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カントのコスモポリタン論における公開性の概念と経営倫理学の接点

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日本経営倫理学会会員

新 川 信 洋

The member of Japan Society for Business Ethics Nobuhiro Shinkawa

カントのコスモポリタン論における

公開性の概念と経営倫理学の接点

Relationship between the Concept “Publicity” in the Kantian Cosmopolitanism and Business Ethics

ABSTRACT

When Immanuel Kant is referred to in the context of business ethics, the categorical imperative is treated mainly. But he also argued for the importance of cosmopolitanism in an essay entitled “Toward Perpetual Peace.” In this text, I will show that the cosmopolitanism is associated with business ethics. First, I examine a concept called the cosmopolitanism in terms of the thought history. Second, the Kantian cosmopolitanism is introduced and the importance of the concept “publicity” is considered. Then, I take notice of the space where the reason is used officially. As a result, I release the concept “publicity” from the political philosophy and apply it to the business ethics.

キーワード

カント、公開性、世界市民、政治の定言命法・経営の定言命法 哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant、 1724年~1804年)の議論を手がかりに、その 「コスモポリタン」概念、およびそれと密接に 関係する「公開性」概念について、経営倫理学 との接合点を整理していきたい。

1.課題設定

カントを経営倫理学において取り上げる場 合、その多くは、功利主義のように行為の結果 を重視する立場にたいし、行為の動機・合意を 重視する非帰結主義の中心的立場である義務論 を代表する学説としてカントを扱っている。 カントの倫理学説の中心概念である「定言

はじめに

「グローバル人材」が求められて久しくなっ てきている。定義やその語に内包される性質は 様々だが、「国境を越えて活躍できる人材」と いったあたりがその性質に盛り込まれることに 異論は少ないだろう。思想史を紐解けば、「コ スモポリタン」が近い概念であると思われる。 ここで一歩立ち止まって、「コスモポリタン」 という語がいかなる概念を含むものなのかを吟 味しておくことは有効であり、経営倫理学の理 論的基盤を確固としていく意味で必要な作業で あると思われる。本稿では、近代の「コスモポ リタン」概念の主要な出発点となったドイツの 日本経営倫理学会誌 第26号(2019年) 論 文

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命法」にはいくつかの表現方式があるが、そ の一つに、「行動ルールが自分の意志によって あたかも普遍的な自然法則となるかのように行 為せよ」というものがある。この表現をとるこ とで行為における意志の自律が強調される。み ずからの意志が自分自身にルールを課すという 自己立法性をもつことから、人間はそれぞれ道 徳的存在者として道徳的世界の構成者、すなわ ち「目的の国」の成員であるとみなされる。意 志そのものでなくその対象に理由がある場合に は、それがいかに結果として道徳にかなってい るものであっても「他律」とされ、端的に倫理 的であることにはならない。自分で自分の意志 を道徳的に定める意志の「自律」は、理性的存 在者にたいする、また道徳法則にたいする「尊 敬」の根拠となる。カントはこのように自らに 義務として道徳を課す点に人間性の素晴らしさ を見て取る。こうした立場では、道徳に適うこ とをしていても、道徳的に評価されるには十分 ではなく、義務として自律的に道徳を課したか どうかの「動機」が問題となる。カントにとっ て言わばコンプライアンスは前提であり、自ら に義務として道徳を課す点に人間性の素晴らし さを認めている。人間は自己愛から他律的によ いことをしてしまいがちだが、カントからする とそれは道徳的であるとは言いがたい。 カントの義務論が有するこうした厳格主義 的な性質は、しばしば実践的な場面での有効性 に疑義を提出させることになる。しかし、こう した疑念にたいする反論も提出されている。 例えば、スミスらは、「何か行為をするときに は、自分のルール(格率)がどんな人にも絶対 あてはまるルールなのか確かめなさい」という 定言命法の一般化ルールにアクセントを置い た解釈をとっている(Jeffery Smith and Wim Dubbink:2011)(1) このような定言命法を再評価する論者の代 表格はボウイである。ボウイは、「すべての人 の人格に備わる人間性を、たんなる手段として のみ用いてはならず、目的になるように捉えな さい」という定言命法の人格尊重表現の方式を 特に重視する(Norman E. Bowie:1999)。 勝西良典(2012)はカント倫理学を積極的 に現代の現実社会に適用しようとするボウイの 主張を大筋で評価しつつ、カント解釈に内在す る方向で補完的な論考を提出している。勝西は カント倫理学の有する形式主義・厳格主義こそ がむしろ不断の倫理性を到来させるとの立場を とる。カントの哲学上の立場は認識可能な現実 の世界(現象界)と道徳的領野である英知界と いう二世界論であり、そうした枠組みを導入す ることで実践的理性(道徳性)が現に存在する ことを示そうとした。 勝西の解釈はそのカン トの理論的枠組みに内在し、カントの趣旨に沿 う道筋を取ることで、カントの議論からかえっ て最大限にその積極的意義をとりだそうとする ものであると言える。 ボウイはさらに、『利益につながるビジネス 倫理』の最終章で「コスモポリタニズムの観点」 を提出している。カントに代表される啓蒙思想 のコスモポリタニズムと資本主義とはともに普 遍的な価値観を共有していることを強調し、通 商・貿易が世界平和の基盤になるとカントが考 えていたことを明らかにしている(2) しかし、ボウイの議論は、カントに依拠し ながらも、カントから十分にコスモポリタニズ ムを摂取しているとはやや言いがたいように思 われる。ボウイは定言命法とそれを支える普遍 的な人間の価値に重きを置くが、たしかにカン トの思想はそうした倫理学に立脚したり帰着さ せたりすることが筋道であるにしても、コスモ ポリタン論に言及するならば、カント自身がそ れを展開する社会哲学的領域にさらに積極的に 踏み込む必要があるだろう。

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本稿では、その中でも特に「公開性」概念を 手がかりに、経営倫理学に接近してみたいと考 える。

2.コスモポリタン概念の変遷

では、あらためてコスモポリタンないしコ スモポリタニズムとは思想史においてどのよう な位置づけになるのであろうか。 この概念はもともとギリシア語の「コスモス (宇宙)」と「ポリーテース(市民)」の合成語 であるkosmopolitêsからきている。ペロポネソ ス戦争後のポリス衰退期に、アレクサンドロス 大王の帝国が出現し、ストア派により隆盛をみ た概念である。人間は理性的存在であり、その 観点で平等であることが強調された。 この概念を近代になって復活させたのはカ ントや啓蒙思想家たちである。カントは、主著 にあたる『純粋理性批判』『実践理性批判』『判 断力批判』という、いわゆる三批判書と並行し て、独自の歴史観にもとづいて歴史を物語る 「歴史哲学」的な諸著作を発表する。そのなか でカントは人類史という視点を提出し、人類と しての人間においては徐々に倫理的存在として の陶冶が見られるという進歩史観を展開した。 そこでは、人類はコスモポリタン(世界市民) として法的体制に至るとの見通しが述べられて いる。 カントは『永遠平和のために』(1795年)な どに代表される政治哲学においても同様の見解 を展開した。ここにおいてカントは、法的体制 としては「世界共和国」を最上とせず、「世界 連邦」を選択する道を提示している。これは世 界の一元化を選ばず、多元主義・複数主義の道 を保持したことを意味する。カントは球体とし ての地球の有限性を説き、そこから起こる植民 地獲得競争を批判した。そして、外国人が他国 に足を踏み入れても敵対的に扱われないという 「訪問権」をコスモポリタン(世界市民)の権 利として認めた。 しかしその後はナショナリズム・帝国主義 の時代を迎え、コスモポリタニズムは後退す る。さらにその後の、第二次大戦後、冷戦時代 から現代へと至る変化を、事典の記述を参照し ながら追ってみたい。1979年の『岩波哲学小辞 典』では、「現代ではコスモポリティズムは民 族の独立、民族の利益、民族の文化や伝統に対 する無関心な態度を内容とし、国際独占資本の 支配、とくに第二次大戦後のアメリカ帝国主義 による<自由諸国>の従属傾向に好都合なイデ オロギーになっている。」とあり、また、1998 年の『岩波 哲学・思想事典』では、マルクス・ エンゲルスにおいてコスモポリタニズムがブル ジョワジーの帝国主義的イデオロギーとしてネ ガティブに受け止められていると指摘した上 で、「労働者中心のインターナショナリズムが 衰えた現代では、平和の実現のみならず、国境 を越えた人権の擁護などの観点から、コスモポ リタニズム再評価の動きも起こっており、それ は現代における普遍主義の可能性というテーマ とも関連するだろう。」とある。このことから、 コスモポリタニズムは、民族独立運動の対抗軸 としての使用、インターナショナリズムの対立 概念の一つとしての使用、という風に、通底す る性質を保持しながらも使用される文脈や評価 を変化させながら使用されてきている。 さらに現段階での日本では、大きく2つの 方向性で使用されているものと考えられる。一 つは、環境問題・平和問題などの文脈でよく使 用されるもので、この場合はコスモポリタンを 「地球市民」と訳出することが多いように思わ れる。これと截然とした区別をすることは難し いが、もう一つの傾向は政治哲学的文脈での使 用で、この場合はしばしば「世界市民」と訳出 することもある。いずれにしてもポジティブな

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世間知を獲得できる場所であった(6)。カントは 概念を取り扱う哲学・形而上学の著作を著して いたが、実務家たちとの交流の中で育まれた生 活者としての世間知を思索の下敷きにしてもい た。 カントは倫理学の体系的著作である『人倫 の形而上学』で、道徳領域を扱う「徳論」と 主に権利論を展開する「法論」について論じ、 後者をさらに私法と公法に分けて、公法につい て、国家法、国際法、世界市民法という発展段 階に沿って論述している。世界市民法の段階 は、法的関係があまねく人類・諸国家に浸透 し、相互に平和的交流が行われる状態である。 歴史哲学と視点を共有しながらも、ここで は法・権利の体系の中に世界市民法が位置づけ られている。こうした政治哲学的側面におい て、世界市民法の内実が特に豊かに展開される のは、晩年の小著にして現代でも参照されるこ との多い主著の一つ、『永遠平和のために』で ある。これこそカントの現実社会についての優 れた洞察をベースにおいた著書の代表と言える だろう。 『永遠平和のために』では相互の「交通」の 意義が強調され、他者と積極的に交流しようと することの表れである商業精神(通商精神)の 発揮が積極的に評価される(7)。経済関係を構築 して相互にその関係に入ることは、現実的に戦 争の回避につながる。これはカントの文脈の中 では歴史哲学とも接続する考え方であり、前述 のとおり、ボウイも平和に至るコスモポリタン の思想として言及する要素である。 カントは、歴史哲学において、「非社交的社 交性」という独特の言い回しで競争関係をポジ ティブに受け止める。他のエリアに通商関係を 求めることは、交流関係を求めるという意味で 「社交的」なあり方だが、人間の本性として、 他と競い合うという意味では「非社交的」であ 含意で使われることは、以前の使用法からする と大きな変化だろう。 前者の変化については、大きく言えば、冷 戦後のアメリカ主導のグローバリゼーション の負の面を強調する立場が、環境問題などの しばしば地球規模に進行する社会問題に対す るアプローチと結びついた面があるように思 われる(3) 後者の変化について、政治哲学的な使用 の契機になったのは、ハーバーマス(Jürgen Habermas:1994)の『公共性の構造転換』で あると言える。ハーバーマスはここで必ずしも 公共性を無条件で肯定するわけではないが、 「市民的公共性」の重要性を強調したことは間 違いなく、少なくとも啓蒙思想以来の伝統的遺 産である市民による討議の場としての世界市民 社会についての肯定的評価は、その後の政治哲 学において大きな潮流を形成していったと言え る。 他に、公共性・公開性を論じた思想家とし てアーレント(Hannah Arendt:1958;1982) も挙げることができるだろうが、アーレントに してもハーバーマスにしても、主たる論点にお いてカントにまでさかのぼって自身の政治哲学 を構築していることに特徴がある。たしかにカ ントのコスモポリタン論(世界市民論)(4)では、 公開性概念が強調される。次節ではその点を確 認していく。

3.カントの世界市民論と公開性

厳格主義、義務論で知られるカントは、規 則正しく真摯な学究生活を続けた人物であっ たが、日常的な意味では社交的な一面も持ち 合わせていた。特に実務家たちと同席する昼 食会はカントの生活において大きな意味を 持っていた(5)。カントの過ごしたケーニヒスベ ルグはカントにとっては世界市民へとつながる

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が、同じく政治家にも、その行為が公表に値す るものかどうかチェックすることを促したので ある。これは言わば「政治の定言命法」と呼べ るのではないかと私は考えている。

4.理性の公的使用と議論の「場」

カント自身は上記のような「公開性」が重要 だと述べながら、晩年の著作である『永遠平和 のために』以後、十分に議論を展開できなかっ た。それを敷衍したのがアーレントやハーバー マスとも言えるが、本稿では、経営倫理学との 接点を意識しながら、カントの「公開性」概念 を再評価していきたいと考える(8) 『永遠平和のために』においてカントは、 「第二補説」として、哲学者に自由に意見を述 べさせることの正当性を訴えた。当時のカント は宗教論その他における当局との摩擦の渦中に あり、当然そのことと無関係ではないと思われ る。カントはここで、「秘密条項」という形で、 哲学者の発言は政治的発言であっても無害なも ので扇動の意図はなく、施政者はそれを大いに 語らせて忠告として受け止めればよいのだと述 べ、言論の保障をまず求めた。カントは政治家 の意図(格律)の公開性について論じたが、現 実的には、言論空間での吟味・検討の保障をま ず求めたものと考えられる。 カントが生きたのは啓蒙思想の時代であっ た。カントは1784年の『啓蒙とは何か』にお いて、誰かの考えに縛られる精神的な未成年状 態から脱して、自分で考える勇気、自分で判断 する勇気を持つことが重要だと主張する。そし てそのための条件として次のように述べてい る。 こうした啓蒙を実現するために要求され るのは自由以外の何ものでもない。しか もこれは、およそ自由という名をもちう る。しかしそうした競争関係の中で文明は進展 し、人類としての人間社会の発展も見られてい く。商業精神(通商精神)を発揮することは、 単なる文化交流などと違って、この非社交的社 交性の表れと言えるだろう。 だがこうした競争関係は、力の強弱関係が 加速すると、支配・搾取構造に陥りやすくな る。ここに歯止めルールとして世界市民法が 必要となる。前述の通り、『永遠平和のため に』において植民地獲得競争を批判したカント は、外国人が他国に足を踏み入れても敵対的に 扱われないという「訪問権」を認めていたが、 同時に世界市民の権利はその「訪問権」に限定 されるべきで、それ以上の扱いを求めてはなら ないと説く。交流を求めてよいが、それ以上に 相手を支配するようなあり方は制限されねばな らないことになる。 『永遠平和のために』の「付録」において、 その保証の原理として「公開性」について言及 される。人類として徐々に平和に向かうとし ても、具体的・個別的な一人の人間としての 政治家には、利害計算としての葛藤が生じる。 すなわち、正しいとわかっている道徳と、実行 しようとしている政治が折り合いをつけがたい 場合、どちらを優先したらよいか、という議論 である。カントはここで、道徳を優先する道徳 的政治家はよいが、その逆である政治的な道徳 家はありえないとする、厳格主義的な回答を提 示する。そして、政治家は、どういう意図でそ の行為を行うか、といった自らの行動の主観的 原理(格律)を公開すればよいとする。誰かの 権利を侵害しようとしている、あるいは他国を 侵略しようとしている、ということが明らかな らば、反感を招いたり回避工作にあったりし て、その試みは失敗する。カントは道徳の場面 で、自分の行為の意図が一般的であるかどうか をチェックすることを定言命法の形で求めた

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時代に生きているのか」と問われるなら、 「そうではない。しかしおそらく啓蒙の時 代に生きているだろう」というのが答え である。(11) カントは「啓蒙された時代」、すなわちすで に啓蒙がすんだ時代ではないが、現在進行形の 啓蒙化の過程にいると述べる。カントの歴史哲 学に共通する発想だが、個人ができることは有 限でその結果全体としても歩みがゆっくりで あっても人類全体としては漸進的に進歩してい くのである。こうした人類としての自覚のあり 方こそ世界市民の発想に他ならない。 こうしてカントの公共性は世界市民のあり 方に接続していく。そこにおいて、場としての 公共空間に意見を提出する「公開性」は最大限 の意義を持つことになり、「公共性」が「公開性」 と親和的に接近することになる。 國部克彦(2015)(12)は企業を私的組織と見な し、その中で各個人が社会的責任を公的責任 として自覚することの意義を述べ、それが倫 理の問題であるとしたうえで、カントにおけ る理性の公的使用と近い議論を展開している。 ここで國部は、公的責任を企業活動に導入する ため、例えばSDGsのような多元的目標を指針 とすることの有効性について言及し、さらにそ の検証プロセスとしてフィードバックシステム が重要であると主張する。そしてそれを機能さ せるためには、企業で働く人間が経済を超える 価値の重要性を企業活動に即して考え、発言 し、実践できる場として、ステークホルダーエ ンゲージメントを再設計することが必要である とし、コーポレートガバナンスとの接続を示唆 する。究極的には取締役会そのものを公共的な 討議の場として再設計し、すべてとはいわない までも、一部の議題だけでも公的な視点から議 論し、その内容を公開できることが望ましいと るもののなかでもっとも害の少ない自由 である。すなわち、万事において自分の 理性を公的に使用する自由である。(9) ここで、理性の公的使用とは、公衆に向け た学者としての意見表明を指す。当時のマスメ ディアの状況を考えると、著作ないし寄稿など による言論発表が想定されている。 これにたいして理性の私的使用とは、役職 にある人間が、職務として理性使用を行う場合 である。軍人が作戦遂行にあたって軍務規定に たいして疑念をおおっぴらに表明したり、聖職 者が教義への疑義を訴えながら説教したりする ことは、職務に反する行為である。彼らはそう しないことを前提に役職を任されているのであ り、職務における理性使用は制限されうるもの である(10)。市民(臣民)が興味本身に納税に 反対しいたずらにそれを拒むことも市民の義務 に反する。市民(臣民)という立場にあること を考慮せず好き勝手に疑念を唱えることは理性 の私的使用にあたる。しかしそれぞれが個人と して、言論の場で学問的に疑義を表明すること は許容され、そうした自由は無制限であるべき である、とカントは主張する。 「公的」と「私的」という語については逆の 印象を抱く可能性もあるように思われるが、カ ントがここで述べている「公的」は、「公共的」 という意味と理解できる。カントによれば、精 神的な未成年状態にあることは個人の責任であ り、書物や宗教指導者、医師のような権威に 従って理性を自ら行使せず一生を終えることは 容易だが、あえて自ら思考する勇気が重要であ ると述べる。それこそが人類の発展に真に寄与 するあり方であり、人類としての自分のあり方 を自覚した人間に課せられた責務である。 さてそこで、「われわれは現在啓蒙された

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性を加えることができるように思われる。

5.政治哲学から経営倫理学へ

本稿では、ボウイは『利益につながるビジネ ス倫理』でコスモポリタン論を展開しつつも、 社会哲学的視点にやや欠けるところがあるので はないかと述べたが、上記のような議論が組み 込まれていると考えられる部分がある。定言命 法にはいくつかの言い方があるが、そのうちの 一つである「目的の王国」方式から帰着させる 形で、ボウイは第3章において「道徳的共同体 としての企業」の姿を説き、就労者の参画を求 める。その前段として、第2章において、定言 命法に従って、従業員を単なる手段としてのみ 捉えるのではなく、目的としても取り扱うとは どういうことかを論じる文脈で、従業員をあざ むかないことを挙げている。その中で、利潤分 配などにさいして経営者が決定をなすとき、従 業員が決定要因となった情報をもっていないと あざむかれやすくなるとし、情報の非対称性の 緩和を説いている(15)。こうした議論は本稿の 問題関心と共通する議論であるだろう。 興味深いのは、カントの定言命法からボウ イが導出した議論が、公開性へと接続しうると 考えられることである。カントの理論体系は道 徳を頂点に構築されており、その意味では結論 が同様のあり方に帰着することは十分考えられ ることだが、個人レベルの立法(定言命法によ る動機テスト)から討議の社会哲学へと視点を 移す、ないしその視点を加味することで、カン トの道徳論と矛盾しない形で、いっそう広がり のある議論が展開できる可能性が示唆されうる ものと考える。 前節の最後で、「定言命法による動機チェッ ク」に「公表化チェック」(政治の定言命法) を加えることで、「社会性」を加えることがで きると述べたが、そのとき念頭にあるのは、カ ントによる定言命法による動機テストが、普遍 している。そして、取締役がそれぞれ責任的行 動をとれれば取締役会という場にもこだわらな いと述べている。 環境問題など、世界的規模で進展する諸問 題にたいして、国連や国家、あるいはNGOな どだけでなく、企業が果たす役割は大きい。持 続可能な発展に向け設定されたSDGsなどはた しかに普遍的価値の移入に有益だろう。 2015年に国連で採択されたSDGs(13)は「持 続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」であり、持続可能な世界を実現する ための17の目標および169のターゲットからな る。公的なあり方や規模、網羅性、浸透度等か ら言って、経営倫理学的にもきわめて注目され る考え方である。この目標およびターゲット は、「5つのP」とも捉えうるとされる。すな わち、人間(People)、豊かさ(Prosperity)、 地 球(Planet)、 平 和(Peace)、 パ ー ト ナ ー シップ(Partnership)である(14)。国籍だけで なくさまざまにダイバーシティが要求される今 日、多様化するステークホルダーの中で、こう したSDGsのような普遍的価値を共有しつつ、 國部の言うような透明性の高い議論の「場」を 設定することが重要だろう。そうした「場」は 公共的性質を帯び、理性が公的に使用される空 間である。もちろん企業の中ですべての議論を 公的なものと化したり公表したりはできないだ ろうが、そうした公共の場に「たえうる」よう に理性を使用し、漸進的に取り組んでいくこと が重要であると考える。 その意味で、経営者および従業員は、それ ぞれ、前節最後に指摘した「政治の定言命法」、 すなわち、公表化に値しうるかの自己チェック をすることが有効ではないだろうか。経営倫理 学では、カントの定言命法による動機テストが しばしば言及されるが、これに公表化チェック を加えることで、行為・動機にいっそうの社会

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クは、経営判断の指針として一定の有効性を 有するものである。「公表化チェック」は政治 に限らず経営者などにも適用されうるものであ り、その点で「政治の定言命法」は「経営の定 言命法」である。 カントの「公開性」概念は、ごく近年、公共 性との関連で、政治哲学の分野で強調されるこ とが多くなってきているように思われる。政治 哲学で語られるのは、カントがこの概念を法論 としての世界市民法に組み込んだことから必然 的な道行きと考えられるが、上記のように経営 倫理学的にも十分通用するものである。 振り返れば、日本の経営倫理学研究では、 黎明期より公開性の重要性は提唱されてきてい る。すでに水谷雅一(1998)は、旧来の「クロー ズド経営」を批判して、情報公開を進め、「オー プン・マネジメント」を実現することが重要で あると指摘している(17)。その後、2001年のエ ンロン事件等を受けて、情報公開についての議 論はさらに盛んになった(18)。エンロン事件以 後、2002年の「SOX法(サーベンス・オスクレー 法)」のように、企業の情報開示を義務づける 法律が制定された。コンプライアンス的文脈の みならず、例えばCSRを企業の成長のために戦 略的・積極的に位置づけていく立場からも情報 公開の重要性が説かれてきた(19) 近年の高度情報化社会では、紙媒体に限定 されず、インターネットを介して、多くの人 が、多くの情報に接することができるように なっている。顧客情報や職務を通じて知り得た 機密情報など、漏洩させてはいけない情報につ いてはもちろん厳格に管理をし、漏洩を防が ねばならないが、他方で、株主や顧客、消費 者、あるいは取引先企業や従業員などが適切 な判断をくだし、健全な市場経済が円滑に形 成・維持されていくために、透明性の確保が重 要になってきている。換言すれば、「出しては 的な倫理性に「個人」の動機が合致しているか のチェックであって、その意味で「個人レベ ル」であることである。他の人の場合でも誰に たいしてもあてはまるかどうかをチェックする 以上、そこで検討される内容は普遍性・一般性 を保持するが、究極的には自己判断の世界にゆ だねられることになる。それにたいし、公表化 チェックに関わる議論は、普遍的であるかどう かの基準を公共的な討議の場に耐えうるかどう かにおくことで、「社会性」が担保される。行 為内容的にも他者との関わりが強いものが自然 と想定されることになるだろうし、また、その 行為者の動機の面でも、いっそう(16)普遍的で ある。 前節で確認したとおり、カントは政治に重 きがある政治的な道徳家を否定し、道徳を優先 する道徳的政治家をよしとした。カントが言論 の自由の保障を求めた相手が君主であったこと を念頭に置けば、「政治家」は施政者を中心的 に指すものと思われるが、組織内外への影響力 という点から経営倫理学に引きつければ、まさ しく経営者の役割がこれに相当するだろう。 先述のとおり、実践を重んじる経営倫理学 においては、カントの厳格主義的な議論は、と きにその実際上の実現可能性の観点から有効 性に疑問が提出されることが多いが、上記の 「公表化チェック」(政治の定言命法)は、もち ろんこれですべて解決するわけではないもの の、「行為の道徳化」をうながす点で有益な行 動原理になりうるものである。 またこれは、國部も言及していたとおり、 すべての「格律」の開示を自動的に求めるもの でもない。組織人が組織人の立場として理性 を私的に使用することには制限が課されうる。 しかし、格律の開示に「たえうる」かどうか、 公共的な「場」で公的に使用される理性の目 に照らして妥当性を有するかどうかのチェッ

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いけない」情報の切実さが増しつつも、「出す べき」情報の範疇は広がっている。情報の発信 者・受信者ともに、一定のいわゆるメディアリ テラシーが問われることになるが、そうした状 況だけに、情報公開の必要性が増していること は否定できない。 多様なステークホルダーが経営を取り巻く なかで、企業が社会的な責任を果たそうとすれ ば、適切な情報公開は欠かすことができない。 前節で確認したとおり、國部は公的責任として の社会的責任を倫理の問題としたが、それに関 連して、適切な情報公開に基づいて経営の透明 性が確保されることは、まさしく倫理的課題の 一つに発展する。こうした点に着目するとき、 政治哲学を基盤として強調されてきたカントの 「公開性」概念の重要性は、経営倫理学として も参照に値するものであると考えられる。

おわりに

本稿で取り上げた「公開性」概念は、企業経 営の中でますます重要となってきている情報公 開への姿勢を、さらに積極的に倫理学の方法論 として体系化を試みようとするものである。こ うした概念の整理は、経営倫理学の理論的整備 にさいして一定の役割を果たすものであると考 える(20) 本稿では、以上のように、カントのコスモ ポリタン論を確認し、「公開性」概念の重要性 を析出した。透明性とも通じる「公開性」概念 は、公正、公平、あるいは正義といった価値観 と並んで経営倫理学を構成する重要な概念であ ると考えられるが、それをあらためて「基礎づ け直す」ことを本稿は試みた。今後、それがど ういう具体的な有り様を示しうるものか、考察 を深めていきたい。 注

(1) 本 論 文 はBusiness Ethics Quarterly の 2012 Best Reviewer Award受賞論文であ る。 (2) 他にガーツキー(Erik Gartzke:2007) も商業関係が平和構築・維持に寄与す るとする「商業的平和」について分析し ている。 (3) この点では、上述のカントの多元主義 的なコスモポリタン像とも親和性は高 いと考えられる。「訪問」するコスモポ リタンは、訪問される側からすれば言 わば「他者」であり、グローバルな一元 化をされていない外的な文化圏の存在 を想定するものである。しかし訪問を契 機とする一体化には「歯止め」がかけら れる。その点は次節で論じる。 (4) 本 稿 で も、 政 治 哲 学 的 な 文 脈 を 踏 ま え、カントのコスモポリタンの訳語と しては「世界市民」を採用する。 (5) 2017年に、本文だけでも800頁を超し、 注・年表などをいれればほぼ1000頁に ものぼる大著のカント評伝の邦訳が紹 介され、カントの日常はよりクリアー に伝えられるようになったが、その邦 訳 装 画( カ バ ー 絵 ) が 昼 食 会 の 様 子 であることは示唆的である(Manfred Kuehn:2001)。 (6) 渋谷治美訳『人間学』、岩波版カント全 集15所収、2003年、13頁。 (7) こうした論点は拙論(新川:2015)に 詳しい。本節の以下の内容も多くをこれ によった。 (8) 政治哲学的な分析は拙論(新川:2015) に詳しい。 (9) 福田喜一郎訳『啓蒙とは何か』、岩波版 カント全集14所収、2000年、27頁。

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「Ethical Egoism: A Guiding Principle of the Market Economy?(倫理的利己主義 と市場経済(エンロン事件))」。 (19) 例えば水尾(2005)、特に170頁から171 頁など。 (20) さらに踏み込んで言えば、コスモポリ タン論と接合する意味での「公開性」概 念は、歴史哲学、政治哲学を超えて、 「経済哲学」といった領域にも拡張可能 な概念の一つとなると考える。塩野谷祐 一による講演録「経済哲学の創始者 ― 左右田喜一郎と杉村広蔵―」によれば、 新カント派の時代、すでに左右田らに よって経済学とカント哲学との接合が 試みられていた。塩野谷祐一「経済哲学 の創始者 ―左右田喜一郎と杉村広蔵―」 2005年6月21日(如水会館)、社団法人 如水会責任編集、http://jfn.josuikai.net/ josuikai/21f/59/shio/main.html( 最 終 ア クセス2018年9月28日)。その後経済哲 学は大きく展開しなかったが、カント の社会哲学は政治哲学的な文脈だけで なく経済哲学的な文脈からも捉えなお されうるものだと考える。こうした方向 性についてはさらに今後の課題とした い。 参考文献

[1] Erik Gartzke, The Capitalist Peace, American Journal of Political Science 51(1) (January 2007), pp.166-191.

[2]Hannah Arendt, The human condition, The University of Chicago Press, 1958. (志水 速雄訳(1994)『人間の条件』筑摩書房) [3]Hannah Arendt;edited and with an

interpretive essay by Ronald Beiner, Lectures on Kant’s political philosophy, The University (10) ここで想定されているのはあくまで個 人的見解の表明のあり方であり、例え ば不正などに対する意見表明(それをや めさせるために組織内外で声をあげる こと)については別の議論が必要となる だろう。 (11) 同上『啓蒙とは何か』、31頁。 (12) 特に第5章。 (13) 国際連合広報センターによるwebサイト および外務省の紹介webサイトを主に参 照した。 http://www.unic.or.jp/activities/ e c o n o m i c _ s o c i a l _ d e v e l o p m e n t / sustainable_development/2030agenda/ (最終アクセス2018年12月7日) https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/ sdgs/about/index.html( 最 終 ア ク セ ス 2018年12月7日) (14) 特に平和については、持続可能な開発 との間で、相互に必要な要素とされる。 この点はカントが『永遠平和のために』 において「公開性」概念を展開したこ とと関連して興味深い論点となりうる が、この点の検討は別稿を期したい。 (15) ボウイ(Norman E. Bowie)、同上、 邦訳76頁。ボウイは、具体的なあり方 として、従業員に財務情報を開示する オープンブック・マネジメントに言及 している(同上、邦訳69頁)。 (16) 「普遍的」であることは相対評価となじ まないが、ここでは定言命法の個人性 との対比においてこのように表現した。 (17) 水 谷(1998) の う ち、 特 に160頁 か ら 165頁。 (18) 古山(2018)所収の2論文からは特に多 くの知見を得た。第8章「エンロン事件 ─CSR完全欠落の事例研究―」、第13章

(11)

[13]水谷雅一(1998)『経営倫理学のすすめ』 丸善

of Chicago Press, 1982. ( 浜 田 義 文 監 訳 (1987)『カント政治哲学の講義』法政大学

出版局)

[4]Jeffery Smith and Wim Dubbink, Understanding the Role of Moral Principles in Business Ethics: A Kantian Perspective, Business Ethics Quarterly, Vol.21, No.2 (April 2011), pp.205-231.

[5]Jürgen Habermas, Strukturwandel der Öffentlichkeit: Untersuchungen zu einer Kategorie der bürgerlichen Gesellschaft, Suhrkamp, 1990.( 細 谷 貞 雄、 山 田 正 行 訳 (1994)『公共性の構造転換──市民社会の 一カテゴリーについての探究』第2版、未來 社、原著初出1962年)

[6]Manfred Kuehn, Kant. A Biography, Cambridge University Press, 2001.( 菅 沢 龍 文・中澤武・山根雄一郎訳(2017)『カント 伝』春風社)

[7]Norman E. Bowie, Business Ethics:A Kantian Perspective, Blackwell Publishers, 1999. (中谷常二、勝西良典監訳(2009)『利 益につながるビジネス倫理──カントと経営 学の架け橋──』晃洋書房) [8]勝西良典(2012)「カントの形式主義・ 厳格主義を擁護する――ビジネスの「倫理」 のために」、中谷常二編『ビジネス倫理学読 本』所収、ナカニシヤ出版 [9]國部克彦(2017)『アカウンタビリティ から経営倫理へ 経済を超えるために』有斐 閣 [10]新川信洋(2015)『カントの平和構想― 『永遠平和のために』の新地平』晃洋書房 [11]古山英二(2018)『経済・倫理・企業経 営』京文社印刷 [12]水尾順一(2005)『CSRで経営力を高め る』東洋経済新報社

(12)

参照

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