Title
琉球・タイ交流史についての予備的調査−調査紀行と課
題−
Author(s)
豊見山, 和行; 漢那, 敬子
Citation
史料編集室紀要(27): 69-78
Issue Date
2002-03-26
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7692
Rights
沖縄県教育委員会
史 料 編 集 室紀 要 第 27号 (2002)
琉球 ・タイ交流史についての予備 的調査
- 調査紀行 と課題-豊見 山和行 。漢那敬子 は じめに 14令5世紀 か ら16世紀 にかけて、琉球 国は活発 に東南アジア諸地域 との交易活動 を展 開 した。そのなかで、 もっ とも頻繁 にかつ長期 にお よんだのは、進羅国 (タイ国)である。 『歴代宝案』 において、遅羅 国-の最初の文書 は、1425年 (洪照元)、琉球 国中山王か ら の もので ある (第-集巻40第 1号)。その文書 の文面か ら、琉球 。遮羅間の外交関係 は、 す でにそれ以前か ら開始 され ていた ことが分か る。『歴代宝案』や琉球家譜等 による と、 琉球か ら進羅 国- の派遣 は約58回を数 え、最後の派遣 は1570年 (隆慶 4)である。 この よ うに、約 150年 とい う長期 にお よんだ遮羅 国 との交易 。交流活動 を検討す る上で、 現地-赴 き、その歴 史的風景や現状 を確認す ることは不可欠な作業 と言 えよ う。現地調査 によって得 られた知見は、 目下進行 中の 『歴代宝案』の編纂事業 に資す ることになるか ら である。 以上の ことを念頭 にお き、 このたび2001年6月25日か ら29日の4泊 5日とい う、 ごく短 い 日程ではあるものの、歴代宝案調査委員会委員 か ら豊見山、同事務局か らは漢郡 の二名 が タイ国-赴 いた。 以下、 日程 にそって調査概要 を記 し、最後 に残 された課題 を検討 したい。 6月25日 (月) 午前 9時30分、那覇空港か ら台北(中正空港)経 由で タイの ドン 。ムアン空港-。乗 り継 ぎ便が遅れ たため予定 よ り1時間遅れて午後5時40分 (タイ時間) に着 く。通訳兼 ガイ ド は ソムサ ック さん とい う50代 と思 しき男性 の出迎 えを受 ける。 日本 との時差は2時間であ る。空港か ら車で約1時間で、バ ンコク市内へ入 る。ToMIYAMAKazuyukiandKANNAKeiko:A PreliminarySurveyontheHistoryofThai-RytlkyuRelations: anaccountoftheinvestlgatOryVisitandassociatedproblems.
史料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) この時期 のバ ンコクは雨期。思 ったほ ど気温は高 くない。直射 日光 は沖縄 よ り強い と予 測 してきたが、 日射 Lよ りもむ しろ蒸 し暑 さを感 じる。ただ、車 中はクー ラー を16度 くら いに設定 していて、 しば らくす ると寒い ほ どであった。ホテルの部屋 も同様、15度 の設定 であった。沖縄 で もそ うだが、南 に行 くほ どクー ラー を強烈 に効かせ るかのよ うだ。 ホテル はバ ン コク市内のやや南側 に位置 し、繁華街 よ り少 し離れたシー ロム通 りのナラ イ 。ホテル であった。 ホテル を出て右側 のチ ャオプ ラヤー川 の方 に歩 くとセブン ・イ レブ ン (日本 の コン ビニ とほぼ同 じ)や衣服 も売 る露店や屋台な どが続 く。左側 に2、30分歩 くと公 園や駅、有名デパー トのな らぶ繁華街 となる。 6月26日 (火) 午前 8時、ホテル 出発。 バ ンコク市 内の ワッ ト・プラ ・ケオ と王宮へ向か う。 ワッ ト・プラ ・ケオはラーマ1世 が建 立 したタイ王室の守護寺院で、タイ国内で最 も格式が高い とされ る。エ メラル ド寺院 として名 高い。 三つの仏塔 が並んで建立 されてい るのが遠望 された。前方が釣 り鐘型 のス リランカ様式、 中央 は細い仏塔 の タイ様式、後方 は トウモ ロコシ型 のカンボジア様式 と言 う。 本堂は金やガ ラスのモザイ ク模様 、様 々な装飾や彫刻 が施 され、豪華である。本尊の仏 像 は悲翠でできてお り、 これがエメラル ド寺院 と呼ばれ る由縁 とされ る。仏像 は年 に 3回、 暑期 、雨期 、乾期 に、国王 自身によって衣替 えが行われ るとい う。イ ン ドの叙事詩 ラーマ ーヤナ を基 に した物語が回廊 を埋 めつ くして措かれていた。 隣接す るゲス トハ ウスであるボロマ ビン ・ホール を門柵 の間か らのぞき、王宮の前 を過 ぎる。入 り口には 白い服 の護衛兵が銃 を手 に立ってい る。護衛兵 の交代時間なのか、十数 人 の兵士の行進 をみ る。 ワッ ト・プラ 。ケオ博物館 は仏像のほか、王の コレクシ ョンだっ た とい う刀剣 、短銃か ら近代兵器 である大砲 な どの武器 も展示 されていた。王権 と武器 と の結びつ きを考 え させ られた。 さらに、戴冠式 に使用 した とい う宮殿 に入 ると、玉座 の上に九層 の巨大な傘がつ り下げ られ ていた。敷地 内には宮殿博物館 があ り、イ ン ド系の仏像 (中部 ジャワの火 山岩 による 座像)、螺細 の漆器 な どが 目に付いた。 その後、国立博物館 を訪ねたが、休館 日が月 ・火 と連休 にな り、見学 はできなかった。 そのかわ り、 ワッ ト・プ ラ ・ケオ寺院の博物館 を見学す る。 午後、バ ンコク市内か ら空港-向か う。午後2時45分発 の国内線 でタイ 中部の ピサヌ ロ ー クに飛ぶ。 ピサヌ ロー ク着 は3時40分。 出迎 えて くれたのはチェンマイか ら五時間かけ 70
-史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) て きた とい う、ガイ ド兼通訳のパテ ィチ ョン さん (歳 は20代後半) と運転手の二人である。 空港か ら市 内までは約 15分、ワ ッ ト・プラ ・スイー ・ラタナ ・マハ タ- ト寺院 (13世紀 建 立のス コー タイ王朝の寺院) を見学す る。 ここの仏像 (チナ ラー タ仏) はタイで一番美 しい といわれ てい る。教 えて もらいなが ら、 タイ風 の礼拝 (脆いて3度 叩頭 、拝礼す る) を行 う。寺院 のなか にいるときに激 しいスコール とな り、結局小やみ になるまで1時間ほ ど待 たねばな らなかった。雨 と夕闇のために、仏像以外 は何 もみ ることができなかった。 夜 は宿泊ホテルか ら近い トップラン ドとい うビル にある レス トランでバイキング風の食 事 を とる。 日本人観 光客 もよく利用す るためであろ うか、メニューにはにぎ り寿司もあっ た。 オーダーで トム ・ヤム 。クンを注文す る。や は り本場のスープは辛 く、またナムプラ のにおい も強烈で タイに来た ことを実感 した。 6月27日 (水) 午前8時、ホテル 出発。天気 は曇天。 ピサヌ ロー クか ら陸路でス コー タイ遺跡公園- 向 か う。時速100キロほ どのス ピー ドで約1時間、ス コータイの町に到着 した。 新 市街地 をす ぎ、幹線道路 を走 ると水 田地帯が広 がる。道路沿いの掘 り割 りの よ うにな った池 には、蓮の花 が咲き、板橋 をかけていた家屋 もあった。多 くは、道路か ら3、 4メ ー トル ほ どセ ッ トバ ック して建て られてお り、杭状 の高床式家屋 である。 2階建てほ どの 高 さがあるのは、雨期の洪水 に備 えるため とい う。 この地域 は米作が主で2期作、その他 ニ ンニ クや トウモ ロコシを作ってい るとい う。車窓か らは一面の水 田地帯が広 が り、 とこ ろ どころに郁子林 、鳳風木、パパイヤな ども見 える。 各屋敷 には、柱上 の小 さな桐があるのに気づ く。 ガイ ド氏のパテ ィチ ョンさんによる と サ ンチ ャオ と呼び、毎朝お供 えをす る とい う。町や村のあちこちで見か ける。宿泊ホテル の入 り口前に もサ ンチャオはあった。 タイや ラオスな どに見 られ るピー (精霊)信仰であ るこ とは、帰国 してか ら分かった。 9時20分頃、1976年 に整備 、公 開 され たス コー タイ遺跡公 園に到着す る。70平方キロメ ー トル の広大 な敷地 に小 さい遺跡 を含 める と約200の遺跡 があるが、整備 が十分施 され た 遺跡 は5、 6カ所 とされ る。主な遺跡 には表示板が掲 げ られていた。観光客 も三々五々見 られ る。遺跡 は川や濠 に囲まれている。 整備 されたス コー タイ遺跡公園で ワッ ト・プ ラ ・マハ タ- トな どス コー タイ時代、アユ タヤ時代 の寺院 をみ る。煉瓦 と花 尚岩 で作 られた寺院である。 ワ ッ ト・プ ラ ・マハ タ- トは9代続いたス コータイ王朝の寺院で、アユ タヤ時代にも増 築 されたため、仏塔 の様式は混在 してい るとい う。
史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 礼拝堂はアユ タヤ時代の もので、 白い漆 喰塗 りの仏像 が 目をひいた。 ちなみにス コー タイ と は 「幸福 な夜 明け」 を意味す るとパテ ィチ ョン さんはい う。 王宮跡地 は、東西約20メー トル×30メー トル は どの方形 で、高 さは約1メー トル の花 園岩 の 煉 瓦を積 み上 げた部分が残 るだけの更地で、壁 や柱 な ど上部 の建築物上 は残 され ていなか った。 ス コー タイ遺跡公園 トウモ ロコシ型 の仏塔 をもつのはワッ ト。シーサ ワイで、 クメール人に よるヒン ドゥー 教寺院 として建て られたが、その後 タイ仏教式になった とい う。 ワッ ト・ス ラシーは 「美 しい池」の意。 その名 の とお り遺跡 の中心に池 があ り、池の中 の小 島に礼拝 堂 (本堂)がある。本堂は女人禁制。ス リランカ様式の仏塔 があ り、広場 に は歩 く姿の仏像がある。小 島の本堂 と仏塔 を結ぶ板橋 のそばにクロ トンの木が植 わってい た (タイ語ではボー ソン と呼称す るとい う)0 ワッ ト。シーチ ャムには巨大な壁 に囲まれた仏像があった (本堂の屋根部分は残 ってい ないので仏像 が壁 に囲まれてい るよ うに見 える)。座像 の左足 (膝)か ら右膝までは11.3 メー トル、高 さ14.7メー トル の大 きさである。仏像の足の爪が人の顔 よ り大 きい とい う具 合 である。 ここは、かつて軍隊の集 ま る場所で、見 るものを時呪す るかの よ うな仏像 は、 しゃべ る仏像 と呼ばれてい る。その由来は、壁 の中に トンネルがあ り、王 はその中をくぐ りぬけて仏像 の上の方 にい き、そ こか ら兵士たちに指示 を出すので、あたかも仏像が しゃ べってい るかのよ うな印象 を与 えた らしい。 遺跡公 園内にあるラムカム-- ン国立博物館-赴 く。高 さ6、70セ ンチ、幅20セ ンチほ どの四角型 の ラムカム-- ン王の記念碑 (レプ リカ)が鎮座 していた。 また、ジャングル に放置 されていた頃の遺跡 の状態は、写真 によるパネル展示 に よって遺跡 か らはぎ取 られ た遣物 、あるいは発掘時の状態 を うかが うことができた。スンコロク焼 きの陶器 な どがあ り、 と りわけ仏像 の多 さには驚か され る。 午後 、ス コー タイか ら約 1時間、ス ワンカ ロー クを経てシー 。サ ッチ ャナ- ライ-向か う。途 中、次第 に畑地が増 え、サ トウキ ビ畑の光景 を見なが ら山間の道 を進む と、 1時40 分頃、 シー ・サ ッチャナ- ライ遺跡公 園に着いた。 ここもよく整備 されてい る。13世紀 にラムカム-- ン大王に よって作 られた とい う寺院 で、仏塔の台座 (石)は像の彫 り物である。多 く象が仏塔 を守護す る形 になっている。寺 の前 には観光客の遊覧用 に、本物 の象 がつ ながれていた。
-72-史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) ワッ ト ・チ ェデ ィ 。チ ェ ッ トテ-オには多 くの仏 塔 があ り、七つ の仏塔 の意 とされ るが、七つ に とど ま らず 、ス コー タイ様式や クメール様式 、タイ様式 が混在 していた。 ワッ ト 。ナ ンバ ヤでは13か ら14世紀、ス コー タイ 時代 の壁 が、希少価値 を持つ として、そのまま保存 され てい た。 こ こ も運河 や城 壁 に囲 まれ た遺跡 だ。
コ
・ノーイ窯 遺跡公園の外 (-城壁外) に出て、約5kmほ どヨム川 沿いに北上す ると、 コ 。ノーイ窯 がある。調査 の 目的のひ とつである、 この窯跡群 と焼 き物保存研究セ ンターを訪ねた。丘 陵一帯に約150の窯跡 があ り、 さらに村全体では400を数 えるが、未発掘の窯跡 が多い とい う。多少、土が盛 り上がった ところはすべて窯跡 といって もいいほ ど、あた り一面が窯跡 群 であった。30分 ほ ど一帯 を歩 き回 り、い くつかの小 さい窯跡 をみ る。地表 には無数 の青 磁 ・白磁 な どの破 片や筒状の陶磁器 が層 をな して散乱 していた。 窯跡 の うち2
カ所 は、発掘 時の状態 が見 えるよ うに、覆屋式 で保 存 ・展示 されていた (KILN NO.123 と KiLN NO.42)。ついで、スンコロク (宋胡録)焼 きの焼 き物 を中心 に展示 してい る国立博物館 を見学す る。首里城 出土のタイ産の大型褐粕 四耳壷 とそっ くり の壷型陶器 があ り、 タイ 。琉球間の交易 を現地で実感 した。 スンコロク焼 きは 中国やベ ト ナムの影響 を受 けて、14-16世紀頃に生産 され、今帰仁城跡 か らも壷が発見 されてい る。 博物館 の玄関前で職員 の方 と一緒に記念撮影 をさせて も らったO サ ワンカ ロー クの町では、現在 もスンコロク焼 きが さかんに焼かれていた。道 々に窯場 や焼 き物品店がある。窯 の形状 は登 り窯に近い形だが、焼 き出 し口か ら煙 り口までの筒が 短 く太い。製 品には沖縄 のカ ラカ ラと同 じ形 のもの もあった。 3時40分頃、 シー 。サ ッチ ャナ- ライ を出発 し、車 を飛 ば して5時30分 には ピサヌ ロー クに着 く。少 し回 り道 を して ワッ ト・チ ュラマニを見学す る。建物の内部 を見学できる時 間は過 ぎていたた め、外観 だけを眺める。 アユ タヤ時代 の建物 とされ る。チェンマイ との 戦争 の時に、王は家来たち とともにや ってきた とい う。域 内にガジュマル の木 があったの で、タイ語での呼称 を尋ねたが、パテ ィチ ョンさんは、みた こ とがな く不明 との返事であ った。その他サ ンダ ンカやブ ッソウゲな ど、亜熱帯の沖縄で もおな じみの花木 も見 られた。 6月28日 (木) 朝5時30分、ホテル をでて、 6時35分発 の便で ピサヌ ロー クか ら空路バ ンコク- もどる。史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) ガイ ド氏のパテ ィチ ョン さん と運転手 とはここでお別れである。彼 らはこれか らチ ェンマ イに戻 る。懇切 に案 内 して もらったパテ ィチ ョンさんは、 日本の街角で ピアスな どを して 立っていた ら、 ほ とん ど日本の若者 と見分 けがつかないないほ ど今風の若者 であった。 7時10分頃、バ ンコク到着。再びバ ンコクでのガイ ドの ソムサ ックさんの出迎えを受 け、 車で約1時間余 か けてアユ タヤ-向か う。アユ タヤは曇天。 今回のメイ ンの調査地であるアユ タヤは、バ ンコクか らお よそ80kmほ どチ ャオプラヤー 川 を さかのぼ り、パーサ ック川 と合流す る地点のデル タ地域 に位置す る。東西8km、南北 4kmほ どの中州 が、かつてのアユ タヤ国の首都 であった。北 タイ ・東方 タイ を後背地 とし て豊富な森林産物 (染料 の蘇木 な ど) を持ち、また周辺地域 か らの物資 (胡棟な どの香辛 料)の一大集散地 で もあった。 このよ うな港市アユタヤ を 目指 して、琉球船 も往来 したの である。 『歴代宝案』 には、蘇木 。胡棟 な どのすみやかな交易 の遂行、また 「両平」な売買を要 請す る内容 の文書が多 く残 されてい る。 「アユ タヤ史跡公 園」 に入 り、 ヴィハー ン ・プ ラ 。モ ンコン ・ボ ピッ ト (アユタヤ様式 の仏塔)や ワ ッ ト ・ブ ラシ一 ・サ ンペ ッ ト (アユ タヤ時代の王宮跡地) を見 る。王宮跡地 は、18世糸己に ビル マ とのたび重なる交戦で破壊 しつ くされ、表示板 と風化 した柱や土台が、 かつての王宮跡地 を物語 ってい る。仏塔 にはそれぞれ ラーマ3世、 4世、 9世の歴代 のア ユタヤ国王の遺骨 が納 め られてい るとい う。観光客が往来す るなかで、修復作業が進 め ら れていた。 ちなみ に、 これ らの遺跡群 は、ス コー タイの遺跡群な どとあわせ て世界遺産 に 登録 され てい る。 史跡公 園 をあ とに して、それ らの遺跡 か ら出土 した品々 を展示す るチ ャオ 。サ ンプ ラヤ国立博物館 - 向かった。 ここにはス コ ー タイや シー eサ ッチ ャナ- ライでみた摘 みのある土器 の フ タ (半練) を3点 ほ ど確 認 できた。茶色 、 あ るい は黒褐色 の ものの ある。 その フタの あ る陶器 は、17-18世紀 の アユ タヤ ス タイ ル で 、 虫 を入 れ る容器 (A CAGE FORTEEDING ACRICET)だ と ガ イ ドの ソムサ ック さん は説 明 して くれ た。 半練 の フタは、大 き さも10cmか ら15cm と区々で あった。 また、かつての通貨 とし ー74 -14・5世紀のアユタヤ (『遣羅王国記』所載、 岩生成- 『南洋日本町の研究』より)
史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 現在のアユタヤ て用い られてたタカ ラ貝 も展示 されてお り、興味 をひいた。 近 くに1990年 に 日タイ友好百年 を記念 して建 て られたアユ タヤ歴史資料セ ンター本館 が ある。 アユ タヤの歴史や港市 としてのアユ タヤの位置づ け、住民の暮 らしぶ りな どをコン パ ク トに展示 。解説 してい る。 館 内で、かつてのアユタヤの交易品を見 ることができた。展示ケースの中に、 白檀や蘇 木 、エイ の皮 な どが納 め られていた。染料 あるいは漢方薬 に も用い られ る蘇木 は、長 さ5 - 6cm、幅約 3cm、厚 さ約 1cmくらいに整形 され た小片 として展示 されていた。琉球船が 買い付 けた蘇木 を現地で確認す ることは、今回の 目的のひ とつであった。その蘇木 によ う や く対面す ることができた。 また、各種 の胡棟 は、別 の コーナー に展示 され ていた。その 他 、 日本 か らもた らされた犀風や 日本刀 もあった。 さらに車で10分 ほ どの距離 にある、かつての 日本人町に向か う。 日本人町跡地 は、アユ タヤ市街 地の南東 、チ ャオプラヤー川 とパーサ ック川 が合流す る地点か らやや南下 した と ころに位置 していた。現在 では小公園の よ うになってお り、 山田長政像 は園内のタイ 日友 好協会の建物 (土産 品店 も兼ねる)のなかにあ り、 日本人観光客で賑わっていた。 同所 に は東恩納寛惇氏が1933年 (昭和8)にタイ を訪れ 、発掘指導 した際に発見 され た仏頭、そ してジャンク船 の模型 が展示 されていた。
史料 編 集 室紀 要 第 27号 (2002) 日本人町公園内には、アユ タヤ歴史資料セ ンター別館 があ り、琉球 を含 め、諸外国 との 交易 ・交流史 を展示 していた。琉球 との関わ りは、琉球家譜や歴代宝案 の コピーが数頁、 ガ ラスケースのなかに展示 されていた。 そのアユ タヤは河川 に囲まれた都市で、その周辺に中国人や 日本人、ポル トガル人、マ レー人 の居留 区が あった。琉球人 の痕跡 を示す居留区は知 られていない。琉球船は、交易 を済ませ る とす ぐに帰国 していた ことが 『歴代宝案』か らうかがえる。交易 のために訪れ た琉球船 が、アユ タヤの どのあた りに投錨 したのかを直接示す材料 もない。ただ、かつて の古い船着 き場 を探 し、その地の風景か ら多少 のイメージを持 ちたい と考 えた。 アユ タヤ歴 史資料セ ンター本館 には、興味深いジオラマがあった。それ は、チャオプラ ヤー川 とパーサ ック川が合流す る地点に築かれたボン 。ペ ッ ト (砦)上か らの眺望 を復元 した ものであった。正面か ら右手にかけてチャオプラヤー川が流れ、左手 にパーサ ック川 へ と分流す る、ち ょ うどその位置 に船着 き場が描 かれ、その手前にはジャンク船の模型が 配 され ていた。そ の場所 を肉眼で確 かめるよ うとボン ・ペ ッ トに向かった。 「なに もない よ」 とい うガイ ドの ソムサ ックさんの言葉 とは裏腹 に、川 に突 き出す よ う に、アーチ門をもつ城壁 の一部があった。説明版 (英文)に よると、ボ ン 。ペ ッ トは都市 の城壁 ライ ンか ら川面に突 き出た楕 円型 で、壁 の幅は 6メー トル もあった。その壁 には高 さ 2メー トル か ら2.4メー トルのアーチ門が五つ残 るだ けで、それ以外 は崩壊 していた。 かつては大砲 が備 え られ、敵の接近 に応 じて大砲 を移動 させ るためにアーチ門が使用 され た もの と推定 され る、 と記 されていた。城壁 の内側 には、煉 瓦を敷 きつ めた箇所 もい くつ か残 っていた。 ソムサ ックさんによると、ボン 。ペ ッ トは灯台、ダイヤモ ン ドのよ うなあ か りの意 とい う. チャオプラヤー川 を遡上 し、アユ タヤに入 る船は、 この砦 (灯台) を 目 印 に進 んだ とされ る。灯台の役割 をも果た したボン ・ペ ッ トは、要塞の よ うにな威容 の一 端 を今 に伝 えていた。 このボン 。ペ ッ トの前 を琉球船 も何十回 と横切 った ことは間違いな ボン ・ペット ー7
6-史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) い。 そ う思わせ る光景であった。 午後 はチ ャオプラヤー川 を船で川 下 りす ることに した。 アユ タヤ市内か ら40分 ほど南に 下った場所 にあるワッ ト・ポーテ ンタイ とい う船着 き場 に着 く。午後
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時に出発。約72km 離れたバ ンコクまで3時間半の船旅 である。 自動車では、約 1時間ほ どかか る とい う。 小雨混 じりの天気 となったが、そ う降 ることはな く、写真撮影 にはまず まずの天気 となっ た。昼食 は船上でのバイ キングであった。 日本人や欧米系の旅行者 が約 半々で60人ほ どが 遊 覧船 に乗 り込んでいた。バ ンコク ・アユ タヤ間の川上 り ・川 下 りは、今や定番の観光 コ ー ス となっているよ うだ。 船 は時速約10kmほ どのゆった りとしたス ピー ドで進む。川 の両岸 には川 にせ り出た杭状 家屋 も多い。古びた ものか ら近年建造 された と思われ る家屋 もみ られた。 また川縁に面 し て立地す る寺院や学校 も 目立つ。数人乗 りの小舟か ら4、50人 を収容す るよ うな船が さか んに往来 してい る。学校 の近 くには船着 き場があ り、スクールバスな らぬスクールボー ト で通学す る様子が うかが える。壷 な どの陶器 が川岸 に敷 きつ めれた村 も見 られ る。 この 日のバ ンコク-の川下 りは向かい風であった。 アユ タヤ時代 には雨期 を避 け、10月 中旬か ら翌年2
月 中旬頃までの乾期 の季節 に追い風 を利用 して遡上 した とされ る。 川沿いの景観 は違 って も300年、400年 の時 を隔てて同 じ空間にい るのだ と思 うと、感慨 は尽 きない。 ゆった りした川 の流れ、人家が途絶 え、郁子の木がつづ き、遠 くの仏塔が次 第 に近づ き、そ して遠 ざかってい く。 その よ うな光景 を見なが ら、『歴代宝案』 の時代 に 想 いを馳せ た。現地 に赴 いて こそ感 じ取 ることのできる、その場 の空気や景観 、人のにお い と土地のにおい。文献資料 の世界 をよ り深 く理解す るためにも、現地-赴 くことは不可 欠 だ と実感す る。 アユ タヤか ら2
時間。左手にバ ンコクの町並みが見 えてきた。 ワッ ト・ポー寺院 も見 え は じめ、午後4時30分、 リバー ・シテ ィーの船着 き場 に到着す る。 夕食後、シー ロムの通 り沿いを散策 した際、雑貨店で泡盛 との類縁 を説かれ る三合瓶 は チャオプラヤー川下 り (アユタヤからバンコク)史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) どの瓶 に入 った 白酒 (ラオ 。ロン、ラオ ・カオ) を70バーツで買 う。缶の コカ コー ラは一 本20バーツであった。や は り安酒 の部類 に入 るよ うだ。 6月29日 (金) 午前 6時出発 、 8時25分 (タイ時間)バ ンコク発 、台北へ。 17時台北発 (台湾時間)、 那覇空港-は午後7時 (日本時間) に着。無事、タイ調査 を終 えた。 むすびにかえて 今回の調査 は、 あ くまで も今後 の東南アジア調査-むけての予備 的な ものであ り、やや 網羅的 に調査地を廻 ったため、焦点 を十分に絞 ることができなかった。 しか し、バ ンコク とアユ タヤの距離感やチ ャオプラヤー川 の流れ を体験できた ことは、かつての琉球船 の往 来 を考察す る上で得 る ところが大 きかった。 また、タイ製 の陶器類や蘇木 な どの交易品を 現地で実見できた点 も有益であった。 事前の準備 が不十分 なこともあって、バ ンコクのワッ ト。ポー寺院にあ る、琉球人像 に はアプ ローチす るこ とがで きなかった。 戦前 に東恩納寛惇氏が発 見 ・紹介 し、その後、 1993年 に野々村孝男氏が現在 の状況 を確認 してい る (同 「琉球人像 の保存 の確認 -東恩納 寛惇先生が六〇年前 に発見 したタイの琉球人像 について-」 (『地域 と文化 沖縄 をみなお す た めに』第82号 、1994年 、ひ るぎ社)。琉球人像 の確認 は、今後 の課題 として残 され て い る。 マ ラ ッカやパ タニな ど、東南アジア各地の港市に琉球船 は足繁 く通 っていた。今回のタ イ調査 によって、それ らの土地へ赴 き、継続 して現地調査す ることの必要性 をよ り一層強 くした。 78