶴山町14阿件杜 Tel. 075-256 1364 Fax 075-211-4870 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010ー7-6141 第33号 1995年12月25日発行

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三 三 号 一九九五年十 二 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎月 一 回 二 十五 日 発 行 ︶

遠藤育綬・康問糸子・吉田純子訳 アメリカの古典児童文 学 に は、どう し て孤児が多いのか 。 一 二 冊の代表的な 児 童 文 学 に共通する 物 語 構造 や類似性 を心理 学 的アプローチによって分析、 主人公の子ど もを思 春期のアメリカ合 衆国の歴史的心理に重ねて、社会・文 化的分脈の中で解説する 。 オズの魔法使い/ハ ッ ク ル ペ リ l フィンの冒険 少 女 レ ベ ッ カ / 小 公 子 / 類 猿 人 タ ! ザ ン 王子と乞食 / トム・ソ l ヤ l の 冒 険 若草物語 / ト ピ l ・タイラ l ハ ン ス ・プリンカ l / 秘密の花園 少 女 パ レ ア ナ A 五 判 ・ = 一 四 八 頁 ・ 定 価 三 、 九 六 O 円 ︵ 本 体 = 一 、 八 四 五 円 ︶ 京都市よ京区寺町今出 川 上 ル 4 丁目鶴山町川司町体十 L i

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一 九九 三 年五月 二 十七日第 三 種 郵便物認可 定価 三 百 円 ︵ 本 体 ニ 九 二 円 ︶

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