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山上憶良における中国的志向

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(1)Title. 山上憶良における中国的志向. Author(s). 石田, 公道. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 23(1): 1-15. Issue Date. 1972-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4003. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和47年9月. 山 上憶 良における 中国 的志向 石. 田. 公. 道. 北海道教育大学札幌分校国語国文学研究室. K0do lsH工DA : Yan ・anoueno okura and. His lnterestin China .. 山上憶良の沈 (おも) き痢 (やまい) の時の歌. 1首. 士やも空 しかるべき寓代に語り績くべき名は立てずして 山上憶良の作品の大部分は 『万葉集』 巻5にまとめ られているが, この作品はそれらの歌群から. はなれて巻6に収め られている. そしてその後に, 右の1首は, 山上憶良の臣が重態になっ た折 に, 藤原朝臣八束が河辺朝臣東人という者をして病状を慰問せしめた. その折に憶良は感謝の言葉 を述 べ, やがて しばらく して涙を拭っ て, 悲 しみ歎いてこの歌を口吟さんだという説明がつけられ て い る.. ところがこの歌の前書きも, そして後書きも共に憶良によっ て書かれたものではなく, 他の巻6 の諸作品と共に憶良以外の他人の手になっ たものであることを示している. ところが巻5に収録せ られている憶良の諸作品の前には, 時に憶良みずからの手になると思われる序文がつけ ら れ て お り, また 「山上憶良謹上」 というようなみずからの署名がなされているものがある.. これは正に前の口吟の場合と異なり, これらの作品 が憶良の手により, 紙の上に文字をもっ て記 録されたままの形で残されていたものが, 『万葉集』 の編者の手によりそのままの形で切り継がれ. た結果ではないかと思わせるものがある. 「謹上」 という言葉は紙に書いて呈上したことを示して おり, 大伴旅人の作品にしても, 藤原房前や吉田宜に対して紙に書いて呈上せられ, また先方から も紙に書いて旅人の許に送られて来ていたもの が, そのまま 『万葉集』 巻5に収録せ られたらしい ことが想像される。. これはこれまで口で詞詠せられていた歌から, 記録して人に示 し, または後世に伝えるための詩 歌に変化して来ていることを示 している. これまでは極めて貴重であっ て, 特殊な目的以外に用い られることのなかっ た紙が文芸作品を記録する為に用いられ, それを互に贈答し, 文雅の交わりを 訂 しているということが確かめ られ, 詩歌の意義と役割に新しい要素が加わっ て来ていることが知 られ る.. また更に山上憶良の作品の1つの特色は, 作品の前に序文がそえられており, しかも時によっ て は歌そのものよりもむしろ序文の方がより重要な場合もあり, 「沈痢目哀文」 のように文章だけで 独立 した作品もある. 序文 が つけられるということは詩歌が記録せられるようになっ たことを示 し ており, また彼に 『類票歌林』 というような他人の作品を集めて編さんする企画がなされていたと - 1 -.

(3) . Vo l .23 No .l. ion IA) i lof Hokka ido Uni i t t journa ver on (Sec s y of Bducat. Sept , ,1972. いうことは, 詩歌が口調時代か ら紙に記録する文芸に大きく転換 しようとしていることを認めなけ れ ば な らな い.. さ で憶良は後世に 「語りつぐべき名」 を立てないままに死んで行く 身をこの上なく 残念なことと して, 最後の心境を歌に托したのである が, 憶良が後世の人々に期待した 「名」 とは一体 どのよう. な も の で あ っ た の だ ろ う。. 源平の動乱期に, 薩摩守忠度はひとたびは西国に落 ちて行く途中からわ ざわざとっ て返 し, 暮 夜, 俊成の門に至り, も し乱 がおさまっ て再び勅撰集撰進の沙汰 があっ た時には自分の作品 を1首 なりとも加えて戴きたいと, これまで詠んでおいた詠草 1巻をとり出して俊成に托 して再び西の方. を指 して落ちて行っ たという。 後に俊成はその 自ら撰進 した 『千載集』 の中に 「読人しらず」 とし こしをむかしな が らの山ざく らか て忠度の作品を加えたが, その歌は 「さざなみや志賀の都はあれを. な」 として伝え られている. やがて彼は一の谷の合戦に一方の大将と して華々しく討死をするが, 篠には 「旅宿花」 という題で 「行きくれて木の下かげをや どとせ ば花やこよひのあるじな らま し」 と い う 歌 が 結 び つ け られ て い た と い う の は 有 名 な 『平 家 物 語』 の エ ピ ソ ー ドで あ る。. この忠度の態度は, 生死の関頭に立っ た人間の詩歌によせる異常な情熱と執念を描いて美 しくも また悲壮である. この場合, 忠度が後世に期待したものは, 平家の勇将としての忠度の 「名」 では なく, 歌人忠度としての 「名」 である. 彼は歌のを ままれによっ てその 「名」 を後世に伝えたいと願 っ て必死の覚悟をもっ て俊成の門をたたいたのである.. と こ ろ が そ れ に 先 だ っ こ と450年, 山 上 憶 良 が 立 て な い ま ま に 死 ぬこ と を 口 惜 しが っ た 「名」 は,. 忠度のような歌人と しての 「名」 ではなく, 土人として功名を立てないままで歴史の中に埋没して しまうことを悲 しんだのである. つまり憶良の後世に伝えたかっ たのは, 歌人と しての山上憶良で. はなく, 土人としての功名であっ たわけである. 彼は歌を作っ てもそれは歌人としての意識によっ て歌を詠んだのではなく, 土人の覚悟としてその心境を詩歌に托 したのである. 「身を立て道を行い名を後世に揚く」 というのは, 伝統的に中国の土 大夫階級の心を領していた. 生活の理念であっ た。 中国の土人たちは己の名を不朽な らしめるためにはどんな犠牲を払っ ても悔 ゆることはなかっ た. 東晋の桓温は 「美名を後世に残すことができず, また臭名をすら後世に残す ことができないのか」 といっ て口惜 しがっ たというが, これは名を後世に残すためには方法を選ば ぬという心意気を示 したものである.. 山上憶良の作品が, 中国の思想や文学の影響をうけ, 一般歌人の傾向とは趣を異に したいわゆる 「述志」 の歌であることについては既に先学諸賢の詳 しく説くところであるが, 事実万葉の歌人の 中で親 しく中国の文物に接することができたのは山上憶良だけであり,彼が歌人を以て自らおらず,. 中国士大夫の心意気を以て絶命の詞としたことは充分に理由のあることと思われる。 果せるかな後世の歌壇が 彼に与えた評価は極めて低い。 勅撰 『二十一代集』 の中に柿本人膚の作 ) 品が約120首収録せ られているのに対 し, 彼の作品は僅かに 5首が収められているに過ぎない1 . 而も5首いずれも原作を若干変更して収録せ られているのは, 既に彼の歌が時代に適合しなくなっ て い た こ と を 示 して い る.. 彼の歌 が認 められるようになっ たのはようやく近世になっ てからのことで,.加茂真淵がわずかに その存在を注目 したに過ぎない. 近代になっ て彼の特異な作風はようやく一般の注目を 浴びるに至. っ てはきたが, いわゆる専門歌人たちによる, 彼の歌人としての評価は今日と難もあまり高いもの ・ で むまな い.. たとえ ば島木赤彦は 「憶良の歌は, 赤人の歌のように神経 が 微細に感情が濃やかに いっ ていな い. そ の 代 り元 気 が 充 満 して い る‘ 只, 人麿のように漠然化されていない」 とか 「彼の歌が帰朝 - 2 -.

(4) . 北海道教育大学紀要(第」部A). 第 23 巻 第 1 号. 昭和47年9月. 後, 漢籍仏典の新知識に累ひされて,,不消化な思想的なものを歌っ て, 観念的な歌い振りになり, 道学的な歌になっ ているのに対して, 渡唐以前の歌が遣っ て, 夫れと対象されたらば興味深き現象 ) であろうと思われる2 」 と評し, 斎藤茂吉は 『万葉秀歌』 に山上憶良の短歌12首を抄出しているが, その声調の流動性に欠けている点を指摘して 「恐 らく憶良は, 伝統的な日本語の響に合体し得なか ) っ た の で は あ る ま い か」 と 評 して い る3 .. こ の ア ラ ラ ギの 歌 人 達 の 批 評 は, 憶 良の 歌 の 弱 点 を つ い. て極めて痛烈なものがあるが, 地下の憶良はこれら批評 家の言葉を どのように受けとめているであ ろ う か.. 山上憶良の作品は 『万葉集』 の中に約80首が伝え られているが, 彼が養老7年( 72 3 )以前に作っ たと考え られている歌は僅かに次の2首にすぎない. 1 ) , い ざ 子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ (万葉, 63 鳥期成あり通ひ 2 ども人こそ知らね松は知 つつ見らめ ) 5 るらむ (万葉, 14 .. 養老7年を憶良64歳とすれば, 上記の2作品を除く殆んどの作品は65歳以降において作られてお. り, おそらく彼が筑前守として筑紫に下っ てから本格的に作歌に精進 したものとみなければな らな い, すなわち彼は人生の大部分を無名の官吏として過 し, 最晩年に及び土大夫の地位を得てか ら詩 歌の道に志 したものである. 彼にとっ て詩歌は土大夫としての心得であり, 噂みであり, 歌人を以 て自ら任じていたわけではない. 彼の終生の関心事は土大夫山上憶良としての 「名」 であっ た。 恋 の歌をよまず, 自然風物を歌の題材としない土大夫山上憶良の姿がそこにある.. 山上憶良の名前が歴史の表面に現れてくるのは, 文武天皇の大宝元年( 70 1)遣唐小録に任ぜ られ た時である。 『続日本紀』 巻2, は第7次遣唐使を次のように任命している. 遣唐執節使 民部尚書大弐粟田朝臣真人 大使. 左大弁直高参高橋朝臣笠間. 同. 副使. 右兵衛率直広津坂合部宿禰大分. 同. 大位. 参河守務大庫許勢朝臣祖父. 同. 中位. 刑部判事進大壱鴨朝臣吉備麻呂. 同. 小位. 山城国相楽郡令追広津掃守宿弥阿賀流. 同. 大録. 進大参錦部連道麻呂. 同. 少録. 進大津白猪史阿麻留. 同. 少録. 充位山於憶良. 同. 遣唐使の構成は時によっ て異なるが, 大使・副′ 便・判官・録事の四等官より成るが, この年には 大使の上に執節使というのが任命せられている。 小録というのは記録を司る職務で, 無 位であっ た 山上憶良がここに任命されたのは異数の抜擢といわなければな らぬ. 彼が晩年に作っ た 「沈痢目哀女」 によれば, 時に74歳と記しているので, これが正確であれば彼. が遣唐小録に任命された時は既に42歳であっ たことになる。 この年齢を以て遣 唐使の一員に抜擢さ れていることは, 彼が元来名もない記録係の役人であり, 精励刻苦の末にその能力を認められて遣 唐使の末席に加え られたものと想像してよいであろう. つまり彼は本来歌人としての才能によっ て その地位を獲得 したものではなく, あくまでも政府の下僚と して漢籍や仏典に通じ, 吏務に精通 し ているという点を認め られその地位を得たものであろう. 『新撰姓氏録』 には右京皇別の下に 「山上朝臣」 , 左京皇別の下に 「山於真人」 という名が見えて. いる。 山上朝臣は粟田朝臣と同じく, 大春日朝臣と同祖で, 孝昭天皇の皇子, 天足彦国忍人命の後.

(5) . Vo l .I .23 No. i i i do Uni t t i on (Sec on I A) vers ty of Bduca Journalof Hokka. Sept , ,1972. という. また山於真人は大原真人と同 じく, 敏達天皇の皇孫百済王より出た という. 山上憶良は 前 者の粟田真人と祖を同 じくする家柄であり, これによっ て粟田真人が彼を推薦 して遣唐使の随 員の 1人に加えたものであるとい う. しかしな がら 『新撰姓氏録』 は弘仁年間の撰述であり, これをこと ごとく信ずることは極めて危. 険なことといわなけれ ばな らない。 それは孝昭天 皇という天皇が実在した天 皇ではなく, 後世天 皇 家の万世一系たることを示すために崇神天皇の上に加上された天皇の1人である ことが 今日では明 ら か で あ る か らで あ る.. 後世いつわりの系譜をもっともらしく正当化するためには, できるだけ 自分の家系を古い権威あ る家柄の名に托することが行われるが, 山上の家柄も神武天 皇から開化天皇までの9代の天 皇が作. 偽された天武天皇以後のある時期に作偽されたとみる外はない. 天智天皇の2年(663)に日本に亡命して来た百済人に億礼福良とい う人物があり, 太宰府の大野 761 ) に憶良子老という者 が石野老とい う 城の築城に参加したり, また淳仁天 皇の天平宝字5年 (. 姓を授けられた事例をあげ, 憶良はこの億礼と関係があるのではないかと説くのは土屋文明氏であ る4) .. 山上憶良が帰化人の家系に属 していたという可能性は大きい. 同 じく遣唐小録として遣唐使の一 行に加わっ た進大庫白猪史阿麻留という氏名は, はっ きりと帰化人系の人物であることを示 してお ) り, これ ら記録の官にあっ た者は多く帰化人系の人々によっ て占め られていたこと が想像される5 . な か た ば事に当ることができ 殊に文字の使用に当っ た人達は, 当初は帰化人系の人達でなけれ っ し, ひとたびその仕事にたずさわれば専門の家柄として代々その仕事を 担当 しなければな らなかっ たわけであるか ら, 憶良の先祖が帰化人であっ たことは大いに可能性があることといわなければな らぬ.. 憶良が42歳に してなおかつ無位であっ たということは, 彼の帰化人と しての家柄があま り高くは なかっ たことを示 している. 恐 らく彼の家は一般の人々が述 べているような卑姓の貴族ではなく,. 帰化人系の有力な氏族の下僚として, 記録や文書事務にたずさわっ ていた家柄の出身ではないかと 想像する. 彼の作品に説明の序文がつけられたり, また花島風月の世界が 歌の題材として選む れな いのは, 彼の遺伝的な体質が日本的な要素を備え ていなかっ たことと, 記録の官として歴代事にた. ずさわっ て来た伝統的な環境に影響されていることと思う. -員と して唐に渡り, 中国文化の洗礼を受け, 儒仏両道の学に通 じその影響をうけ 彼は遣唐使の- た結果, 和歌のリ ズムを理解することができなかっ たと説く人が多い が, それは誤りで彼は元来,. 人麿や赤人のような歌人として世間から認め られていたわけではなく, 彼自身も歌人たることを意 識 していたわけではない. これは晩年に至るまでの作品 が殆んど伝え られていないことによっ ても. 想像がつく。 彼が 記録の官であっ たことは仏典 や漢籍に接する機会を多く したことであろうし, 個人で書籍を 入手することが困難であっ た時代には, 記録の官という職務は外来文化に接することのできる絶好. の職業であっ たということが できよう. 彼が史官の1人として 『日本書紀』 の編さんにたずさわっ て い た と 説 く 学 者 も あ る が, こ れ も 可 能 性 の な い こ と で は な い.. 彼の作る歌の 前に漢文の序がつけられているが, これは当時としては珍らしく漢文を書く能力を 備えていたことを示 しており, 「沈痛目哀文」 のように漢文だけの作品 もあるのは彼が一般万葉の. 歌人と異っ た職業に在っ たことを示しており, 彼が記録の官として活躍 していたらしいことは大い に可能性があるといわなけれ ばな らぬ . 第7 次遣唐使の一行が出発 したのは, 大宝2年6月である. 九州か ら東支那海を横断 して, 揚州 - 4 -.

(6) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和47年9月. ・明州 o 楚州を過ぎて長安に赴いたと思われる. 時に中国では則天武后の長安2年に当 っ て い る が, 『旧唐書』 巻1 99には 「長安3年, その大臣真人来り方物を貢す. (中略) 真人好く経史を読 み, 文を届づることを解す. 容止温雅なり. 則天之を 麟徳殿に宴す. 司膳卿を授け, 放ちて本国に 還らしむ」 と記述せ られているので, 遣唐使の一行はかな りの待遇を受けたことが知 られる.. 彼等は唐に在ること約2年, 慶雲4年7月, 真人をのせた第1船は無事日本の土を踏むことがで きたが, 第2, 第3船が日本の土を踏むのは数年の後のことである. 憶良が在唐間の動静について. は記録がないので何も知ることはできない. ただ 『万葉集』 巻 “こ次の1首を伝えている. 山上臣憶良の大唐に在 りし時, 本郷を憶いて作れる歌. いさ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋いぬらむ (万葉, 63 ) この歌が慶雲3年(70 6)に作 られた志貴皇子の歌の前に置かれていることは, 憶良が無事粟田真. ) 人の 乗 っ た 船 で 日 本 に 帰 っ て 来 た こ と を 確 実に す る も の と い う6 ,. 『続日本紀』 は彼等遣唐使たちの功を賞 しているが , 慶雲3年の条には 「遣唐使粟田真 人に従三 位を授く」 とあり, その後に 「その使の下人等に, 位を進め, 物を賜ふこと各々 差あり」 と記して い る.. 大宝元年(701 )無位にして遣唐小録に抜擢せられた山上憶良は, 和銅7年(7 14 )には正六位から 従五位下に昇叙せられ, 霊亀2年(7 16)には伯善守と して国守の地位を獲得する. 養老5 年 ( 1) 72. 彼は1 6名の同僚と共に, 東宮に侍する身となるが, この中には文章博士, 紀朝臣清人や 明経博士 , , 越智広江等の名が見えていることは, 彼が当時の碩学としての名声, 入唐して中国文化の洗礼を受 けた文化人としての名声 を得ていたのではないかと思われる. やがて彼は筑前守として九州に下り, おくれて大伴旅人が太宰帥として大宰府に赴任するに及ん. で, 旅人を中心とする文学活動が勃興 し, 彼は筑紫 歌壇の雄と して独特の作品をものすることにな る. 彼が作歌活動に従事するのは, 人生の晩年に当っ ており, 『万葉集』 に収録されている作品の 大部分は, 彼が筑紫に下っ てから, つまり大伴旅人に接触し, 旅人を中心とする筑紫歌壇の文運に 触発せられ, 彼の生涯の最後の6年間位の間に作 られており, 『万葉集』 の中に在っ て異彩を放つ こ と に な る.. すなわちも し彼が大伴旅人に接する機会がなかっ たな らば 『万葉集』 巻5所収の諸篇は存在しな かっ たにちがいない. 遇然にも土人という意議を持っ ていた両者が, 都を遠く離れた西睡の地で出. あい, 互に刺戟し合い, 反撤 し合っ てその独自の作風を作りあげたらしいことは既に先学の論ずる ) と ころ で あ る7 .. 憶良の場合, 彼が筑前守として筑紫に下らなかっ たな らば, 彼は歌人としての名を後世に残すこ とができ得たか果して疑問である. つまり彼は自らが歌人であることを意識 していたわ け で は な し・・. 彼にとっ て大事なことは土人としての山上憶良を後世に伝えることであり, 歌の名人としての名 を残すことではない. 彼にとっ て歌を作るということは, 筑前守としての山上憶良を, 人間山上憶 良 の 志 を 歌 に よ っ て 告 白 し, そ れ を 記 録 して 後 世 に 伝 え る こ と に あ っ た の で あ る. こ の 点に お い て. は大伴旅人と全く同じ意識の上に立っ て歌を作っ たものと思われる. ただ両者の生い立っ て来た家系と環境はいちじる しくかけはなれており, またその素質において も特色を殊に していたため, それぞれ異色ある作品を残すに至っ たものであろう。 これまでの著名. な歌人である柿本人麿や山部赤人のようないわゆる 宮廷歌人と称せられる人達とは全く異っ た意識 の上に立つ作家が誕生す ることになっ たのである.. - 5 -.

(7) . vo l .1 .23 NO. i i ion (See lof H0kkaido Uni f Educat 七 t on . A) ヱourna ver s yo. sept . ,1972. 杜甫は山上憶良におくれること52年, 中国に生まれた詩人である が, 彼が56歳, 濁を出て長江を 下る船の中で作っ た作品に次のものがある. 細草微風岸. 旅の夜, 懐を書す 細草 微風の岸. 危橋濁夜舟. 危椙. 旅夜書懐. 独夜の舟. 星垂平夜間. 星垂れて平野聞く. 月湧大江流. 月湧きて大江流る. 名量文章著. 名豊に文章もて著われんや. 官廠老病休. 官は応に老病にして休むなるべ し. 瓢瓢何所似. 瓢瓢として何の似るところぞ. 天地-沙鴎. 天地の一沙鴎. この 「名貴女著著」 というのは<自分の名声は, 文章, つまり文学的名声によっ て後世に伝え ら れることは必ず しもその本意とするところではない〉 という意味である。 彼の願うところは 「立ち J どころに要路の津に登り, 君を尭舜の上に致 し, 再び風俗を して淳な らしめん8 」 ということであ っ た.. 杜甫は中国屈指の詩人であり, 全生涯を詩ひとす じに生き抜いた人物であるが, 彼の本領は詩人 たるにあるのではなく, 大丈夫として国家の安危に任ずることであるという, 詩人と して高い評価 を得ている杜甫みずからが, 詩人として名を残すことは必ず しもその本領とするところ ではないと い う. これは杜甫だけが抱く感懐ではなく, 中国の土人たろ者のすべてが抱く信念である.. 「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」 (典論) と述べたのは杜甫よりも500年も前の文人. 政治家である麓の女帝曹杢である. 詩や文章の意義を高く評価したこの言葉は, 文章にたずさわる 仕事を任と していたイ ンテリの文人たちの士気を鼓舞すると共に, 社会の上層部に在る者が競っ て 詩文を作る気風を助長するに至る。. 詩歌が貴族の宴席を 主たる舞台として発達することは, 中国もまた例外ではない. 漢の武帝の時 代に起源を持つとい う楽府は, 当初は民間より採取された民歌に始まる。 いわば今日の 歌謡曲に該 当するものであるが, これら座興として用いられた詞章が, やがて詩才ある文人の手によっ て作 ら れるようになっ た結果, より高い芸術的境地にまで高め られ, これが更に土大夫が自分 の心境や抱 負を示す好個の手段となる。. 六朝以降, 詩歌は土人必須の教養となり, 詩文の才能がなければ, 社会の第一線で活躍す ること ができないような環境が作 られる。 また知識人であっ ても志を得ない, 時運に恵まれない人物にと. っ ては, 詩は自分の心情を托 して後世に伝える具としての役割りを果すことにもなる。 雛の玩籍作るところの 「詠懐詩」82首というのは, 表面的な意味の外に, 時の権力者であっ た司. 馬氏を楓したものであるといわれている。 また束沓の陶淵明は, 人生の大部分を郷里の露陽で過し, 世に田園詩人として知られている人物である, 彼は数回仕進の経験はある が, す ぐ辞職 してしまう. ので時の政治権力とは殆ん ど関係がなく, 中国の正史には 「隠逸伝」 の中にその伝記が残 されてい. る. 彼の作品の中には自然の風物 が美しく 詠ぜられているが, その中にはやはり当時の社会に対す る楓意が含まれているといわれる. 彼の 『飲酒』20首と題せ られた作品の第2は次のように詠ぜら れ て い る.. 積善云有報. 積善. 報ありという - 6 -.

(8) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 夷叔在西山. 夷叔. 西山に在り. 善悪萄不慮. 善悪. 荷くも応ぜずんば. 何事立空言. 何事ぞ. 昭和47年9月. 空言を立つる. 九十行帯索. 九十に して行くゆく索を帯とす. 飢裳況富年. 飢寒. 不頗固窮節. 固窮の節に頼らずんば. 百世富誰億. 百世. 況んや当年をや 当に誰か伝ふべけん. 陶淵明のような隠遁者と称せられるような人物であっ ても, その名を百世の下に伝えなければな. らないと考えており, その為にとどんな困苦にでも耐え忍ばなければな らぬと考えている. 詩歌や文章はその人と名を 後世に伝えるための必須の要具であるという意識は 六朝になっ て勃興 してくるが, わが飛鳥から奈良朝にかけては, 六朝時代の文学作品 がかなり将来されたと想像され る。 しかしわが国の土人たちはその詩文からただわずかに表現の辞句を学んだだけで, 深く六朝士 人の作歌意識にま で立ち入る余裕はなかっ たし, またそのような考え方を受容すべ き基盤もまたで きて は い な か っ た。. 山上憶良はその育ち難い基盤の中にあっ て, 中国の土人的意識をもっ て詩歌を作っ た最初の 1人 であると言うことができよう.彼は恐 らく朝廷の記録を管掌する事務官より身を起した人物で あり, 文書を管掌する役人の多くがそうであるように, 彼の祖先は恐 らく大陸よりの帰化人であっ たと思. われる。 而も帰化人としての 彼の家柄は歴史の上に伝えられる程の名門ではなく, 有力帰化人の下 僚として地 味な記録の事務に従事 して来たものであろう.. 人麿や赤人のように皇室を讃美したり, 自然を詠わないのは, 彼が日本的な環 境に同化し得ない 要素をその体質として持っ ていたからだと考えなければな らぬ, 従っ て彼が死 ねば, 1代限りで彼 の家と彼の名は忘れられてしまうことになるわけである.. 彼はもとより若い時から歌人として知られてはいなかっ たし, 皇室や貴族から頼まれて歌を作る 機会もなかっ た。 また貴族のサロ ンに招かれてその場の雰囲気に合わせ て祝賀の歌をささげるとい. うこともなかっ た. しかし然るべき地位につくに及んで彼は詩歌がその人とその名を後世に伝える ための土人の教 養であるという自覚に達したのである。 彼は歌人であるから歌を詠むというのでは. なく, 土大夫であるからにはその教養として詩歌の心得がなければな らないという意識の上に立っ てお り, 詩 歌 に よ っ て こ そ そ の 名 を 後世 に 伝え る こ と が で き る の だ と い う 理 念 に よ っ て 歌 を 作 っ た. のである。 「をのこやも空 しかるべきよろづょに語り続 ぐき名は立てずして」 という彼の辞世の歌 には, 刻苦精励しなが ら74年を生き抜いてきた篤実な人間の悲痛な叫びがこめ られている。 士人にとっ て後世に語りつ ぐべき実績を持たないとは, なんとしてもやりきれないことである. ) 」 と詠 じているが, 誠実な人間であればあ 陶淵明も 「呼嵯, 身後の名, 我においては浮煙の若 し9 る程この感慨は深いものがあろう. 憶良の作品の中に 「語り継ぐ」 「言い継ぐ」 等の表現 がみられ. るが, このような表現は憶良以前においてはあまりみられず, 後の家特に至っ てはかなり頻繁に用 いられる用語 で, 而もこれは人暦や赤人の同じ表現とは異っ た意識の下に用いられており, 彼が 身 後の名に重大な関心をよせていたことがわかる。 憶良にとっ ては歌を どのように工夫 して作るかが問題であっ たのではなく, 土人として何を詠ず るかが大きな問題であっ たと思われる。 憶良が中国の文学から会得したものは, 中国の土人たちの 作歌に対する姿勢であったように思われる, 憶良の作品に恋の歌がなく, 四季風物の詠もなく, ま た 応 詔 の 歌 も な い の は そ の 一 つ の あ らわ れ と言 っ て よ い で あ ろ う.. 中国の場合, 僕代の楽府には男女の恋情を詠じたものがかなりある.しかし三国から六朝に入り, 7 -.

(9) . vo l .23 No .I. 1of Hok ido Unト l i Journa idn (sec i t くa s t t ▽er on tA) y of Educa. sept . ,1972. 詩が音楽を伴う楽府か ら独立 してく ると, 詩は土大夫の心情を吐露す るものとして大きな役割りを 受け持つようになり, かりに風物を詠じても作家は必ずその心境をその中にもり込むことを忘れな. い, 再び陶淵明の詩を引こう. 停. 雲. 別 々飛 鳥. 息我庭 何 煎副 閑 止. 停. 雲. 欄 々た る飛 鳥. わが庭柄に息え り. はね. おさ. 剛 を 鰍めて閑かに止 まり. 好馨相和. 好き声もて相和せり. 豊無他 人. あ に 他 人 な か らん や. 念子寒多. 子を念うことまことに多 し. 願言不獲. 願 え ども こ こ に 獲 られ ず. 抱恨如何. 恨みを抱くこと如何. これは 『陶淵明詩集』 の巻頭に収められている作品であるが, 前の4句は周囲の風物を描いてし ・ るが, 後の4句は自分の心1 青を吐露する. 叙景の中にも必ず作者の心情の投影がみられるようにな る.. 太宰帥大伴旅人が梅花の宴を催 した折に, その席に臨んで作っ た山上憶良の作品がある. 春さればまづ咲く宿の海 の花ひとり見つつや春日暮さむ (万葉, 818 ). これは憶良が自然の風物を詠 じた数少ない作品の1つで, 定家の撰する 『新勅撰集』 にも収め ら れているが, 彼はこの中で 「ひとり見つつ」 と詠じている ここに諸人と調和 し得ない憶良の姿が 。 み られ る。. 彼に応詔の作のないことも 注目す べ きであろう. 当時の和歌は天子よりの下命による応詔,儀式, 宴会等がその技能を発揮すべき晴 の舞台であっ たわけであるが, 憶良がその参加者であっ たという 記録はない. 『懐風藻』 は65名の作品を収めているが, その中の2 5名は 『万葉集』 にもその作品を. 残 している. しか し中国文化 の理解者であっ たはずの憶良の作品はその中に1首も収め られていな. い. この理由について今日これを明らかにする手がかりを持たない が, 私は彼が貴族達の開催する 宴席に招待される程の社会的な地位を持っ ていなかっ たということと, 彼は歌というものはあくま でも個人の感情 を述 べ てこそ意義があると考えていたか らでないかと思う. 『万葉集』 巻5には 「敢て私懐を布ぶる歌」 3首として次の歌が示されている . 天離る都 に五年住いっつ都のてぶり忘 らえにけり (万葉, 880 ) かくのみや息づきお らむあ ら玉のきえ行く年の限り知らずて (万葉, 881 ). 吾が主のみたま賜いて春さらば奈良の都に召さけ給はね (万葉, 882 ) これ らの歌は憶良が旅人に対して, 自分が京への転任運動を依 頼した作品であるといわれてい る o ) がl , 憶良の立場か らいうな らば, 敢て私懐を述べるために詩歌はあるわけであるから, 就職運動 の歌を詠 じても不思議なことではない。・当時公式の場での詞章は漢詩漢文 が用いられ, 和歌は私的 な宴席に用い られることが多かっ たといわれているが, 当時は漢詩漢文を作る能力のある人物が知 識階級にも極めて 少なかっ た結果にもよると思う.. 神亀3年頃, 憶良は筑前守と して筑紫に下るが, その翌年大伴旅人もまた太宰帥として九州に下 る。 大伴旅人が太宰府にいたのは神亀4年から天平2年12月頃までの僅か4年間に 過ぎなかっ た が, この文人長官であっ た大伴旅人との接触が憶良の詩歌を生み出す大きな機縁になっ たであろう - 8 -.

(10) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和47年9月. ことは, 憶良の重要な作品の大部分がこの期間に作 られ, また 『万葉集』 巻5所収の諸作品はおお く旅人に示されたものらしいことが察せられるからである.. 大伴旅人がいわゆる筑紫歌壇の中もとなっ て しばしば 歌の会を催 して文運を盛にしたことは人に 知 られるところであるが, 大伴旅人の作る歌の性格と, 憶良の作品のそれとは全く性質を異にする ものである。 しか しながら憶良は自分の作っ た作品を旅人に 「謹上」 しているのは, 単なる対抗意 識からだけではなく, 異質の作品でありなが らも両者の作歌意識に共通 したものがあっ たからだと 見なければならぬ.. 大伴旅人は名門大伴家の統領である。 『古事記』『日本書紀』 は大伴家の先祖の活躍を華々 しく伝. えるがこれは真実ではあるまい. しかし継体王朝に おける大伴金村の活躍以来, 大伴家は天皇家の 親衛隊として活躍して来たという意識は伝統として旅人の胸裏に流れており, それはその子の家特 にも及んでいたことと思われる. その子家持が, 大伴の家柄がその武門によっ て名を得ていたこと を強調するのもその理由とするに足りよう。 しかし律令国家としての体制が完成して行く過程にあっ て, そのような栄光の座は次第に失われ. て行く運命にあっ た。 壬申の乱の折に彼等の先祖が天武 王朝に対して尽した努力を以てしても大伴 家に与えられた格付けは 「宿弥」 であり, 新 しい体制と新興の勢力の前に名門大伴家も, 他の豪族 の運命と共に亡び去るべき運命にあっ たといえよう.. 大伴旅人はその複雑な政治機綱の中に在っ て大伴家の勢力を維持 して行く程の 政治家ではなかっ. た が, 近代的な知識人としてまた文学者としての才能を与えられていた. これは大伴家が歴代, 軍 事面を担当する武将として時には朝鮮大陸までも出兵して大陸の文化にふれ, それに対 して深い関. 心と理解を示 し, その文化を吸収 しようという意欲に燃え, 時には百済の国か ら渡っ て来た尼が佐. 保の家に寄宿していたという記録もあり, 彼は中国士人の本格的な教養についてかな りな理解を持 ちその影響をうけることが多かっ たことと思われる。 これに対し憶良が身につけていた中国の文化に対する教養と理解は極めて乏しく, 系統的な知識 を 身に つ け る ま で に は 至 っ て い な か っ た ら しい こ と は, 彼の 代 表 作 とも い う べ き 「沈 痢 目哀 文」 に. 『遊仙窟』『寿延経』『串公略説』 等中国の土人が斥けて読まない俗書を引用することによっ ても知. る こ と が で き るu) 。. 憶良が作品の主題としたのは, 生o 死 ・ 老 o 病等, 当時の日本仏教界の問題としたところのこと であり, 天下万民の関心としたところのことであっ た。 憶良の心を領していたものは中国の儒教的. 理念のそれではなく, 当時における仏教理念の常識を出づるものではなかっ た. 彼が当時の土人と 性格を異にするのは, 当時の権門豪族に属さないいわば権力機綱からはみ出された土人の感懐を述 懐 したという点にあるだろう。. 大伴旅人が歴代続いた名家であり, 山上憶良は1代に して身を立てた人物で両者は条 件を異に し ていたが, 共に詩歌は土大夫がその人とその名を 後世に伝うべ きものであるという点については共 通 した意識の上に立っ ていたのである。. しかしながら旅人は, その人柄として当時の政治や社会か ら超越しようとする傾向があったのに 対 し, 憶良のそれは当時の政治や社会環境に対 して反擬 しようとする傾向がみ られる. 両者が互に ) 2 相反撤 し, 相対抗してそれぞれの文学を完成したとす るのは高木市之助である1 . 私は憶良が旅人に対抗的意識を持ち, 事毎に相反覆する気持を抱いていたであろうことは両者の 育っ た環境から大いに可能性のあることであるが, 彼はむしろ当時における歌のありかたそのもの に対 して批判的な態度を持していたものと思う。 山上憶良の臣の, 宴を罷る歌. 1首. 9 -.

(11) . Vol .I .23 No. i i i ido Uni on I A) l of Hokka on (Sect ty of Bducat Journa s ver. Sept , ,1672. ) 憶良らは今は罷 らむ子果く らむそれその母も吾を待つ らむぞ (万葉, 337 しての 意義を持つものであ 議せられ興をそへるものと ・集会・宴席等の席上で詠 元来詩歌は儀式. る が, この歌の意味は早く退席 して家に帰り妻や子供の 顔を見たいと願うわけであるから, 座興と しては極めて興ざめな歌である. この歌のすく 後に 「大宰の帥大伴の脚の, 酒を讃むる歌 13首」 という連作 が続いているので, 憶良の歌に対 してその宴席に在っ た旅人がわざと即興の作品をもの. したのであろ う, と説く人もいる が, 私は両方共そんな即興的な作品とは思われない. 大勢の中にあっ て宴席の歓を尽すこと以上に早く家に帰っ て子供の顔を眺めたいと 願う心情は, 宴席の座興は殺いでも, 人間の心情, 親の気持としては共感を得られるものである. それ が 読者の 心を打つのは, 憶良個人の私懐であるだけでなく, それが人間の真情に根拠を持ちこれ が万人の心 意良の年齢は既に 老境にあっ たと思われるので家で をゆさぶるからである, この作品を作っ た折に1 泣くような子供はいなかっ たはずであるが, 歌の主題その ものが人の心を打つもの がありここに彼 の歌の生命がある.. また 「敬みて熊凝のためにその志を述 ぶる歌に和ふる歌 6首」 (万葉集,巻5)とい うのがある. 6にし 冒頭に長文の序文があるがそれによると, 大伴君熊凝は肥後の国, 益城郡の人であった。 年1 て天平3年, 相撲使某の従者として都に向う. ところ が不幸にも途中で病気にかかり, 安芸の国佐 伯の郡の高庭の駅家で病死する. 臨終の際に歎息 して 「伝えきくところ では, 仮に生れた身は亡 び 易く, 水の泡のような命は留め 難いとい うことだ. 聖人賢者も死をまぬかれることはで きない. ま して自分のような者 が逃れることができようか, ただ後に残っ た老齢の親が自分が帰らなかっ たな らばどんなにか悲 しむことであろ うか. 自分の死は敢 て恐れない が, 両親の悲 しみを思え ばそれ が てとができよう」 と言っ て6首の歌を詠 んで 悲 しい. 今日 永久に別れたな らばいつの 世に再び会う「 死んだという. 最初の 1首は長歌で, あとの5首は短歌である. 序文はもとより6首の歌もす べて 憶良の作るところである. すなわち彼は熊凝の身になり代っ て, 空しく旅の途中死んで行かなけれ ばならぬ悲痛な 国青を吐露する. 熊凝は憶良の管する筑前の者でもない し, 事件もまた安芸の国でのことである. いわ ば路傍の事 件にすぎない熊凝という無名の青年のために何 故に異常な情熱をそそ ぐのであろうか. 今日, 憶良 のこの歌ので き栄えをほめる批評家はあまりいない が, 憶良の意図はその歌よりも, 前につけられ た序文, なかんずく熊凝の悲痛な述懐の部 分にあるであろう. 憶良の心を領していたのは善良な人間の身の上に突如と して訪れる不幸な死. 逃れることので き ない運命に対する疑問と苦悩, 旅人のよ うに 「空 し」 と簡単にかた づけ られない九人の心情を少年 熊凝の心に托した ものと考える.. ) と題する作品は作者を表示しない が憶良の作とい 「筑前国志賀白水郎歌- 」10首, (万葉集巻16 う. 神亀年間大宰府宗像郡の津麿という者 が対島に食糧を運ぶ船頭に任命される. しか し彼は洋屋 郡志賀村の白水郎荒雄という同業の船頭のところに 行き, 官命を受けたけれ ども老齢のため行くこ. とが無理なので代っ て行っ てくれと頼む, 荒雄はこれを承諾して 肥前の国美禰良久の崎から船を出 して対島に向っ た. ところ が暴風雨のため船が沈没して荒雄等は死んでしまう. これに対して不運 な海難にあっ た荒雄等と, その妻子の悲 しみを思いやっ た憶良が, 荒雄の妻の心になっ て10首の歌 を 作 っ た とす る。. 憶良は他人に代っ た ばっ かりに海難にあっ て殉職 したこの善良な 船頭の不幸, よいことをしなが ら突如として人間に 襲いかかる不幸な運命, それに伴 うその妻子たちの悲 しみと暗い将 来, 神仏の 加護を厚く信ずる真面目な人間の幸福を瞬時に して奪う不合理ブ 運命に対する 憶良のはかない抵抗. と祈り. 荒雄や, 荒雄の妻子 らによっ て体験せ られた不幸な運命は, いっ誰かまた別の人間の身の - 10 -.

(12) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和47年9月. 上に襲いかかっ て来るかも知れない運命であり, それに対する憶良 の隣りと嘆きは万人の心 に触れ 共感をよぶものであり, その人間の心を荒雄の妻に代っ て訴へこれを後の世に伝えようとするとこ ろに彼の意図がある。 これまでのいわゆる宮廷歌人と称せ られる人たちの歌が主として当時の宮廷における 儀式または. 貴族の意志や感情を代弁するものであっ たのに対し, 彼は歌を個人のものとして, 当面する社会や 人生の問題に対して 「私懐」 を吐露することに歌の意義を認めていたのである. 古日と名 づけ られた子供が早世したのを悲 しんで作ったという 「男子名は古日に恋ふる歌3首」 という, 長歌1首, 短歌2首も憶良の作と伝え られている。. 古日は幼児でこの世に生まれて何等の価値ある仕事をしたわけではなく, 彼のした行動は生まれ てすく死んだというだけである. しかしその子の両親にとっ ては一朝にして何物にも替え難い宝を 亡っ たわけで, 親の愛の何物であるかを教えてくれたわけである, 思いがけなく訪れる残酷な運命 に対する憶良の抗議と悲嘆は単に古日の親だけの心情ではなく 万人に通うものであるからこそ記録 する価値のあるものなのである.. 柿本人麿が日並皇子の死を傷んで作っ た長歌は 『万葉集』 中の雄篇として知られているが, その 母である持統天皇の悲しみも, 古日の母親の悲 しみも本質的には何等異なることはない。 最晩年に作 られたと思われる「貧窮問答」において彼の本領は遺憾なく発揮される。 極貧の者と,. その嘆ききく人物, 恐 らくそれは憶良自身であると思われる人物の問答によっ て構成されるこの形 式は 『万葉集』 にはその例がない. この篇の成立や内容については先学によっ て多く論ぜられてい る の で こ こ で は 言 及 しな い,. 当時の女苑の中心が宮廷や貴族のサロンに在っ たので, 応詔, 従駕, 宴席の場における交歓の具 としての使命を持ち, またその詩歌は多くは詠詞によっ て人の耳に伝え られる場合が多かっ た。 し. かしなが ら憶良のそれは, 詩歌を土人の抱懐する心情を吐露し, それを記録することによっ て後世 に伝うべ きものとする中国士人と同一の意識に立っ たのである.. ) と歌っ 海犬養岡麻呂は 「御民吾れ生ける験あり天地の栄ゆる時に遇え らく念へば」(万葉, 996 て天平の御代を欧歌したのは, 憶良が 殺してその翌年のことで 「貧窮問 答」 の作られた時期とほぼ 同じ頃である. 後の学者や歌人にはこの作品の荘重雄大な風格を讃する人が多い. しか し憶良とし てはこのような作品 があるからこそ 「貧窮問答」 を作っ て後世に残す必要があったのであり, また 3 ) この歌の背景については北山茂夫氏が詳細に論ぜられた ごとくであろう1 .. 海犬養岡麻呂の歌が応詔の歌であり, いわゆる公嬢であっ たにしてもそれは実態をいちじる しく 誇張した空疏なものであっ たのに対し, 憶良のそれはたとえ私懐ではあっ たにしても万人の胸を打 つ も の が あ る。 憶 良 に と っ て は どの よ う に 歌 う か とい う こ と よ り 以 上 に, 何 を 歌 う か と い う こ と が. より重大な関心事であったわけである.. 「ささなみの志賀の辛崎幸くあれ ど大宮人の船待ちかねつ」 (万葉, 30 ) - 「田子の浦うち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける」 (万葉, 3 18 ) 前者は柿本人麿が近江の荒都を過ぎし時, 作っ た長歌の反歌, 後者は山部赤人が富士山を詠じた. 長歌の反歌である. 共に名歌として称せ られているものであるが, 今日ではこれらの歌は長歌か ら きり離した独立した作品として引用もせられるし, 鑑賞もせられている。 作者は制作の時点におい. ては, 短歌をそえることによっ て全体を生かすように工夫 したにかかわ らず, 後世になると反歌 が 一首独立した作品として鑑賞せ られるようになるのは, 長歌が 後世衰退する運命にあることを端的 - 11 -.

(13) . VO I .23 NQ I. ion 工A) ion (Sect i ido Uni lof Hokka ty of Educat ver s 工ourna. sept リ ー972. に 示 して い る,. 日本の和歌の主題は, 後世四季と恋が中心になり, 挽歌o露旅等 が僅かに残りの分野を占める. 時代 が下っ ても殆ん ど変化はない. このように和歌の中心 題材が固定 してくるとわ ざわざ序文をつ. けたり, 長歌形式によ らねばな らぬという必要もない。 ところ が土人の感懐を述 べるということになれば, 短歌の形式で 思想をまとめるということは至 極困難になっ てくる。 短歌はまとまった思想や感情を表現することので きるもっ とも短かい詩形で あるからである. そこで表現しよ うとする内容が複雑な場合には特別な方法を構じなけ れ ば な ら. ぬも. 中国の場合には詩の表現形式にいろいろ な種類 があり, 自分の表現 しようと思 う事柄によっ て自 由にその詩形や長短をきめることができる. 中国の場合, 詩は楽府, つまり楽器の伴奏によっ て詠 諏 していた歌謡曲か ら文学作品として発達独立した ものであるが, これは楽器を使用 しない代りに. 平灰の法則を作り, 音韻研究の進歩は押韻の原則を確立し, 六朝か ら唐代に入ると, 絶句・律詩等 の新しい表現形式の誕生によっ て完全に音楽の霧粋か ら脱し, 平灰と押韻の方法によっ て詩として のリ ズムと流動性を作り出すことに成功 したのである。 作家は自分の構想するところに従っ て自由 にその表現の詩形を選択することができる.. 陶淵明は, 四言, 五言, 七言, 賦, 辞等各種の詩形をもっ て作品を作っ ているのはそのよい例で ある. 白居易の 「琵琶行」 や 「長恨歌」 は極端な長篇であるが, これはどんな構 想でも詩化するこ と の で き る 証 拠 に はな る.. と ころ が 日 本 の 歌 は, 5・ 7 ・ 5・ 7 ・ 7 とい う 基 本 的 な 原 則 が あ る だ け で, 長 歌 の 場 合 は, 5. ・ 7 の音を繰り返すだけに過ぎないので, ややもすれば単調に流れ, 迫力を欠くことになりがちで. ある. まして詠ずる内容が思想的なものであればどうしても流動性を欠くことになる。 このような表現上の難点を憶良は, 序文及び長歌と短歌の 併用によっ て補うことを試みたのに対 し, 同じく思想的な内容を表現 しようとする旅人は, これを序文と連作という形式によっ て解決し. ようと試みた のである. 従っ て彼等の試みた方法は和歌の枠の中で思想的な内容をもり込むための 野心的な方法であっ たといえる. 後世の歌人たちがこの作品に対 して充分の評価ができないのは, 人麿や赤人と同様な目でみるにはあまり異色的だからである。. 清水克彦氏は, 「憶良の長歌の中には一首の中間に5・7・7の終止形を持つ ものがある. これ は大きく前段と後段とに別れており,更に分析すると, 段落形式の構成法から単語の末に至るまで, 独立した意味の単位の総合によっ て成り立っ ている. このような形式を立体的な形式と呼んだので. あるが,総合するとい うことは, 抽象するということであり, 抽象は知的な作用につながっ ており, 彼の長歌は知的な構成を持ち, 知的な把握を要求するものということができる. これは散文の形式 ) 4 」 と述べておられる。 に酷似 している.彼の長歌に対する散文的との評語もうべなうことができる1 彼の歌が散文的であるという点については異論を挟む余地もないが, ,私はこの理 由について平伏 や押韻のルールを持たない日本語の場合, 思想的な事象を表現 しようとしても, それは所詮うまく. ゆかなかっ たのではないかと思う. わが国にいわゆる思想詩が興 らなかっ たのはこの表現上の問題 が解決できなかっ たのではないか. しかし本質的にいっ て彼には歌人という意識より以上に土人という意識があり, 詠詞よりも記録 するという歌に対する大きな意識の相違があったのではないかと思う.. 憶良の作品には冒 頭に序文がつけられているが, 憶良の作品のように思想的な事象の場合には, その背景や環境を充分説明しておかなけれを 読者は充分に理解することができない場合があり, こ れがむしろ憶良の作品には重要な役目を果す.. - 12 -.

(14) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和47年9月. しかし私はこれとは別に詩歌の前に序文を置くということに別の意義を認める。 『万葉集』でも巻 5以外に作者自らが序文を書くというのは例のないことで, これは作者の著作意識が確立して 現 , 実に詠詞 して人の耳に伝えるという意識からはなれ て, 後世の人々に対 してよりよい条 件で理解 し て欲しいという著作に対する意識の変革が行われている結果によると思う。. 中国における序文として最も早いものは, 『詩経』 につけ られた大序, な らびに各篇の前につけ られた小序である, しかしこれは作者が自身によっ てつけられたものではなく, 後世 『詩経』 を解. 釈する者がつけた解説である。 作者自身がつけた序文の最初のものは 『史記』 につけら れ て い る 「大史公目序」 であるが, これは巻末の1巻をなしてい る。. 古代は自分の著作に自分の名を署名することはなかったが, 自分の著作であることを意識すれば 著作の意図や経緯につい て後世の人にその真意を理解して貰う必要がある。 従っ て序文はそ の作品. をよりよく理解して貰うため作者の意図を表示する役割りを果すと共 に著作意識が発生した 証拠と み る こ と が で き る.. 漢代になっ て辞賦がおこるが, 当初は宮廷や貴族のサロ ンで謡詠されるものであっ たので序文を つけるという必要はなかの た。 しかし後漢に入り当初の目的がうすれ記録して後世に伝えるという. 性格が加わっ てくると, 作品の前に序をつけて, 作品の由来を明らかにす るようにな る。 これは歌 謡的性格 から著作的性格の文学作品に大きく転換したことを意味する. 班固の 『両都賦』 井序や, 揚雄の 『甘泉賦』 #序, は辞賦に序がつけられた早い例であるが, 後世になると多くの辞賦に序が つけられるようになる. これが辞賦に限られ楽府に及ばない のは, 辞賦が記録する文学に大きく性 格を改めたからである.. 醜晋に入っ てもその傾向は変 らず, 醜の曹操に 「鴎鶏賦」 井序, 陸士衡の 「文賦」 井序, 曹曹の 「洛神賦」 井序等の作品が 『文選』 に収め られている。 これ ら六朝 の作品は早くよりわが 国にも将. 5 ) 来せられているが, 憶良の作品がこれ ら六朝の辞賦に影響されたとする学者もある1 。 漢末に起っ たいわゆる古詩が次第に力を得て, 楽府から独立して独自の分野を確立するのは醜晋. になっ てからの事であるが, 徒詩として音楽の露緋から脱却すると, 大勢の前で歌う要 素がなくな り, 記録して自己の 抱懐する思想や感情を後世に伝える為の具としての性格を確立する。 殊に時代. が下るにつれて詩は土大夫の基本的な教養として重んぜ られた結果, 詩賦は文雅の清遊の具となる. だけでなく, 自己の志を後世に残すための具としての地位を確立する。 殊に志を得ないまま失意の 生涯を送らなけれ ばならない 人間や, 反体制の側に立っ た人間の場合には, 生前には自 分 の 志 を 達成することはで きないわけ であるから, その志は詩文によっ て後世に伝えるより外に 方 法 は な. し・。. その結果, 冒頭に序文を置いてその詩の作られた環境や事情を説明するようになる また文雅の 会合が催された場合などには, それぞれの人が詩歌を作るのは勿論 であるが, それを一緒にした詩 文集の巻頭には, その席の主催者または長老によっ て序文がつけられるようになる。. このように詩文の冒頭に序文をつけることは, 著作意識が確立してきて, その作品に対する責 任 を明 らかにすると共に, 後世の人にまでその志を伝えたいと願うからに外ならぬ。 山上憶良や大伴 旅人が自分の作品に自ら署名す るということはわが国における著作意識の 拾頭を示す証佐とみなけ れ ば な らない.. 憶良に 『類票歌林』 と題する歌集があっ たことが知 られているが, これは当時存在していた歌を 集め項目別に分類 したものであろうと想像されるが, これは彼が中国の編さん事業に影響を受けた. 結果であるかも知れない. このように他人の作っ たものまでも丹念に収集記録して編さんするとい うことは, 彼がその散快を惜 しみ, 後世に伝えようとする大きな意欲のあらわれとみることができ - 13 -.

(15) . vo l ・23 NQ I. i ion (Sec ido Uni t ty of Bducat 。n I A) Journal。f Hokka ver s 下. Sept , ,1972. よ う. C U. 山上憶良が今日万葉の歌人の1人であることを疑う者はない, しかし当時は歌人という 地位や職 業 があっ たわけではなく, 彼等 が どの程度まで自分を歌人だと意識 していたか疑問である. 阿部仲. 麻呂は 「百人一首」 の歌人として知られているが, 彼は唐王朝の官僚で, その作る詩歌は土人とし ての教養が詩歌となっ て発露したにすぎない. 王維や 李白との応酬によっ てその人と名が伝え られ ている点から言え ば詩人ともいえよう.. 中国における辞賦 の作家は, 当初は芸人としての扱い しか受けることができなかっ た. しかしそ れから音楽的要素や詠諏的要素を払拭 して詩歌として独立するに及んで, 土大夫がその志を吐露す るものに大 きく変貌を遂げる. わが国の場合も詩歌発達の経緯からみて, その隆盛を将来したのは, 朝廷や貴族社会における儀 礼的な諸行事や宴席における交歓の具として大 きな役割りを果 していたに違いない. それが席上で 詠諏される ことになれ ばリズムや声調が重大な要件となることもまた必然であろ う。 人麿の挽歌が. 長篇であるのは, 儀式の席上で奏せ られる関係上一定の長 さを保つ必要があっ たのであり, 儀式に 用いる必要がなくな れば長歌形式にする必要はなくなる ことになる. また体制内の人間が作るわけであるから, 個人の思想や感情を勝手に述 べるわけにはゆかず 全体. の雰囲気に奉仕せ ざるを得ない. 政治や社会の問題を詩歌の題材 としてとりあげようとい う意識が 発生しないのは, 和歌が体制内の文学であるということと, 和歌によっ て表現され得る分野に限界 が あ る こ と を 示 して い る.. 憶良の歌は この点をつき破っ た点に特色がある. すなわち耳にきく歌を, 日で読む歌に, 歌人の 歌から, 土人の歌に大きく転換しようと意図 したことにある.. また歌の内容も, 私懐, つまり他人のために歌うのではなく, 個性ある個人の思想, 感情でなけ れば意義がないとする. 土人が抱懐する理念と感情を記録し, その人と志とを後の世に語りつぎ,. 言いつ がれる為のものでな ければな らないとする. 憶良が引用 した漢籍の中に, 儒学の経典が殆んど含まれていないことは, 彼の中国思想の中核的 なものに対する理解が欠如 していたことを示 しており, 彼の思想に大きな影響を与えている とは思. われない. 彼の思想の中核となっ たものは, 当時わが国に行われていた仏教思想の常識で, それを 漢籍の用語を以て修飾 したものと思う. 憶良の 「貧窮問答歌」 「沈痢目哀文」 は陶淵明の 「貧士」 「目祭文 「「形・影・神」 とは形式的には関連するような構成を持っ ているが, 思想的な影響を云 々するのは早計であろう.. しかし私は憶良が中国に渡っ て, 詩歌が土大夫にとっ てどのような役割りを受持つ ものであるか について眼を開かせ られたに違いない. 前半生において殆んど歌を作る機会のなかっ た彼ではある が, 晩年異数の抜擢をうけて土人としての意識を持つに及んで本格的な作歌の道に志したものと思 う,. 更に大宰府におい て大伴旅人と接触するに及び, 歌を作る理念において両者は共鳴するところが あり, 筑紫歌壇の中 もとなっ たものであろ う. 両者の歌風の相違は, 両者の育っ た環境と立場と資. 質の相異によるもので, 両者が相反媛 しなが ら異質の才能を発 揮したものであろうと思う. 彼の生きた時代は, 天智・天武・持統・文武・元明・元正・聖武とわ が国 が律令国家としての体 制がほぼ完成して来た時代に当る. 文化的には 『古事記』 『日本書紀』 『風土記』 の編さんが行わ れ, 大陸文化の輸入は急激に行われ, 殊に仏教は愈々興隆期に向い, 薬師寺, 興福寺, 法隆寺の伽 - 14 -.

(16) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和47年9月. 藍もこの頃完成し, やがて東大寺や国分寺の建築も発願せられるようになる, しかしこのように七堂伽藍が完成して名僧知識の活動によっ て世道人心を 救済しようと発願せら れても, それは国家鎮護を主目的としたものであり, 一般の人民たちの心を救うためのものではな かっ た。 このように人を救うための仏教は隆盛になりな が ら, 真面目で善良な人間は何故にこのよ うな不幸な運命に遭わなければな らないのか, 篤実な人間であれ ばある程このような矛盾に対して. はやりきれない気持があっ たに違いない. 仏教の黄金時代にその無力と矛盾に対して素朴な疑問を 抱いていた憶良はその率直な感懐を吐露して後世に伝えることが土人としての 使命であると考えて い た の で あ る。. しかしながらわが国における詩歌の発達は, 彼が意識 していた方向へは発展せず, 彼が心血をそ そいで作っ た 「述志」 の作品は後世の殆んどの歌人たちから無視せられること1200余年に及んだの で あ る. (註) 1) 新古今 8 9 8 0 , 新勅撰 33 , 績後撰 245 , 玉葉 468 , 玉葉 133 , 2) 島木赤彦:山上憶良の事ども, 赤彦全集 第3巻, 3) 万葉秀歌, 上 19 3頁. ) 土屋文明:山上憶良, 万葉集私 注巻1 4 2頁. 0 , 262頁-28 5) 上田正 昭:婦化人 6 9頁-79頁。 6) 樫樗久孝:万葉集注暖 巻1。 ) 高木市之助:二つの生 (吉野の焦 7 砧所収). 酒仙供養, 志賀の白水郎 (古文芸の話所収) 8) 奉贈草左丞丈二十二韻, 杜工部詩集 巻1. 9) 怨詩楚調, 示, ぎ主簿郡治中, 陶淵明集 巻2. 1 0) 土屋文明:万葉集私 注巻5 17 0頁. 11) 神田喜一郎・ 0. ,万葉集の骨酪となった漢籍, 万葉集大成1 12) 高木市之助:吉野の鮎, 古文芸の話に収められている旅人, 憶良に関する諸篇. 13) 北山茂夫;貧窮問題歌について, 万葉の世紀. ) 清水克彦:山上憶良の長歌, 万葉集序説. 14 15) 土屋文明:貧窮問答歌と束酋の貧家賦, アララギ 昭和31年2月号.. - 15 -.

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参照

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