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『源氏物語』『栄花物語』と宿曜道 ―附『浜松中納言物語』の「宿曜」、厄年・観相―

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(1)Title. 『源氏物語』『栄花物語』と宿曜道 ―附『浜松中納言物語』の「宿曜 」、厄年・観相―. Author(s). 中島, 和歌子. Citation. 札幌国語研究, 23: 1-26. Issue Date. 2018-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/9972. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 『源氏物語』『栄花物語』と宿曜道. を見つけることができていない。. 中 島 和 歌 子. ── 附 『浜松中納言物語』の「宿曜」、厄年・観相 ─ ─. はじめに. 氏 』 や そ の 前 後 の 厄 年 の 例 を 見 た 上 で、 『栄花』の宿曜道の例. まず『源氏』の宿曜道に関する先行研究を紹介しつつ、 以下、 修正と補足を行ない、『栄花』が「宿曜」と共に踏まえている『源. を取り上げる。さらに、『源氏』以下の文学作品の観相(人相. すくようどう. 曜道(密 本稿では、主に平安時代の仮名文学作品における宿 教占星術)を取り上げ、それぞれどのように扱われているか、. 占い)の例を見た上で、それとの区別が難しい『浜松』の「宿. ふ てんれき. かんそう. 各作品における役割を明らかにする。その際、関連があると思. 曜」の例を補足的に扱う。. すくようじ. (一)物語の本文. 一、『源氏物語』の宿曜道. やくねん. われる日記や故実書の宿曜道の記事にも注目したい。なお、『源 (1). 氏物語』の本文の解釈や先行研究のご紹介と補足・修正など、 一部、以前の拙稿と重複のあることをお断りしておく。 例が稀なこともあり、文学作品と宿曜道の関係は特に研究の 進んでいる分野ではないが、 「光る君」の賜姓の根拠となった. 巻と続編の巻三十八・松のしづえ巻、 『浜松中納言物語』は巻. 具体的には、『源氏物語』 (以下『源氏』と略す。他書も同様) は桐壺巻と澪標巻、 『栄花物語』は正編の巻六・かかやく藤壺. の運勢を扱うが、少なくとも日本の宿曜道では、一生の占いの. 間の運勢を占った。現代の十二宮による星占いは、専ら一年間. ウス)を記した円形の図(ホロスコープ)に示し、一生や一年. に基づいて個人の誕生時刻の惑星(九曜) 宿曜師は、『符天暦』 の位置を計算し、十二宮・二十八宿・十二位(西洋占星術のハ. 五に、各一例、計五例「宿曜」の語が見られる。管見では、 「宿. ほうが先行し、一年間のほうが後発であった可能性が高い。. 占いをはじめ、主要な人物や出来事において用いられている。. 曜」の語に限らず、これら以外に平安の仮名作品の宿曜道の例. -1-.

(3) まひなば世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、宿曜. しこくて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりた. れているのは、次の 『源氏』において「宿曜」の語が明示さ しょうねんかんもん 二箇所である。共に一生について占う〈 生 年 勘文〉に当たる。. ば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。. 占い結果の「同じさま」とは、高麗(渤海国)の相人、及び それ以前の日本古来の観相による、若宮の即位と乱憂の可能性. ま. を指す。 「 宿 曜 」 の 勘 申 が、 二 種 類 の 観 相 と 共 に 語 ら れ て い る. こ. のかしこき道の人に勘へさせたまふにも同じさまに申せ. 一例目は、桐壺帝が「光る君」の臣籍降下を決心する場面で ある。この決断によって「源氏」になったのであるから、物語 父親が我が子の〈生年勘文〉を、 「宿曜のかしこき道の人」 、つ. ことにも、注目しておきたい。. 中の最重要場面の一つであることは言うまでもない。 ここでは、 まり畏敬すべき宿曜師に奉らせた。 「かしこき」は、『源氏』中、 おんよう じ. いずれの陰陽師に対しても用いられていない形容詞である。. 「三月朔日のほど、 二例目は、源氏が明石から帰京した翌年、 このころやと思しやるに人知れずあはれにて、御使」を派遣し. (2). ①『源氏』桐壺こ巻ま(⑴三九 四一頁). ‐. とに対する源氏の心中が語られている中に見える。. たところ、直ちに帰参して、女子の誕生の報告があり、そのこ. そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを. 聞こしめして、 宮の内に召さむことは宇多帝の御誡あれば、. ‐. の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷の. 親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人. らず。などて京に迎へてかかることをもせさせざりけむと. きこゆ。めづらしきさまにてさへあなるを思すにおろかな. 「(三月)十六日 (使者は明石から京に)とく帰り参りて、 になむ。(子は)女にてたひらかにものしたまふ」と告げ. ②『源氏物語』澪標巻(⑵二八五 二八六頁) . いみじう忍びてこの皇子を鴻臚館に遣はしたり。御後見だ ちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつ. かためとなりて、天の下輔くる方にて見れば、またその相. て生まれたまふべし。中の劣りは太政大臣にて位を極むべ. 口惜しう思さる。宿曜に「御子三人、帝、后かならず並び. るに、相人おどろきて、あまたたび傾きあやしぶ。 「国の. 違ふべし」と言ふ。 (中略)帝、かしこき御心に、 倭 相 を. なむ行く先も頼もしげなめることと思し定めて、いよいよ. が御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をする. と思して、無品親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。わ. なさせたまはざりけるを、相人はまことにかしこかりけり. 当帝(=冷泉帝)のかく位にかなひたまひぬることを思ひ. たるを、 年ごろは世のわづらはしさにみな思し消ちつるを、. きこと、さばかり賢かりしあまたの相人どもの聞こえ集め. た、 (源氏が)上なき位にのぼり世をまつりごちたまふべ. し」と勘へ申したりしこと、さしてかなふなめり。おほか. やまとそう. 仰せて思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王にも. 道々の才(=学問・芸能)を習はさせたまふ。際ことにか. -2-.

(4) しますを、あらはに人の知ることならねど、相人の言空し. ふに、宿世遠かりけり、内裏(=冷泉天皇)のかくておは. ものに思したりしかど、ただ人に思しおきてける御心を思. きことと思す。あまたの皇子たちの中にすぐれてらうたき. 離れたまへる筋(=源氏自身の即位)は、さらにあるまじ. のごとうれしと思す。 (桐壺帝も源氏)みづからも、もて. を絞って勘申させたと考えられる。二度目は、成人した源氏自. 源氏の臣籍降下の是非を決するために、天性や地位などに項目. る項目が「天性」以下、多様だからである。初回は父桐壺帝が. 源氏の誕生時の本 命 宮 ・本 命 宿 と九曜の位置関係という 同一のデータに基づく勘申が、①②の二種類あるのは、占われ. 二八二頁)よりも前である。. 澪標巻冒頭に近い「二月」「二十余日」の実子冷泉の即位(⑵. と辻褄が合う、と言われている。確かにその通りで、遅くとも. 掲⑱ 『栄花』 続編参照)。子については、 ホロスコープの十二位、. ほんみょうしゅく. からず、と御心の中に思しけり。いま行く末のあらましご. らが勘申させたもので、 我が子に関する運勢が含まれていた (後. 東方から北へ反時計回りに寿命・財庫・兄弟・田宅・男女・奴. ほんみょうきゅう. の君)も世になべてならぬ宿世にて、ひがひがしき親(= 明石の入道)も及びなき心をつかふにやありけむ、さるに. 僕・夫妻・疾病・遷移・官禄(官位) ・福徳・禍害とある中の. ももか. 0. のことも見えているのだが、源氏が意識したことが明記された. 0. のは、姫君誕生の時だけである。つまり宿曜勘文を信じる気持. 0. 構 』笠間書院、平成六年)において、若紫巻の夢占の時に夢. -3-. とを思すに、住吉の神のしるべ、まことにかの人(=明石. あやしき世界にて生まれたらむは、いとほしうかたじけな. 「男女位」による。. ては、かしこき筋にもなるべき人(=立后予定の姫君)の くもあるべきかな、このほど過ぐして(都に)迎へてん、. たんご. なお、②の「三月十六日」のように、誕生日が明記されたの は、 『源氏』中、姫君だけである。冷泉帝は、 「二月十余日」だっ た(紅葉賀⑴三二五頁)。. と思して、東の院急ぎ造らすべきよしもよほし仰せ給ふ。 父帝とは別に、 かつて源氏自ら宿曜師に〈生年勘文〉 右では、 を奉らせており、その中に子供に関する占いがあったことが、 初めて明かされている。 「宿曜に(中略)と勘へ申したりし」. うぶやしなひ. 誕 生 日 明 記 の 理 由 と し て は、 「五月五日」の端午を 姫い君 の か 「五十日」(澪標⑵二九四頁)に当てるためということがまず. あろうが、宿曜勘文が、 「 産 養 」や「五十日」 「百日」はある. とあることから、この「宿曜」は宿曜勘文そのものを指す。 源氏が勘申させた時期について、藤本勝義氏は、 「源氏物語 における宿曜の背景──紫式部と宿曜道・陰陽道」 ( 『平安文学. とすることにも関わるのではないだろうか。勘文には男子二人. ものの、平安時代にはさほど重視されていない誕生日をデータ 史実と虚 ゆめうら. 研究』 、昭和六十二年五月/『源氏物語の想像力. とは別に将来の勘考を宿曜師に託した可能性も考えられるが、. ちが最も高まったのは、その時だった。. -. 77. 伊藤博氏の説の通り若紫巻以降、澪標巻に至る間のことと取る. -.

(5) ‐. 文、家には見えざるなり。また(後略) 」を引かれている。. 談話「古人は宿曜は用ゐざるか。御堂・宇治殿の御宿曜と云ふ. ある」とし、その根拠として、『中外抄』下 五一の藤原忠実の. 五日」は、端午の節供という以外に、 『宿曜経』 さらに「五ち月 にち 下巻・七曜直日暦品第八の 「七曜占」 上巻・七曜直日品第四や、. ば. に見えるように、その日が何曜日であるかによってその一年が もし. 占われる日である。例えば、木曜(木精・歳星)については、 ぞう. 蔵によって確立されてはいたが普及はしていなかった。そのこ. 『小右記』天元五年(九八二)五月十六 宿曜勘文の初例は、 日 条「 以 二 興福寺仁宗法師 一 、令 レ 勘 二 宿曜 一 」で、藤原実資が興. とは、院政期の談話よりも同時代の日記から明らかである。. は、宿曜道の星占いにとっての最重要事項でもあった。姫君の. 福寺の仁宗に〈生年勘文〉を献上させたというものである。. 二. 確かに、『源氏』執筆開始の十一世紀初頭は未だ一部の知識ほう 人にしか知られていなかった。宿曜道は、既に十世紀後半に法. 「 若 五 月 五 日、 得 此曜 者、歳中、豊熟」 、 「 若 五 月 五 日、 遇 二 一 此曜 者、其歳、万物豊、四時調順」とある。 一. 誕生や結婚・立后については、母の家の意思が重視されている. これに長保元年の二例が続く。. 当時の誕生祝いで 「七 このように姫君にのみ備わる誕生日と、 日」に次いで重視される「五十日」が行なわれた「五月五日」. が、父の「宿曜」の予言を担う存在であることに相応しい点と. ④『小右記』長保元年(九九九)十二月二十七日条 来明年宿曜勘文 一 。 勝算僧都、立過。覚縁内供、持 二. 護法諭 レ 之也。中心、非 レ 無 レ 所 レ 恃耳。. にんそう. して、これらを付け加えておきたい。. ③『権記』長保元年(九九九)十月十六日条 送 宿 曜 勘 文 也。 今、 於 堂前 、披 得此 レ 二 一 二 是、 仁 宗 師 所 書 一 。当時・向後吉凶、知 レ 之。誠是、祖考之告 レ 之、伽藍. 「宿曜」による源氏の「宿世」と、 「住吉の神の また②では、 つい しるべ」に導かれた明石の君の「宿世」とが対で語られている しん. ことも注目される。住吉神の「上筒男」 「中筒男」 「底筒男」は 星と見る説が有力で、特にオリオン座の三ツ星、つまり参宿と (3). 見なす説もある。そうすると、二人は、仏と神、外国と日本の、 二つの星の信仰に運命付けられていたことになる。. 後者が、〈行年勘文〉の確かな例として最も早い。十一世紀 以降も、年末に献上されるのが一般的だった。. え. 前者は、頭の弁の行成が維摩会の勅使で興福寺にいた時に、 同じく仁宗から〈生年勘文〉又は〈行年勘文〉を奉られたもの. で、感慨を記していることから、彼はこの時、初めて宿曜勘文. を見たようである。「向後」の語は、翌長保二年の一年間より. ゆい ま. (二)従来の説の修正と補足(村山修一氏、藤本勝義氏) 村山修一氏は、 「源氏物語と陰陽道・宿曜道」 ( 『源氏物語講 座 第五巻』有精堂、昭和四十六年)で、 「宿曜道の方はまだ 当時の宮廷社会ではそれほど重視されず、有職的なものになり. もさらに先のことを指すと考えられるので、〈生年勘文〉であ. . 切っていたとは思えず、自然、余りとり上げられなかったので. -4-.

(6) ろう。いずれにしても、行成は翌年、勘文に基づく「物忌」を. 藤原氏ひいては国家的な祈祷なのである」と解されている。. の厄除は、むろん個人的なものではなく、多武峰の怪と同様、. 0. 行なっている。. 0. しかし、これらは誤りである。氏は「宿曜道は、僧侶が学ぶ 天文道なのである」とも言われているように、国家的占星術で 0. 0. 0. 関時代史の研究』吉川弘文館、平成二年/『平安時代の宗教文. 山下克明氏の「宿曜道の形成と展開」 (古代学協会編『後期摂. よる病の占いや読経・修法の記事への注目は、藤本氏の研究が. そのための造暦に関する記事を取り上げられていた。宿曜師に. 宿曜道研究の魁の桃裕行氏に遡るが、桃氏は主に宿曜勘文や、. ものの、位置や性格」 を解明しようとされた。日記への注目は、. 記』の実例に基づいて、 「紫式部がそこで採用した宿曜という. 天文道」 と呼ばれている。この呼び方も避けるべきだろう。 「個. なお加納重文氏も、『平安文学の環境 後宮・俗信・地理』(和 泉書院、平成二十年)三三二頁で、宿曜道を「個人的レベルの. ることを、改めて強調しておきたい。. 要は無かった。宿曜道は「個人的」であることにこそ意味があ. また「藤原氏」であっても、氏の長者と該当者以外は、慎む必. が起きないことを願ったものである。「国家」は全く関係が無く、. りに当たってしまったために、予告された凶事である「病事」. もっけ. 化と陰陽道』岩田書店、平成八年)に先立つ。宿曜道全般につ. 人レベルの天文占」なら問題は無い。また、宿曜道は暦算・蝕. か い い せん. 曜の厄」と共に「興福寺・多武峯寺(鎌足廟)」での「恠(怪異・. 0. い。これらは、実資個人の厄除けである。後者の記事で、「宿. 0. ⑤『権記』長保二年(一〇〇〇)正月二十七日条 宿曜 一 物忌、例也。蔵人、被 レ 云々。 定 依 二 右が、史料の宿曜物忌(一日のみ)の例では最も早い。なお、 藤原道長の『御堂関白記』には、宿曜道の記事は見えない。. 氏寺のどちらの怪異占においても、藤原氏の中の慎むべき年回. 物怪) 」を「攘」おうとしたのは、 「卯」年生まれの実資が、両. 0. 村山氏は『源氏』に宿曜道の記事が少ないことを指摘された が、藤本氏は、前掲の論文で、 「わずか二例の『宿曜』こそ陰. ある天文道と、個人的占星術である宿曜道とを区別されていな. 陽道以上に重視されていたのではないか」とし、 『小右記』 『権. いて若干の誤認を含むものの、重要な指摘が少なくない。. 道は、個人と地位以外に、起きる前と後の違いがある) 。その. (4). まず、宿曜道の本質にも関わるので、藤本氏の論の修正すべ き点から見ておきたい。氏は、『小右記』万寿四年(一〇二七). 点からも、 「天文道」の語は避けたほうがよい。. られていたのに( 『小右記』七月十六日条)、『御堂』閏六月十. にんとう. 算を行なう点では暦道に近い(日月蝕の占いも、宿曜道と天文. 九月二十一日条の 証 照 の〈月食勘文〉に拠る実資の諸修善に. しょうしょう. ついて、「国家的な運命勘文」とし、 『小右記』長元四年(一〇. さて一方、藤本氏が、長和四年(一〇一五)に道長が仁統か らあらかじめ「今年、有 二 頭・目・足等厄 一 」との「勘文」を奉 二. 三 一 ) 二 月 十 三 日 条 の「 為 攘 宿 曜 厄、 興 福 寺・ 多 武 岑 等 レ. 恠 」の栖霞寺での宿曜師による『仁王経』講演も、 「この宿曜 一. -5-.

(7) 対的なものではなく、理由があると考えられる(後述) 。. 但し、道長が宿曜道を軽視したのは、陰陽道との関係という相. なところでもあろうか」と指摘されている点は、重要である。. しているし、仁統らとも親しかったようである。実資の進歩的. う。それに比して、実資は比較的早い時期から宿曜に関心を示. ず熱心で、そのあまりに、宿曜道は顧みないということであろ. それを思い出す記事が無いことから、 「陰陽道にはあい変わら. 九日条によると打橋から落ちて左足を損傷したことや、 その後、. 『源氏』において、「摂関家」の依拠した「陰陽道」のアン チテーゼの「思想」として「宿曜道」が位置づけられるのはま. がある」という。. 化をはかるために信条化された」ことを「意識していた可能性. れ」 、 「権力者の権威を示し、政治の無能を糊塗し、社会の固定. 陰 陽 道 が「 摂 関 家 が 政 治 の 私 物 化 を 合 法 化 す る た め に 利 用 さ. 長とは正反対に、陰陽道を軽視し宿曜道を重視した紫式部は、. つゆえに、「物語文学のロマンと符合」し、思想としては、道. 宿曜道は「人の将来的な運命を見通すスケールの大きさ」を持. さにその通りだが、その位置づけのためにも、宿曜道が「個人. を作成するための誕生時刻の問い合せ、 仁統による造暦業務 (十. 惑星の位置関係などという、現在の地位や門地等とは無関係な. とも可能な陰陽道とは異なるのである。人の誕生時刻の星座と. ほうが看過できない。摂関家に都合よく禁忌の解釈を変えるこ. けんし. 、殊重。来 さらに藤本氏は、証照が「御慎(病による謹慎) 月十四日、御厄、可 恐」と勘申した( 『小右記』万寿四年〈一 レ. 世紀末の仁宗が先行)等を挙げ、一〇二〇年前後になると宿曜. 言わば危険思想だっただろう。一方、元来理念を持たない陰陽. 0. 師・宿曜道が重視されてきたと述べられている。. 道(特に安倍吉平)は、摂関家の意向によって禁忌をも見逃す. 0. そして、 『源氏』以前の記録は、 『小右記』の二例(天元五年 五月十六日条、④長保元年十二月二十七日条)と、 『権記』の. ほど場当たり的で、都合のいいものだった。. 0. 二例(③長保元年十月十六日条、後掲⑥長保三年八月一日条). 0. 的」であり、摂関家も天皇も相対化してしまう思想であること. に過ぎないことから、『源氏』 における二例の宿曜勘文の設定に、. 先に、藤本氏の「宿曜道は、僧侶が学ぶ天文道なのである」 との言が不当だと述べたのも、天文道が身分秩序を大前提とす. 0. が重要なのである。スケールの「大きさ」もあるが、公平さの. 「時代の先取りとしての意義」を認め、 「陰陽道の禁忌の思想. る星占いゆえである。宿曜道がそれとは全く対照的なものであ. (5)0. で崩御したことや、藤原公任から実資への孫娘の〈生年勘文〉. 〇二七〉八月二十八日条)九月十四日に、皇太后藤原妍子が病. の主要な具体化である物忌に頓着せずに、自由奔放に生きる一. るからこそ、『源氏』が重視したと考えられる。. 0. 世源氏の輝かしい生涯が、宿曜の予言に支えられているという. 0. のは、ロマンであると同時に、紫式部の思想的範疇にも属する. 『源氏』における宿曜道という星占いの重視は、宿世 また、. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. よしひら. 0. 要素に基づいて運命勘申を行なう宿曜道は、道長らにとっては、. ことであったといえないだろうか」 と結論されている。つまり、. -6-.

(8) ているように、 『源氏』は前世の因縁だけではなく、宿曜道を. の後で「住吉の神のしるべ」を明石の君の「宿世」の根拠とし. 成に、輪廻思想と共に宿曜道も影響したと指摘されている。②. 観との符合もあるだろう。山下氏は、平安貴族層の宿世観の形. から離して紫の上に預けたことと、全く同じである。〈生年勘文〉. ろう。これは、源氏が「后」となるべき娘を、生母の明石の君. を親王に依頼したのも、恐らく宿曜の予言を踏まえたものであ. 点は、 『源氏』の例に通じると言える。行成がこの息子の養育. だった。もし妻が妊娠することがあれば「貴子」を生むという. 受けた例として以上に、 『源氏』の宿曜道の扱いを見る上で注. 中ゆえ、これも占いの通りだったと行成は感心している。陰陽. の年の八月節白露は八月十一日なので、節切りでは未だ「七月」. なお、行成自身が、「七月」に「上気病」(のぼせる病)にな る恐れがあるということも、「宿曜勘文」にあったという。こ. う。. 『源氏』澪標巻の注釈において、必ず引用すべき記事と言えよ. と〈行年勘文〉の違いはあるかもしれないが、⑥は、前掲②の. 確かな根拠として、運命決定論を語っているのである。 (三)宿曜勘文における貴子誕生の予言と養育方針への影響. 目すべき記事であると思われる。なお行成は、天禄三年(九七. 次に、行成が「宿曜勘文」に感銘を受けた二例のうちの一例 として藤本氏が挙げられた記事を引いておく。これは、感銘を. 二)壬申生まれである。. 宿曜道は基本的に暦月を用いる。しかし、この例から、節月で. 道はすべて節切りであり、物忌の月などもすべて節月単位だが、. たひらかに. ⑥『権記』長保三年(一〇〇一)八月一日条. も理解されていたことがわかる。. (四)宿曜師のモデル説(藤本氏、田中隆昭氏). 最後に、『源氏』の宿曜師のモデルに関する説を取り上げる。 最初の例(前掲①)について、藤本氏は、もし宿曜の評価が 低ければ、桐壺帝は観相の名人達の後に勘考させないはずであ. 二. つつしめ. (前略)登時、 平 産 男児 。 (中略)宿曜勘文「妻妾、 二 一 もし けい し け あがる 若有 二 孕気 一 、生 二 貴子 一 。感悟、不 レ 」 少。頃之、気 上 。念 二 げん. 本尊 、 平癒 。 宿曜勘文 。 「 七 月、 慎 一 得 二 一 此 事、 亦 有 二 一. る、 「宿曜のかしこき道の人」と記した時、紫式部の脳裏には、. 事 上気病 一 」云々。依 二 節分以前 一 、亦験 其 。 二 一. (年齢)の項目があり、月や季節ごとの慎みなどが記されてい. 実資や行成に宿曜勘文を奉った仁宗がイメージされていたと推. 「七月」と月が明記されている。この この「宿曜勘文」は、 年の〈行年勘文〉の可能性もあるが、〈生年勘文〉にも、「行年」 る。よって、二年前の長保元年十月十六日に仁宗から奉られた. 測し得る、初めて造暦宣旨を蒙り、宿曜道を公的なものにして. 「宿曜勘文」 (前掲③)と、同じものを指す可能性もある。. いく先駆となった仁宗に、ある種の好意を抱いていたのではな. ためたか. この時に誕生したのは、 後に為尊親王に預けられる( 『権記』 みやいぬまろ 長保三年十月九日条) 、 実質的には行成の次男の宮犬丸(良経). -7-.

(9) いか、と言われている。 . 「澪標巻で光源氏が全幅の信頼 田中氏は、仁宗については、 をおいているのは『宿曜』である。こちらの方こそ仁宗やその. るのに相応しい相手である。. 時代の『宿曜師』のイメージが迫ってくるように思う。(中略). 「光源氏についての予言と宿曜」 ( 『早 一方、田中隆昭氏は、 稲田大学大学院文学研究科紀要(文学・芸術学) 』 、平成六 年二月/『交流する平安文学』勉誠出版、平成十六年)で、 「桐. 巻があとになるにつれていっそう新時代の史実を加えて虚構の. と述べられた。. 仁宗は、まさに「貴子」の誕生を予言していた(⑨)。. つまり、桐壺帝は法蔵、源氏自身は仁宗をモデルとする人物 に、 それぞれ依頼したということである。前項で述べたように、. 世界を広げていくのである」と言われている。. ほうぞう. 壺巻の時代設定を考慮すると、法蔵を考えた方がよいであろう」 確かに、作者の思想も考慮に入れた上で、桐壺巻の「宿曜の かしこき道の人」のモデルとして、宿曜道の創始者である村上. 『 源 氏 』 か ら、 厄 年 と 合 せ て 引 『栄花』の宿曜道の記事は、 用がなされている。よって、先に厄年を見ておきたい。. 二、『源氏物語』の厄年. 朝の法蔵(?~九六九)を、是非とも挙げておきたい。 その理由は、田中氏の言われる「時代設定」とも関わるが、 法蔵の周辺には、 他にも登場人物のモデルや、 その関係者など、 『源氏』と関係の深い人々が多いことが挙げられる。村上天皇 ほん みょう にち. 厄の年のうち、「三合厄」は陰陽道が扱う「災」の一つだが、 個人の厄年は、院政期の陰陽道書『陰陽雑書』『陰陽略書』に. みつ. は見えず、陰陽師の勘申の例も未見である。宿曜勘文による要. はるあき. 栄の父、葵巻の「暦の博士」のモデルか) 、法蔵が東大寺俗別. 注意の年を含め、 何種類かあった。そのうちの代表的なものが、. やすのり. (九二六~九六七)をはじめ、本 命 日・本命宿論争の相手の. 当に任命した醍醐の御子で三月下旬に左遷され後に召還された. 次の生年十二支の年である。「八十五」は単なる誤脱で、 「九十. よし. 源 高 明 (九一四~九八二)等である。さらに、密教僧として. 一」は、『拾芥抄』下・八卦部第三十四の「九十九」が正しい。. 賀茂保憲(九一七~九七七、慶滋保胤の兄、安倍晴明の師、光. 筋を通し、支配層や陰陽師に迎合する台密の僧とは一線を画す. ⑦『口遊』人倫門. たかあきら. 法蔵の言動は、摂関家の御用宗教であり理念というものが無い. 中国では、現代でも生年十二支の年を「本命年」と呼び、慎 んでいる。しかし日本では、知られるように、 「年男」 「年女」. 、廿余五、卅七、卌九、六十一、七十三、 (八十五) 、 十余三 やくねん (ママ) 九十 一 〈謂 二 之厄年 一 〉。 . 陰陽道に対して一定の距離を置く作者が、まさに「かしこき」 と評価するに相応しい人物だと言えるだろう。 また法蔵は、未だ暦家と共に造暦をしていないという点では しょうしん く 確かに「公的」 ではないが、 村上天皇の 星 辰供は行なっており、 宿曜道は既に「公」に認められていた。桐壺帝が勘申を依頼す. -8-. 39.

(10) と呼ばれて、むしろ吉の年として扱われるようになった。その 最たるものが、数え年「六十一」 、満六十歳の還暦である。. ぐ. と、人いふ。. 」という表 以下の例は、いずれも「つつしむべき(厄・年) 現であり、「厄年」の語は用いられていない。. とあり、太政大臣が息子に譲られている。. 「今年なむつつ 『落窪物語』は、六十の賀から何年かして、 しむべき厄に侍れば、籠りはべらむ」(巻四・三三九 三四〇頁). 生年十二支を寿命に関わる重大な年とするのは、生年干支と 同じ「本命日」に、 慎みや祈禱などを行なうこと(陰陽道の「本 命祭」、密教の「本命供」 )と同じ認識に基づく。平安初期には、. ‐. ⑩『源氏』薄雲巻(⑵四四三頁、藤壺). さて『源氏』には、次の三箇所に見える。. 生年干支だけでなく、生年十二支と同じ日も忌まれていた。 きんえだ. 三条西実隆の講義を息子公条が記した『源氏』の注釈書『細 流 抄 』 に、 「女は三十七重厄也」とあるのを、現代の注釈書類 も踏襲している。しかし、 『口遊』や『拾芥抄』などには男女. 「今年はかならずのがるまじき年と思へたま (冷泉帝に) へつれど」(中略)三十七にぞおはしましける。(中略)つ. つしませ給ふべき御年なるに、晴れ晴れしからで月ごろ過. の別は無い。男女共に、生年十二支の年を慎んだのである。 日記の具体例を諸氏が指摘されている。平安末期の例だが、 参考までに挙げておく。この日から、中山忠親は「三ヶ日、都. しみなどをも常よりことにせさせたまはざりけることと. 二. 今年は三十七にぞなりたまふ。見たてまつりたまひし年月 のことなども、あはれに思し出でたるついでに、 (源氏が). ⑪『源氏』若菜・下巻(⑷二〇五頁/二一三頁、紫の上). (後略). ぎさせたまふことをだに嘆きわたりはべりつるに、御つつ. 合礼 百廿八基 」 を行なった。 二 一 ⑧『山槐記』治承三年(一一七九)二月二十三日辛亥条 礼 二 百塔 一 、向 二 広隆寺方 一 、至 二 于春日(小 天晴。卯剋、為 レ 一. 依 稠人 、更出 一条 、東行。巡 礼一条(大路) ・櫛笥(小. 路)・木辻(大路) 。而右大将〈 (平)宗盛〉 、被 前 。 一 二 行 一 二. 「さるべき御祈禱など、常よりもとりわきて、今年はつつ. 一. しみたまへ。/(源氏は)昨日聞こえたまひし御つつしみ. 二. 路)辺 。 合四十基。秉燭之後、 一 法成寺・浄土寺・白川辺、. ひ常よりもたゆみなくしたまふ。. ⑫『源氏』椎本巻(⑸一七七頁、宇治の八の宮) 姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。宮は重く つつしみたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行. の筋など思しあはせたまひていと恐ろしく思さる。. 帰 亭。今年、四十九。依 重厄 、有 此勤 。 (後略) レ 二 一 二 一. やく ね. ⑨『うつほ物語』楼の上・下巻(⑶五四四頁、源正頼). 物語の「厄年」の早い例としては、次がある。 . 左の大殿の厄年(=六十一歳)におはするとて、大饗せら れねば、今二ところ(=太政大臣藤原忠雅と右大臣藤原兼 雅)も、何かはとてあれば、 「さうざうしかるべい年かな」. -9-.

(11) としだて. 右のうち、⑩⑪の例は、年齢から、明らかに生年十二支の厄 年に該当する。 紫の上について、年立を無視してまで(若紫巻が十歳なら⑪ は三十九歳のはず) 、 「三十七」で発病、危篤としたのは、藤壺. られているのではないだろうか。崩御と蘇生の違いもあるが、. 藤壺は、三十七歳で既に尼の身となっているが、紫の上のほう. は、この機会に是非にと望む出家が許されなかった。. 物語講座5 時代と習俗』勉誠社、 平成三年/前掲書所収)の、 物語の展開と厄年との関係についての指摘を引いておく。. 加納氏は、前掲書の三三四頁で、『中右記』天仁二年(一一 〇九)十二月二十四日条に記主藤原宗忠が「明年重厄卌九」と. ては、不明である。. また、紫の上の厄年の発病が、源氏の危機感を募らせ、長期 にわたる主人不在の六条院での、女三の宮と柏木の密通という. 三十七歳の厄年と明記するのは、藤壺の死を、もののさと しと絡めて必然化する方法であったといえよう。これが、. あることを指摘し、八の宮も生年十二支の「四十九」とする説. 大事をもたらした。物語の展開上も重要である。. 冷泉帝への密奏と密着した展開であることは、言うまでも. 十二歳なので、そのように解することはできない。むしろ娘の. に従われている。しかし、異母弟とされる十の宮の冷泉院が五. の「三十七」 歳崩御を踏まえたものだと考えられている。次に、. な い。 (中略)この時の紫上の年齢は普通三十九と見られ. 大い君の「二十五」が、明らかに生年十二支の厄年だが、ここ. 藤本氏「源氏物語の陰陽道──御物忌・夢合せ・厄年──」 (今. るのに、三十七と記したのは、発病の必然性に厄年を利用. さて、⑫の八の宮の厄年のもたらす意義は、右の藤本氏の指 摘どおり「死を前提とした思考」であろうが、宮の年齢につい. したこと、さらには、崩御時の藤壺の年齢を意識した、か. では特に触れられていない。. 井卓爾・鬼束〈田中〉隆昭・後藤祥子・中野幸一各氏編『源氏. なり意図的な表現といえよう。 (中略)この厄年の提示に. 他の例を見ると、例えば『中右記』寛治四年(一〇九〇)九 月二十五日条には、「有 非常赦 。 是、 依 主上御厄年 」とあ 二 一 二 一. 0. より、八宮の、死を前提とした思考が必然化し、特に大君. るが、堀河天皇は当時、十二歳だった。村山氏は、祭文に注目. (6). の将来と、今後の物語展開を規制する遺言が、円滑に導き. の「人間之凶厄」を攘うための「泰山府君祭」 (『朝野群載』巻. 十五歳の厄年の「尊 星 王供」に加え、後冷泉天皇の二十六歳. 0. 出されることになる。 「もののさとし」は、薄雲巻では怪異を指し、他に天変(及 び疫病)もあった。このように、物語中、藤壺と紫の上の二人. 三及び巻十五)に触れて、「二十五、 六歳の頃を厄年とみる考え」. 0. ての紫の上の藤壺との共通性が、改めて注目されるのである。. があったかと言われている。 「二十五」と、その後ということか。. そん しょう おう. され、白河天皇の四十九歳の厄年の「北斗法」と堀河天皇の二. だけが三十七歳の厄年に言及されていることで、 「形代」とし そして、それと同時に、両者の違いも、また際立つように語. - 10 -.

(12) と述べた例は、 「三十七」歳の前後ではない。. とおぼゆ。かかる目にこそ遭ひたりつれ」 (二八五 二八六頁). 院が「わが御身、三十三にならせおはします。御厄に負けたる. で(二八四頁) 、 作者らが後深草院を打った粥杖事件について、. 例えば『とはずがたり』巻二・建治元年(一二七五) しかし、 正月十五日の「春宮(第一皇子熙仁親王、伏見天皇)の御方」. まはするにも、 (定子は)「それ(=懐妊)をうれしと思ふ. う思さるべし。上もいかなればにかとおぼつかなげにのた. て御月の事ありけるに、三月二十日余りまでさることなけ. まふ。二月に参らせたまへりしに、 (二月)一日ごろ里に. 皇后宮(=定子)今日明日(内裏を)出でさせたまひなむ とするを、(一条天皇は)切に「なほなほ」と聞えさせた. ⑬『栄花』巻六・かかやく藤壺(⑴三一二 三一三頁、長保 二年三月、定子の寿命). ‐. 「後厄」のような考え方よりも可能性が高い 今 日 の「 前 厄 」 のは、宿曜の厄である。 『源氏』における八宮の天台宗の阿闍. べきにもはべらず。今年は人の慎むべき年にもあり、宿曜. ‐. あってもおかしくはない。また宇治十帖は、陰陽道や狐などに. む(=懐妊)につけても心細かるべけれ」などぞ、うち語. などにも心細くのみ言ひてはべれば、なほいとこそさあら. れば、いといとあやしくて、いとど、いかにいかにと心細. 梨との親しさを考えると、密教占星術である宿曜道との接点が 対する認識でも一条朝後期以降の実態を踏まえているので、宿. つならずあまた濡れさせたまふ。. も、あはれに悲しきこと多く聞えさせたまひて、御袖も一. らひきこえさせたまひける。三月三十日に出でさせたまふ. 曜道も桐壺巻の時点よりは普及した実態を踏まえている可能性 がある。. 三、 『栄花物語』の宿曜道と厄年 . 0. 0. 昌三条宅(里第の二条の宮焼亡後の主な御在所)から、前年六. 明記していないことを含め、史実とは大小の違いがある。定 子は、長保二月十八日の敦康の百日に備え、二月十一日、平生. 月十四日の内裏焼亡以後、里内裏になっている一条院(元藤原. (一)正編の宿曜と厄年──定子の産死、道長の栄花へ 『栄花』は、万寿四年(一〇二七)十二月四日の道長薨去を 描く巻三十・つるのはやし巻までが正編、それ以後の十巻が続. 0. 0. 0. 0. 0. 編と呼ばれている。正編の編者は、大江匡衡室で道長室源倫子. 0. 為光の一条第)に初めて入り、三月二十五日に退出した。その. 0. の女房の赤染衛門が有力視されており、用語や倫子讃美の方針. 間に有名な一帝二后並立がある。なお、定子入内の前日二月十. 0. 日に、道長女の女御彰子が、立后に備え里第の土御門第に退出. 0. などからも、 それが妥当であろう。十一世紀前半の成立である。. している。これが定子と彰子の最接近であり、同時に宮中にい. 0. 正編の「宿曜」の例は、定子が、最晩年の長保二年の春に内 裏に参入し、年末十二月「十五日」の崩御(とりべ野⑴三二五. たことは一日も無い。 同年十月十一日の新造本内裏遷御の日に、. 0. 三二六頁)に繋がってしまう懐妊に気付いた場面に見える。. - 11 -. ‐.

(13) 0. したらぬ御有様どももいといみじう悲しう見たてまつる。. 0. 彰子も行啓し、初めて本内裏の藤壺に入った。一方、定子は、. ば、黄金づくりの御糸毛の御車におはしまさせたまふ。帥. 宮は今年ぞ二十五にならせたまうける。その夜になりぬれ. 0. 八月八日に恐らく着帯の儀のために今内裏に入ったものの、新. 殿(=伊周)よりはじめ、さるべき殿ばら(隆家、高階明. こと、つまり定子の︿生年勘文﹀ないし︿行年勘文﹀があり、. 定子のこの年の「宿曜」が勘申され命の危機が予告されていた. 『栄花』の中では比較的史実に近いほうだが、 ⑬の記事は、 定子がこの年「人の慎むべき年」 、 つまり厄年であったことと、. 暦元年(九九〇)に天皇の三つ歳上の「年十四」とし、 「崩年. 同年十二月十六日条で、定子が十一歳の一条天皇と結婚した正. ぐって定子と直接やり取りをしている頭の弁行成は、『権記』. か し、 同 年 八 月 の 定 子 の 最 後 の 入 内 の 際 に も 唐 物 の こ と を め. 定子は、右によると、崩御した長保二年(一〇〇〇)は「二 十 五 」 で あ る。 こ の 説 は、 『大鏡裏書』等にも見えている。し. 0. 星のめぐりから見てもこの年が厄年であったという二点は、明. に拠り、定子は享年二十五、一条天皇とは四歳違いとする書も. 0. 六日、二十四歳で崩御した(以上、 『権記』長保二年条、三月. 順・信順ら)みな仕うまつらせたまへり。. 造内裏に入ることはなく、十二月十五日に媄子を出産し、翌十 の退出は『枕草子』勘物所引『小右記』 ) 。. らかに、歴史上の人物を用いた物語としての創作である。. あるが、史料的価値からも、当然『権記』に従うべきである。. 0. 定子の厄年については、『栄花』の他の部分にも見えている。 「宿曜」は一箇所だが、厄年は崩御直前でも繰り返され、さら. 0. 0. 0. (7). の年の崩御を必然化するため、換言すると、それが定子の運命. 0. だったということを強調するためだと考えられる。悲劇を必然. 0. 十二月になりぬ。宮の御心地悩ましう思されて、今日や今 日やと待ちおぼさるるに、今年はいみじう慎ませたまふべ. 化する方法とも言えよう。. 0. に葬送の準備の場面では、「二十五」と年齢が明記されている。. 廿四」とする。結婚の十年後の崩御ゆえ計算も合う。 『栄花』. ⑭『栄花』巻七・とりべ野(⑴三二五頁、長保二年十二月). では、なぜ『栄花』は定子の享年を、厄年の「二十五」とし たのか。それは、 「 宿 曜 勘 文 」 と 共 に、 二 重 の 意 味 で 定 子 の こ. ら(=伊周・隆家)見たてまつらせたまふに、いとど苦し. き御年にさへあれば、いかにいかにと悩ましげにこの殿ば げにおはします。さるべき祓、御誦経など隙なし。やむご ‐. 同年であり、源氏が不安を感じていた。『栄花』の定子は、諸. 菜・下巻の紫の上の発病・危篤(死去の噂も流れた)の年齢も. 踏まえたものと考えられる。さらに、前節で述べたように、若. そしてこの方法は、 『栄花』独自のものではなく、『源氏』薄 雲巻の藤壺(女院、元中宮)崩御の年齢、 「三十七」の厄年を. となき験ある僧など召し集めてののしりあひたり。 ⑮『栄花』巻七・とりべ野(⑴三二九 三三〇頁、同右) かかること(=伊周らが皇后にふさわしい定子の土葬の準 備をしていること)をも宮々(=脩子・敦康)の何とも思. - 12 -.

(14) 所で『源氏』の藤壺中宮・紫の上と重ねられている。彼女らは. 掲④) 。 「明年」は即ち定子崩御の長保二年、『栄花』の「今年」. 保元年十二月二十七日条の実資の「明年の宿曜勘文」だった(前. (8). 実在の定子によって造形され、そして、彼女ら及び桐壺の更衣. めていずれかの「宿曜勘文」を献じられて、その存在を知った. である。行成は、同じ長保元年十月十六日に興福寺で仁宗に初 0. を踏まえて、 『栄花』の登場人物の定子が描かれている。. ばかりだった(③)。. 0. なお、皇子を遺し、厄年に惜しまれつつ男子を残して崩御す るという藤壺中宮の晩年の悲劇、負の面を『栄花』の定子が負. 0. 実資・行成共に定子との接点はあり、行成は定子生前の長保 二年正月二十七日には「宿曜物忌」をしているので(⑤) 、「宿. わされる一方、知られるように、 「かかやく藤壺」の巻では、. 曜勘文」の知識も、定子や清少納言に伝わっていた可能性が無. (9). 彰子入内が、 藤壺の入内後の「かかやく日の宮」と呼ばれた( 『源. 0. 氏』桐壺⑴四四頁)輝かしい面を踏まえて語られている。彰子. 0. くはない。しかし、定子の長保二年の「宿曜勘文」が作られて. 0. が、公任の「紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなる. いた可能性は低いだろう。時期的に早すぎるのである。. 0. らむ」等の歌で飾られた屏風等を携え、数箇月前の「長保元年. しかし、『栄花』正編成立の十一世紀前半には、宿曜道は既 に貴族社会に普及していた。前述したように、万寿四年八月二. 0. 〇二頁)と『栄花』が語るのは、祖先の穏子や安子に加えて、. 0. 0. 十一月一日」に入内し(⑴三〇〇頁) 、「藤壺におはします」 (三. 0. 0. 十八日に皇太后妍子の病状を宿曜師の証照が占うなどの例が. 0. 『源氏』の藤壺中宮の入内に准えたものである。実際には、彰. 0. また、厄年が藤壺や紫の上を踏まえるだけでなく、『栄花』 には他にも『源氏』の影響が散見することから、「宿曜」も、. 0. 当然『源氏』桐壺巻や澪標巻の源氏の宿曜勘文(前掲①②)を. 0. 一条天皇の后の新旧の交代も(さらに言えば皇子の立太子・即. 踏まえていると考えられる。特に⑬の「宿曜などにも」と、厄. 0. 編の書かれた時代を反映した脚色と言えるのである。. あった。つまり定子の「宿曜」も、当時ではなく、『栄花』正. 位の有無の違いも) 、藤壺という同じ人物をモデルとすること. 桐壺巻で、帝が光る君の賜姓を決めた時の二種類の観相の補強. 0. 子が入内したのは一条院今内裏であり、御在所は「東北の対」. で際立たせたのだろう。. と類似している。. 0. だった(『権記』同年十一月七日条) 。藤壺をモデルとして定子. さて、前掲⑬の「宿曜」も、既に述べたように、定子の崩御 に必然性を与えるために、『栄花』 に持ち込まれていた。これは、. 崩御を厄年にしたというだけでなく、 この彰子との明暗の落差、. 源氏の一生を占う〈生年勘文〉とは異なり、 「今年」一年のこ. 年による運命を補強する形で宿曜勘文を持ち出す呼吸は、①の. とを占う〈行年勘文〉の可能性がある。 しかし、明らかに〈行年勘文〉とわかるのは、 『小右記』長. 以上のように『栄花』は、 『源氏』の藤壺や紫の上の厄年、 源氏の宿曜勘文の例(但し寿命は含まれず)を踏まえ、史実と. . - 13 -.

(15) は異なる「いみじう慎ませたまふべき御年(厄年) 」と「宿曜」. すは」と、世の人申し思へり。. 御命延びさせたまふべきなめり、いとかかることを思しめ. 道長は、厄年だが隠居によって無事だった。定子とは結果が 対照的である。その明暗と、道長と定子のみが厄年を取り上げ. により、長保二年の定子崩御に、二重に必然性を与え、運命的 それをこれほど宿命として語ることは、一の宮敦康親王、宮を. られたという登場人物としての重みの両方に注目しておきたい。. なものとして語っているのである。定子の死自体は史実だが、 擁する中の関白家のその後も知る者が、すべてを必然、不可抗. (二)続編の宿曜と厄年──白河の院政開始へ. 力によるものとして語る中に位置づけられる。それは、道長の 「栄花」を必然とすることと表裏であり、 またそうすることで、 (. (後朱雀天皇は)この御事(=藤原教通女の生子の立后が. せいし. 徳二年〈一〇四四〉正月十六日病で譲位、十八日崩御). ⑰『栄花』巻三十六・根あはせ(⑶三三四頁/三四四頁、寛. 「宿曜」が一例あるが、その前に厄年の例がある 続 編 に も、 ので、先に挙げておく。. (. . 敗者に対する冷遇など、勝者側(道長・彰子・敦成)に不利な ことは語らずに済んだ。. ただ、正編の中で唯一「いみじう慎ませたまふべき御年(厄 年)」と「宿曜」に触れられたのが定子だということは、『源氏』 の源氏や藤壺・紫の上に匹敵する人物として、編者は定子の存. 祈りせさせたまふに、凶しき御夢をのみ御覧じて(中略。. 頼通の反対で叶わなかったこと)思しめして、御殿籠り御. 御持僧明快に後世のみ祈らせる)近うさぶらふ人々、忍び. . 意しておきたい。 『栄花』は定子の悲運を描きつつ、顕彰にも. 在を重視していたことにもなる。その高く評価する面にも、留 努めているように思われる。. まふべきこともあれば/院(=故後朱雀院)は今年ぞ三十. 七にならせたまひける。御位は十年ぞおはしましける。. ここでは、凶しき「夢」による予告と厄年の組み合せになっ ている。 『源氏』では、 明石一族の中から后と帝が出ることが、 ‐. 寿二年〈一〇二五〉 、 東宮敦良親王妃の末娘嬉子の薨去後). 同じ組み合わせで、慶事か凶事かが異なっている。. 入道の「夢」と、 源氏の「宿曜」(前掲②)で告げられていた。. まことの道心起させたまへり。 (中略)「殿の御前 (=道長) の今年はつつませたまふべき御年なれば、(隠居によって). さて、続編の「宿曜」は、小一条院(敦明親王)の孫娘に当 たる源基子が、聡子内親王家の女房として出仕したところ、そ. ⑯『栄花』巻二十六・楚王のゆめ(⑵五一九 五二〇頁、万. がたく涙堪へがたかりけり。凶しかるべきさまに知らせた. なお、正編の「宿曜」は⑬のみだが、厄年らしき例は他にも 見える。道長は時に六十歳で、『新編全集』 頭注は、 前厄とする。 ぞくしょう. だが、万寿四年直後に成立した正編には早いかもしれない。. 六十歳は、『簾中抄』下・属 星 の「火曜 あしき星也。この年、 とうねん しょう よく〳〵つゝしむべし」によると、当年 星 が火曜ゆえの厄年. . - 14 -. (1.

(16) にも繰り返し記録されており、 『更級日記』は、その魁である。. 「夢」の存在がより大きくなっていく。 『中右記』などの日記. 合せである。知られるように、院政期以降、貴族の生活の中で. でしたことがわかった後に見られる。これも、 「夢」との組み. の父親の後三条天皇(後朱雀第二皇子)に寵愛されて、懐妊ま. もう一つの予言である「夢」の中の「紫の雲」については、 『新編全集』頭注に、「吉祥であるとともに皇后の異称」とあ. らも、一生について占う〈生年勘文〉を指すのだろう。. 「かしこき筋(=后)にもなるべき人」という言葉との類似か. ず並びて生まれたまふべし」 (②)、源氏の心中の姫君に対する. (前掲①)や、澪標巻の宿曜勘文の「御子三人、帝、后かなら. ‐. 巻三十八・松のしづえ・冒頭 (⑶四二五 四二六頁、 ⑱『栄花』. のせさせたまへば、 (天皇は)いと心ことにもてなさせた. て(基子に)まゐらするに、ましてかく(=懐妊)さへも. 食膳)などまゐらすることも、姫宮の御台とて、女房取り. せたまひて、 ただ宮(=聡子)の御同じことにて、 御台(=. おほかたも宮仕へざまにもあらず、もてかしづききこえさ. などいふほどに、ただならず(=懐妊)ならせたまへり。. めすといふこと世に聞えて、ただそなたになんおはします. 一品宮(=聡子)に参らせたまひし侍従宰相(=小一条院 男、源基平)の御女(=基子) 、内(=後三条天皇)思し. 人は帝の母となり立后され国母となる運勢が予告されたという. つまり基子は、 「宿曜」の〈生年勘文〉と、「夢」の紫雲の両 方で、まず男子を産み、その子が立太子、さらに即位して、本. 歌について引く『南中記』) 。. ( 『奥義抄』が『拾遺和歌集』雑春・一〇六八・国章「藤の花」. また、堯の母が「紫雲」を受けて懐妊したという伝説もあった. の立后を詠んだ平範国の歌が挙げられている(⑶三五三頁) 。. ふるあとに立つ紫の雲」という 章 子内親王(後冷泉天皇中宮). 十六・根あはせ巻にも、「かねてより空のけしきぞしるかりし. ていた( 『栄花』巻二十・御賀⑵三七二頁・東宮大夫頼宗の歌、. よりむね. る通りである。 「紫の雲」は、既に后そのものを指すようになっ. まふ。もとより帝の御母になりたまふべき宿曜ものしたま. のである。実際にそれらがあったか否かは確認できない。「聞. 延久二年〈一〇七〇〉 、基子の懐妊と地位). ふ、(基子の)御夢にも、紫の雲立ちてなん見えたまひけ. ゆる」の主語も示されず、噂話ともとれる書き方である。. しょう し. 『後拾遺和歌集』賀・四六〇・江侍従等)。⑱の少し前の巻三. と(それを聞いた人は)言ひしを、 「まことにただ今にて. る など (ある人は)聞ゆるを、「なほさこそ人はものはいへ」. さて、 実際に翌延久三年(一〇七一)に生まれたのは男宮(実 仁親王)で、同年三月九日に基子は女御となって参内した(参. . 内は史料に無し)。同年中に再度懐妊するが、流産した。. はかなひぬべきにや」と、人々は思ひいふめり。 この「宿曜」は、母后になるという子供に伴う自らの地位に ついての占いである。 『源氏』桐壺巻の高麗の相人の言った「国 の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人」. ‐. ⑲『栄花』巻三十八・松のしづえ(⑶四四四 四四五頁). - 15 -.

(17) 、こたみはおろしたてまつらせたまひ 梅壺女御(=基子) ければ、口惜しきことに誰も誰も思し嘆けど、二の宮(=. 朝、請 二 律師頼誉 一 、令 レ 祈 レ 之、有 レ 験。巳時、出了。酉刻許、. 『殿暦』天永三年(一一一二)七月十七日条 物忌 、不 出行 。女房、不例。仍、今 二 一 二 一 〈壬申〉天晴。依 . そのついでに. 実仁)おはしませば、何かはせめては思しめさん。 「御子. 宿耀師僧真歓を召。仰 二 法師易占之由 一 。其 次 、申云、 「今. ( (. あまた生れさせたまはば、二十五にならせたまはん年、危. 年、 女 房、 重 厄 也。 北 辰 供、 可 候 也 」。 余 云、 「今 レ. きちにち. ふかるべし」と申したりけれど、 (流産はしたものの)平. 日、々次、不 レ 宜。為 レ 之、如何」。申、 「今日、易道吉日也。. 家栄・宗則(憲)等、令 卜 。所 申、 「非 二 筮(=六壬占) 一 レ. ひなみ. らかに御みづからものせさせたまへば、いとよし。 傍線部によると、子供が複数の場合は「二十五」が危険、つ まり「二十五」で懐妊すると命が危ういという勘申があったと. 別大事 一 」云々。今日、有 二 祭等 一 。女房料也。 . いえよし. むねのり. 蝕神尾)で、⑳の『簾中抄』によると、女性は特に慎む必要が. 年ごとにかはるなり。これ九曜也。 (中略)計都星、 当年星、 あしきほし也。つゝしみの年也。女は、おほくつゝしむべ. むまれたる年(=十二支)にあたりたるまゝにて、 本命星、 かはらず。 (中略)これは、北斗七星なり。. となって(⑶四四五頁、史実では譲位以前の十二月一日) 、三. 実仁が東宮(皇太弟)に立った。基子は、「三宮の位(准三宮)」. さてその後、翌延久四年十二月八日に、後三条天皇が第一皇 子の貞仁(白河天皇)に譲位した際、基子の産んだ第二皇子の. 年に月蝕を慎んだ例などは、 『殿暦』に複数見えている。. 二. 只、今夜、可 被 始 行」者。仍、 已修始了。陰陽師(賀茂) レ レ レ. いう。⑱の〈生年勘文〉の一部と考えてよかろう。ここでは「二 十五」の厄年が、前掲⑬の定子のように「宿曜」とは別ではな. あるという。年齢の一致だけでなく、星供の「北辰供」で「不. けい と しょう. 源顕房次女師子(勲子・忠通の母、賢子の同母妹) 忠実の妻、 は、四十三歳の七月に病んだ。今年「重厄」だというのは、生. 「二十五」は当年星 『栄花』の続編が成立した院政期には、 によって、特に女性の厄年になっていた。取り上げられた背景. 例」に対応しようとしている点からも、「重厄」は、これの具. し。七、十六、二十五、卅四、四十三、五十二、六十一、. 度目の懐妊もしており、また「男宮」を産む(第三皇子輔仁は. 見えるように、天然痘に罹患し、応徳二年(一〇八五)十一月. 体例である可能性が高い。なお忠実や子女が、当年星が月曜の. 七十、七十九、八十八、九十七。月曜、よきほし也。月蝕. 延久五年正月誕生) 。しかし東宮は、 『栄花』の最後の紫野巻に. 年十二支の「厄年」ではない。当年星が凶星の計都 星(蝕尾星・. として、故実書の記述と、具体例と解せるものを挙げておく。. く、組み込まれている。また、実際に基子は二十五歳だった。. ⑳『簾中抄』下・属星 . 略)此あたりたるほしどもを、供養・礼拝し、真言をたも. をつゝしむべし。八、十七、二十六、 (中略)九十八。 (中 ちなどすれば、あしき事をやめて、よろこびあり。. - 16 -. (1.

(18) は聞えぬことなりかし。女御殿、一品宮など嘆かせたまふ. 一月八日にうせさせたまひぬ。あさましくいみじう、近く. みじう病むに、東宮重くわづらはせたまひて、応徳二年十. その年、裳瘡といふこと起りて、子ども、若き人など、い. た。基子の「宿曜」も「夢」も、外れてしまったのである。. く知られている。実仁の同母弟輔仁が東宮になることも無かっ. 皇子善仁(堀河天皇)に譲位したことは、院政の開始として広. 、白河天皇が八歳の自らの第二 だが、翌年「十一月二十六日」. 八日に十五歳で薨去してしまう。 『栄花』では年替わりが曖昧. り返されたわけだが、その悲劇をさらに増幅するものとして、. の関係者の悲嘆(同・一〇九 一一〇頁)が、より悲劇的に繰. と語っている(巻十三・ゆふしで⑵一〇五 一〇七頁)。その際. いた。 『栄花』は、辞退は敦明自身の意向であり道長は諫めた. の曾祖父敦明親王は、寛仁元年(一〇一七)に東宮を辞退して. また、東宮薨去の前例は、同じく頭注が指摘するように、醍 醐朝に遡る。まさに「近くは聞えぬこと」だった。また、実仁. た。回復が望めない基子の悲劇が、引歌で浮き彫りになる。. ので、東宮即位(②の「宿曜」の実現)に備えて都に召還され. 二頁)を引くことからも明らかである。源氏の不遇は一時のも. 東宮の御代)を見ん時うしなへる山がつにして」(須磨⑵一八. ‐. ‐. 期待と現実の落差を大きくするものとして、つまり抑揚の方法. ・紫野(⑶五一四頁、応徳二年) 『栄花』巻も四が十 さ. たるひと. 0. さまことわりなり。いひやるべき方なし。宮づかさ(=東 宮職の役人) 、さるべき親族など、時(=時勢)失ひたる. として、編者は「宿曜」や「夢」を利用した。. やまがつ. 山賤にて、いかにとこそ。内(=白河天皇)にもあはれに. 承から外れた皇子の母である女性と、その周辺の悲哀という点. 続編は、正編の定子の崩御という占いの的中とは逆に、基子 は占い通りにはならなかったことを語っている。だが、皇位継. A作り物語. (一) 『源氏物語』以降の文学作品の観相. 四、『浜松中納言物語』の宿曜と観相. で、両者は共通している(⑲の「御子あまた」も三人の定子と. (巻三・一九〇頁) 、彼の麗姿が見えた理由の「月はなけれど、. わる例として、賀 後期物語のうち『狭衣物語』には、星にあ関 かぼし 茂社の相嘗祭の御神楽で主人公狭衣が「明星」を謡ったことや. いみじく思しめさる。うち続きあさましき年なり。. 同じ表現) 。しかも、その皇子達に代わって外孫や子を即位さ. 他の『夜の寝覚』 『堤中納言物語』にも無いが、『浜松中納言 物語』には、一箇所「宿曜」の語が見える。但し、本稿の冒頭. ねば」 (巻四・二七二頁)はあるが、 「宿曜」は見えない。. 星の光けざやかなるに、軒近うて、いとたどたどしきにもあら. せた道長や白河院は、共に最強の政治権力を得た。 但しは、子供に関する〈生年勘文〉という点ではより『源 氏』の「宿曜」に近い。 『源氏』を踏まえていることは、 『新編 全集』頭注が指摘するように、傍線部が、源氏が須磨下向前に 東宮(冷泉天皇)に送った歌「いつかまた春のみやこの花(=. - 17 -.

(19) たい。. て、占う対象などを確認してから、 『浜松』の本文を取り上げ. まず物語以外を含め、前後の文学作品における観相の例につい. でも述べたように、観相との区別が難しい例である。よって、. 『夜の寝覚』巻五(四七二頁、石山の姫君の立后) . 基子の「宿曜」や「夢」と共通する。. まえ、占われた本人の立后という点では、⑱の『栄花』続編の. 出会いのきっかけが大臣(入道)家の怪異を占った陰陽師の六. 『寝覚』は、冒頭に石山の姫君の両親である主人公達の宿命 を掲げる物語だが、 その二人については、 宿曜道や観相よりも、. べうもあらぬ人(=石山の姫君)のものしたまひける。. 行なって) 、上なき位をきはめたまはむこと、何の疑ひあ. ただうち見るより際もなき人の生ひ先、 (外祖父の入道が) その道ならぬ大和相をおほせて(=専門家ではないが自ら. 既に多くの研究がなされている。 文学作品の観相については、. たく し. 『源氏』について、前述した宿曜師のモデ 例えば田中氏は、 ル以外に、桐壺の更衣の物語が、 『続日本後紀』の仁明天皇女 若君についての「高麗」 「倭」の両観相(前掲①)が、 『日本三. 壬占に基づく女君の「所さり」ての物忌であることから、陰陽. 御で光孝天皇母である藤原沢子の卒伝を踏まえており、さらに 代実録』光孝天皇即位前紀における、渤海国の相人の王文矩と. 道の占いを重視していると言える。 「中の姫君の御年あたりて、. ない。観相が旧来のものであることは確かだが、陰陽道が九世. 倭相」「旧来の陰陽道による観相」と言われている点には従え. に命じられた相人が行なった「倭相」について、 「陰陽師系の. 引用」も指摘されている。注目すべき指摘だが、仲直や桐壺帝. に 重 な る こ と が 指 摘 さ れ て い る。 男 君 と、 「吉野」に住む美女. 唐経験のある「吉野の宮」が、『浜松』の唐后の父「秦の親王」. 『新編全集』 『とりかへばや物語』にも、二例、観相がある。 頭注には、主人公の男装の女君が頼る、先帝の第三皇子で、渡. 異占の年当(物忌すべき人の十二支に当たる)である。. 重くつつしみたまふべし」巻一・二三頁)は厄年ではなく、怪. - 18 -. さだみ. の史実を踏まえるという、沢子─光孝─宇多─醍醐の「系譜の. 藤原仲直の観相による即位の予言、及び光孝皇子源定省の即位. 紀後半から十世紀にかけて成立したこと、観相は陰陽師の職務. との恋愛関係という点も、両物語は共通する。. (. ではないことを、断っておく。百済から伝わったという観相そ (. のものについては、村山氏の前掲書等の論に詳しい。. 『とりかへばや』巻一(二三九頁、女君の立后) (吉野の宮は、女君に) 「(前略)さらに思し厭ふべき御こ . ‐. 契り、いと高くものしたまふめり。くはしく聞こえさせず. とにもはべらず。つひには思ひのごと上を極めたまふべき. とも、おのづから、さ言ひきかし思し合はするやうもあら. 等を含む。但し作り物語は『源氏』のみである。 『うつほ』に 「大和相」という点で前掲①の『源氏』の例を踏 次の例は、. 相人書等があるが、『源氏』以後の物語の観相の例を見ていく。. また、加納氏が前掲書の三三九頁以降に、多数観相の例を挙 げられている。 『古今著聞集』七 九、 『大鏡』 『宇治拾遺物語』. (1.

(20) ん。うたて、相人めかしく聞こえ続けじ」とのたまふを 『とりかへばや』巻三(三五六頁、男君の結婚) (吉野の宮は、男君を見て)いみじかりける人の相かなと うちかたぶきて、これぞわがむすめに縁ある人にものした まふめりと見たまふに、かつがついとうれしく頼もしくて. ただ狛人のもとに(世次と)二人つれてまかりたりしかば、. 「二人長命」と申ししかど、いとかばかりまでさぶらふべ. しとは、思ひかけさぶらふべきことか。(後略) 」 . また、女院詮子の修法を行なった尋禅の伴僧の「相人」が、 道隆の「天下とる(=摂関になる)相」、道兼の「大臣の相」、. ている。. という点は、①の桐壺帝と類似し、 「世」 「乱れ」の語も共通し. 鎌倉初期だが定家作『松浦宮物語』も、渡唐や后との恋愛関 係など、『浜松』を踏まえた物語である。但し、帝による観相. (同・三〇六頁)。これも、すべてわかってからの後付けである。. また、藤原実成(公季男)が、道長男の顕信は「出家の相こ そおはすれ」と言い、さらに出家の年齢まで言い当てたという. 帰趨について、作者好みの観相の話に託して物語る」とある。. には、 「 兼 家・ 詮 子 が 築 い た あ と を 誰 が 受 け 継 ぐ の か、 政 権 の. 長の人相の至高を繰り返し、 「毘沙門の生」(生身の毘沙門天). いき. 伊周の「雷(=一時的な勢いと収束)の相」があると言い、道. 『松浦宮物語』巻一(四八頁、氏忠の経世の器量) (重病の帝が、太子を主人公の橘氏忠に託そうとして言う には) 「あらぬ国の人として、あひ見る日数少なけれど、. じく、女君の立后の相だった。 前者は、の『寝覚』とま同 つら. つひに怠らずは、世乱れなんとす。 (後略) 」. 汝はかならずひとたびは国を平らぐべき相あり。我この病. 俗人の男性も、地位と共に寿命が占われていたし、 実際には、 次のように後からでは決して言えないような観相もあった。. 頼長が、保元の乱で薨去したのは、三十七歳である。 C談話集・説話集──混同を中心に. 年之内、必有 二 大慶 一 。又、三十二、三、五、有 レ 慶矣。 . 『台記』久安六年(一一五〇)七月二十日甲午条 、召 相者盛正 、令 相 余(=頼長)。 二 一 レ レ 早旦、禅閣(=忠実) 曰、 「 寿、 及 七十 。 福、 不 可 言。 職、 主 執政 。三ヶ 二 一 レ レ 二 一. これは、地位・出世に関する例である。. とまで称賛した(道長・三二一 三二三頁) 。『新編全集』頭注. ‐. B歴史物語 『栄花』は前述したように「宿曜」を正編・ 歴史物語では、 続篇共に皇子を産んだ女性に用いていたが、観相は無かった。 一方『大鏡』には、 「宿曜」は無く、加納氏が指摘されたよ うに観相が複数見られる。以下は、談話集・説話集を含め、基 本的に男性の例である。一つは寿命の占いだが、多くはない。 『大鏡』人・道長(四一一頁、重木と世次の寿命) (若侍が) 「いとかばかりの御年どもをば、相人などに相 せられやせし」と問へば、「さる人にも見えはべらざりき。. ‐. 談話集では、『中外抄』上 八二は、藤原正家による忠実の観 相の話で、やはり寿命を占ったものである。『江談抄』や、鎌. - 19 -.

(21) 六四も晴明、六五は亀卜の話で、観相の話は特に多い。占う内. 四八から六〇まで、観相の話が続く。 特に『古事談』は、六 六一は「医道」 、 六二は安倍晴明、 六三は「明道図」 ・丹波雅忠、. 倉初期の説話集『古事談』 『続古事談』にも、 観相が散見する。. が宿曜師だった(「遍昭・遍照」など、列火の有無は通用) 。. 中歴』一三・一能歴によると、「洞昭(照) 」が相人、「證昭(照)」. 一方、 五 一八は、「登昭といふ宿曜師」の話である。日記や『二. には二四 二一「僧登照朱雀門の倒るるを相ずる語」もある。. ‐. 容は、基本的に官職で、出世や左遷が含まれる。. 『二中歴』 、『古事談』六 五一~五三) 洞昭 ──観相(. ‐. 「相人・相者」が来日して、醍醐天皇を、その声 六 四八は、 によって上に厚く下に薄いと占い、さらに、保明親王・時平・. ‐. ‐. さらに、 『続古事談』五 一五は、相人の名を「統照」とする。. ‐ ‐. 洞照 ──観相(後掲『続古事談』五 一二) 登昭×──観相(『古事談抜書』傍記、『今昔』一七 一七) 『今昔』二四 二一) 登照×──観相(. ‐. ‐. 道真・師輔の観相を行なった話である。. ‐. ‐ ‐. 統照×──観相(『続古事談』五 一五) 登昭×──宿曜(『続古事談』五 一八). ‐. 『小右記』 、『二中歴』) 證昭 ──宿曜(. ‐. 「極めたる相人」の平珍材が、備後国の郡司の娘 四九では、 との間の男子(惟仲)は、 「二位中納言に至るべき相あり」と 言う。『江談抄』二 二六「平家往昔より相人為る事」が類話。 「伴別当【廉平】といふ相人」が、 「帥内大臣(伊 五〇では、 周)の遠行(=左遷)をも兼ねて相し申し」 ( 『続古事談』二. こは官は正二位中納言、命は六十六ぞよ」と相した。官位に加. として、注目しておきたい。 さて『古事談』六 五四は、『十訓抄』一〇 二一の出典である。 「江帥(匡房)は、 極めたる相人なり」として、藤原清隆を「そ. 『小右記』 、『春記』 ) 證照 ──宿耀( 人名の音通・字形を通じて、観相と「宿曜」が混同される例. が源俊賢の観相を行なう。五二は、 同人が、 五一では、「洞昭」 座主院源に、弟子の良因は夭折ゆえ「全く其の(=阿闍梨にな. えて寿命も占われている。. 八では源高明) 、また、橘頼経の今夜の落命を相して、妻の密. る)相無」しと言う。寿命と地位の融合である。五三でも、同. 通相手の僧による殺害を免れさせる (弓削是雄の式占に類似) 。. 病臥し摂政を頼通に譲ろうとする道長の意向と合致した。. 人が頼通は「重ねて貴かるべき御相已に顕はれ給ふ」と述べ、. 但し、例えば『中外抄』下 三〇で匡房が行なったのは、 「観 相」ではなく「易筮」の「復推」 (解釈のみ再度行なう)だった。. 本来、儒家は観相をしないのである。前述した人名とは別に、. ‐. 観相と易筮の運命の占い自体も、入れ替わるものだった。. ‐. 「洞昭」は、 『新日本古典文学大系』の六 五三の脚注による と、『古事談抜書』一〇一では、冒頭に「登昭」と朱字で傍記. ‐. されている。 『今昔物語集』一七 一七「東大寺の蔵満地蔵の助. 六 五五以降も観相の話だが、四八から六〇までの観相の説. ‐. けに依りて活へるを得る語」も「登昭と云ふ相人」で、『今昔』. - 20 -. ‐. ‐.

参照

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