物忘れのはじまりのはじまり
山
崎
恒
夫
医師になって 30年. 紆余曲折を経て, 専門医として認 知症の患者さんに接する日々を送ることとなりました. 物忘れ外来 の看板を掲げて診療をしていますと, 大変 興味深いことに気付かされます. 看板をみて私のところ を訪れてくれる患者さんの半数近くが, 実は認知症では なく, 認知症になることを心配 して受診する方々なの です. こうした患者さんの多くは一人暮らしであったり, 配偶者が病弱であったりと, 生活基盤に不安のある方々 です. 人の名前が出てこない」は代表的な主訴で, 自 に認知症が始まっているのではないかという不安のなか で毎日を過ごされています. 自 に認知症が始まっているのではないかという不安 は, ある程度の年齢になるとほとんどの人が感じるもの とされています. 30歳をこえるとおよそ 8割の人が自 の記憶に不安を覚える, という新聞記事を以前読んだこ とがあります. では, 本当のところ, 認知症の始まりはど のようなものなのでしょうか? 実はこの問 (とい) は 認知症が心配 な方々だけではなく, 最近の認知症研究 の大きなテーマでもあります. 通常, 物忘れには生理的な物忘れと病的な物忘れがあ るといわれます. 前者は年齢にともなうもので良性, 後 者は認知症であり悪性といったイメージでしょうか. こ の え方は私も正しいと思いますが, どうも専門家の抱 くイメージと, 一般の方の抱くイメージとに乖離がある 気がします. たとえていうならば, 物忘れ山という山が あったとして, その麓に 生理的 というトンネルの入 り口と, 病的 というトンネルの入り口が 2つあって, それぞれのトンネルは独立した別物というイメージを一 般の方は描いている気がします. 一方, 専門家はトンネ ルの入り口は 1つで, トンネル内を進む中にいつの間に か道が 2つにわかれて行くというイメージをもっていま す. つまり, 入り口はひとつでも, 出口は 2つということ です. 問題はトンネル内部の 岐点はどのようなものな のか? 病的 な方へ進まずに済む方法はあるのか? 将来病的な方へと進む人達を早い段階から予見できるの か? といったことでしょう. 実は最近の研究で, 将来認知症に進む可能性の高い 非 認知症の方々が確かにいることがわかってきまし た. 軽度認知機能障害 (MCI) と命名されています. MCI の人達は詳しい心理検査をすると正常ではありません. しかし, 現在の認知症の基準にあてはまらない人達, つ まり認知症の予備軍です. 予備 ですので, MCI の人達 が必ず認知症になるわけではありません. ずっと MCI のままの人もいると えられています. こうして認知症に至る初期の道のりは少しずつわかっ てきましたが, まだまだ科学的データが不足しています. そこで, 代表的認知症疾患であるアルツハイマー病 (AD) の, 病初期 を探る研究が世界規模で始まりまし た.ADNI (Alzheimer disease neuroimaging initiative)と 申します.私はこの研究の日本版である,J-ADNI 研究の 立ち上げに参加する機会をもちましたので, 以下にその 概要をお知らせすることといたします. ADNI は 2005年にまず米国で開始されました. その 要旨は,高齢 常者,MCI,初期 AD を対象として,2-3年 間の観察研究を行うというものです. 被検者はこの期間 内に,詳細な神経心理検査,血液生化学検査,MRI を始め とした画像検査などを定期的に受けます. そして最終的 177 Kitakanto Med J 2013;63:177∼178 1 群馬県前橋市昭和町3-39-22 群馬大学大学院保 学研究科リハビリテーション学講座 平成25年2月14日 受付 論文別刷請求先 〒371-8514 群馬県前橋市昭和町3-39-22 群馬大学大学院保 学研究科リハビリテーション学講座 山崎恒夫(研究終了時) に, 正常な, あるいは MCI の方々の内, ど のくらいの方々が AD になっていくのか (conversionと 称します), その人達の検査上の特徴は何なのかを突き止 めることが目的です. ADNI で行われる多くの検査の中で, 特に注目すべき ものはアミロイド PET と髄液中の βアミロイド (Aβ) ならびにリン酸化タウの測定です. アルツハイマー病の 脳病理の中核は老人斑と神経原線維変化の出現で, 前者 の中心は Aβの沈着であり, 後者はリン酸化タウの沈着 です. こうした病理学的変化は, 認知症を臨床的に発症 する前から脳に認められ, 驚くことに Aβの沈着は約 20 年, タウの沈着は約 10年先行すると えられています. つまり, 70歳で AD を発症する人は, 50歳頃から脳に変 化が出始めるということです. したがって, こうした脳 の病理学的変化を鋭敏に見いだすことが, 最初期の患者 を見つけだすことにつながるわけですが, 解剖という壁 がある以上検査としては成り立ちません. しかも, 以上 の理屈はあくまで推論であって, 厳密に実証されている わけではありませんでした. 今回施行されたアミロイド PET は, PET 技術をもちいて, 生前に Aβの脳内沈着を 検出しようとする試みであり, 上記の髄液検査も同じ意 味合いをもちます. つまり, 生前に脳の病理学的変化を 捉えうる検査を縦断的観察研究に取り入れることにした のです. ADNI の日本版である J-ADNI は現在も継続中です が, 米国では 2010年に終了し, 結果が 表されています. それによりますと, MCI から AD への convert率は初年 度 16.0%, 第 2年度 23.9%, 第 3年度 9.1%とのことです. つまり予備軍の内おおよそ 1∼2割が毎年認知症になっ て行くわけです.またアミロイド PET による conversion の予測については, MCI では陽性群の 45%, 陰性群の 16.7%が AD に convertしたことから, アミロイド PET の高い予測能が示されました. 同様に, 髄液中の βアミ ロイド (Aβ) ならびにリン酸化タウの測定も高い予想能 をもつことが示されました. こうして, MCI でかつこれ らの検査に異常のある人は, 高い確率で AD になること が立証されました. 以上のように AD の超早期診断の可能性はみえてき ました. 今後は, こうして診断した非常に初期の方々を 対象とした新薬の治験が計画されていくものと思われま す. しかしまだまだ認知症の治療法確立への道は, 日暮 れて道遠し の感があります.薬に頼るだけでなく,安心 して年が取れる, そして安心してボケられる社会の構築 も重要な課題だと えています. 物忘れのはじまりのはじまり 178