地域紛争解決のケース・ヌタディ"その2"(1961年アンゴラ)
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(2) 文学・芸術・文化 1 6 巻 1・2合併号 2 0 0 5 . 2. 課長 l名、当時2 4才の筆者)は、レオポルドヴイルの町に一泊する予定で、 入国査証も取って来たが、入国管理官から、外国人旅客は空港を出てはな らぬと申し渡された。というのは、その前の晩、空港から町ヘ向う途中の 白人の農園が襲われ、一家が皆殺しにされたためとのこと o 1 9 5 9年、レオ ポルドヴィルでの暴動に動揺して、ベルギ一政府は、突然コンゴを独立さ せたが、ルムンパ首相とガザヴヴ大統領・モブツ将軍の対立、更には分離 主義運動のチョンベがからんで、ルムンパ首相の暗殺から内戦に突入、激 化して、国連軍が介入していた。 空港のレストランも国連軍の兵士で一杯で、食べ物は売り切れていた。 夕食抜きで、空港のベンチで一夜を明かすと の洗礼を受けた気がする. c t . . .と初めてのアフリカ大陸. O. 空港で、我々一行以外の唯一の日本人に出会った。大阪の、確かどぶ池 のセンイ輸出商社のアフリカ巡回員の人で、. 2-3年前から、アフリカ諸. 国をまわり、旅券の全ページが、査証、入出国のスタンプで一杯になって 合冊した日本旅券を我々に見せてくれた。 同氏は、ポルトガル領植民地には、身元、渡航目的を保証する現地在住 の人がいないと、入国査証が出ないので、我々のアンゴラでの合弁事業提 携先に、紹介状を書いてくれと食い下っていた。. 2 . <底抜けに明るいアンゴラの首都ールアンダ LUANDA> レオポルドヴイルで乗り代えたアンゴラ国内航空 (DTA) は、双発プロ ペラの DC- 3型機で、当時最も安全性の高い機種といわれたが、座席は へたり込んでおり、豪雨と雷光の中で飛行する問中、機体が終始ビリビリ とふるえていた。 ところが、雲界をとび出すと、突然、熱帯の太陽がふりそ泳ぐ青い海が、 足下に見え、降下しながら Uターンした機体の窓から、ヤシの並木に縁取. -240-.
(3) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 19 6 1年アンゴラ) 有水. られた南欧風の港町が見えて来た。 ルアンダの港は、大陸側からはりだした L宇型の細い腕のような岬で囲 まれた天然の良港である. O. その岬のつけ根が、切れていて、短い橋でつな. がっているので、ルアンダ島と呼ばれている. O. 川が押し出した土砂が、海. 流の力で、大陸と平行に堆積して、天然の防波堤をっくり、湾の入口 1. km、奥行 3km位の湾を形成し、その中に浮ぶモーターボートやヨットの 錨綱が、底まで見える程、水がすんでいる。 この岬(ルアンダ島)の上には、ヤシの林の中に、水色、レモンイエ ロ一、ピンク等の色の別荘が建ち並び、常に海からのそよ風が吹いている 対岸の大陸側は、 海岸に沿って、. 4~5 階建ての古いオフィスビル、ホテル、銀行等が. 3~4 列並び、その聞に 17世紀のバロック様式の教会が. 4~5 ヶ所頭をのぞかせる O. これらの下町の背後には、地元の人が円形劇場と呼ぶ、高さ 70~80m. の海岸段丘が取り囲み、その急な斜面に植えられた並木の間に、南欧風の 住宅がつらなっている。 湾の奥、大陸側の丘の上にサン・ミゲルの古い砦(砲台)があり、逆に 湾の入口には、 1万トン級の船が、同時に 5隻接岸できる埠頭が町から突 き出、大きくて古風な税関の建物、倉庫が、その根元をふさいでいる。 こ冶から内陸部のコーヒー園が集中するマランジの町まで、旧式の鉄道が. 500km延びている. O. ルアンダの町は、年間平均気温2 4 . 1C、年間平均降雨量 3 6 2ミリと乾燥 0. した土地で、建物の形、影が、くっきりと見え、ブーゲンビリアの並木の 花の色が、浮き立って見える。当時、日本で殆んど唯一といってよいアフ リカ諸国見聞記、ジョン・ガンサーの『アフリカの内幕 Jで指摘していた と思うが、「ヨーロッパ人として初めてアフリカ西海岸に進出したポルト ガル人は、アフリカ沿岸の最も美しい天然の港を基地にした」というだけ. 5 7 5年パウロ・ディアス・デ・ノヴアイスが、拠点、を築い のことはある o 1. O. d斗. 句 -. ﹄ つ. A.
(4) 文学・芸術・文化 1 6 巻 1・2合併号 2 0 0 5 .2. た南部アフリカでは最も古いヨーロッパ人の町である。 たぜ、この美しい港町の背後の台地は、対照的に、パウパウの木等が点 在する、ほこりっぽいサヴァンナが延々と続き、空港もその中にある. O. ル. アンダの町の並木も、常に水をやり、根元から 1m位は防虫用の石灰が 塗つであり、入手がかかっているのが判る. O. 当時、首都ルアンダの人口は、白人 3万 6千、混血 1万 2千、黒人 1 6. 万1 ( ANTONITO,D I C I O N A R I OCOROGRAFICO-COMERCIALDEA N -. GOLA1959年版原文のまま=当時のアンゴラでは唯一の地誌・商業事典、 変形 A4版二段組み、 8 4 8 頁)とされており、サハラ以南のアフリカで、 南アフリカを除き、最も白人人口が多い町といわれていた。 ルアンダ港は、アンゴラ北部の大農園で栽培されるコーヒー豆の輸出港 で、これらの豆は、アメリカのインスタント・コーヒーの主たる原料と なっていた。またアンゴラ北部のダイアモンド鉱山国策会社 D IAMAGの 立派なビルがあり、ダイアモンドの密売を取り締まる私服の捜査員が、町 を歩きまわっているので気を付けるよう提携先から注意されていた。 我々がアンゴラに行く 3年前の 1 9 5 8 年、ルアンダの湾の入口近くの北側 の岬から石油が出始めたが、当時は年産 3万トン程度 2 で、その後で、ア ンゴラの主要石油産地となるカビンダ(アンゴラの北の旧仏領コンゴに固 まれた飛び地)の海底油田が米系石油メジャーにより、開発されることに なる O 製造業としては、精糖、木綿、肥料、セメント、建築資材のほか、ビー ル、ビスケット、既製服、ゴム、皮なめし等の消費財の軽工業があった。 輸入商 1 6 4、工場7 3、外国領事館 1 3、 日 刊 紙 上 週 刊 新 聞 に ラ ジ オ 放 送 局 3、総合病院のほか開業医 5 4 (女医 8を含む)、弁護士事務所 3 3、建築 設計事務所3 5、等が登録されていた。. 3. 各住宅区に、小学校があるほか、立派な植民地風建物の公立中・高校 (リセウ、男女別学) 3校、商業高校、工業高校それぞれ 1校、カトリッ 必 比τ. ワ 白. 臼 つ.
(5) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" (1961年アンゴラ) 有水. ク系小・中・高一貫教育校が幾つかあり、また、アンゴラで初めて総合大 学を設立する途中の段階として幾つかの単科大学 (INSTITUTO) が既に 活動していた。 映画館も、 9 00 席以上のものが. 3館、 ドライブイン・シネマも lヶ所あ. り 、 6千席のスタンドを持つサッカースタジアムが拡張中(2万 2千に) で 、 26のテニス・サッカー・水泳・ヨット等のクラブがあった o. 3 . <1961年のアンゴラの政治情勢> 我々がアンゴラに到着した 1 9 6 1年は、アフリカ諸国独立の年といわれ る1 960 年の次の年で、アンゴラでも初めての対ポルトガル独立武装闘争 が始まった年である. O. くルアンダ蜂起とサンタマリア号乗取り事件〉. 2月 4日、政治犯が収監されているルアンダのサンパウロ監獄を、数十 人のアフリカ系住民グループが襲撃したが、撃退され、ポルトガル人警備 兵 7、アフリカ側 40 名が死亡したと報道された。翌日ルアンダのポルト ガル系住民の一部が武装し、前夜襲撃したアフリカ系グループが逃げ込ん だといわれるスラム街を襲い、確認された遺体だけでも 49、 2月24日付 ザ・タイムズ紙は、 たと報じた. O. トラック 5台分のアフリカ系住民の遺体が運び出され. そして生き延びたメンバーは、ルアンダから、東北東200km. のデンボスの森に逃げ込んだといわれる。デンボスの森の中心の町キパッ シエ (QUIBAXE) は、標高 300mから 1 , 100m迄、くねくねと登る舗装道 路に沿った町で、 1 7 9 3年からポルトガル人が住みつき、周辺に 59のプラ ンテーション(アフリカ系労働者約 8千人)と 49の中・小自営農が年間約. 1万 2千トンのコーヒーや、 450トンのヤシ油を生産しており、同地のア フリカ系住民のコーヒ一生産高は 2, 150トンであった。. 5. Aせ. qJ. 白 っ.
(6) 文学・芸術・文化 1 6巻 1・2合併号 2 0 0 5 . 2. この事件の数日前、カリブ海の近くで、主としてアメリカの観光客を乗 せたポルトガルの豪華客船サンタマリア号が乗取られ、世界中の報道機関 の注目を独占した。 この事件の首謀者は、元ポルトガル軍人のエンリッケ・ガルヴァン艦長 で、アンゴラが 1 5の地方区に分けられていた頃、そのひとつの地方区の執 政官をつとめたことがあり、その時以来、植民地政策に疑問を持ち、本国 の独裁者サラザール首相打倒派の反政府運動に加わったとのことである. O. 同人の著書 6 によれば、サンタマリア号乗取りに合わせて、ルアンダ監獄 を襲撃する計画だったとのことであるが、サンタマリア号乗取りは、海賊 行為と見なされて、近隣諸国の軍艦に包囲され、ルアンダには向えず、ガ ルヴァンはブラジルに亡命し、他方ルアンダの事件も、連鎖反応を生まず、. B a s i lD a v i d s o n等、この二つの事件の関連性を疑問視する人達もいる. o. 疑問視する人達は、ルアンダの監獄襲撃は、収監されていた政治犯達が、 他のポルトガル領の監獄に移送される期限が近付いたので、襲撃したので はないかと推定している. O. 当時、後に MPLAの指導者・初代大統領になるアゴスチノ・ネットは、 カーボ・ヴェルデ島の監獄に収監されており、クルーズ・イ・アンドラー デもギニア・コナクリに亡命していたので、ルアンダ監獄に収監されてい る政治犯達を除いては、経験ある指導者がいない状態であった。 現代のポルトガルの歴史家オリヴェイラ・マルケスによれば、アンゴラ の住民は、狭い地域にしばられた農牧業の境界に沿って言語や部族によっ て分断されており、このような住民の問で独立のための叛乱を引き起すに は、白人対黒人というような人種的憎悪、あるいは白人入植者の暴力に対 する反感を起爆剤にする方法が最も実現可能性が高く、ガルヴァンのよう にポルトガル本国での、ポルトガル人による反体制運動に、アンゴラの住 民がどの程度参画する可能性があったか疑問であるとしている o しかし、ポルトガル共産党は(ガルヴァンは、ポルトガル本国での大統. -244-.
(7) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" 0961年アンゴラ) 有水. 領選挙の際、サラザール首相が推す軍首脳の大統領候補者に対抗して、立 候補したウンベルト・デルガード将軍の支持者で、軍の中の分派運動と見 る者もいる)植民地解放には、まず第一に、 4 0 年近く続いた本国のサラ ザール体制を崩壊させ、その後、植民地を独立させるという戦略を取って おり、その後 1 3年かかったとはいえ、結果として 1 9 7 4年のポルトガル本 国での若手将校のクーデターを引き起し、植民地解放につなげた訳である から、この戦略は一応奏功したといえよう. O. 反面、ポルトガルの反体制運動と、連動したアンゴラの独立運動グルー プは、ルアンダを中心とする教育ある知識階級に、ほぜ限られ、それも混 血が中核となって、後に MPLAが形成された込め、ルアンダ以外の地方 の部族、教育を受けていない大衆から遊離している欠陥が出た。また、社 会主義建設の表看板が、モザンピックのようには、簡単に書きかえられな p重荷を背負うことになる。. くアンゴラ北部の暴動> ルアンダ監獄の襲撃から、 4 0日後の 3月1 5日、コーヒープランテー ションが集中するアンゴラ北部の高原の中心部市カルモナ(現ウィジ)市 周辺で、数千人のコンゴ族が、集団で、白人の農園、商居、派出所等を襲 い、女性、子供を含め 3 0 0人余の白人と、 1 , 0 0 0人余りのアフリカ系住民で ポルトガル人に協力的と見なされた者を虐殺する事件が発生した。 カルモナ市は、ルアンダから北東310km、標高 859mのコーヒーの集荷 地で、昔 BEMBEと呼ばれ廃鉱となった銅鉱山が中心のカピタニアがあっ た所で、その後 1 9 1 7 年に初期のポルトガル人の入植があり、コーヒー栽 培の拡大と共に、 1 9 5 6 年当時のポルトガル大統領カルモナの名を付して、 市に昇格した町である. O. 岡市周辺には、当時 1 9 1のコーヒープランテー. ションと 1 5 6の新規開拓許可があり、ヨーロッパ系住民 3千人とアフリカ 系住民 2万 5千人が主としてコーヒーの栽培に従事していた。ヨーロッノ f FHU. 4せ. 臼 っ.
(8) 文学・芸術・文化 16巻 1・2合併号 2005.2. 系住民の生産高は、 1 954/55 年コーヒ一年で、 1 1, 6 3 5トン、アフリカ系住. , 1 2 0トンで、アフリカ系住民は、コーヒーのほか自給自足用のマンジ 民6 オッ力、さつまいも、玉ねぎ、ピーナッツ等を栽培し、豚、山羊、ニワト リ等を飼っていた。カルモナ市周辺の不安定要因は、コーヒーの生産が、. 4年間で 30%拡大したため、新現の末利用地の開拓許可(原住民とのトラ ブルの種になり易い)が急増したのと、他の地方からのプランテーション で働く出稼ぎ労働者が約 5千人もいたことである o 襲撃したグループは、北から来たといわれ、山万と、一部の者が旧式の 銃を持っていただけで、蜂起が、組織的計画に基づくものだったか疑問視 されている。ポルトガル側の新聞は、これらの集団が、ルアンダ監獄襲撃 事件とは関係がなく、前年ベルギーから独立した北の隣国コンゴ(ザイー ル)から国境を越えて侵入し、あらかじめ麻薬で恐怖心を麻庫させられて、 プランテーション側のガードマンの発砲にもちゅうちょせず、山刀(日本 語のカタナがポルトガル語化している)を振りかざして突入してきたと報 じていた。また、盛んにポルトガル人より、ポルトガル人の農園で働くア フリカ系住民を多数殺りくしたことを強調していた。 また、この事件をめぐって、アンゴラ北部で活動していた英国のパプ テイスト宣教師団が、仲々独立を認められないアフリカ系住民に同情して、 これを弁護するような発言をヨーロッパのマス・メディアに流したこと¥ 襲撃して来たグループ。が持っていた銃が、旧式の米国製のものだったこと から、プロテスタントの宣教師団と武装独立闘争集団との関連が、当時多. B a s i lDavidsonは 、 くの憶測を混えて、ルアンダでは噂話となっていた ( 数年後に、この蜂起には、アルジエリアの民族解放戦線 FLNフランツ・ ブアノン等の示唆があり、 MPLAの幹部は、時期尚早として、これに乗ら なかったが、 UPA(FNLAの前身)のホールデン・ロベルトが、これに乗 せられたとしている o. 1 0. -. Basi 1Davidsonは MPLA幹部と親しかったこ. とを割引く必要があるが…). 0. -246-.
(9) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" (1961年アンゴラ) 有水. アンゴラ北部のコンゴ族は、ベルギー領当時のコンゴの方が、アンゴラ より就業の機会も多く、賃銀も高かったので、前稿でも説明した通り、コ ンゴ西部とアンゴラ北部の聞を行き来していたが、ルアンダ周辺のキンブ ンドゥ族の監獄襲撃事件の向うをはって、その l年前のレオポルドヴィル での叛乱成功の再現を試みたのではないか? (ポルトガル政府が、ベル ギ一政府のように植民地を投げ出すと期待?). 5日蜂起以前は、北部には約 2千人のポルトガ ポルトガル側は、 3月1 ル兵(プラスほぜ同数のアンゴラ兵)を配置していたが、当初は、ナパー ム弾を投下するだけで、 5月中旬に、本土から二大隊の増援が到着すると、 掃討作戦を開始し、 6月中旬には平定したと発表していた。. くルアンダの町の日々〉. 0月中旬のルアンダは、一見まったく平穏で、休日の 我々が到着した 1 ルアンダ湾は、ヨット、モーターボートでにぎわい、人々は海辺のカフェ テラスで、夕陽を眺めながら、車工ビを食べ、地ビールを飲んでいた。 休日に提携先からランド・ローパーを借り、一人で運転して景色が良い といわれるルアンダ北方の水道の水源地を見に行った時、道路脇の窪地に 網や木の枝をかぶせた戦車があるのを見、また、水源地の手前に検問所が あり、パスポートの提示を求められた時、ようやく独立武装闘争があった 気配を感じた。. . S . 2 5ドルか、 当時の日本は外貨不足で、業務用海外渡航者は、 1日 U 5ドルの二つのクラスに分けられ、 25ドルでは殆んど朝食付きのホ 又は 3 テル代に消えてしまうので、ルアンダの町に安い食べ物を探しに出掛ける と、生れて初めて東洋人を見たのであろう、十数名の子供達に取り固まれ、 一挙子・一投足を観察され、様々なコメントを彼等の間で交わしていた。 子供だけでなく、散歩をしている老婦人など、筆者の顔を見てギクリとし て立ち止まり、大げさに肩をすくめる身振りをされるので、困った。稀に、. i 円. Aせ. 臼 っ.
(10) 文学・芸術・文化 1 6巻 1・2合 併 号 2 0 0 5 . 2. ポルトガル領マカオに水兵として行ったことがあると話しかけて来た男性 もいたが、ルアンダの町には、合弁事業の相手先の商社に、ポルトガル人 と中国人の混血の魅力的な夫人が一人働いていただけで、インド系(ポ領 ゴア)も数家族しかいないとのことであった。 町を走っている車も、タクシ一、パス、. トラックは殆んどベンツ、自家. 用車は英国のランド・ローパ一、ブオルクスワーゲン、米フォード、シボ レ一等で、日本車で唯一見掛けたのはダットサン 1台だけで、所有者をつ かまえて尋ねてみると、南アフリカから個人的に持込んだもので、その車 のほかには日本車はないだろうとのことであった。 ある日、街を歩いていると、数十人のアフリカ人達が、珍しく口々に何 か叫びながら、街の中を走って行くのに出くわした。筆者も何事かと、小 走りについて行くと、突然二人の中年の男が、脇に来て、ニコニコしなが ら腕を組んで来て、警察の者ですが、パスポートを拝見したいと言い、通 りに面したレストランにつれ込まれた。二人共私服なので、あやしいと 思ったが、レストランの中には他の客も居り、ある Lリまダイアモンド国策 会社の密売取締り官かとも想像し、パスポートを見せると、アンゴラ滞在 の目的、宿泊先のホテル、滞在予定日数など尋ねられた。それが済んだの で、当方より、さっきアフリカ人の人達が大勢走って行ったが、何か事件 でもありましたかと尋ねると、『アフリカ人同志のケンカかなにかでしょ う』と答えたので、差し支りのない会話をして別れた。. くアンゴラ中部の港町ロビット、ベンゲラーアフリカ横断鉄道の起点〉 我々空路で、ルアンダ入りした先遣隊は、日本から、魚粉加工母船が到 着するまでの約一ヶ月間、総督府、港湾局、税関等への挨拶、提携先との 打合せ、魚粉加工母船にイワシを供給する現地の主な漁船主の基地を訪問 し、漁船、漁具を見てまわったり、毎朝早朝地元の魚市場に通い、冷凍し て日本に持ち帰れば利益を生みそうな魚種を調べていた。. -248-.
(11) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 1 9 6 1年アンゴラ) 有 水. アンゴラの沿岸漁業の入会権は、北部、中部、南部の三地区に分かれ、 それぞれの監督官庁(港湾局)が、ルアンダ、ベンゲラ、モサメデス(現 ナミべ)の各市に置かれていた。我々の魚粉加工母船は、北部の漁区(ル アンダ)の漁船からだけでは、原料のイワシの供給が不足する怖れがあっ たため、特例措置として、中部ベンゲラの漁船の一部が、ルアンダ漁区ま で移動して、原料供給に加わる許可を得ていたので、部長の一人のお伴を して筆者はべンゲラを事前に訪問することとなった. O. くべンゲラ〉 アンゴラの沿岸は、南極の近くから北上して来るブ。ランクトンを多く含 んだべンゲラ寒流に乗って、イワシの群が湧き、それを追って鮪なども集 まる南米ペルー沿岸に似た豊かな海域で、その中心がベンゲラ市である. O. ベンゲラは、ルアンダから南ヘ道路で、は 624km、通常は、毎日航空便があ るロビット空港を経由し、ロビットからは 30kmの地点、にある。 1 6 1 7年 、 ポルトガル人の拠点ができ、ルアンダに次いで古い町で、街路樹が繁茂す る町並み中に、 1 6 5 2年に建てられた青いタイル張りの古い教会が残って いるなど、落ち着いた町である. O. ベンゲラ市は、砂糖キビ、. トウモロコシ、. ブエイジョン豆等の畑が続く沿岸平野の中にあり、深く入り込んだ湾がな いので、大型船舶の錨泊地はなく、漁船のたまり場しかないので、港町の 雰囲気はない。しかし、アンゴラ内では、最も水産業の盛んな町で、年間. 3万 2千トンの魚粉、 3, 3 0 0トンの魚油、 1万 l千トンの塩干魚. (pず れ. も1 9 5 6 年の数字)等 11 を産出していたが、ベンゲラの輸出入産品は、すべ て30km離れたロビット港経由で行なわれていた。 1 9 6 0 年当時のベンゲラ の市街地人口は、アフリカ系住民を含め、 4万 2千といわれる. O. べンゲラで、イワシ捲網漁船を 6隻持つポルトガル人漁船主の家を訪れ た時のことである。昼食のもてなしを受け、誠弁の漁船主が、自分はポル トガル南部のアルガルヴェ地方(地中海の入口)出身で、 2 0 歳まで漁船. -249-.
(12) 文学・芸術・文化. 1 6 巻 1・2合 併 号. 2 0 0 5 .2. の乗組員をしていて無一文でアンゴラに移住し、今は 6隻の漁船主になっ たいきさつを語るのを傾聴していた。 それまでに訪れた他の漁船主の家では、おしゃべり好きの夫人が、日本 人を珍しがって出て来て、日本についての話がはずむのであるが、このお 宅は夫人が出て来ない。ついうっかり「奥様はお出掛けですか」と尋ねる と、『さっき皿を運んで来たのが家内です j と答える O その人は皮ふの色 が真黒な人であった。あわて冶「それでは一緒にお話しでも」というと、. r pや、日本人の人達が、皮ふの色の黒い人聞を、どう思うか判らなかっ たので、同席させませんでした Jとのことであった。漁船主の家には、漁 群探知機や漁船のウインチ、網などを売り込みに来るドイツ人や南アの人 達が訪れると言っていたので、前になにか不愉快なことがあったのかと暗. p気持ちになった。ポルトガル人は、人種偏見がないと言われるが、むし ろ皮ふの色の違う人と共存するのに慣れているというべきか、パスの中で も、アバルトヘイトの南アの社会と違って、アフリカ系の人の隣に、べっ たりくっついて座るし、貧乏なポルトガル人は、アフリカ系住民の貧民街 の中に住んでいた。 人種偏見は、多かれ少なかれ、どの民族にもあるのであろうし、偏見を 持ちながらも、共存する習慣を身につけることが重要なのであろう. O. くロビット>. 1 9 0 2年、アフリカ大陸横断鉄道(アンゴラ内ではべンゲラ鉄道)建設計 画が、英系資本により提出された時、ベンゲラには大型船舶向きの港がな かったので、そこから 30km北の天然の錨泊地ロビット湾に、港を建設し、 鉄道の終着駅とすることになった。当時ロピット湾には 7人のポルトガル 人しか住んでいなかったといわれる。 ロビットの町も、ルアンダと似て、大陸側から L字型の、長さ 3km、 巾 400~600m の砂州が張り出し、天然の防波堤となっている O 初めて、こ. -250-.
(13) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" (1961年アンゴラ) 有水. の砂川、│に行った時、ヤシの並木の頭越しに、突然大型船が現れ、座礁して こちら側に倒れて来るのではないかと錯覚した程、この砂州自体が埠頭化. (水深 1 0 . 5 m ) されている. O. この砂州の根元に、大陸横断鉄道の終着駅が. あり、砂州の中に市役所、郵便局、更に砂州の先端近くに HOTELTER-. MINUSという文字通り“終着駅ホテル"があって、そのフロントに、優 雅なハスキーボイスのフランス人のマダムが座っており、プランス映画の 昔は浮名を流したが、今は落ちぶれて、アフリカの港に流れついた主人公 というような雰囲気をかもし出していた。 大陸横断鉄道は、コンゴのカタンが州の銅鉱石、ザンビアの鉱石を、大 西洋側に運び出す計画で、建設が始まったが、ロビットから沿岸平野を抜 けてべンゲラヘ、べンゲラからは、内陸へ直角に曲ってべンゲラ. ウィラ. 高原に向って、ジクザグに登り、沿岸から 4 2.6kmのノーヴァ・リジュボア 市 ( 現 ヴ ァ ン ボ HUAMBO) で は 標 高 1 , 700mに 達 す る o 1 9 0 2年当時、. HUAMBO周辺で、パイルンドゥ族の大叛乱があったりして、アンゴラ国内 , 348km横断して国境まで達し、更にカタンガ鉄道やザンビアの鉄道に を1. 連結されたのは、 1929-31年であった. O. 1 2. この大陸横断鉄道が通っているアンゴラ中部高原こそ、後に、反政府派. UNITAの 根 拠 地 オ ビ ン ブ ン ド ゥ 族 の 地 で 、 ア ン ゴ ラ 内 戦 の 全 期 間 に わ たって、この鉄道の攻防・破壊が繰り返され、戦闘の重要な舞台となった 戸庁である. O. 1 9 6 0 年当時のロビット港は、荷扱い量、年間 1 3 6 万トンで、人口は白人 8, 000、混血 1 , 2 0 0、黒人4 3, 0 0 0ペ ル ア ン ダ の 町 の 4分の l位の規模で、 ルアンダのような歴史は感じられなかったが、近代的な町であった。市街 地は、埠頭のある砂川、化、その根元の部分だけで、湾を距てた大陸側は、 荒地のままであった。 ロビットにある提携先の支屈を訪れると、支庖長が、同支屈のアフリカ 人の運転手に、私をロビットの町見物につれて行けと命じた。運転手は、. 噌EA. ﹁ ﹁U. ワ 臼.
(14) 文学・芸術・文化. 1 6 巻 1・2合 併 号 2 0 0 5 . 2. 埠頭の根元のあまり大きくない市街地を、 5-6分往き来すると、何もい わず、埠頭の湾を距てた大陸側の海岸段丘の上へ、舗装のない道を通って 登り、車を停めた。 ロビット港の全体が見はらせる場所かと思い、車を降 りると、運転手は黙って 10m位下の帯状の段になっている所を指差した。. 0センチ位、土が盛り上ったマウンドが 6ヶ所程並んでおり、何か そこは 3 、 むつ と尋ねると『アフリカ人ナショナリストが、処刑された所だよ』 と つりと答えた。 ロビットでも、 1 , 5 0 0人程度の騒じよう事件があったという新聞記事は 読んでいたが、 まさか処刑されたとは、 と言葉を失い、今迄眼下に見えて いた美しい港の景色が、急、に色彩を失い、 カラーから白黒に反転したよう なショックを受けた。運転手は、更に『ルアンダでも公開処刑が行なわれ た』とつぶやいたので、先日あのルアンダで大勢のアフリカ人が何か叫び つつ走って行き、その後を追おうとした私を私服の警官と名乗った男達が 引きとめた時ではないかと疑ったが、確めるすべもなかった。. 4 . アンゴラにおける日本・ポルトガル合弁事業第 1号 ポルトガルのサラザール政権は、第二次世界大戦中、中立を保ち、連合 国、枢軸国双方の物資を輸送して海運国として成長する (豪華客船サンタ マリア号、その姉妹船、 リスボンの造船所等々)。一方、外国資本の支配. 9 5 0 年末まで、事実上門戸を閉ざしていた。サラザール を極度に警戒し、 1 ト/. (元コインブラ大学財政学教授)は、財政支出を切りつめるのみでなく、 モザンピックから、南アフリカの金鉱山に出稼ぎに行くアフリカ人労働者. 1 0 万人前後の賃銀を、一括して政府が金塊で受け取り、 モザンピック国内 の留守家族には、ポルトガル紙幣で支払うという方法で、金塊をため込み、. 1 9 7 3年まで日本より多い金準備高を誇り、 ポルトガルの通貨エスクードは、 スイスフランに次いで安定した通貨といわれた。従って開発のための資金 Fhd. 円 /UH. ワ 臼.
(15) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 1 9 6 1年アンゴラ) 有 水. 調達は、外資に門戸を聞きさえすれば、可能と思われた。 他方本国の経済発展多年度計画 (PLANODEFOMENTO) 実現の上で、. 9 5 8年頃 益々障害となってきた技術革新の立ち遅れを埋めるためにも、 1 から、外資導入を促進する政策に切り換える. O. また、植民地については、英領、仏領における独立運動、相次ぐ独立達 成と対照的に、ポルトガルは旧体制の植民地を保持していたため、国連加 盟を 1 9 5 5年迄何年も引き延ばされたこと等から、国際的な孤立感を深め ていた。そこで、植民地に外資を引き込み、先進国経済と運命共同体を築 こうとする政治的意図も伺えた。. 1 4. アンゴラに対する投資固としては、南ア、西独が先端を切り、多分次い で我々の日本企業が、合弁事業第一号に乗り出すことになった。 北洋水産(株)は、日・ソ漁業交渉の口火を切った大西廉作氏(若い頃 ノルウェーから、捕鯨の技術を日本に導入)が、オホーツク海のカニ加工 母船一船団分の漁業権を得たのをきっかけに、下関の以西底引漁船の台田 氏の会社と合併し、日本水産や日冷の社員の一部を引き抜いて設立した進 取の気性に豊んだ会社であった。 カニ缶詰から、更に北洋のスケソウダラ等を原料に魚粉・魚油に加工す る事業を追加、借入金で、魚粉加工母船を購入(タンカ一日進丸を改装) したが、カニのような単価の高い産品とは異なり、魚粉(主としてニワト リの餌)魚油では、漁期が一年のうち、. 4-5ヶ月に限定される北洋事業. の採算がとれなかった。そこで、北洋の漁期が終る秋以降、南半球にこの 魚 粉 加 工 母 船 (1万 1千トン)を回航し、現地の漁船から、イワシ等を買 い、加工する事業を計画していた。 他方、アンゴラのウニアオン社は、アンゴラで、英国ランドローパー車 の輸入総代理屈業を中心に、その他の輸出入、あるいは火薬製造を営み、 ルアンダ市の目抜き通りに、 4階建ての自社ビルを所有していた。その数 年前、ルアンダ近郊のカクアコに 6隻のイワシ捲網船と、桟橋、魚粉加工. ︼. F同U. qJ. 9 L.
(16) 文学・芸術・文化 1 6 巻 1・ 2合併号 2 0 0 5 . 2. 工場(操業停止)を持つ水産会社が破産しかかったのを買収したが、水産 業に不案内で、この部門での提携先を探していた。 筆者は、北洋水産に入社する前のことなので、経緯は承知していないが、 日本の総合商社(ロンドン支屈?)が、両者を結び付ける糸口をつくった と聞いている. O. アンゴラにおける日本・ポルトガル企業合弁事業第一号の概要は、筆者 の記憶によれば、次のとおりである。. (1)北洋水産は、漁粉加工母船を、 1 9 6 1年 1 1月から 3ヶ月程度、アン 0隻以上から、魚粉 ゴラ海域に派遣し、ウニアオン社が契約する現地漁船5 の原料となる主としてイワシ等を、処理能力一杯まで買い上げる. O. 漁船の. 船倉より、サクションポンプで、魚、を母船上に設けるタンクに吸上げ、そ の体積から重量を換算し、乗船している税関吏確認の時点で、各引渡し毎 に関係者が伝票にサインし輸出扱いとなる. O. (2)北洋水産は、ウニアオン社を受益者(信用状の宛先)として、外 貨建て信用状を開設し、月毎にまとめて決済し、他方ウニアオン社は、現 地漁船との契約に従い、現地通貨で現地漁船主に支払いを行なう. O. (3)前述のべンゲラ漁区に入会権を持っている漁船が、日本から派遣 された魚粉加工船に漁獲物を供給するためルアンダ漁区で操業できるよう、 ウニアオン社が特別の許可を手配する。. (4)日本より以西底引漁船(2隻で、ひとつのトロール網を引く)一 統を派遣し、領海を含めアンゴラ沿岸で、試験操業ができるようウニアオ ン社が、特別の許可を取る。試験操業の漁獲物は、北洋水産のものとする が、試験操業の結果は、網を入れた日時、地点、水温、網を引いた方向、 漁獲魚種・数量等のデーターを添え、ポルトガル当局宛、書面で報告する. O. なお、ポルトガル統計院によれば、 1 9 6 0 年のアンゴラ全土で、陸揚げさ れた主な漁獲物は、アジ 9 0, 3 7 5トン、イワシ 6 0, 6 9 2、CHARR037, 8 5 0、鯛 A 斗A ﹄d. 臼 つ.
(17) 地 域 紛 争 解 決 の ケ ー ス ・ ス タ デ イ “ そ の 2" ( 1 9 6 1年アンゴラ) 有 水. 類 4, 397等 年 間 合 計 約 25 万トンとなっていたが、この中に沿岸の魚粉製造 工場に直接陸揚げされたものも含まれていたか否かは不明であった。事前 の情報では、イワシの約半分は、アンゴラ沿岸十数ヶ所に散在する魚粉工 場に引き渡されるが、残りは塩干魚(日本のひらき状)にして、アフリカ 系住民の重要な蛋白源になるとのことであった。. 5 . 操業 廉進丸は、原料のイワシの処理、漁粉・漁油製造プラントを動かす作業 員 300名 余 、 船 を 動 か す 固 有 船 員 40名 位 、 北 洋 水 産 社 員 十 数 名 、 合 計 400 名弱を乗せ、予定どおりルアンダ港に到着した。なにしろ、アンゴラにお ける日本・ポルトガルの最初の合弁事業なので、総督を招待して、船上で レセプションが行なわれ、関係当局者(海軍の士官が主)、地元の名士、 地方紙、ラジオ局、本国の新聞の通信員等が押しかけ、地方紙の一面を飾 る報道振りであった。提携先のウニアオン社の数名の社員、港湾当局、海 軍の士官等は、英語が話せたが、その他の人はポルトガル語しか話せず、 曲りなりにもポルトガル語を話せるのは、日本人側では筆者一人だけだっ たので、目の廻るような忙しさであった。 翌日から、ルアンダ湾の入口の沖合いに廉進丸を錨泊させ、イワシを供 給する漁船を待った。 ところが、こちらが用意万端、待ち構えている鼻先を、現地の漁船が素 通りして行く. O. 昼過ぎまで、待っても一隻も寄らず、今回の操業の責任者の. 部長が顔を引きつらせて、英語の達者な課長をつれてモーター・ボートで 提携先に向った。結果、判明したことは、勿論北洋水産とウニアオン社の 間では、買魚契約が結ばれていたが、ウニアオン社と現地漁船主達の間で は、漁船主の要求する原料のイワシの価格を、ウニアオン社が受入れな かったため、買魚契約が未だ署名されてなかったのである. O. Fhd. ワ 山. pD.
(18) 文学・芸術・文化 1 6巻 1・2合併号 2 0 0 5 . 2. 漁船主達は、現地紙の報道で、日本から、はるばる 400名近くの人間を 乗せてやって来る我々の漁船加工母船は一日数百万円の経費がか冶るとい う記事を読んで、我々の足元を見、ねばればイワシの売却価格がつり上げ られるとふんだのであろう。 外見は、素朴そうなポルトガル人の網元達が、商売のこと〉なると、し たたかな掛け引きをするのを見て、 1498年ヴァスコ・ダ・ガマが初めて、 アフリカ東海岸のイスラム商業都市国家や、インドのマラパール海岸の首 長達との接触で、様々な掛け引きをした歴史的残像と、思わず重ね合せて 見てしまった(日本では、ガマが大砲を撃った話しか伝えられてないが. 結局ウニアオン社は、漁船主達の要求をほヌ受け入れ、何人かの船主と 契約を交わしたが、その問 3日間程、まったく無益に過してしまった(ウ ニアオン社所有の漁船は 3隻程来たが) 4日目だったと記憶するが、頼 0. みの綱のべンゲラから十数隻の若干大型 (80トン以上)の漁船が、ルアン ダ沖に到着すると、未だ渋っていた残りの漁船主達も、いっせいに供給を 始めることになる。 漁粉加工母船の前甲板に、網目の付いた計量タンク四つを設置し、左舷、 右舷二隻づっ、同時に四隻の漁船の船倉に海水を注入し、強力な吸引ポン プで、高さの差 7m位の母船の計量タンクまで吸上げる. O. こ冶で、まず漁. 獲物の計量のことで問題が起きた。ポンプでイワシを吸上げると、ポンプ の力が強過ぎたのか、イワシがち切れ、内臓や血が流れ出してしまうので、 体積が目減りしてしまう. O. このことに対し漁ろう長達は、口角泡をとばして喰ってか冶り、陸上の 魚粉工場に供給するのより、 2割方減ると延々と不満を述べる。この際彼 等は、両手を背中の方にまわして握り、ペンギンのような姿勢をとって、 胸をっき出し、ぶつかつて来る。暴力をふるった方が悪いと判断されるの で、暴力はふるってないというジェスチャーである。日本でも、昔漁師は. u. 同 F. n r u H. c o.
(19) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 1961年アンゴラ) 有 水. 秤のことで血の雨を降らすといわれたそうである. O. これらの不満に対して. は、海の上ではポルトガル語しか通じないので、廉進丸に乗船しているウ ニアオン社代表のリマ氏と、筆者の二人で対応し、すっかり声が枯れてし まった。 漁船主の中には、体重が重くて、ナワ梯子を 6-7m登って母船の上ま で来れない人もいるので、その場合筆者が伝票を口でくわえてナワ梯子を 降りてサインをもらいに行かねばならない。 1万トン以上の母船と 60-. 8 0トンの漁船では、波のうねりによる上下動が違うので、頃合いを測っ て、イワシの血でヌルヌルした漁船の舷側に乗り移らなければならない。 しかもイワシの血で集まった 2m以上の鮫が、漁船のまわりを回遊してい るのである. O. 大多数の漁ろう長達は、甲板上での計量が済むと、ゃれ魚網の補修のた めのナイロン糸だの、こわれた漁群探知機(殆んど西独製でメインテナン ス部品なし)を修理してくれだの、要求を出し、更に勝手に廉進丸の各船 室をのぞきまわり、現地の物産(ひょうの毛皮、インコ等、たまにはダイ アモンド)と日本の産品(カメラ、 8ミリ、日本人形、グラビア雑誌等) の交換が始まる。なかには、関西の業界が発行したカタログを子にして、 日本製品を探しまわる者もいる. O. これが何週間も続くので、筆者がキレて. 「ポルトガル人は、世界ーの強欲、物質主義者Jと面と向って言っても、 『だからポルトガル人は、世界を発見したのだ Jとうそぶく。. 0-70隻の漁船が入れ代り、立ち代り、やって来るので、筆者 毎日、 6 などは、夜 1 2時頃ベッドに入れたかと思うと、午前 2時には、最初の漁 船の汽笛で起こされる。睡眠時間は、 2-3時間の日が多く、. トイレに腰. 掛けるとそのま=眠ってしまって、船中の拡声機の呼び出しで目がさめる 日曜日だけは、漁船が来ないので、ほっとしていると、総督府、港湾局、 提携先のお得意様、新聞・ラジオ局の方々が、家族をつれて、リクリエー ションを兼ねて、モーターボートで、日本から来た魚粉加工船を見学にお. O. 門. Fhu. i. ワ ム ︼.
(20) 文学・芸術・文化 1 6 巻 1・ 2合 併 号 2 0 0 5 . 2. 越しになる. O. これだけ多くの人々が、コミュニケーションを必要としてい. るのだから、ポルトガル語を話すのが筆者一人というのは、そもそも物理 的に無理である。オホーツク海で、稀に訪れるロシアの官憲ヘ対応するの とは違うのである。. くアフリカ人達> 各漁船には、大体ポルトガル人が 3-4人(船長兼漁携長、機関士兼ラ 名が乗込んでいた。ア ジオ通信、甲板作業の監督)と、アフリカ人20-30 フリカ人の中には、機関士の代りをしたり、率先して漁携長の片腕風の仕 事をする者が、各船に. 1-2名はいたが、他の人達は、並んで網をたぐり. 寄せる時など、よくもこれ程力を抜いて働いている格好ができるものだと 思う程、無気力に見えた。 ポルトガル人の乗組員の中に、小さいピストルを腰のホールダーに差し ている者を 2-3人見掛けたので、何のためかと尋ねると、鮫を撃つため と答えていた。 最初は、ボロをまとったアフリカの人達が皆似ていて、見分けがつかな かったが、 1ヶ月位経って、不漁が続き、少し時間に余裕ができると、皮 ふの色があまり黒くなくて、背丈も中位以下、日本のダッコちゃん人形の ような可愛らしい顔の人達のグループに気がついた。提携先の人に尋ねる と、オビンヴンドゥ族だと教えられたのが記憶に残っている. O. くアフリカ人の試験雇用〉 廉進丸の魚、粉・魚油プラントを動かしていろ作業員の人達は、例年北洋 で働いている人達ばかりではなく、過半数は東北地方からの出稼ぎの人達 であった。廉進丸のアンゴラでの 2ヶ月半位の操業に対し、日本からの往 復の航海に 50-60日もか沿っているので、現地のアフリカ人を作業員とし て、試験雇用して見ることになった。 にd. ワ 白. 。 。.
(21) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 1 9 6 1年アンゴラ) 有 水. 当時、アンゴラの経済発展もあって、一般に労働力が不足していた上、 国連の場では、ポルトガル領植民地で、法律上撤廃された筈の強制労働が、 事実上残っていると批判されていた最中だったので、提携先は、アフリカ 人労働者を集めるのを、相当いやがった。 強制労働の仕組みは、通常納税の義務は、所得が一定以上にある場合に 課せられるが、自給自足農業をやっている多くのアフリカ人はそれだけの 所得がない。他方、地方政府は、道路の整備、水道・保健衛生等を行う財 源が不足している. O. そこで所得の有無にか. h. わらず、成人男性に 1人当り. 0 一定の人頭税を課し、これが支払えない場合は、通常一年間のうち、 3 ~40 日間、公共工事で働くか、プランテーション、あるいは工場、漁船. 等で働いて、雇用主に人頭税を肩代りしてもらう制度であるが、これが 応々にして、プランテーション等の労働力調達の道具として利用されてい たものである。 提携先は、本人の日本の魚粉加工船で働いても良いという意志を確認し、. 0人程派遣して来た。廉進丸の甲 水準以上の賃銀も約束したと言って、 3 板上の風通しの良い所に、木材で小屋を建て、そこに毛布を敷いて寝泊り し、少しづ. h. 日本人作業員を真似て、イワシの運搬、処理などを始めた。. ところが、一週間位経った時、本社から電報が入り、即時アフリカ人達 を、ウニアオン社に帰せ、と指令してきた。本社からの電報によると、廉 進丸の固有船員(船を動かす人)から、全日本海員組合に連絡があり、ア ンゴラで、廉進丸が強制労働の試験雇用を始めたとのことなので、全日本 海員組合として、弾固これに抗議する旨申し越した由。固有船員の人達は、 北洋水産の労働組合には所属せず、日本でも最も古い部類に属する職能別 組合全日本海員組合に所属しているので、自由な行動ができるのである。 北洋水産としては、全日本海員組合に盾つくと、船員の雇用が難しくなる ので、穏便にすましたいとの趣旨であろう. O. 廉進丸のように、一定の場所に 1ヶ月以上も錨泊して動かない場合、国. U. にd 可 ハ ワ 山.
(22) 文学・芸術・文化. 1 6 巻 1・2合併号. 2 0 0 5 . 2. 有船員の人は殆んど何もすることがない。一部の人は、船室の外側の錆落 しゃ、ペンキ塗りをしていたが、他の人は釣をしていた。それでも固有船 員は乗船手当がつく由で、睡眠時間 2~3 時間の水産会社の平社員より、. 船のボーイ(給仕)の方が月給が良いとのことであった。強制労働に従事 させられているのは筆者達ではないかと思ってしまった. O. 筆者は、船上で、アフリカ人達から、色々尋ねたり、調べたいことが山 程あり、. 2~3 人と既に話しを交していたので、これが中断してしまった. のは残念なことであった。. く操業結果〉 操業開始後は、約 1ヶ月位たった時と思うが、急、に赤潮(プランクトン の死骸)が発生し、イワシが殆んど獲れなくなった。そこでルアンダから 約 300km南の、輸出額ではアンゴラ第 3位のボルトアンボイン沖合いに、 廉進丸を移動させ、漁場をかえることになった。ボルトアンボインは、ル アンダとベンゲラのほポ中間地点、にあり、小さな岬の内側に、最大 2~. 3 0 0 0トンの船一隻が接舷できる桟橋がひとつあるだけで、港という感じは しない 内陸部ヘ、 トロッコ列車の知き錆びたレールが残っていたが、その沿線 には牛の牧場や、幾つかのコーヒー園、ココナッツ園があるとのことで あった。たぜこ、には、 3隻の船で、最も熱心に原料を供給してくれてい た漁船主の魚粉製造工場があった。こ. h. では、赤潮は見られなかったが、. イワシはあまりおらず、漁粉にするには歩留りの悪 L刈、さい魚ばかり網に 入るようであった。ルアンダ船籍の小型漁船は、ルアンダから遠く離れす ぎたと言って、参加しなくなった船も多かった。. , 5 0 0トン、魚、油 操業結果は、予定していた魚粉製造量の約 60%=魚粉 5 , 0 0 0トンで、試験操業をした以西底引網(トロール)漁船一組がとっ 約1. -260ー.
(23) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 1 9 6 1年アンゴラ) 有水. た1 , 5 0 0ト ン の 冷 凍 魚 を 、 日 本 に 持 ち 帰 れ た こ と が 、 収 穫 で 、 最 終 的 に は 相当の赤字が出たと思う. O. 以上、アンゴラにおける日本・ポルトガル合弁事業第 l号 は 、 あ ま り 芳 しくな p 結果に終った。. 1 5. な お 、 我 々 は こ れ を 挽 回 し よ う と し て 、 翌1 9 6 2 年、アンゴラ南端のボ. , 200トンの冷凍船を ルト・アレシャンドル湾に、焼津からチャーターした 1 派遣し(筆者も乗船)、現地の漁船から、鯛を買い、冷凍して日本に持ち 帰る事業を試みたが、真鯛はほんの一部で、赤っぽいえびす鯛(ポルトガ ル 語 で は 、 い づ れ も CACHUCHO) が 多 か っ た た め 、 日 本 市 場 で の 低 価 格が予想され(他の大手水産会社が同種の鯛を、大西洋から多量に持ち込 んだことも重なり)、買魚契約の期間終了前に、港湾当局の力を借りて、 強引にキャンセルしたあと昧の悪い結果に終った(港湾局は入出港管理の ほか、船舶検査、漁業権の認可まで行っていた)。. 9 6 2年 夏 、 大 西 社 長 が 現 場 を 訪 れ た ほ か 、 モ サ メ デ この事業開始前の 1 ス(現ナミべ)、パイーア・ブアル夕、更には内陸の高原都市サ・ダ・パン ディラ(現ルパンゴ)、ノーヴァ・リジュボア(現ウァンボ)等を視察し、 , 300-1, 700m近く 筆者もお伴をしたが、アンゴラ中部の高原は、標高が1 , 000-1, 3 0 0ミリで、ポルトガル本国 の涼い気候の所が多く、雨量も年間1 からの入植者達が多く、その生活は極めて平穏そうに見えた。. く1 961年から 1973年迄(アンゴラ独立前)の経済発展〉. 9 5 0 年代のコーヒーの国際価格の高値に刺激されて、 アンゴラ経済は、 1 コーヒ一生産が急増し、地元の購買力も増大した。他方ポルトガル本国か. 9 7 0 年代に入ると原油生産の急 らの移民急増、外資への門戸開放、更に 1 増も加わって、国内消費向けの消費財・軽工業が、アンゴラ内で発展する ポルトガル政府は、独立武装闘争のぼっ発を契機として、アンゴラのイ. O. 円 り h. “ つ.
(24) 文学・芸術・文化 1 6巻 1・2合併号 2 0 0 5 . 2. ンブラ部門に対する財政投資・歳出を 3倍に増やした。例えば、道路総延 長3 5, 000kmのうち、 1 9 6 0 年には舗装道路は 8 90kmしかなかったものを、. 1 9 6 8 年には 1 9, 000kmと2 0 倍に増やし、各所に橋を架ける一方、遅々とし て進まなかったクアンザ河のカンパンベ水力発電所を完成させ、ルアンダ に余剰な程の電力を供給するようになる. O. このアンゴラ経済の奇蹟的成長を、統計数字が、ごまかせない輸出・入 統計で、示せば、 <年>. <輸出>. く輸入>. 1 9 6 4. 5 , 8 6 7, 5 7 1. 4 , 7 1 4, 2 9 4. 1 9 6 7. 6 , 8 3 7, 8 0 0. , 9 0 8, 6 8 6 7. 1 9 7 0. 1 2, 17 2, 18 7. 1 0, 5 9 4, 6 6 5. 1 9 7 3. 1 9, 15 8, 2 9 1. 2 6 8, 8 7 3 1 3,. (出所. アンゴラ銀行. 単位. , 0 0 0エスクード 1. 年次報告 1 9 7 3年). (1エスクードを 1 2円で計算すれば、例えば、 1 9 7 3年の輸出総額は、約 2 , 3 0 0 億円 =20 億ドル) 9 7 3年の輸出総額の急増は、 1 9 7 1年から 1 9 7 2年にかけて、原油の 但し、 1 生産が 60%近く増えて、輸出総額のうち 30% ( 5, 7 5 5, 5 8 8 千エスクード) 近くを占めたことも大きく寄与している。アンゴラは、アフリカ諸国中、 ナイジエリア、リビアに次ぐ、三番目の産油国となった。. 9 6 0 年の 6 6 万2 2 1 1トンから、 1 9 7 3年にはその約 1 0 倍 鉄鉱石の輸出も、 1 3 3 万トンに伸び、その輸出先としては、日本が第一位 ( 2 1 7 万トン)で、 の6 全体の約 4割を占めた。 これらの数字からも明らかなように、アンゴラは、アフリカ諸国の中で、 南アを除けば、最も豊かな国となるべく急成長中であった。国連の統計で も、世界の国々の中で中所得国としてランク付けられていた。 そこから独立のための武装闘争が、かえってアンゴラの奇蹟的経済成長 を生んだと主張し、冗談半分に、その功労者として山刀を持ったゲリラの nhv. “ ヮ. “ っ.
(25) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" (1961年アンゴラ) 有水. 銅像をルアンダに建てようと言う者まで現れた。筆者はアンゴラの経済成 長には、種々な要因があり、その芽は、武装闘争開始前の 1 9 5 0 年代にあ ると考えている。 なお、ポルトガルは、国家予算の 50%近くを軍事費に使っていたとす る俗説があるが、これは、ポルトガルの国家予算のシステムを理解してい ない説で、実際は 25%程度であった。というのはポルトガルの予算シス テムは、本国とアンゴラ、モザンピック等海外県の歳入・歳出を分けて計 上するが(通貨もアンゴラ・エスクード等アンゴラで印刷)、本国から派遣 される兵士・武器・弾薬等の歳出は一括して本国の歳出に計上されるのに 対し、本国の歳入には、アンゴラモザンピック等の歳入は算入されていな いので、本国の予算だけで、軍事費の割合を算出するのは、間違っている ちなみに、アンゴラ自治政府の 1964~1973年間の財政累積黒字は、. 9 , 8 9 7, 1 6 7 千エスクード(約 1 3 0 0 億円)であった。 く1 9 6 1 " " 1 9 7 3年間の武装闘争〉. 独立のための武装闘争は、新聞報道によれば、 1 9 6 1~1967年間は、ア ンゴラ北部の二つの地方区に限定され、先に述べた DEMBOSの森が、そ の中心地であった。 1 9 6 1年 3月1 5日の北部の蜂起後、ポルトガル軍の反 撃が始まると、約 8万人のコンゴ族が国境を越えてザイールに逃れたが、 その一部は、頻繁にアンゴラ北部との聞を往き来し、散発的にゲリラ活動 を行っていた。このザイールに逃れた主としてコーヒー園の労働者だった コンゴ族の代りに、アンゴラ中部高原から、約 6万人のおとなしいと言わ れていたオビンブンドウ族が、労働者として、かり出されたといわれる. O. 1 9 6 4年 、 FNLA( GRAE アンゴラ亡命革命政府、在ザイール)の外相 役をつとめていたサヴィンビが、 FNLAの指導者ホールデン・ロベルトを 無能呼ばわりして、たもとを分ち第三の独立闘争運動 UNITAを形成した といわれる. O. サヴィンビは、オヴィンブンドゥ族出身で、プロテスタント. -263-. O.
(26) 1 6 巻 1・2合併号. 文学・芸術・文化. 2 0 0 5 .2. 宣教師団の教育を受け、スイスのローザンヌ大学に留学した男で、アンゴ ラ亡命革命政府外相の肩書きで、 1 9 6 4 年には北京を訪問、毛沢東と会談し て、国際的に名が知られるようになった。当初サヴィンビは、 MPLAに接 近したが、 MPLAはザイールから追出されていたこともあり、故郷の中部. 966 年約 800 名のオヴイングンドゥ族の若者を集め、アンゴ 高原に潜入、 1 ラ東部(内陸部)の人口稀薄な草原でゲリラ活動を開始した。 これに刺激されたか、 MPLAも、東の隣国ザンビアを基地としてゲリラ 活動を始め、 FNLAもこれに続く. O. 1 9 6 7年 、 UNITAは、1.400kmに及ぶ大陸横断鉄道(べンゲラ鉄道)を ポルトガル軍が防衛するのは難しいと判断したのか、これを爆発する行動 に出たが (FNLAがやったという説もある)、この鉄道は、内陸国ザンビ アの銅鉱石の約半分を大西洋岸に運ぶザンビアにとっても重要な輸出経路 なので、 UNITAに対し、ザンビアを基地補給路として使わせない等の圧 力をかけたと報じられた。 ポルトガル軍 ( 6 6 . 0 0 0人、うちアフリカ兵2 8 . 0 0 0 )は 、 1 9 7 0 年には、今 迄で最大規模のゲリラ側押収武器を、マスメディアに公開し、西側では、. 9 7 2年に終ったと考える者が多かった。 アンゴラのゲリラ活動は、 1 MPLAは 、 1 9 6 8年 3月、アンゴラ国内で第 1回総会を開いたとか、いわ ゆる「解放区」を創ったと宣伝したが、社会主義諸国以外は、これを大き く取り上げる報道記事等は、見掛けなかった。. 974 年 4月2 5日のリスボンでの若手将校による、植民地解放要 そこで、 1 求クーデターは、西側では、予想外のこと冶して受けとめられた。この. 00名の昇進問題への不満から、 クーデターは、士官学校出身の大尉達約 2 9 7 3年 8月に計画され始めるが、士官の中に約30名のポ共産党 その前年の 1 シンパが含まれていたのと、スピノラ将軍の野心が結びつき、実現したも. 9 6 0 年代末に のである。しかし、このクーデターが大きく展開したのは、 1 始まったポルトガル本国から EC諸国への出稼ぎの急増(労働力の 4分の. -264-.
(27) 地域紛争解決のケース・スタデイ“その 2" ( 1 9 6 1年アンゴラ) 有水. 1近く)、外資の流入により、植民地を切り離して ECに加盟したいとい う一般大衆の欲求が、支えとなっている(委細については、拙論[ポルト ガル革命とアフリカ領植民地の独立 Jその l、その 2、その 3、大阪外国 語大学論集 v o . 15 5 70-3を参照願いた p). 0. 言 主. 1.ANTONiTOD i c i o n a r i oc o r o g r a f i c o c o m e r c i a ldeAng o l a .Luanda1 9 5 9 .p. 42 9 .4 4 5 . 2 .i d e m .p. 421 . 3 .i d e m .p. 441 .4 5 3 . 4 .i d e m .p. 43 3 .4 3 7 . 5 .i d e m .p . 6 4 6 ι 4 8 . 6 . HenriqueG a l v a o “oA s s a l t odoS a n t a m a r i a . "E d . D e l f o sL i s b o a . o l a n oc e n t r odof u r a c a o ' ¥ 1 9 7 4 .L i s b o a .p . 2 4 4 . 7 .B a s i lD a v i d s o n,“Ang 8 .O l i v e i r aMarques " H i s t o r i adeP o r t u g a l " .v o l皿 p . 5 4 か5 41 .1 9 81 .L i s b o a . 9 . ANTONITOo p . c it .p . 1 2 8 .1 3 7 .1 3 9 . 1 0 .B a s i lD a v i d s o no p . c i tp . 2 4 4 2 4 5 . 11 . ANTONITOo p . c it .p . 3 9 . 1 2 .i d e m .p . 3 0 9 .3 2 9 . 1 3 .i d e m .p . 3 1 9 . 1 4 .O l i v e i r aMarqueso p . c i. tp . 3 1 9 .F r a n c oN o g u e i r a,"TheU n i t e dN a t i o nandP o r t u ga I "TandemS p e c i a lLondon1 9 6 4 . 1 5 . NOTICIAS. ( S e m a n a r i oI lu s t r a d o )Ano皿 幽N O . 1 1 6 .Luanda1 9 6 2“Maisr i q u e z ap a r a An g o l a .. Fhd. c o. “ ヮ.
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