通貨危機の経済学:ゲーム理論がソロス制す ∗
安田洋祐
†初出: 2010 年 2 月
2008年 9 月のリーマンショックに端を発するグローバルな金融危機は,国際的 なマネーの動きが実体経済に大きな影響を及ぼすことを印象づけた.マネーは為 替市場を通じて瞬時に世界を駆け巡る.そして,国境を越えて大量に移動する巨 大マネーが引き起こす深刻な問題の 1 つが,通貨危機だ.
通貨危機とは,固定相場制度の崩壊,あるいは目標だった為替レートの維持・安 定に失敗することだ.この十数年に限っても,1992 年の欧州,97 年の東アジア, 98年のロシアなど,大規模な通貨危機が何度も発生した.ある国で発生した通貨 危機は,別の国の通貨危機や金融危機の引き金を引き,国際金融システム全体を 不安定にする危険性がある.経済学者にとってこの現象の解明は重要だ.
近年,戦略的な行動を分析する「ゲーム理論」から派生した「グローバル・ゲー ム」という名の分析手法が,通貨危機を説明する新しい理論として脚光を浴びて いる.
通貨危機が起こるかどうかは,政府 (中央銀行) 及び投資家の行動で決まる.固 定相場制度の下で自国通貨に対して売り圧力が働いた場合,政府は固定レートを 維持するために自国通貨買い,つまり外貨売り介入をしなければならない.
だが政府が自発的に介入をやめる,あるいは外貨準備が枯渇して介入できなく なった段階で固定相場制度の維持は不可能 (= 通貨危機の発生) となり,為替レー トの切り下げか変動相場制への移行が避けられなくなる.投資家は,投機 (= 通貨 アタック) が成功して通貨危機が生じた時,新旧為替レートのギャップ分だけ粗利 益を得る.
重要なのは,個々の投資家が動かすマネーは中央銀行の外貨準備と比べてわず かであり,1 人で投機をしても外貨準備を枯渇させることはできない点だ.いかに ほかの投資家の行動を正確に予測し一緒の行動を取れるかが,通貨アタックを成
∗本稿は『日経ビジネス』(2010 年 2 月 8 日号)「気鋭の論点」に掲載された記事 (構成:広野彩 子) を転載したものです.
†やすだ・ようすけ — 2002 年東京大学経済学部卒.2007 年,米プリンストン大学経済学部博 士課程修了 (Ph.D.),同年より現職.専門はゲーム理論.ブログやツイッターも駆使して活発に情 報発信をしている.
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功させるカギとなる.こうした投資家同士の戦略的な動きを分析する時,ゲーム 理論が役に立つ.
複雑な状況でも結果はシンプル
投資家が自分たちの置かれた状況 (= ゲームの構造) を知り尽くしていると仮定 する通常のゲーム理論とは違い,グローバル・ゲームでは,各投資家がゲームの 構造を正確には知らないという,より現実的な状況を考える.
具体的には,投資家はファンダメンタルズ (経済の基礎的条件) について同じ予 想を立てられず,それぞれが得た雑多な情報を基に,経済状態やほかの投資家が 受け取った情報を推測しつつ行動する.こうした複雑な状況下では,結果の予測 も難しくなるように思える.だが研究を積み重ねた結果,むしろ普通のゲーム理 論よりはるかにぶれない予測ができることが分かった.
こうした予測を生かし,グローバル・ゲームは様々な新しい成果を挙げつつあ る.例えば,財政収支や通貨供給量といったファンダメンタルズがどのような水 準の時に通貨危機が発生するのか計算できる.また,投資家の投資額が似ている 場合と比べ,ジョージ・ソロス氏のような規模が突出した大投資家がいる場合,通 貨危機が起こりやすいことも知られている.
こうした知見が現実の為替市場や金融市場の仕組みに応用されていたら,92 年 の欧州通貨危機の時に 70 億ドル相当のポンドを売り浴びせて暴落させたソロスの
「ポンドアタック」は失敗したかもしれない.グローバル・ゲーム理論の発展と実 践が,国際金融市場安定化のカギを握っている.
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