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真宗研究3号 012教行信証後序に就いて 座談集録

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Academic year: 2021

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真宗連合同学舎第四回大曾行事座談合 一 一 六

座 長 この度第四同大合争聞くに首りまして、座談合を催す大翠の稲葉先生に問題を指摘して頂くことに致したいと 存 じ て お り ま す 。 ことに相成り、司舎の役をしていたゾく方としては、大 原先生が預定されていたのですが、先生の御都合で、本 時 場 所 高田祇本山専修寺大講堂 昭和品川二年五月什六日午前九時半より し、

司 曾

からいろいろ問題を一ポ瑳して頂き、教義的な面は、大谷 どうか皆様くつろいで、臼由に御謹言下さいまして の役をやれとのことで、まア年をとっているので、私が それで急に私に司曾充分な討議を交換して頂きたいとぶじます。 ついては、前もって﹃後序﹄の交を拝読させて頂きま 日御猷席の由の通知を受けました。 やらされることになったわけです。 題 目 と 巾 し ま す か 、 山 崎 談 合 の テ l マ と し て は

l

数行信 詮の後序に就いて!ということが主題となっておりま す。これに就いて、持様からいろいろ御見解の護表を願 うわけでありますが、話しの糸口とでも巾しますか、 -9 縞に以れば、型道の諸教は行設久しく鹿れ、出土の買 京は詮道今感なり。然るに諸寺の樫門、教に昏くして今、 員般の門戸を知らず。洛都の儒林行に迷うて今、邪正の ういう酷から、特に歴史的な面は、龍谷大皐の宮崎先生皇後鳥羽院と脱す議等成に今上土御門院と放す議震仁の聖 そ 道 路 を 桝 ふ る こ と 無 し 。 斯 を 以 て 興 一 帽 寺 の 蹴 宇 佐 、 太 上 天

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同 円 、 求 一 月 一 j 卯 の 歳 、 仲 作 ト L 旬 乙 候 に 一 会 連 す ο 主 上 回 下 、 法 に 背 ー さ 義 に 遣 し 、 公 や 成 し 怨 宇 佐 絹 ぷ ﹀ 弦 に 困 り て 、 質 宗 卵 、 降 の 太 租 源 山 山 じ 法 師 、 井 に 門 徒 数 輩 、 罪 科 を 必 へ ず 、 狼 し く 死 罪 に 欣 ド A す コ h 地は惜の儀を改め、性名を賜うて逃流に U 躍 す 。 九 点 は 比 ハ の ‘ な り じ 踊 れ ば 己 に 併 に ル 介 、 す 俗 に 非 ず 、 円 必 の 岐 に 禿 の ・ 下 を 以 て 性 と 舟 す η 州 一 ー 川 井 に 弟 子 山 手 、 諸 方 の 没 州 に 惜 し て 、 五 年 の 目 的 諮 を 経 た り き の 阜 市 佐 渡 院 議 守 悌﹂と﹁杭什我成仰・十万衆坐・栴花名枕下雫十聾・活不 生者不取正覚・彼悌今現ム化成仰・世知本寄託願不虚・衆 生 間 情 念 必 得 仲 間 生 ﹂ 之 良 文 と を 書 か ん 廿 め た ま ふ 。 一 父 夢 の 告 に 依 り て 、 ﹁ 純 r 叫 L ﹂の字を改めて、同じき日、御筆を以 て名之字を芹かんけめだまひ唱んぬ。本附聖人、今年七旬 一 ム の 御 歳 な り 。 寸 選 附 仰 木 願 念 仰 他 府 ﹂ は鱒定博陸月輪殿粂 貫 − 法 名 回 附 一 之 救 命 に 依 り て 選 集 せ ん け む る 所 な り 。 百 円 京 の て、入洛して己後、空一は洛陽東山の西の麓、烏部野の北 成の聖代、建暦辛未の歳、子月中旬第七日、勅菟を蒙り簡要・念仰

ω

奥義、斯に凶在せり、見る者議り易しっ誠 に H 疋れ希有最勝之華文、無上院深之賀山県ほり。年を渉り の遺、大谷に居たまふ。同じき二年壬申寅月下旬第五日、 日を渉り、其の数一語ぞ蒙る之人千寓なりと雄も、親と云 午時に入滅したまふ。奇瑞稽計す可からず、別停に見えひ疎と一五ひ、此の見寓を獲る之佑甚だ以て難し。爾るに 既に製作を書寓し、員影を国主且す。是れ専念正業之徳な たり。然るに愚禿轄の驚、建仁辛の酉の暦、雑行為棄て − ﹀ 今 、 本 願 に 婦 す 。 一 五 久 乙 丑 歳 、 恩 恕 を 蒙 り て 今 、 選 岨 拝 を書く、同じき年の初夏一中旬第四日﹁選揮本願念悌集﹂ り、是れ決定往生之徴なり。伺りて悲喜之一棋を抑へて由 来之縁ぞ註す。慶しき哉、心そ弘誓之悌地に樹て、念を の内題の字井に﹁南無阿晴陪悌往生之業念悌矯本﹂と難思之法海に流す、深く如来の衿哀や一知りて、良に師数 の思厚を仰ぐ、慶喜禰至り、至孝輔室。弦に因りて員宗 ﹁ 四 伸 縮 空 ﹂ の 字 と 宅 の 真 筆 ぞ 以 て 之 吾 輩 百 か 令 め だ ま ひ き 。 同じき日。宅一之員影申し預り、闘査し奉る。同じき二年 閏七月下旬第九日、真影の銘は員筆を以て﹁南無阿調陀 真 宗 連 合 曲 学 舎 第 四 回 大 曾 行 事 座 談 曾 の詮を紗し、申土の要を操ふ。唯悌恩の深きことを念じ て、人倫の耐を恥ぢず。若し斯の書を見聞せん者は、信 一 一 七

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真宗連ム目撃曾第四回大曾行事座談曾 一 一 八 順を因と震し、疑語を縁と局し、信柴を願力に彰し、妙す。喜田先生は、 から﹁今上﹂と言われたのであろうといわれ、辻先生は 果 を 安 養 に 顕 さ ん 突 。 それでは最初に、歴史的な面から宮崎先生に問題を提 起して頂くことに致します。宮崎先生どうぞ。 ︵ 宮 崎 ︶ ﹁後序﹄には問題が多いのでありまして、大瞳御承知 のことばかりと思いますが、簡単に、問題と思われる鈷 をひろい上げて、話題の糸口と致しましょう。 御 承 知 の よ う に 、 ﹁後序﹂に就て歴史的な面から問題 がとりあげられたのは、ふるいことで大正十一、二年頃で あったか、東大の辻善之助民の﹁親驚聖人筆跡之研究﹄ が 出 て 、 それがきっかけとなって喜田貞吉氏との聞に論 手が交された ν その時の問題は八つ紅ありましたが、特 に﹁後序﹂に闘するものとしては、 五つむになるかと思 いますしまづ岐初に﹃後序﹂の女平の上から初めに問題 に な り ま し た の は 一 ー 今 上 、 士 一 御 門 ノ 院 と 競 す 一 五 云 ﹂ と あ る J ﹁今上﹂という訴の用例についてであって、士御門 ノ 院 を 一「 メ、 L というこれが問題となったのでありま これは皇代暦のような年表ぞ用いて後 これは歴史的現在の使い方であると解裡していられま す。その後この問題はそのままになっていましたが、最 近 こ の 間 題 に つ い て 、 ﹁ 今 上 ﹂ の 用 語 か ら ﹃ 数 行 信 詮 ﹄ の著述の年次を考えようとする向もあるようです。なお ﹃数行信詮﹄に就て喜田先生は、寛喜三年、聖人五十九 歳頃に著述年代をもってゆこうとされ、またそれに闘連 して年代をあげようとする人もあるようです。この年 は、思信尼文書に出てくる一二部経千部議詞の問題とも闘 係をもって来ます。次に念悌停止の問題で、 これも喜田 先生によって﹁太上天皇に奏達す今との型暦ポ一川了卯の 歳、仲存上旬之候﹂の洩交を誤読しているということが 九 一 一 日 わ れ た こ れ に 封 し て ﹁ 史 上 の 親 惜 い で 中 一 昨 日 比 切 さ ん がとりあげ存同民の池は不合即であることをのべてい られます c それから史に流非の川出も山て来る

ω

であり まして、流出の以困が何でゐるか再旧民はそれを女犯 の問題であるとし γ しとりあげていられます υ こ れ に 就 て

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は、吉水時代に妻帯されたかどうかが問題になるし、ま た乙の場合の流罪についても、辻さんは﹁遠流﹂ではな く迫放だということをのべていられまして、 こ れ に 就 て の問題も残っておるわけです。次に非僧非俗の問題であ る が 、 これは今日、川瀬民の研究費表がありますので。 最 後 に 、 ﹁然るに愚禿躍の驚、建仁辛酉の暦、雑行を棄 て﹀本願に踊す﹂とある弘願時入の時期の問題でありま す 。 一 部 の 万 は 韓 入 を ず っ と 後 に も っ て く る 。 こ れ は 部経讃語と関連して、弘願轄入の時をずっと後と考えよ うとするのであります。叉選樫集附属と真影圃査につい ては相俸の御影が一二河妙源寺にあることが紹介されてお り、乙の相停の御影については血脈文集にも引用されて い て 問 題 と な り ま し ょ う 。 以上話題を提供するというほどの意味で、問題のとこ ろ を 申 し の べ た 次 第 で あ り ま す 。 ︵ 司 会 ︶ た、三今宮崎先生から、歴史に闘する面から﹁後序﹄に 就いて丁寧に問題を提出していただきました。 そ う し た 員宗連合酎学舎第四回大曾行事座談曾 と こ ろ を 中 心 と し て 、 どうかいろいろ御謹言を願いたい も の と 存 じ ま す 。 ︵ 岩 田 ︶ た だ い ま 宮 崎 先 生 の 細 説 明 の 中 に 、 田 一 一 人 の 流 罪 は 遠 流 ではない、というお説が出ているとかありましたが、私 の愚見も同感で、還流であるとすると、 い ろ い ろ さ し つ かえが出て来るのでないかと思います。 還流であれば、遠流先きでいろいろ拘束があって自由 な行動は許されないはずであるが、聖人が越後で惑信尼 と結婚されたのは三十七、八才の頃かと E 察 せ ら れ ま す 。 結 婚 と い う よ う な こ と が 、 はたして遠流の身の人に許さ れ る も の で あ ろ う か 。 そういうことが許されるのは遠流 で な い 誼 操 で は 沿 い か 、 と考えられるのであります。頼 朝が伊豆へ流された時も伊藤祐親の女と通じて子日包もう ナ 二 、 、 戸 、 lji これが大壁な問題になっておりまして、 こ の 様 な行震は、流人を扱う責任者の側として軽々しく見のが せぬことであります。また、この還流ということがいわ れ る の は 、 ﹁源空法師或は弁に門徒数輩死罪に坐し、権 一 一 九

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真宗一連合皐曾第四同大曾行事座談曾 の義を改めて姓名を賜うて還流に魔す、余は其の一な り ﹂ と あ っ て 、 これをみれば一陸連流だと思われもする が、姓名を賜えば還俗であって俗でないということはい え な い 、 しかるに俗であればまた禿を姓としたといわれ るのはおかしい。更に、五年を経て建暦宰未の歳入洛し

考えなくてはなりませんが あまり長くなりますのでこ の 逢 で : : 。 ︵ 司 .0.. :z:. 、、~ お聞きの通り只今岩田さんから、 ﹁遠流一について濁 特のお話が出されましたが、如何でしょう宮崎先生、 そ たという記録は、これは法然上人に闘してであって、親れだとまたいろいろその前後について見方も建ってくる れてーとかすべきであります。したがって﹁或は﹂から 驚聖人が五年の居諸を経たというなれば!余もまた許さと思いますが:・ ︵日野︶ ﹁余は其の一なり﹂でなく﹁余は其の一なり﹂は﹁門徒 数輩﹂にかかるべきものと思います。 座長!これは初めから宮崎先生に御謹言してもらう いろいろの意見が ﹃愚管紗﹂に﹁法と、どうも決定版になってしまって、 出にくくなるから、まず皆んなから 然土人ナガシテ京ノ中ニアルマシニテヲハレニケリ﹂と い う こ 聞 が あ っ て 、 こ ﹀ に 一 一 百 う ﹁ ナ ガ シ テ ﹂ と ﹁ ヲ ハ レ 一ケリ﹂とは別の事であって、流された法然上人と門下 の迫放者とは匝別して考えるべきではないかと思う。親 驚盟人の場合も﹁余は其の一なり﹂とは、迫放者の一人 であった、というようにみた万が適切でないか。流罪で なく迫放であったとすれば何故越後へ行かれたのかが問 題であるが、これば袋賓との開係という黙などから別に 司 .0.. Z文

J まことに結構です。願うところですからどうぞなるべ く 御 謹 一 百 を 活 漉 に 、 ど う ぞ そ れ で は 日 野 先 生 か ら ・ ︵日野︶ イ ヤ 私 に な は が あ る と い う の じ ゃ な い の だ が : ・ ・ : 。 笑声 司 4 2 ︶

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どうぞそうおっしゃらずに ︿ 日 野 ︶ では今の問題について一寸:::。私はどうも文章通り に領解したい。何といってもそれはそう書いておいでに なるんですからね。而も﹁憎の儀を改めて姓名を賜うて 遠流に魔す﹂とあって流罪に握せられた姓名をたまわっ たといって、兎も角御本人が書いていられる。 こ れ が 伺 といってもこれが一審確買な謹操である。 それからいろ いろ傍詮があって、さまざまな解樺も出てこようが、何 といっても樹木人のおっしゃることを第一にこれから考 えるべきで、御本人が還流に慮せられたとおっしゃれば 還流、姓名を賜ったといわれりやそれが事貫、こう考え 今、日野先生は罪名をもらったように書いてあるとい う よ う に 言 わ れ ま し た が 、 そういうふうに文字に出てい ま す か り ﹁惜の儀を改めて姓名を賜うて還流に慮す﹂と あるのが罪名を賜うたことになるのですか u ︵ 日 野 ︶ これは私の歴史的無知で、惜の儀をあらためて姓名を もらったとあるその姓名が何であったか、 ここは私よく 知りません、昔からさまぎま言っているが、 これはほん とかどうか知らぬが、兎もかく何か姓名を賜ったのであ る。それからその禿の字を以て姓となすとあるこれが何 時のことであるか、ダブッていわれたのか、還流から解 放された時、その時罪名から解放されたのだから、その る か ら 、 それを解稗の仕方でどうのこうのと文句の付け なければならぬ。また﹁非情非俗﹂は御自身の自覚であ時っかわれたのかこの透のことは歴史的なことは一向 存じませんので、御子じの万からきかせていただきたい ょ う が な い 。 これは御本人様がそうおっしゃったのだ、 という意味で、私はすなおにあの支のごとくにいた Y き 度いと思うのであります。 ︿ 石 田 充 之 ︶ 真 宗 連 合 事 合 同 第 四 回 大 命 同 行 事 座 談 曾 と 思 う わ け で あ り ま す 。 ︿ 司 品耳︶ 石田先生如何でしょうか今の罪名か、情名かの問題に つ い て

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真宗連合間学曾第四回大曾行事座談曾 ︵石田︶ いや私も分りませんので ︵生桑︶ 別のことですが 司 4 E ︶ ど う ぞ ︵生桑︶ 先きほど日野先生のおっしゃったと同じことですが、 弘 願 時 入 の こ と に つ い て は 、 一 姐 仁 立 干 の 酉 の 暦 、 雑 行 を 一 葉 て 本 願 に 闘 す ﹂ と あ る 一 一 一 口 葉 を 、 この言葉のまんまにい ただきたいと考えておるわけであります。それは近頃や か ま し く い わ れ る ﹁ 一 一 一 部 経 千 部 議 諦 ﹂ で す が 、 崎 町 土 教 に 於て﹁千部議論﹂ということがいつ頃から行われたか存 じませんが、聖人に於てはそれは恐らく聖人の濁創的な 布教の方法だったのでないかと、 そういうふうに考えて お り ま す 。 一 般 民 間 に そ う い う な ら わ し 、 が あ る こ と か ら して一つの布教の方法としてそういうことを用いられた の で な い か ・ ・ ・ : − C このほかさかんに用いられております

﹁恵信尼文書﹄の言葉、あれが五正行中の助業としての 讃謂正行を否定するようなことでもあるが如く考えられ ておりますが、この問題がおこった以前に﹃数行信詮﹄ が書かれたとは考えられない その事件がありました相 賞後に書かれたものと思います。その時聖人自身に、何か 信仰上の空白時代があるかのように考へるべきでなく、 は っ き り と ﹁ 建 仁 辛 の 一 回 の 暦 雑 行 を 棄 て ﹀ 本 願 に 師 す ﹂ とおっしゃってあるところをもってみましでも、千部讃 調ということを無下に否定するというわけのものである ま い か と 思 う の で あ り ま す 。 それに就いて、松野先生が最近どこかに御護表になっ ていらっしゃったかと記憶していますので、このさいそ の御見解をうけたまわることが出来たら結梢かと存じま す 。 買 は 、 首 山 の 一 一 一 百 五 十 回 の 宗 祖 の 遠 忌 の 法 要 の 時 に 、 千部韻語ということを以てその大法要を賀行した麗史が あ り ま し て 、 尚 そ の 後 も 一 一 一 部 経 讃 詞 と い う こ と が ﹁ 高 田 の千部曾﹂といって相官有名になって、今日もなおその 一部分のかたちを残している吠態であります U で こ の さ

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い松野先生から、そのことに就いての御意見を承りたい も の と 思 う の で あ り ま す 。 度 畏 た Y 今 生 桑 先 生 か ら し て 、 ﹁建仁辛の西の暦、雑行を 棄て﹀本願に師す﹂というお言葉に移つてのお話しがあ りました。寛喜三年の聖人の御反省とここを閥係ずけて な ら ば 一番最初に﹁雫道の諸教は行謹ひさしくすたれ 部土の異宗は詮道今さかんなり﹂ とこうおっしゃった ﹁行謹﹂と﹁謹道﹂という閥係、これは末法意識という ようなものが非常に強く影響しておりますことは、宗祖 に正像末和讃の撰述があるというようなことからも或は 夢告讃というようなものからも、 いろいろなことが考え と 歴史の問題であると同時に教義の問題にもなりま こうなりますられるのでありまして、 ﹁行詮﹂と﹁誰道﹂を封照させられたということには、 考えてみたいという御意見でありました。 す の で 、 ここのところで稲葉先生から教義の問題につ いて御指示を承りたいと寄じます。 ど う ぞ 稲 葉 先 生 ・ ・ ・ ︵稲葉︶ 甚だ借越でございますけれども、御指名をいただきま したので問題のありかというものだけ号、私の気付きま した限りに於て申上げてみたいと思います。さきほど宮 崎先生からいろいろ御指示がありましたように、 そういう意味から、教義的にも 深い意味があるのではないかと思います。次には、今 問題となりました ﹁ 雑 行 を 棄 て ﹀ 本 願 に 蹄 す ﹂ 云 一 五 の 問 題 で あ り ま す 。 この問題は、教義的に申しますと、 雑行を捨ててとおっしゃるのですから 言葉の封照か ら 申 し ま す と 、 正行に錦すといわれるのが普通で言葉 ずかいの土からいうと正雑二行とこう言うのですから雑 行を捨ててといえば正行に蹄すというのが言葉の約束の ~可 後 ょうであります。ところがそれを雑行を捨てて本願に踊 序﹄は大胆盟国腔史の問題が多いのでありまして教義の問題すとおっしゃった、そこに、元祖教撃というものと宗祖 員宗連合事禽第四回大曾行事座談曾 は割に少いようであります。まア一、二ひろってみます教事との連闘というものが出てくると思うのでありま

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真宗連合間千曾第四回大曾行事座談曾 す。勿論そこでは、その本願に蹄すとこうおっしゃった ことによって、宗租の巳詮が示されているということも 言 え ま し ょ う し 、 その己詮ということが元租数撃になか ったものではないのであって、一五租数撃ではそれが肢に あ る 、 それをはっきりここで打ち出されたんだというこ とで元租教墜との連関ということが考えられる。 そ し て 今生桑先生のおっしゃったこの雑行を捨てて本願に闘す ということの、この時をいつにもってゆくかということ は 、 こ の ﹃ 化 谷 ﹄ に 出 て ま い り ま す ﹁ 一 二 願 時 入 ﹂ の 文 というものとむすびつきまして、 そして今選揮の願海に 踊すというあの﹁今﹂というものと闘連を持ちましてそ こにまア弘願輯入の時期というもの:::さきほど歴史の 面 か ら 宮 崎 先 生 が 御 指 一 ポ に な り ま し た が ・ ・ ・ ・ ・ ・ 所 謂 弘 願 轄 入の時期という問題とも関係してくると思うのでありま す。勿論この﹁後序﹂の交は宗祖御白身がおかきになっ ていることは 今け野先生がおっしゃったように間違い ないことなんでありますから、したがって﹁雑行をすて 、 子 本 願 に 踊 す L という、二十九歳弘願轄入ということは 一 一 一 四 私の私見からいって動かすことの出来ないことと思いま す 。 そ の 貼 は 性 桑 先 生 と 同 日 出 で あ り ま す が 、 ただし今の 寛 高 一 一 年 の 夢 侶 な ど に つ き ま し で は 今先生のおっしゃ ったような意味であの反省が行われているかどうか:・ 、たとえば千部讃請というようなことが、 一 つ の 布 教 の方法だというような御意見で御座いましたが、 は た し てそういうようなことが言えるかどうか、布教というよ うな意識が首時宗祖にあったかどうかということも大き な 問 題 で あ り ま し ょ う ・ ・ ・ ・ ・ ・ 0 しかし兎も角二十九歳弘願 轄入ということは動かせないと思っております。その上 で三願轄入の文というものもどう理解するかということ は、これは別の問題でありまして、 そ れ は

b

しろ三願時 入の問題につながって来るかも知れませんが、 三願時入 の文とむすびつきましてこれが教義的に非常に大きな問 題 を 持 っ て い る 。 ﹃後序﹂で一帯大きな問題はこれ以外 にはないのではないかと思います。 その外、教義の問題に関連した言葉では、たとえば﹁愚 禾 川 ﹂ の 禾 川 、 ここでは﹁禿﹂という言葉しか出て来ません

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ので問題でないかも知れないが、 ﹁ 六 要 ﹂ な ど で は 、 こ れを県議の僻としていますが、はたして匁議の言葉であ るかどうかというようなことも問題になります。それか ら最後の﹁信順を困とし、疑詩宇佐縁として、信換を願力 にあらはし、抄栄を安養にあらはさんと﹂というお言葉 なども教義的にはいくらか問題になると思いますが、 番大きな問題は、矢張り﹁雑行をすて﹀本願に闘す﹂ というあの御文の元祖教皐との連闘というもの、 そ れ か ら 一 二 願 轄 入 の 時 期 、 これは歴史にも関係して参りますけ れども、その時期の決定如何によって三願轄入というこ ととの連関から教義の問題も出てくることになりましょ λ ノ 。 願に卸す﹂という問題について懇な解明をしていただき ました。それについて先程、生桑先生からして千部謀説 の問題と聞係、すけての御立見が出まして、それは松野先 生から御意見を承りたいと言う事ですので、松野先生ど うぞ ︵ 松 野 ︶ 一寸、強い線を出したかと思いますが、あれにはこう いう私の思想が前記となっていたわけであります。買は ﹁翻経・小純集註﹂を見まして、親鷺が封機説法というこ とに、非常に心をくだいているということを感じたわけ でありまして親鷺は教の場に於ては車にガリガリ亡者の 様な信心一本ではなくして、その場その場に印した柔時 以上ただ問題を提出するという意味でそれだけのことな布教の仕万をしていたという事を観程、小経の集註を 見まして感慨深く讃んだわけなんですが、最近よくある を 申 し 上 げ ま し た 。 座 長 只今、稲葉先生よりして、後序の上で教義上に於ける 問 題 の 在 り か を 初 め と 中 程 と 最 後 と 三 償 問 所 に 亘 っ て 、 かも一番教義的には根本の問題である﹁雑行を捨て h 本 翼宗連合感曾第四回大曾行事座談曾 親鷺が臨終来迎を否定したという、したがって臨終来迎 のある様な節が親鷺の泊息に出てくるならば、そうした し ものは親驚の泊息に矛盾するから、それは親驚の消息で はないという、こう言う議論も成り立つわけなんですが、 一 一 二 九

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員宗連合皐曾第四回大曾行事座談曾 これについて私共消息を讃んでゆきますと確かに建長三 年の消息では、閥東の教圏に於ける有念無念の問題につ いて臨絡来迎をハツキり親問は否定しているわけです。 ところが後の消息を見てみると決して親鷺は臨終来迎と い う 一 事 を ム ゲ に 否 定 し て い な い わ け な ん で す 。 で 、 そ の 一つの例としまして、高田の畳信が死ぬ。それについて 奏者として親驚の膝下におりました蓮位が、勝丸信の臨終 の上について息子の慶信に上書してやる。それについて 手を組んで静かに南無阿輔陀悌・南無無碍光如来・南無 不 思 議 光 如 来 で す か 、 あの御名を唱えて静に死んだ、そ ういう芽出度い往生をしたのであるから覧信は必ず冊目土 に行くという事、そうした瑞相を現買にみた其の様なシ ルシから今の費信も必ず往生したのだという事を信念ず けているのである。叉善鷺が闘東の方へ行きますが、首 時 信 願 一 加 傘 下 の 者 に 狂 い 死 に し て 死 ん だ 、 こういう狂い 死にして死んだ者ぞ出した信願房の念悌は、まだ正しい 念仰を貫践していない川よりの誰械だとしてい伯願日を活 悪無碍として親常に報告するのである。しかし、ここか 一 一 一 六 ら考えてみますと善曹の考えは、 やはり臨終の相のヨシ アシと言う事吾、その人の住空したかどうかという事を み る 眠 一 の 尺 度 で あ る と 、 その様に考えねばならぬ。叉 その娘の覧信にしましでも、最後まで親鷲の側にカシ、ス いているわけでありますが、尤も其の聞に按いだりはし ますが、患信尼文書をよく諌んでみますと買は面白いの でありまして、恵信尼は、臨終

l

それは親驚の臨終であ りますが

l

夫親驚の臨終は如伺にわたらせたまうとも、 し か し 、 こういう下妻における観音の夢とかを見たのだ から、親驚の臨終は必ずお部土へ行っているだろうと言 っているわけです。これからみますと、恐らく質信尼は 親鷺の臨終というものは法然の様に奇瑞勝計すべからず と い っ た 、 ああいつた奇瑞がなかった事に封して非常な 不 信 を い だ い て い て 、 そうした自己の不信というものを 母恵信尼に訴えたものであろうと、こういう具合に考え る。親鷲の傍に M M ま レ た 蓮 位 に し ろ 、 市 計 総 局 に し ろ 恵 倍 厄 に し ろ 党 結 尼 に し ろ 、 臨終という問題については非市に 深 い 関 心 を も っ て い る 。 そういう風に考えますと、どう

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し で も 建 一 長 一 二 年 に 親 驚 が 臨 終 来 迎 を 強 く 否 定 し た の は 否 定する一つの桜操がゐったのでありますけれども、しか し臨終の相のけ山川泣い刊生の仕方というものは最後まで やはり純情は抗て切っていない。そういう風に芯えます と、組驚的な‘つの人生といいますか、回汚形態といい 桑先生から高田の万にで部舎があるという事のお話を承 って非常に興味深く思っているのですが、旧制鷺の忠加を 芯える場合に機械的にスパツと川り切ってはいけないと 一 一 一 一 日 う 一 事 を 私 は ソ ク ヅ ク 冷 え ま し た の で 、 あ め い う い

υ

一 諭 を 一す強い線であつにんですが 一 つ の 詩 人 川 と し て で す って、それから以後は全然かえりみないと言うのではな ますものはハツキリと物脅スパツとですね、切ってしまね、皆様の前に犯示してみたのであります。 ツイデになりますから私は後序の問 かろうと思う。必ず過去に於て自分を振り返って過去に かえって其虞から叉新しいものを産み出レてゆく、その 様なものが親鷺の一つの人生の在り方でなかったかと私 は考えているわけなんです。したがって寛喜三年とか、あ の寛喜三年は此の前に建保の夢想があるのでありますの ですが、あの事をもって唯、機械的に解するのは人聞の 異 質 の 悩 み と か 、 その様な宗教心理準的と申しますか宗 教的な本官の悩みを抽象した一つの機械論であって、も そ れ で 一 寸 ま あ 、 題について二つばかり申させていただきますが、今、宮 崎先生の解説にもありましたが、親驚が何故越後に流さ れたかと言う事について、私は先ず問題になるのは一瞳 伺放流されなければならなかったかという原因が札明さ れなければならない。その場合に親驚は法然門下の者と 一緒に流されたものの行動が一睡どういうものであるか という事が分析されなければならぬ。そこに親驚が何故 越後に流されねばならぬかの一つの理由がみつけられる のを入れて考察する必要があるのではないかと、 こ p

つ い

その様なもと思う。そこで先ず問題となるのは、あすこに流された 仲間として例えば詮空とか幸西、 こ う 言 う 人 達 が あ る 。 う少し我々は現官の悩みとか切買なるもの、 いるわけなんです。それで丁度今、生彼等は昔時の法然門下に於て一番のピ

l

クに立っていた う 考 え を も っ て 、 員 宗 連 ム 口 向 学 曾 第 四 回 大 曾 行 事 座 談 曾 七

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真宗連合皐曾第四回大曾行事座談舎 印ち教圃の軸房長造っていた人達と思う。 こういう人達と一緒に親鷺が流されたという事は、首 時親驚が法然の本宮の精神というものぞ瞳得して、 様な貫践に向っていたという事が、 その承元の法難にあ った一番大きな原因でなかったかという具合に考えてい るわけです。そこで例えば安操房なんですが、あれは女 犯とか何とか言って非常に我々はいろいろと一寸先入観 的考で悪く批判しているけれども、あの承一万の法難の七 年前位に鎌倉にハルパルと惇道しているわけなんです。 障 っ て 、 そうした惇迫の行局が就に親驚の古水時代にあ ったという事を、私は﹁一切筆生にきかしむべし﹂とい う 夢 告 讃 と 結 び つ け て 刊 行 え る の で あ り ま す が 、 そ う Jい w ワ 教入信に踏み切っていた所に必元の法難を山ぶった積判的 な一つの即山があるのでめろう、とこの椋に汚えている わけです。もう一つ数行信設の撰述の動機なんですが、 これについては先程目的先生も仰ったように、 出 品 も ヤ ハ リ血脈文集の最後にある日暦−一年それは室町時代のお警かなければならなかった大きな一つの契機であるとい で 本でありますが|建保四年に性信が数行信詮を見たとい そ の 一 一 一 八 う 記 事 が あ る 。 これについて中津見明民はあれは偶作で あるとして其の理由を三つばかりあげられであるが、 し かし其の偶作の理由は私にはどうも解しかねるので、 し たがって建保四年と建暦二年に性信が見たという数行 信詮の史買というのは私は相官に信恵性のあるものと解 している。そしてズ l ツと後序の万をよく読んでみると 数 行 信 謹 の 撰 述 は 先 ず 承 一 五 の 法 難 に 親 驚 が 流 さ れ る 、 そ うした事に封する主上臣下の激しい批判の態度、そうし た様なものが先ず越後時代に於て大きなショックを輿え る 。 そ の 一 事 の 自 に 法 然 の 一 精 一 脚 は こ う い う も の で あ る と 岡 明 に す る た め に も 、 あの越後流罪時代に大胞に兵の内面 は小規模なものであったと凪うんですけれど、兎に角そ ういった外への問題に針して始ったのではないかと汚え る 。 そ の 古 味 で 古 的 先 生 が 一 五 仁 一 五 年 に 行

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なさった、あ の外への態度という事、ああした引について私はヤハリ 化容の後序の法難というものが、どうも教付信誌に先ず う事と考えているわけなんです。 ト

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↑ 一 、 九 三 J F ’ l 一 一 て

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程蛇足ぞつけてみたのですが極めて野暮ツたい話なんで す が 。 座 長 只今松野先生から大捷結構な御研究の結果を護表して い た

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きました。さき程の生柔先生から細川日出のありま し た 問 題 、 ﹁雑行をすて﹀本願に踊す﹂というお言葉と 寛喜一二年の三部経讃請に封する御反省というような問題 ・、簡軍に割切って考えてはいけない、聖人の信仰瞳 験は、そんな簡単なものではないという御意見、それか ら遠流の原因がどこにあったかということ、また、 行信鐙﹂eq撰遇された動機にまで及んで御意見をのべて いただきました。尚いかがで御陪いましょうか新しく間 題を提起して下さるのも結構ですし、只今の諸先生の御 意見について反封の意見と申しますか襲った御意見とい うものがあれば承りたいと思います。 ︵ 佐 々 木 ︶ 私、意見ではありませんが、 さきほどから、弘願時入 の時期が問題にされているが、 その時期を問題にされる 同県宗迎合製台第四回大曾行事座談食 教 意固と申しますかその気持ちをもう少しはっきりしてい ただきたいと思うのです。弘願時入の時期が問題にされ る場合、時期というのが入信の時期ということであれば 元年というようないい万でなくて何年何月何日というぐ らいまでいわれでもよかろう。そういう意味で何かこう 轄入の時機をはっきりしなければならぬという志闘を以 っ て 、 そういうことを問題にしていられる。そういうつ かわれる用語のお心もちを、もう少し、きかせていただき た い と 思 い ま す 。 座 長 如何ですか数理闘係のお方でただ今おっしゃったこと に封して:::時期の問題がでできましたが::。 ︵ 立 花 ︶ 乙の﹃後序﹂の﹁建仁辛の酉の暦、雑行を棄て﹀本願 に揮す﹂これはこの御文通りにいただきますと、御蔵 十九歳の時、御自身が法然門下に入られた時﹁雑行を棄 て﹀本願に闘す﹂と仰せられているので、これは紹封に 一一十九歳の時に獲信されたものといただいてしかるべし 一 一 一 九

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異宗連合事曾第四回大曾行事座談曾 と 思 う 。 これ以外に御開山が何時の何日と記してはおら しっかり年強も出ておりまずから、これを内容に弾力性、展開性をもっというようなことにおきま して、信内容を固定化するのは生きた宗祖の信仰を抽象 れ ま せ ん が 、 以て獲倍の時と拝見したいと杏じます。 ︵ 佐 々 木 ︶ 一 三

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﹁雑行を棄て﹀本願に闘す﹂というこの乙とを、信 化するものだという松野先生の御見解にも同感です。そ それではこの書き方が宗祖自身の獲信の時期を一不されれから今二人の問題とされていることにつきましてはこ れはどうも時期だとか何とかいうこれは自分流に申しま たものと解されるわけですね。 ︵立花︶ そ う で す 。 ︵ 佐 々 木 ︶ 本願念併の教えに踊するという意味で、法然上人の御 門下になったという意味に解されないのですね。自分が 何時何日に信仰を得たんだというような意園をこういう 書き方であらわそうとされたんだという御意見のようで i− i e 、 月 、 V

J − 前 川 N ほ か に 御 意 見 の あ る お 方 は ・ ・ ・ ・ ・ ・ 0 ︵日野︶ 一寸、生桑先生のおっしゃった通り﹁建仁辛の西の暦 雑 行 為 ι 棄て﹀本願に踊す﹂とあるは、私も御文通りに受 けとりたいとこう思います。同時に只今問題になってい す と 、 なるほど年強は﹁建仁辛の酉の暦﹂と書いてある が、乙れは入信の時機を記録しようとて 4 青かれたのでな く、とにかく入信を書いたのである。入信の時期を書い たのじゃない、親驚望人御自身の入信の事買を書いたの だ、そういう理解の仕方でなくては本格的でない。入信 の事賓が時機そのものにふれれば時期に闘する文句が出 るだろうし、内容としての本願にふれる貼からは限りな き時期を越える問題にふれるであろうが、問題は、書こ うとすることは入信の事買であって入信の時期奇書いた の で は な い 。 こ う 汚 え る の で す 。 ︵座長︶ 如 伺 で せ う か 円 野 先 生 の 御 見 解 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。

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︵ 佐 々 木 ︶ 五十回の御遠忌に千部謂諦ということがなされたとかき いや私も日野先生の週りでそのハラですから、先き起きましたが ことは、聖人白樫の内面的信仰は大盤純粋であるが、 から時期時期といわれるについてその貼を一つよくきか し て 、 いただきたいと思ったわけです。 石 田 入信を書いたという問題から松野先生のいわれた生き高回数圏というようなものに千部讃語というようなこと が入れられている。というふうなことになっているので た信仰は簡単に割切って考えるべきでないというお読に 関 連 し て で あ り ま す が 、 一 一 一 部 経 千 部 讃 一 泊 と い う よ う な 曽 つでありました叡山的習慣というようなものを省ては白 むしろ高田にそういうこと、が停っている 般の人々の信仰を全部強制的に引入れるというところま で い か な か っ た 、 そういう面が、むしろ救園的意味で、 ないか。恵信尼文書に、問題にされたと記せられるよう に寛喜三年の反省とか建保頃の反省とかいう乙とは、矢 己の信仰吾打たててゆかれた聖人ということを考え、ま張聖人自瞳問題にされて、捨てられてゆこうとして捨−て きるという考えの方に落ちつかれたのでないか、こう考 たラジカルな法然上人のお弟子淫の一人として還流にな ったというように考えますと、三部経千部讃請を受け入 れるということはラジカルでない透、むしろ法然教圏の 全瞳としては先鋭でない側として考えられるのでありま え た い の で あ り ま す 。 座 畏 先き程松野先生からお話し下さいました問題、別の言 ってゆくのが、流罪の原因と教義の問題の闘連を考える してラジカルであるなら、乙れを否定するという方にも葉でいえば自行化他というような問題、 田先生のお言葉からいえば助正、慶立というような問題 本すじと考えられる。臨終来迎の問題にしても、それを 否定されようとする面が本すじではないか。高田に三百 員宗連合筆曾第四回大曾行事座談曾 それから今の石 にすすんでゆくのであるが、唯今の石田先生のおっしゃ る お 言 葉 に 就 て い か が で す か : : : 。

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同 県 宗 達 ム 口 事 曾 第 四 回 大 曾 行 事 座 談 曾 ︵ 松 野 ︶

少し見方を費えて御寛になると問題が割合に簡翠に解決 先きにコ一部経議一請に就いて私の考えを申したのですするのではないかと思うのであります。 長 が、あれはこういう黙も考えなくちゃいけないのではな いかと気付いたことを強く云ったのでありまして、基本 的には石田さんのように考えているのです。 ︵ 結 城 ︶ 私は、たとえば三部経護請とかいうような問題が、す ぐ員京の宗意安心からみて、 こういう外で行われている ことが内の問題とすぐ結びつくようにいわれているので す が 、 それは見雷はずれではないか。たとえば異宗で現 に行われている永代経というようなことをとりあげてみ ても、永代経をつとめたから宗意安心にもとるというわ けのものでは汚かろう。問題が非常にちがうと思う。一二 部経護請というようなことは、 その官時の宗教信仰とは 別に宗教習俗というものがあって、 それからぬけいでる ということは現在の興宗教閣でも、 なかなか出来るもの でないと思う。それをすぐひっかけていわれようとされ るのですが私どもにはどうもなっとくが出来ない。もう 座 もう少し余裕のある考え方をしなくてはならぬという 御 注 意 : : : 、 如 何 で し ょ う か : : : 。 ︵ 石 田 瑞 麿 ︶ 矢張りそういう問題にからんでいるのですが、たとえ ば 法 然 上 人 の こ と を 考 え て み ま し で も 、 上 人 が ﹃ 選 岨 悼 集 ﹄ を書かれた時、完全に念怖を選揮してすべてのものを捨 てられたとこう考えると、非常に不可解な黙がでて来る のでして、法然上人も﹁三味護得﹂ということもさかん に言っておられるし﹁持戒﹂なんかということも盛んに やっておられる。そういう爽雑的なものが入っているの が 人 聞 の は ハ 惜 的 な め り 方 で あ っ て 、 そういうふうに考え てあまりスカッと削り切ってペえない方がいいのじゃな い か と 考 え ま す 。 座 長 結城先生と同じようなお汚えでして

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︵ 石 田 充 之 ︶ 私 ば 初 切 っ て 必 り え な い 方 、 か い い と は 凪 い ま す が 、 続 鷺 聖 人 自 慨 は 、 川 刊 に そ れ

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憾の内面的古味では別切って行 きたい性格ではなかったか、救同というものを考えれば 爽雑物を巧えなくてはならず、制鷺

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人自惜としてもそ れ を

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えていられたと思いますが、間人はそれを剖切っ てゆくと中しますか、たち切ってゆくといろ方に主鮎ぞ お か れ て い た こ と は 必 り え な け れ ば な ら な い と 思 い ま す 。 ︵ 稲 葉 ︶ 私も石田先生と同じ意見ですが、 どうも剖切ってはい かんというけれど、私は親驚聖人の教墜というものは、 その方向というか性格というものが本来清潔すぎるぐら い清潔なものであると思います。清潔ということは墾や 垢がないということでなく、常にそれを掃除しゅくそこ に 清 潔 さ が あ る の で 、 それにどこまでも妥協しなかった 人が宗祖だと思うのです。 ︵ 日 野 ︶ 聖人の御心境というものは割切っておらぬ民衆の庶民 真宗連合皐曾第四回大曾行事座談曾 生活というものに封して限りなき同時と悲痛を感じてお られる。そういう意味で、私のは折衷で・::私のが本首 だと思いますが、保り抽象化して了うと人間のおり場が なくなって了う。聖人の御性俗そのものは割り切ってゆ きたい、が訓り切れない現賞、そういうところに本願と いうものが受けとられている。そういうところに親驚数 問 中 の 複 雑 性 と い う か 深 さ と い う か 晦 溢 性 と い う か : : : 妙 味、がただよっている。そこで稲長先生のおっしゃること に賛成であち石田先生のおっしゃることも賛成であり結 城先生のおっしゃることもわかる。そこで視驚聖人の聖 教や︸奔鬼していると現に現世利益和讃という和讃があっ て、その一中に﹁七難消滅ノ語文﹂とある。そういう意味 におきまして親驚聖人のつまり現買としての親驚、この 割り切りたい願いをもって割り切れぬ自分、そういうも のの中に沈迷している民衆、そういうものに封しての限 りなき同感、同時に自らと一緒に憐み悲痛している、と いうふうなところに員宗というものの具瞳的なものがあ る 。 マ ア 申 せ ば 折 衷 請 と い う わ け で : : ・ 。

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真宗連合皐曾第四回大合行事座談曾 ︵藤島︶ 私は今のことについての考え方は、 これは結局数理的 面 か ら 親 鷺 山 一 人 を 考 え る か 歴 史 的 面 か ら 怒 り え る か の 相 違 だと思うのであります。教理というものは、教圏ゐへ率い 四 私がですね親驚聖人がその厩史をぬけ切っていないと い っ た こ と は 、 何も親驚聖人の教翠が非常に不潔だとい う意味ではないので、 矢張りそれはものの考え方であ ろうと思うわけで いわれるように親鷺聖人の教阜は非 は言うまでもない。あいまいな、 はっきりしないことで る一つの教義としてあくまで巌しくあらねばならぬこと常に清潔なんです。しかしその生きていられる面という ものはその昔時の歴史の中で生きていられるんですから は教国を導く教義にならぬ。しかし親驚聖人という人は 。また親驚聖人からみれば我々のやっていることを 決してすぐお部土に行ってしまわれたというのではなくとんでもないことをやっているとお考えになるかも知れ い ま 申 親 驚 と し て 生 活 さ れ た 、 そのことの具樫的な歴史的な 人間の世の中に於て庄活しておられた、九十年の間人間ないと思う。我々も歴史の中にいるのですから、 したようにたとえば永代経というようなこともいつ頃か つの存在としてはそこにいろいろ問題があるのでありま す。したがって型人の古かれたものの中にいろいろな面 らやられたか知らないが 江戸時代から風俗習慣みたい に な っ て い る 、 しかしだからといってそこに雑行雑修を な面に於ていろいろ芯解樫が出る。そういうものを全部 それはその教理的な面に於て、或は歴史的やっているのでなく、親驚教徒としての慣値の轄換意味 の轄換のもとにやっているのですから、比叡山的な様式 が 出 て 来 る 、 ふくめた一個 r料情という人が九十年の間存布したという ことに於て政々は芯えなくてはならないと思うのだが:・ : ・ 結 局 折 裏 案 の よ う な こ と に な っ て し ま っ て : : 。 結 坊. が限りに聖人の頃の一つの神俗としであってそれぞ型人 がなされたからといって、比叡山の均ヨんがやっている と同じ精神吠態でなくして全く遣う組鷺烈人の清潔な気 持の上から、それめ償値の樽換をしておやりになってい

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る。ですからその黙は決して不潔とか何とか言うことで なしに、人間として常然の一つの枇曾常識の中に生きて お ら れ た 、 こういうことを言ったまでであります。誤解 の な い 様 に : ・ : 。 ︵座長︶ まだ御意見を出される方があるかとも思うので御座い ま す が 、 あいにく諜定の時聞がまいりました。買は今日 のこの座談曾は初めての試みでありまして、どんなふう に運ばれるであろうかと私共非常に心配しておりました の に 、 ﹃後序﹄に就いて、腫 こうして聞いてみますと 史の方面におきましでも教義の万面におきましでも皆様 が非常に堀り下げて、卒素の御研究と網瞳験というもの をおのべ下されまして、皆様どうであったか存じません が私は非常に有りがたかったのでありますが恐らく御同 感下さることと思うのであります。極めて有意義にこの 座談舎を格らしていただき、御謹言下さった方々にお瞳 を 申 し 上 げ ま す 。 なおおのべ下さる御希望の方があるに も拘らず時一聞の闘係で閉じますことにつきまして、弦に 口 県 宗 連 合 間 学 合 同 第 四 回 大 禽 行 事 座 談 曾 おわび申し上げます。甚だゆきとどかぬ略長をいたしま し て 申 わ け あ り ま せ ん 。 ︵ お こ と わ り ︶ 座談舎の始終を録するに就き、できる限りその時のありのまま の模様を侍うべく努力を致しましたが、何分公開の席上での録 音のこととて雑背も多く、また録音への設備及び技術も不充分 でめったため、相相録も完全を期しがたき仕儀になりました。及 ぶ限り御護言のままを再現してその場の雰圏一摘をも初椀たらし めたいものと努めましたが、及ばぬ貼は、御登一一一叶の意趣を汲ん で適常に記述きしていただいた次第です。御設言下さいました 方々にこの黙をおわび申すとともに、一般讃者の万々には、文 面の責は編輯者が負うものであることを巾しそえさせていただ きます Q 五

参照

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(1)  研究課題に関して、 資料を収集し、 実験、 測定、 調査、 実践を行い、 分析する能力を身につけて いる.