除の政治言説の構築 : プレアビヒア寺院を事例に
して
著者
重政 公一
雑誌名
関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review
of the institute for advanced social research
号
9
ページ
1-19
発行年
2013-03-31
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
論 文
はじめに
タイとカンボジアとの国境未確定地域に隣接した場所に 2008 年 7 月にカンボジア政府によって 「顕著な普遍的価値」をもつ文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録された 11 世紀の建築物といわ れるプレアビヒアヒンズー教寺院(the Temple of Preah Vihear;タイ語では Khao Phra Viharn)が ある。これまでの領土・領域をめぐる主要な争点は問題となる地域の帰属と包摂(帰属先を認めら れた側)と排除(帰属を認められない側)との二面性の関係から捉えられてきた。しかし、本研究 が対象とする人類共通の遺産ともいうべき世界遺産が含まれる地域は国境未確定地域を抱え、両当 事国にとって「領有権」をめぐる対立が残っている。理想主義的に言えば、この問題の解決は従来 の国益が対立する包摂/排除の構図を越えて人類の公共益の視点から捉え、保護されるべき対象と されなければならない。 1962年の国際司法裁判所(以下、ICJ と略記)は、1959 年にカンボジア政府によって提訴され たプレアビヒア寺院の事案に判決を下した。ICJ は当該寺院がカンボジアの主権の及ぶ領域にある こと、タイ側は当該寺院とその近隣(in its vicinity on Cambodian territory)に配備している軍、警
察、警備、維持兵力を撤収させる義務を負うことを、9 対 3 の判決を下して結審した1)。ICJ 判決
──────────────
1)Case Concerning the Temple of Preah Vihear(Merits)Judgment of 15 June 1962[http : //www.icj−cij.org/docket /files/45/4859.pdf]accessed on 30 Aug 2012.
境界線上の世界遺産保護をめぐるセキュリティ/
排除の政治言説の構築−プレアビヒア寺院を事例にして
重 政 公 一
(関西学院大学国際学部准教授) 要 旨 11世紀の建造物とされているプレアビヒア寺院をめぐっては 1962 年の 国際司法裁判所で寺院の帰属はカンボジア領と規定されたが、カンボジアとタイ両国で国 境未確定地域を含む領土問題となってきた。カンボジア内戦終了後の 2000 年代になり、 この問題はカンボジアとタイの両国の政治指導者、国内の市民、反市民社会アクターを越 えた脱国家的リンケージの展望を示してきた。本研究では国際関係論のセキュリタイゼー ションを援用し、両国の社会的安全保障の観点からプレアビヒア寺院をめぐるアイデンテ ィティー政治言説の構築を分析する。 キーワード プレアビヒア寺院、世界遺産、セキュリタイゼーション、タクシン・チ ナワット、フン・セン、PAD、UDDは当該寺院の帰属先を判決で下したが、その近隣付近を含む国境線の画定には判決を下していな い。その後タイ側は不承不承ながらもこの判決に従い、兵力などを撤収させ判決を履行した。国境 線未確定地域は両国間で未解決の問題となった。カンボジアはその後、1970 年から 1990 年代末ま で「30 年内戦」に突入し、国境線画定の問題は未解決のままとなった。 カンボジア内戦も終結し、この国境未確定地域は両国間で顕在的な紛争とはならなかったが、な ぜ 2008 年のユネスコ世界遺産登録以降、幾度となく両国間の紛争に転じてしまったのか。1962 年 ICJの判決で「解決済み」であるプレアビヒア寺院をめぐる問題は、両国間の軍事衝突を経て、カ ンボジア政府が再び、ICJ に 1962 年の判決の意味と範囲を明確にするため解釈を要求し再び注目 を浴びることになったのはなぜか。この問いへの鍵は、国境未確定地域に関与する人々の紛争を潜 在的抑制させておいた政治的言説空間がローカル・アクター(主に住民、軍部、非国家的アクタ ー、メディアなど)によって安全保障問題化(セキュリタイズ)され、リージョナルな顕在的な対 立へと言語空間を昇華させ、武力行使に至ったと考え、その政治過程を分析することにあると考え る。 2011年のタイ側からの攻撃を経て一時両国は緊張状態に陥ったが、現在は ICJ による勧告を受 け、東南アジア諸国連合(ASEAN、特にインドネシア軍)による停戦監視受け入れの準備が進め られている最中である。そしてカンボジア政府が要請した 1962 年の ICJ 判決の解釈−寺院の帰属 に関する主権ではなく、その近隣の確定線がどこにあるのか、1962 年判決がそれを明示していな いために生じた両国間の「紛争地帯」をめぐる判断を待っている段階である。2015 年までにアセ アンが共同体構築をめざすなかで、「不戦の共同体」を形成する流れに逆行するかのような本事例 はアセアンにとっても存在意義が問われることとなろう2)。 本報告では現地調査を踏まえ、カンボジア、タイ政府当局、タイ、カンボジアのメディア(主と して英字新聞)における論評などから得られたデータ、2006 年以降のタイにおける「ポスト・タ クシン」時代の国内政治とのリンケージ、国際関係論のセキュリタイゼーションとの関係につい て、特にセキュリタイゼーションがなぜディセキュリタイズされるのか明確にしていない部分をタ イ、カンボジア国境紛争のなかにおける「適切な曖昧さ」を手がかりに考察してみたい。
1
.セキュリタイゼーション、ディセキュリタイゼーション−ASEAN 的転回
国際関係論、国際政治学におけるセキュリタイゼーションの導入はコペンハーゲン平和研究所 (the Copenhagen Peace Research Institute : COPRI)を中心とした O. ウィーバー(Ole Waever)らの 研究を嚆矢とする。その特徴は国家エリートがある特定の問題(群)を安全保障上の問題だと認識 し、それを発話(言語行為論でいう発語内行為)がなされるという言術的(discursive)慣習から 始まる。安全保障はこのセキュリタイゼーションが少ないほど確保できると考えられる。この安全 保障の言語行為を国家エリートが行う場合、あるイシューが実存する脅威となり、通常の政治的手 続きを超えた行為を正当化する手段につながると説く。このイシューは 5 つの領域(軍事、環境、 ──────────────2)Bilveer Singh,“Thai-Cambodian Skirmishes : Endangering ASEAN’s raison d’etre?”RSIS Commentaries No.21/ 2011 15 February 2011.
経済、社会、政治)で転回されると説明される3)。本稿はこの原著的(第一世代)セキュリタイゼ ーションのなかの社会的安全保障を重視する。いつ、どのようにあるイシューが社会によって安全 保障の観点から対処されるかは、アイデンティティーに関わってくるものと考えられる。この領域 では人の移動にまつわるセキュリタイゼーション、移民問題が着目されている。後述するように、 アイデンティティーがナショナリズムと一体化される場合(タイの国内政治、2000 年代)はとり わけこの視点は重要であると思われる。 クメールの文化遺産を他国(主にタイ)が侵掠、略奪、占拠を行う、カンボジアに属するとは認 めないと発話する(その周辺地域の紛争はいましばらくおいておく)といった事例はプレアビヒア 寺院にも該当し、まさにアイデンティティーに影響を及ぼす。国家安全保障と社会安全保障の二元 的関係はウィーバーによると、国家安全保障は主権を究極的な判断基準とし、社会的安全保障では アイデンティティーがそれに相当する4)。プレアビヒア寺院に関するこのセキュリタイゼーション の起こりは、第一に 20 世紀初頭からカンボジアの旧宗主国フランスとシャム(現、タイ)との間 における同寺院の帰属に関する交渉(セキュリタイゼーションの萌芽期)、第二に同寺院に関する 文化的遺物の略奪と奪還に関すること(セキュリタイゼーションの展開)、第三に寺院が位置して いる周辺地域が両国の国境線として未確定なままであることから由来する問題(セキュリタイゼー ションとディセキュリタイゼーションとが混在している状態)が挙げられる。とりわけ、第三の問 題は 1962 年から 2008 年のユネスコによる世界遺産登録まではセキュリタイズされなかったが、タ イによるセキュリタイゼーションは多分に国内社会におけるアイデンティティーと密接に関連して いる。さらに小規模とはいえ軍事衝突を繰り返し、近隣住民の立ち退き、強制移動など人の移動を 強いており、社会的安全保障の視点から捉えることができる。 もちろん、セキュリタイゼーションアプローチは社会的な領域のみが重要なわけでない。「第二 世代」のセキュリタイゼーションも論じられ、原著タイプが欧州中心の視点が地域的に拡大し、地
域的安全保障コンプレックス論(regional security complex)まで発展している5)。しかし、セキュ
リターゼーションアプローチのもつ問題点は、いつ、なぜセキュリタイズされた問題(群)が脱セ キュリタイズ(desecuritize)されるのか明確な回答を示してこなかったことにあると思われる。こ れは第二世代にも共通している問題であろう6)。脱セキュリタイズされれば、もはやある問題 (群)は脅威とは認識されなくなり、通常の政治過程で対処される通常のイシューに変わるのであ る7)。セキュリタイゼーションはこの脱セキュリタイズの過程も重要視されるが、前述の問いはさ ──────────────
3)Ole Waever,“Securitization and Desecuritization”in Ronnie Lipschutz(ed.)On Security(New York : Columbia University Press, 1995),pp.46−86, Barry Buzan, Ole Waever and Jaap de Wilde, Security : A New Framework for
Analysis(Boulder : Lynne Rienner, 1998),pp.23−9, 及び Michael Williams,“Words, Images, Enemies : Securiti-zation and International Politics”International Studies Quarterly, Vol.47, 2003, pp.511−32.
4)Weaver, op. cit., 1998, pp.66−7.
5)Barry Buzan and Ole Waever, Regions and Powers : The Structure of International Security(Cambridge : Cam-bridge University Press, 2003),言語理論、ハーバーマス的討議的ディスコースとの接点など第二世代のセ キュリターゼーションについては、Special Issue on the Politics of Securitization, Security Dialogue Vol.42, No.4−5、2011 所収の論文を参照されたい。
6)例えば、Thierry Balzacq(ed.)Securitization Theory : How Security Problems Emerge and Dissolve (Abing-don : Routledge, 2011)
ながらアポリアのようにも思える。プレアビヒア寺院をめぐる諸問題は現在も係争中であり、デフ ィニティブなディキュリタイゼーションの回答を提示できるわけではない。しかし、ASEAN 政治 にみられる「適切な曖昧さ」から手掛かりを見出すことはできよう。 ASEAN憲章にみられる紛争解決の公式の制度は、憲章第 22 条一般原則(対話、協議、交渉を 通じた平和的解決)、第 23 条仲介、調停、斡旋、第 25 条紛争解決メカニズムの設立、第 26 条未解 決の紛争を ASEAN サミットでの決定に委ねるとされている。憲章第 26 条に至ることのないよう に ASEAN は加盟国内での紛争当事国で適切さの論理で解決されることが期待される。こうした紛 争とは dispute を指し、conflict を指すのではない。ASEAN には前者の解決メカニズムは存在して も、後者の紛争メカニズムは存在しない。このことが、行為の適切さと行為の曖昧さが解決メカニ ズムに作用する余地を残すと考えることができる。プレアビヒア寺院問題に関係した ASEAN ウェ イ8)の内容では「過敏性」と「曖昧性」、「婉曲主義」との相克がみられる。そのなかに「適切な曖 昧さ」(appropriate ambiguity)が実践されるように思われる。政治制度のなかの適切さの論理は一 旦メンバーになると、そこでのルールや役割期待に添うような行動を取るように学習し、メンバー のアイデンティティーが共有され、秩序、予測性、柔軟性が高まると考える9)。さらにミクロレベ ルでは紛争解決に向けた途上で第三者からの説得、社会的影響、プレッシャーなどの要因が加わる ことも想定される10)。適切さの論理を煎じ詰めれば、ある行動を取ることが自己に期待されている 役割だと認識し、周囲もそう期待し、役割に添う行動を取ることが妥当であるからそのように行動 すると考えられる。 一方、メンバー間で論争の余地のあるイシューをめぐっては ASEAN 内(広義で多国間のメンバ ーシップで構成される機構であればどれでも)で適切さの行動だけが希求されるわけでなない。例 えば、「人権」をめぐっては ASEAN 内でも対立するアイデンティティーが恒常であるし、ASEAN 人権宣言策定をめぐる政治過程でも、ラオス、ベトナム、シンガポールとタイ、インドネシア、フ ィリピンという人権協力消極派と推進派、さらに穏健派といった異なるアイデンティティーが見ら ──────────────
8)黒柳米司『ASEAN 35 年の軌跡−‘ASEAN Way’ の効用と限界』有信堂、2003 年、155 頁。
9)ジェームス・マーチ、ヨハン・オルセン(遠田雄志訳)『やわらかな制度−あいまい理論からの提言』(日 刊工業新聞社、1994 年)、235−8 頁。
10)Alastair Johnston, Social States : China in International Institutions 1980−2000 (Princeton : Princeton University Press, 2008),Chaps. 3&4.
れる11)。こうしたアイデンティティーは国益の違いによってもたらされる。異なった国益を追求し 対立する、しかし、妥協できる落としどころで全メンバーが合意しなければならない ASEAN の場 合では、対立を顕在化させる前に曖昧な行動への配慮がどこかから作用する。また、この曖昧さは 適切さと適合(fit)する場合には、曖昧さは後退し、行動のなかに適切さの要素が徐々に現れてこ よう。このような適切さのなかに曖昧さを残しておくことが行動様式にみられるならば、社会的安 全保障のなかのセキュリタイゼーションと脱セキュリタイゼーションとの関係をカンボジアとタイ 両国間のプレアビヒア寺院問題とそこに関与する政府、非政府間アクターの構築した言説を中心に 分析する。
2
.1962
年 ICJ 判決への道のり
−フランス−シャム、カンボジア−タイ関係のなかのプレアビヒア寺院問題
12) 2−1 フランス−シャム間での国境画定へ向けた試み(1904 年∼1941 年) 20世紀初頭、カンボジアはフランスの保護下にあり、タイはシャムと呼ばれていた。ここに至 る過程は 1863 年 8 月の友好、通商、保護条約でカンボジアはフランスの保護国となった。その四 ヶ月後に追随して結ばれたシャム−カンボジア条約ではシャムはカンボジアをシャムの「隷属国家 (vassal state)」と規定した。これ以降、フランスのインドシナの進出にシャムはいくつもの領土を 確定する条約をフランスと締結していく。 1904年のフランスとシャムの条約は 1893 年の条約の履行に関して、国境線画定につき東ダング レック地域(ここにプレアビヒア寺院が位置する)に境界線を規定することを定め、両締結国間が 指名した役人で構成される「合同国境画定委員会(Mixed Commission)」がこの境界線の調査と作 業にあたることを決定した。第 1 条ではダングレック山脈の東側に添う分水嶺線にしたがって境界 線を定めるとし、第 3 条ではこの境界線確定の実際の作業をフランス、シャムの合同委員会が行う と定めた。この結果、両国合同国境画定委員会は第一次と第二次まで続き、最終段階で地図の作成 と公刊を意図しており、1907 年秋まで合計 11 枚の地図を作成した。シャム政府の要請によって、 フランス当局がプレアビヒア寺院をカンボジア領に示す国境地帯の地図を作成した。 1907年 3 月のフランス−シャム条約はバタンバン、シエムレアプ、シソフォンをフランスに割 譲することを認め、1904 年の条約により執行した第一次合同国境画定委員会の調査、作業を最終 的に確定させるために、第二次合同国境画定委員会が設定された。第二次合同委員会はシャムとフ ランスとの領土の交換から新しく国境線の確定作業をすることになったが、第一次合同委員会で作 ────────────── 11)拙稿「東南アジアにおけるトラック 2 とトラック 3 との競合的協調関係−人権規範促進に向けた水平対話 モデルの考察」『国際政治』第 169 号、2012 年、60−72 頁。12)歴史的事実の記述など特に断りのない場合、本節は ICJ の 1962 年判決 International Court of Justic, Case Concerning the Temple of Preah Vihear(Cambodia v. Thailand)Merits, 15 June 1962[http : //www.icj−cij.org/ docket/files/45/4871.pdf]及び Chuch Phoerun 氏,President of National Authority for Preah Vihear, Secretary of State, Ministry of Culture and Fine Arts, the Kingdom of Cambodiaからの提供資料によった。同氏に感謝申し 上げる。
業、確定していた国境線を寺院の領域とさらに東側に延伸した。プレアビヒア寺院はカンボジア領 内にあると示された。この第二次合同委員会の地図は 1908 年にシャム政府にも伝達された。この 11枚の地図は後にカンボジアから ICJ に Annex 1 として提出されることになった。この 1904 年に 設立と目的が明文化され、1907 年終わりまでに 11 枚の地図を作成した合同委員会そのものの法的 立場をタイは後に疑義を呈した。タイ側はこの地図の作成を依頼したこともあり、この国境線の確 定作業に無関心であったわけではなかった。合同委員会は当事国のシャムもメンバー構成してい た。しかし、問題はシャムも構成員ではあったが、この合同委員会にメンバーを派遣しなかった点 にある13)。タイは 1904 年のシャムとこのフランス保護国の地が分水嶺で確定されていると思い疑 義を呈さなかった。タイは 1930 年代になって初めて、実際の分水嶺と合同委員会の作成した地図 との間に「ズレ」があることに気づいたが、1940 年代にも国境の変更ないし確認の機会があった にもかかわらず、一切このズレを是正するために何ら抗議や意義申したてを行わなかった。 1940年のタイによる仏領インドシナへの侵攻は後に日本からフランスへの圧力もあり、翌年に 東京協定で終結した。この結果、日本の威圧に乗じた形でタイはフランスに対してバタンバン、シ エムレアプ、プレアビヒア寺院をタイに引き渡すよう要請した。第二次大戦までに寺院の所有者は フランス保護国カンボジアからタイへと代わった。 2−2 1962年の ICJ 判決とその後 第二次世界大戦後、シハヌーク国王(Norodom Sihanouk)とフランスは 1941 年の東京協定を無 効にするワシントン協定を結び、バタンバンやその他の北西地域をフランスに戻し以前の現状に戻 した。タイのプリディ首相(Pridi Phanomyong)も戦後、フランスから収奪した領土をフランスへ 返還することに合意した。タイのこうした意図は、タイが国際社会から侵略者や枢軸国のメンバー として日本やドイツのような途を踏みたくない、さらに国際連合に加盟したいなどの国益が働いて いた14)。1947 年のフランス=シャム調停委員会でタイはプレアビヒア寺院や地図上の国境線と条 約上の国境線に言及することはなく、依然、プレアビヒア寺院はタイの管理下に置かれたままであ った。 1953年にカンボジアは独立を果たし、クメール文化の象徴としての同寺院の支配をタイから奪 還しようとしたが、タイ側からの軍事を含めた攻勢に遭った。翌年にタイは同寺院を占領し、シハ ヌークによる寺院とその近隣からのタイ兵士の撤収の要請もタイ側は受け入れなかった。タイ政府 はカンボジアに接する 5 つすべての県に非常事態宣言を行った15)。これを契機に両国は外交関係を 一時凍結した。カンボジアの同寺院をめぐるセキュリタイゼーションは、寺院の帰属を文化、社会 的アイデンティティーに関すること、主権に関する国家の存亡に関することとして 1959 年に ICJ ──────────────
13)Puangthon Pawakapan, State and Uncivil Society in Thailand at the Temple of Preah Vihear(Singapore : Institute of Southeast Asian Studies, forthcoming),p.41.
14)Borders of Cambodia, including : Preah Vihear Temple, Cambodian-Thai Border Stand-off, Koh Kong Province,
Amphoe Aranyaaprathet, Amphoe Kholong Yai, Poipet, Pong Nam Ron District, Ou Chrov District, Moc Bai, Bavet, Gulf of Thailand, Tonle San, Mekong( Publisher unknown : Hephaestuts Books, Publishing year un-known),p.14.
に一方的提訴という形で現れた。 カンボジアの提訴理由は、第一にダングレック側の地図が 1904 年の条約に基づいて設置された 合同委員会によって起草され、条約の性質をもつものであると判決し宣言すること、第二にカンボ ジアとタイの境界線が Annex 1 で区画されていることを判決し宣言すること、第三にプレアビヒア 寺院はカンボジアの主権内の領域に位置していることを判決し宣言すること、第四にタイは寺院の エリアから武装兵士の引き離しを行う義務があることを判決し宣言すること、そして最後にタイは 寺院から移動させていた財産をカンボジアに返還しなければならないことを判決し宣言することで あった。 タイは ICJ における意見陳述で合同委員会作成の地図の出自への疑問(果たして分水嶺を基準 に作成されたものなのかどうか)、合同委員会の法的な立場(したがって作成された地図そのもの に法的拘束力があるのかどうか)など疑義を呈した。ICJ は当事国が Annex 1 の地図とそこに示さ れた国境線がプレアビヒア地域の国境を画定する作業の結果によるものとして採択したか、その結 果、当事国が同地図に法的拘束力を付与したかどうかが実質的な論点であるとみなした。(写真 1) ICJは 1904 年の条約のなかにあるこの合同委員会の作成した地図の意義を認め、判決の基礎に おいた。判決によると、地図そのものは合同委員会の任務終了後に作成されているなどの理由から 法的拘束力はないことを認めたが、地図上の国境線は両国政府によって承認されており、両国の国 境をなす。さらにタイ政府による Annex 1 地図の関係他方への配布、合同委員会の地図が誤って分 水嶺に添わないならば、反論する機会があったにも拘わらず、一切タイがこうしたことに異を唱え 写真 1
なかったことに対して、ICJ はタイの行動を「黙示的承認」とみなした16)。 タイは ICJ のこうした判決に当初、激しく反発した。軍部によるさらなるプレアビヒア寺院に 対する行動が取りざたされたが、タイはその後、ICJ の判決通り、寺院のカンボジアの帰属を認 め、寺院から駐留兵士の撤退、収奪した文化遺産の返却を履行してきた17)。だが、ICJ の判決はカ ンボジアの提訴理由の二点目−カンボジアとタイとの境界線が Annex 1 で区画されていることには 判決を下していない。少なくともタイ側にはそう考えられた。一方、カンボジアにとっては Annex 1の地図が受け入れられて条約の決着に至ったのであるから、同地図は条約の不可欠な部分を成し ている。したがって境界線がある以上、両国間には紛争の余地がないと考えた。したがって、両国 間で解釈の違う「未解決の」問題として寺院の近隣地域で両国が主張する重なりあった 4.6 km 平 方メーターの土地が「紛争地域」として残された。
3
.セキュリタイゼーションのなかのカンボジア、タイ二国間関係
1970年代からのカンボジアの内戦と第二次インドシナ戦争、ベトナムのカンボジア侵攻と中越 戦争は東南アジアを再び戦いの嵐のなかに晒すことになった。カンボジア内戦の時代、プレアビヒ ア寺院の位置する北東部はポルポト派の拠点となり、同寺院は 1992 年に一般人の参拝も開かれた が、ポルポト派の崩壊に伴うまでカンボジア人も寺院へのアクセスは困難であった。寺院周辺の地 雷敷設も一般のアクセスを困難にしていた。 3−1 二国間友好と混沌の始まり(2000 年から 2006 年まで) カンボジアとタイは 2000 年「土地の境界の調査と境界画定の二国間了解覚え書き」(Memorandumof Understanding between the Government of the Kingdom of Cambodia and the Government of the King-dom of Thailand on the Survey and Demarcation of Land Boundary)を結んだ。この第 1 条によると、 土地の境界調査は 1893 年、1904 年、1907 年の条約、1904 年と 1907 年の条約のもとで設置された 合同委員会(ここでは the Commissions of Delimitation of the Boundary between Indochina and Siam とされている)の境界区画の結果である地図にしたがって共同で行う旨が述べられている。2000 年代当初は緩やかに二国間の協力の進展が進んでいった。特にタイ側からみれば、2000 年了解覚 え書きには 1962 年の ICJ 判決に不服であった Annex 1 を含む地図も含まれている。このことはタ イが「良き敗者」として ICJ の判決を受け止め、規範遵守の姿勢を保ってきたことを示している。 タイの適切な行為は未確定領域の存在という曖昧さを残していても、相手国との協力に弾みをつけ た。これはタイのタクシン首相(Thaksin Shinawatra)とカンボジアのフン・セン首相(Hun Sen) の時代とほぼ一致し、2006 年 9 月の軍部によるタクシン追放まで両国は概ね良好な関係を維持で きた。 両国間の緩やかな協力の制度化は 2 つの政府間機関の運営にもみることができる。両国で始めら ────────────── 16)波多野里望・松田幹夫編著『国際司法裁判所判決と意見第一巻(1948−63 年)』(国際書院、1999 年)291− 6頁。 17)筆者とタイ外務省条約法律局での関係者への聞き取り調査、2012 年 8 月 26 日、バンコク。
れた合同境界委員会(Joint Boundary Committee、1999 年設置)と将官級合同委員会(General Border Committee、1995 年設置)がそれに当たる。前者は境界線の解決に責任を持つ閣僚級クラスによっ て管轄されている。1904 年から 1907 年の国境線調査と地図作成の途中で、1908 年に至るまで合計 73の境界線の柱石(実際は杭のようなもの)を当時の合同委員会が敷設したものを合同で捜索し ている。73 の柱石は執筆現在 40 個が発見されている18)。当時の杭をコンクリート製にものに替え つつ残りを探しており、すべて発見できれば当時の地図を作成したときに合同委員会の境界線の区 画が明らかになろう。後者は両国の防衛大臣によって管轄され、地域住民に違法な密輸をさせない よう、またヒューマン・トラフィッキングを含む密輸から守るよう安全保障の措置を提供してい る。 2001年総選挙から 2005 年の総選挙までの第一期タクシン政権発足からプレアビヒア寺院を世界 遺産に登録しようとする動きがタイ側からもでてきた。これに先立つ 1990 年代の終わりにタイ側 も住民がこの寺院へ参拝できるよう道路を整備し、この地域への観光促進も進められていた19)。 2003年に両国は寺院とその近隣を共同開発することに合意し、翌年、タイ外相スラキアト(Surakiart Sathirathai)とカンボジア副首相ソク・アン(Sok An)は合同委員会設立のための根本原則に合意 した20)。 こうした両国関係の「蜜月期」は 2006 年 9 月の反タクシン派のクーデターによって大きく変容 していった。タイ政治におけるタクシンの存在は 2000 年代以降にも大きく影響を及ぼすことにな った。タクシン政治の特徴は富と大衆迎合のレジームで捉えることができる。これによると、国家 に対する直接の資本のコントロール、富を背景にした選挙による民主主義であり、強い行政の力を 保持する21)。実際、タクシン時代にはタイの国内格差の是正のため格安の医療保険制度の実施を施 し、貧困層が多く住む北部、北東部への選挙民の支持を多く集め、社会的弱者、都市労働者階級が 彼と彼のタイ愛国党(Thai Rak Thai、1999 年設立)の支持者となった。愛国党は改革的 NGO、各 種職業団体とも提携し、1997 年のアジア通貨危機以降、苦境にあえぐ国民が前民主政権と IMF と が進めるネオリベラル路線から、ナショナリスト−共同体利益の推進者となり貧困層の支持を集め ていった22)。 タクシン政治は同時に反タクシン派にとっては彼らの権威主義に対する挑戦でもあった。かつて 第一期タクシン政権を支えた有力者もタクシンとタイ愛国党が傲慢になり、権威主義的になったこ と、農村の貧困者も支持から批判勢力へと変わっていった23)。反タクシン勢力は、自らの行動をタ ────────────── 18)筆者とタイ外務省条約法律局での関係者への聞き取り調査、2012 年 8 月 26 日、バンコク。 19)Pawakapan, op. cit., pp.47−8.
20)Ibid., p.48. これらの原則には、同寺院の開発計画は両国間の友好の象徴であり、お互いの利益で協力が進 められること、同寺院は人類への世界遺産の一部になること、寺院開発計画は両国間の国境区画に影響を 及ぼさないことが含まれていた。
21)Michael Connors,“Liberalism, Authoritarianism and the Politics of Decisionism in Thailand”The Pacific Review Vol.22, No.3, 2009, p.357, pp.364−6.
22)Kengkij Kitirianglarp and Kevin Hewison,“Social Movements and Political Opposition in Contemporary Thailand”
The Pacific Review, Vol.22, No.4, 2009, p.456.
23)2005 年 7 月の非常事態時の行政緊急法令は議会の審議もなく発出され、告発がなくても政府官吏が被疑者 を拘束できるものであった。タクシンの法的権威主義をもっとも悪しく特徴づけるものとされている。 Connors, op. cit., p.365.
クシンと愛国党と正反対の言説を展開していった。すなわち、IMF 融資などの外国からの介入に 対する国民の資産であり、民衆迎合に対する農村土着の共同体主義であり、巨額の汚れた金権政治
に対するクリーンな政治であった24)。こうした離脱勢力は民主主義のための国民連合(People’s
Al-liance for Democracy : PAD)を支えることになった25)。タイの伝統的な社会的価値観重視へいわば
保守回帰へと反タクシン勢力は動いていき、王室を重んじ、国王の説く「足るを知る経済(sufficiency economy)」の体現26)、そして軍部への支持と結集していく。PAD は王室との結びつきを強調する ための国王のシンボル色の黄色をまとい、タクシン派へ挑発を行っていく。プレアビヒア問題もこ のタイの国内政治社会のうねりのなかでナショナリズムの発揚の道具として、社会的安全保障の面 でセキュリタイズされていく。 3−2 セキュリタイゼーション−トランスナショナルリンケージ関係の考察 2006年 9 月のタクシンが外遊中に起きた軍部によるクーデターは、「無血革命」であり、タクシ ン追放という目的を成し遂げた反対派からも終わってみれば、PAD の中心人物であるソンティの タクシンに対する「個人的な復讐」の観を呈した27)。クーデター実行部隊は枢密院議員で元陸軍司 令官スラユット(Surayud Chulanont)を首相に登用した。(在任:2006 年 10 月∼2008 年 1 月)ス ラユット政権はタクシンが自分のシン・コーポレーションをシンガポールの国有会社タマセク社に 課税ぬきで売却しビジネスの利得を得ているだけでなく、シン・コーポレーションのテレコミュニ ケーション、人工衛星の資産がそのまま他国に譲り渡され、タイの国益が損なわれたことを重くみ た28)。またタイの憲法裁判所(1997 年憲法で設立)はタイ愛国党に 2005 年の下院選挙で不正があ ったことを理由に解党命令を出し、党執行委員 111 名の被選挙権を 5 年停止するという司法による 行政介入が行われた。行き場を失った元愛国党員やその支持者たちは赤シャツ隊とよばれることに なる反独裁民主戦線(National United Front against Dictatorship : UDD)を立ち上げる。
この時期の両国間におけるプレアビビア寺院問題は大きくタイ国内問題とカンボジアのそれへの 対応で動かされた。2007 年のユネスコ世界遺産委員会(the UNESCO World Heritage Committee : WHC)で両国は同寺院を世界遺産に登録しようと試みた。登録するにあたり、両国政府間で様々 な交渉がなされた。タイ側は前述の 2004 年の両国の了解に基づき、カンボジアと合同で WHC に 必要書類を提出するものと理解していた。しかし、タイ側にとっての衝撃はカンボジアが単独で WHCに上程しようとしており、推薦リストのなかに寺院そのものを核心ゾーンとすることに加え て、未解決の「紛争地帯」を緩衝地帯として含んでいることであった29)。このように 2007 年の WHC ではカンボジアが先にプレアビヒア寺院をセキュリタイズしたと考えられる。 ──────────────
24)Kitirianglarp and Hewison, op. cit., pp.459−66.
25)ニック・ノスティック(大野浩訳)『赤 vs 黄−タイのアイデンティティ・クライシス』(めこん、2012 年) 21−7頁。
26)Pavin Chachavalpongpun,“Diplomacy under Siege : Thailand’s Political Crisis and the Impact on Foreign Policy”
Contemporary Southeast Asia Vol.31, No.3, 2009, p.454.
27)ノスティック『赤 vs 黄』30 頁、Michael Nelson,“Bangkok’s Elitist Coup”Far Eastern Economic Review, Oct., 2006, p.28.
28)Chachavalpongpun,“Diplomacy under Siege,”op. cit., p.452.
タイ側は 2007 年クライストチャーチでの WHC 会議で強い異議を唱え、共同で推薦すべきであ ることを主張した。タイはこの会議で「紛争地帯」をいかに緩衝地帯と管理地帯に活用するか双方 が話し合うことが必要であると述べた30)。WHC の本意は世界遺産の登録に際してガイドラインに 示してあるように、緩衝地帯とさらに管理地帯との設定を義務づけており、カンボジア単独でタイ の了解なく、「紛争地帯」を含めたものを是認することは両国にとって禍根を残すことになると判 断したと思われる。 実際にこの第 31 回 WHC 会議ではタイのロビーイングが好奏し、WHC はカンボジアに対し追 加ドキュメントを提出するように指示した。これらの要請には管理計画、ロケーションの定義、保 護地域などであり、これらを作成するためにカンボジアのプレアビヒア寺院の世界遺産登録は来年 に持ち越されることになった31)。カンボジアの単独推薦への理由はタイの国内社会の亀裂を反映し ているように思われる。フン・セン首相らの考えでは、元々寺院そのものは ICJ 判決にあるよう にカンボジアに帰属すること、スラユット首相になりタクシン時代の対カンボジア友好外交を否定 する路線を採っていること、さらに国内の PAD の影が脅威と認識されてきた。またカンボジア側 の説明によれば、この頃からカンボジア側にとっては問題ではない領域を含んだ「一方的な」地図 を WHC 会議で提示するなどタイ側の攻勢がカンボジアにはセキュリタイゼーションに思われ た32)。(写真 2) カンボジア側の言う「一方的な」地図とは、タイ防衛省内の「ロイヤル・タイ・サーベイ局: RTSD」が作成した 1971 年の一連の地図(L 7017、L 7018)のことを指す33)。タイの政府代表はこ の地図を拘束力があるとみていたかどうかは不明であるが、2000 年の MOU では Annex 1 が言及 されているだけで、この L 7017、L 7018 は双方の交渉の基礎になってはいない。従ってカンボジ ア側からすれば、タイのこの地図の導入は ICJ 判決への挑戦として受け止められた。政府アクタ ーよりもこの地図をめぐってセキュリタイズしたのは PAD であった。PAD に属する学識者、マス コミは 2008 年になるとタイの歴史のなかで外国への領土を割譲、フランスによるラオス、カンボ ジアの収奪、1962 年の ICJ 判決について「失われた領土」をテーマにナショナリズムを駆り立て た。それはさらに PAD を一層過激にし、ICJ 規程第 61 条による再審も訴える PAD 系の学者も現
れた34)。スラユット政権の誕生でタクシンを海外に追放し当面の目標を達成した PAD は、こうし
て新しい次のセキュリタイズする対象をプレアビヒア寺院とその周辺の「紛争地帯」と定め、国土 を売却することを認めない言説を構築していく。タイ国内のセキュリタイゼーションが最初のピー ──────────────
30)Ibid., p.51.
31)筆者と UK Someth, advisor to Deputy Prime Minister Sok An and president of APSARA Authority との聞き取 り調査、2011 年 8 月 5 日、プノンペン。登録に際して 3 つのクライテリアを満たしていることが必要で、 第一に寺院の普遍的文化的価値を強化すること、第二にもっとも重要な核心地域、緩衝地帯、保護地帯の 設定であり、第三にカンボジア政府による管理計画であった。
32)筆者と Chuch Phoeurn, president of National Authority for Preah Vihear との聞き取り調査、2011 年 8 月 6 日、 プノンペン、2012 年 3 月 30 日、プノンペン。
33)Royal Thai Survey Department[http : //www.rtsd.mi.th/SearchMap/webfile/indexL7018.pdf]1970、1971 年にア メリカの支援をもとに調査、作成された。タイは 1959∼62 年の時に ICJ にこの地図は提出しておらず、 この地図は Annex 1 と異なり、法的な拘束力はない。
クを迎えるのは次のサマック政権(Samak Sundaravej)がカンボジアに世界遺産登録の協力を行っ てからである。国内の政治アクター間でプレアビヒア寺院問題は本来の未解決の領域問題が、ナシ ョナリズムと自己と他者との境界問題に昇華していった。同寺院問題は PAD や反政府アクターに とって、役に立つ道具であり、タクシンの親カンボジア路線を採る政権は役に立つ敵となった35)。 3−3 ユネスコ世界遺産登録後のセキュリタイゼーション 2007年末にタイで総選挙が行われ、元タクシン派で愛国党の後継党である国民の力党(Phalang Prachachon Party : PPP)を率いたサマックが政権に就いた。タクシンとの親交から彼の「傀儡」政 権と反対派からみられていた。サマックは国民の力党からタクシンの推薦で首相に就任した36)。彼 の内閣にはタクシン派の閣僚が多く入閣し、タクシンの弁護士であったノパドン(Noppadon Pat-tama)が外相に就任したことは特筆に値する。サマック=ノパドン外交は 2000 年代前半のタクシ ン時代を彷彿させるような隣国カンボジアと友好関係を推し進める路線に舵を切り、前政権との違 いを浮き上がらせた。6 月ノパドンとカンボジアのソク副首相はプレアビヒア寺院の世界遺産登録 ──────────────
35)Pavin Chachavalpongpun,“The Necessity of Enemies in Thailand’s Troubled Politics : The Making of Political ‘Otherness’”Asian Survey Vol.51, No.9, 2011, pp.1025−8.
36)Pasuk Phongpaichit and Chris Baker,“Samak : The Fly in Thaksin’s Ointment?”Far Eastern Economic Review
March, 2008, p.26.
へ協力する共同声明に調印した。ちょうど一年前のカンボジアによる単独推薦のときにタイが「紛 争地帯」とよぶ一帯を含めた地図を提出した時とは違って、2008 年のカンボジア推薦ファイルに はこの地域は地図から取り除かれ、カンボジアはタイと寺院の共同管理計画を練るというアイディ アに賛成していた37)。同年 7 月の第 32 回 WHC 会議でプレアビヒア寺院は正式に世界遺産に登録 された。 PADは再びタクシンのカンボジアにおけるビジネス利益促進のために「母国を売り渡した」行 為に対してナショナリズムを発揚し、サマック政権を攻撃した。PAD のセキュリタイゼーション は「紛争地帯」が含まれていない事実を意図的に隠したままで展開された38)。前述のようにこの世 界遺産登録を機にタイの歴史における屈辱の過去、ICJ による判決と並んで母国の領土を失うとい う言説がこうした市民社会アクターから声高にセキュリタイズされた。世界遺産登録後にカンボジ アが周辺の保護地帯を拡大していき、タイ領土を侵害するとタイ側のこうしたアクターは考え た39)。後に首相となる野党民主党のアピシット(Abhisit Vejjajiva)は政権への不信任決議のなかに プレアビヒアの世界遺産登録を理由に挙げ、タイはカンボジアが 1962 年に ICJ に提出した地図を 認めたことはないし、機会が生じたらプレアビヒアの返還を求めるつもりであるとまで主張してい た40)。PAD のソンティも同様の主張をしていた。PAD はデモ活動で首相府、財務省や他の官庁、 マスコミを占拠しバンコクに非常事態宣言が出された。 タイの憲法裁判所は再び政治へ介入した。ノパドンの共同声明はタイの領土を変更する可能性が あるゆえに、それは条約に等しいものだから 2007 年憲法第 190 条にしたがってまず国会で承認さ れなければならなかったのに、ノパドンはそれをしなかったという理由であった。この裁判所の決 定はちょうど WHC でプレアビヒア寺院が世界遺産に登録された日に出された。ノパドンは辞任を 余儀なくされ、9 月にサマックもテレビ出演で利益を得たことが憲法違反であるとし、彼の内閣は 総辞職をせざるを得なかった41)。サマック辞任の後、タクシンの義理の弟にあたるソムチャーイ
(Somchai Wongsawat)が組閣する。ソムチャーイ内閣の 3 ヶ月間は PAD のデモ活動、とりわけド ンムアン、スワンナプーム両国際空港の占拠を許すように政治の機能は事実上麻痺していた。10 月に最高裁判所がタクシン元首相に元国有地払い下げに職権を濫用したとして禁固 2 年の判決を下 し、PAD のデモは威勢を増した。再度、憲法裁判所はソムチャーイの連立政権を成す PPP が前の 総選挙で違反があったとして解党命令を出した。ソムチャーイはほどなく辞任した。タイの国内政 治とは対照的に、カンボジアのフン・セン首相とカンボジア人民党は 2008 年の選挙でプレアビヒ ア寺院の世界遺産登録の実績も含め圧勝し、権力基盤を盤石にしていった。 2007年から 2008 年のプレアビヒアをめぐるセキュリターゼーションは、カンボジアの単独推薦 とタイの反発、同寺院を世界遺産登録する両国の共同声明とカンボジアによる「紛争地域」を含め ──────────────
37)Pawakapan, op. cit. p.52.
38)タイ防衛省内 Royal Survey Department や陸軍も地図に紛争地域が含まれていないことを確認していた。
Ibid, p.53−4.及び Chachavalpongpun, op. cit., p.456.
39)Kitti Prasirtsuk,“Thailand in 2008 : Crises Continued”Asian Survey Vol.49, No.1, 2009, p.177. 40)Bertil Lintner,“Temple Furor Exposes Delicate Ties”Far Eastern Economic Review, Jul/Aug 2008, p.40. 41)James Ockey,“Thailand in 2008 : Democracy and Street Politics”in Daljit Singh(ed.)Southeast Asian Affairs 2009
ない核心地帯と緩衝地帯の地図の WHC への提出と政府間での協力は概ね良好であったことが分か る。しかし問題を複雑にしたのはタイ国内の PAD とそこに関わる勢力であり、憲法裁判所の介入 もタイの政治の混乱に拍車をかけた。世界遺産登録後、両軍も別の行動を取り始めた42)。2008 年 7 月 15 日に 3 人のタイ人が寺院にタイの国旗を立てようと国境を越えてカンボジア領に入り逮捕さ れた。タイ軍も「紛争地域」内に派遣され数を日増しに増やしていった。7 月 17 日フン・センは サマックにカンボジア領からのタイ軍の撤退を要求したが、サマックはタイ軍はタイの領土内に駐 留しており、事態の公正で平和的な解決を決意している旨を伝えた。7 月 22 日タイは ASEAN に よる国境紛争の解決の支援を拒絶した。両軍の睨み合いが続いた後で 10 月両軍の交戦が始まり、 戦闘は 2009 年 4 月、2010 年 1 月と展開された43)。
4
.アピシット、インラック政権期のプレアビヒア−ディセキュリタイズされたか?
アピシット民主党党首が PPP から離脱したネーウィン派を加えて連立政権を樹立すると、彼は 従前の「公約」通り、反タクシン政策、PAD のプレアビヒア路線と同調した。特筆されるべきは、 反タクシンの先鋒であり、PAD に共感するカシット(Kasit Piromya)を外相に据えたことであっ た。したがって、これまでの政権でみられた曖昧なままで解決させようとする方策はアピシットが 政権を担当している 2008 年 12 月から 2011 年 7 月までは大きく後退した。PAD とタイのメディア の盲目的追従も大きく影響した。タイ国内では PAD に代わって、UDD が反アピシットの戦いの 政治を展開した。パタヤでの ASEAN 会議に UDD が侵入し、会議そのものを妨害したことは記憶 に新しい。 2009年セビリアでの第 33 回 WHC 委員会でタイ代表はプレアビヒア寺院の世界遺産の地位を見 直すよう勧告する目的をもっていた。カンボジアはこの会議で核心地域、緩衝地域を覆う管理計画 を提出する予定であった。しかしカンボジアはこの書類が不備で WHC の承認を得られず来年以降 に提出することになった。アピシット政権はこれを捉えてタイによる同寺院の王録を一年遅らせた 外交上の勝利で、来年も登録させないよう努力を継続すると大衆をミスリードした44)。アピシット による政府レベルでのセキュリタイゼーションはフン・センとの関係を決定的に悪化させた。双方 間の言葉による非難合戦に加えて、フン・センはタクシンを自分の経済顧問に迎える旨を発表した (後にタクシンは顧問を辞任した)。タクシンがプノンペンへ到着すると、タイが逃亡犯引き渡しを 要求したが、カンボジアは当然これを無視した45)。これに対してアピシットは 2001 年に締結され たカンボジアとのタイランド湾海域での境界線に関する了解覚え書きを破棄した。 2010年ブラジリアで開催された第 34 回 WHC 会議でタイ代表は寺院の世界遺産の見直しを求め ──────────────42)両軍の行動の記録は Borders of Cambodia, op. cit., pp.15−20 を参考にした。
43)両軍のプレアビヒア問題への介入は組織内の理由−軍予算の拡充、軍の装備の現代化からも考えられる。 Caroline Hughes,“Cambodia in 2009”op. cit., p.96.
44)Pawakapan, op. cit. p.78. バンコク・ポスト紙がタイ WHC 代表のこのアピシットのミスリードを訂正する 記事を掲載したが、他のタイ語のメディアは間違いを訂正するのを躊躇った。
45)Pasaku Phongpaichit and Chris Baker,“Thaksin’s Deal with the Khmer ‘Enemy’”Far Eastern Econominc Review Dec. 2009, pp.18−21.
るロビーイングを展開しようとした。アピシットはカンボジアの管理計画が WHC で認められれば WHCから離脱することをほのめかしていた46)。既述のように、カンボジアのこの管理計画はタイ の主張する紛争地帯と重なるものであり、タイの主権を侵害するものと受け止められた。タイ代表 は誤って WHC でカンボジアが管理計画の提出が 2 月の期限に間に合わず、未提出のままであった とタイ国内メディアに伝えた。しかし、実際カンボジア代表は既にユネスコ世界遺産センターへこ の管理計画を提出していた47)。同センターは WHC の事務局を務め、締約国への登録準備の各種ア ドバイス、技術支援の要請に伴う対応などを行っている48)。管理計画をめぐるアピシット=カシッ ト外交の失敗は大きくタイメディアで取り上げられることはなかった。アピシットの面目を保つた めでもあったが、タイのメディアはカンボジアが保全レポートと最終管理計画を WHC へ 1 月には 提出してあったことを調査することをためらい、翌年の WHC 会議でアピシット政権がカンボジア の管理計画を反対するであろうと考えていた49)。この間、UDD のアピシット政権に対する抗議は ピークを迎え、バンコクの中心部ラチャプラソン界隈を占拠し、治安部隊と UDD との衝突は 3 月 から 5 月までに約 100 名の死者を出した。 次の WHC 会議に至るまでカンボジアとタイと寺院をめぐる軍と軍との対立はこれまで以上に激 しくなった。とりわけ 2011 年 2 月からの軍事応酬でタイはプレアビヒア寺院の建物を砲撃で損傷 させた。タイの説明ではカンボジア兵が寺院に駐留しており、そこからタイ側へ攻撃をするのでタ イも対応を迫られたというものであった50)。顕著な普遍的価値をもつ人類共通の文化遺産がさらに 損傷されるかもしれないという不安が双方、ASEAN 内に巡り始めた。プノンペンポスト紙は 2 月 10付けでフン・センはカンボジアとタイが「交戦状態」にあるとまで伝えた。カンボジア側は寺 院の被害を世界に知らせるために、ユネスコの使節の訪問を要請し、ユネスコからの団体は 2 月末 に到着した。フン・センは国連に平和維持の使節を派遣することを求め和平の交渉を進める意向を 表明した(2 月 8 日)、同首首相は ASEAN 外相会議で ASEAN による休戦監視部隊の配備を訴え ること、ICJ に 1962 年の判決の解釈を求める準備を進めることを表明した(2 月 18 日)。国連安保 理は当事国双方に「最大限の自制」を促し、事態の悪化につながる行為を回避するよう要請した が、平和維持軍の派遣は拒否した。代わってフン・センは ASEAN 議長国インドネシアに休戦監視 のオブザーバー派遣を要請する(3 月 15 日)とともに、タイへ国境の会談を呼びかけた(3 月 29 日)。 2011年のパリで開催された第 35 回 WHC 会議はこうした事態のなかでタイの世界遺産条約から の離脱表明に至るまでに至った。アピシットは言葉通りカンボジアによる管理計画の遂行がタイの 主権を侵害するので阻止すること、両国間の境界線の区画が終了するまでカンボジアの管理計画の ──────────────
46)Pawakapan, op. cit. p.81.
47)The Office of the Council of Ministers(ed.)The Temple of Preah Vihear : Inscribed on the World Heritage List (UNESCO)since 2008(Phnom Penh : the Office of the Council of Ministers, 2010)[http : //www.indochinapub-lishing.com/research/pdf/Managementplan.pdf#search=’Office+of+Council+of+Ministers+Preah+Vihear’] pp.33−41.
48)古田陽久監修『世界遺産 Q&A−世界遺産の基礎知識 2001 改訂版』44 頁。 49)Pawakapan, op. cit. pp.82−3.
実施の延期を WHC に説得するよう指示を出した51)。WHC の 6 月の会期前の 5 月 2 日にカンボジ アは ICJ に 1962 年の判決の解釈を要求する申請及び緊急的暫定措置の指示を求め提出した52)。 ICJは判決の解釈を要求する部分は目下ペンディングであるが、暫定的緊急措置に関しては次の 指示を出した53)。両当事国はパラグラフ 62 に定義された暫定的な非武装地帯に現在展開している 双方の軍事要員(military personnel)を即時撤退させること、タイはカンボジアのプレアビヒア寺 院への自由なアクセスを妨害してはならない、またカンボジアの寺院にいる非軍事要員へ新鮮な食 糧の供給を妨害してはならない、両当事国は ASEAN 加盟国であって協力を継続しなればならな い、特にその機構によって任命されたオブザーバーに暫定非武装地帯にアクセスを許可しなければ ならない、両当事国は裁判所のもとで審議される紛争の悪化や助長、解決を困難にするような行動 は控えなければならない、一方の当事国かは裁判所に上記暫定措置の遵守について報告しなればな らないことを決定した(筆者抄訳)。(写真 3) 2011年 7 月の総選挙で民主党アピシット政権は敗北、下野し、タイ貢献党からタクシンの実妹 ──────────────
51)“New Panel to lobby Unesco”,Bangkok Post 1 June 2011.
52)Cambodia files an Application requesting interpretation of the Judgement rendered by the Court on 15 June 1962 in the case concerning the Temple of Preah Vihear(Cambodia v. Thailand)and also asks for the urgent indication of provisional measures[http : //www.icj−cij.org/docket/files/151/16480.pdf]
53)Request for interpretation of the Judgment of 15 June 1962 in the case concerning the Temple of Preah Vihear (Cambodia v. Thailand)Request for the indication of provisional measures Summary of the Order of 18 July 2011 [http : //www.icj−cij.org/docket/files/151/16584.pdf]
であるインラック(Yingluck Shinawatra)が首班に任命された。フン・セン=インラック政府間関 係はアピシット時代と異なりプレアビヒア寺院問題には小康状態を維持しているようである。もっ とも、新政権の喫緊の課題はバンコク市内への洪水の対応であり、プレアビヒア問題はセキュリタ イズされない状態であった。ICJ の暫定措置にある非武装地帯のなかの軍事要員の撤退とインドネ シア軍による監視は、カンボジア側は監視団の受け入れは整えられている。しかし、即時撤退とい う命令にも拘わらず、タイ、カンボジア双方は相手側から先に撤退すべきであると主張し、完全撤 退が完了しているわけではない。2012 年 7 月、カンボジアは「ステージ 1 軍備再配備」を行い、500 名の兵士が紛争地域から撤退し、300 名強の警察官や治安部隊に取って代わった54)。ICJ 暫定措置 のなかにある「軍事要員」は、正規の軍関係者だけに適用されるのか、警察組織や治安部隊には適 用されないのか解釈が残る。軍人を警察や治安組織であると主張し、平服で駐留させることは可能 である。これは双方が相手方に抱く不信でもある。
結びに代えて−ディセキュリタイズへの模索
ICJの最終判決を待ち、その後のカンボジア、タイの履行過程をふまえなければデフィニティブ な主張はできないゆえ、ここでの検証も暫定的とならざるをえない。ディセキュリタイズするため に、カンボジアとタイに適切さを希求する行動が現れ、双方がそれを認識し、カンボジアが ASEAN 議長国インドネシアに仲介、監視団の派遣を求めた点はきわめて手続き的に妥当である。社会的影 響力を ASEAN(議長国以外にも)発揮したかどうかは不明である。国家の文化の象徴に関わるア イデンティティーに影響を及ぼすことは控えたのではないだろうか。 2012年はカンボジアが ASEAN 議長国であり、ICJ の暫定的緊急措置を履行するなど法的規範に 適合する行動を取っている。これはカンボジア側からディセキュリタイズへの模索が始まったとみ ることもできよう。2013 年には ICJ 判決も出される予定であり、第 37 回 WHC がカンボジアで開 催されることになっている。文化の砦を文化の損失で応対することはできないゆえに、同寺院問題 は少なくともカンボジア側からセキュリタイズすることはないと考えられる。 両国間での適切さは手続き的な側面にうかがうことができる。とりわけ JBC における双方の協 力の履行は競合するアイデンティティーをディセキュリタイズする可能性をもっている55)。 1962年 ICJ 判決におけるタイの国際規範の遵守は、この問題を当面、ディセキュリタイズするこ とにつながった。タイ自身が「良き敗者」として行動することを履行したこと、寺院の帰属そのも のには異を唱えず現在に至っているが、「紛争地帯」における判決の遵守、履行はどのように受け 止めるのであろうか。それはまたカンボジアに不利な判断が出された場合、カンボジアが今度は 「良き敗者」として行動するのであろうか。最後には曖昧さを残しつつ、勝者も敗者もない決着に ──────────────54)Kimly Ngourn, ‘Stage 1 withdrawal from Preah Vihear’[http : //asiapacific.anu.edu.au/newmandala/2012/07/28/state −1−withdrawal−from−preah−vihear]
55)JBC は 5 つの段階でカンボジア、タイが相互協力することで合意している。第一段階では合同委員会の古 い境界杭を 73 すべて見つけて修理すること、第二段階で第三者も加えて新しい地図を作ること、第三段 階では地図に調査されたラインを引いて確定すること、第四に実際にチームを派遣すること、最後に 805 kmにわたる国境に新しい 73 のピラーと追加もあわせて敷設し、それらを維持することである。
落ち着くのであろうか。 謝辞 本研究は 2011 年度関西学院大学先端社会研究所の公募助成「景観/空間」による成果の一部で あり、2012 年度日本国際政治学会研究大会で報告した論文を加筆、修正したものである。資料提 供、聞き取り調査、コメント等で協力していただいた関係者ならびにプレアビヒア日本協会関係者 に深謝する。
Securitization and De-securitization of the Case
of the Temple of Preah Vihear between Cambodia and Thailand
SHIGEMASA, Kimikazu
(Associate Professor, School of International Studies, Kwansei Gakuin University)