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大澤耕史著『金の子牛像事件の解釈史』

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100 ユダヤ・イスラエル研究 第32号(2018)

大澤耕史著

『金の子牛像事件の解釈史

 

―古代末期のユダヤ教と

シリア・キリスト教の聖書解釈』

(教文館、2018年、220頁) 定価5,400円+税 志 田 雅 宏  ヘブライ語聖書出エジプト記32章の「金の子 牛像事件」は、イスラエルの民が犯した「大い なる罪」(31節)の物語である。モーセが民を 率いてエジプトを脱出してから三か月後、彼ら はシナイの荒野にたどりついた。モーセは神に 命じられ、雷鳴のなか独りでシナイ山を登って ゆく。一方、麓に残された民は四十日たって も指導者が下りてこないことに不安を覚え、ア ロンに「我々の前を歩む神々を作れ」と命じる。 そしてアロンが彼らの装飾具を集めて子牛の像 を作ると、民は祭壇の前で犠牲を捧げ、飲食に ふけった。下山したモーセは子牛像の周りで踊 る民を見ると、神から授かった石板を粉々に砕 き、アロンを詰問し、レビ人に命じて崇拝者た ちを徹底的に殺した。モーセはその翌日、再び 山を登り、民の贖罪を神に求めたが、神は彼ら への罰を宣言したのであった。  ユダヤ教とキリスト教では、この子牛像事件 について異なる意味づけがなされた。「70人の 長老たちは、すべてのトーラーをプトレマイオ ス王のためにギリシャ語で書いた。そして、そ の日はイスラエルにとって、彼らが子牛を作っ た日のように厳しい日であった」(41頁)、「モ ーセはそれを知って、彼の手にあった二枚の板 を投げうった。それで彼らの契約は、こなごな に砕かれた。それはわたしたちの心の中に、愛 された人イエスの 〔契約〕 が、彼を信ずる信仰 の希望にもとづいて封じ込まれんがためであ った」(131⊖132頁)。前者は、七十人訳ギリシ ャ語訳聖書に対する批判的な態度を子牛像事件 の記憶によって形容するラビたちの伝承である。 主として、ラビ・ユダヤ教では事件が「教訓」 として想起され、先祖の罪とそれに対する神罰 についての解釈が語られた。他方、後者はユダ ヤ人が神との契約を失い、イエス・キリストに よって新たな契約が与えられたことを示す解釈 である。このように、キリスト教では子牛像事 件は新しい契約の「証明」とみなされた。  著者の博士論文にもとづく本書は、子牛像事 件についての古代末期のユダヤ教とシリア・キ リスト教の解釈の比較をその主題とする。構成 としては、本研究の意義を述べた第1章に始ま り、第2~6章で「罪」「アロン」「モーセ」「イス ラエルの民」「サタン」という項目ごとの考察 があり、第7章が結論となる。(補遺として「神 観」についての小論あり。)分析方法としては、 一貫してユダヤ教文献、ギリシャ・ラテン教父 文献、シリア教父文献から関連するテクストが 引用され、考察がおこなわれる。各章の内容を 見てゆこう。  第1章では子牛像事件の物語(出32:1⊖35) の試訳に続き、ユダヤ教・キリスト教聖書解釈 研究および聖書学の分野からの先行研究が整理 される。そして、最新の研究(P. Lindqvist)か ら、「子牛像事件の解釈を分析する際には、そ れぞれの文章、文脈、そして一連の歴史的状 況の細部や微妙な差異に焦点を当てる必要性」 (22頁)がある、という論点が導かれ、本研究 の視座となる。次に、シリア・キリスト教の概 説、アフラハトとエフライムというふたりのシ リア教父の紹介が続く。そして、本書の目的と して、当時のシリア・キリスト教におけるユダ ヤ教伝承の影響を指摘する研究(E. Narinskaya ら)をふまえ、この点を「金の子牛像事件」と いう聖書解釈の主題から検証することが提示さ れる。さらに比較の題材としてギリシャ・ラテ ン教父にも注目することで、「キリスト教世界 の多様性と、その中でのシリア教父の特徴」(33 頁)を明確にし、「聖書解釈を通じた4世紀まで のユダヤ教とキリスト教の、地域差を重視した

書  評

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101 書  評 見取り図を得ること」(同)が方法的な特色で ある。  次に、解釈テクストの比較分析に進む。第2 章(「罪」)では、子牛という偶像を崇拝する行 為に焦点があてられる。「偶像崇拝」(ヘブライ 語でアボダー・ザラー、直訳は「異国の/異質 な崇拝行為」)は多様な意味を含む概念として 聖書以後に形成されたものだが、子牛像事件の 解釈にもその多様性が反映されている。ユダヤ 教では像に対する儀礼、イスラエルの神以外の 存在を誤って神とみなすこと、神との婚姻関係 を裏切る姦淫行為などの見解が示される。それ に対し、ギリシャ・ラテン教父では、自由より も隷属を望む民の心性や視覚的図像を崇拝する 行為を問題視する見解が目立つ。一方、シリア 教父では、子牛像崇拝がエジプトでの異端祭儀 を想起させることや、子牛像との姦通行為を非 難する見解が示される。著者はこの姦淫・姦通 の罪という見解に、シリア教父がユダヤ教伝承 を活用した可能性を見る。  第3章(「アロン」)では、事件の張本人(?) であるアロンについて、ユダヤ教とシリア教父 の解釈の類似性が指摘される。ギリシャ・ラテ ン教父がアロンを好意的にとらえ、擁護する見 解を示すのに対し、タナイーム期のユダヤ教文 献やシリア教父のアフラハトは、アロンは確か に罪を犯したが、それは赦されたという見解を 示す。著者によれば、シリア教父のアロン解釈 は、ギリシャ・ラテン教父と共通する部分を持 ちながら、一方でタナイーム伝承との類似性も うかがわせるという。  第4章(「モーセ」)では、モーセが民を厳格 に罰しただけでなく、神に執りなして彼らの罪 の赦しを訴えたことの意義が注目される。ユダ ヤ教では、子牛像事件が指導者モーセの偉大さ と彼の自己犠牲の精神を表す物語として読まれ る。ギリシャ・ラテン教父では、モーセの自己 犠牲的精神にイエス・キリストの予型を見出す 見解が特徴的である。また、モーセへの称揚と 民への非難の対比を鮮明にする点も指摘できる。 シリア教父でもこうしたイエスの予型的解釈は 共有される一方、神が民に対して激しい怒りを 示すことで、モーセが彼らの贖罪のために懇願 するよう仕向け、彼が民に愛される指導者とな るよう神がはからったというユニークな見解も ある。このように、著者は三者三様のモーセ像 が描かれていると主張する。  第5章(「イスラエルの民」)では、アロンに 「神々」の鋳造を求め、子牛像の前で祭儀をお こなった民についての見解が検討される。ユダ ヤ教、キリスト教いずれにおいても彼らの罪を 指摘する解釈が優勢だが、一方でユダヤ教では 民を擁護する見解も散見される。キリスト教で は、子牛像事件をユダヤ人と神との契約が失わ れた契機として位置づけ、『ユダヤ人トリュフ ォンとの対話』のようにユダヤ教への攻撃とい う文脈で扱われることも多い。シリア教父でも こうしたユダヤ教論駁の意図がみられるが、一 方で民の一部を擁護する解釈もある。シリア教 父について、著者は論争的な意図を持つ民衆向 け説教と、より学問的な聖書註解における解釈 の使い分けがなされていたと指摘する。  第6章(「サタン」)では、子牛像事件にサタ ンを登場させる解釈がラビ文学とシリア教父の 著作にみられることが注目される。ラビ文学で は、サタンは人間に災いをもたらし、人間の死 を司る権限を神より与えられ、人間を悪へと 誘う存在として描かれる。他方、シリア教父 は、「蛇」が民を子牛像事件において誤りに導 いたという『トマス行伝』(3世紀)に着想を得 て、楽園でイブを唆した蛇がサタンであったと いう解釈や、子牛像事件でサタンがアロンに働 きかけたという解釈を示す。したがって、シリ ア・キリスト教では新約聖書的なイメージであ る「神の敵対者」と、ユダヤ教伝承にみられる 子牛像事件の誘発者というサタン像が混在して いると著者は見る。  第7章「結論」では、上記の比較分析から得 られた「ユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書 解釈の類似性」(177頁)について、その要因と 意義の考察が展開される。要因としては、シリ ア地域における宗教的少数派としてのユダヤ人

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102 ユダヤ・イスラエル研究 第32号(2018) とキリスト教徒の交流や、ヘブライ語・アラム 語とシリア語の言語的相似性といった先行研究 の指摘に加え、以下の3点が示される。1)シリ ア教父がユダヤ人の関心を引く解釈や説教をお こなうべく、ユダヤ教の聖書解釈伝承を取り込 んだこと。2)シリア教父が聖書の知識をユダ ヤ教的な解釈と合わせて習得したこと。3)当 時のシリア地域ではユダヤ教とキリスト教の境 界が厳密ではなかったこと、である。意義につ いては、子牛像事件の物語はユダヤ教では「教 訓」、キリスト教では新たな契約の「証明」と して、それぞれのアイデンティティ形成に利用 され、「そのような状況下でシリア教父たちは、 言語の類似性を最大限活用し、身近にいるユダ ヤ人たちの伝承を組み込んだ子牛像事件をも使 って、彼らとの差異化を図っていった」(179頁) と著者は主張する。シリア教父はユダヤ教伝承 をもちいて彼らとの類似性を見出すのではな く、むしろ差異を強調したというのが本書の結 論である。(補遺では子牛像事件解釈にみられ る「神観」を主題とする小論が付され、著者は シリア教父の神観にユダヤ教伝承の影響と、ギ リシャ・ラテン教父の「神の無謬性や不可侵性」 という主題を見出す。)  本書を評するにあたり、評者はシリア学やキ リスト教神学の領域から評価することはできな いので、宗教学およびユダヤ教研究の領域から いくつか私見を述べるにとどめたい。  本書は「金の子牛像事件」という主題に特化 しているが、著者の将来的な展望は、シリア・ キリスト教とユダヤ教の関係性を詳細に描き出 すことであろう。その研究手法は、1世紀から4 世紀までのユダヤ教とシリア・キリスト教にお ける聖書解釈の類似性を示すことであり、それ 自体は先行研究を踏襲したものである。逆に言 うと、シリア教父の著作にはユダヤ教伝承の引 用やそれを参照したという証言がないため、状 況証拠を積み上げてゆく手法に頼らざるを得な い点に著者の苦労がしのばれる。注意を要する のは、確かに「罪」や「アロン」における両者 の解釈には似通った部分はあるものの、同じ物 語を読む者がたまたま同様の着想にいたった可 能性を厳密に排除することは難しいということ である。類似性から影響関係を指摘するには慎 重さが求められる。だとすれば、説得的な議論 を構築するには、本研究で金の子牛像事件とい うエピソードに注ぎ込まれた緻密な考察を、さ らに別の主題(聖書解釈にかぎらず)において も展開する必要があろう。著者の今後の研究に 大いに期待が膨らむところである。  次に、子牛像事件が聖書の物語であることの 意味について再考したい。この事件は、ユダヤ 教においては―なぜキリスト教徒はそういう 反省をしないのかが不思議だが―、先祖の犯 した罪を伝える教訓として想起された。だが、 事件の深刻さに加え、キリスト教徒がこれをユ ダヤ人への攻撃の格好の材料としていたなら なおさら、なぜラビたちは自分が犯したわけで もない過去の罪の物語を思い出すべきとしたの だろうか。何が彼らを物語の解釈と省察に向か わせたのか。私見では、その主たる理由は、事 件が聖書で繰り返し言及されていること自体に ある。あるひとつの出来事が聖書の異なる場面 で語られるとき、研究者はそれらの史料的な相 違や聖書内での原典と解釈の関係などに注目し がちだが、それだけでなく、同じ物語が繰り返 し語られるという反復そのものの意義を問うこ とも重要である。子牛像事件は出エジプト記の 他、申命記と詩篇、ネヘミヤ記で語られる。申 命記ではモーセがイスラエルの民の前で「おま えは自分が荒野でおまえの神である主を怒らせ たことを思い返し、忘れてはならない」(9:7) と戒める。詩篇とネヘミヤ記ではモーセの栄光 や神の寛大さを称えるなかで、民がみずからの 罪を告白するかたちで現れる。このようにして、 子牛事件の想起は聖書のなかですでにおこなわ れているのである。そして、聖書の正典化によ って物語の反復自体が正典化され、この教典を 読む信徒たちにとって「子牛像事件を思い起こ すこと」が宗教的義務となる。子牛像事件がた んに聖書に書かれているだけでなく、聖書で繰 り返し登場するというこの反復にこそ、ラビた

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103 書  評 ちは過去の大いなる罪を想起し、新たな意味を 導き出せという神の命令を見出したのではない だろうか。  最後に、子牛像事件の解釈として本書で引用 されているテクストについて、さらなる考察の 可能性を提示してみたい。具体的には、モー セ(第4章)にかんするバビロニア・タルムー ド(BT)の伝承を取り上げる。興味深い一例 は、子牛像の祭儀を目撃したモーセが即座に石 板を壊したのは神の考えと一致する行為だった という意見である(103頁、BTイェバモット篇 62a)。伝承ではその理由として、異邦人ですら ユダヤ教の過ぎ越しの祭りの禁止事項を破った ら罰が下されるのだから、すべての戒律を守る べきイスラエルの民が子牛像を作って神の命令 に違反したなら罰を受けるのは言うまでもない (だから石板の破壊も神罰である)という議論 が展開される。これは「カル・ヴァ⊖ ホメル」 というラビ的解釈技法のことで、要するに後代 のラビたちの聖書解釈がモーセの思考において みられるということである。神の考えを体現す るとは、ラビたちの法解釈のルールを遵守して 教典を学ぶことに他ならない。つまりラビたち は、子牛像事件におけるモーセの行動をモデル として、自分たちの聖書解釈技法の正当性を主 張し、トーラーの正しい意味を決定づける権威 が自分たちにあることを示唆しているのである。 彼らの関心は子牛像事件の真相を究明すること ではなく、事件からラビ的なトーラー学習の正 しさを訴えかけることにある。この伝承は、教 典の正しい意味を決める権限が誰にあるのかを 明確しようとするラビたちの戦略的な意図をう かがわせるものだということである。  子牛像事件にラビたちのイデオロギーを見る という点では、イザヤ書(53章)の「苦難の僕」 とモーセを結びつけた解釈(101⊖102頁、BTソ ーター篇14a)も興味深い。モーセが人々の罪 を背負って自己を犠牲にするという解釈は、キ リスト教ではイエスと重ね合わされることはす でに述べた。他方、このタルムードに現れる自 己犠牲のモーセ像を分析するさい、注目すべき はその文脈である。この箇所でラビたちが議論 しているのは、イスラエルの地への移住(アリ ヤー)はすべてのユダヤ人の宗教的義務か否か という主題であり、自己犠牲のモーセ像はアリ ヤーの義務化に反対する賢者が示したものであ る。彼はすべての戒律を実践するためにアリヤ ーする必要はなく、離散の地においてもそれは 可能であると主張する。そして、離散において 戒律を遵守することは神に身を捧げる自己犠牲 に等しいというのである。この主張はエルサレ ムの神殿崩壊後(特に中世)の供犠論を想起さ せる。そこでは、神殿で動物を捧げる供犠が自 己犠牲としばしば結びつけられる。そして、そ の自己犠牲とは迫害下での殉教を意味する場合 もあるが、より一般的には離散社会におけるユ ダヤ教の生活実践自体を意味する。タルムード の議論でも同様に、自己犠牲としてのモーセ像 はディアスポラにおけるユダヤ教の生活を積極 的に肯定するラビたちのイデオロギーと密接に 結びついていると思われる。  本書は、古代末期のシリア地域を中心とする 宗教世界を見つめるための、大きくはないが丁 寧に磨き込まれた窓である。窓の向こうには、 本書表紙カバーの絵(N. プーサン作)に描か れているような子牛像と、それを見つめるラビ たちや教父たちの姿がある。その彼らのまなざ しをつたって当時のユダヤ教やシリア・キリス ト教の信仰や思想に深く分け入ってゆくことも できれば、あるいは窓枠を押し広げて異なる景 色を探すこともできよう。本書の出版を心から 祝福するとともに、著者のさらなる仕事を待ち 望みたい。

参照

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