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「『精神界』論文」にみる清沢満之の応答性

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はじめに

  本論では清沢満之のいわゆる「『精神界』論文」、すなわち清沢が一九〇一年から死去する一九〇三年までに雑誌『精神界』に寄稿した一連の論文について論じる。『精神界』誌にそれぞれ独立した記事として書かれたテクストは、清沢の存命時より当時の清沢の思想を表すものとして一括して取り扱われてきた。そして、その思想は「精神主義」の名の下に世に喧伝された。このことは、現在に至るまでの清沢理解にも多大な影響を与えている。   これら「『精神界』論文」と呼ばれる一連の文章は、絶筆である「我信念」を筆頭に、後代の注目を集めた文章を多く含んでいる。しかし、「『精神界』論文」は様々な問題を抱えているテクスト群でもある。また、そもそも晩年の清沢の思想を「精神主義」という言葉で表すことは果たして妥当であるのか、あるいは「精神主義」という言葉はすなわち清沢の思想のみを指すと捉えて良いのかという問題にも向き合わねばならない。  本論では、まず『精神界』という雑誌のあらましと「『精神界』論文」を清沢のテクストとして取り扱う上での問題点について示す。次いで、清沢の「『精神界』論 《第一部》清沢満之研究の軌跡⑤

「『精神界』論文」にみる清沢満之の応答性

          

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文」の特徴を時代社会への応答性という点に着目して概観し、あわせて『精神界』の運営を担った暁烏敏や多田鼎ら門弟の応答性について検討する。その上で、両者の差異を「伝道」と「対話」という観点から探ってみたい。

一  清沢満之と「『精神界』論文」

  (

) 雑誌『精神界』

  『精

神界』は、一九〇一年一月から一九一九年三月まで発行された月刊の仏教雑誌である。巻頭言として〈精神界〉欄があり、概ね二千字から四千字の巻頭論文が一本と、数百字の数本の文章で構成されている。〈精神界〉欄は全て無記名である。その他に〈論説〉、〈講話〉(浩々洞の日曜

講話等の筆記)、〈解釈〉(仏典解釈の論文)、〈感興〉(詩歌)、〈雑纂〉(エッセイなど)、〈社会〉(新刊紹介・時事の短評な

ど)、〈報道〉(浩々洞および各地の動静や告知、読者からの手紙

など)、〈小観〉(その他の短文)などの欄がある。

  一九〇〇年十月、京都の真宗大学を卒業した暁烏敏・多田鼎・佐々木月樵の三人が清沢を頼りに上京し、清沢との 同居を始めた。この共同生活の場は「浩々洞」と名づけられ、浩々洞はこの後安藤州一や近藤純悟らを加え、清沢の没後も東京内で場所を移転しながらひとつの共同体を築いていった。清沢は一九〇二年十一月に東京を離れて大浜

(現、愛知県碧南市)の西方寺に帰住するが、『精神界』は継続して刊行された。一九〇三年六月六日、清沢は大浜にて四十年の生涯を閉じた。絶筆となった「我信念」は『精神界』第三巻六号に掲載された。

  既に知られているように、『精神界』は清沢がある種の看板的な役割を果たした雑誌ではあるが、清沢自身が主導して創られたものではない。暁烏が京都の真宗大学に在籍していたとき、関根仁応に「清沢先生が東京にをられるから、私達が今度卒業したら、お側に行つて先生を中心としてあまり術語を用ひないで一般人に仏教の真意を伝へるやうな雑誌を拵へてみたい」と相談したところ、賛同を得て本山の援助も取り付けた。そして同級の多田と佐々木を誘い、清沢に申し出たところ承諾を得られたので、清沢を後見人とし、庶務及び署名人を暁烏、編集を多田、会計を佐々木が務める形で創刊されたのである。形としては清沢 ()1

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を中心としているが、実際には清沢は『精神界』の編集にはほとんど関与していない。

  岩波書店版『清沢満之全集』第六巻の「雑誌『精神界』所収論文」に収録されている文章は四十三本である。このうち、清沢の存命中である創刊号から第三巻六号までの間に掲載されたものが四十二本、死後に発表されたものが一本である。これらをすべて「『精神界』論文」として一律に扱うことは、一見ごく自然のように見えるし、実際これまでの清沢の思想が「精神主義」として論じられる際には、多くはそのように扱われてきた。しかし、ここで一つの大きな問題が生じる。それが、次に挙げる「成文」の問題である。

  (

)「成文」問題

  『精

神界』に掲載された清沢の文章には、清沢自身が筆を執ったものと、清沢の講話を暁烏や多田ら門弟が「成文」して原稿化したもの、また清沢の原稿に大幅な編集と加筆を施されたと考えられるものが存在する。次に挙げる 文章は、『精神界』創刊号に掲載された清沢の講話「信ずるは力なり」にまつわる暁烏の述懐である。「信ずるは力なり」は、清沢の講話を多田が「成文」したものである。

第一号に先生の講話を出さねばならぬ。ところが先生は書いてる暇が無い。諸君どうか宜しく頼みますと言つて、京都に行かれた。それで、多田君が、前に先生のされた講話を骨子として、「信ずるは力なり」といふ一文を書いた。ところがその中に書いてある小説『小公子』にあるフロントルロイの話などは、先生は読んだ事はない。この時も先生が京都にをられたので、先生が京都から帰つて来て、あんな小説がありますかと聞き、ちと読んでおかねばなりませぬと言うてそれを読まれたことがあつた。先生は大抵は全然の任し切りで何事にも干渉せられない。

  「成

文」とは話をただ文字起こしするだけでなく、かなりの部分を、それも話者が知らない小説を引き合いに出すほどの肉付けを施した原稿化であったことが窺える。その ()3

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ように元の話や原稿に大幅な編集を施すことについて、暁烏はどのように考えていたのか。暁烏の弟子であった毎田周一が語った次のエピソードはきわめて示唆に富むものである。

  私は先師(筆者註・暁烏)の個人雑誌「広大会」を編集してゐたが、師は私にいはれた。わしの文章を思ふ存分直していゝ。わしは清沢先生の「精神界」に寄せられる文章を勝手に直したものだ。あんたも遠慮なしにさうしてくれないと困る、と。

  かういつてをられるところへ、もと石川県立図書館長をしてをられ、そのときは東大図書館の方に勤めてをられた中田邦造氏が訪ねて来られた。氏はいはれた。私は今河北郡の宇ノ気村にある西田記念館を訪ねて来ました。そこには西田博士の論文集その他の原稿が陳列されてゐまして、それを手にとつて見ることが出来、本当にありがたいことでしたと。これを聞かれて先師は仰言つた。ほう、そんなものがありがたかつたのか。わしら清沢先生の原稿など鼻かんで捨てたもんぢやと。 先師は自分の著書を自らの排泄物としか思つてをられなかつたのだから、それも無理はないと私は思つた。

  毎田に言わせれば、暁烏にとって著作は発信者の「排泄物」のようなものでしかなく、そのために紙に書かれた原稿の扱い方に頓着していなかった。そうであるから、『精神界』に掲載する清沢の原稿を「勝手に直した」し、手書きの原稿も「鼻かんで捨てた」という。もちろんこれは言葉の綾であると考えられるが、実際に清沢の自筆原稿は残存しているものがきわめて少なく、『精神界』所収の文章では「絶対他力の大道」「他力の救済」「我信念」のみである。そのため、確かに清沢が執筆した文章であるのか、あるいは門弟の成文や編集によって文章のどの部分がどの程度改変されたかを『精神界』誌上から厳密に判別することは難しいのが現状である。

  (

)「『精神界』論文」の範疇

  それでは『精神界』所収の文章のうち、門弟による改変 ()5

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の度合いが低い文章を見分ける方法はあるのか。先述のとおり、手稿という「物的証拠」が残っていない以上、完全な抽出は困難である。しかし、文体や思想内容からある程度の傾向を掴むことは可能である。山本伸裕は、同時代の『精神界』以外の媒体に掲載された清沢の文章と比較して、清沢自身の手による可能性の高い文章には次の特徴があると分析している。

  ①一人称に「吾人」を使う。清沢は『精神界』以前より、「私共」「我等」「我々」などは原則として用いない。

  ②文体が常体で統一されている。常体文に敬体表現を織り交ぜて語り口調にするような書き方をしない。

  ③経典を引用したり、高僧や物語や歴史上の人物を引き合いに出さない。自分の言葉に消化してから語る。

  ④強請的な表現をしない。他者に向かってこのようにせよ、と強く呼びかけるような姿勢を取らない。

  ⑤恩寵主義的な表現をしない。物事の成否も苦楽も全ては如来の思し召しであるというような恩寵主義は取らない。

  以上の分析に基づいて『精神界』所収の文章を分類すると、〈精神界〉欄に掲載された論文は清沢自身の手による 可能性が高く、一方で〈講話〉欄などに掲載されたものは、「清沢満之」の記名がついていても暁烏や多田らによって「成文」されたか、あるいは編集で改変された可能性の高いものが多いことが指摘される。  したがって、清沢の思想を論ずる上で「『精神界』論文」を取り上げる際には、手稿の残っていない文章に関しては『精神界』でも〈精神界〉欄に掲載された論文を第一に扱い、それ以外の文章は門弟らの思想が織り込まれている可能性をはらんでいることを前提として触れる必要がある。もちろん〈講話〉欄などの文章でも、「倫理以上の安慰」(第二巻九号掲載)のように清沢の校閲を経て彼の意図が十分に反映されていると思われる文章もある。しかし、そのような執筆や編集の状況が窺える資料のない場合には、その文中の主張や表現をもって清沢の思想と見做すことについては、きわめて慎重な検討を要するのである。ゆえに、本論文においても清沢の思想を検討するにあたっては、〈精神界〉欄所収の論文を中心に考察の対象とする。 ()6

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二  清沢による応答   (

)「完全なる立脚地」

  はじめに、清沢の精神主義の基本姿勢を改めて確認しておきたい。『精神界』創刊号の「精神主義」は、次の書き出しで始まる。

  吾人の世に在るや、必ず一の完全なる立脚地なかるべからず。若し之なくして、世に処し、事を為さむとするは、恰も浮雲の上に立ちて技芸を演ぜむとするものゝ如く、其転覆を免るゝ能はざること言を待たざるなり。然らば、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや、蓋し絶対無限者によるの外ある能はざるべし。

  我々が世に生きるにあたっては、必ず完全なる立脚地がなければならず、それは「絶対無限者」に外ならない。人間や社会の生み出す万物はすべて衆生の産物である以上 「相対有限」であり、最終的な立脚地とはなりえない。注意すべきは、ここで清沢は「相対有限」の諸価値そのものを否定しているのではない点である。「絶対無限者」に足場を置いて生きることで、はじめて「相対有限」も意義を持って現れてくるということである。「絶対無限者」とは、具体的には如来が想定されている。しかし、清沢は「『精神界』論文」において、例えば「阿弥陀仏」など直接的な仏教用語を用いることにきわめて消極的であった。これは暁烏の「術語を用いず」に仏教の真意を伝えたいという願いに応じたとも考えられる。そして、このような立脚地を得るような「精神の発達する条路」を「精神主義」と呼ぶのである。  自らの主観を根拠とし、相対有限の物事に立脚地を置かないという基本姿勢は、社会的な価値の相対化に繋がる。「競争と精神主義」(第一巻七号掲載)では、「精神主義は自家の内部に円満を期するものなり。外他を望観して煩悶苦悩することを為さゞるものなり。是れ競争心の根拠に背馳するものなり」として、精神主義は世間の競争心と両立しないと述べる。競争とは自己の外部に価値を置いてそれ ()8

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に勝ろうとする心であるから、競争心に駆られれば駆られるだけ精神主義から離れ、精神主義に進めば進むだけ競争心を脱却するのだと論じている。

  「精

神主義と物質的文明」(第一巻五号掲載)では、精神主義は「客観的事業の進歩、特に物質的文明の進歩に対しては、敢て妨害せんとするものにあらざると同時に、敢て貢献せんとするものにあらざるなり」と論じる。立身出世が貴ばれ、豪 ごうしゃで「文明的」な生活を美徳とする風潮は、与 くみすることのできない者の心に否定的な感情を生み出す。これに対して、そういった「客観的事象」に価値観の基準を置いて心を振り回され、煩悶することはないのだと説く。また、「物質的文明が進歩すれば、其進歩したる所に、活動の地歩を占め、物質的文明が退歩すれば其退歩したる所に、活動の地歩を占むることを得るなり。」と、決して懐古的ないし反文明的な立場でもないことも述べている。

  (

)洞外への応答

  清沢らの言説は『精神界』というメディアに発表された ことで、その都度議論が起こった。そして、その疑問に答えるかたちで新たに論文が発表されるという展開が為された。この応答性こそが、「『精神界』論文」のもつ大きな特徴である。  一つの例としては、唯心論をめぐる議論が挙げられる。精神主義はすべての煩悶苦悩を「全く各人自己の妄念より生ずる幻影」だと信ずるものである。精神主義においては苦悩の原因は、自らが原因だと考える物事それ自体ではなく、それを前にした自分の「妄念より生ずる幻影」である。これに対して、精神主義は唯心論ではないかという批判が起こった。加藤玄智は、『精神界』創刊の翌々月の『新仏教』誌で、精神主義は「その発足点に於て唯心論的傾向を有す」とした上で、それが仏教が内包している「印度の迷妄的唯心論」であり、仏教から排除すべき要素であると批判している。自らの主観によって世界はいかようにも映ることは確かに「心理学上の事実」ではあるが、それによって現に存在する客観的な世界を全て主観の中に没入してしまうのは、事実に即さない「根本的誤謬」であるという指摘である。 ()11

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  これに対して、清沢は「精神主義と唯心論」(第一巻十号

掲載)において、精神主義は「実際門内の主義」であって、「理論上の系統」ではないと答えている。

之を要するに、吾人の所謂精神主義は、実際門内の主義にして、理論上の系統にはあらざるなり。而して心機の開展を説き、満足と自由を唱ふるが為に、或は唯心一元論の絶対的自由の万有開展と混ずるが如きことなきにあらざるが如しと雖ども、精神主義は、万有の成立の説明に対して其唯心論たると唯物論たると物心二元論等たるとに関せず主客両観相対立せる実際上に於て、心機の開展を唱導すること(第一)。其相対立せる主客両観上に就ても、善悪正邪有害無害等の相対的性質は、之を客観的実在の上に存ずるものと見ずして、全く主観的精神の開展如何によるものなりと定むること(第二)。及び、此主観的精神其物の成立に対しても、決して此が哲学的説明を要求せず、只実際的発動の上に於て、満足と自由を享有し得べきことを宣揚すること(第三)。によりて、充分に唯心論や其他 哲学的諸論と甄別し得べきなり。

  精神主義は世界の有り様を哲学的に説明するものではなく、あくまで実際に世に生きるにあたっての「満足と自由を享有し得べきこと」を主張するものであると述べている。

  (

)言葉の再定義

  清沢には、既にある言葉を自分なりに再定義して使う傾向があった。例えば教育に関して清沢は「開発」という言葉をしばしば用いているが、これは当時日本に紹介されていたペスタロッチの教育理論の用語である「開発」とは意味が異なり、新たに独自の意味が与えられている。「『精神界』論文」での応答においても、他者から投げかけられた言葉が清沢によって再定義されて用いられることがあった。

  当時、精神主義を評する言葉として「アキラメ主義」という表現があった。一九〇二年一月発行の『新仏教』の記事「明治卅四年仏教小史」では、前年の唯心論をめぐる応答を踏まえて、精神主義を「哲学上の唯心主義の謂にはあ ()15

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らずして、処世の実際上に対する一つのアキラメ主義なり」と説明している。また、境野黄洋は「沈鬱は「引込み思案」にして、此の安心の上に成立せる宗教は「アキラメ主義」となる。人生活動の本旨を失ふ。」として、精神主義を「羸 るいじゃく思想」であると批判した。曽我量深は、初めて精神主義に触れたときにその内容に疑問を投げかけているが、そこでも「アキラメ主義」の語が使われている。曽我は一九〇二年一月の『無尽灯』誌に寄稿した「精神主義」で、「吾人が精神主義に対して特に尊敬の念を捧げたるは、其消極主義なるの点にありき、則ち其アキラメ主義の点にありき」としながらも、「精神主義は寧ろ未来の希望に対して何等をも教へざるなり」と論ずる。精神主義は「過去の行為によりて得たる道徳的苦悶を癒するの主義」である。確かに我々の最大の苦痛は肉体上の苦痛ではなく精神上の苦痛であり、それも「倫理的苦悶」である。しかし、自らの罪悪性による苦悶を主観によって癒やす「アキラメ主義」は、過去のことに対しては有効ではあるが、将来に向けては何の価値も方針も与えるものではないと述べている。   この批判の言葉であった「アキラメ主義」を、清沢は自ら用いつつ応答する。「精神主義と三世」(第二巻二号掲

載)では、「精神主義は過去の事に対するアキラメ主義なり。精神主義は現在の事に対する安住主義なり。精神主義は未来の事に対する奮励主義なり」と述べられる。精神主義は過去のことにおいては「アキラメ主義」ではある。しかし過去に傾注するのは精神主義の本旨ではなく、むしろ苦悶から自由になることで「現在の安住」を主要とするものである。そして、未来に向けて物事をなすにあたっても、現在の安住があるからこそ十分に力を発揮することができる。このようにして、精神主義は「アキラメ主義」であるという批判に、精神主義は過去においては「アキラメ主義」であるが現在においては「安住主義」であり、未来においては「奮励主義」であると、言葉の再定義をしつつ応答しているのである。

  (

)洞内への応答

  「『精神界』論文」の応答性は、浩々洞の外からの反応に 16()

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限るものではない。浩々洞に集った青年たちの声に応えるという性質も帯びていた。社会の価値観が急激に変動し、また国家がある種の上昇志向を強力に推し進めた明治期において、その流れに乗ることができずに煩悶する青年たちが後を絶たなかった。そして、その問題に仏教はいかに向き合うべきかという課題が生じていた。安藤州一はそのような時代に現れた『精神界』を「闇夜の炬光」と表現している。

  当時の青年は、死後よりも現実の問題に苦しんだ。そして宗教に対する合理的説明を要求した。しかしこれに満足の説明を与へてくれる人が無い。(中略)そして自己内心の苦悶は猛火の如く燃え上がる、そこに生活の脅威がおしよせる、功名利達の欲心が台頭する、立ても居ても居られぬ、かゝる懐疑時代、煩悶時代、宗教の威力失墜時代に、闇夜の炬光として現はれたのが『精神界』であつた。

  なかでも、前節で曽我も述べているように、倫理と宗教 の問題は彼らの一大テーマであった。そのような中で著されたのが「倫理以上の安慰」(第二巻九号掲載)である。

  平重盛は、(中略)宗教の眼から見れば、まだ〳〵至極した人とは言はれぬ。なぜならは、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれは忠ならず、重盛の進退維に谷まる」と歎息して、自ら死を祈るなどは、倫理上から見れば、一寸賢者の様に見えるが、あんな事位に進退谷まりて、手も足も動かぬ様になりて、終に死地に陥ると言ふは、いかにも気の毒な事である。要するに、重盛は倫理上に立脚地を持て居たから、あんな苦悶に陥りたのである。そこで吾々は倫理以上に大安心の立脚地を持ちて、如何なる場合にも平気に活きて居る様にならねばならぬ。現在安住の妙境に至らねばならぬ。

  忠と孝との狭間に苦しむ平重盛の物語は当時美談として扱われ、重盛は理想的な人格を具えた人物とされた。しかし、清沢は忠孝の倫理自体を否定するのではなく、そこに ()19

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最終的な立脚地を置いてしまったがために煩悶したのであって、その煩悶は特に賞賛すべきことではないとしている。

  この「倫理以上の安慰」に対しても、加藤弘之が清沢にさらなる説明を求める手紙を送るなど一定の反響がみられ、これが「倫理以上の根拠」(第三巻一号掲載)へと繋がっていく。倫理は人間が人間同士の関係において定めたもので、相対有限である。重盛のように、忠と孝とが矛盾する事態が発生すること自体がその証左であって、もし絶対無限であればそのような矛盾自体が生じるはずがないからであるとする。

  倫理と云ふものは、其根拠が人と人との関係であるから、到底其のみにては、相対有限の範囲を脱することが出来ない。種々の理義を比較して、其大小軽重を考へ、其最大最重なるものは、何であると云ふ迄進みても、尚是れ相対有限的のものである。忠孝は最も大切なる理義であると迄は云へやうが、尚忠孝が絶対無限のものであるとは云へぬ。畢竟するに、絶対無限と云ふことは、倫理上に立つものではなくして、倫理の 実行が、絶対無限即ち倫理以上の根拠の上に立たねばならぬのである。

  忠孝は最も大切とされる倫理であるかも知れないが、それでもなお忠孝は絶対無限ではない。相対有限である以上、最終的にはどこかで必ず破綻する。倫理を否定するのではなく、むしろ倫理を実行するためにも倫理自体に最終的な根拠を置くべきではなく、倫理以上の絶対無限に根拠を置かなければならないというのである。

  (

)教学への応答

  清沢はこのようにして宗教と倫理について論じたのであるが、ここで真俗二諦論との関係が課題となる。当時、浄土真宗は真諦と俗諦が互いに依りあうとする二諦相依(二

諦相資)を公式の教義として掲げていた。一八七六年に東西本願寺・専修寺・錦織寺共同で定められた「宗規綱領」を見ると、真宗の「立宗分派ノ原由」は、親鸞が「浄土門中ノ正義地ニ墜ツルを慨シ」、「経論諸書ノ要文ヲ類聚シ、

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玄ヲ探リ幽ヲ闡キ、以テ真俗二諦ノ宗義ヲ大成」したことに求められている。また、学制について定めた文言には次のように書かれている。

  本宗所依ノ仏経伝灯諸祖ノ著述之ヲ研究スルヲ専門ノ正科トシ、汎ク釈迦立教ノ大旨ヲ弁ヘ、旁ラ仏門諸宗ノ所立ニ通スルヲ専門ノ兼科トス。而テ本宗ノ教タル、啻ニ来世解脱ノ真門ヲ論示スルノミニ非ス。今日百般ノ俗事ニ就テ人民当行ノ義務ヲ知ラシム。是ヲ真俗二諦相資ノ教義トス。故ニ世間普通ノ学術ヲモ亦之ヲ兼学セシム。

  ここで言う「真諦」とは「来世解脱ノ真門ヲ論示スル」こと、すなわち死後の往生であり、「俗諦」とは「今日百般ノ俗事ニ就テ人民当行ノ義務」を尽すこと、すなわち世間一般における社会的義務を尽くして道徳的に生きることである。これを「真俗二諦相資ノ教義」であるとした。そのため、清沢の倫理を相対化する言説について、俗諦を軽んじているのではないか、真諦のみを論じて俗諦を斥ける のは「偏頗の失あるのみならず、真宗の国家社会に対する効益を失はしむる」ものではないかという非難が起こった。  これについて、最晩年の清沢が俗諦について論じたのが「宗教的道徳(俗諦)と普通道徳との交渉」(第三巻五号掲

載)である。清沢は、ここで「真宗の俗諦の教は真諦の信心の外に、別に積極的に人道の規定を与ふるものではない」と、俗諦を真宗の教えから離れた社会道徳の遵守とする理解自体を否認するのである。それでは真宗の俗諦は何のためにあるかと言えば、「其実行の出来難いことを感知せしむるのが目的である」としている。

何でも構はぬ、善と云はるゝものを行はんとして見るがよい。或は悪と云はるゝものを作さざらんとして見るがよい。決して其充分なる実行が出来るものではないことを開悟するに至ることである。此開悟が即ち俗諦の教の要点であるのである。此要点が達せられ、此開悟が得らるゝのは是れやがて真諦の信心の喜ばるゝのである。故に俗諦の教はつまり真諦の信心を裏面より感知せしむるより外はないのである。即ち真諦の積 ()21

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極的に対して俗諦は消極的に趣味を有することである。

  道徳を実行していくと、どこかでそれが満足に実行できないことを痛感せざるを得なくなる。そのような相対有限たる自らの存在の自覚に至らしめることで、真諦の信心に眼が向けられる。これが俗諦の目的である。だから、俗諦は社会道徳を守らせるものだとか、ましてや国家社会を益するものだとかいう考え方は「大なる見当違ひである」と喝破する。もちろん道徳を実行すれば確かに有益なこともあるかも知れないが、その効果はむしろ付随的なもので、俗諦は何よりもそれが実行できなくなった所において本来的に作用する教えである。「宗教的部分が本趣意であるのに其附属たる道徳的部分が珍重せらるゝのであるから変な訳合である」というのである。

  この時代の真俗二諦論は蓮如の王法為本の考え方が反映されたものであり、周知のとおり親鸞自身は二諦相依についてほとんど触れていない。わずかに『教行信証』化身土巻に『末法灯明記』の引文が見られる程度である。そのためか、明治になって国家の体制が変わり、宗教と道徳の関 係が問題となった際に、これを真宗の立場からどのように理論的に説明するかをめぐって様々な説が生まれた。清沢の俗諦論は、真宗教学に対する一つの応答であったと位置づけることができるのである。

三  門弟による応答   (

)読者との問答

  『精

神界』には読者から数多くの手紙が寄せられており、またその内容も信仰に関する相談が多かったようである。第三巻九号では「信仰上の質問書」が届いていることについて、差出人の実名を記載するように求めている。また、第五巻四号には暁烏が多忙で手紙や質問書の返事が滞っていることを読者に詫びる文章が掲載されている。

  これら読者からの問いに対して応答しようとする意識が、『精神界』を編集していた門弟たちの間にも起こっていた。創刊当初は浩々洞での講話の文章化が中心であった〈講話〉欄であるが、清沢の死去と前後して、読者の手紙に答える内容の文章がたびたび登場するようになる。主な回答 ()26

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者は暁烏、多田、佐々木、安藤であった。文章の体裁は様々であるが、記事の冒頭が「拝復」で始まり、本文は手紙文の形式で末尾に質問者の氏名を載せるという、いわば「公開返信」とも呼べるような記事も多くみられる。

  この頃、暁烏も多田も各地へ法話や講演に出かけており、多くの門徒や聴衆に接することで、人々の声に応えなければならないというある種の伝道的使命感を持っていた。『精神界』においてもその使命感が発揮され、手紙を送ってきた読者からの質問に答えることが、門弟たちにとっての『精神界』におけるひとつの応答であった。しかし、寄せられた問いに何らかの回答を与えようとしたためか、誌上の問答においては断定的な表現に終始することも多く、例えば、母一人残して出征しなければならず悩んでいるという質問に対して「信念が足りないのではないか」と質問者を断じてしまうような記述も見られた。

  (

)「我信念」が担ったもの   『精神界』第三巻六号は、次の文から始まる。

  清沢満之先生、病床、自から筆を執て、『我信念』の一篇を草し、その後、数日を出でざるに病俄に革まり、本月六日、午前一時、溘然、三河国大浜町西方寺に於て、浄土に還り給ひぬ。然らば、『我信念』の一篇は、こはこれ、先生の絶筆、先生が我等の為めに、世に残したる最後の講話なり。ゆへに、之を本誌の巻頭にかゝぐることゝなしぬ。(編者識)

  このようにして、清沢の訃報とともに絶筆として掲載された「我信念」の読者に与えたインパクトの強さは想像に難くない。清沢は、「我信念」の原稿に添えて暁烏に宛てた最後の手紙で「宗教的道徳(俗諦)と普通道徳との交渉」が「俗諦義」について述べたのに対して、「我信念」は「真諦義」を述べたものであると書いた。そして、暁烏らはこれを清沢が最期に行き着いた思想の極致と位置づけて宣布に努めた。現在も清沢の思想の精髄を「我信念」に求める言説は数知れないが、「我信念」は、初めからそのような役割を与えられて世に公表されたのである。

  「我信念」は、

「私の信念とは如何なるものであるか。私 ()32

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の信する如来とは如何なるものであるか」についての清沢の独白である。「我信念」において、私の信念とは「如来を信ずること」であり、その如来とは「私の信ずる所の本体」であって「信ぜざるを得ざる所の如来」であるという。如来は第一に「私に対する無限の慈悲」であり、第二に「私に対する無限の智慧」であり、第三に「私に対する無限の能力」である。私の信念とは、この「無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在を信ずる」ことである。無限の慈悲であるがゆえに、信念によって煩悶と苦悩が拭い去られて「来世を待たず、現世に於て」大いなる幸福が与えられる。次に無限の智慧であるがゆえに、「今は真理の標準や善悪の基準が、人智で定まる筈がないと決着」しているという。さらに無限の能力であるがゆえに、信念によって大いなる能力が与えられる。思慮や分別を深めることによって、行為の基準や義務が相矛盾しながらも際限なく増えていく。これらの義務を全て尽くそうと思えば、「ついに「不可能」の嘆に帰するより外なきこと」になる。しかし、信念によって安楽と平穏を得て生きていくことができる。そして、最後に「私は此如来の威神力に寄托して大 安楽と大平穏とを得ることである。私は私の死生の大事を此如来に寄托して、少しも不安や不平を感することがない。『死生命あり、富貴天にあり』と云ふことがある。私の信する如来は、此天と命との根本本体である。」という言葉で締めくくられている。  「我

信念」そのものの内容の詳細については既に研究の蓄積があり、紙幅の都合もあるため割愛する。本論では、『精神界』において「我信念」がどのような文脈で紹介され、喧伝されたかを検討したい。

  (

)物語としての「我信念」

  「我

信念」は、清沢の手稿が残された数少ない文章である。手稿は「我は此の如く如来を信ず(我信念)」という題であるが、『精神界』掲載時に句読点・カタカナ表記の修正以外に複数箇所の語句の書き換えが行われている。現在、「清沢の絶筆である「我信念」」として扱われている文章の多くは『精神界』掲載の文章であり、編集が施されたものである。この書き換えが生み出した問題は既に指摘さ ()35

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れているが、一箇所について改めて押さえておきたい。

  私も以前には有限である不完全であると云ひながら、其有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や、無限なる実在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことである。私も以前には、真理の標準や善悪の標準が分らなくては、天地も崩れ、社会も治まらぬ様に思ふたることであるが、今は真理の標準や善悪の基準が、人智で定まる筈がないと決着して居りまする。

  傍線部の「私も以前には」の部分は、手稿では「人智は」となっており、『精神界』掲載時に書き換えられている。その意図は明らかではないが、この「私も以前には」という部分が、その後の「我信念」理解に決定的な影響を及ぼしているのである。

  後年の暁烏は「我信念」を「無意識的に先生が自分の一生の事を、信仰の上にしめ上げて、総和を示されたもの」と位置づけており、「先生の事を聞きたいと言ふ人々の集らるゝ時はいつでもこの書を講ずることにして」いるとま で言っている。その暁烏は、「我信念」について次のように語る。

  「私

も以前には有限である不完全であると云い乍ら其有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や、無限なる実在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことであつた」。私も以前信仰に入る前は、自分は有限だと知り不完全だと知り乍ら、何時の間にやらその限ある不完全な人智を以て、動かざる無限の実在を研究せんとする迷妄を脱却する事が出来なかつた(中略)と先生が申さるゝのである。(中略)昔釈尊が六年間の学問研究と、六年間の修行とは何等の力を与へないと捨てしまふて、静かに菩提樹下にして、成道せられたやうに、我先生は、自己の総ての研究を撤して、惜む所なく、後に之を迷妄と申さるゝことは、改革者の声である。科学万能の世界にあつて、之を迷妄と断定し、而も自分自らその迷妄に止まつて居たことを懺悔せらるゝのは実に、先生の偉大にして、勇猛なる処である。 ()36

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  「私

も以前には」の語を活かして、それまで学問を追究して理屈一辺倒であったために煩悶苦悩が絶えなかった清沢が、人生の最後にそれらを全て捨て去り、信念によって迷妄を拭い去り安楽の境地に入ることができた、というストーリーが暁烏の講演では出来上がっているのである。暁烏の言うとおりに、清沢が本当に最後に学理を捨てたのかについては疑問が残る。「我信念」に添えて清沢から暁烏へ出した最後の手紙の文中には、佐々木月樵の持つ東方聖書の「英訳大無量寿経」の借用を頼む記述がある。もし清沢が「我信念」の執筆時点で学問的関心を打ち捨てていたならば、この期に及んで「英訳大無量寿経」を所望した理由を別に考えなければならないのである。

  (

)「『我信念』の権化」としての清沢

  清沢没後の暁烏は、「我信念」を清沢の思想の到達点として扱うにとどまらず、さらに清沢とはすなわち「我信念」であるという理解に至る。中村不折が描き、浩々洞や真宗大学に掲げられた清沢の肖像画は、一九〇三年春に撮 影された写真が元となっている。暁烏は「先生の肖像」

(第八巻十号掲載)で、この写真と一九〇二年に浩々洞で撮影された清沢の写真とを比べて、後者の方が「最もよく円熟されたる先生の正確があらわれておるように見える」と述べている。一九〇三年の写真は「なかゝゝ立派なものであるけれども、この写真には先生の自力根性があらはれておる、またいや味もあらはれておる」。という。これに対して、一九〇二年の写真は「丸きり他力的の、総てを如来に任されたる、無念無想の先生、如来の光明海中にたゞよへる先生、『我信念』の権化として先生が、最もよくあらはれて居る」と言うのである。ここで清沢を「『我信念』の権化」と表現している点に、暁烏の清沢像が端的に表れている。

  このような清沢像の描き方は、同時期の暁烏の親鸞像にも通ずる。暁烏は『歎異抄講話』の「緒言」で『歎異抄』の作者について、この議論は「歴史家の研究の材料」とはなろうが自分にとっては関係のない話であり、「たといいかなる悪魔外道の作であろうが、かまわない」としている。何故ならば、この『歎異抄』の著者こそが自分を救ってく ()41

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れた人だからであるという。そして、次のように続ける。

  『歎

異抄』に書いてあることが、たとい歴史上の親鸞聖人の意見でないにしたところが、そんなことはどうでもよい。もし歴史上の親鸞聖人が、『歎異抄』のような意見を持たなかった人であるとすれば、私はそんな親鸞聖人には御縁がないのである、なんらの関係もないのである。そうすれば私の崇拝する親鸞聖人はぜひ、この『歎異抄』のとおりの意見を有したる人でなければならぬ。私の渇仰する親鸞聖人はこの『歎異抄』の人格化したる人でなければならぬ。

  歴史的事実がどうであれ、自分は『歎異抄』によってたすかった。故に自分にとっての親鸞は「『歎異抄』の人格化したる人」である。これと同じように、自分が出遇った清沢とは、それが思想的ないし歴史的に妥当であるか否かに関わらず「『我信念』の権化」であるというのが暁烏の理解であった。

  『精

神界』第三巻六号の「東京だより」では、掲載され た「我信念」の「再読、三読」が呼びかけられている。清沢没後、浩々洞を中心に全国で祥月命日に営まれた臘扇忌では一様に「我信念」が朗読された。一九〇六年の浩々洞での臘扇忌の報告記事では「私共はこの忌に会して万感絹ずる能はず、泣いて「我が信念」を味ひたる事に候」と記されている。清沢没後の暁烏にとっては、この「『我信念』の権化」たる清沢の姿を世に伝えることこそが、時代社会に対する応答だったのである。

四  伝道と対話

  (

)「合著」としての精神主義   『精

神界』論文」創刊号において清沢は「精神主義」という言葉を用い、同誌で発表された思想も「精神主義」と呼ばれた。しかし、「精神主義」という言葉は暁烏らも用いている。そもそも「精神主義」の語は清沢自身が考えたものではなく、清沢が『精神界』の創刊号に原稿を執筆するにあたって門弟から提示された言葉である。そして、『精神界』所収の文章には「清沢の思想」と「暁烏ら門弟 ()43

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の思想」と「記名は清沢だが門弟の思想の可能性があるもの」が混在しており、判別が難しい。この状況は、ある程度企図的に生み出されたものと考えられる。というのも、暁烏らは清沢の思想を自分たちの思想を含めたある種の「共有物」として捉えていた形跡がみられるのである。

  一九〇二年に浩々洞より発行された『精神主義』という書籍がある。奥付の「著作兼発行者」には暁烏の名が記されているが、表紙には清沢・多田・佐々木・暁烏の「合著」として四人の名がある。内容はこの四人が『精神界』に執筆した文章を収録したものであるが、注目すべきは各々の文章には記名がなく、誰がどの文章を書いたかが少なくとも本書の上では判別不可能になっている点である。冒頭の「例言」には次のように記されている。

一。本書に筆を執りしは、清沢満之、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏の四人とす。而して其の一々の他の三人の同意せしところのものなるが故に、本書はこれ清沢の著と云ふも可なり、多田の著と云ふも可なり、佐々木の著と云ふも可なり、暁烏の著と云ふも可なり、又 四人の合著と云ふも可なり。

  つまり、実際に書いたのが誰であるかを問わず、本書の文章は四人の共作であると捉えて構わないと謳っているのである。『精神主義』は、精神主義の概論的な文章を収めた「内篇」と各論の「外篇」に章が分かれている。「内篇」には清沢の「精神主義」「精神主義と物質的文明」「競争と精神主義(本書では「精神主義と競争」)」「精神主義と唯心論」「精神主義と他力」「精神主義と三世」が、そして最後に暁烏が執筆した「精神主義と性情」(第一巻十二号掲

載)が収録されている。奥付が示すとおり、本書の編集も「例言」の執筆も暁烏であろう。当時の暁烏は、あくまで清沢の精神主義を自身の述べる「精神主義と性情」流に解釈することが正当な理解であると考えていた。暁烏にとっては、「精神主義」の語は当初から複数の人間の共用が前提されていたのである。

  暁烏は、清沢の「倫理以上の安慰」への反応に応える文章として、翌第二巻十号に「如来の大命」(第二巻十号掲

載)という一文を執筆した。このことについて、十一号の ()47

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「東京だより」欄では次のように説明されている。

九月の本誌に掲げ候講話「倫理以上の安慰」につきて、其後諸方の道友より、種々質問も有之、又一層詳に説明致すべきやう申越され候方も少からぬにつき、前号には其説明の一端として、「如来の大命」の一篇を掲げ候。猶今後も追々説明を進め申すべく候。但し初号以来今日迄、毎号陳述し来りし所皆同一の見地を開説したるものに過ぎず候得者、不審ならむ方々は其等を充分御熟読下さるべく候。

  『精

神界』に掲載されている記事は創刊以来すべて「同一の見地」を示したものであるという見解を示している。また、「如来の大命」を収録した暁烏の単著『求道録』では次のように述べられる。

本書は著者の信仰の方面を記した書ではない。故に本書に道といふは信の大道其儘にあらずして、この信の大道が、世の総ての事情に現はるゝ跡を求めたつもり である。故に本書をよんで信の道にあこがるゝ人は、『精神主義』、『続精神主義』、『精神講話』、『仏教講話』、『救済観』、『修道講話』、『死の問題』等の書物を繙きて頂きたいと思ふ。

  自らが述べるところは自身の「信仰の方面」ではなく、「信の大道」が世に現れた形跡を示したものであるという。そうであるから、自著の『死の問題』だけでなく合著の『精神主義』、清沢の『精神講話』、佐々木の『救済観』、多田の『修道講話』など浩々洞の門人たちの本をあわせて読むことを薦めている。

  このように、この時期の暁烏は自らの思想や信仰の内容を、清沢や浩々洞門人らの思想や信仰と「精神主義」の名の下に積極的に同一化させようとしていたことが窺える。そして、存命中の清沢も「精神主義」の語をそのように扱うことを特に妨げなかったのである。

  とはいえ、同じ「精神主義」の言葉を掲げながらも、実態としては清沢の思想と門弟各人の思想は一人ごとにそれぞれ異なるものであった。暁烏は「精神主義と性情」に代 ()48

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表されるように清沢と異なる倫理否定的な主張を繰り返したし、多田は清沢が極力避けていた小説や文学からの引用を多用した。また、暁烏も多田も当時の国家の施策に距離を取ろうとする清沢に比べて、体制に賛同する傾向が強かった。特に暁烏は国家に対する意識が強く、一例を挙げれば足尾鉱山鉱毒事件の被害者が救済に立ち上がることを批判するようなこともあった。しかし、これらは全て「精神主義」として一括して世に送り出されていたのである。

  (

)「一伝道者」という意識

  ここで、暁烏と並んで浩々洞の中心人物であった多田にも触れておきたい。多田は、浩々洞の中でも特に伝道意欲の旺盛な人物であり、一九〇三年には千葉へ開教に赴いている。多田は「私は如何しても宗門といふ思を打捨てゝしまふことができませぬ。何処々々までも、同志相助けて、他力本願の御旨を中心とせる正法の王国を栄えさせたいといふ願いが已みませぬ」と言う。自らを「一伝道者」と任じており、『精神界』の編集に携わったのもそのためであ ったという。清沢は「化他の道に急いではならぬ」と自分を誡めたが、それを守ることはできず、「幼少の時から深く根ざして来た伝道的精神は少しも止まりませぬ」と表明しているのである。  多田は一九一四年に信仰に「動転」をきたして浩々洞を離れ、精神主義に反対する立場に転ずる。後に多田は一九二三年から死去までの十五年にわたって個人雑誌『みどりご』を発行するが、同誌には「扉を開いて」という読者からの質疑応答欄が設けられた。また多田は清沢没後の『精神界』で「仏の人」という題名で篤信者の逸話を紹介する記事を何度か執筆しているが、『みどりご』にはこれと同様の趣旨の欄も設けられている。掲げる思想の方向は変わりつつも、方法論としては『精神界』で多田が行なっていた伝道の形式がそのまま持ち越された。  しかし、その強い伝道意欲が教えの場で上下関係を生み出す可能性については、多田はさほど問題であると捉えていなかった。晩年の安田理深が、自身の経験と曽我量深、野々村直太郎、多田の息子の多田謹爾からそれぞれ聞いた話を総合して多田の印象を語っている。曰く、多田は非常 ()50

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に真面目で謹厳な人物であり、彼を知る者で悪く言う人はいないほどであった。しかし謹厳であるが故に「大義親を滅する」とでも言うべき気質があり、自らを慕っていた金子大栄が異安心に問われたときも先頭に立って指弾した。また本願寺派で異安心に処されていた野々村に対しては、初めから議論を構える姿勢を見せずに「仏に背いた人間に対するような態度」で接した。その意味で「対話の出来ん人」であり、「上と下との関係しか認めない」、「教えを受ける者と教える者と、そういう型を破らん人」であったと評している。これは、あくまで伝聞を交えた安田個人の感想に過ぎない。しかし、これは多田自身も自認していたような、ひたむきに「一伝道者」たらんとする自意識を隠さない人物像ともある程度符合する。そして、「動転」後の多田は自らの主観に基づく精神主義を仏法の自己流の解釈であるとして否定し、真宗の教えはあくまで教学の伝統を堅守した上で、それが正しく門徒に伝えられるべきと考えていたのである。

  (

)無一物の態度

  清沢が「『精神界』論文」で示した応答性と、暁烏や多田ら門弟が『精神界』において示した応答性との違いは何処にあるか。これは、一つには清沢の応答に際しての姿勢にその手掛かりがあると考えられる。次に挙げるのは、安藤の清沢に関する述懐である。

当時の浩々洞は、『精神界』が霊活の信仰の淵源として光彩を放つた為めに、誰でも浩々洞に行けば、煩悩が洗除せられることゝ思うて居た。しかしその実状を言へば、苦悶を訴へる人よりも、それに解決を与へる先生の方が、なかく大なる苦悶を持て居られた。(中

略)先生が一日申されるには、「私ぢやとて煩悶は沢山ある、唯打払ふ迄の事である。若し責任といふことを言ふなら、私は百遍切腹しても申訳は立たぬ」。(中

略)真に煩悶に徹した人が、始めて悩む人の友と為り得るのである。 ()52

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  もちろん暁烏や多田が各々の実存において苦しまなかったというわけではない。重要なのは、清沢が門弟や相談者たちと同じく煩悶を抱えた者として、対等の関係で接しようとしたという点である。

  清沢は「ソクラテスに就きて」で、ソクラテスの教育の特徴を「問答の手段に依れること」、「自家無一物の態度を取れること」、「問題を日常卑近の事物に寓せること」にあるとし、これを「開発的教育の妙施設」であると評価する。教育は対話と議論を方法とすべきで、教える側と教わる側の間に上下関係のない、双方が共に何も持たない「無一物の態度」で臨むべきであるとしている。また、清沢が教育について論じた「愛知教育会総集会ニ於ケル文学士清沢満之君演説」では、万物は因縁によって成り立っているのであるから、人間のはたらきの根本は互いに「相感ずる」ことであり、したがって教師と生徒との間も「相感ずる」、すなわち相互影響の関係にあるべきであると論じている。

  「無

一物の態度」をとるということは、多田のように教える者と教えられる者を分けない、対等な関係を結ぶことである。また、暁烏のように自分も仲間も同じ見地をもつ ものとして、自己を共同体の中に埋没させたままに語るということをせず、どこまでも自分の問題として考え、自分の言葉として語るということでもある。名和達宣は、「倫理以上の安慰」の成立経緯を清沢と安藤の「対話」にあると位置づけているが、浩々洞はまさに「対話」の場であり、「『精神界』論文」の文章においてもその「対話」的姿勢が表われていた。すなわち、暁烏や多田の応答は使命感に裏付けられた「伝道」であった。これに対して、清沢の応答は「対話」であったと言うことができるのである。

おわりに

  『精

神界』はメディアである。メディアとして自己の主張を社会に発信する以上は、そのテクストが社会の反応に対して応答性をもつことはある意味で当然のことであり、それ自体は清沢に固有の特徴ではない。しかし、応答性の内実には清沢と門弟たちとの間に差異があった。清沢の精神主義は、応答ではあるが非対称的な「伝道」ではなかった。発信者として時代社会に応答しようとした門弟たちは、 ()54

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その伝道的使命感から人々の問いに回答を与えるべく努めた。清沢の没後に「我信念」の象徴としての清沢像を確立して宣布に邁進したのも、「伝道」の意識によるものであったと言えよう。もともと暁烏や多田に「一伝道者」としての意識が強かったこともあるが、メディアのもつ性質が一層その方向に彼らを駆り立てたとも考えられる。しかし、清沢は「伝道」が生み出しかねない非対称性の問題に敏感であり、上下関係を生み出すような「化他の道」を誡めた。あくまで「無一物の態度」による「対話」の中から応答がなされることを志向したのである。

  『精

神界』は清沢の主導する雑誌ではなかった。それでも、「『精神界』論文」は時代の課題に「無一物の態度」をもって向き合い、応えようとした清沢の「対話」的姿勢によって独特の存在感を放ったのである。

親鸞仏教センター清沢満之研究会では、二〇一〇年四月から二〇一三年三月まで「『精神界』論文」を講読した。本論文は当研究会における報告と議論を元に執筆したものである。 暁烏敏「浩々洞時代の清沢先生」『清沢満之』観照社、一九二八、一八三頁。この「成文」問題は山本伸裕によって指摘されたものである(山本伸裕「「精神主義」とは如何なる思想なのか?――雑誌『精神界』掲載「我信念」をめぐる一考察――」『現代と親鸞』第二〇号、二〇一〇、同『「精神主義」は誰の思想か』法藏館、二〇一一など)。本論文はこの問題について、おおむね山本の論に依拠するものである。暁烏敏「清沢先生の信仰」『暁烏敏全集』第八巻、涼風学舎、一九七九、四七六〜四七七頁。毎田周一「先師と清沢師」『毎田周一全集』第七巻、毎田周一全集刊行会、四〇三頁。傍線は筆者による。以下同じ。山本前掲書、四八〜五七頁。山本前掲書、一二〇頁。岩波書店版『清沢満之全集』第六巻(以下『岩波』六と表記)三頁。原文に欠落している濁点等は適宜補った。以下同じ。同上『岩波』六  五二頁。『岩波』六  四四頁。『岩波』六  四四頁。『岩波』六  四頁。加藤玄智「常識主義と精神主義」『新仏教』第二巻三号、 ()

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一九〇一年三月、一一四頁。『岩波』六  六九頁。「明治卅四年佛教小史」『新佛教』第三巻一号、一九〇二年一月、三頁。境野黄洋「羸弱思想の流行」『新仏教』第三巻二号、一九〇二年二月、六九頁。『曽我量深選集』第一巻、二九〇〜二九三頁。安藤州一「浩々洞の懐旧」『資料清沢満之  資料篇』一八二〜一八三頁。『岩波』六  一二一頁。『真宗資料集成』第十一巻、三五二〜三五三頁。『真宗資料集成』第十一巻、三六三頁。『岩波』六  一四八頁。『岩波』六  一五五頁。『岩波』六  一五三頁。『岩波』六  一五六頁。同上「最澄製作を披閲するに曰わく  それ一如に範衛してもって化を流す者は法王、四海に光宅してもって風を垂るる者は仁王なり。しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真諦・俗諦、たがいに因って教を弘む。」(『真宗聖典』東本願寺出版、三六〇頁)佐々木月樵は、明治時代の真俗二諦論を六種類に整理し、 清沢は「案内説」であるとしている。(佐々木月樵『真宗概論』興教書院、一九二一、一二八〜一三四頁)『精神界』第三巻九号、一九〇三年九月、五〇頁。『精神界』第五巻四号、一九〇五年四月、四九頁。暁烏敏「如来は信仰の上に在り」『精神界』第四巻一号、一九〇四年一月、二二〜二三頁、佐々木月樵「救済論」同第四巻三号、一九〇四年三月、二五〜二九頁など。暁烏敏「徴兵に就き家事に苦悶する人に与ふる書」『精神界』第五巻五号、一九〇五年五月、二二〜二七頁。『精神界』第三巻六号、一九〇三年六月、一頁。『岩波』六  一六〇〜一六五頁。山本前掲書、七三〜八〇頁。『岩波』六  一六三頁。暁烏敏「清沢満之先生の信仰」『資料清沢満之〈講演篇〉』同朋舎、一九九一、二頁。同上暁烏敏「清沢満之先生の信仰」『資料清沢満之〈講演篇〉』同朋舎、一九九一、八八〜八九頁。『精神界』第八巻十号、一九〇八年十月、四四頁。『精神界』第八巻十号、一九〇八年十月、四四〜四五頁。暁烏敏『歎異抄講話』講談社学術文庫、一九八一、二七頁。なお、『歎異抄講話』は『精神界』第三巻一号から五十五回にわたって連載された「歎異抄を読む」が元となって ()

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いる。同上『精神界』第三巻六号、一九〇三年六月、四六頁。『精神界』第六巻六号、一九〇六年六月、五〇頁。暁烏敏『精神主義』浩々洞、一九〇二、例言二頁。『精神界』二巻十一号、四四頁。なお、三巻一号に清沢自身の応答ともいえる「倫理以上の根拠」が掲載された際には取り立てて説明記事は書かれていない。暁烏敏『求道録』無我山房、一九〇七、例言二頁。多田鼎「我は是の如く動転せり」『精神界』第十四巻九号、一九一四年九月。多田鼎「願わくば我が昨非を語らしめよ」『精神界』第十四巻十一号、一九一四年十一月、三三〜三八頁。安田理深講述『分からなくなったら  はじめにかえる』日月文庫、二〇一三、四一〜五二頁。安藤州一「浩々洞の懐旧」『資料清沢満之  資料篇』一七九〜一八〇頁。『岩波』七  二六七頁。『岩波』七  三五四頁。名和達宣「清沢満之とその門下との「対話」――安藤州一『清沢先生  信仰坐談』を読み解く――」『現代と親鸞』第三二号、二〇一六、二〜三七頁。 ()

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参照

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