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ピエール・プレヴォとシスモンディ--経済思想における功利主義的要素

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(1)297. 

(2)  *1   

(3)  . . はじめに Ⅰ.シスモンディ恐慌論 Ⅱ.ピエール・プレヴォの経済思想 Ⅲ.『ビブリオテーク・ブリタニク』誌とピエール・プレヴォ おわりに. はじめに  本稿は、1 8世紀末から1 9世紀初めにかけて主としてジュネーヴで活躍したピ エール・プレヴォ(         . 

(4) 

(5) 

(6) )の社会経済思想の一端と、同時                     *1   本稿は、2 01 1年11月5日に京都大学で開催された経済学史学会第75回全国大会にお. いて報告した際の報告原稿を加筆修正したものである。当日私の報告の司会者だっ た喜多見洋氏(大阪産業大学)、予定討論者として貴重なコメントをしてくださった 安藤隆穂氏(名古屋大学)、およびさまざまな角度から有益な質問をしてくださった 有江大介氏(横浜国立大学)、深貝保則氏(横浜国立大学)、神代光. 氏(慶應義塾. 大学)に、深謝の意を表する。なお本稿は、参考文献に掲げた諸拙稿を集約して行っ たため、本稿の内容はそれらと一部重複している。.

(7) 298 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. 代にジュネーヴで刊行された雑誌『ビブリオテーク・ブリタニク』誌( ) およびその後継誌である『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』誌( ) とその編集者たちの思想の一端を明らかにし、それらをその影響を少なからず 受けたと思われるシスモンディ(     . . 

(8)  .           .       )の社会経済思想と対比することによって両者の思想上の近親性を確 . 認し、そこから両者に共通に見られる功利主義的要素を析出することが目的で ある。ここで「功利主義的」と表現したのは、本稿の課題は功利主義それ自体 を論じることが目的ではないからである(ここでいう功利主義とは、せいぜい 「最大多数の最大幸福」との表現に端的に示される思想を指している)。  私は拙稿[2 0 04,2 0 0 5,20 0 6,2 0 0 9等]で、シスモンディと彼の周囲の人々 との交流を跡づけ、彼の社会経済思想の淵源を考察した。彼自身の生い立ちか ら育まれたと思われる点はおくとして、第1に彼が青年期にその仲間に加わっ た、スタール夫人とそのサロンに集った人々、第2にジュネーヴ出身でその地 にとどまり、あるいはイギリスやフランスで活躍した知識人たち、第3にのち に彼の義兄弟となるマッキントッシュをはじめスコットランドやイングランド の同時代人たち、そして1 8世紀末以降ジュネーヴで刊行された雑誌『ビブリオ テーク・ブリタニク』 (およびその後継誌『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』) や『立法および法学年報』の編集者や寄稿者たち(ピクテ兄弟、モーリス、プ レヴォ、デュモン、ロッシ)等、シスモンディの社会経済思想に影響を与えた ものとして、これらの人々との交流が注目される。それらの諸関係のなかから、 シスモンディの思想基盤の形成や特徴がより明瞭になるだろう。それだけでは ない。そうだとすればこのことは、さらにもうひとつの興味深い論点を導く。 すなわち、シスモンディを取り巻く知性の連携は、たんに歴史的時系列的にだ けでなく、スコットランドやイングランドとヨーロッパ大陸諸国間という空間 的地理的広がりのなかで捉えられなければならないということである。  そのようなパースペクティブを念頭に置きつつも、本稿ではピエール・プレ.

(9) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 299. ヴォ(および彼がしばしば論文や翻訳を寄稿した『ビブリオテーク・ブリタニ ク』誌等)の思想基盤を瞥見したうえで、それらとシスモンディの思想的連関 を考察したい。. Ⅰ シスモンディ恐慌論  私はかつて、経済学史学会編『経済学史 課題と展望』(九州大学出版会、 199 2年)や拙著『シスモンディ経済学研究』 (三嶺書房、199 7年)で、シスモン ディの経済学をたんに「過少消費説」 ( 「過小消費説とは何かの議論はおくとし て」)と特徴づけることは誤りであることを指摘した。彼の恐慌論の論理は、生 産者(資本)間の競争(その結果としての価格競争と過剰生産)という生産・ 供給の側面と、限定された消費という需要の側面の両面から展開されているの である。(この消費はいわば個人的消費を指している。彼は、社会総体で見た 場合に社会の富は固定資本・流動資本・所得=消費ファンドの三種からなるが、 それらは一様に消費に向かっていることがきわめて重要だと注意を促している。 個人的消費が最終的には社会の消費水準を決定すると考えているのである。 )そ の際、 「限定された消費」すなわち消費拡大の限定性に関する論理内容を詳細に 追っていくと、そこには注目すべき2つの論点が含まれていることについても 論じた。そのひとつは、個人の消費はおのずから限定されていて、一定の消費 量が満足されればそれ以上の消費は要求しないという点である。これには欲求 の問題が関わっている。他のひとつは所得と消費の関係である。富者の場合は 所得は多くても消費はそれに対応して増大しない、貧者はその所得額が少なく ても消費は相対的に多い、したがって消費・需要量を増大させるためには富者 の所得よりも貧者の所得を増大させることが必要であるという主張である。こ れは所得のより平等な分配の問題に関わってくる。すなわち、シスモンディ恐 . . 慌論における一方(需要面)の基軸的論理には、 「限定された消費」と欲求の問.

(10) 300 アドミニストレーション第18巻3・4合併号 . . 題が、また社会総体としての所得と消費との関係でより平等な分配という課題 が提示されていたのである。  (なお、 「欲求の問題」の延長上に、   ステュアートや   スミスの著作を最上 の経済学書と評価してその普及に努めたヴァンデルモンドの「人為的欲求」論 と、シスモンディ経済学における見逃せないもうひとつの論点がある。ヴァン デルモンドの分業論が生産力の上昇という側面からではなくて、市民間の平等 の実現との絡みで主張されているからであり、シスモンディが論文「生産と消 費の均衡について」のなかで「奢侈品は、これを次から次へと手に入れていく につれて、その一つひとつから感じる喜びの度合いは減っていく」と主張して いる点が注目されるからである。しかしこれらの論点は本稿で取り扱う範囲を 超えるので、割愛せざるを得ない。 )  このようなシスモンディ恐慌論の、その根底にある彼の思想はいかなるもの か、その思想の継承発展関係はどのようなものか、―これがシスモンディ研究 の次の課題である。もちろん、  スミス経済学の影響は明白である。それは シスモンディ自身が『経済学新原理』 (     .

(11) .     ’         . . .

(12)  、初 版1 8 1 9年、2版1 8 2 7年)で述べているところである。これについては論点が2 点ある。第1にスミス経済学がどの程度正確に理解されあるいは取り込まれて いるか、第2に『経済学新原理』におけるスミスとの距離ないし位置関係であ る。後者は「転向問題」として指摘される。後述のように、 「転向」の背景には、 シスモンディ自身の現状理解があったことは当然としても、本稿で取り上げる ピエール・プレヴォ等からの思想的影響も大きかったのではないかと推測され るのである。. Ⅱ ピエール・プレヴォの経済思想  シスモンディよりも2 2歳も年上のピエール・プレヴォは、1751年にジュネー.

(13) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 301. ヴで生まれた。幼いことから神学を学んだと伝えられるが、若くして哲学・論 理学・法律学を修めた。また物理学・天文学にも強い関心を持ち、同僚からの 刺激もあって後にそれらの分野の著作を残すなど、幅広い学問分野で造詣が深 かった。そして彼は、オランダ・リヨン・パリ・ベルリンで教職や家庭教師、 それに教授職を経た後、 1 7 9 6年にジュネーヴで統治機関のひとつである「20 0人 委員会」のメンバーに選出された。  熱や重力といった物理学に関する多くの著作を残したピエール・プレヴォは、 けっして自然科学の分野にのみ関心を抱いていたのではない。彼は道徳哲学や 経済学に関しても少なからざる著作や翻訳を発表している。パッペは、「プレ ヴォはジュネーヴにおける最初の国民経済学の教師であった」 (   . 、   )と述べている。道徳哲学や経済学に関する著作のいくつかは『ビブリオ テーク・ブリタニク』誌に掲載されたし、また単行本として出版もされた。単 行本のひとつはデュガルト・ステュアート(     . 

(14).   )の      .  .  .

(15)  .  .   .     の翻訳(1 8 08年、ジュネーヴ)であり、 もうひとつは     マルサスの『人口論』の翻訳で1 809年に刊行されたもので ある。さらに単行本にはなっていないが、プレヴォは『ビブリオテーク・ブリ タニク』誌に論文「マルサス氏の著作『人口論』により示唆された若干の考察」 (  .

(16)

(17). . .      ’           . 

(18)             

(19)  )を発表しているし、1806年に発行された同誌の 31巻に収録されているマーセット婦人の『経済学問答』からの抜粋記事もプレ ヴォによる翻訳と思われる。  カンドルは、プレヴォは   ステュアートに、 1 7 9 2年にたった1回しか会って いないにもかかわらず、その後の活発な手紙のやりとりによって両者の間は本 物の友情で結ばれていたと指摘している(      .

(20)   .  )。実際、両者の関 係は親密であったことが、翻訳単行本にプレヴォが寄せた訳者序文からも分か る。その中でプレヴォは、この翻訳には   ステュアートは何ら手を加えてい.

(21) 302 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. ないこと、しかし「彼との文通や交友関係を持っている」ので問題はないとい う趣旨のことを述べている。その上でプレヴォは、  ステュアートがプレ ヴォにこの翻訳の出版を勧めたこと、そして「一刻も早くそれを実行したかっ た」理由として「単に私が著者や著作を評価しているからだけでなく、それが 私の講義の一部分で私に手引き書を提供したからである」(         .     . .  )と述べ、そこに付した注で1 8 0 4年にジュネーヴのパシューから 出版した自分の著書『哲学論集』を参照するよう指摘している。プレヴォは   ステュアートの理論を自分に取り込み、それを自著や講義に利用するまでに評 価していたことが分かる。  一方、1 8 0 9年に出版されたマルサス『人口論』翻訳書に付したプレヴォの訳 者序文は短いものである。ここでもプレヴォは、その翻訳を著者マルサスから 勧められたと述べている。すでに『ビブリオテーク・ブリタニク』誌に発表さ れた『人口論』の仏語抄訳を読んだマルサスが、 「私[プレヴォ]がその諸原理 をよく理解していること」が分かり、 「私が必要と判断する変更を加えることを 相応に許可することまでした」という。しかしプレヴォは「この許諾を乱用す るようなことはしない」で、マルサスが出版したままの内容を伝えるよう努め たとしつつも、補遺に関しては若干の軽微な修正を施し、また主要な主題から 逸れたりイギリスに固有の問題と思われる箇所や章に関しては削除したと述べ ている。ここまではたんなる説明にすぎないと見て良さそうであるが、われわ れにとって興味深い点は、この叙述に続くくだりであり、それはプレヴォが 「最近の事情から、私は、イギリスの救貧法に関連する議論の大部分を翻訳せ ずにはいられなかった。まず第一の理由は、やや特殊とはいえ、テーマが非常 に 興 味 深 い も の で あ っ た か ら で あ り、次 に こ の 議 論 が 議 会 の 救 貧 委 員 会 (      .  .        .   ’        )に提案され、同委員会によって賢明にも 否決された様に、軽率な模倣を警告するのに役立たせることができるからであ る。」(             

(22) .  . 

(23) )と述べている点である。この時期にすでに.

(24) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 303. プレヴォは、救貧法に関連するテーマに関心を寄せていたことが窺える。ただ し、この短い序論の叙述の限りでは、彼が貧困や救貧法に対してどのように考 えていたか、いかなる姿勢を取ろうとしていたかは明白ではない。委員会の 「否決」を「賢明」だと表現する意味、あるいは「軽率な模倣」は何を指して いるか、その「警告」は何に向けてのものか等も確認できない。そしてこの書 の本文はマルサス『人口論』の翻訳であるから、これらの疑問を解く鍵は他の 著述に求めるしかないであろう。  プレヴォは18 0 6年に発行された『ビブリオテーク・ブリタニク』誌31巻に 「マルサス氏の著作『人口論』により示唆された若干の考察」を寄せた。比較 的長編のこの論文は、この時期のプレヴォの人口や貧困に関する見解を理解す る上で不可欠である。  この論文の冒頭でプレヴォは、マルサスの考え方を要約している。  「マルサス氏の人口論の最終的な結論は、貧者の結婚は奨励されるべきで はない、ということである。その理由は、人口は生活の糧に依存するという ことである。というのは、人口はそれ自身、生活の糧よりもはるかに急速に 増加する。したがって、人口は必然的に何らかの障害によって阻止され、そ の水準にとどまる。しかし、飢饉や戦争や疫病といった破壊的な障害は、致 命的な惨禍として避けられなければならない。その諸前例が多くの分野で破 壊的な力を発揮している悪習や窮乏が、さらに一層災いをもたらしている。 したがって、貞節や社会的幸福と矛盾のない諸手段、すなわち子どもの境遇 が確実ではないような結婚を思いとどまらせること、また近代国家において そもそも人々が服するよう仕向けられる慎慮の動機を強めることによって、 人口(増加)を予防する障害を効かせることが有効であろう。窮乏や悪習は それらが最も普遍的な様相を帯びたものである。   このすべての理由は以下の2命題に帰される。   人口は食糧に依存する。.

(25) 304 アドミニストレーション第18巻3・4合併号.  したがってその過剰を予防する必要がある。 」 (       . 

(26) .     )  このようにマルサス人口論の骨子をまとめたのち、プレヴォは、この2命題 のうち第1のそれはよく知られているが、第2のそれはあまり主張されていな いどころか、 「幾人かの著者はどのような種類の障害でも人口に対立させるの は政策上の誤りであると考えているようにすら思われ」るとし、その一例とし てルソー(         . 

(27).   )を批判的に引き合いに出している。  ここでのプレヴォによるルソー批判は、「ルソーは人口を幸福の温度計にし た」との一点に集約される。プレヴォは、ルソーが『社会契約論』のなかで 「正確な尺度に欠ける道徳の量を、その特徴に合わせて、どうやって算定する のだろうか?」との疑問を投げかけたうえで、ルソーの主張を明らかに批判的 に引用している1)。これに対してプレヴォは以下のように批判している。  「これら様々な表現には、疑いもなく多くの真理があるとともに、そこでの 誤謬は混乱し絡み合っていて、見抜くのにやや骨が折れる。しかしながら結 論に注目するならば、ルソーは明らかに政府の良さの尺度を与えるものは数 であって幸福ではない(…)ということが解る。 」(         )  ここに見られるように、プレヴォは、ルソーが社会や政府の状況の善し悪し の尺度を単に人口の多さに還元していることを批判しているのであるが、そこ には二つの論点が表現されている。ひとつはもちろん人口だけが尺度ではない ということであるが、それだけではなく、さらに「幸福」が尺度だとしている 点である。人口が多ければよいということではなく、人々がどのような生活を しているか、その内容が問題だとプレヴォは考えているのである。同様の主張 は、続けてミラボー(      . .

(28). .   

(29)

(30)  .     .  )の『人間の友』を 引き合いに出してなされている。プレヴォは次のように主張する。  「ミラボーはおおよそのところ『社会契約論』の著者と同じ見解を表明して いる。彼は、最大の情熱を込めて、あえて不都合を問題にするようなことを 望まずに、人口の利点を賞揚している。.

(31) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 305.   『人間の友』(      .   )の序文のあと、彼は、人間を広い視野から みたいと願い、人間に過度に多くのことを詰め込む計画に反対する卑劣な快 楽主義者(      )しかいないと考えているように思われる。この著作の 第2章はこのフレーズで始まる。『人口がひとたび社会の第1の富として認 められると、それはどこから引き出すのかとか、その種の富を得る手段を知 ることが問題になる。 』  −この著者がそのタイトルにもとづいておおいに賢 . . . . . . . . . . . . . . . . 明に答える問題は、生活の糧の尺度は人口の尺度であることを知ることであ る。−しかしながら、それでもなお彼は富の第1に人口をおいている。もし 社会的つながりが非常に多数の人間にとって窮乏の不変の原因にはならない ことが期待されているとしても、戦い疲れてはならない誤謬。人口は疑いも なく非常に大きな富である。そして生活の糧と比較して遅くて漸進的なその 増加は止められるべきでは決してない。しかし、 (『人口論』の著者がとても しばしばたきこんでいるように)各人が生活することができ、そしてなおま ず何らかの愉楽を楽しむことができるところで発展を止める必要がある。望 ましい富として考慮されるべきものは、この愉楽であり、実生活で求められ る人々の幸福であって、不幸を運命づけられあるいは存在感を味わうことが できる前に死に至る子どもの無制限な出産ではない。」(          )  ここではプレヴォの主張は明瞭である。この点でのルソー批判と同様に、人 口こそが富であるとかその際限のない増加のみを称えることは誤りであるとミ ラボーを批判している。人々は愉楽を楽しむことができなければならない。望 ましい富は愉楽であり、実生活で求められる人々の幸福である。これがプレ ヴォの主張の第1の論点である。それだけではない。「生活の糧の尺度は人口 の尺度であることを知らなければならない」。すなわち、人口は生活の糧の量 に依存するのであって、その逆ではない。これがプレヴォの主張の第2の論点 である。そしてこの点で、プレヴォはマルサスと軌を一にするのである。  さて、 「マルサス氏の著作『人口論』により示唆された若干の考察」における.

(32) 306 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. これ以降のプレヴォの叙述(脚注を含む)は、どうすれば生活の糧の生産が増 加しうる範囲に人口の増加を抑制することができるかという課題に対する、ガ ルニエ(          )やセー(      .  

(33)  )等の議論に関する検討 に充てられている2)。しかしながらプレヴォは、いずれも簡単にしか触れてい ない。  それに対して    ステュアートに関してはやや詳細に論述されている。「おそ らく他の著述家たちは、もはやそれに力点を置かなかったし、ジェームズ・ス テュアート以上に人口論に接近して来なかっただろう」(         )と彼は考 えるからである。プレヴォがここで対象にしているのは、   ステュアート『経 済 の 原 理』 (     .   . .

(34).       .  .             .

(35)     仏 訳    .    ’    . 

(36)  )第1編の第12 章から第1 7章、すなわち人口増加(増殖・出産)およびそれと統治や階級それ に農業生産との関係と、第2 1章の「第1編の要約」である。プレヴォが    ステュ アートから引用している箇所は、まず、あらゆる階級の住民に結婚を勧めるこ とに対する批判、子供を養育することができない両親から生まれた子とその親 の悲惨な結末に対する警告である。プレヴォ自身の叙述からは、彼は    ステュ アートのこの主張に理解を示しているように読める3)。  プレヴォは、   ステュアートからの引用とそれにたいするコメントを付した 後、論文「若干の考察」では爾後、彼自身の見解を述べている。そこでプレヴォ は、人間生活における家族の重要性と芸術作品などに見られる「感性の刺激」 という「好ましくない傾向」を指摘した後、人口抑制に関する誤った見解を批 判している。  最後にプレヴォは以下の一節でこの論文を締めくくっている。 「われわれは最後に以下のように考える。すなわち、人口論の教義をもて あそばずに、その有用な適用がなされ、諸個人にそして政府にはなおさら 慎重にそれを熟慮させ、そしてこの教義が、普及され、論議され、見識と.

(37) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 307. 思いやりのある人々、悪徳や困窮の情景をひどく悲しむ、とりわけあらゆ る種類の哲学が有害な傾向をもつとは考えない人々、あらゆる種類の改善 を永久に断念する必要があるとは考えない人々、そのような人々の検討に 付されることが強く期待されるということ、である。」(         )  このようにプレヴォは、すくなくともこの時期にはマルサスの人口論を評価 していた。マルサス以前の思想家や経済学者についても、マルサスにつながる 叙述や論理を見いだそうとしている。また彼は、マルサスに「敵対」したり、 人口は食糧生産高に依存すること、食糧生産には限界があることから人口抑制 が不可避であることを認めつつも、その対応策として死にいたる病を持ち出し たりすることに反対している。彼が求める人口抑制策は、 「力強い、賢明な、徳 の高い」解決方法であって、それで人口増加を「抑制するのに十分である」と 彼は考えているのである。  なお2点付け加えておきたい。第1に、プレヴォの叙述には人々、とくに貧 者や労働者の貧困からの回避ないし脱却を目指す視点が随所に見られることで ある。マルサス人口論を称賛する背後に、プレヴォのこの立脚点・思想が垣間 見えるように思われる。第2に、プレヴォはデュガルト・ステュアートだけで なくジェームズ・ステュアートをよく読み、評価している点である。しかしな がらこの点についての検討は本稿の対象範囲を逸脱するので別稿に委ね、ここ ではその指摘だけにとどめておきたい4)。. Ⅲ 『ビブリオテーク・ブリタニク』誌とピエール・プレヴォ  『ビブリオテーク・ブリタニク』 (       .

(38) .    .  )誌は、マーク=オー ギュスト・ピクテ(     .

(39)  . 

(40)  )がアルプス地方の地質調 査からジュネーヴに戻った翌年の1 7 9 6年に、弟のシャルル・ピクテ(ド・ロシュ モン) (     .

(41) 

(42) .   .  

(43)    )と友人のフレデリック=ギヨー.

(44) 308 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. ム・モーリス(         .

(45)     .    )に呼びかけて刊行され たものである。その背景としてビッカートン(      .

(46). )は、18世紀に なって書籍の出版と取得がいわば普遍化した点を挙げている。すなわち、1 6、 17世紀揺籃期における書籍は、大聖堂に寄贈されたり特別なファンドによって 購入され鍵のかかる書棚に秘蔵されていたのに対して、18世紀になると出版事 情が変化して安価で小型で持ち運び可能な書籍の出版が、世俗的な知識を得る ためばかりでなく娯楽目的の需要によって活気づけられた。そして、教育を受 けた大衆がより広範に増大するにつれて、百科事典の出版が検討されるのも当 然といった状況になった。新しい読者層は、知識と視点、とりわけそれらを獲 得するための定期刊行物の出版を広めるキー・プレーヤーになったというので ある。その際、定期刊行物は、より安価での印刷と出版社の増加によって「改 良されたコミュニケーション」手段、すなわち図書というメディアの普及の副 産物だったとされる。というのは、定期刊行物は出版物の宣伝や抜粋や翻訳と いったいわば二次的な内容にとどまっていて、多くの出版者たちは、雑誌を作 成するにあたって百科事典のような特性を要求し、特定の分野におけるすべて の出版物を網羅することを求めたからである。 『ビブリオテーク・ブリタニク』 誌が主として諸科学の先進国であったイギリスで出版された書籍の翻訳と抜粋 を掲載したのは、このような状況の下で企画・刊行された定期刊行物としてい わば当然の編集内容であったというべきであろう。もっとも、同誌がイギリス を重視したのは、諸科学の先進国という点だけではない。ジュネーヴとイギリ スは、人々の往来も含めて文化の交流が盛んだったからである。  『ビブリオテーク・ブリタニク』誌は1 7 9 6年から1 815年まで刊行され、181 6年 以降は『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』 (       .

(47).  .  .  .

(48) . 

(49)   . .                     .    )誌に引き継がれた。18世紀中葉から19世紀前半にいたる期 間、ジュネーヴは政治・経済・社会の分野で大きな変動を繰り返した。数度の 内紛や外国からの侵略の脅威にさらされた後、 1 7 9 4年の武装蜂起では、60 0人以.

(50) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 309. 上が投獄され有力者が処刑されたという。他方、1 796年に始まるナポレオンの イタリア遠征は、ジュネーヴをも次第に危機に陥れていった。1798年4月、 ジュネーヴはフランスに占領され、併合された。ビッカートンが指摘するよう に、 「1 7 9 6年ジュネーヴにおける『ビブリオテーク・ブリタニク』誌の創刊はそ れ自体、イギリスとジュネーヴの強力な絆の象徴であり、この雑誌がフランス 統治の時期を通じて存在し続けたことは、ジュネーヴ自身とイギリスの共通の 敵によって定められた運命に屈服することをジュネーヴが拒否したということ を示してい」たのであるが、もはやその役目を果たす必要はなくなったのであ り、「フランス帝国の崩壊とともに、 『ビブリオテーク・ブリタニク』誌は『ビ ブリオテーク・ユニヴェルセル』誌に転換した。これにはまた、象徴的な意味 がある。復興期におけるジュネーヴ人のコスモポリタンな性格に、イギリス心 酔者が外国の影響に対してよりバランスのとれた全面対応、この都市が今日ま で保持し続けた対応方法を執るという変化が生じたのだろう」 (      .       .

(51)  ) 。誌名の変更は、当時の社会・政治状況の変化だけでな く、おそらくそのなかから獲得された編集者たちのこの国と同胞の目指すべき 姿を示しているとみるべきであろう。  前述のように編集者は、ピクテ兄弟とモーリスである。さらに『ビブリオ テーク・ブリタニク』誌には多くの協力者たち(             )がいた5)。  ここでとくに注目したいのは、ピエール・プレヴォである。ルイ・オディエ やシャルル=ガスパール・ド・ラ・リーヴとともに正規に報酬が支払われる協 力者になっている。しかもプレヴォは、同誌の         シリーズで、となっ ている。まだ若年のころから宗教、哲学、法学を学んだプレヴォは、青年期に 物理学等の自然科学を学び、またその分野で多くの著述を残しているが、1 8世 紀末頃からは社会科学、とくに経済学関係の著作も多くなっている。前述のよ うに、プレヴォは「ジュネーヴにおける経済学の最初の教師だった」のである が、それはジュネーヴ・アカデミーの教壇とともに、『ビブリオテーク・ブリタ.

(52) 310 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. ニク』誌を舞台になされたと言うべきであろう。もっともその後もプレヴォは、 自然科学分野の著作を発表し続けたし、後継の『ビブリオテーク・ユニヴェル セル』誌にも自然・社会科学の両分野で書き続けた。また協力者のなかで、      . も         で6編にかかわっているとされる点も注目される。  さて次に、 『ビブリオテーク・ブリタニク』誌の特徴をふたつの面から検討し たい。ひとつはこの定期刊行物がその読者や当時の社会にどのような影響を及 ぼしたかであり、他のひとつはこの定期刊行物はいかなる思想的基盤のもとに 編集されたかである。とはいえ、抜粋や翻訳が主体の本誌について、その思想 を明確にすることには困難が伴う。そこでこの点に関して本稿では、編集者が 執筆したと思われる序文や、後述のように翻訳者や抜粋者によって挿入された 注を手がかりに考察する。  確かに同誌は翻訳やその抜粋記事が多い。しかし次節で瞥見するように、翻 訳や抜粋に付した翻訳者(筆者)の注に注目されるべきものがあるし、もとよ りオリジナルの著作の選択そのものに、編集者、協力者、寄稿者たちの意図が あるはずである。それだけではなく、ビッカートンも指摘するように、同誌は 次第に「派生的な役割」を脱却して「はっきりと内容のある特徴」を発展させ たのであった。その傾向は後継誌の『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』誌で さらに強化されているように思われる。  本誌を特徴づけるもうひとつの側面は、編集や協力者たちの思想的基盤であ る。それは一言で言えば、 「効用」と「道徳」である。「効用」は「効用原理」 あるいは「功利主義」に置き換えても良いだろう。『ビブリオテーク・ブリタ ニク』誌第1巻第1号(1 7 9 6年)序文以下の叙述がある。 . .        ’   ) 、これはわれわれの不変の羅針盤であ 「効用原理( るが、この原理はそもそも、すべての科学を同一線上に置くことを許さな い。農業はわれわれの目から見ると第1線を占めている。また農業はわれ われにとって、第1の技術である。さらにそれは、とりわけ諸原理を広め.

(53) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 311. ることを思考する科学である。それは、イギリスやスコットランドのモラ リストたちの諸著作において、貴重な教訓を秘めているものである。個人 はこれらの哲学者以上に、正義の本能を発展させ開発し、人間の心の内に 秘められたあらゆる気力が目指す、幸福の熱い全面的な期待を導いている。 この著者たちの道徳は明解で純粋である。その特色は穏やかであり魅力的 であり、おそらくけっして虚偽の哲学の過ちなど無く、彼らの人間性にと りつかれた悪は、もはや逆の毒を必要としないだろう。」(       .

(54)                              .  . )  このように創刊号冒頭の序文で編集者たちは、効用原理を「不変の羅針盤」 として彼らの思想基盤を明確にしたうえで、イングランドやスコットランドの 「モラリスト」と結びつけつつ、道徳あるいは正義について語っているのであ る。しかしここで取り上げた創刊号「序文」の叙述ではきわめて抽象的なもの にとどまっており、その内容は明確ではない。それがここよりもやや明瞭にな るのは、第7巻(1 7 9 8年)の序文である。ここではあらためて同誌の分類――         と          .    ――の内容を説明している。そのなかの          について以下の叙述がある。  「科学や技術も農業も含まない内容全体を敢えて一言で示すならば、われ われは  より以上に適当な言葉を見出さなかった。われわれ はわれわれが手中にしていた(掲載)内容の取捨選択を規定してきた動機に 関して、またわれわれがこのシリーズにおいて、ほかでもないいくつかの テーマを重視した範囲に関して、われわれの読者に説明する義務がある。  1国の政治体制がどうであれ、すべての人々の歴史はわれわれに、宗教、 法、習慣がその安寧と繁栄のもっとも確実な保証であることを証明している。 われわれはそれらをまた、諸個人の幸福の主要な源泉として考えている。し たがって、われわれがもっとも頻繁に読者諸君に立ち返ってくれるよう求め なければならないのが、社会のこの大きな関心事なのである。 」(       . .

(55) 312 アドミニストレーション第18巻3・4合併号.                             .

(56). )  この一文をもってしても、必ずしもその思想は明確ではない。しかしここで は、第1に安寧と繁栄のために宗教・法・習慣がもっとも重要な要素であると している点、第2に「諸個人の幸福」という課題を持ち出している点、第3に 「諸個人の幸福」と(社会の) 「安寧と繁栄」を結びつけている点に注目してお きたい。  さらにこの序文は次のように主張している。 「精神の変化が全体として改革の方向に向けられる時代においては、市民法 は、最も永く使用してきたものでさえ、改めて検討されなければならない。 多くの著述家がそれに従事し、またそのまっ最中である。ベンサム氏は、諸 思想の賢明さ、深さそれに独創性の点で第一人者であると思われる。ロンド ンに居を定めたわれわれの同胞のひとりで、この著者[ベンサム(―引用者)] とずっと以前から親しい関係にあった人物――この著者は自分の手稿類をこ の人物に委ねたのであるが――は、その抜粋をわれわれに送りたがっていた が、彼は再度われわれにそれを約束した。このコレクションのメリットは、 職業上であろうと趣味の上であろうと、これらの重要な内容を熟考するわれ われの読者に、見落とされることはないだろう。 」(           )  ここでもベンサムの何が重要なのか、その内容は明確ではないが、すくなく ともベンサムを高く評価し、その著作の抜粋を取り上げる意思のあることが示 されている。これに続くパラグラフは、以下のとおりである。  「道徳、すなわち“自分自身と他人を幸福にする技術”は、われわれには二 つの観点の下に考察されうるように思われる。現在の世代への適用として、 また教育によって次の世代に強い影響を及ぼすことに照らして。  われわれが      、     、     . 

(57). 、     、  の著 作からとった抜粋は、生活というやっかいな道の、いかに優れた案内である かを示しているに違いなかった。.

(58) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 313.  しかし、単純な教訓(戒律)は弱々しく効くにすぎないし、まれに成人た ちに作用する。精神を鍛えることによって、いかなる情熱もかきたてないの なら、それは心を素通りするだろう。有効な効果を上げるために、モラリス トは、一方では人は教訓( ’      )から強力な影響力が生じることになら うこの傾向と、他方ではあらゆる社会的徳を創造し活性化させる、そして名 誉などもっていない、この同感を授けられる、そのような道徳本能において 作用させることを求めているに違いない。なぜなら、好意、思いやり、慈善 を語っても、それは不完全にしか示されていないからである。これら二つの 手段によって、現代の世代でさえ、多くのエゴイズムと無気力が打ち破られ、 生き生きとして生産的な道徳を回復させてみることができるからである。 (…)われわれは偉大な例を示す喜びに、有益な同感をかきたてる喜びに身 を委ね、そしてこの喜びは裏切られなかったのであった。賛意と関心という 貴重な証拠がわれわれの旅のこの部分を励ましたのであった。」(               )  まず第1に、この引用の冒頭の一句、 「道徳、すなわち“自分自身と他人を幸 福にする技術” 」にふたつの面で注目したい。ひとつは「自分自身と他人を幸福 にする」ことが重要な事柄と捉えているように思われる点である。自分自身だ けではないし、他人だけでもない。これは「多数の人々の幸福」と読めないだ ろうか。他のひとつは、これを「道徳」に置き換えている点である。言い換え れば、1 8世紀の道徳哲学と(多数の人々の) 「幸福」を結びつけているのである。 第2にこの一節で、 『ビブリオテーク・ブリタニク』誌の(おそらくこの序文を 執筆した)編集者たちが、1 8世紀イギリス(スコットランド)の道徳哲学を高 く評価していると認められる点である。ここで強調されている「教訓(とその 影響力) 」と「 (同感をもたらす)道徳本能」の重要性は、これら道徳哲学者と その著作から得られると考えられているように思われる。  道徳哲学と効用原理の結合、その視点からの啓蒙、これが『ビブリオテーク・.

(59) 314 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. ブリタニク』誌の特性であり、その背後にはフランスに対抗するジュネーヴの 知識人たちによる祖国への熱い思いがあったように思われる。  前述の『ビブリオテーク・ブリタニク』誌の特性、すなわち編集者たちの立 場は、同誌やその編集者たちへの有力な(と思われる)協力者のひとりであっ たピエール・プレヴォにも共通すると見るべきであろう。フランスからの独立 後のジュネーヴで、上述のように『ビブリオテーク・ブリタニク』誌は、1816 年から『ビブリオテーク・ユニヴェルセル』へと誌名が変更された。それにも かからず、編集者たちと協力者であるピエール・プレヴォの基本的視点・見解 は、変わっていないと思われる。 「基本的」というのは、根底に道徳と効用原理 を据えている点に変化は無いものの、社会・経済状況の変化によって論理の力 点の置き方に進展が見られるからである。状況の変化の少なくともひとつは ジュネーヴの独立であるが、他のひとつは経済状況の変化、ナポレオン戦争終 結後のいわゆる「過渡的恐慌」の経験であり、後者が前者以上に大きなインパ クトを与えている。  前述のように、1 9世紀初頭のピエール・プレヴォは、『ビブリオテーク・ブリ タニク』誌(31巻、1 8 0 6)に寄せたマルサス『人口論』に関する考察では、マ ルサスに対する批判的言辞は見られない。むしろそこではマルサスを下敷きに しつつ、それに反した見解をとる(と少なくともプレヴォが理解する)ルソー が批判されている。そのうえでプレヴォは、生産量の増加を超える人口増加を 如何に抑制するかを検討しているのである。これにたいして1816年の『ビブリ オテーク・ユニヴェルセル』誌におけるプレヴォは、生産量の増加に懐疑的で ある。このことを端的に(やや遠回しにではあるが)表しているのが、 『ビブリ オテーク・ユニヴェルセル』誌第2巻()に掲載された、彼によるマーセッ ト婦人『経済学問答』抜粋とそのなかに付された彼(プレヴォ)の注釈である。 この抜粋記事の執筆者名は記されていない。しかし注釈の末尾にピエール・プ レヴォのイニシャルが付されているところから、抜粋記事の執筆者がピエー.

(60) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 315. ル・プレヴォであることはほぼ確実である。  その注釈を見る前に、それが付された本文自体の論述展開の流れを確認して おこう。この抜粋記事の冒頭で、プレヴォであろう筆者はまず、経済学とはい かなる学問であるかに触れている。この点に関する『経済学問答』の記述にも 触れ、また    ステュアートの著作のタイトルに「経済学」(      . . . 

(61)  ) という用語が用いられていることに触れつつ、筆者プレヴォは、     セーの 「経済学は富を研究する科学である」とともに、 「経済学は、富が如何に生まれ、 広められ、消滅するか、その発展を奨励する理由、あるいは頽廃を引き込む理 由、人口への影響、高い身分の能力、人々の幸福と不幸を示す」科学であると 指摘し、また『経済学問答』のなかでは「マダム 」が「若い学生」との対話 のなかで、この定義に追従して、 「この科学はまさに、富や国家の繁栄を追求す ることを学ぶこと」であると述べている。  そのうえで筆者プレヴォは、 『経済学問答』に登場する「マダム 」はこれに 続いて「富の源泉」を追求し、 「所有愛が労働の情熱を鼓舞し、生産物を無限に 増大させる」こと、そしてこの「所有は法律によって保障されねばならず、そ うすることで安全性が維持される」とともに、 「労働が永続的な活力を獲得する ための不可欠の条件である」ことを学生に理解させていると指摘と述べている。 次に分業の原因と結果について詳しく論じられ、「機械の発明によって促進さ れた蓄積は、それ自身労働と、生産に必要な手段である資本を生み出す」こと を説明している、と筆者プレヴォは指摘する。続いて筆者プレヴォは、 「マダム 」と学生「キャロライン」の対話を引用している。その内容は概略以下のと おりである。 「マダム 」が社会の発展とともに繁栄、安全、分業の幸福な諸結 果を認め、そしてまた富者と貧者の差別が生まれた、と述べたのに対して、学 生「キャロライン」は不平等を引き起こすあらゆる悪は悲しいものだと応える。 それに対して「マダム 」は、 「私はなぜ差別が悪だといわれるのか解らない」 と反論する。すなわち、貧富の差を悪だとする学生に対して、 「マダム 」は悪.

(62) 316 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. ではないといって、これを肯定するのである。そして富者がいなければ貧者は 餓死するし、貧者がいなければ富者は働くことを強制されるから、 「富者と貧者 はおたがいに必要」だと言う。さらに機械の発明・導入に話がおよび、学生が 機械は労働者の雇用機会が失われ、人々から仕事を奪うと否定的に捉えている ことに対して、 「マダム 」は、機械の導入が労働を節約し、商品価格の低下を もたらし、その結果需要が増加し、またそれに応じて生産も増加する、そこで この分野では機械の導入以前よりもかえって雇用される労働者は増加すると指 摘する。さらに資本があるかぎり貧者は雇用を見つける。豊かな国では大企業 が生まれ、さらに道路や運河の工事、橋や建物の建築等々、 「農業や製造業や商 業における資本の通常の充当の他に、多くの人々に仕事を与えるすべての分野 で労働(需要)が生み出される」ことが付け加えられ。ここにいたって学生 「キャロライン」は、 「マダム 」の主張に同意する。  しかし興味深いのは、この対話とその結末に対して筆者プレヴォが注で疑問 を投げかけている点である。  「ここでは諸結果を評価するために、他の科学では何回も成功した方法、 極端に仮定をたてるという方法をここで適用されることはできないだろう か? もしどの分野においても労働は最後には単純化されるとすれば、どう なるのだろうか? すべてが非常に短時間で、かつ非常に容易に生産され、 需要は全体的に増加し、われわれが注釈を加えているテキストの論理に従う ならば、生産物は需要に比例するだろう。そして仕事の単純化がなければ、 より多くの労働者が活動することになるだろう。その結果、労働者の食糧、 衣服、住居が改善されることになるのだろうか? ―多分。 ―何ら疑いも なく、富者はあらゆるもので満ち溢れているだろう。この豊かさの中で、貧 者の部分が現在よりも遙かに多数存在していたということは、あまり確実で はない。それはちょうど、印刷所の印刷工や綿織物工場の労働者が、手作業 の筆耕者や手織り工よりも遙かに良く処遇されているということが証明され.

(63) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 317. ていないのと同様である。様々な形態で表現されるこの観察は、富の理論が 形成されるとしても、幸福の理論は作れないということを十分に示している。 (      ) 」 (       . 

(64) .    )  プレヴォは、たとえ労働者の雇用が増加しても、彼らの生活が向上してはい ないことから『経済学問答』の対話を批判しているのである。その視点は、重 要なことは人々の幸福が実現されているかどうかであって、単に富が増加すれ ば良いというものではない、ということである。. Ⅳ おわりに  以上、シスモンディ恐慌論を念頭に置きつつ、ピエール・プレヴォのいくつ かの著述と『ビブリオテーク・ブリタニク』誌、その後継誌である『ビブリオ テーク・ユニヴェルセル』の編集者たちの思想を瞥見した。プレヴォや『ビブ リオテーク・ブリタニク』誌編集者たちは、その基本ないし基軸において功利 主義的思想をもっていた。より具体的には、人々の幸福―“多数者の幸福”― の実現の重要性と貧富の差への疑問ないし否定である。『ビブリオテーク・ブ リタニク』誌が発行された時期にはフランスによる事実上の占領下にあって、 イングランドやとりわけスコットランドの思想に共感を抱き、それらを積極的 に取り込んだ同誌とその編集者たちは、そこに立脚点を置いた定期刊行物を発 刊することによって、祖国の人々への啓蒙とその国の発展を期待したように思 われる。同誌の協力者や寄稿者たちも、そのような立場に共鳴したに違いない。 ピエール・プレヴォやエティエンヌ・デュモンが執筆した記事が少なからず掲 載されていることが、その証左であろう。  さらにそのような思想的基盤に立つピエール・プレヴォは、1810年代中葉ま でとそれ以降の時期において、継続する視点(両時期に共通の視点)と、異質 の視点があるように思われる。すなわち、1 8 1 0年代半ばまでの時期においては、.

(65) 318 アドミニストレーション第18巻3・4合併号. マルサス『人口論』に沿って人口と食料の関係を議論していたのに対して、 1810年代中葉以降は、より“多数者の幸福”を主張するようになっている。こ の時代の経済の混乱を目の当たりにして、当然のことながらスミスやそれをそ のまま取り込むマーセット婦人などの当時の思想家たちの論調に疑問を投げか けている。そこにはピエール・プレヴォ自身の、1 9世紀初頭の見解とは違った ニュアンスの主張が見られるのであるが、それは彼の視点や立脚点が変更され たのではなく、1 8 1 0年代中葉以降の経済社会の変化への対応だったとみるべき である。それは多数の人々の幸福の実現を重視した彼の思想が一貫していたか らこそ生じた、当然の結果であった。  ところでシスモンディが「スミスの祖述」を変更する「スミスの部分的修正」 の必要を感じ、 『経済学新原理』のモチーフを形成しつつあったのは、ちょうど この時期であった。このような状況から、シスモンディの背後にピエール・プ レヴォや『ビブリオテーク・ブリタニク』誌があったのではないかと推測する ことが可能であろう。 “多数者の幸福”は、シスモンディの経済思想における基 盤的思想としての「平等な分配」に結実したと思われる。  なお、本稿では取り上げることができなかったが、1820年から22年までの3 年間、『立法および法学年報』 (        .   

(66).  

(67)      .        )がジュ ネーヴで刊行されている。これに執筆しているのは、ロッシ(       .              . ) 、デ ュ モ ン(     .  ) 、シ ス モ ン デ ィ、そ れ に ベ ロ (        . .

(68)   .  )等である。この顔ぶれからこの雑誌も功利主義思想を 前提にしているように思われるが、これに関する考察は別の機会にゆずりたい。.

(69) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 319. 注) 1)ピエール・プレヴォが引用するルソーの主張は以下の通りである。「私[ルソー]と しては、単純な徴証が低く評価されるとか不適切な間違った信念を持たれることに、 いつも驚かされている。政治的協調の目的は何だろうか? それは構成員の維持と繁 栄である。構成員が維持され繁栄するもっとも確実な徴証は何だろうか? それは彼 らの人数、人口である。したがって、そう議論される特徴を他に求めようとしてはな らない。他はすべて同じであっても、その政府のもとでは、外国人の財力がなく、帰 化がなく、植民地がなくても、市民にあふれ、さらに増加するような、そのような政 府が間違いなく最良である。その政府のもとでは国民が減少し滅亡するような、その ような政府は最悪である」 (         . 

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(77)   ) 。 2)ガルニエについては、彼の『経済学原理要論』 (        .

(78)  .  .        .   .   ’         . . .

(79)    )が採りあげられ、 「人口と文化との関係、人口と生活の糧と のあいだに生じる依存関係をまったく正確に規定した」とプレヴォは評価している。 またセーについてプレヴォは、 『経済学概論』 (      ’         . . .

(80)    )におけ る議論を紹介して、 「セー氏もまた、人口がつねに生産量に比例することを証明し、多 数の権威者によってこの意見を確認している。彼は人口原理にふれる以下の注釈をそ れに付け加えている。『生産を促進することでしか人口を増加させることはできな い』。」と述べている。 (        ) 3)プレヴォは以下のように述べている。  「彼は単なる出産と現実の増殖(        . )と区別している。 […(    ステュ アートからの引用を省略)…]  結論として    ステュアートは、統治者に、単なる出産のための結婚を禁じること によってこれらの悪を予防することを強く勧めている。そのために彼は知識人たち (    )に取り巻かれ、社会を構成する様々な階級の人口と通常の徴兵手段の状 態を正確な調査によって手に入れることを望んでいるのである。彼は彼の力が及ぶ 一般的な結果に満足していないが、彼の考えを理解させるためにそれらを使ってい る。彼は人口の非常に急速な増加を心配しているのに、他の政治家たちはそれらの 諸結果を心配することなど考えてもいないように思われる。」(         )   これに続いて    ステュアートの第1 3章からは、長い引用がなされている。しかし注 目すべきことは、プレヴォがその途中で第1 2章の最後の一文 ―「私は自由の愛好者 として、結婚への新たな制限を勧めるようなことはしない。そもそも制限は、われわ れの世紀を支配する精神にまったく反している。 」― を引用していることである。.

(81) 320 アドミニストレーション第18巻3・4合併号.   さらに、プレヴォは、   ステュアートの第14章から、多数の人々の命を奪う病気も 人口減少をもたらすことにはならないという一節と、第17章の穀物生産と人口の関係 に関する箇所を、   ステュアートによるこの章の結論とも言える最後の部分―「した がって私の意見では、人口は食糧に比例しなければならないし、それは均衡がほぼ達 成されるまではけっして止まらないのである。 」―まで含めて引用している。      ステュアートからの引用の最後にプレヴォは、第1編の要約である第2 1章の叙述 から、そのなかの第1 2章と第1 5章に関する記述の一節をとりあげている。まず第1 2章 の要約で    ステュアートの「人間は増殖をやめることはできないが、それはちょうど 木が生育をやめられないのと同じである。しかし生きることができるのは、栄養が与 えるばあいでしかない。他方で、生活の糧の増加は結局止まらざるを得ないから、そ うなるやいなや、人口増加は止まる。すなわち死亡する人々の割合が年々増大する」 との叙述にたいするプレヴォの主張、「この著者[    ステュアート]が人口を扱う編 の要約には注目すべき一節、マルサス氏が人口論と呼ぶものがもっとも明瞭に述べら れている箇所のひとつがある。 」 (        )は興味深い。  また第1 5章の要約部分でプレヴォは、   ステュアートが「次に私はこれらの一般的 原理をブリテンの諸島における人口の状態に関する個別の状況説明に適用する。そこ で私は以下のように結論づける。そこで人口の障害になっているのは、戦争や貿易に よって被った損失に依ってでもなく、食糧の輸出でもなくて、現在この国を人口増加 の道徳的不可能状態においているこの国の政治状況によってである」と主張している 箇所を引用したあと、彼は、 「マルサス氏は、   ステュアートが自分の後に執筆する人 に要望していたように思われることを成したのだと言うことができる。」(         ) と述べている。     ステュアートからの引用とそれにたいするプレヴォのコメントはここまでである。 4)スミス経済学をフランスに広めた人物のひとりとされるヴァンデルモンドの経済学 (講義)には、たぶんに    ステュアートの影響が見られる。19世紀に入った直後の時 期である。仮説として私は、フランスおよびスイス・ロマンド地方におけるスミス経 済学の受容には、ヴァンデルモンドを通じた    ステュアートの影響があるのではない かと考えているが、現時点では推測にすぎない。 5)これら協力者については、拙稿( )参照。.

(82) ピエール・プレヴォとシスモンディ(中宮) 321. (参考文献)       .

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(168) 322 アドミニストレーション第18巻3・4合併号.     .       

(169)   喜多見洋  「転換期ジュネーヴの知識人たち ―スイスの視点から見た西欧社会経済思 想史の一齣―」『大阪産業大学経済論集』第6巻第3号、200 5年。 ――,「マルサス人口論のフランス語世界への波及」永井義雄・柳田芳伸編『マルサス 人口論の国際的展開 ―1 9世紀近代国家への波及―』, 201 0年1 2月。 中宮光隆 『シスモンディ経済学研究』1 9 97年。 ――,「シスモンディとリカードウの一接点」熊本県立大学総合管理学会編『新千年紀 のパラダイム ―アドミニストレーション―』上巻、2004年。 ――,「       シモンド・ド・シスモンディ ―恐慌・困窮克服の経済学―」大田一廣 編『経済思想6 社会主義と経済学』2 0 05年。 ――,「シスモンディ経済思想とその由来 ―マッキントッシュ、コンスタン、ピクテ= ド=ロシュモンを中心に―」飯田・出雲・柳田編著『マルサスと同時代人たち』 200 6年。 ――,「シスモンディと周囲の人々との交流の一齣」 『アドミニストレーション』第1 5巻 3・4合併号。20 09年。 ――,「ピエール・プレヴォの生涯と業績」 『アドミニストレーション』第16巻3・4合 併号。201 0年。 ――,「ピエール・プレヴォにおける道徳哲学と経済学」 『アドミニストレーション』第 17巻3・4合併号。2 0 11年。 ――,「『ビブリオテーク・ブリタニク』誌とピエール・プレヴォ ―道徳哲学と効用原 理―」『アドミニストレーション』第1 8巻1・2合併号。201 1年。.

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参照

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