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秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列

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(1)

二二

はじめに

  ﹃唐律疏議﹄のごとき纏まった法律典が現存しないために、 ﹃史記﹄ ﹃漢 書﹄等の伝世文献に断片的に残された律令本文や関連記事を材料にせざ るを得なかった秦漢刑罰制度の研究を大きく変えたのは 、周知の通り 、 一九七五年に発見された睡虎地秦簡であった。その分析から秦漢時代の 刑罰制度は概ね次のように理解されている 。秦代の刑罰は大きく死刑 、 肉刑、労役刑、財産刑に分けられ、それらが労役刑を基礎としながら横 に並ぶ体系を持っていた 。 四種類の労役刑 、即ち 、城旦舂 ・鬼薪白粲 ・ 隸臣妾・司寇のうち隸臣妾は身分の貶降を第一の目的とする点、他の労 役刑とは少し異なる位置にあり、また、城旦舂以下の労役刑には前もっ て定められた刑期というものは存在せず、不定期に出される赦令によっ て免除される不定期刑というべきものであった。前漢文帝十三年の刑制 改革は、このように横並びで存在した秦代の各種各様の刑罰を労役刑を 中心にタテ系列に一本化するもので、刑期を導入することによって労役 刑が段階づけられた、と ① 。その後、張家山漢簡が発見・公表されるに及 んで、城旦舂以下の労役刑とは系統を異にする有期の労役刑・期限付き の罰労働が存在することも明らかにされた ② 。   このように睡虎地秦簡・張家山漢簡の発見によって秦漢刑罰制度の研 究は飛躍的に進展したのであるが、依然として解決されないままの問題 や疑問も存在する。その幾つかを以下に挙げておこう。   一、秦漢律に見える量刑の表現﹁ ︵肉刑︶ 爲 A ﹂の A には、城旦舂 ・ 鬼 薪白粲 ・隸臣妾 ・司寇などの労役刑が入るが 、そのうち隸臣妾だけは 、 爵の返上によって免ぜられることから、身分の貶降を直接の制裁とする 刑罰で、強制労働への従事を第一義的制裁とする他の労役刑とは少し異 なる位置にあるとされる ③ 。しかし、労役刑である城旦舂・鬼薪白粲・司 寇と身分刑である隸臣妾が同列に並ぶのはいささか奇妙ではないだろう か ④ 。また、二年律令には隸臣妾以外の労役刑も爵によって免ぜられる規 定が存在している ⑤ 。隸臣妾が爵によって免除されるから身分刑であると いうのであれば、同じく爵によって免除される隸臣妾以外の労役刑も身 分刑となるのではないか。   二、文帝刑制改革で定められた刑徒の解放規定 ⑥ が、なぜ城旦舂↓鬼薪 白粲↓隸臣妾↓庶人のように解放までの途中に過渡刑を設定する形態を 取るのか。また、文帝刑制改革がこのように過渡刑を設定するにも拘わ らず 、なぜ ﹃漢舊儀﹄では過渡刑は存在せず 、﹁作某歳﹂という直接的 な刑期の規定 ⑦ になっているのか。この点について、冨谷至はこの過渡刑 の存在を文帝改制以前に処断された既決囚を解放するための経過規定と して考える ⑧ のであるが、なぜ既決囚を解放するために過渡刑を経る必要 があったのかという点については説明が無い。   三 、睡虎地秦簡や張家山漢簡の分析から 、各労役刑が労役内容や刑具 98

秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列

鷹 

取 

祐 

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二三 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 99 によって差異がつけられていたとは言い難く 、各労役刑を等級づけてい るのは 、 家族が ﹁収﹂の対象となるか否か 、子が刑徒の地位を継承する か否かといった各労役刑徒への処遇の違いであることが明らかにされた ⑨ 。 労役刑が強制労働に従事させることを第一義的な制裁とするものである ならば、各労役刑の差異は何より刑徒自身が従事する労役内容の差とし て設定されるべきであろう。それにも拘わらず、実際には刑徒自身の従 事する労役内容によって労役刑が等級づけられているわけでないという ことは、城旦舂以下の労役刑の第一義的制裁が労役への強制従事とは別 の所にあることを示しているのではないだろうか。隸臣妾の場合は、制 裁は身分の貶降であり、貶められた身分に労役が属性として備わってい るとされる ⑩ が、同様のことが隸臣妾以外についても当てはまるのではな いだろうか。宮宅潔は、労役刑徒とされるのは身分の転落を意味したと いう見方を示している ⑪ が、それは刑罰そのものが身分刑であることの表 れなのではないか。   四、奴婢以外が罪を犯した場合は肉刑に処した上で労役刑に当ててい るにも拘わらず、奴婢は労役刑に当てることなく、肉刑に処した後に主 人に引き渡されている ⑫ のはなぜなのか。李均明は、奴隷の場合は付加刑 である肉刑のみ執行されるという ⑬ が、奴隷の場合になぜそのような措置 が執られるのかについては説明されていない。   如上の疑問に加えて、先頃の瀬川敬也の指摘も看過し得ない重要な問 題を含んでいる。瀬川の指摘のうちここでは三点を取り上げたい ⑭ 。   一、黥城旦などの刑罰を定義する場合に往々にして労役刑という名称 が用いられていることに対して、黥城旦は黥と城旦の二つの要素に分解 でき、後者の城旦もまた労役刑と称されるが、城旦には居貲贖債繋城旦 舂者のような刑徒とは異なると思われる債務拘禁者なども含まれること から、これを独立した一つの刑罰と見なすことは問題である。   二、労役刑が本来、従事すべき中心的な職役が定まっているべきでそ こに刑としての意味もあるものだとするならば、刑徒の労働内容が常に 固定されていたという確証のない秦漢時代の黥城旦等はもはや労役刑と いう名称を用いること自体不適当といわざるを得ない。   三、服役囚については労役名のみを称し肉刑を称さないことから、公 権は元々身体刑執行後の服役囚を労役名のみを通じて記録し、管理・掌 握していた。 これらの指摘のうち、第一点と第二点は、直接的には、秦漢時代の刑罰 の刑期を巡る議論が、肉刑と労役という二つの構成要素のうちの労役の みに焦点を当てていることに対して向けられた批判ではあるが、城旦舂 以下の刑罰を労役刑と見なすのであれば、この指摘に対し正面から答え る必要があるだろう。また、第三点については、張家山漢簡・二年律令 には、死罪︱黥城旦舂︱完城旦舂⋮⋮鬼薪白粲・腐︱耐隷臣妾︱耐司寇 という刑罰の序列が明確に規定されていて ⑮ 、刑罰自体については肉刑も 含む形で序列がつけられている。それにも拘わらず、服役囚はなぜ城旦 舂などの労役名のみで示されるのであろうか。この点もまた秦漢刑罰制 度を考える上で解明しなければならない点であろう ⑯ 。   如上の問題意識の下、本稿は、文帝刑制改革以前の時期について、従 来労役刑とされる城旦舂・鬼薪白粲・隸臣妾・司寇がどのような性格の 刑罰であったのかを考察するものである ⑰ 。具体的な作業としては、まず 第一章において瀬川の指摘の第一点についてその当否を検証する。その 検証の過程で、従来の刑罰制度研究が看過してきた極めて重要な問題点 があぶり出されることになろう。第二章以下でその問題点の解明を試み るが、その問題点が解明されることによって如上の疑問点も自ずと氷解 するであろう。   なお、本稿では、刑罰制度において睡虎地秦簡と張家山漢簡との間に

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二四 100 本質的な違いはなかったという前提の下に考察を進める。秦律と漢律の 規定に相違のあったことは既に指摘されている ⑱ が、現在の史料状況では 秦代と文帝改制以前の漢代とを区別して論ずるだけの材料がない。その ため、とりあえず文帝改制までは本質的な変更はなされていないという 前提で議論を進めることにしたい。

一 

居貲贖債繋城旦舂者の検討

  瀬川の挙げた居貲贖債繋城旦舂者は後掲睡虎地秦簡 ・秦律十八種 一四一∼一四二簡︵史料 ︶に見えるものである。以下、居貲贖債と繋 城旦舂に分けて考察しよう。 ︵一︶居貲贖債   居貲贖債は居貲 ・居贖 ・居債を一括して称したもので 、順に 、貲刑 ・ 贖刑・公への債務を金銭で返済できないために労役従事を以て支払う者 をそれぞれ指す ⑲ 。では、この居貲・居贖・居債はどの様な立場の者なの であろうか。   居貲については孫英民に考察がある ⑳ 。孫英民はまず、城旦司寇が不足 する場合、隸臣妾に代行させることはできるが、居貲贖債が城旦を引率 することは許されていない ことから、居貲は犯罪者と同じ身分ではない とする。次に、年齢が相近い人に代理させることが可能である こと、さ らに、農業生産を保証する規定がある ことから、居貲は自由人の身分で あったとする。加えて、始皇帝陵西側趙背戸村秦刑徒墓出土の瓦文墓誌 では ﹁東武居貲上造慶忌﹂ ﹁東武東間居貲不更 瞗 ﹂などのように居貲が 爵位と併称されていることから、居貲は刑名ではないとする。   孫英民の指摘する第一点については、城旦舂の引率をさせるか否かか ら居貲が犯罪者身分か否かを判断することはできないと考えるが、その 他の指摘については首肯できる。孫英民の考察は居貲のみを対象とする ものであるが、指摘の第二点と第三点については居貲贖債に対する規定 であるから、居貲だけでなく居贖・居債にも該当する。刑徒を、犯罪に 対して当てられる刑罰として、或いは、隸臣妾のように当てられる刑罰 の属性として強制的に労役に従事させられる者とするならば、一定期間 帰宅して農作業に従事することが認められ、且つ、別人による代理就役 が認められるこれら三者は、いずれも刑徒には当たらないだろう。確か に、居貲と居贖は刑罰として貲刑・贖刑に当てられた者ではあるが、貲 刑・贖刑そのものは金銭の支払いが科せられる罰金刑であって、それを 金銭で支払うことができれば居貲・居贖として労役に従事する必要はな い。居貲・居贖の労役従事はあくまで金銭支払いの代替であって、労役 従事が刑罰として科せられたわけではない。この点、公に対する債務を 金銭で支払うことができなかったために労役で代替する居債と本質的に 同じであり、秦律で居貲・居贖と居債が居貲贖債として一括で扱われて いるのもこのために他ならない。それ故、居貲・居贖は居債と共に刑徒 には当たらないと考えるべきである。   以上の検討から、瀬川の指摘の中で﹁刑徒とは異なると思われる債務 拘禁者など﹂とされている居貲贖債が瀬川の言うように刑徒ではないこ とが確認された。 ︵二︶繋城旦舂   繋城旦舂は 、初め睡虎地秦簡に ﹁有 ︵又︶ ︵繋︶ 城旦六歳﹂という 形で見えた 。これを根拠に、城旦舂刑の刑期が六年であるという説が提 唱された が 、 籾山明は 、この ﹁ ︵繋︶ 城旦六歳﹂は附加刑であって 、

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二五 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 101 それ故、これをもって城旦舂刑の刑期を六年と見なすことはできないと し、また、二年律令一六五簡 を挙げて、繋城旦舂に当てられた 者が逃亡 を重ねた場合、完城旦舂に刑を加重されることから、繋城旦舂が城旦舂 刑とは異なることを指摘した 。籾山は、さらに、この二年律令一六五簡 の ﹁繋城旦舂六歳﹂は単独の本刑であるという邢義田の指摘 を受けて 、 繋城旦舂を城旦舂から司寇に至る労役刑とは別個に存在した所の単独の 期限付き罰労働と理解した 。籾山とは別に宮宅潔も、 二年律令では、 誤っ て不当に城旦に当てた場合に、誤審を犯した者に科せられる刑罰が贖城 旦 ︵金一斤八両︶ であるのに対して 、誤って不当に繋城旦舂に当てた場 合は罰金四∼一両であることから、繋城旦舂と城旦舂とが全く別物であ ることを指摘した 。   先述した所の ﹁有 ︵又︶ ︵繋︶ 城旦六歳﹂を根拠に城旦舂刑の刑期 を六年とする論者は、 城旦舂と繋城旦舂とを同一の刑罰と見なしている。 二年律令公表後も、例えば、韓樹峰は労役刑の一覧表の中で繋城旦舂を 黥城旦舂や完城旦舂と並べている し、李均明は、二年律令に見える﹁繋 城旦舂六歳﹂ ﹁繋三歳﹂という記載から 、二年律令は城旦舂刑の刑期が 不定期から有期へと遷っていく過渡期であったと述べており 、城旦舂と 繋城旦舂とは同一の刑罰であるという前提の下に刑期の問題が考察され ている。しかしながら、籾山と宮宅が指摘する通り、城旦舂と繋城旦舂 とは全く別個のものである。   瀬川の指摘に戻ると、居貲贖債が刑徒ではないこと、瀬川の指摘する とおりである。ただし、瀬川は繋城旦舂と城旦舂とを同一の刑罰と見な しているようであるが 、先述のようにこれらは別個のものであるので 、 刑徒ではない居貲贖債が繋城旦舂に当てられるからといって城旦舂が労 役刑でないと言うことはできないだろう。ただし、繋城旦舂自体につい て言うならば、瀬川の指摘は妥当する。刑徒ではない居貲贖債が繋城旦 舂に当てられている以上、繋城旦舂に当てられることそれ自体を刑罰と 言うことはできないだろう。   そこで、どのような場合に繋城旦舂に当てられているのか、今一度確 認しておこう。 徐世虹は繋城旦舂に当てられる場合として、 ①労役によっ て貲刑・贖刑および債務の支払に代える場合、②逃亡した日数を労役に つくことで償う場合、③刑罰、の三つがあったと言う 。②と③を分けて いることから、徐世虹は②を刑罰とは考えていないようであるが、②の 根拠として挙げられた規定には、 1  吏民亡 、盈卒歳 、耐 、不盈卒歳 、 ︵繋︶ 城旦舂 、公士 ・公士妻以 上作官府 、皆償亡日 。其自出 啋 ︵也︶ 、笞五十 。給逋事 、皆籍亡日 、 數盈卒歳而得、亦耐之。 張家山漢簡・二年律令一五七 ︵亡律︶ とあって、吏民が逃亡してその期間が一年未満ならば繋城旦舂に、一年 以上ならば耐に当てられていることから、この繋城旦舂も刑罰として当 てられていることは明らかである。そうすると、②と③の繋城旦舂は共 に刑罰となるが、その一方で、①の労役によって貲刑・贖刑および債務 の支払に代える場合は、刑罰として繋城旦舂が科せられているとは言え ない 。従って 、繋城旦舂は刑罰として当てられるものであると同時に 、 刑徒でも犯罪者でもない者が労役によって金銭の支払いに代える場合に 当てられるものでもあると考えなければならない。繋城旦舂そのものは あくまでも期限付きの労働力提供と性格付けるべきであって、それが耐 に当てるには及ばないなどの軽微な犯罪に対して当てられる刑罰として も運用されていたと理解すべきであろう。

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二六 102 ︵三︶城旦舂と繋城旦舂   刑罰として運用される繋城旦舂が城旦舂とは別個の刑罰であることは 上述の通りであるが 、その一方で 、城旦舂と繋城旦舂の実態について 、 労役の種類や中身に関しては有期労役刑徒 ︵繋城旦舂に当てられた者︶ と 城旦舂刑徒との間に相違は認められないことが指摘されている 。実際 、 次に挙げる睡虎地秦簡・秦律十八種一四一∼一四二簡︵史料 ︶に見え るように、繋城旦舂に当てられた居貲贖債が城旦舂と一緒に労役に従事 する場合もあった。では、別個の刑罰であるところの城旦舂と繋城旦舂 の違いはどこにあるのだろうか。   秦律では、繋城旦舂に当てられた者と城旦舂は区別されていた。 2  隸臣妾、 城旦舂之司寇、 居貲贖責 ︵債︶ ︵繋︶ 城旦舂者、 勿責衣食、 其與城旦舂作者、衣食之如城旦舂。隸臣有妻、妻更及有外妻者、責 衣 。人奴妾 ︵繋︶ 城旦舂 、 貣 ︵貸︶ 衣食公 、日未備而死者 、出其 衣食。   司空 睡虎地秦簡・秦律十八種一四一∼一四二 ︵司空律︶ ﹁其與城旦舂作者﹂の ﹁ 其﹂がその前の ﹁隸臣妾 、城旦舂之司寇 、居貲 贖責 ︵債︶ ︵繋︶ 城旦舂者﹂を指すことは間違い無い 。そうするとこ こで﹁其與城旦舂作者﹂と見える城旦舂と﹁隸臣妾、城旦舂之司寇、居 貲贖責 ︵債︶ ︵繋︶ 城旦舂者﹂とは別個の異なる存在と認識されてい たことになろう。また、 3  毋令居貲贖責 ︵債︶ 將城旦舂 。城旦司寇不足以將 、令隸臣妾將 。居 貲贖責 ︵債︶ 當與城旦舂作者、 及城旦傅堅、 城旦舂當將司者、 廿人、 城旦司寇一人將 。司寇不 、免城旦勞三歳以上者 、以爲城旦司寇 。   司空 睡虎地秦簡・秦律十八種一四五∼一四六 ︵司空律︶ には繋城旦舂とは明記されていないが 、城旦舂と作していることから 、 ここに見える居貲贖債は繋城旦舂に当てられた者と考えられ 、﹁ 居貲贖 責 ︵債︶ 當與城旦舂作者﹂とあるように 、ここでも繋城旦舂に当てられ たと考えられる居貲贖債は城旦舂とは区別されている。また、 4  ︵繋︶ 城旦舂、公食當責者、石卅錢    司空          睡虎地秦簡・秦律十八種一四三簡 ︵司空律︶ とあり、ここで﹁繋﹂字が明記されていることも、城旦舂と繋城旦舂と が別個の存在として区別されていたことを示すものであろう。   これらの秦簡で繋城旦舂と区別されている城旦舂とは、言う迄もなく いわゆる城旦舂刑徒であることが次の史料から確認される。 5  四月丙辰、 黥城旦講气 ︵乞︶ 鞫曰﹁故樂人、 不與士五 ︵伍︶ 毛謀盜牛、 雍以講爲與毛謀、論黥講爲城旦。 ﹂ ︵以下略︶ 張家山漢簡・奏讞書十七 この張家山漢簡 ・ 奏讞書では﹁黥爲城旦﹂に量刑された刑徒を﹁黥城旦﹂ と称している。この例から、刑徒を指す城旦舂は﹁爲城旦舂﹂に量刑さ れた刑徒を指すことがわかる。では、もう一方の繋城旦舂に当てられた 者とはどの様な立場の者なのであろうか。   これについて宮宅潔は二年律令一六五簡 の ﹁ 繋城旦舂六歳﹂ について、

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二七 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 103 それが隸臣妾の身分のままで繋城旦舂六歳に当てられていることを明ら かにした 。また、 先述の趙背戸村の瓦文墓誌には ﹁東武居貲上造慶忌﹂ ﹁東 武東間居貲不更 瞗 ﹂などと記載されていたが、居延漢簡に見える刑徒は 完城旦・鬼薪などの刑名が明記されている ことからすれば、居貲と書か れている以上、墓誌の主は居貲の立場であって、刑徒ではなかったと考 えるべきであろう。さらに、 墓誌に爵位が記載されているということは、 居貲である埋葬者は有爵者の身分を保持したままでこの労役に従事して いたことになる。この趙背戸村刑徒墓に埋葬された居貲の者が繋城旦舂 に当てられて始皇帝陵の建設に従事したか否かは明らかではないが、趙 背戸村刑徒墓の居貲が労役に従事する以前の身分を保持したまま労役に 従事していることからすれば、居貲が繋城旦舂に当てられて労役に従事 する場合も同じく以前の身分を保持したまま従事したと思われる。これ ら隸臣妾と居貲の例から、繋城旦舂に当てられた者はそれに当てられる 以前の身分のままで繋城旦舂に当てられたと考えられる。   先述のように、 城旦舂刑徒と繋城旦舂に当てられた者は同様の労役に、 時には一緒に従事しており、労役従事の実態としてはほぼ違いはなかっ たと思われる。ところが、城旦舂と称されるのは﹁爲城旦舂﹂に量刑さ れた城旦舂刑徒に限られていて、繋城旦舂に当てられた者は城旦舂とは 称されていない。繋城旦舂に当てられた者は城旦舂刑徒と同じ労役に従 事しているにも拘わらず、城旦舂とは称されていないのであるから、城 旦舂刑徒が従事すべきとされる労役に従事する者が即ち城旦舂と呼ばれ た訳ではない。いったい、 城旦舂はこれまで ﹃漢舊儀﹄ や ﹃史記﹄ ﹃漢書﹄ の注釈 に基づいて、男は辺境に輸せられて塞の修築や警備に、女は臼つ き労働に従事する刑罰と理解されてきたが、この理解は厳密な意味での 同時代史料に基づく理解ではない。その後、同時代史料である睡虎地秦 簡が発見されたが、それにも拘わらず﹃漢舊儀﹄等の記載内容の当否に ついては全く検証されないまま今日に至っている。我々は、城旦舂とい う刑罰 、 即ち 、﹁爲城旦舂﹂に量刑するということが実態として犯罪者 をどのように処置することなのか、今一度検討する必要があるのではな いか。   労役刑とされる城旦舂・鬼薪白粲・隸臣妾・司寇は、犯罪者に対する 量刑として記される場合は 、例えば後掲二年律令九〇∼九二簡 ︵史料 20︶に見えるように、 共通して﹁ ︵肉刑︶ 爲⋮⋮﹂という形で表現されて いる 。そこで 、﹁爲城旦舂﹂に量刑するとは犯罪者をどのように処置す ることなのかを明らかにするために、 同じ﹁ ︵肉刑︶ 爲⋮⋮﹂という形を 取る司寇を取り上げたい。なぜなら、司寇に関して非常に興味深い規定 が二年律令に見えるからである。

二 

爵位を指標とする身分序列

  司寇についての非常に興味深い規定とは次掲の田と宅の給付に関する 二つの規定である。 6  關 内 侯 九 十 五 頃 、 大 庶 長 九 十 頃 、 駟 車 庶 長 八 十 八 頃 、 大 上 造 八十六頃 、少上造八十四頃 、 右更八十二頃 、中更八十頃 、左更 七十八頃、右庶長七十六頃、左庶長七十四頃、五大夫廿五頃、公乘 廿頃 、公大夫九頃 、官大夫七頃 、大夫五頃 、不更四頃 、簪 褭 三頃 、 上造二頃 、公士一頃半頃 、 公卒 、士五 ︵伍︶ 、庶人各一頃 、司寇 、 隱官各五十畝。 ︵以下略︶ 張家山漢簡・二年律令三一〇∼三一三 ︵戸律︶

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二八 104 7  宅之大方卅歩。徹侯受百五宅 、關内侯九十五宅、大庶長九十宅、駟 車庶長八十八宅、 大上造八十六宅、 少上造八十四宅、 右更八十二宅、 中更八十宅、左更七十八宅 、右庶長七十六宅、左庶長七十四宅 、 五 大夫廿五宅 、公乘廿宅 、公大夫九宅 、官大夫七宅 、大夫五宅 、不更 四宅 、簪 褭 三宅 、上造二宅 、公士一宅半宅 、公卒 、士五 ︵伍︶ 、庶 人一宅、司寇、隱官半宅。欲爲戸者、許之。 張家山漢簡・二年律令三一四∼三一六 ︵戸律︶ これらの田宅給付規定には、二十等爵の第 20級徹侯から第 1 級公士まで の有爵者などと共に司寇が見え、刑徒であるはずの司寇が田宅給付の対 象となっているのである。ここに見える爵位等を田宅の規模を基準に並 べると次のようになる ︵以下の丸数字は爵の級数を示す︶ 。    ⑳徹侯

⑲關内侯

⑱大庶長

⑰駟車庶長

⑯大上造

⑮少上造

⑭右更

⑬中更

⑫左更

⑪右庶長

⑩左庶 長

⑨五大夫

⑧公乘

⑦公大夫

⑥官大夫

⑤大夫

④不更

③簪 褭

②上造

①公士

公卒・士伍・庶人

司寇・隱官 ここで注目されるのは、公卒・士伍・庶人・司寇・隠官が⑳徹侯から① 公士までの爵位の序列に連続する形で現れていることである。公卒以下 が爵位の序列に連続して現れるということは、公卒 ・ 士 伍 ・ 庶人 ・ 司 寇 ・ 隠官は爵位を指標とする身分序列 ︵以下 ﹁爵制的身分序列﹂という︶ の延 長上に位置しており、爵制的身分序列という物差しの上で、爵位と同じ ように、 その身分序列における位置を示す指標 ︵以下﹁身分指標﹂という︶ として現れているということになる。このことから、公卒 ・ 士 伍 ・ 庶 人 ・ 司寇 ・ 隠官は爵位に準ずる身分指標と性格付けることができそうである。 ただ、身分指標とは従来見なされていないものも含まれているので、こ れらを爵位に準ずる身分指標と見なして良いか、他の用例によって検証 しておく必要があるだろう。   次に挙げるのは 、二年律令中の 、老人に対する糜粥支給 、王杖授与 、 睆老認定の規定である。 8  大夫以上 ︻年︼九十 、 不更九十一 、 簪 褭 九十二 、上造九十三 、公士 九十四、公卒、士五 ︵伍︶ 九十五以上者、稟鬻米月一石。 張家山漢簡・二年律令三五四 ︵傅律︶ 9  大夫以上年七十 、不更七十一 、簪 褭 七十二 、 上造七十三 、公士 七十四、公卒、士五 ︵伍︶ 七十五、皆受仗 ︵杖︶ 。 張家山漢簡・二年律令三五五 ︵傅律︶ 10  不更年五十八、 簪 褭 五十九、 上造六十、 公士六十一、 公卒、 士五 ︵伍︶ 六十二、皆爲睆老。 張家山漢簡・二年律令三五七 ︵傅律︶ いずれも爵位が適用年齢の基準となっている。その中で、 公卒と士伍が、 前掲の田宅給付規定 ︵史料 ︶と同様に 、爵位の序列に連続する形 で現れており、ここに見える公卒・士伍も爵位に準ずる身分指標といえ る。次の簡は、爵後でない子供が傅せられる時に受ける爵位の規定であ る。 11  不爲後而傅者、 關内侯子二人爲不更、 它子爲簪 褭 、 卿子二人爲不更、

(8)

二九 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 105 它子爲上造、五大夫子二人爲簪 褭 、它子爲上造、公乘、公大夫子二 人爲上造、它子爲公士、官大夫及大夫子爲公士、不更至上造子爲公 卒。 張家山漢簡・二年律令三五九∼三六〇 ︵傅律 ︶ ここに見える﹁某爵子爲某爵﹂という記載形式は次掲の三六五簡にも見 える。 12  不更以下子年廿歳、大夫以上至五大夫子及小爵不更以下至上造年廿 二歳、卿以上子及小爵大夫以上年廿四歳、皆傅之。公士 ︵三六四簡︶    公卒及士五 ︵伍︶ 、司寇、隱官子、皆爲士五 ︵伍︶ 。疇官各從其父疇、 有學師者學之。 ︵三六五簡︶ 張家山漢簡・二年律令三六四∼三六五 ︵傅律︶ 整理小組は三六四簡と三六五簡を連続するものと見なしているが 、 三六四簡は﹁某爵子年某歳﹂という記載形式を取って傅籍の年齢を規定 するのに対して、三六五簡では﹁某爵子爲某爵﹂という記載形式を取っ ていて、爵後でない子供が傅せられたときに受ける爵位について規定す る先の三五九∼三六〇簡 ︵史料 11︶と記載形式が一致する 。それ故 、 三六五簡は三五九∼三六〇簡と本来同じ条文に含まれていたとも考えら れる 。少なくとも、三五九∼三六〇簡と三六五簡が共に子供の受ける爵 位についての規定であることは間違いない。そこで、その規定に見える 親の爵位等を書き出すと、    ⑲關内侯

卿 ︵⑱大庶長∼⑩左庶長︶

⑨五大夫

⑧公乘 ・⑦ 公大夫

⑥官大夫 ・⑤大夫

④不更 ・③簪 褭 ・②上造⋮⋮⋮⋮ 公卒・士伍・司寇・隱官 となり、 公士と庶人が見えない ことを除き、 先の田宅給付規定︵史料 ︶に見える身分指標の序列と一致し、公卒・士伍・司寇・隱官が爵位 の序列の延長上に 、爵位に準ずる身分指標として現れている 。また 、 三五九∼三六〇簡 ︵史料 11︶末尾の ﹁不更至上造子爲公卒﹂の公卒と 、 三六五簡 ︵史料 12︶の ﹁皆爲士五 ︵伍︶ ﹂の士伍は 、親が⑤大夫以上の 爵を持つ場合は①公士以上の爵位が来る部分であるから、この公卒と士 伍は爵位に準ずるものとしてここに挙げられていることになろう。次の 簡は、吏でない者および宦皇帝者に対する賜与についての規定である。 13  賜不爲吏及宦皇帝者 、關内侯以上比二千石 、卿比千石 、五大夫比 八百石 、公乘比六百石 、公大夫 、官大夫比五百石 、大夫比三百石 、 不更比有秩 、簪 褭 比斗食 、上造 、 公士比佐史 。毋爵者 、飯一斗 、肉 五斤 、酒大半斗 、醤少半升 。司寇 、徒隸 、飯一斗 、肉三斤 、酒少半 斗、鹽廿分升一。 張家山漢簡・二年律令二九一∼二九三 ︵賜律︶ ここでは爵位と官秩が対比されているが、その爵位の部分を書き出すと 次のようになる。    ⑲關内侯以上

卿 ︵⑱大庶長∼⑩左庶長︶

⑨五大夫

⑧公乘

⑦公大夫・⑥官大夫

⑤大夫

④不更

③簪 褭

②上 造・①公士

毋爵者

司寇・徒隷 序列の末尾に①公士

毋爵者

司寇・徒隷と並んでいるが、①公士

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三〇 106 の次に毋爵者という爵位の有無に焦点を置いた表現がくることは、この 序列が爵位を指標とする序列であることを明示している。従って、その 序列に含まれる司寇は、爵位に準ずる身分指標として認識されていたこ とになろう。さらに、次の規定では、⑨五大夫以上

⑧公乘以下

司寇以下というように飛び飛びになってはいるが、ここでも司寇は爵制 的身分序列において爵位に準ずる身分指標として現れている。 14  賜衣者六丈四尺 、縁五尺 、絮三斤 、襦二丈二尺 、縁丈 、 絮二斤 、絝 ︵袴︶ 二丈一尺 、絮一斤半 、衾五丈二尺 、縁二丈六尺 、絮十一斤 。 五大夫以上錦表 、公乘以下縵表 、皆帛裏 。司寇以下布表 、裏 。 ︵以 下略︶ 張家山漢簡・二年律令二八二∼二八四 ︵賜律︶   これまで挙げた例から、公卒・士伍・司寇・隱官が爵位に準ずる身分 指標であることは諒解されたと思う。庶人ははじめに挙げた田宅給付規 定 ︵史料 ︶以外には現れないが 、以後の考察において 、庶人も同 様に爵位に準ずる身分指標であることが示されるであろう。   これらのうち、士伍・庶人・隠官については先行研究があり、そこで は必ずしも爵位に準ずる身分指標と理解されてはいないので、ここで少 し検討しておきたい。   士伍は典籍史料にも見え、無爵者とする説 、奪爵者とする説 、奪爵後 に兵士とされた者とする説 、 刑徒の一種とする説 などが示されているが、 片倉穣はそれらを検討し 、士伍とは有爵者の奪爵された者と理解した 。 その後、睡虎地秦簡の分析から、劉海年は、士伍とは、傅籍から六十歳 免老までの男性で、無爵または奪爵された者で、刑徒・奴隷ではないと した上で、無爵あるいは奪爵された成年者で庶民に属すと結論した 。秦 進才は、未だ賜爵されていないか奪爵されたかを問わず無爵の男性成人 を士伍とし、劉海年が士伍を庶人・庶民とすることに対して、秦代の士 伍は無爵の庶人や庶民であるが、漢代になると士伍は重罪を犯して奪爵 された者で、無罪無爵の人や奴婢身分を免除された者を指す庶人よりも 低い身分に置かれたとする 。前掲二年律令三六五簡︵史料 12︶では、公 卒・士伍・司寇・隱官の子が士伍を受けているので、士伍が有爵者の奪 爵された者に限られるわけではないし、傅籍から六十歳免老までの男性 という点については﹃漢舊儀﹄の誤読によるものと思われる。また、劉 海年・秦進才の言う﹁庶民﹂がどの様な社会的存在を指しているのか不 明であるが、士伍はあくまで爵制的身分序列における身分指標の一つで あって、一般大衆を漠然と指すわけではないこと、前掲の二年律令から 明らかであろう。   庶人については、片倉穣は、広義では一般被支配階級を包括する概念 で、狭義では商人・刑徒・兵士・流民・無名数者を除く、戸籍に搭載さ れ現実に郡県の機構を通じて支配の対象となる者で、換言すれば賦役の 対象たる者を指すといい 、椎名一雄は徭役・兵役・仕官から除外される 者で民爵所有者は含まれないとし 、専修大学 ﹃二年律令﹄研究会は官 ・ 私奴婢の解放された者で、爵制的身分の一つとする 。片倉の結論は、典 籍史料に見える刑徒 ・ 奴婢と諸侯王と列侯 ・ 官僚を﹁免じて庶人と爲す﹂ 例の分析から導き出されたもので、その後出土した秦漢律によって検証 する必要がある。椎名は、前掲二年律令三五九∼三六〇簡︵史料 11︶と 三六五簡︵史料 12︶の傅籍の規定に庶人が見えないことから、庶人を傅 から除外された身分層と断定した上で論を展開し、如上の結論に達した ものである。しかし、二年律令には田宅を所有するのは戸を為した者に 限られるという規定 があるので、田宅給付の対象である庶人は戸を為し た者であるはずである。その結果、椎名説では傅の対象ではない者が戸

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三一 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 107 を為すということになってしまうが、戸は籍によって管理されている の だから、傅の対象でない者が戸を為すというのは考えにくい。三六五簡 ︵史料 12︶の傅籍の規定に庶人が見えないことを必然とする前提にそも そも問題があるように思われる。専修大学﹃二年律令﹄研究会の見解は 概ね従うことができるが、庶人となるのは官・私奴婢の解放者に限られ ない。以下、庶人について補足しておこう。   典籍史料では、庶人が官吏でもなく奴婢などの賤民でもない庶民一般 を指す用例も見える が、少なくとも二年律令ではこれと異なり、田宅給 付規定︵史料 ︶に見える庶人は、⑳徹侯∼①公士及び公卒 ・ 士 伍 ・ 司寇・隱官とは排他的な関係にある存在であって、無爵の庶民一般を漠 然と指すわけではない。例えば次掲の簡に ﹁許以庶人予田宅﹂ とあるが、 これが ﹁庶民一般として田宅を与えることを許す﹂ では意味をなさない。 15  寡爲戸後、予田宅、比子爲後者爵。其不當爲戸後 、而欲爲戸以受殺 田宅、許以庶人予田宅。 ︵以下略︶ 張家山漢簡・二年律令三八六∼三八七 ︵置後律︶ ﹁以庶人予田宅﹂とは田宅給付規定 ︵史料 ︶の ﹁庶人各一頃﹂ ﹁庶 人一宅﹂を準用して田宅を支給することを指すと考えられ、この場合の 庶人は爵制的身分序列上の身分指標の一つとしての庶人でなければなら ない。では、庶人に当たるのはどのような者か。秦簡・漢簡には次のよ うな例が見える。 16  欲歸爵二級以免親父母爲隸臣妾者一人、及隸臣斬首爲公士、謁歸公 士而免故妻隸妾一人者、許之、免以爲庶人。工隸臣斬首及人爲斬首 以免者、皆令爲工。其不完者、以爲隱官工。   軍爵 睡虎地秦簡・秦律十八種一五五∼一五六 ︵軍爵律︶ 17  將司人而亡 、能自捕及親所智 ︵知︶ 爲捕 、除毋 ︵無︶ 罪 、已刑者處 隱官 。●可 ︵何︶ 罪得處隱官 。●羣盜赦爲庶人 、將盜戒 ︵械︶ 囚刑 罪以上 、亡 、以故罪論 、斬左止爲城旦 、後自捕所亡 、是謂處隱官 。 ●它罪比羣盜者皆如此。        睡虎地秦簡・法律答問一二五∼一二六 18  奴婢爲善而主欲免者、 許之、 奴命曰私屬、 婢爲庶人、 皆復使及筭 ︵算︶ 、 事之如奴婢。主死若有罪、 以私屬爲庶人、 刑者以爲隱官。所免不善、 身免者得復入奴婢之。其亡、有它罪、以奴婢律論之。 張家山漢簡・二年律令一六二∼一六三 ︵亡律︶ 以上の例に見えるように、秦簡・漢簡に見える庶人は罪を赦された者や 刑徒・奴婢から解放された者であり 、それ故、庶人とは、罪を赦された 者や刑徒・奴婢から解放された者が置かれる爵制的身分序列上の位置と 考えるべきである 。   隠官は 、睡虎地秦簡では前掲秦律十八種一五五∼一五六簡 ︵史料 16︶ に﹁隱官工﹂ 、法律答問一二五∼一二六簡 ︵史料 17︶ に﹁處隱官﹂と見え ており、前者について整理小組は、人目に付かないところで従事する工 匠と解釈した が、その後公表された張家山漢簡・奏讞書 に﹁隱官解﹂と 見えることから、松崎つね子は、隱官が爵位と同じ身分表示である可能 性を指摘し 、二年律令の公表後 、蔣非非は 、隠官を ⒜ 官の ﹁故不直﹂及 び誤審によって肉刑に処せられた後 ﹁乞鞫﹂によって無実となった者 、 ⒝ 自分で立てた軍功又は他人が立てた軍功によって赦免された刑徒 、 ⒞ 朝廷の赦令によって赦免された刑徒とした 。また、鈴木直美は、解放さ

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三二 108 れた奴のうちで肉刑を受けた者は隠官に処せられることを指摘すると共 に、隱官には奴婢のような私的な隷属者は含まないこと、肉刑の有無が 身分判断の基準となっていることを指摘し 、専修大学﹃二年律令﹄研究 会は 、冤罪であるにも拘わらず肉刑を受けた者とする 。蔣非非の ⒝ と ⒞ については根拠が示されていない上に、ここでいう﹁刑徒﹂が肉刑を受 けた者に限定されるか否か明示されていないことからそのままでは従え ないし、 専修大学﹃二年律令﹄研究会の解釈は冤罪の場合に限定する点、 狭きに失する 。 残る蔣非非の ⒜ および松崎 ・ 鈴木の指摘については首肯 できる。これらの指摘を踏まえれば、隠官とは肉刑に処せられた刑徒お よび肉刑に処せられたことのある奴が赦免・解放された後に置かれる爵 制的身分序列上の位置と言えよう。なお、先の庶人との関係について言 えば 、前掲法律答問一二五∼一二六簡 ︵史料 17︶ 及び二年律令一六二∼ 一六三簡 ︵史料 18︶ に見えるように 、刑徒や奴婢が赦免 ・解放される場 合に、肉刑を受けていない者は庶人に、肉刑を受けている者は隠官とさ れており、隠官と庶人は並行的な関係にあったと見ることもできよう。   これまでの考察によって 、田宅給付規定 ︵史料 ︶ で爵位の序列に 連続する形で現れる公卒・士伍・庶人・司寇・隱官が爵制的身分序列に おける位置を示す身分指標であることが確認されたと思うが、では、こ れら五つの身分指標自体の序列はどの様になるのだろうか。この点につ いて前掲の二年律令二九一∼二九三簡 ︵史料 13︶ が参考となる 。そこで は①公士

毋爵者

司寇・徒隷という序列になっていたが、先の田 宅給付規定 ︵史料 ︶ では①公士と司寇の間に公卒 ・士伍 ・庶人が位 置していた 。従って 、これら公卒 ・士伍 ・庶人が二九一∼二九三簡 ︵史 料 13︶ に見える毋爵者に当たり 、敢えて爵級で言うならば第 0 級となろ う 。それと同時に 、前掲二年律令三五九∼三六〇簡 ︵史料 11 および 三六五簡 ︵史料 12︶ に見える爵後以外の子の傅籍の時の爵位では 、④不 更∼②上造の子は公卒で、公卒・士伍・司寇・隠官の子は士伍であるこ とから、 公卒が士伍より上に位置する。また、 前掲二年律令三五四簡 ︵史 料 8︶・三五五簡 ︵史料 9︶・三五七簡 ︵史料 10︶ では優遇措置の対象とな るのは三者のうち公卒と士伍だけで、庶人は優遇措置の対象となってい ないことから、庶人は公卒・士伍 より下に位置する。従って、公卒・士 伍 ・ 庶人の序列は田宅給付規定 ︵史料 ︶ に見える通りとなる。なお、 爵後以外の子の傅籍の時の爵位で公卒・士伍・司寇・隱官の子がすべて 士伍になっていることから、 士伍が第 0 級 の基準に当たると考えられる 。 そうすると、士伍よりも上の公卒は第 0 級 、下の庶人は第 0 級という ことになろう。では、公卒・士伍・庶人に続く司寇と隱官はどうか。田 宅給付規定 ︵史料 ︶ では公卒 ・士伍 ・ 庶人と司寇 ・隱官の間に格差 があったし、二年律令二九一∼二九三簡 ︵史料 13︶ でも毋爵者 ︵公卒・士 伍・ 庶 人 ︶ と司寇の間に格差があったことからすれば 、爵制的身分序列 における司寇・隱官の位置は公卒・士伍・庶人よりも一段下のいわば第 -1級 に当たることになろう 。

三 

秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列

  前章で考察したように、司寇が爵制的身分序列における位置を示す身 分指標であるならば、量刑において﹁爲司寇﹂と同じく﹁爲⋮⋮﹂と表 現される隸臣妾・鬼薪白粲・城旦舂も司寇と同様に爵制的身分序列にお ける身分指標と考えなければならないだろう。これまで挙げた秦漢律で は、爵制的身分序列の中に現れていたのはこれら四者のうち司寇だけで あった。残念なことに、現在我々が知り得る秦漢律の中で、司寇以外の 三者が爵制的身分序列の中に直接現れる例は確認できないが 、城旦舂 ・

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三三 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 109 鬼薪白粲・隸臣妾が爵制的身分序列の中に位置づけられることを強く示 唆する史料は存在する。前掲二年律令二九一∼二九三簡 ︵史料 13である。 そこに現れる①公士以下の序列は①公士

毋爵者

司寇 ・徒隷で あったが 、末尾の徒隷が城旦舂 ・鬼薪白粲 ・隸臣妾に当たる のである 。 それが分かるのが次の里耶秦簡である 。 19  廿七年二月丙子朔庚寅 、洞庭守禮 、謂縣嗇夫 ・卒史嘉 ・叚 ︵假︶ 卒 史穀 ・屬尉 。 ⒜ 令曰 、傳送委輸 、必先悉行城旦舂 ・隷臣妾 ・居貲贖 責 ︵債︶ 。急事不可留、 乃興 。今洞庭兵、 輸内史及巴 ・ 南 郡 ・ 蒼梧。 輸甲兵、當傳者多。節傳之、 ⒝ 必先悉行乘城卒 ・ 隷臣妾 ・ 城旦舂 ・ 鬼 薪白粲 ・ 居貲贖責 ︵債︶ ・ 司 寇 ・ 隠 官 ・ 踐更縣者。田時 啋 、不欲興黔首。 ⒞ 嘉 ・ 穀 ・ 尉各謹案所部縣卒 ・徒隷 ・ 居貲贖責 ︵債︶ ・司寇 ・隠官 ・ 踐更縣者簿。有可令傳甲兵、 縣弗令傳之、 而興黔首、 興黔首、 可省少、 弗省少、 而多興者、 輒劾移縣。縣亟以律令具論當坐者言名、 史泰守府。 嘉・穀・尉在所縣上書。嘉・穀・尉令人日夜端行。它如律令。 里耶秦簡 J 1⑯5 A 洞庭守禮の下達文書において、 ⒝ で徴発対象として挙げられている者と、 ⒞ で卒史嘉 ・假卒史穀 ・屬尉に対して案ずるよう命じている名簿名称と を対比すると次のようになる。    ⒝ 徴発対象者乘城卒/隷臣妾・城旦舂・鬼薪白粲/居貲贖債    ⒞ 名簿名称   縣卒   /徒隷        /居貲贖責    ⒝       /司寇/隠官/踐更縣者    ⒞       /司寇/隠官/踐更縣者簿 この対比から 、徒隷が隸臣妾 ・城旦舂 ・鬼薪白粲を指すことが分かる 。 そこで、毋爵者と徒隷を具体的な身分指標に置き換えると、前掲二年律 令二九一∼二九三簡 ︵史料 13︶ に現れる①公士以下の序列は次のように なる。    ①公士

公卒・士伍・庶人

司寇・隸臣妾・鬼薪白粲・城旦舂 ここでは 、これまで労役刑と見なされていた司寇 ・隸臣妾 ・鬼薪白粲 ・ 城旦舂が揃って爵制的身分序列における位置を示す身分指標として並ぶ のである。   司寇以下の隸臣妾・鬼薪白粲・城旦舂が爵位に準ずる身分指標である ということを、別の方向から示しておきたい。次の二年律令九〇∼九二 簡 ︵史料 20︶ は 、 罪に対して当てられる刑罰が ﹁耐﹂と記されるのみで 具体的な刑名が明記されない場合の当てるべき刑罰について規定したも のである。 20  有罪當耐、其法不名耐者 、庶人以上耐爲司寇、司寇耐爲隸臣妾。隸 臣妾及收人有耐罪、 ︵繋︶ 城旦舂六歳。 ︵繋︶ 日未備而復有耐罪、 完爲城旦舂。城旦舂有罪耐以上、黥之。 ︵以下略︶ 張家山漢簡・二年律令九〇∼九二 ︵具律︶ 耐罪を犯したのが庶人以上ならば耐司寇、司寇ならば耐隷臣妾、隸臣妾 ならば繋城旦舂六歳 、城旦舂ならば黥に当てることが規定されている 。 ここで、等しく耐に当たる罪を犯したにも拘わらず、当てられる刑罰が 異なっている要因は、庶人以上・司寇・隸臣妾・城旦舂という犯罪者の 身分の違いを措いて他には考え得ない。つまり、同じ罪を犯しても、犯

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三四 110 罪者の身分によって異なる刑罰が当てられているのである。これと全く 同じ現象が、次の秦律に見える。 21  遊士在 、亡符 、居縣貲一甲 、卒歳 、責之 。●有爲故秦人出 、削籍 、 上造以上爲鬼薪、公士以下刑爲城旦。●遊士律。      睡虎地秦簡・秦律雑抄四∼五 ︵遊士律︶ ここでは、同じ罪に対して、罪を犯した者が上造以上の有爵者であれば 鬼薪に、公士以下であれば刑城旦に当てられている。先の二年律令九〇 ∼九二簡 ︵史料 20︶ に見える庶人以上 ・司寇 ・隸臣妾 ・城旦舂と 、 この 秦律雑抄四∼五簡 ︵史料 21︶ に見える上造以上 ・公士以下とが 、当てる べき刑罰の決定において同じ機能を果たしているのである。このことか らも、司寇・隸臣妾・城旦舂が爵位に準ずる身分指標であることが確認 されよう。   では司寇から城旦舂までの序列はどの様になるのだろうか 。一般に 、 労役刑としての軽重は軽い順に司寇・隸臣妾・鬼薪白粲・城旦舂とされ る が、鬼薪白粲はこの序列に直線的に並ぶのではなく城旦舂の横に位置 することが指摘されている 。確かに 、前掲二年律令九〇∼九二簡 ︵史料 20︶ では、 庶人以上が耐に当たる罪を犯したら耐司寇、 司寇なら耐隷臣妾、 隸臣妾なら繋城旦舂六歳、繋城旦舂の期間中ならば完城旦舂となってお り、繋城旦舂が挟まるものの 、身分指標としては司寇

隸臣妾

城 旦舂と並んでいてここに鬼薪白粲は現れない。しかしながら、鬼薪白粲 と城旦舂が爵制的身分序列において全く同じ位置にあったわけではな い。次の漢律は鬼薪白粲と城旦舂が庶人以上を殴った場合の刑罰を規定 したものである。 22  鬼薪白粲毆庶人以上、黥以爲城旦舂。城旦舂也、黥之。       張家山漢簡・二年律令二九 ︵賊律︶ 庶人以上を殴った鬼薪白粲が黥城旦舂に処せられていることから、鬼薪 白粲の爵制的身分序列は城旦舂の上に位置したと考えなければならな い。ただし、鬼薪白粲は隸臣妾・城旦舂と直線的に並ぶわけではないの で、城旦舂の斜め上に位置することになろうか。   前章で述べたように、司寇が爵制的身分序列において第 -1級を示す身 分指標であるならば、刑の量定として現れる﹁爲司寇﹂は﹁第 -1級の司 寇の身分とする﹂という意味になろう。従って、刑の量定において﹁爲 司寇﹂と同じ表現を取る﹁爲城旦舂﹂ ﹁爲鬼薪白粲﹂ ﹁爲隸臣妾﹂も同様 に﹁某々の身分とする﹂という意味と理解され、これらの刑罰は、従来 そのように考えられていた隸臣妾と同様に、身分の貶降を第一義的な制 裁とする身分刑であって、貶められたその身分に労役への従事が属性と して備わっていたと理解すべきであろう。先に検討したこれら四者の序 列を踏まえて司寇以下の身分刑を爵級に喩えて言うならば、司寇は犯罪 者を爵制的身分序列の第 -1級に、隸臣妾は第 -2級に、鬼薪白粲は第 -2.5級 に、城旦舂は第 -3級に貶しめる刑罰となろう 。   なお、隸臣妾を身分刑とする見解に対しては、夙に、身分を貶めるこ とがなぜ制裁となり得たのかという疑問が提示されている が、前掲里耶 秦簡 ︵史料 19︶ にその解答を求めることができよう 。そこに引用された 令 ⒜ では城旦舂 ・隷臣妾 ・居貲贖債を始めに徴発すべきことが規定され ているし 、洞庭守禮の命令 ⒝ では乘城卒 ・隷臣妾 ・城旦舂 ・鬼薪白粲 ・ 居貲贖債・司寇・隠官・踐更縣者が、先に動員すべき者として挙げられ ている 。このうち 、乘城卒と踐更縣者は既に徭役に徴発されている者 、 居貲贖債は先述のように罰金刑や債務を労役によって代納する者で、共

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三五 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 111 に優先的に動員されるべき理由が存在するのに対して、城旦舂・鬼薪白 粲・隸臣妾・司寇には彼らが優先的に動員されるべき具体的な理由は見 当たらず、それ故、彼らはその身分故に優先的に動員されていると考え る他ない。司寇以下の身分となることはとりもなおさず労役への優先的 徴発対象者となることなのである。また、司寇以下に当てられた刑徒は 本人が労役に従事させられる他に、家族が没収されたり、家族の居住地 が制限されたり、刑徒身分が子に継承されたり、田宅支給の対象から除 外されたりするといった不利益な処遇を受ける のであるが、これらの労 役従事や不利益な処遇を身分刑に本来的に備わる属性と考えれば、労役 に従事させられ不利益な処遇を受ける司寇以下の身分に貶められること は 、 犯罪者に対する制裁になり得るだろう 。また 、 前掲里耶秦簡 ︵史料 19︶ 所引の令 ⒜ に挙げられた優先的徴発対象に司寇と鬼薪白粲が含まれ ていないことにも見られるように、労役従事の頻度や従事する労役の内 容、不利益な処遇は、刑徒が置かれた身分によって異なる のであり、こ のような差異によって司寇から城旦舂までの身分刑は段階づけられてい たと考えられる。なお、従来の労役刑の議論の中で重要な論点であった 刑期について言えば、司寇以下は身分刑でそもそも刑期という概念とは 馴染まないものであるから 、前もって定められた刑期などは存在せず 、 不定期の赦令によって解放されたと考えられる。   第一章の終わりで、刑徒として城旦舂と称されるのは﹁爲城旦舂﹂に 量刑された者だけで 、繋城旦舂に当てられた者は城旦舂とは呼ばれな かったことを指摘したが、これまでの考察によって、その理由はもはや 明らかであろう。即ち、刑徒として城旦舂と呼ばれるのは、 ﹁爲城旦舂﹂ に量刑された結果、爵制的身分序列の第 -3級に身分を貶められた者であ るのに対して、繋城旦舂に当てられた者は以前の身分を保持したままで あって、 城旦舂の位置する第 -3級に貶められたわけではない。 ﹁爲城旦舂﹂ は爵制的身分序列を貶降する刑罰であるのに対し、繋城旦舂は身分の貶 降を伴わない単なる労働力提供なのである。

おわりに

  これまでの考察を踏まえて、前漢文帝十三年の刑制改革以前の刑罰を 整理しておこう。この時期の刑罰は、大きく死刑、肉刑、身分刑、財産 刑に分けられ、肉刑と身分刑は原則として併科された。身分刑に属する 司寇・隸臣妾・鬼薪白粲・城旦舂は身分の貶降を第一義的制裁とするも ので、その貶降された身分に労役が属性として備わっており、司寇以下 の身分に貶められることは労役へ優先的に徴発される対象とされること であった 。この意味で 、身分刑は実質的には労役刑であるとも言える 。 司寇以下の身分に貶められた者は 、本人が労役に従事させられる他に 、 家族が没収されたり、家族の居住地が制限されたり、刑徒身分が子に継 承されたり、田宅支給の対象から除外されたりするといった不利益な処 遇を受けるが 、それらは 、刑徒の置かれた身分によって異なっており 、 このような差異によって司寇から城旦舂までの身分刑は段階づけられて いたと考えられる。また、身分刑を適用するには及ばない、或いは、隸 臣妾を城旦舂に加重するには及ばない軽微な犯罪行為に対しては、期限 付きで城旦舂刑徒と同様の労役に従事させる繋城旦舂が刑罰として当て られた。ただし、繋城旦舂自体は刑罰ではなく、貲刑や贖刑、公への債 務を金銭で返済することができない者が返済の代替として当てられるも のでもあった。   従来労役刑と見なされていた司寇以下を身分刑と捉え直すことで、本 稿冒頭で挙げた問題や疑問に対して解答することが可能となろう。始め

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三六 112 に瀬川敬也の指摘から。指摘の第一点に対しては、第一章で既に触れた ように繋城旦舂自体は刑罰ではないので 、この指摘自体が当たらない 。 第二点については瀬川の言う通りであって、司寇以下は労役刑ではなく 身分刑と性格付けるべきである。第三点に関連して、服役囚はなぜ城旦 舂などの労役名のみで示されるのかという疑問を提示しておいたが、こ の疑問ついては次のように説明することができる。即ち、司寇 ・ 隸臣妾 ・ 鬼薪白粲・城旦舂は労役名ではなく爵制的身分序列上の身分指標である のだから、例えば、黥城旦に処せられた服役囚を城旦と呼ぶことを、肉 刑名﹁黥﹂を省略し労役名﹁城旦﹂だけでその服役囚を示していると見 なすのは適切ではない。犯罪行為によって城旦舂身分に貶められた者を 城旦舂と呼ぶのは、公士の爵を保有する者を公士と呼ぶのと同じことで あって、要するに、その属する所の爵制的身分序列を示す身分指標を挙 げることでその序列に属する者を指しているのである。それ故、爵制的 身分序列上の位置を示す身分指標と直接関係しない肉刑名を身分指標と 共に示す必要はないのである、と。   次に、筆者自身が挙げた問題や疑問であるが、第一点と第三点につい ては、司寇・隸臣妾・鬼薪白粲・城旦舂すべてを身分刑と見なすことで 問題・疑問は解消する。第二点のうち、まず、文帝刑制改革での刑徒解 放規定がなぜ解放までの途中に過渡刑を設定するという形態を取ってい るのかという疑問に対して。冨谷至が言うように、刑役というものが実 体が無くなり、刑罰名称の符号化が進んでいたならば、解放までの間に 過渡刑を設定する意味は理解できない が、当初当てられた刑罰及び過渡 刑として設定される刑罰がいづれも身分刑で現実的な処遇に差異がある ならば 、城旦舂↓鬼薪白粲↓隸臣妾↓庶人という形で解放されるのは 、 刑徒の身分を最下級の城旦舂から庶人まで段階的に上昇させる身分回復 措置として説明することができるだろう 。また、なぜ﹃漢舊儀﹄では過 渡刑が設定されず直接的な刑期の規定になっているのかという点につい ては、二年律令に見えるような具体的な特権に裏打ちされた爵制的身分 序列 が、広範な民爵賜与によって崩壊していったことにその原因を求め ることができるように思う 。つまり 、爵制的身分序列の崩壊によって 、 刑徒の身分を城旦舂から庶人まで段階的に上昇させること自体が意味を 持たなくなったからではないだろうか。 ﹃漢舊儀﹄や﹃史記﹄ ﹃漢書﹄の 注釈が城旦舂以下を単に労役に従事させる刑罰として解したのも、これ らが書かれた段階で既に身分刑的要素が意味を持たなくなっていたこと を反映しているのではないだろうか。次いで第四点、奴婢に限って労役 刑に処すことなく主人に引き渡されるのはなぜかという疑問について は、爵制的身分序列と奴婢との関係から説明できそうである。第 20級徹 侯から第 -3級城旦舂に至る爵制的身分序列は 、戸籍に登録され 、且つ 、 逃亡罪として罪名確定されていない者、換言すれば、官の支配管理下に 置かれている人間を秩序づけるものと考えられる。それを示唆するのが 次の秦律である。 23  □捕    爰書 、男子甲縛詣男子丙 、辭曰甲故士五 ︵伍︶ 、居某里 、 迺四月中盜牛、去亡以命。丙坐賊人□命。自晝甲見丙陰市庸中、而 捕以來自出。甲毋 ︵無︶ 它坐。 睡虎地秦簡・封診式一七∼一八 ここには ﹁故士五 ︵伍︶ ﹂ と見える。故士伍の甲は牛を盗んで逃亡し ﹁命﹂ 、 即ち、罪名確定 されたのであるが、逮捕されて取り調べを受けている者 や盗みを働き逃亡して逮捕された者が共に士伍のままである ことから 、 甲は逃亡罪として罪名確定された結果、士伍ではなくなったので故士伍 を称したと考えられる。士伍は爵制的身分序列の第 0 級に当たるもので

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三七 秦漢時代の刑罰と爵制的身分序列 113 あるから、逃亡罪に罪名確定された者は爵制的身分序列から除外された ことになろう。逆に言うと、爵制的身分序列はあくまで官の支配管理下 にある者を秩序づけるものと考えられる 。奴婢は主人の財物であって 、 官の支配管理下にはないので爵制的身分序列の中には位置づけられず 、 それ故、奴婢が罪を犯しても肉刑に処するだけで主人に引き渡されるの ではないだろうか。   本稿冒頭に挙げた疑問や問題は、司寇以下の刑罰を、犯罪者の身分を 爵制的身分序列の中のマイナス等級に貶める身分刑と理解することで概 ね説明することができたように思うが、残る問題も多い。さらに、この 爵制的身分序列を基礎とする刑罰体系が何を契機としてどのように形成 され、文帝の刑制改革によってどのように変化し、そして、どのような 要因によって崩壊していったかという点も明らかにする必要があるだろ う。爾後の課題としたい。 ︻睡虎地秦簡・張家山漢簡のテキスト・注釈︼ 睡虎地秦墓竹簡整理小組﹃睡虎地秦墓竹簡﹄ ︵文物出版社   一九九〇︶ 張家山二四七号漢墓竹簡整理小組 ﹃張家山漢墓竹簡 ︹二四七号墓︺ ﹄︵文物 出版社   二〇〇一︶ 彭浩他主編 ﹃二年律令與奏讞書   張家山二四七號漢墓出土法律文献釋讀﹄ ︵上 海古籍出版社   二〇〇七︶ 冨 谷 至 編 ﹃ 江 陵 張 家 山 二 四 七 號 墓 出 土 漢 律 令 の 研 究 ﹄︵ 朋 友 書 店   二〇〇六︶ 専 修大学 ﹃二年律令﹄ 研究会 ﹁張家山漢簡 ﹃二年律令﹄ 訳注﹂ ︵一︶ ∼ ︵一〇︶   ︵﹃専修史学﹄三三∼四四   二〇〇三∼二〇〇八︶ なお 、釈文は原則として追い込みで記した 。また 、本文中では仮借字は本 字に改めた。 ①  冨谷至﹃秦漢刑罰制度の研究﹄ ︵同朋舎   一九九八︶ 。 ②  籾山明 ﹃中国古代訴訟制度の研究﹄ ︵京都大学学術出版会   二〇〇六︶ 第五章﹁秦漢刑罰史研究の現状

刑期をめぐる論争を中心に

﹂ 、 宮 宅潔 ﹁有期労役刑体系の形成

﹁二年律令﹂に見える漢初の労役刑を 手がかりにして

﹂︵ ﹃東方学報   京都﹄七八   二〇〇六︶ 。 ③  冨谷至前掲書八三頁。 ④  永田英正﹁睡虎地秦簡秦律に見る隸臣妾について﹂ ︵梅原郁編﹃前近代 中国の刑罰﹄京都大学人文科学研究所   一九九六︶も同様の疑問を呈す る︵六一頁︶ 。 ⑤  捕盜鑄錢及佐者死罪一人、 予爵一級。其欲以免除罪人者、 許之。捕一人、 免除死罪一人 、若城旦舂 、鬼薪白粲二人 、隸臣妾 、收人 、 司空三人以爲 庶人。其當刑未報者、勿刑。有︵又︶復告者一人身、毋有所與。 䵚 告吏、 吏捕得之、賞如律。 張家山漢簡・二年律令二〇四∼二〇五︵錢律︶   なお ﹁司空﹂を整理小組は 、罪人をつかさどる司空官で服役する刑徒と 解するが 、城旦舂 ・鬼薪白粲 ・隸臣妾 ・收人と併記されており 、本文後 掲二年律令九〇∼九二簡 ︵史料 20︶でも 、庶人以上 ・司寇 ・隸臣妾 ・收 人と並列されることから、ここは司寇の誤記と考えて間違いないだろう。 冨谷至編 ﹃江陵張家山二四七號墓出土漢律令の研究﹄譯註編   一三四頁 注⑤参照。 ⑥  文帝刑制改革を伝える﹃漢書﹄巻二三   刑法志の刑期設定の記事には、 テキストを巡る問題が存在するが 、籾山明が整理する ︵籾山明前掲書 二五〇∼二六〇頁︶ように 、張建国の説 ︵張建国 ﹁漢文帝改革相関問題 点試詮﹂ ﹃帝政時代的中国法﹄法律出版社   一九九九   所収︶が最も妥当 であると考える 。張建国説に拠れば 、文帝改制以降の刑徒解放規定は次 のようになる。    完城旦舂︵三年︶↓鬼薪白粲︵一年︶↓隸臣妾︵一年︶↓庶人    鬼薪白粲︵三年︶↓隸臣妾︵一年︶↓庶人    隸臣妾︵二年︶↓司寇︵一年︶↓庶人    作如司寇︵二年︶↓庶人 ⑦  衞宏﹃漢舊儀﹄

(17)

三八 114   秦制二十爵 。男子賜爵一級以上 、有罪以減 、年五十六免 。無爵爲士伍 、 年六十乃免者、有罪、各盡其刑。凡有罪、男 髡 鉗爲城旦。城旦者治城也。 女爲舂 。舂者治米也 。皆作五歳 。完四歳 、鬼薪三歳 。鬼薪者 、男當爲祠 祀鬼神 、伐山之薪蒸也 。女爲白粲者 、以爲祠祀擇米也 。皆作三歳 。罪爲 司寇 、司寇男備守 、女爲作如司寇 。皆作二歳 。男爲戍罰作 、女爲復作 。 皆一歳到三月。令曰、秦時爵大夫以上、令與亢禮。 ⑧  冨谷至前掲書一六〇頁。 ⑨  宮宅潔前掲﹁有期労役刑体系の形成﹂ 。 ⑩  冨谷至前掲書五二頁。 ⑪  宮宅潔前掲﹁有期労役刑体系の形成﹂四頁。 ⑫  人奴妾治 ︵笞︶子 、子以 死、 黥 顏 、 䛏 主 。︱相與鬪 、交傷 、 皆論 不 啋 ︵也︶ 。交論。 睡虎地秦簡・法律答問七四   奴婢毆庶人以上、黥 、 䛏 主。 張家山漢簡・二年律令三〇︵賊律︶   奴婢自訟不審、斬奴左止︵趾︶ 、黥婢 ︵顏︶ 、 䛏 其主。 張家山漢簡・二年律令一三五︵告律︶ ⑬  李均明﹁張家山漢簡所見刑罰等序及相関問題﹂ ︵﹃ 華学﹄六   二〇〇三︶ 一二八頁。 ⑭  次に挙げる指摘の第一点と第二点は ﹁秦代刑罰の再検討

いわゆる ﹁労役刑﹂ を中心に

﹂︵ ﹃鷹陵史学﹄ 二四   一九九八︶ 二三及び二九頁、 第三点は﹁秦漢時代の身体刑と労役刑

文帝刑制改革をはさんで

﹂ ︵﹃中国出土資料研究﹄七   二〇〇三︶八五頁参照。 ⑮  誣告人以死罪 、黥爲城旦舂 、它各反其罪 。告不審及有罪先自告 、各減 其罪一等 、死罪黥爲城旦舂 、黥爲 城旦舂罪完爲城旦舂 、完爲城旦舂罪 㽂 㽂 鬼薪白粲及府 ︵腐︶ 罪耐爲隸臣妾、 耐爲隸臣妾罪耐爲司寇、 司寇 ・ 䙴 ︵遷︶ 及黥 ︵顏︶ 罪贖耐 、贖耐罪罰金四兩 、贖死罪贖城旦舂 、贖城旦舂罪 贖斬 、贖斬罪贖黥 、贖黥罪贖耐 、耐罪 㽂 金四兩罪罰金二兩 、罰金二兩罪 罰金一兩。令・丞・令史或偏︵徧︶先自得之、相除。 張家山漢簡・二年律令一二六∼一三一︵告律︶   なお、 ﹁ 黥爲 城旦舂罪完爲城旦舂﹂の部分を整理小組は﹁城旦舂罪完爲城 旦舂﹂に作るが 、彭浩他主編 ﹃二年律令與奏讞書   張家山二四七號漢墓 出土法律文献釋讀﹄に従い﹁黥爲﹂の二文字を補った。 ⑯  労役名のみを称し肉刑を称さないことについて 、李均明は ﹁刑等﹂を 称するときとし 、例えば 、城旦舂という場合は完城旦舂から斬右趾城旦 舂までの範囲を指すという ︵李均明前掲 ﹁張家山漢簡所見刑罰等序及相 関問題﹂一二八頁︶ 。確かに各種城旦舂刑を一括して城旦舂と称したとい う可能性は否定できないが 、問題は刑徒を指す場合になぜ肉刑が明示さ れないのかという点であり 、李均明説はこれに対する答えにはなってい ない。 ⑰  秦代には城旦舂等に並ぶものとして候もあるが 、張家山漢簡 ・二年律 令には見えないことから 、考察の対象から除いた 。また 、二年律令には 隸臣妾と並んで收人が頻見されるが 、收人は自身の犯罪行為に対して当 てられる刑罰ではないので、これも考察の対象とはしなかった。 ⑱  例えば 、石岡浩 ﹁前漢初年の贖刑の特殊性

二種の無期労役刑を回 避する二種の贖刑

﹂︵ ﹃日本秦漢史学会会報﹄ 七  二〇〇六︶ は罰金刑 ・ 貲刑・贖刑についての相違を指摘する。 ⑲  冨谷至前掲書六七∼六八頁。 ⑳  孫英民﹁ ︽秦始皇陵西側趙背戸村秦刑徒墓︾質疑﹂ ︵﹃ 文物﹄一九八二︱ 一〇︶ 。   本文後掲睡虎地秦簡・秦律十八種一四五∼一四六簡︵史料 ︶ 。   ︵前略︶居貲贖責︵債︶欲代者、 耆弱相當、 許之。作務及賈而負責︵債︶ 者 、不得代 。一室二人以上居貲贖責 ︵債︶而莫見其室者 、出其一人 、令 相爲兼居之 。居貲贖責 ︵債︶者 、或欲籍 ︵藉︶人與并居之 、許之 、毋除 䌛 ︵徭︶戍。 ︵以下略︶ 睡虎地秦簡・秦律十八種一三三∼一四〇︵司空律︶   居貲贖責︵債︶者歸田農、種時、治苗時各二旬。   司空 睡虎地秦簡・秦律十八種一四四︵司空律︶   始皇陵秦俑坑考古発掘隊 ﹁秦始皇陵西側趙背戸村秦刑徒墓﹂ ︵﹃文物﹄ 一九八二︱三︶ 。   當耐爲隸臣、以司寇誣人、可︵何︶論。當耐爲隸臣、有︵又︶ ︵繋︶ 城旦六歳。 睡虎地秦簡・法律答問一一八   高敏 ﹁関於 ︽秦律︾中的 ﹁隸臣妾﹂問題質疑

読 ︽睡虎地秦簡︾札 記兼与高恒商榷

﹂︵一九七九。後、 ﹃睡虎地秦簡初探﹄ ︹万巻楼図書有

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