農作業視覚情報行動を分析する試み
松原仁 ( はこだて未来大,慶應義塾大 ) ,
神成淳司,福田亮子 ( 慶応義塾大 )
1 . は じ め に
今春、閣議決定された「食料・農業・農村基本計画」(平成22年3月30日)には、「熟 練農家の暗黙知であるノウハウを、農業者等が活用可能な形に置き換える世界最先端のA I(Agri-Informatics アグリインフォマティクス)システムを開発し、提供する体制を整 備する」ことが明記されている。「また、ほぼ時を同じくして、内閣府の「高度情報通信ネ ットワーク社会推進戦略本部(IT戦略本部)」が決定した「新たな情報通信技術戦略」(平 成22年5月22日)でも、「新規参入者等が熟練農家のノウハウを活用するためのシステム の開発・整備等を推進する」という方針が示された。そのような流れの中で今年度から農 林水産省の「農家の作業技術の数値化およびデータマイニング手法の研究開発」(研究代表 南石晃明九州大学教授)という5年間のプロジェクトが始まっている。われわれはこのプ ロジェクトの中で「農作業視覚情報行動分析手法および意思決定支援のためのデータマイ ニング基盤技術の研究開発」というテーマで研究に従事し始めたところである。ここでは その中の農作業の視覚情報行動を分析する試みについて述べる。
2 . A I 農 業 が 生 ま れ た 背 景 と 経 緯
日本の農業は、カロリー量で積算した単位面積あたりの生産性が米国の約9倍と世界最 高水準であり(図1参照)、品質の高さも世界有数であることが知られている。この優れた 生産性と高品質性は、長年の農業経験を持つ熟練農家の知見により実現されている。実際、
「水やり10年」と言われるように、農業分野で高い生産性を実現するには長期間の経験が 必要である。狭い国土と高い人件費・生活コスト等の課題を持つ日本の農業は、この高い 生産性が実現できなければ、農業単独で生計を立てていくことが難しいため、個々の農家 の高度な熟練が必然的に求められたともいえる。筆者らは、AI農業の研究のために、日頃 国内の様々な熟練農家と密に連携し、様々なお話や技能を実際に見聞きしているが、果樹 の剪定一つにしても、木の特性や状態にあわせた極めて多様な工夫が存在することに加え、 気温などの数多くの外部環境の条件に応じた判断が暗黙のうちに行われていることに、常 に驚嘆の念を禁じえない。
しかしながら、このような日本の高度な農業を支えてきた熟練農家は、国内の農業従事 者の急速な高齢化と後継者不足に直面している。世代別に農業就業人口を比較すると、2007
図1 農業生産性(カロリーベース)の比較
図2 基幹的農業従事者の年齢構成
年時点で75歳以上が最も構成比が高い状況にあり(図2参照)、今後10年以内には、その 多くが引退し、農業就業人口の大幅な減少と、国内食糧自給率のさらなる低下が予想され る。
熟練農家の技能が、日本の農業分野の特徴である作物の高い生産性を支えてきたことは
既に農林水産省を始め、各地の農業団体において広く認識され、その判断技能の継承と普 及が課題として指摘されてきた。2008 年度には、農林水産省は、「現場創造型技術(匠の 技)活用・普及支援事業」(以下、「匠の技事業」)を実施し、28 人の熟練農家を「農業技 術の匠」として認定し、その判断技能の継承普及のために「判断技能のマニュアル化」を 実施するなど、技能継承に向けて様々な取り組みが行われてきた。
また、その流れを受け、情報科学的な観点から2009年度に農林水産省は、「農業分野に おける情報科学の活用に係る研究会」を新たに設置し、そこでAI(Agri-Informatics)農業 の概念を打ち出した。神成は、本研究会に委員として参加し、この概念を主唱したことに 加え、農林水産省と共に、研究促進と普及啓発を進めている。
3 . A I 農 業 の コ ン セ プ ト と そ の 概 要
新規就農者と熟練農家の違いは、圃場や栽培作物から得た情報に基づき、その時点に行 うべき農作業の「判断」の適切さの違いにある。農業分野において実施するべき「作業」 は、作物毎に種まきから収穫までの一通りの過程を一定期間経験することで覚えることが 可能である。ただし、現時点での圃場や作物の状況に応じ、どのような作業を実施するの かを「判断」することは、新規就農者には難しい。その点が生産性の違いとして表出する のである。
AI農業は、この「判断」に着目し、最新の情報科学的アプローチを用いて熟練農家の「 判断」の継承を支援することを目的とした新しい農業である。
具体的には、熟練農家の作業、作物の状態、圃場の環境状態の3つを入力情報とし、デー タマイニングの手法を用いて因果・相関性を分析し、これをシステムのデータベースに蓄積 する。システムは、非熟練者の圃場における作物の状態、環境状態のデータを分析し、意思 決定支援システムからアドバイスを出力することで、非熟練者への農業行為の支援を行うも のである(図3参照)。
図3 AI農業の概念
デー タ マ イ ニン グ ( 分析)
作物
作物人
人環境
環境各要素の因果・ 相関性分析による
「判断」の抽出
各要素の因果・
相関性分析によ る
「 判断」 の抽出
熟練農家の 農業行為
熟練農家の
農業行為
作物の状態(糖度、酸度、水分量など)
作物の状態
(糖度、酸度、水分量など)
圃場の環境状態
(温度、湿度、土中環境など)
圃場の環境状態
(温度、湿度、土中環境など)
非熟練農家への 意思決定支援
非熟練農家への
意思決定支援
セン シ ン グ ( 入力) 意思決定支援( 出力)
従来の技能の継承では、農家の「判断」のマニュアル化を進めようとした。それに対し、 AI農業が目指しているのは、農家の「判断」の抽出とモデル化である。「判断」モデルは、 過去の多数の農家の「判断」処理を集積したもので、入力情報に基づき、確からしいと想 定される農作業リストを出力とする。「判断」モデルは、農家の意思決定支援としての活用 が期待されるもので、農業の自動化やマニュアル化を促し、農家の単純労働化を目指すも のではない。むしろ、農家の熟練を促進するものである。
もちろん、AI農業の先端の研究成果を用いるだけで即座に熟練した農家と同じレベルに 到達できるというわけではない。熟練した農家の「判断」は極めて複雑なものであり、コ ンピュータが今後さらに進歩したとしても、全てを解明し、意思決定支援に実装すること は不可能であろう。ただし、そうした「判断」のごく一部だけでも非熟練農家の支援に活 用することができれば、非熟練農家が誤った判断をする機会は大幅に低減できる。また、 自然からの影響を無視するというのではなく、自然の恩恵を最大限受け入れつつ、悪影響 となりそうな部分だけ排除するといった方向へとシフトできる。
また、AI農業の成果は、熟練した農家を不要にするというものではない。従来は10年、 20年の経験が必要とされた、熟練した農家になるための最初の過程を短縮することが狙い である。このことで、新規就農者は早期に安定的な収入を得ることが可能となる。多くの 農家が抱える後継者問題への有効な解決策にもつながる。また、熟練した農家自身にとっ ても、自分たちの「判断」の基準を客観的にとらえるきっかけとなり、さらなる技能の向 上に活用することも可能である。そして、熟練した農家の「判断」を広く流通させること で、農業分野全体の活性化を促すことが期待できる。
4 . A I 農 業 の 確 立 に 向 け て 必 要 と な る 研 究 上 の 取 り 組 み
AI農業は、現在まさに研究の途上にあり、新たに以下の取り組みが必要とされる。 第一に、作物の生育への人間行為からの影響と、自然環境からの影響との分離である。 農業分野における作物の生育環境は、自然環境の中でそのまま栽培を実施する露地栽培と、 ビニールハウス等の施設を用いる施設栽培とに大きく分類される。不特定の環境要素が必 然的に影響し合い常に環境が変化する露地栽培では、原則として、データを取得する際の 環境の同一性が求められない。そのため、研究の初期段階においては、取得した作物の生 育状況データから、人間行為からの影響を抽出することは非常に困難である。そのため施 設栽培を初期の実験環境として用いることが妥当であると考えられている。
第二に、圃場における農家の行動観察に関する取り組みである。圃場における人間の行 動記録には、人間拘束的な手法と、非拘束的な手法がある。拘束的な手法とは、作業者が 何らかの機材を装着し、その機材に装着されたセンサを利用して,その農家自身の作業を センシングするものである。例えば、ウェアラブルコンピュータを用いた研究開発の一環 として、圃場内に設置したバーコードリーダに、各農家がリストバンドに取り付けたバー コードを読み込ませるものなどが提案されている。しかしながら、この手法には熟練農家 が 暗 黙 的 に 行 っ て い る 非 意 図 的 行 為 の 抽 出 に 限 界 が あ る 。 筆 者 ら の こ れ ま で の 研 究 で は 、
「判断」の根拠となる情報は、熟練農家の方が無意識に意図せず行っている行為に存在す ることが多く、例えば「米が私に水を欲しいと訴えている」というように、自分自身の感
覚から得た情報を基に、「判断」を行っていることが分かっている。この過程は、長年の農 作業経験に基づき個々の農家が培ってきたもので、農家自身がどのような情報を基に「判 断」を行っているかを明示することは非常に困難であることが予想される。そこで、圃場 における農家の行動を非拘束的、すなわち客観的に観察することで、熟練農家独自の入力 内容を推測しようとする。既に、行動科学等の分野において、施設内の空間データセンシ ングに関する取り組みが進められており、これらの研究成果の適用が期待される。
第三に、栽培作物情報の連続取得に関する取り組みである。既存の取り組みでは、連続 した情報取得が困難な破壊型検査が主流を占めていた。例えば果樹の糖度、酸度、硬度な どの情報は、果実内水分の化学反応結果から得ており、そのためには果樹の破壊を伴う人 為的作業が必要とされていた。この手法では、計測の度に作物が損傷するため実施回数に 限界があるという点と、人為的作業を伴うために計測誤差が生じやすいという点が課題で あった。また、数少ない非破壊型の情報取得手法として茎径の計測があげられるが、この 場合には茎に計測用具を装着するため、その部分の茎が変形するといった物理的な影響が あることが指摘されている。連続計測のためには、非破壊型・非接触型の情報取得手法の 確立が必要とされる。前項で示した、農家の行動観察から推測される入力項目のいくつか は、栽培作物情報であることが予測されており、「判断」モデルの重要な要素となると考え られる。既に、非破壊型硬度計を始めとしたいくつかの取り組みが進められているが、さ らなる取り組みの促進が求められている。
5 . 今 後 の A I農 業 の 研 究 開 発 ・ 普 及 に 向 け て
AI農業に関する取り組みは始まったばかりである。前述の「食料・農業・農村基本計画」 は、情勢変化等を踏まえ、概ね5年ごとに改変される。まずは、2010年に同計画に記載さ れた AI 農業の内容に基づき、今後 5 年間でどの程度の成果を供出するかが注目されている。 この成果供出を目的として、2010年 4月にAI農業に関する研究開発の進展普及啓発を図 る、産官学連携のアグリプラットフォームコンソーシアムが立ち上げられた。コンソーシ アムは、慶應義塾が事務局となり、複数の民間企業が参画すると共に、公的機関として農 林水産省と経済産業省が加わり、生産現場から物流・小売までを一環として取り扱う予定 である。さらにこれらの動きを受け、自治体や周辺産業分野の企業との連携が各地で進め られている。
これら国内の動きに加え、海外の動きも活発化している。作物栽培研究で世界的にも先 端的な取り組みを進めるオランダやイスラエルでは、熟練農家の知見継承を進めるための 人材教育や栽培設備の高度化が検討されている。また、発展途上国を中心に、人口増加に 伴う食糧不足への対応方策の一環として、国内生産の歩留まり率や生産性向上を図るため に、日本の熟練農家の知見を導入しようという動きが活発化している。既にいくつかの作 物に関しては、熟練農家の海外移住という形で技術流出が進んでおり、今後この傾向がさ らに強まっていくことが懸念される。ただし、熟練農家の人数は限られており、高齢化も 進んでいるため、移住先となる海外での技術普及が円滑に進まない状況も発生しており、 AI農業の研究成果適用を期待する声も大きい。
冒頭に説明したとおり、国内農業分野の高齢化傾向は甚だしく、引退による熟練農家数
の減少傾向も次第に強まりつつあることから、AI農業研究の早期進展が求められる。国連 によれば、今後、全世界の人口は、2050年に現在のおよそ1.4倍程度となる90億前後へ と爆発的に増加する。その一方で、全世界の農業用地面積はむしろ減少傾向にある。発展 途上国の経済状況改善効果も併せ、今後 10年、20年以内には全世界的に食糧危機が到来 することが懸念されている。世界的にも優れた日本の農業生産性の普及、伝播は、限られ た圃場を最大限に活用することを可能とすることから、この食糧危機への有用な対処とな ることが期待されている。
6 . 農 作 業 視 覚 情 報 行 動 の 取 得 と 分 析
このような背景を踏まえて農作業視覚情報行動の分析手法の研究を開始した。トマトの 高軒高ハウス栽培で「農業技術の匠」に認定された栃木県の大山寛氏に全面的に協力して もらっている。具体的にはナックイメージテクノロジー社のアイマークレコーダ― EMR-9 を大山氏が装着した状態で農作業をしてもらって彼の視覚情報のデータを収集する。同時 に農場の基本データ(温度、湿度など)を記録しステレオカメラで彼の行動を含む農場の 状態を記録している。適宜彼に行動に関するインタビューを実施している。これらのデー タを突き合わせて分析することによって大山氏の「農業技術の匠」の技を明示化すること を目的としている。他の農家のデータも取得して大山氏とどこが同じでどこが違うかを比 較する予定であるが、いまは研究を開始したばかりなのでできるだけ多く大山氏および彼 の農場のデータを取得することを第一としている。
前述したように、農作業に従事している人、特に匠の人は本人が無意識のうちに作業を 行なっていることが多いと思われる。その情報は本人が意識していないので、単にインタ ビューするだけでは表に引き出すことができない。視線の動きは無意識の行動を反映して いるので、その記録の動画を本人に見てもらってインタビューをすれば無意識の行動につ いても大きなヒントが得られるものと期待している。
7 . お わ り に
農作業視覚情報行動の分析を目指してデータを精力的に取得している。ある程度取得を したら本人および専門家の協力を得て視覚情報行動を分節して行動のラベル化を行ない、 熟達者と非熟達者の間でラベル化された行動にどのような違いがあるか分析することによ って農作業における明示化されたノウハウを得られるものと期待している。
参 考 文 献
神成淳司:農業情報学,情報処理学会誌,2010年6月号
松原仁,神成淳司: from toy "real problem" to real "real problem “‐ 社会におけるAI 研究会の挑戦―,人工知能学会2010年全国大会