− − − − 昆明の街並み
雲南は、中国の地図で見ると、西南の片隅にあ り、タイ、ビルマと隣接している。とはいえ、省 の政府がある昆明の街は、堂々としているととも に、中国の一般的な大都会と共通してビルが並ぶ 風景であり、必ずしも辺境の都市などという印象 を与えるものではない。かつては、西南中国に多 い木造、瓦屋根の家屋が見られたはずだが、現在 では、都市開発が進んでしまっている。
それでも、昆明は特色のある観光都市である。 とくに、市街にも近い滇てん池ちは風光明媚な名所であ り、市民に憩いの場所を提供している。雲南の料 理は、四川ともつながりがあるが、「麻辣」つまり、 山椒と唐辛子の辛さを基調とするものが多い。米 でつくった麺状の「米線」も有名である。たまた ま、あるところで、食事をいただいたところ、「牛 肝菌」の炒めというものがでてきた。「牛肝」は 文字通り「レバー」であり、「菌」はキノコを意 味する。もしかすると思って尋ねてみると「フラ ンス人は、たいへん好きで、これを輸出している」 とのこと。やはりトリュフに違いない。この高級 食材を大胆に油で炒めてしまうのには驚いた。 さて、雲南は、日中戦争の時期にも、国民党の 支配下にあった地域である。中央政府が四川省の 重慶にあるなか、隣の省にある昆明も重要な役割 を果たすことになった。
とくに、戦争中、知識人が多く逃避してきたこ とは注目される。北京大学・清華大学・南開大学 という北京・天津の有名大学は日本軍の侵攻から 逃れて疎開してくると、昆明に西南連合大学を作
った。
当時、内陸に孤立した国民政府への物質的援助 ルートとしては、日本軍のヴェトナム駐留ののち、 英領ビルマから雲南にぬける道路が注目されてい た。日本軍は、ビルマからインパール方面に侵攻 しただけでなく、雲南への攻撃も行っていたので あり、国防上でも、要地を占めることになった。 このように中国にとって肝要な土地としての雲 南ではあるが、しかし、実のところ、古代から中 国の一部であったわけではない。
雲南の歴史
雲南省の地からは、銅鼓という特徴的な遺物が 発見されている。これは、名前の通り、青銅で作 られた鼓のようなものであり、鼓でいえば手でう つ面に相当する部分には、鳥人や船など各種の文 様が鋳込まれている。銅鼓はヴェトナムでは国の 象徴のような扱いを受けているだけではなく、タ イの内陸部でも出土しており、いってみれば、雲南、 ヴェトナム、タイをむすぶ三角地帯に分布する。 中国の博物館では、銅鼓は少数民族の遺物とし て展示されていることがあるが、殷・周の青銅器 の名品に比べれば、あまり大きな扱いとはならな い。いずれにしても、銅鼓が東南アジアらしい出 土品であることは確かなのであり、雲南は、今日 でいう東南アジア大陸部と共通した文化の地であ ったことを示す。
思えば、巨視的には殷・周の青銅器文明の流れ をくむといえる日本の銅鐸などを、ことさら日本 固有であることを強調する議論もあるが、銅鼓の 位置づけを、それと比較してみることも興味ぶか い。
雲南を本拠とする王朝としては、8 世紀には南 詔が、10 世紀には大理が興った。これらの国家 の民族構成の詳細は、わかりにくいが、少なくと も人口のほとんどは、漢人ではなく、現在の雲南 の少数民族を構成している人々の祖先だったとい ってよいだろう。いずれの国も、仏教文化の影響 を強く受けていた。
中国史の奥の細道
東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎
− − − − 13 世紀にモンゴル帝国が強盛を誇るなかで、 モンケ・ハンから中国方面への経略をまかされた クビライが、大理を征服した。こうして雲南はモ ンゴルの支配下に入ったが、そののち明朝や清朝 も雲南の支配を引き継ぐことになった。こうして、 雲南は、中国の一部となってゆくのである。しか し、民族文化の独自性は、ずっと残ることになる。
古都としての大理
大理は、細長い湖のほとりに開けた都市である。 かつての大理王朝の都にあたる。ここは、中国で も有数の観光地である。大理古城という古い市街 地には、土産物屋がならぶ。古い市街といっても、 厳密にいえば、本当に昔からの建物はあまりない かもしれない。古い感じを出すために新しく建て られたものも少なくない。
現在の中国では、観光産業の発展がいちじるし い。1980 年代ならば中国国内を比較的自由に旅 行しお金を使う存在として外国人の比重が高かっ たかもしれないが、現在では、やはり圧倒的に中 国人観光客が多い。
ただし、大理は、中国の普通の観光地と異なり、 英語を話す食堂なども多く、この地が外国人観光 客を長く受け入れてきた「伝統」のようなものを 感じる。世界には、貧乏旅行者が集まりやすい観 光地がいくつもあり、それはかつてヒッピー文化 と結びついてきた。雲南で大きな問題となる麻薬 も、ここで関係してくる。たしかに、雲南は気候 が温暖であり、そのような旅行者のたまり場とな る条件を備えていたともいえる。今日の大理のも つ独特の雰囲気は、この背景と不可分だろう。 大理の辺りには、かつて大理国を形成していた 人々の子孫にほぼあたるペー(白)族が多く住ん でいる。その文化伝統は、重要な観光資源である。 外国人にしろ、中国の別の土地からの観光客であ ろうと、エキゾティズムの感覚を満足させること ができるのである。
土産物として、特色ある布など民族工芸品が売 られているが、これも、単純に昔ながらのエスニ
ック文化とみることはできない。なるべく売れそ うな商品を開発するなかで、伝統工芸品も進化し てきたのは当然だろう。民族衣装を着た人々によ る工芸品の売り込みは激しく、ときどき辟易する。
巍山にて
大理から少し車でいったところに、巍ぎ山ざんという 地区がある。ここは、イスラームを信仰する回族 が多く住むところである。
かつて、19 世紀なかばの雲南には、杜文秀と いう人物を中心とした政権が成立し、イギリスと 交渉をもつなどして清朝からの自立を図った。ス ルタンと号した杜文秀もムスリムである。 雲南には、おそらく 13 世紀のモンゴル時代に 多くのムスリムが移住し、現在の回族はその子孫 であるとみなされている。明朝が雲南を征服する とき捕らえられて宦官となった鄭和もムスリムで あり、永楽帝の信頼を受けて活躍した。
杜文秀の蜂起にまつわる伝承のある丘の上には、 ちょっと曲がりくねった木がいっぽん立っていた。 そこから、巍山の様子を見渡すと、美しい稲田の なかに瓦屋根の集落が点在している。目をひくの は、モスクである。
ここまでは、観光客は来ない。土産物の売り込 みもない。のびのびした気持ちで、巍山の風光を 楽しむことができた。