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脇田良吉の教育,思想、について

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Academic year: 2021

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脇田良吉の教育,思想、について

一家族主義と国家主義の関連性を中心に‑

障害児教育専攻 尾高央尚

序章問題の所在と目的

わが国の知的障害児教育に功績のあった,脇 田良吉の教育思想、は,

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家族主義」と「国家主義」

というこつの思想、が混在しているといわれてい る。そこで,これら二つの思想に着目し,それ らの形成過程に影響を及ぼした要因について検 討し,両者の関連性

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こついて明らかにすること にした。

第1章 脇 田 良 吉 の 生 涯

本章では,脇田良吉の生誕から没後にいたる 生涯を概括し,この間,家族主義,国家主義の 思想、が認められる時期を特定し,どのような要 因が働いているか検討した。

第1節は,脇田の生涯を概括するために,幼 少期,青年期・壮年期,晩年期,と分け,年代 ごとの出来事から見られる彼の教育思想、を明ら かにした。

第2節においては,彼が知的障害児教育に中 心的に関わった期間においての,京都府におけ る教育行政の状況を見た。

第3節では家族主義・国家主義思想、の形成要 因として,第1節,第2節の小考察を行ってい る。彼の国家主義思想、の発端が生誕地である元 伊勢の影響であり,生まれながらに国家主義色 の

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齢、環境で、育ったことが要因であることが明 らかとなった。又,家族主義思想については,

脇田が朝哉した淳勘ト学校において,学習に遅 れのある生徒を自身の下宿に引き取り 24時間 生活を共にする教育を経験したことが発端とな

指 導 教 員 八 幡 ゆ か り

った。そして,脇田の家族主義思想、の発展につ いては,彼が東京へ内地留学をした際に出会っ た石井亮ーが多大な影響を与えていると考えら れた。そこで,第2章において詳細に検討する ことにした。又,京都府の教育行政の中心的存 在である「京都府教育会Jが脇田の教育思想、に 影響を及ぼしていると考えられたため,更なる 検討が必要であるとした。

第2章 石 井 亮 ー と の 交 流

本章では,石井と脇田との交流を,東京市特 殊学樹見察に行った際の出会し1から,死別まで の交流を中心に明らかにした。第1節において は,石井亮ーとの関係、を見ている。脇田は石井 と出会い,その後東京へ内地留学した際に石井 により2年間で130時間に及ぶ個人教授を受け ていた。そして,脇田は石井に対する人間的傾 倒から,石井夫妻を秘ミ母として開しを受けて いた。白川学園を開設した後は,経営難のとき に経営上のアドバイスを受け,金銭的援助を受 けていたD第2節で、は石井亮一の景タ警について,

教授法,思想、,経営上のアドバイスから明らか にしているD教授法については,山田明

( 1 9 8 5 )

によると,脇田と石井との初対面での影響につ いて否定的であったo しかし,脇田が「東都に て見たる特殊教育」に述べているところによる と,石井の業績を高く評価しており,石井と脇 田とで、は対象児が違っていても,影響力は高か ったといえた凸脇田は滝乃)11学園において実際 に指導に当たっており,そこから脇田の対象と

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する「低能児Jへの指導上の手がかりを得たも のと推測された白思認については,石井が脇田 にキリスト教の信仰,その家族主義につして教 授したとし¥う具体的な記述は見られなかった。

しかし,石井に対する脇田の人間的傾倒から推 測されるように,石井のキリスト教の名におい て,並L縁等の差別無く,神の前では白痴児も皆 同じ家族として生活し人間形成の援助を行うと いう姿勢は,脇田に対し思語、的影響を与えてい たといえよう。特に晩年の宗教へのイ賂幼も伺 われた。経営上のアドバイスについても,脇田 の日記に見られる多様な文言から,白川学園の 運営面において石井の助言に依処するところが 大きかったことが明らかとなった。

第3章 脇 田 の 著 糊 別 に み る 教 育 観

‑障害児観 第3章では脇田の多様な著伊防を追い,教育 観・障害児観がどのように移り変わってしりた のか検討した。第1節は,脇田が「低能児教育J に最も熱心に取り組んでいた時期の著作物から 教育観・障害児観を見た。脇田の教育観・障害 児観が確立されたのは,白)11学園期間中であっ たと考えられた。白川学園 (1909年創設)にお いて,脇田が中心的役割を担った期間 (1909 年'"'‑'1936年)に,最も彼の教育観・障害児観を 強く見出すことができた。 1912年出版「低能児 教育の実際的研究j,1916年出版「異常児教育 の実際Jの二つの著伊鈎において,脇田は当初,

著書の中で障害児を「人間の屑j

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不幸児Jと述 べ,そのような児童に対する教育の必要性から 国家主義色を強く表していた。その一方で、,

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川学園のやうな家族的のものが最上であらう」

と述べるなど, 自身の中で家族主義思想、の理論 が確立していたことが伺えたD そして,上記二 つの著書から共通して読み取ることができたの

は,脇田の主主管、とする国家を実現させるために 知的障害児教育を実践するとし、う点で、あった。

そのことにより第2節では,脇田が,知的障 害児教育から国民教育へと思想、転換へ至る経緯 を,明らかにした。脇田は 1914年,京都府教 育会により学園に対する補助を取りやめられて いる。「低能児教育Jを行うことが国益であると して国家に訴えてきた脇田にとって,このこと が, 日本国民に対する教育の必要性を論じる一 端となっていることが明らかとなった口そして,

自身の信じるキリスト教仏教,神道などの宗 教を総合し「霊道jと称し 「すべてを神の子と なし給えj~,,\った宗教観に基づき,

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低能児教 育Jを考えるに至ったO

終章家族主義思想と国家主義思想、の関連性 各章から総括すると,脇田はまず,積極的な 教育実践家で、あった。そして,多くの著作物を 残すとしづ理論家でもあった。このように、実 践家,理論家として,彼の家族主義思想、と国家 主義思想がどのように表れていたかというと,

実践家として,石井の影響を受け,家族主義思 想、に基づいて白川学園の運営にあたった。そし て,理論家として 24時間生活を共にしながら 教育を行う「特殊学校」を提唱した。一方で、,

国家に「低能児教育Jへの参加を促す際には,

国家主義思想、を前面に出し「低能児教育jの重 要性を訴えた。しかし,当時の軍国主義とは一 線を画しており,著書に多くみられる国家主義 的発言は,国家の関心を「低能児教育jへ向け ることを意図していたと考えられた凸このよう に,数々の実践を行った脇田に現代の教育実践 家が学ぶことは多い。王た伏に満足せず信念に基 づき開拓してゆく脇田の姿勢は,現代において

も学ぶべき姿であろう。

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