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Eurogames9 最近の更新履歴 ボードゲーム読書会@高田馬場

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Academic year: 2018

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9. An Act Apart?

(注:An Act Apart: ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」の基本概念。日本語訳ではフレーズとの一対一の訳ではなく、「(現実から)切 り離され、それだけで完結しているある行為」と、説明的な訳が行われている。ちなみにマジックサークルの訳は「魔術の円陣」)

前章では、「ゲームをする出会い」の絆を、ゲームの規定された目的より優先させることについて見てきた。 そこではとりわけ「フェアプレー」の感覚が重視されていた。

社会的コンテクストの重要性についてさらに探るため、ゲーム内の諸々 - チート、お節介、嘘、キングメーカー、についてのアンケ ートを実施した。

この調査への回答により、現実世界とゲーム世界の分離を維持することにプレイヤーが重点を置いていることが明らかになった。 また、明示されたゲームのルールセットは、実際のゲームにおけるフレームワークとして機能することも明らかになった。

■チート

ボードゲームは、人工的な制約に縛られることについてプレイヤー全員が自発的に同意することを前提として機能する。 この要請を反映し、94%がチート行為に強い不快を覚えると回答した。

これはシングルプレイのコンピューターゲームとは大いに異なる。コンピューターゲームでは、チートの対象がプレイヤーではなくゲ ームである場合には(≒「シングルプレイの場合」)チートへの態度はプレイヤーにより様々だ。

また、調査への回答からもう一つ言えることとして、チートというのはプロセスよりも結果を特別視することの証拠とみなされている。

「チーターはゲームが好きなんじゃなくて、勝つのが好きなだけだ(調査の回答より)」

勝つことがゲームプレー自体よりも価値があるものだということになると、現実世界(の感情)が関係してくることでゲームのプレイ を崩壊させることにもつながってしまう。この懸念は他のトピックにも共通している。

■An Act Apart

容認できない振る舞いについての設問で、(チートを除いて)もっとも多く見られたのは、現実世界とゲーム中の手管を切り離せない 人々への懸念(とりわけ、ゲーム中の活動で本当にプレイヤーの気が沈んだりすること)だった。ここでも問題になっているのは、結 果を大きく取りすぎることであり、「勝つ」ということの価値をゲームプレイという人為から切り離せないことだ。

何人もの回答者が、個人攻撃や罵りや人の不幸にご満悦といったもろもろを、ゲーム中のふるまいから現実世界における感情と切り離 せないことの証拠として挙げている。この種のことは、現実世界における不和とか忠義とかがプレーのコンテクストに持ち込まれると いった形をとる場合には(ボーイフレンドと同盟を組むとか、チョコレートをくれなかった相手を攻撃するとか)、特に不適切なもの とみなされる。

ホビイストはこういう現実世界からの不適切な侵略行為を「メタゲーム」という言葉で表現しがちだが、後で見るように、メタゲーム にはもっと無害な形のものが存在する。

ここでのホビイストの回答は、ゲームのプレーはホイジンガの言う「Act Apart」であるべきだという理解を反映している。

「ゲームが終わったら、その結果は現実世界の何にも反映されないこと。その限りにおいて、ゲーム内ではルールで認められたすべて が許される」

このメタルールを理解しないものはプレー体験を崩壊させる、というわけだ。

しかし、ボードゲームが社会的コンテクストの中でプレイされるという事実は、この Act Apart な体験をプレイヤー間のコミュニケー ションから切り離すことを著しく難しくする。「ある種の愚痴は戦術だが、過剰な愚痴は体験を崩壊させる」。ゲーム中の状況に関して 不平を言うことを問題視するプレイヤーがいる一方、別のプレイヤーにとってはそれは「ゲームをする出会い」において予期されたも のでしかない。後者のプレイヤーにとって、コミュニケーションを通じて他のプレイヤーを微妙に操作するのは、単なるプレーの副作

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用ではなく、社交的ゲームプレーの土台を為すものだ。この種のプレーも「メタゲーム」と呼ばれるが、これに対してはプレイヤーご とに様々な態度がある。

■メタゲームを遊ぶ

Richard Garfield は、メタゲームを「ゲームが自分自身の外側とインターフェースする方法」として言及し、プレイヤーがゲームに持 ち込むもの、プレイヤーがゲームから持ち帰るものプレイヤーがゲームとゲームの間で行うこと、プレイヤーがゲーム中に行うこと、 の 4 種類に分けている。

この定義にしたがえば、プレー体験の前に行われるあらゆることがメタゲームになる。これまで見た通り、怨恨やら共謀が明白である ような社交的関係におけるこの種のメタゲームは、ゲーマーからははっきりと忌避される。また、全体の順位への反映があるようなト ーナメントの枠組でプレーされているのでないかぎり、今やっているゲームは前やったゲームの結果と切り離すことが期待される。理 想的には、社交的関係をゲームのテーブルに持ち込むべきではないし、ゲームの結果を現実世界の関係性に持ち込むべきではない。一 方で、ゲームとゲームの間で行われている活動という観点から言うと、ホビーゲーム文化はメタゲームであふれている。ガーフィール ドが言うように、ホビーゲームと他の種類のゲームを分けるものは、このホビーへ参加することで持ち掛けられる、魅力的なメタゲー ムの存在なのだ。

さて、著者がここで主に取り上げたいのは、ガーフィールドの4種類のメタゲームのうちまだ取り上げていない最後のひとつ、「ゲー ム中に起きるメタゲーム」である。

競争的なゲーム環境では眉を顰められたり禁止されたりするが、社交的なゲームの場においてはテーブルトークはごく普通のことだ。 しかしこのテーブルトークの存在というのは、その目的がゲームの結果を動かすことを意図したものである場合には、ややこしい話に なる。この種の活動は、広く「お節介 Kibitzing」と呼ばれる。

■お節介と嘘

伝統的には、「お節介焼き」というのはプレイヤーに対して外野が要らんアドバイスをすることだ。だがここでは、プレイヤーがゲー ムの状況や他のプレイヤーの手に対してコメントを入れること、として定義する。ある種のプレイヤーにとっては、テーブルトークや お節介はゲーム内の意思決定の自律という想定を妨げるもので、問題になりうるものだ。ほかのプレイヤーにとっては、この種のコミ ュニケーション要素はゲームのプレーに不可欠な(fundemental)ものだ。テーブルトークやお節介の許容性については、プレイヤーご とに想定が全く異なっている。ある立場では、これは社会的コンテクストがゲーム世界の純潔を汚している現場だ。別の立場では、ゲ ーム世界に精通するというのは当然にこの種の社交的操作を含むものだ。

この立場の違いは、相手をミスリードすることが正当なこととみなされるか否か、という設問でより多様になる。

設問へ回答を記したのは全体の 38%。そのうち 88%が、ミスリードがありかなしかはプレイしているゲームによって変わる、として いる。このほとんどが、交渉物のゲームではその種のミスリードが推奨されるものとみなしている。

また、特筆すべきこととして、10%のプレイヤーが、グループのほかのプレイヤー次第でありかなしか判断する、としている。教えて いるときとか年少のプレイヤーと遊ぶ時には不適切、としているプレイヤーもいれば、他のプレイヤーとの関係の親密さによって決ま るとするプレイヤーもいる。

このコンテクスト依存性と回答の多様性から言えるのは、プレイヤーはしばしば、個々人ごとに暗黙のルールセットが異なるような「ゲ ームをする出会い」に入ることがある、ということだ。当然、長い間同じ仲間でプレーを続ければ、メタゲームの度合いについて理解 を共有できる、ということでもあるだろう。

メタゲームへの態度の多様性を強調する方法として、「特定のコンテクストに影響されうる意思決定が強制される」状況を分析すると いうものがある。キングメーカー問題はまさにそのような状況だ。

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■キングメーキング

キングメーカー問題は BGG で最もよく議論されている問題で、これは「何をするのが正しいか」が人によって違うからだろう。 7.5%のプレイヤーが、キングメーカー問題はゲームデザインの弱点・失敗だと解釈しているが、それはともかく、この問題で興味深い のは、以下の対立だ。

30%のプレイヤーが、キングメーキングはゲームにネガティブな影響を持ち、しばしば問題になる、としている。

その一方、ほぼ同じ割合のプレイヤーが、キングメーキングはマルチゲームにおいて本来的に存在する要素だ、としている。 後者のプレイヤーは、キングメーキングを、ゲームのプレーに必要な心理学的スキルだとしている。また、その多くが、他のプレイヤ ーをキングに選ぶ際は、ゲーム外の要素に左右されるべきではないとしている。

ここでは明らかに Act Apart が重視されているわけだが、しかし、ゲームでどう行動を行うかという点については、まだ対立がある。 つまり、ゲーム中の行動に対してゲーム中で「怨恨」を抱き、同じゲーム中にその「怨恨」を晴らす形の行動をとるのがありかなしか、 という話だ。

あるプレイヤーにとっては、これは不適切だ。この種のプレイヤーは、キングメーカー的な状況にさらされた場合、その状況になるべ く干渉しない行動をとるべきだとする。これは、自分自身を他のプレイヤーからは独立した存在だとみなしていることであり、ゲーム はゲームシステムを巧く操作するものであってより抽象的かつ合理的な観点から捉えられるべきだという考えに由来する。

他方に、心理学を中心的要素に据えるプレイヤーがいる。キングメーカー的状況でどんな行動を取るかはそれまでの行動による印象の 結果であり、そこまで責任を取ってこそのゲームだ、という考え方だ。さてこれは、片方のプレイヤーはメタゲームをプレイし、もう 片方のプレイヤーはメタゲームをプレイしない、ということなのか?

■プレーしないわけにはいかない

メタゲームのないゲームというのは、物理学における理想的物体のようなもので、有用な概念にはなりうるが実際には存在しない。by Richard Garfield

メタゲームの否定自体がそもそもメタゲーム的動きである。カオスや複雑性の減少のためメタゲームを無視することを選好する、とい うのはあるだろうが、それはメタゲームが無くなるということではないのだ。

他のプレイヤーの思考を組み上げて正しく評価することは社交的ボードゲームのプレイの中心的課題であり、ということは相手のこと を読み、振る舞いを予想し、おせっかいや嘘や「戦術的愚痴」を通じてでも相手を操作することもゲームの一部とみなすべきであろう。 これは、ボードゲームのプレイヤーならプレイしないわけにはいかないゲームなのだ。

難しいのは、何が心理学的プレイで何がアンフェアかということについてプレイヤー間に衝突がある場合だ。これはつまり、ルールと いうのは通常、必要な心理学的スキルについて記載しないためだ。ある種のプレイヤーにとっては、そのプレイヤーの認知するところ のゲームのパターンに熟達することが肝要であり、別のプレイヤーにとっては観察や心理学的プレイを通じて他のプレイヤーのことに 精通するのが肝要となる。この研究が示すのは、社交的インタラクションと知的刺激の「両方が」ユーロゲームの楽しみに最も大きく 寄与するものだ、ということだ。そのうち、知的刺激のほうはゲームのルールで明示される。心理学的プレイのほうはそうではない。 心理学的プレイの暗黙的ルールが決して明文化されないという事実が意味するのは、プレイヤーがそれぞれゲームに対して自分自身の 期待を持ってくるということだ。ゲームをスムーズに進めるためには、この期待たちを当該「ゲームをする出会い」のより広いフレー ムワークの中でマネージしなければならない、ということになる。これはそのゲームを形作る折衝のプロセスから生まれる構造であり、 従って個々のゲームの性質はそれが行われる社交的コンテクストに大きく依存するということになる。

■ゲームの社交的構造

プレイヤーは個々に規範的制約を持っている。概ね、プレイヤー達は協力してゲーム世界を作り上げ、社交的コンテクストからの区別 を課していく。重要なこととして、「本物の」社交的コンテクストの維持がどうしても必要になる。プレイのコンテクストの外側にこ ぼれ出うるような振る舞いは脆いプレイ環境を脅かすものだから、自己規制と社交的自覚が、ゲームプレイの維持に必要となる。

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プレイヤーの多くは社交的インタラクションがプレイの主要な理由であるということに合意してはいるものの、何がインタラクション を形成すべきかについての理解は様々だ。ここにいたって、何故これほど多くのプレイヤーが定期的にゲームを遊ぶ集団(REGULAR GROUP)を形成するか、理由が明らかになる。形成したゲームグループにおけるコミュニケーションのパターンに慣れるほどに、事故 は起きづらくなり、この社交的構造をゲームの一部としてプレイする機会が増えていく。アウトサイダーがこのグループに入った場合、 元々の社交的構造は新しいプレイヤーの想定に合わせて再調整しなければならなくなる。

社交的ゲームのプレイは、(戦略的な競争というものが指し示す、整然とした合理性の装いを維持しようとしながらも)複雑に張り巡 らされた対人関係とメタコミュニケーションの行動および振る舞いをもたらすもので、これにはプレイヤーが常に注意を払い続けるこ とが必要となる。ゲームの箱とその中に入っているものの中に関心が行きがちだが、これは全体の絵の半分でしかない。ゲームを作っ ているのは、「ゲームをする出会い」のコンテクストの中で行動するプレイヤー達だからだ。ゴフマンをもう一度繰り返せば、「ゲーム は状況を定義はするが、その状況から生きた経験をもたらすものではない」。それはプレイヤーの仕事であり喜びなのだ。

【終章 Conclusion は、これまでの各章の要約なので省略】

参照

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