16
操作的な知識
― 西沢大良氏と菊地宏氏へのインタビューを通した考察 ―
関博紀(東京大学博士課程)
1. 無花果のそば粉あげ出し
「いったい誰が思いついたのか?」とつぶやいてしまうこ とがある.最近では「無花果(いちじく)のそば粉あげ出し」 という料理を食べた時がそうだった.「無花果」も「そば」 も「あげ出し」も大好きな私は,お品書きを見て迷うことな く注文した.しかし,注文してから,この料理がどのような ものなのか検討がつかないことに気が付いた.この料理は, そば粉に包まれた無花果が揚げられて,だしに浸かっている ということで良いのだろうか.だとしたら,あまりに武骨で ある.そもそも,無花果は丸ごとなのか,スライスしてある のか,それともすり潰してあるのか.実は蕎麦の方が主役な のか.あげ出しは,あのあげ出しのことで良いのか.全く検 討がつかなかったのである.しかし,出てきたものを見て驚 いた.なぜなら,あげ出しはあのあげ出しで,そば粉は無花 果を包み,無花果は丸ごとだったからだ.つまり,文字通り の料理だったのである.さらに,食べてみてまた驚いた.奇 抜な味では決してなく,とても美味しかったからである.そ の後,店の人に尋ねてもう一度驚いた.「無花果のそば粉あ げ出し」はその店のオリジナル料理ではなく,季節の一品と して日本料理では多少知られたものだと言われたからだ.そ の時に,思わずつぶやいたのが冒頭の台詞である.「いった い誰がこんなものを思い付いたのか?」と.
では,「無花果のそば粉あげ出し」を思い付いた人は誰な のか.無花果をあげ出しにしてしまう DNA があるとは到底 思えないし,無花果はあげ出しに最適であるというモデルが 過去に発見されていたという話も聞いたことがない.あるい は,「いちじく,いちじく,いちじく...」とつぶやいていた ら,ひょんなことから「イチジクノソバコアゲダシ」と口を 突いて出てきたなんてこともないだろう.ひょっとしたら園 芸学の大家でさえ「無花果はそのままが一番です」と思って いる人が多いかもしれない.
しかし,どこかの誰かは「無花果」と「そば粉」と「あげ 出し」を結びつけていた.さらに言えば,「無花果」が「あ げ出し」となる可能性(あるいは逆)を見抜いて,その可能 性を顕在化させることに成功した.それは一体誰なのか.唯 一可能性があるのは,「無花果」か「あげ出し」か「そば粉」
のいずれか1つ,あるいはそのいくつかについて,よく知っ ていた人である.つまり,無花果に限定して考えてみれば, 無花果に何度も触れ,何度も口に含み,何度も香りをかいだ ことのある人である.そのような人であれば,たとえ料理人 ではなくとも,「無花果のそば粉あげ出し」へ辿り着いた可 能性は十分に考えられる.万が一,「無花果のそば粉あげ出 し」の起原が,偶然の産物(偶然に出来てしまった荒削りの 「無花果のそば粉あげ出し」)だったとしても,それを食べ て「これはアリだ」と見抜いてそこから洗練させることが出 来た人というのは,やはり「無花果」や「そば粉」や「あげ 出し」に造詣が深かったに違いない.
2. 操作的に知ること
しかし,料理の世界を眺めてみれば,「無花果のそば粉あ げ出し」のような例は,それほど特別なことではなさそうだ. 冷蔵庫にある残り物を見て,手際よく一品を作ってしまう人 というのがいるし,何かを食べながら「これにあれを加えた らもっと旨い」と語る人がいる.こういった人たちは,「無 花果」にある「あげ出し」としての可能性を見抜いた誰かの ように,「残り物」にある「一品」としての可能性や,「食べ かけの一品」にある「もっと旨い一品」の可能性を見抜いて いるといえるだろう.つまり,彼らは目の前の物(環境)を 見て,それを知ると同時にそれを使って何が出来るかを見抜 いている.「無花果」にある「あげ出し」としての可能性な ど,環境にはそれを使って何かにつながるような性質が仮に あるとして,それを,本稿では「操作的な知識」と呼んで検 討することにしたい.
今回の光環境デザインシンポジウムは,「光を巡る設計プ ロセス̶観察と発見̶」というテーマで,西沢大良氏と菊地
宏氏をゲストに迎えることに決めた.その理由は,西沢氏と
菊地氏には,上記のような「操作的な知識」を光に見出して
いる印象があったからだ.たとえば,菊地氏は,『松原ハウ ス』の設計において,「光が停滞している場所」を既存の建 物に発見してそれを「光が風のように抜ける」ように操作し ていたと語っているだけでなく,自身のテーマが光であると 述べている[1].一方,西沢氏は,これまであまり光につい
18
ではない.それは,「建築はサイズの芸術」であるという西沢氏の確信にもとづいている.さらに,この発言は,「規模
の材料」[3]や「立体とアクティビティ」[4]といった論考が
おそらく関係していると思われ,決してその場凌ぎの発言で
はない.一方,菊地氏は,ペーター・メルクリの『彫刻の家』
に「建築の腕力」を見たと語っている.それは,いわば自然
のままでは実現不可能な光と空間の関係であり,いわば建築
にしか出来ないことである.
両氏の設計が,建築だからこそ出来ることに意識的である
というのは,設計にとって最大の目的でありながら,最大の
弱点でもある原寸あるいは現場を,彼らが重視していること
からもみてとれる.
西沢氏のスタディは,設計の進展とともに 1/50,1/20 と
スケールがあがっていく.その過程について,西沢氏は,す
でに発見していた光の効果が実際に起こり得るのかどうか
を「寝ても覚めても」繰り返し問答していたと語る.そして,
『駿府教会』の内装ルーバーの詳細が決まったのは現場であ
ったと述べる.
一方,菊地氏も,原寸あるいは現場に対する意識が高い.
『松原ハウス』のキッチンは原寸のモックアップを作成し,
水量と排水の時間などを計測していたという.また,菊地氏
は,スタディの過程で模型をあまり作らないと語る.実際に
『松原ハウス』の設計過程で作成された模型は1つだけであ
った.しかし,その唯一の模型は,建物がつくられるという
実際の感覚を擬似的に体験するために用いられていた.さら
に,『松原ハウス』の設計過程において,菊地氏は,解体工
事によってあらわれた躯体のガランドウを前にして,当初考
えていた案をあっさり捨てている.そして,その理由は,そ
のガランドウと窓枠(当初考えていたこと)が実際の空間で
は両立しないと考えたからだと述べる.
実を言うと,私は「ガーゼのような光」も「流れるような
光」も実際に訪れるまでは,あまりに詩的な表現だと思って
いた.しかし,『駿府教会』も『松原ハウス』も,想像以上
に豊かな空間で,その豊かさはこれらの言葉ではむしろあま
り上手く表現できていないかもしれない.西沢氏も菊地氏も,
これらの表現はあらかじめあったものではないと語るが,そ
のことも実際の空間がどうなるかということに,両氏が極め
て高い意識を持っていることを示す一例であるといえるだ
ろう.
西沢氏と菊地氏は,自然界に圧倒的な意味があることを認
める一方で,建築という手段が持つ可能性を追求している.
しかし,その追求が,抽象化し実際の空間と乖離してしまう
ことを徹底的に拒絶している.これが,インタビューを通し
て得た2つ目の感想である.
(c)技術
そして最後が,技術についてである.菊地氏は,バリエー
ションを広げるスタディをあまり行なわないと語る.それは,
1つの道を選んで,どこまで遠くまで行けるかということを
重視しているからだと述べる.つまり,菊地氏がスタディを
通して重視しているのは,同時的な広がりではなく,どれだ
け目の前の案が持つ可能性を引き出せるか,すなわち確実に
一歩を踏み出せるような深さに関係するものであるといえ
るだろう.一方,西沢氏は,数百におよぶスタディを行なう
という.しかし,西沢氏のスタディは,必ずしも菊地氏のス
タンスと対立しない.なぜなら,西沢氏のスタディの特徴は,
「ほとんど同じ案を検討すること」であり,やはり1つの案
の可能性を追求していると考えられるからだ.したがって,
両氏のスタディは,何かの解決策を得るための手段としては
位置づけられていないといえるだろう.両氏のスタディは,
目の前にある案をもとに,そこから何を進展させていくこと
ができるのか,その可能性を見極めている作業だと考えられ
る.
この点を,西沢氏が語る数学のクリエイティビティと共に
考えると興味深い.西沢氏は,数学を何かを解くものとして
は全く考えていない.西沢氏が数学に見ているのは,それが
提出されることによって,現状が確認されるだけでなく,現
状が途端に相対化されてしまうような,ある種の自由さを獲
得するもの(技術開発)としての側面である.そして,そう
いう展開を,西沢氏は創造として位置づけている印象がある.
そして,このことは,菊地氏が語る遠くまで行けることと無
関係だとは考えられない.
西沢氏と菊地氏は,自然界に圧倒的な意味があることを認
める一方で,建築という手段の可能性を追求している.しか
し,その追求が,抽象化し実際の空間と乖離してしまうこと
を徹底的に拒絶している.そして,建築という手段の可能性
とは,単一の解をもたらすことを目的としたものではなく,
17
建築は何を行えるのか,あるいは設計者が操作可能なものは何かにについて,極めて意識的である印象があった.そして,
幸運にも,その西沢氏が 2008 年に『駿府教会』を設計し,
光を大々的に扱ったのである.つまり,設計を進展させてい
くような性質を光は持っているのかどうか,両氏とともに議
論してみたかったというのが本シンポジウムの企画意図で
ある.
今回のシンポジウムでは,この企画意図を踏まえて,測定
調査とともに,各氏 2 回ずつのインタビューを行った.そ
の詳細は,本稿の後にまとめたので是非参照していただきた
い.一方,本稿では,その内容の中から一部を抜粋して,先
に挙げた「操作的な知識」なるものの可能性を吟味したい.
3. 西沢大良氏と菊地宏氏 (a)「自然界」
西沢氏と菊地氏にインタビューをして気が付いたことの
1つは,何かを作り上げているという感覚が希薄であるとい
うことである.これは,両氏が何も考えずに設計していたと
いう意味ではない.むしろ,「どれだけ遠くまで行けるか」
が自らのテーマの1つだと語る菊地氏や,ボリュームスタデ
ィが数百に及ぶと語る西沢氏は,「つくる」ことに極めて高
い意識を持っている.ここで言う,作り上げている感覚の希
薄さは,両氏の設計過程において占める観察という行為の大
きさに起因していると思われる.たとえば,『駿府教会』に
おける「ガーゼのような光」や「粒子状の光」を,西沢氏は
スタディ中の模型を「ジッと見る」ことで発見したと述べて
いる.そして「見逃さない」ことが設計にとって重要なのだ
と語る.一方,菊地氏は,改修前の『松原ハウス』に「光が
淀んだ場所」を見付けているが,これもやはり観察を通して
発見されていた.つまり,厳密に言えば,両氏とも「光」を
つくってはいなかった.
では,そういった発見は,その後の設計にどのように結び
ついていたか.西沢氏が行なったのは,模型を通して発見さ
れた光の現象の原理を探り,それとの関係でルーバーの詳細
を決めている.また,菊地氏は,「光が淀んだ場所」の原因
を「黒い窓」にあるのではないかと位置づけ,開口部の量と
レイアウトを操作している.
さらに,何かを作り上げている印象の薄さを裏付けるよう
に,両氏とも,設計という行為にある種の「気楽さ」を感じ
ていることがうかがえる.西沢氏は,「アイデアが枯れる」
という表現が自分にとってはピンとこないと述べており,ア
イデアというのは自分のものではなく,目の前にころがって
いるものであると語る.また,菊地氏は,「どの方向へ向か
っても何かは出来る」と述べ,「つくることに対してあまり
恐怖感はありません」と語る.そして,だからこそ,西沢氏
は「見逃さない」ということが大事であると語り,菊地氏は
1つの道を選ぶことが大切だと語る.
こういったスタンスは,自然に対する両氏のスタンスを考
えるとさらに興味深い.西沢氏は,自然界とは競争している
感覚を持っていると語る一方で,「自然界はイロジカルだ」
という分子生物学者利根川進氏の言葉を引用して,自然界の
未知性について指摘する.また,菊地氏は,自然に対して「自
分の想像力では到底太刀打ちできない」という感覚を持って
いると語り,そこに絶対的ともいえる存在を感じている.さ
らに,菊地氏についていえば,氏の作品集「THEMODELS」
の冒頭で,スイスで目にした風景の美しさを前にして,「綺
麗なものが今まで見えていなかった目を私は疑った.綺麗な
ものがこの世に無数にあり,ただそれに対して目や意識が開
いていなかっただけであることに気づかされた.」と書いて
いる.
これらから,西沢氏も菊地氏も,自然界に圧倒的な意味が
あることを認めているように思われる.そして,そのことに
気が付いているからこそ,「アイデア」は枯れないし,「どこ
へ向かっても何かは出来る」のであり,「見逃さない」こと
や,「目や意識を開く」こと,すなわち観察することが重要
になるのだと思われる.これが,インタビューを通して抱い
た感想の1つである.
(b)「建築の腕力」
西沢氏と菊地氏は,共に自然界が持つ圧倒的な意味におそ
らくは気付いている.しかし,だからといって彼らは,全て
を自然界に委ねていない.観察を通して発見するだけでは建
物は建たない.それが,インタビューを通して得た2つ目の
感想である.
西沢氏も菊地氏も,建築という手法に極めて敏感である.
西沢氏は,『駿府教会』に関わらず,自身の設計では膨大な
ボリュームスタディを行なうという.『駿府教会』でいえば,
19
のとして位置付けられている.これが3つ目の感想である.4. 建築の探求
以上の3点が,インタビューを通して得た感想である.ま
とめると,西沢氏と菊地氏は,1)自然界の圧倒的な意味に
気が付いている,2)そしてその意味を掘り起こす手段(建
築)を極めて具体的なレベルで,3)かつある種の自由さを
獲得するための技術として,追求しているということになる.
ただし,本稿の感想は,西沢氏と菊地氏の思考のほんの一部
にしか触れていないだろう.本シンポジウムのインタビュー
は両氏の好意に多くを負っている.そして,その内容は当初
の予定を大幅に上回る充実さをみた.ぜひ本稿につづくイン
タビューのまとめを参照していただきたい.
一方で,上記の3点にもとづけば,冒頭で述べた「操作的
な知識」なるものには,少なくとも西沢氏や菊地氏の設計行
為においては一定の妥当性を見出せたといえるだろう.しか
し,厳密にいえば,この結論は正しくない.なぜなら,「無
花果のそば粉あげ出し」を前にして「操作的な知識」なるも
のを考察した私自身が,他ならぬ西沢氏と菊地氏の作品群
(論考を含む)から強烈な衝撃を受け,その衝撃とともに建
築を学んできたからである。したがって,もしも「操作的な
知識」なるものの妥当性が認められるとするならば,その一
端はすでに西沢氏と菊地氏の作品群にあったといえる。
インタビューを通して浮かび上がってきたのは,建築家を
職業とする西沢氏と菊地氏ではなく,むしろ,周囲にあって
未だ明かされていない意味を建築として探る2人の姿であ
った.かつて,やはり周囲にある圧倒的な豊かさに気がつい
た思索者は,その豊かさを根拠にして「知ることには終わり
がない」と言った.その言葉が正しいとすれば,西沢氏と菊
地氏の建物には,環境の新たな姿が知られていることになる.
5年後や10年後に,両氏が発見する風景とはどのようなも
のなのか?再び両氏を招いて,時間とともに深められた探求
とそれが明かす贅沢な風景を,共有してみたい.
文献
(1) 菊地宏.(2008).現場で光を考える.新建築 2008
年 2 月臨時増刊 ディテール新建築 001.
(2) 西沢大良.(1997).ビルディング.新建築住宅特集
1997 年 4 月号.
(3) 西沢大良.(1998).規模の材料.新建築住宅特集.
1998 年 4 月号.
(4) 西沢大良.(2004).立体とアクティビティ.西沢大
良 1994-2004.TOTO出版.
(5) Gibson, J.J. (1979/1986). The ecological approach
to visual perception. Hillsdale, NJ: Lawrence