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プラトン『メネクセノス』と「忘却の政治」

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プラトン『メネクセノス』と「忘却の政治」

近藤

和貴

はじめに 本稿は、プラトンの対話篇『メネクセノス』で叙述されるアテナイ史のなかで、当時 画期的な戦後処理とされた「アムネスティー」が言及されていないことに注目し、その 不在の理由を葬送演説の形式的特徴に見出すことを目的とする1。 アムネスティーとは、アテナイで30 人政権の樹立とその圧政に伴う内乱後にとられた 和解措置である。デモクラシーの源流として名高いアテナイであるが、前5世紀末から 4世紀にかけてのデモクラシーの成立以後、それが途切れることなく継続したわけでは ない。ペロポンネソス戦争での敗戦を受けて、アテナイでは前404 年に、スパルタの影 響下で「30 人」ないしは「30 人僭主」と呼ばれる寡頭派政権が誕生する。彼らの支配は すぐさま恐怖政治に陥り、それに抵抗した民主派との内戦が勃発する。約10 か月にわた る戦いの結果、民主派が勝利し、デモクラシーは復活した。しかし、市民の同士討ちに よって疲弊したポリスをどのように立て直し、どのように敵対した者同士での共存を再 び可能にするのか、という課題が残った。この課題に応えるべく結ばれたのがアムネス ティーと呼ばれる和解措置である。それは内乱期の出来事を、少なくとも公的な場で忘 れ去るという決定であった。アムネスティーは内乱期の政治的対立を終結させ、かつて 対立した者同士での政治的協働を再び可能とする、後世模範となるべき和解措置であっ た。 プラトンの対話篇『メネクセノス』は、ソクラテスが他の対話篇でよくみられるよう な若者との対話を差し控え、代わりに戦没者の葬送演説を披露する特異な作品である。 この演説のなかでは、戦没者がどのような都市に命を捧げたかを説明するために、アテ ナイの歴史が記述されている。建国神話から出発するこの歴史においては、強弱の違い はあれ、ペルシア戦争やペロポンネソス戦争はもちろん、前387 年の「アンタルキダス の和平」に至るまでアテナイ史の重要事項はほとんど網羅されている。ところが、ソク ラテスは、30 人政権時の内乱とその後の様子を描写するものの、アムネスティーについ てはまったくの沈黙を守っている。アリストテレスをはじめとするギリシア世界の知識 人に高く評価され、後の西洋世界において和解方式の模範ともなるこのアムネスティー を、プラトンが歴史叙述から削除したのはなぜだろうか。 先行研究では、アテナイ内乱期の出来事は、プラトン理解に、とりわけ『ソクラテス 1 以下で述べるように、本稿の問いは神崎 [2017] が提出した独創的な枠組みに依拠している。なお、「忘 却の政治」という表現は、神崎 [2017] 11 にみられる。

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2 の弁明』(以下『弁明』)理解に不可欠な歴史的背景とみなされてきた。30 人政権とソク ラテスの関係、さらにはアムネスティーの存在によって、彼が告発された真の理由も、 裁判の展開も説明できるからである。こうした説によれば、ソクラテスは寡頭派との繋 がりを疑われ民主派から告発されたが、アムネスティーの存在によってそれを直接裁く ことができず、代わりに不敬神と若者の堕落を理由として裁判が起こされた。つまり、 『弁明』に描かれたソクラテス裁判は、表向きは宗教裁判であるが、本当は、寡頭派へ の復讐という真の理由をアムネスティーによって隠された、政治裁判なのである。 これまで『弁明』中心に語られてきたプラトン政治哲学と内乱期の政治史との関連に ついて、近年、神崎繁によってラディカルな観点が提起された。それによれば、プラト ン政治哲学は、現実に起こった30 人政権にまつわる内乱とその後処理であるアムネステ ィーに対する応答である。言い換えれば、プラトンの理想国家論と言われるもののなか には、統治者論や政体論だけでなく、理想の内乱論や理想の和解条件論も含まれている。 後者に関するプラトンの立場を知るためには、『国家』だけでなく、とりわけ政治哲学研 究でこれまで看過されてきた『メネクセノス』に注目する必要がある。なぜなら、プラ トン政治哲学の出発点は、史実としての内乱とアムネスティーに対する反論であり、『メ ネクセノス』におけるそれらの解釈や沈黙を解き明かすことこそが、プラトン政治哲学 を理解する端緒になるからである。 本稿は、主に『メネクセノス』における内乱の描写に焦点を合わせ、アムネスティー 不在の意味、とくに具体的に、何がなぜ言及されていないのかを明らかにする。以下で は、まず30 人政権期における歴史を概観し、神崎以前の先行研究を整理する。ついで、 『メネクセノス』解釈を中心に神崎説を分析し、反論を行う。こうした議論を通じて、 『メネクセノス』で言及されないのはアムネスティーだけではないこと、さらには、ア ムネスティー不在の理由は、プラトン政治哲学の成立に関係があるのではなく、むしろ 対話篇の特性である葬送演説における歴史叙述の一般的特徴に求めた方が説得的である ことを主張する。 1.内乱とアムネスティー 前404-403 年にかけて、ペロポンネソス戦争の敗戦に伴い、アテナイでどのような政 治的混乱が起き、どのように解決されたのか。本節では、後に行うプラトン対話篇の分 析に必要とされる限りにおいて、30 人政権の成立と内乱の様子を概観し、その後に結ば れたアムネスティーの内容とその政治的意義を確認する。 ギリシア世界をスパルタとアテナイの両陣営に分断して争われたペロポンネソス戦争 は、途中「ニキアスの平和」(421 年~)による約 7 年間の中断を経て、431 年の開戦以 来およそ27 年を経過した 404 年にアテナイの敗北によって終結した。クセノフォン『ヘ

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3 レニカ』(2. 2. 7-24)の記述によると、陸海ともに攻囲されたアテナイは、食料が尽き、 餓死者も出るありさまで、スパルタが提案した和平条件を大多数の賛成で受諾せざるを 得なかった。コリントス、テバイなどの諸都市がアテナイ殲滅を主張するなか、これは、 ペルシア戦争におけるアテナイの貢献を心にとどめていたスパルタの寛大な処置でもあ った。 アリストテレス『アテナイ人の国制』(以下『国制』)によれば、その後、スパルタ側 の意向で、アテナイに寡頭政権が成立する。 …和議が結ばれると、民主派は民主政の存続を図ったが、他方名望家たちの中で徒 党を組んでいる者や和議の後帰国を果たした亡命者らは、寡頭政を熱望した。…リ ュサンドロスが寡頭政を支持したため、脅威を感じた民会は寡頭政樹立を挙手採決 で決議する仕儀に追い込まれた。(『国制』34. 3)2 この寡頭政をリードしたのは、民会で選出された30 人であった(『ヘレニカ』2. 3. 2)。 彼らは、自分たちの共謀者とするべく、評議員、反対派の逮捕・取締・処罰にあたるペ イライエウスの役人、牢獄監督官などを任命した。これに加えて、彼らは鞭を携行した 護衛隊300 人を従えた。元来アテナイ市内では武器の携行が許されていなかったことを 考えると3、30 人政権が、これまでの体制に比して、いかに強権的な支配を行ったかが 理解できよう4。このようにして、彼らは「国家を独裁下に置いた」『国制』35. 1)。 30 人政権は、たんなる独裁ではなく、恐怖政治でもあった。彼らは当初は穏健で「民 衆に迎合し悪事を働く邪悪な者どもを取り除いた」(『国制』35. 3)が5、次第に、市民・ 反対派の粛清や在留外国人の逮捕、財産没収などに手を染め始める。 ところが、30 人はひとたび国家への支配をより強固なものにすると、市民の誰一人 として容赦せず、財産も出自も名声も他にぬきんでた人々を処刑し、脅威を取り除 くとともに彼らの財産を奪おうとした。そしてたちまち 1500 人以上もの人々を殺 してしまったのであった。(『国制』35. 3) 2 ギリシア語の訳出に関しては、基本的に既出の邦訳を用い、必要に応じて、文脈・原語を参照しなが ら手を加えた。 3 桜井 [1997] 6; トゥキュディデス『歴史』1. 6. 4 クセノフォン『ヒエロン』では、潜在的な暗殺者である市民から自己の安全を守るために武装した護 衛を置くことは、僭主の特徴であるとされている(2. 7ff.)。ここからも、30 人政権が僭主政的であった ことが理解できる。 5 Cf. 『ヘレニカ』2. 3. 12.

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4 プラトンは当時の様子を『第7 書簡』で振り返っている。 これらのひとたちは、ごく短時間に、かえってそれ以前の国家体制の方を黄金であ ったと思わしめる結果となりました。(324d6-8)6 こうした極端に抑圧的な政治がトラシュブロスらを中心とする民主派の反発を招き、事 態は内乱へと発展していく。 戦いは民主派の勝利に終わり、デモクラシーの回復が実現する。その際、スパルタ王 パウサニアスの仲介で、民主派と寡頭派の間で和解が成立した(『国制』38. 1)7。詳細 な記録を残しているアリストテレスに基づいて、この和解条項を要約すると次のように なる8 1.寡頭派市民のエレウシスへの移住許可と移住者の処遇 2.30 人政権下で行われたことに対する大赦 3.内乱時に外国から借りていた資金の、両派それぞれによる返済 4.30 人によって没収された財産の返済9 本稿の主題となるアムネスティーは「2」にあたる10。アリストテレスの記述では、そ の条項は以下のようになる。 過去の遺恨については、誰の誰に対するものであれ大赦を行う。ただし、30 人、10 人、11 人、ペイライエウスのアルコンだった者に対しては除く。(『国制』39. 6) これは事実上、30 人政権のリーダーとその要職に就いた者たち以外は、過去の所業を不 問に付す、という措置である。 このアムネスティーの厳密な意味に関して、神崎は次のように述べている。 6 この他、30 人政権時の政治状況を描写したものとして、リュシアス『第 12 弁論』92-99、『ヘレニカ』 2. 4. 14, 21-22 を参照。 7 『国制』38. 1. 内戦での戦局が悪化するなか、30 人は寡頭派市民たちの手で解任されていたため、正 確には30 人ではなく、寡頭派市民たちと民主派市民たちとの間の和解である。桜井は、政権の中枢にい た30 人と区別するために前者を「穏健派」と呼んでいる。桜井 [1997] 169-171. 8 桜井 [1997] 171 に依拠する。 9 『国制』39; 『ヘレニカ』2. 4. 38, 43. 10 アムネスティーと呼ばれる措置は、原文ではμνησικακεῖν(思い起こす)が否定されるという形をと っている。次の『国制』該当箇所の訳文にもあるように、その意味内容から「大赦」と訳されることが 多い。Cf. 『国制』40. 3.

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5 mē mnēsikakein という語の mē は否定辞で、動詞 mnēsikakein は、「過去の被害を記 憶して、害を加える」という意味だが、「記憶」に重点を置くか、「加害」に重点を 置くかで、「記憶の禁止」つまり「忘却」か、それとも「加害」つまり「復讐」の 禁止か、その理解に違いが生ずる。(神崎 [2017] 267) こうした問題意識を背景に、神崎は、カール・シュミットの「アムネスティー、もしく は忘却の力」、あるいは、そのなかで言及されている17 世紀イングランドで成立した「免 責および忘却の法Indemnity and Oblivion Act」に引き付ける形で、一貫してmē mnēsikakein を「あえて直訳に近い」「悪の記憶の禁止」と解している11。 神崎は言及していないが、このように解されたアムネスティーは、ハンナ・アーレン トの議論と比較するとその特徴が明確になる。アーレントは『人間の条件』で、人間の 活動に伴う苦境、すなわち自分が行ってしまったことを元に戻すことができないという 苦境に対する救済策を考察している。彼女によると、活動の結果として起こる、たとえ ば復讐の連鎖反応から人々を自由にするのは赦し(forgiveness)とその代替物である罰 (punishment)である 12。神崎の理解では、アテナイ市民は、赦すことでも罰すること でもなく、記憶を禁じること、忘却することによって、復讐の連鎖を断ち、政治的安定 を実現したということになる。 しかし、神崎が引いているシュミット自身が「[アムネスティーという語は]たんに忘 却することだけでなく、過去をほじくり、そこからさらなる復讐や一層の賠償請求を呼 び起こすことを、厳に禁じることを意味している」(神崎 [2017] 9, 括弧内引用者)と解 説しているように、アムネスティーは記憶そのものを禁止するよりも、むしろ、政治的・ 法的領域での復讐という行為を禁止しているように思われる13。たとえば、ジョルジョ・ アガンベンは次のように論じている。 『μνησικακεῖν』は『悪い回想をもつ』というよりも、むしろ『記憶で悪をなす、回 想を悪用する』を意味する。ここでは、これはスタシスのあいだに犯された犯罪の ためにこれこれの者を司法において訴追するということを示す法的用語である。ア テナイの『大赦〔amnēstia〕』は単なる忘却や過去の抑圧ではない。それは記憶の悪 用をしないようにとの誘いなのである。(アガンベン[2016] 44) 11 神崎 [2017] 9, 31, 99. 12 Arendt [1998] §33. 13 「免責および忘却の法」のタイトルにも正確には恩赦(Pardon)がつくのでシュミットの解釈は正し いと思われる。

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6 神崎説を論評した中畑正志も、「思い出さない」とは「記憶の存在を前提としつつ、それ を蒸し返さないことであり、実際には、報復のための殺害や財産の没収、あるいは訴訟 などといった行為へ訴えることを禁止するという、現実的で政治的な身振りや処置を表 すものだった」(神崎 [2017] 306)と論じている。 主な典拠であるアリストテレスの記述をみても、記憶そのものの禁止よりも、具体的 な行為における復讐の禁止の方が、アムネスティーの解釈として有利であるように思わ れる。そこでは、アムネスティーの例外として1430 人政権下で「みずから手を下して 人を殺したり傷つけたりした」者の訴追が言及されている(39. 5)。さらには、和解成立 後、アルキノスは、アムネスティーを無視した者を「他の者たちの模範にならないよう に」と罰したが、その後アムネスティーに違反して過去を蒸し返す者はいなかったと語 られている(40. 2)。これらの記述からも、アムネスティーは客観的な基準がある程度明 確な、主に法的な行為に関わるものであったとみなすのが自然であろう15。 このように、首謀者を別にして、政治的・法的な復讐を禁じることによって、内乱後 のアテナイ人たちは再びデモクラシーの体制下で協働することが可能となった。こうし た措置に対する歴史的評価は高い。たとえばアリストテレスは、和解措置の内容とアル キノスによるその厳格な適用に触れた後で、次のように述べている。 …それ以後、誰一人大赦令を破る者は現れなかった…アテナイ人は個々の市民とし ても全体としても、過去の不幸に対し他に例を見ぬほど立派に、ポリス市民にふさ わしい公共心をもって対処したと思われるのである。(『国制』40. 3) 30 人政権時の政治を厳しく断ずるプラトンも、「けれどもともかく、その時に帰国した 者たち[民主派]のやり方は、穏健なものでした」と回顧している(『第7 書簡』325b4-5. 括弧内引用者)。アテナイの政治的危機のなかで採用された、内乱時の出来事を公的な場 で蒸し返さない、という方針は、当時有効に機能し、デモクラシー再興の一因ともなっ た。このユニークな試みは、西洋史のなかで受け継がれていく。ホッブズが言及するよ うにイングランドでは実際の内乱後にこれが模倣されているし、実現しなかったはいえ、 キケロやシュミットが類似の状況下で提案したものである16 14 橋場の解釈に従う。『国制』(補注39)p. 222. 15 橋場訳では、「もしこの男を放免すれば、他の者たちにも同様の行動をとらせる.......ことになろう」と「行 動」に重きを置いた訳になっている(傍点引用者)。両派の和解について詳細な分析を行ったローニング の研究では、検討される多くの事例が訴訟に関わっている。Loening [1987] Chap. 2, 3 (esp. 121). Cf. Loraux [2002] 149.

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7 2.プラトンと内乱 これまで、歴史的な観点から30 人政権の成立と崩壊にまつわる事象を素描してきた。 では、30 人政権・内乱・アムネスティー締結といった一連の出来事を、この時代を舞台 背景として対話篇を書いた、あるいはこの時代を生きたソクラテスを主要登場人物とし ているプラトンはどのように扱っているのだろうか。本節では、後に検証する神崎説の 特徴を明確にするために、従来の『弁明』を中心とする解釈と、『メネクセノス』を出発 点に置く神崎説とを対照させる。 30 人政権とプラトンの著作との関連では、これまで『弁明』に注目が集まる傾向にあ った。市民哲学者ソクラテスに対する告発や彼に対する判決の不条理さも、弁論に現れ る一見不自然な言い回しも、彼と30 人政権とのつながりや、アムネスティーという歴史 的補助線を引くことによって合理的に解釈できるからである。 前399 年、ソクラテスはアニュトス、リュコン、メレトスの三者によって告発され、 裁判の結果死刑判決を受けた。ソクラテスの弁論を中心に描いたプラトンの『弁明』に よれば、ソクラテスは不敬虔と若者の堕落という大きく二つの廉で告発された。ソクラ テス自身が要約するところでは、それは「若者を堕落させ、また国家が崇めるところの 神々を崇めずに別の新規な神格を崇めることによって不正を犯している」(24b8-c1)と いう告発である。 しかし、30 人政権という歴史的背景を重視すると、これは真の告発理由ではないと考 えることもできる。寡頭派と民主派が争う内乱期に、ソクラテスは寡頭派に与していた、 あるいは少なくとも民主派からはそう思われていたようである。実際、プラトンの著作 をみても、ソクラテスは、将来寡頭派の中心人物(ペイライエウスの10 人)になるカル ミデス17と、対話篇『カルミデス』で対話しているし、その親しげなやり取りのなかに はカルミデスのいとことして後に寡頭派のリーダーとなり、もっとも急進的な政策を行 うクリティアスも居合わせている18。ソクラテスと彼らのサークルが近かったことは公 然の事実であったことと思われる。 寡頭派との関係をもっともよく示すのは、ソクラテスが内戦中に市内に留まっていた ことであろう。30 人政権は、名簿に登録した市民の他は市内に留まることを禁じたため、 多くの者が彼らの暴政を恐れて、外港ペイライエウスやその他の都市へ逃れていた 19 17 『ヘレニカ』2. 4. 10 18 『思い出』では、クリティアスとソクラテスは少なくとも一時期は親しかったとされている。30 人政 権時代のクリティアスとの対話内容については彼らがどのような関係にあったのか解釈は分かれるもの の、クリティアスによってソクラテスが処刑されなかったことは事実であろう。『思い出』1. 2. 12-38. カ ルミデスへの教育は『思い出』3. 7 を参照。そこでは、ソクラテスがカルミデスに国政に積極的に参加す るように促している。 19 『ヘレニカ』2. 3. 18, 41, 4. 1;『国制』36. 2-37; 桜井[1997] 169.

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8 『弁明』の記述をみると、ソクラテスは30 人政権期に市内に留まり、彼らの命令を無視 したとはいえ、30 人政権の圧政に加わるように命令を受けるほどの近さにあった (32c4-e1)20。ソクラテスの告発を主導したのがトラシュブロスと並ぶ民主派のリーダ ーであったアニュトス21であることを考えると、ソクラテスが30 人政権の知的バックボ ーンであると疑われたことや、少なくともその協力者とみなされたことが告発の引き金 になったとしてもおかしくはない。 30 人政権時代の罪がそのまま告発状に書かれていないのは、アムネスティーが原因で ある。アムネスティーの存在ゆえに、どれほどソクラテスが30 人とかかわっていたとし ても、それを理由に告発することはできなかった。告発状は、まさに、「あらゆる哲学者 たちについてよく言われていること」(24d4-5)を表面上の理由とせざるを得なかったの である22 こうした解釈をとれば、被告ソクラテスが告発者メレトスを尋問する際の本当の意味 も明らかになるだろう。メレトス尋問の冒頭で、ソクラテスはこのように発言している。 かれ[メレトス]はこれまでまったく気にもかけたこともないような事柄について、 本気で憂慮しているようなふりをしているのです。(24c6-8)23 30 人政権という背景を読み込めば、この発言は、メレトスがソクラテスを告発した理由 はソクラテスと寡頭派とのつながりであるが、アムネスティーの存在によって告発状で は直截にそれを表現できないため、代わりに哲学者に対する一般的な非難を行ったとい うことを示唆する。加えて、被告ソクラテス自身がそれを認識している、ということに もなるだろう。さらに、この解釈をとれば、尋問中にメレトスが明らかに告発状と矛盾 する発言をすることもつじつまが合う。告発状ではソクラテスが都市の神々を認めてい ないことを訴えているのに、尋問でメレトスはソクラテスが完全な無神論者であること を非難する(26c7)。これも、ソクラテスが言うように、本当は気にかけていないことを 表向きの告発理由にしたからだ、とも理解できる。 イシドア・ストーンは、プラトンのソクラテスは、一般的に寡頭派に対する偏りをも っていると主張する。クセノフォンは、ソクラテスが30 人政権の「言論の技術を教える なかれ」との命令に反抗する場面を不十分ながら示しているのに対し(『思い出』1. 2. 29-38)、プラトンのソクラテスは、自己弁護のためには効果的であるはずのこうしたエ 20 Cf. クセノフォン『弁明』18. 21 『ヘレニカ』2. 3. 42-44.

22 Brickhouse &Smith [1989] 2. 4. 2-3, 3. 1. 3. こうした解釈をとる研究のリストは、Brickhouse &Smith

[1989] 2. 4. 3, n. 42.

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9 ピソードを『弁明』でもその他の著作でも一切語っていない。これが、『国家』における 検閲擁護論と30 人政権の政策との親和性を示すとのストーンの主張は極端であろうし、 アムネスティーの存在を考えると、プラトンのソクラテスが少なくとも裁判の場では30 人の名前や政策に対する直接的な言及を差し控えた可能性も考えられる。しかし、プラ トンの対話篇のなかで寡頭派の人々が輝きをもって描かれているという彼の主張は正し い。カルミデスは才能豊かな美しい少年として登場し、クリティアスも尊敬すべき人物 として扱われている24。ストーンは、プラトンは著作内で30 人政権についてほとんど触 れず、その時代から何の教訓も引き出していないと批判する。「その奇妙な空白は、それ 自体が政治的な、選択的な健忘症の一つの症候であった。」25 30 人政権とアムネスティーの存在は、『弁明』における議論の背景や道筋のみならず、 ソクラテス(あるいはプラトン)の寡頭政的偏見をもあぶり出す。この文脈を前提とす れば、デモクラシーの名のもとに下されたソクラテスへの死刑判決は驚くべきものでは ない。 こうした、ソクラテスの寡頭政的嗜好や30 人政権との私的交友関係を読み込んで『弁 明』の語られざる真実を解き明かそうとする従来の研究の焦点をずらす形で、神崎は、 プラトン対話篇における、とりわけ、『メネクセノス』における内乱やアムネスティーの 取り扱いこそが、プラトン政治哲学を理解する鍵であると主張する。 神崎によれば、『メネクセノス』における歴史叙述の特徴は、アムネスティーに言及し ていないことである。この作品では、特異なことに、ソクラテスが対話相手の論駁を差 し控え、若いメネクセノスに対して戦没者の葬送演説を披露する。戦没者を称えるため には、彼らが偉大な都市に貢献して死んだことを叙述する必要があるため、ソクラテス もアテナイ史のなか(243d7-244b3)で 30 人政権と内乱に言及している。前に述べたよ うに、内乱後の両派による和解条項には4 つの主要項目があるが、神崎の分析では26 ここで明確に触れられているのは、第一の寡頭派側のエレウシスへの移住のみである。 第三と第四の戦費の返済と没収財産の処理については、「『葬送演説』にふさわしくない」 ため、言及されていなくても不自然ではない。注目すべきは、和解の中心事項であるア ムネスティーが言及されていないことである。『メネクセノス』のこの文脈でソクラテス は、両派が平和的に内乱を収めたことをアテナイの優れた業績の一つとして数え挙げて いるため、これは不自然である。この不在の代わりに『メネクセノス』で言及されるの が、和解の条件としてもちだされる、市民間の同族性や「同じ部族の堅固な友愛」、そし てアムネスティーとは逆の「記憶を保つこと」である。 24 Stone [1988] 162-163 ([1994] 237). 25 Stone [1988] 140-141, 162 ([1994] 205-6, 236). 26 神崎 [2017] 38-40.

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10 神崎は、『メネクセノス』におけるアムネスティー不在の理由を、ニコル・ロローの指 摘を手掛かりに考察していく。神崎が引くところでは、ロローは『引き裂かれたポリス: アテナイの記憶のうちの忘却』のなかでポリスと内乱について次のように述べている。 内乱(stasis)という関係断絶のうちに、恐ろしい仕方で確認されるのは、内乱はポリ スにとって本来的なものであり、それは政治(ポリス)的なものがなにがしか共同 のものであるかぎり、その基礎となるものでさえあるという事実である。(神崎 [2017] 15) 神崎がここに読み取るのは、内乱を病弊とみなしてそれを排除することを目指す近代的 なヨーロッパ政治思想の潮流に反する、内乱を不可避なものとみなす、あるいはそれ以 上に、内乱の発生をポリスにとっての本質とさえ捉える立場である27。内乱が「内なる もの」であるためには、それが内なるものであるゆえんのもの、すなわち市民的紐帯が 必要である、という視点こそ、神崎がロローと『メネクセノス』をつなぐ結節点であろ う。『メネクセノス』で「大地から生まれた者」という同族的な要素が強調されていたの は、それが市民的な結びつきの基盤であるからであろう。同時にそれは、万が一市民間 で争いが起こった場合、それを他者間の戦争ではなく「内なる者」同士の特別な戦い、 すなわち内乱にする。アムネスティーが欠落しているのは、そのような内的基盤が強固 な都市には忘却が必要ないからである。神崎によれば、プラトンは、記憶の禁止におけ る和解に対して、記憶を保ったままでの和解を提起している。 それは、さまざまな過去の災悪の背景の動機にまでさかのぼって、それらが「悪意」 (kakia)や「敵意(echthra)」によるものではなく、「不運」(dystychia)の積み重ね によるとする理解があり、そしてそのためにお互いの「許し」(syngnōmē)が可能 だとする考え方である。(神崎 [2017] 40) 『メネクセノス』におけるアムネスティーの不在は、プラトンによる和解の方向性、あ るいはより善い内乱とより善い和解の理解、そして、そうした和解のできる都市をより 善いものとする政治的構想を暗示している。 神崎は、このような新しい内乱・和解論を『国家』の理想国家論で例証する。一見す ると、理想国家と内乱を結びつけるのは不可思議であるが、哲人王統治を実現するには 内乱とも言えるような一種の大改革が必要であるため、『国家』においても内乱は全否定 されていない。言い換えると、理想国家にも内乱は存在する。たとえば、『国家』では次 27 神崎 [2017] 15.

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11 のように言われている。 …国を愛する者なら、育ての親であり生みの親であるものを荒廃させる…[ことは せず]やがては和解できることを期して争うだろうね。…相手を懲らしめる場合も、 善意をもってただすのであって、決して奴隷にしたり滅ぼしたりするようなことは 考えないだろう。彼らは矯正者であって、敵として相対するのではないのだから。 …それぞれの国におけるすべての人々を…自分の敵であるとは認めずに、ただその 不和を引き起こした責任者である常に少数の者だけを敵であると認めるだろう…。 (470d3-e2, 括弧内引用者) 理想の内乱論からわかるのは、理想的なポリス統一に何が必要とされているかである。 ここには、ポリスを愛する者は、大地から収穫物を収奪しても、大地そのものは毀損し ないという「地母神信仰」的な前提がみえる28。理想国家論で語られる理想の内乱のあ り方は、大地を破壊せずに民族的ルーツを尊重するという、同族的な基盤をもつ者たち によってそれを認識したうえで戦われる、和解を前提としたものである29。彼らの和解 は、忘却によるのではなく、むしろ思い出すことによってもたらされる。こうした議論 に、アムネスティーの入る余地はない。 3.『メネクセノス』における内乱とアムネスティー 本節では、神崎がアムネスティーの不自然な不在を読み取り、それを梃子に『国家』 の新しい解釈を導いた『メネクセノス』に再び焦点を当てる。彼が考えるように、プラ トンは、アムネスティーとは別の和解方式にこだわったがゆえに、アムネスティーに反 対する意思表示として『メネクセノス』のアテナイ史からそれを消去したのだろうか。 以下では、『メネクセノス』における葬送演説の機能に注目することで、アムネスティー 不在の意味を、プラトン独自の政治哲学ではなく、葬送演説の一般的特徴に求め、神崎 説に異を唱えたい。 上で述べたように、内乱終結後に締結された民主派と寡頭派両派による主要な4 つの 和解協定のうち、『メネクセノス』で明確に言及されているのは、神崎によれば、寡頭派 のエレウシスへの移住のみである。残りの3 項目のうち、神崎は文脈上、アムネスティ ーの不在だけを不自然であるとして問題化する30。しかし、『メネクセノス』と他の資料 28 神崎 [2017] 24-25. 29 プラトンはこうした内乱を「一般に認められている意味」のそれであると規定している。しかし神崎 は、これ自体すでに「理想化された内乱」ではないかと疑義を呈している。神崎 [2017] 25-26. 30 内乱期におけるスパルタの活動が言及されていないことを指摘しているので、神崎は、和解項目の不 在だけに注目しているわけではない。ただし神崎は、これも内乱を「内なるもの」と描く理想的な内乱

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12 を突き合わせてみると、不在や不可思議な描写はこの3 つに限定されないことが分かる。 まずは、『メネクセノス』の該当箇所を引用しよう。 その後、他国との関係では平穏と平和が訪れたが、われわれのあいだの身内の戦争 は、もし内乱が人間にとっての定めであるとするなら、願わくは自分の国でもこの 病がこれとは別の予後を経ることがないよう祈るような、そうした経過をたどった。 実際、市民たちが、ペイライエウス側とアテナイ側の双方から出てきて、いかに喜 ばしげに、親しげに互いに交わり、またおおかたの予想に反して、同じことが他の ギリシャ人たちに対しても起こった。そして、エレウシスに逃れた者たちとの戦い もいかに穏やかに納めたことだろう。他でもないこれらすべての原因は、真の同族 性であり、それは同じ部族の堅固な友愛を、言葉ではなく行いにおいてもたらすも のなのである。 だがわれわれは、この戦いにおいて互いの手にかかって斃れた者たちのことをも記 憶にとどめ、こうした葬儀の折には、祈願や犠牲などわれわれにできる限りのやり 方で、今は彼らを支配する神に祈りながら、彼らと和解せねばならない。というの も、残ったわれわれもまたすでに和解しているからである。実際、彼らが互いに戦 ったのは、悪意によるものでも、敵意によるものでもなく、不運のためだった。こ こに生き残っているわれわれがその証人である。というのも、彼ら死者と生まれを 同じくするわれわれが、われわれが行ったことと被ったことを、お互いに許し合っ ているからである。(243d7-244b3, 神崎 [2017] 32-33) 『メネクセノス』のこの箇所と比較すると、他の資料、たとえば『国制』には30 人政 権の過激さが直接記述されていることが分かる。第一節で述べたように、彼らは支配権 を握って配下の者たちを任命すると、市民や在留外国人の財産を没収し、すぐに 1500 人以上の者を殺害した(35)。この後も、30 人政権内部で穏健派テラメネスが主流派ク リティアスに異を唱えると、後者は前者を殺害した。さらに全市民から武器を取り上げ 31「悪逆残忍の度を増した」37)。プラトンの記述には、内乱のきっかけになった、こ のような30 人政権の残忍さが抜け落ちている。 内乱そのものの激烈さは、『ヘレニカ』(2. 4)に詳しい。そこにはアテナイ人同士が策 をめぐらし、奇襲をかけ、互いを殺害するさまが淡々と綴られている。民主派のリーダ ーであったトラシュブロスは、同国人との戦いに臨み、自陣の兵を鼓舞した直後、自ら 論と結びつけている。神崎 [2017] 34-36. 31 アテナイ人にとって武器を取り上げられることがどれほど屈辱的であったかは、リュシアス『第12 弁論』95 をみよ。

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13 先頭に立って討ち死にする(2. 4. 12-19)。市内に残った者たちは、民主派が優勢になる と不安にさいなまれて、いたるところで口論を繰り返した。彼らは、相互不信から護身 用の盾を持ち歩くだけでなく、民主派からの攻撃を恐れて暗くなると馬に乗って歩き回 った(2. 4. 24)。彼らは、両派ともに捉えた相手の兵を殺害している(2. 4. 26-27)32。両 派が和解に至るのは、このような同国人同士の争いを経てのことであった。プラトンに はここに至る経緯の記述もない。 アムネスティー締結後も、プラトンの記述に反して内乱の恨みは残っていたようであ る。桜井は、アムネスティー成立後も、30 人政権に対する怒りや恨みなどから、政権に 関わった者を別の理由で告発する事例が相次いだと報告している 33。ブリックハウス& スミスも、アムネスティーは「訴訟当事者に対して、民主政の回復以前の出来事に、十 二分に、また、間違えようのない仕方で言及することを、いかなる仕方でも禁じなかっ た」と論じている34。したがって、30 人とは別件でその関係者に対して訴訟を起こし、 内乱期の悪行を陪審員に思い出させる、あるいはあてこすることで有罪判決へ誘導する、 ということは可能であった。「若者を堕落させた」罪で訴えられたソクラテスの裁判を、 この例として挙げることもできるかもしれない。少なくとも、『メネクセノス』で述べら れているようには、美しく後腐れの無い和解が結ばれ継続した、というわけではない。 『メネクセノス』では、なぜ、このような歴史的事実の省略や消去、あるいは修正が 行われているのか35。その理由を探るために、改めて葬送演説の特徴を考察してみよう。 ソクラテスの演説は基本的にそれを踏襲して行われているからである。トゥキュディデ ス(2. 34)によると、アテナイには、毎年、戦争で死んだ者たちの国葬を行う習慣があ った。葬儀には、遺体の安置、棺の行列、墓前での哀哭、墓地への埋葬などが含まれる。 一連の儀式の最後には、市民から選ばれた者が、戦没者を称賛する演説を披露する。も っとも有名なものは、トゥキュディデスに記録されたペリクレスの演説であろう。そこ 32 ただし、トラシュブロス側は、敵軍に属している者であれ、同国人に対しやや穏健であったようであ る。『ヘレニカ』2. 4. 19. 33 桜井[1997] 172. 当時を生きた者たちが内乱をどのようにみていたのかは、資料に現れる彼らの言葉 からうかがえる。『ヘレニカ』では、トラシュブロスは、30 人政権の暴政について、彼らは「食事中に、 睡眠中に、またアゴラにいるときに」市民を捉え、悪事を働いていない者たちを追放したと述べている (2. 4. 14)。民主派のクレオクリトスも、30 人を不敬極まりないと批判し、「彼らは己の利のため、ペロ ポンネソス側全軍が10 年間の戦争で殺した数をほとんど上回るアテナイの人々を、八ヵ月で亡き者とし てきたのだ」(2. 4. 21)と非難する。内乱後、弁論家リュシアスは、30 人政権の一人を告発するなかで、 「もし諸君が彼らとその子らを死刑にしたら、われらはあの殺害に報いるに十分な罰を与えたことにな るだろうか、父も息子も兄弟も裁判抜きでこの者たちが殺してしまった、あの殺害に」と問いかけてい る(83)。当事者たちのこのような感情もおそらくは知っていながら、プラトンは比較的「穏やかな」内 乱を描き出す。 34 Brickhouse &Smith [1989] 74 ([1994] 116). 35 以下の『メネクセノス』解釈は、近藤 [2015] に依拠する。

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14 では、父祖の偉大さ、政体の優秀性、独自の生活習慣、戦没者の勇敢さ、そして、生き 残った者たちへの激励が語られる。『メネクセノス』のソクラテスは、一般的なアテナイ の習慣に倣い、オーソドックスな葬送演説の完成版を、プライベートな場面でメネクセ ノスに語り聞かせるという形式で披露している。 ソクラテスによるこうした伝統的な演説の披露は、長く解釈者を悩ませてきた36。対 話篇のなかで、ソクラテスは通常、弁論術やそれを教授するソフィストの批判者として 描かれているからである。問いかけを中心とする哲学的な対話は、一方的に自己主張を 展開するソフィスト的な長口上とは対極に位置すると理解されることも多い。こうした 問題を受けて、『メネクセノス』の解釈は、これまで二つの道をとる傾向があった。一つ は、ソクラテスの演説をパロディーとするものである。哲学者ソクラテスは演説にコミ ットしているわけではない。あくまで、彼は葬送演説の悪しき特徴を暴露的に指摘し、 それを批判する立場を堅持しているというのである37。もう一つは、ソクラテスは葬送 演説を修正し、アテナイ人のより善き生やポリスのより善きあり方に貢献するような内 容の演説を行っているというものである。この立場をとれば、ソクラテスの演説は、哲 学に基づいた教育、あるいは啓蒙ということになる38『メネクセノス』全体の解釈は本 稿の主題の範囲を超えるため、ここでこの解釈上の問題を深く議論する必要はない。こ こでは、ソクラテスの真の目的はどうであれ、これまでの主要な『メネクセノス』研究 では、ソクラテスは伝統的な葬送演説の、内容はともかく、少なくとも形式は踏襲して いると解されてきたことを確認できれば十分である。 ソクラテスが模倣する葬送演説の特徴は、葬送演説が聴衆に何を提供しようとしてい るかをみることで明らかになる。アリストテレス『弁論術』によれば、弁論術は、大き く審議的なもの、訴訟的なもの、そして演示的なものの3 つに分類できる(1. 3)。葬送 演説は、聴衆に向かって戦没者を称えることを旨とするため、演示的なもののうちでも、 称賛と美にかかわるものとなるだろう。公的かつ荘厳な場で、遺族を前にして死者を称 えるこうした演説には、かなりの程度の誇張が含まれる。ロローは、アテナイの葬送演 説を分析した『アテナイの創出:古代都市における葬送演説』のなかで、この演説によ って作られるのは偉大なアテナイというイメージであり、それは聴衆にとって「現実よ りもより真実な」ものとなると論じている39。葬送演説の演説者たちは、戦争遂行とい う目的のために、死に値する都市を言葉によって作り出すことに精力を注いだ。こうし た演説の特徴については、『メネクセノス』の冒頭でソクラテスが論評している。それに 36 近藤 [2015] 128-130. 37 こうした解釈の代表例として、Dodds [1959]が挙げられる。

38 こうした解釈の代表例として、Kahn [1963]; Pappas and Zelcer [2015]が挙げられる。 39 Loraux [2006] 177.

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15 よれば、葬送演説は「取るに足らぬ人物でも飾り立て」、それを聞くと自分が前より偉大 な気分になって、祖国もずっと素晴らしいものであるように感じる。葬送演説は「魂を 魔術のように魅了する」のである(234c1-235c5)。 こうした、装飾による誇張、あるいは賛美のための歴史事実の改訂については、現存 する葬送演説に実例がみられる。たとえば、リュシアスは『第二弁論』で、マラトンの 戦いに参加したアテナイの先祖たちを「ギリシアのなかであらゆる危険を冒して何万も の夷狄に立ち向かったのはかれらのみであった」と称賛する(20)。しかし、ヘロドトス の記述をみると、マラトンの戦いには、プラタイアからの援軍があったことがわかる(6. 102-120)。アテナイ人は、けっして「かれらのみ」が何万もの敵に立ち向かったわけで はないのである。もちろん、アテナイ人が中心となって活躍したことは事実であるから、 リュシアスの描写は正確ではなくとも、完全な間違いではない。これは、アテナイを賛 美するための誇張表現とみるのが適切であろう。 『メネクセノス』にも同様の例がみられる40。たとえば、ソクラテスの演説では、リュ シアスと同じくマラトンにおけるプラタイア軍の活躍に触れられていない。そのため、 アテナイがペルシアの大軍と単独で対峙したように描写され、その分アテナイの偉大さ が際立つように演出されている(240c2-d1)。こうした歴史的事実の詳細のみならず、そ の評価、あるいは戦争の目的そのものにもソクラテスは手を加えているようにもみえる。 彼は、アテナイの戦争遂行はそもそも自由のためであり、侵略のためではないと語る。 トゥキュディデスにおいては、その動機の一つが「欲望がかきたてられた」ためとされ ているシケリア遠征も(6. 8)、ソクラテスの演説ではレオンティノイ人の自由獲得のた めであったと主張されている(242e4-243a7)。こうした歴史叙述のなかでは、帝国主義 的な外交政策は語られず、代わって、アテナイ人は、ギリシア人と自国民の自由を守る 戦士として称えられる。 『メネクセノス』における内乱期の記述も、このような葬送演説の伝統的特徴と、そ れを踏襲して作られた対話篇の歴史描写の性格を念頭に置いて評価すべきであろう。30 人政権の残虐さに触れられないのは、これに触れるとアテナイの偉大な政治史を称える ことができなくなってしまうからである。ソクラテスは演説のはじめからアテナイが一 貫して父祖の優れた政体を引き継いでいることを強調していた(238b7-239a4)。内乱の 悲惨さの削除も、自由や都市の偉大さのためにのみ戦ったとする価値観に反する戦いの 存在を認めることを避けたことがその理由であろう。彼らは「悪意」や「敵意」で戦っ たのではない。内乱が自由のための戦いでない以上、「不運」が原因で戦ったのだ、とし ておかざるを得ないのである。 アムネスティーの不在もこの線で理解できる。30 人の政治が苛烈で内乱が激烈であっ 40 近藤 [2015] 146-151.

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16 たからこそ、和解の重要性が際立つ。プラトンはこれを第7 書簡で表現している。それ によれば、「…体制に変革が重なれば、各勢力の間で敵に対する報復が過剰になること は、何の不思議もなかった。そのなかで、この時帰還した民主派の人々は、少なくとも かなりの穏健な態度をとったのである」(325b1-5, 神崎 [2017] 48)。『メネクセノス』で 30 人の残虐さと内乱の苛烈さが消去されれば、必然的に和解の重要性は小さくなる。な ぜなら、「不運」によってのみ、語るに値しないほどの戦闘を行ったに過ぎない者たちの 間には、和解措置は不要であるし、あったとしても劇的なほどに穏健なものとはみなさ れないからである。言い換えれば彼らには最初から「忘れるべきこと」などないのであ る。神崎も、『メネクセノス』における経済的な事項の不在を「修辞上の問題」とみなす 視点を有していた41。アムネスティーの不在も、葬送演説の論理に従った「修辞上の問 題」とみなすことは可能であろう。アムネスティーの締結には、身内同士の激烈な戦闘 行為が前提とされるからである。 おわりに 本稿は、『メネクセノス』で網羅的に叙述されるアテナイ史から、アムネスティーが欠 落しているのはなぜかを問うてきた。神崎の研究では、プラトンがアムネスティーのオ リジナルな意味に込められている「忘却」による和解を退け、同族性を「想起」する和 解を理想的なポリスの統一原理にしたことが、不在の原因とされる。したがって、『メネ クセノス』での不在は『国家』の体制論と直接つながっている。これに対し本稿では、 葬送演説の「誇張」の技法に注目した。ソクラテスが演説のなかで、一貫してアテナイ の戦争を称賛に値するものと表現しているため、アムネスティーの不在もその延長、つ まり身内同士の戦いを可能な限り穏健なものと描写したためであると解釈した。現実の アムネスティーは、残酷な政権の存在とそれに抵抗する市民たちとの激烈な戦闘を前提 とする、画期的な和解措置であったからである。 しかし、こうした議論をもって神崎説を完全に退けられるわけではない。神崎は、3 つの大波や制度論以外の地点からプラトン政治哲学を分析する視座を提供している。こ れを活用して、哲人王統治のベースにある、ポリス統一原理の理解が可能となるだろう。 さらには、それを『メネクセノス』にフィードバックすることもできる。ソクラテスの 演説は解釈困難な内容を多く含んでいるが、神崎のように『国家』との類似性に注目す ることがその手引きとなるかもしれない。『メネクセノス』におけるアムネスティー不在 の解釈は、プラトン政治哲学の新しい解釈に道を開くものである。 41 神崎[2017] 39.

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17 <参考文献> 神崎繁. 2017. 『内乱の政治哲学:忘却と制圧』講談社. 近藤和貴. 2015.「ソクラテスの葬送演説:プラトン『メネクセノス』における弁論術と 教育」西永亮編『シュトラウス政治哲学に向かって』小樽商科大学出版会. 桜井万里子. 1997. 『ソクラテスの隣人たち:アテナイにおける市民と非市民』山川出版 社.

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【ギリシア語文献邦訳】

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参照

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