総研大文化科学研究第 7 号 2011
これまで春画といえば、性表現を扱った絵画として研究対象から除外されてきた。ところが近年、こうした傾向はしだいに改善され、春画に関する研究書が数多く出版されるようになり、春画の公開データベースが大学や研究所で作成されている。こうした春画研究の進展を受けて、今回、国際日本文化研究センターに所蔵されている春画・艶本コレクションの三五〇〇画図を分析対象とし、江戸春画に描かれた図像表現を数量として把握することを目的とした。その方法として、一枚の春画から﹁性描写の有無﹂、﹁性交者の性別﹂、﹁性交者の立場︵男性︶﹂、﹁性交者の年齢︵男性︶﹂、﹁性交者の立場︵女性︶﹂、﹁性交者の年齢︵女性︶﹂、﹁第三者の有無﹂、﹁第三者の立場﹂、﹁第三者の年齢﹂、﹁第三者の行為﹂、﹁場所﹂、﹁場所の種類﹂、﹁場所の開放性の有無﹂の図像情報をカテゴリー別に抜き出し、その数量を数えることで、春画に描かれた人物︵立場︶、性別、場所などの割合を算出する。そのことで、江戸春画に描かれた図像表現の全貌を明らかにする。また春画は性表現を多分に含んでいるがゆえに誤解も多く、ポルノグラフィと同意義に扱われたり、男色画や手淫画などが多く描かれていると考えられてきた。そこで本考察では、江戸春画の特色を正確に把握することで、こうした誤解をひとつひとつ解いていき、これまでの春画認識に新たな見解を示す。なお本論では、春画の図像を分析する際に、同時代の風俗画や随筆類を積 極的に参照した。江戸春画には当時の生活風景がありのままに描かれており、春画表現を通じて江戸時代の色恋の風俗を読み解くことも試みている。
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図 像 の 数 量 分 析 か ら み る 春 画 表 現 の 多 様 性 と 特 色 ︱ 江 戸 春 画 に は 何 が 描 か れ て き た の か ︱
総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻
鈴 木 堅 弘
はじめに図像の数量分析の方法一.春画に描かれた人びと
一.一 春画における色事の比率
一.二 遊女と地女
一.三 春画のなかの男たち 一.四 春画に描かれた人びとの年齢二.春画に描かれた脇役たち 二.一 春画表現における第三者の存在 二.二 第三者の立場と年齢 二.三 覗きと手淫三.春画に描かれた場所 三.一 性交者が描かれている場所
三.二 部屋と野外
三.三 春画の開放性の表現おわりに
はじめに近年、江戸時代の春画が学術のうえでも注目されるようになってきた。これまで春画といえば、性表現を扱った絵画として研究の対象から密かに除外され、大学や公共の図書館においても、その所蔵すら認められていなかった。そのため春画は、もっぱら個人愛好者の収集に委ねられることになり、彼らのコレクションを通じてしか直接資料に接することができず、研究の発展に欠かすことのできない資料公開の機会が失われてしまった。ところが近年、こうした状況はしだいに改善されつつある。ここ十数年で春画に関する本が数多く出版され、春画研究のための公開データベースが大学や公共機関によって作成されている。このことにより、研究者のみならず一般の人びとにまで容易に春画に接する機会が設けられ、十分な資料調査が行えるようになってきた。もちろん、男女の局部を塗りつぶすなどの修正を加えることなく、資料全体のありのままの姿を目にすることができる。こうした研究の進展により、昨今の春画研究は、これまでの春画の公開を目的とした資料紹介の段階から、すでに公にされている膨大な資料を分析する段階へと進んできている。とはいえ、こんにちにおいてもなお春画は多くの誤解に晒されている。誰もが自由にその内容を目にすることができるにもかかわらず、依然として奇抜な表現や大胆な性器描写がクローズアップされている。また性表現を多分に含んでいるがゆえに誤解も多く、その表現の全貌を明らかにすることなく、ポルノグラフィと同意義に扱われたり、男性の慰み物として考えられている。そこで今回、すでに公開されている春画データベースの膨大な図像資料を用いて、﹁江戸春画には何が描かれてきたのか﹂、その表現を数量として明らかにすることを目的とした。その方法として、それぞれの画図から﹁性交者の立場﹂、﹁性交者の年齢﹂、﹁第三者の有無﹂、﹁描かれた場所﹂ などの図像情報をカテゴリー別に抜き出し、その数量を分析することで、春画表現の実態に迫る。くわえて本論においては、こうして導き出された数値データをもとにして、そこから春画表現の意図を探り出していく。たとえば、こうした図像の数量分析を用いれば、これまで幾度となく論じられてきた﹁春画はポルノグラフィであるのか﹂という論争に一定の見解を示すこともできる。そもそも仏語の﹁ポルノグラフィ
ス﹁ギリシャ語のポばルノグラフォ、れたど ﹂︵p、︶とはその語源をephiragrnoo
の葉味意ういと﹂婦春売・婦娼﹁は言のこ。るす 来由に︶﹂︵posphoragrno
﹁po
rne﹂と、﹁書く﹂という意味の
たし味意を ︵ に﹂とこく書ていつ﹁g娼﹁てれらね重が葉言の﹂婦ranphei るあで録想 ︵ た現のそ、し役はを割タな要重ス表イ語回ルなと手りるが娼はく多の婦 のラグノルポ際欧西、実たまィフ﹁の婦記けわとは﹂り娼述ていおに 婦娼﹁にねはつ背に後の﹂し幻影が見え隠れている。その、かほの識認に にい﹁は葉言うフと﹂ィ行ラグノ性為と表現なしたもの﹂をいう一般的 に娼ついて婦る﹁ばれす訳直にい書。たがもルポてっ、﹁たのなと﹂し ノルポ﹁とらかこラのグ葉フィ﹂という言を語源的。こ ︶1
る一登場す遊割合は全体の割女にすぎないとされているが ︵ 登ている。先行研究によれば春画に性場般す、りあで女性一はく多の女る こ娼婦﹂が描かれるわとが少ないと言れは﹁で春の本日、がろこと画 提と構造が前てなっいる。 しのられこ、性場登が婦娼どほ女を能視現表む楽を座しる配支に的動す のノルポた欧西めのラグっフィには必ずと言。ていいそ ︶2
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通じて遊女不在の実態を明らかにすることができれば、我々が知らず知らずのうちに春画に付与している娼婦の描写を前提とした狭義なポルノ的認識の誤解をとくことができる。このように江戸春画を考える場合、性表現に注視するあまりさまざまな誤解を招いている。そこで本論では、そうした誤解をとくための手がかりとしてその表現の全貌を数値として把握することを試みた。なお、図像の数量分析において欠かせないことは、春画に描かれた図像を﹁カテゴリー﹂︵質的情報︶として抜き出す際の正確な判断である。春画には文字情報が記されていないことも多く、画中に描かれた人物が﹁遊女﹂なのか、﹁女中﹂なのか、図像のみからでは判断できないものも多く含まれる。その場合、描かれた人物の関係性、場所などの周辺情報を考慮して、その人物の立場を総合的に判断しなければならない ︵
にけだるいて ︵ 、物人な彩多のは画春り代時戸おがなのれかすにまま描りが景風活生あ おの参照をたこなっ。江筆類随画、春の比較検やや討江戸時代の風俗誌 判な確正りよ同、はで論本でこを断時導き出すために、代の風俗画とそ 。 ︶4
。論いていくことも、本の目的のひとつである み解読かをかれた表象の数々ら、当時の色恋の風俗描 ︶5
図像の数量分析の方法それではここで、図像の数量分析の方法について触れておきたい。まず、今回の分析にあたって、国際日本文化研究センターの春画・艶本コレクションを分析対象の資料とした。国際日本文化研究センターの春画・艶本コレクションは江戸時代の春画を網羅的に収集しているために嗜好の偏りが少なく、その内容は質・量ともに世界一といわれている。また同コレクションは、端本資料が少なく、完本資料を中心に集められており、春画・艶本の数量分析を行う上でより正確なデータを抽出するのに適している。 そこで今回、江戸前期から幕末までに刊行された春画・艶本の一六九作品︵タイトル︶を取り扱い、そのうちのすべての画図︱総数三五〇〇画図︱を分析対象とした。すべて一次資料を用いて分析し、同センターが作成する﹁春画・艶本公開データベース﹂によって内容が確認できる資料を用いた。また絵師や制作年代に偏りがないように、総勢四四名の絵師の春画・艶本を対象に分析を行い、ひとりの絵師に対して五作品以上の資料を対象とした ︵
ゴき次に、こうして一の絵から抜枚出図しカ各を像テた化字文たし に貼をルベラつつ一一の像、りか文て字。くいえき置とへ報情 のに枚一ずまでうよこ。るき図画のを分図そ、し複割のに要像図の数素 ﹁外以者交性のが面場こ、ら第のか三﹂者化字文てとし図る有が入介の 文。るきで化字なてしと﹂屋部うまた客けの像図のる禿点を火にルセキ ばてい開が襖、るえとた。るきでいも図﹁とを性放開像が場のこらか面 てのかつくいも況いつに状面場像図要化る素字文でとこえ考を性係関の でらさ。る廓、化字文てしと﹂にき人く物図画のこ、のなけだ所場やで 、道やさ華の具てりおれか描が取間豪りこな遊を所場の﹁てど断判らかし 子銚﹁﹂、ル、﹁セキはに絵﹁﹂、ど掻巻﹂、﹁屏風﹂なの図像要素このたま れ﹂、﹁報から判断して、こら人物が客﹁遊文。るきで化女字てしと﹂禿﹂、﹁ の書どなれ入き着、りおてれか字文図情物情像のど報な・型髪の物人や 性1男﹁はに︶の図︵絵のつと﹁﹂、素女﹂性要像図描が性の二第﹁﹂、女 ﹃多寿玉女艶の本艶信祐川﹄︵西礼七享︶ひのか保のな年︶九一一︵四 、要像図の素そにし割素要像図一を分つくばえとた一。、いし化字文つて 本枚一らか料資春艶・画のられつづ図画の数複を図画のそげ上り取を、 分つに法方析はの際実でれそていこ触れておきたい。まずはじめに、 いた。 の用で析分量数回た今に尾末論本いお春報てし載掲を画情書の本艶・誌 性選の料資が者意恣の析分、にて別加をえ、にめす示たかいないてれら タた数量分析のデーたを算出するにあっ。ま ︶6
リーに分類した行テーブルに並べていく作業を行う。そして、この作業を分析対象とした総画図に対して行うことで、膨大な情報を含んだ﹁質的データ﹂の表を作成する︵図2︶ ︵
け行を設た。一方、テールの横軸︵ブ︶には枚一るけおの本・画春、艶 所種の所場﹂、﹁行場﹂、﹁為の者三﹂、﹁類性場﹂所ーリゴカのテ無有の放開の 場有無﹂、﹁第三者の立齢﹂、﹁第三者の年﹂、﹁第者の三第﹁﹂、無有の写描 ︶﹂立の者交、﹁年性男︵齢︵の者場性女齢性性、﹁︶﹂女︵性年者交性、﹁の︶﹂ ーえ数テのブルい縦て出き、その割合を算する︵軸︶﹂列者交性、﹁総性男︵場立の交︶性﹁﹂、別性を交性、﹁に数 ︵ 記リタに︶列︵軸縦のーゴさテカ各、てい用を表入れ﹂に。なお、今回の分析おたいては、の素要像図の ︶7 ﹁ーデ的質のこ報﹁制作年代﹂なの書誌情どとるもてしそ。、いてし結連 た字文の像図、分し割報し表を情師だけ画図でなく、﹁作品名﹂、﹁絵報﹂、情
。しのか、その実態を数値とて把握することができる れたきてか、描うした手順を経ることで江戸春画にはいったい何がこ 。 ︶8
図 1
図 2
一.春画に描かれた人びと一.一 春画における色事の比率一般的に春画といえば、誇張された男性器や歪曲した体位がその表現の特徴とされ、すべての春画にこうした性描写が含まれると思われている。ところが、江戸時代の春画に関していえば、すべての画図に性描写が描かれているかと言えば、そうではない。﹃江戸すゞめ﹄︵宝永元︵一七〇四︶年︶の川柳に﹁浮世絵も先づ巻頭は帯解かず﹂とあるように、たとえば春画組物の巻頭には帯を解いていないおとなしい絵が描かれることがある。また三冊揃いの艶本などでは、各巻の扉絵は遊女や町女の大首絵のみが描かれており、まったく性描写を含まない絵もいくつか描かれている。そこで今回、江戸春画の全貌を知るにあたって、まず初めに︿性交描写﹀と︿性器描写﹀が含まれる画図︱性描写の画図︱の割合を算出してみた︵図3︵
p. 52
参照︶︶ ︵
4︵の性戯を行人物の男女比う割み合図︵たてし出算を 写抽描性たし出にてしうこ、次画の〇図図、︱象対を︱に画一三数総七 一に図画の割か約のなのそ性は。描なるあでのいいてれか描が写 えな胆大ば春いと本艶・画描性目写ばかりが注されてきたが、い。なは れのる。ただ見方をかえば、すべて春までけわるいて画れ含が現表性に りあで絵を描い戯秘の愛性はそ、たの写最いとるあでえ描は徴特の大性 描。るいてれか性が写描で合割のこのこ戸と画春の時代江りはや、らか 画果は、江戸春。には約八割以上結 ︶9
p. 52
参照︶︶。実際に江戸春画に描かれているのは、その九割が男女の一対一の性愛画である。女性がひとりで性戯にふける手淫画︵全体の二パーセント︶や、女性たちのみで性交にふける合淫画︵全体の一パーセント以下︶などは、春画全体の割合からいえばごく少数しか描かれていない。また複数の男性がひとりの女性を襲うような強姦画も極端に少なく︵全体の一パーセント以下︶、こうした絵が江戸春画の特徴として扱われるには大きな問題がある。これまでにもタイモン・スクリーチ氏は﹃春画︱片手で読む 江戸の絵﹄︵一九九八年︶のなかで﹁二つの性が対立的なものとされ、性が相対立するものの衝突や合致とされる度合いは、江戸春画の場合、たとえば現代のポルノグラフィーの場合と比べて、弱い。﹂ ︵
っ春男と交わがている場面は画他では普通である。﹂としての ︵ ﹁ながっていく。スクリーチ氏は男色年男でかなの︶﹁八〇二﹂︵画春〇 は春の戸江、し解誤たうこに画とは男色画が多いらいう曲解へつにさ 割表。ず、九が異性愛の現として描かれている 画握把に的を統春戸江、際実てし計みはる満もに割一た図愛性同、のと のてしと色特江画春戸、でえ性う同上愛のしかし。るいてげを向傾現表 とたし 10︶
に画画を総体的江みた場合、男色が戸描かれた割合は意外に少ない春 ︵ 画五男どな︶年︶六︵七一︵二和明色春のもみがるす在存、本たれさ成構で 尻︶、月岡雪鼎﹃記穴重莖︶大成﹄年三﹃﹄︵信男色山三露路享保一八︵一七 之羅伽遊衆若宣師川菱はにか﹄︵縁﹃延︶宝川西や︶年祐七六一︵五三 戸色向指のへ画け男るおに画春を性し説江なの画春戸にいかた。るいて 、江 ︶11
、はに︶年 い﹄︵稿貞守て﹃れつに保こ。る天謾八︵永一三五八一六︵︶嘉︶年七三八︱ 盛し返りくを衰にりよ勢時、く江、め戸じ後でうよたあは退衰はに期し のに化文色男江代時戸、方一し関いてたなはでけわはてし行盛にねつ なかれくる。な にがよつ立じ目ばりか柄図なうよういなは描りんとほどど向趣し新、な 、になるとにしだい同紀末世あえ八富でる。といは上方の男色画も、十 児子弟と匠師、な稚と主坊、り客、バと陰豊もンョシーエリの現表ど子 み画色男、た場てし較比を画圧は合倒多的おれか描くてに春の方上画に りたきてい描画かば色男もはしとを言上いの戸江と方春た。いなれま切 男描性の男/おていに画春戸は写た全、ず必が画春ず体満もに割一の江 。 ︶12
すでに慶安元年五月官令ありて、﹃武江年表﹄に云ふ、五月、男色
を無躰に申し掛け若衆狂することを禁ず。この時、何某鹿蔵と云へる美少年のことに付、騒動に及びしこと、﹃昔々物語﹄に云へり。男色のこと、この時より止み、寛文の比に至りまた行はれしが、事ありて止みたる由、同書に云へり。︵中略︶ かくのごとく、当時までは士民の美少年に狂せし故に、毎時騒動ありしを官禁ありしなり。愚案に、その比より男色渡世の者出で来たるか。しかし年々衰へ、遂に天保に至りて男色業も官禁ありて、今は亡びたり。 ︵
13︶
と記されており、幕府の度重なる男色業の規制により、庶民の男色への嗜好が弱まっていくようすを知ることができる。こうした男色文化がしだいに衰えていった状況と、春画における男色画の衰退を照らし合わせてみるならば、世相で男色が流行る時期︵江戸中期頃まで︶には春画にも男色画が多く描かれ、一方、世相で男色が衰えはじめる時期︵江戸後期から幕末まで︶には春画に男色画が描かれなくなる ︵
え考るきでもとこると ︵ にたしぼ及を響影画相春のことから世で。の男色の盛衰がこ 14︶
。るあで文 信ひ色本艶の西祐川な、は目つい﹃形一﹄︵の︶年︶一序七︵八永宝一 か序の本春るこわがとたていを文いふたたとずま。いひきてし介紹おつ 師画春が者作ず絵、までこ描そをやく女際を図愛性の描/に的識意男に に意作るす対の画春ちた師絵丁をい寧に読み解いてく必要がある。は、 にていめ表現傾向に隠されいるにがちな本たるえ捉をい質のこ、だた。 。性るあで図愛くの女/男るめ戸江女春鍵の合和男画は解み読を質本の のり画春戸江、トはやばれなと大最をの〇特占ンセパー九の体全は徴 た男色画がかれ描割は少ない。合 画だいずれにせよ、春的を総体に見た場合、。た ︶15
此世界へによつとむまれ出て。習ずして学び聞ずして知は色の道。 是人間娯しみの根元。今分別して見るほど。猶此遊びに極れり。上は玉殿乃手枕。下は草の床に石の枕も。よしや嚊さへあれば浮世の思ひ出。おもしろさはさらにかはる事なく。豊にすめる民乃竈の。鍋尻を焼て宿ばいりの夕より。こちの人といはるゝたのしみ。殿さまともてなさるゝ釣夜着の下臥も。筵屏風の透間の風のふはつく所作はおなじいきかた。是なんうまさは蛸じや。手足の働き鼻のひこめくありさま迄。其真をうつし。たはふれのあまりに物好みある色人の為。男女遊楽の姿。其侭ひいな形にして。世にひろむるものならし
ここでは、この春本の目的が述べられている。人間の楽しみの根元は色事であり、貴人から庶民まで色事のおもしろさはかわることがないため、男と女の遊楽の姿をそのままに描くものとしている。また最後の文面から、男女の性愛画を積極的に描くことで世に色事の楽しみを伝えようという絵師の作意を知ることができる。もう一つは、渓斎英泉による豆本仕立ての艶本﹃相生交合﹄︵文政六︵一八二三︶年︶の序文である。この春本は江戸春画が円熟期を迎えた時期に描かれたものである。
笑ふ門とには福来るといへる諺より、目出度はつ春の壽には、わらふことをもて愛たしとせむか、黄金の色にさく花の、福壽草としよびなせるものは、はつ春花の魁になん、其おかしき限りなるものは、男女の情状を画しより、まためで度物はあらじとて、好色斎が筆のすさびの二巻をもて、人にあぎとを解し、ふくをさづけんといふ書やが需もだしかたく、こゝにはしかきするものになん侍りき ︵
16︶
ここでは、笑うことをもってめでたしとし、また限りなくおかしいものは男女の色事であるとしている。さらにここから、絵師英泉が書屋か
ら男女の色事を描いた絵よりもめでたい物はないとして春画を描くように依頼され、断り切れずに走り書きしたようすをかいま見ることができる。またここで注目すべきは﹁男女の性愛画﹂が﹁笑い﹂と﹁縁起物﹂に重ねられている点である。この記述から絵師たちは人びとに福を授ける目的で春画を描いていたことがわかる。いずれにせよ、双方の序文はどちらも春画を描く際に男女の性愛画を描くことに重きをおいている ︵
。き性愛画の数からはっ量り知ることができようと 。とこのそ表たっあで現、は男これらの春本の序文や、﹂女のの合女和 いてしかし。かれ師描も画色男、絵るが描春﹁はきべく男ずていおに画ま 画ちろん江戸春手には、淫画も、。も 17︶
一.二 遊女と地女それでは次に、江戸春画にはどのような人びとが描かれてきたのか、見ていくことにしよう。まずはじめに、性交場面に描かれた女性の立場について考えてみたい。先行研究では、江戸春画に登場する女性はそのほとんどが﹁地女﹂であり、﹁遊女﹂が登場する割合は全体の一割程度であるとしている ︵
、八道大鏡﹄︵延六︵一六七宝︶﹂年はで項の女雑﹁の︶ ら優じ論が劣較の、それさながてれえき箕た色﹃るよ山に本、藤ばとた。 女のなかで﹁遊比﹂と﹁地女﹂の文物な江時ままた戸代には、さまざ 女色が性たの人素の事主役る。うといいてじ演を 中一どな娘町、は女、房女、のと般し女性うこはで画春、りあでとこの 。﹁﹂女地 ︶18
抑 〳〵傾城の風俗のいたりてよろしきと、よのつねの女房の初心にて見ぐるしきとを、物にくらぶれは、黄金と青銅のかはりめあり。町方にても、たまさかに風躰よく様子おもしろき女あれば、さても見られぬありさまや。悉皆、傾城のごとくなるはとそしれり。傾城の風儀あ しきとおもひていふにはあらず。是も嫉妬の心より出たる過言なるへし。 ︵
19︶
として、遊女と町女房の風躰を比較し、その容姿は黄金と青銅のごとく違うとしている。また、たまに風躰の良い女性がいたとしても、町方の女房たちはまるで遊女のようだと罵る。これはその女性への嫉妬心からくるものである。ここでは町女房を悪く言うことで、逆に遊女の風儀を讃えている。そのほか、柳沢淇園の﹃ひとりね﹄︵享保九︵一七二四︶年︶にも同じような見方が記されている。
先地女はしつねつふかし。其にほひいやらしきはへぎはよりおこりて、内またのそとにはびこりわたり、彧然として肺経をたゞらかし、鼻を損じ、女郎さまはおともなく香もなしといふ上天の人にして、其匂ひ緋ぢりめんの下ひもの本にありがたく、松柏のもとにまひ、蘭園のうす〳〵としたる所をめぐる、其かたち至極忝し ︵
20︶
ここでは、色事の場面において、地女の不潔さを強調すると共に、情事における遊女の優美さを讃えている。いずれにせよこれらの書物では、一方的に遊女の風情を讃え、地女の実態を醜いものと見なしている。ただ、こうした遊女讃美の見方は、箕山や淇園のように遊廓通いを幾度もくり返してきた色道通人の非俗感覚であり、けっして一般庶民の感覚ではない ︵
。や響く恋の鳴戸ハ時りのあくし参うに﹂いてれさ記るうよの次はに 一保六︵一七二︶︶年﹄︵の﹁枕に享干ばの用、西川信祐艶本﹃好色土 態風の城傾を述実の女地、方と情も同等に扱う記みられる。たとえ一 。 21︶
﹁色道のうハもりかんじんかなめの嶋原、難波の新町にかぎりて、外の遊色ハいかな〳〵﹂と、此道の睟と呼れし人の言の葉、まことの契り義理を張事地女にまされり、しかハあれど地女のいきかた、あり原のなり平、源氏君のうつゝなきうつせみがつれなきも、是誠の心にや ︵ 22︶
契りの義理深さについて遊女は地女よりも勝っているが、地女の生き様にも、遊女と同じような契りの義理を果たすつよい信念があるとしている。ここでは地女の色事に傾城と同じような誠実さを見出そうとしている。そのほか、渓斎英泉の艶本﹃和合淫質録﹄︵文政八︵一八二五︶年︶には次のように記されている。
まづ客の方よりへだてがあれば 傾城の心にもへだてありて興うすく 興うすきによりて女郎をきらい 地女をこのむなり。かく互にする一段になりては 決して女郎と思はず 女ぼう妾などの心になり
て 交るときは傾城も地女もかはる事なし ︵
23︶
この記述では、まず客の方から遊女を疎遠にすると、遊女の風情も疎かになり、その結果しだいに地女を好むようになるとしている。また結局、遊女との交わりのときには、女房や妾と思う心で交わるならば遊女も地女もかわることはないと記している。こうした記述からもわかるように、春画・艶本の記述では他の文物に比べて地女が遊女よりも優遇された見方をされている。そうでなければ、双方に優劣の差はなく、その価値は同等に扱われることが多い ︵
戸おれではさっそく、江、春画にけてる性交者︵女性︶の立場につそい 地とうろな。女と 画特の本艶・が春た方見でうし徴はあるのず役主の画春戸江、ばらおな こ。 24︶ 貞ようであり、これについて﹃守謾る稿﹄では次のように記されていた。 。代の有無が考えられるとくに江時戸の二いてしを櫛中枚は女遊でま頃 の﹂﹂女地﹁と女遊、﹁ばえとた分見﹁けつ﹂櫛枚るに二とのトンイポひ 描、双方の分イを見プけし写る出トを見ンした。ポ い俗画なッアクッピをどを女参照しながら﹁遊﹂との﹁地女﹂の描かれ方違 こ分い風一見しただけでは見けがつかないのとも多い。とはえ、同時代 春画遊江﹁戸はにくと。うこ﹂お女しと難を﹁画、く図が判の﹂女地別 、﹁﹁と﹂女遊そに前のだた女地け﹂ての見てれ触分いに方の像図つ をその数量て算出しみたい。
元文中、遊女はすでに簪数箇を差し、また二枚櫛をも用ひしか。﹃吉原雑記﹄に曰く、女郎の風俗も昔は紅粉、白粉と云ふ物をむさきこととし、揚屋女郎の薄化粧だに揚屋風とは云ひながら、卑しきことに云ふなし。髪は兵庫に引き結び荒櫛にて透き上げ、爪紅、爪かくしの草履、地女と違ひ奇麗なるを女郎とせしに、今の風は髪は油がため、櫛は足駄の歯のごとくなるを二、三枚さし、簪とて色々模様をしたる七、八本さしちらし、云々。 ︵
25︶
これは﹃吉原雑記﹄をもとに元文期前後︵一七三六︱四一︶の遊女の風俗を考証したものだが、当時の遊女は地女とは異なり、二、三枚櫛をさしていたことがわかる。もちろん、こうした遊女の身なりは春画の図像からも確認することができる。西川祐信の艶本﹃諸遊芥子鹿子﹄︵宝永七︵一七一〇︶年︶︵図5︶や艶本﹃風流三幅対﹄︵宝永七︵一七一〇︶年︶には﹁太夫﹂の銘記と共に二枚櫛の遊女が描かれている。なお、遊女が二枚櫛をさす風習は江戸時代以前から行われていたようである。﹃守貞謾稿﹄の考証によれば、﹁遊女二枚櫛を差すこと、ある書に曰く、昔、戦国に首実検の時は必ずその辺の遊女を招きて首を洗はしむるを役とす
るなり。櫛を二枚さす、その一枚は首洗ひの用なりと云へり ︵
を枚専らとす。二は枚稀に用ふか。一 ︵ 左を用ひ、笄・簪常体に簪前後のて右二各櫛りかば本、十三べす、ヶて ︺髱︹は鬢ら、しと専を素曲はな人と異なることく、また髪張島田 鬂髩 坂﹁今世 京都島原、大瓢い箪町の太夫・天神の扮 てつ俗風の女遊に れ俗てわ失もを風すさき櫛枚二い、﹃保ばの降以期守天れよに﹄稿謾貞 もとも、上方っ時。るいてしとたで代はし女遊にいだがてつにる下がれ がたれら取ち討世女遊にの国戦の首た髪をしさを櫛の枚二にめぐ研い洗 ﹂、と ︶26
﹂と記されている 27︶︵
は、箔光る小袖をきたるゆへに遊ぬ女は無地もの、縞類をきたりひ ︵ 服い、昔は︵享保以前︶今の如くか女めしきものをのみ好まず、常のも 衣新文、﹁きる。たとえば、﹃吉原略﹄︵説政︶ばれよに︶八年五二八一︵ もらのか様模が装衣、かほの遊﹁で女﹂と﹁地女﹂を見分けることそ 。 ︶28
るかわが ︵ を模様の衣装い着てやたこと縞地、無記されており江戸前期の遊女はと ﹂ ︶29
ふれ用こ。正民婦女こをれ用ひず雪踏を用ゆ。を ︵ をり前を長くし、上に反らせて足指り覆とふの妓娼。すみ名故。あ状に ふし隠爪。りあし云とくかまつりなよ。く京緒、てし前短草緒前の履を 貞守﹃ていれつにこ。稿謾、女﹄では、﹁享保中用草履、きるでとこるけが たま用女、はで時頃代草戸江まの中履分か見を女地﹂﹁と﹂女遊﹁ら 衣遊女は白色無地のれ装で描かている。 七一﹄︵︵七和明すんもゑ似真流〇七る︶の年登に面場場廓︶、はに遊 かでい継をけ受統伝の春、信画でも鈴木春の﹃艶色風。そ ︶30
﹂と記されている 31︶︵
たっいてっ行 ︵ 文図と報情字そたしう報、での像情をらを別照の方双区がせわ合しらな 記れが多くいされてるき入書。春する加えて江の戸画には遊女言葉など 女地﹁と﹂女は遊、﹁にうよのを﹂い見分けるポイントくつか存在こ 。 ︶32
﹂民についてはさらに細かく﹁庶女女﹂、﹁女中﹂、﹁妾﹂、﹁芸者﹂、﹁尼﹂ 地女、﹁お、今回の数量分析では﹁遊﹂と﹁地女﹂の区別だけでなくな 。 ︶33
図 5 西川祐信『諸遊芥子鹿子』(『季刊會本研究〔第8号〕』より転載)
などに分類していった。その際に、たとえば﹃女重宝記諸礼鑑﹄︵元禄一五︵一七〇二︶年︶︵図6︶や﹃百人女郎品定﹄︵享保八︵一七二三︶年︶の風俗画には当時の女性の身なりが身分表記とともに図像化されているために参考にした。こうした資料を用いて当時の女性の身分に関する衣服、髪型、容姿などの一般認識を確認し、春画の図像と比較しながらそこに描かれた人物の立場を判断するにいたった。さらに、人物描写だけでなく、描かれた場所や状況から性交者の立場を割り出した。そうした 例をひとつ上げると、たとえば﹃色道大鏡﹄︵﹁妾﹂の項︶には﹁これらの類には、居を別業にさだめ、待女あまたつけて、まもりの老夫猶あるへし。衣服・食事等に倹約をことゝせず、ゆるやかに賂ふへし ︵
7︵性︱を対象に、交を行う女性のし立図︵たみて出り割を場 戸ま江、てえ以踏をとこの上画春図の数性画七一〇三図総画の写描︱ あ︶は﹁妾﹂で判ると断した。交者性物人のそ、ば︵ 衣てつか、りおがれか描婦や事老装やが侍いてれか描れ人付のどなき女 画述記のこをお春、りてれさら記かと読宅食な華豪で別み、くいてい解 ﹂と 34︶
p. 52
参照︶︶。結果は、﹁庶民女﹂が全体の二三パーセントを占めて最も多く、次に﹁娘﹂と﹁夫婦﹂が一四パーセントで並んだ。さらに四番目は﹁女中﹂であり、全体の一〇パーセントであった。﹁遊女﹂はようやく五番目に入り、全体の九パーセントであった。今回の分析では、遊女画のみで構成された菊川英山の﹃絵合錦街抄﹄︵文化一二︵一八一五︶年︶などを加えているにもかからず、江戸春画に遊女が描かれた割合は一割にも満たない。また注目すべきは、﹁娘﹂や﹁女中﹂よりも﹁遊女﹂が描かれた割合が低く、江戸春画における﹁遊女﹂と﹁地女﹂の比率は︿一﹀対︿九﹀である。このような結果から春画の世界では圧倒的に﹁地女﹂の情事が描かれてきたがわかる。なお、江戸春画が﹁地女﹂を積極的に描いてきたことは、いくつかの春本の序文から読み取ることができる。たとえば、艶本﹃春色松の栄﹄︵刊年不明︶の序文には次のように記されている。
それ世間に在とあらゆるもの。みな程よきをもてよしとす。︵中略︶されば男女の情態は勿論。萬事程にあらざれば克がたし。こゝに程よしといふ畫人ありて。奥さまの程。お妾の程。媳ゝの程。藝者の程。女郎の程。かこひ女の程。地色のほど。生娘のほど。茶や娘の程。或は夜鷹の程までも。普くその程をよく穿ちて。書集めたる此草帋。 ︵
35︶
図 6 『女重宝記諸礼鑑』
この序文では、世間のありとあらゆる男女の情態を描くと宣言されており、女房から夜鷹までさまざまな姿を書き集めたとしている。今回の数量分析の結果からみても、この序文に記されているようなさまざまな男女の情態を描くことが江戸春画の指向と考えられる。春画表現は同時代の玄人女を描いた人情本や洒落本とは異なり、あくまでも江戸社会におけるすべての階層の女性を描くことを目的とし、その表現が﹁遊女﹂などに限定されることはなかった。それではなぜ、春画に﹁地女﹂が多く描かれてきたのか。まず考えられるのは春画の受容層と画図の関わりである。浮世絵春画が描かれ始めた当初は、その受容層は江戸の武家階級が多かったが、その後しだいに富裕な町人層へと拡がっていった。江戸中期以降、春画の受容層はもっぱら町人層となり、巷間では個人間での貸し借りなども頻繁に行われたようである ︵
。か本﹃風流三対﹄の序文幅らと読るきでがこる取み 極か積をさし感おや微の情間に的機表は現の信祐川西艶とのこ。たしこ 彩が様模間人なせ多、ずとしよを織りなくす人、でこと描を面場の愛情 の的な性愛世界とみを描写するこ形式、はゆえる。それいえ江戸春画に 描ものたれかがく多数女地に読、み手るとたっあでためえ伝を実現に感 作常に観界世的だ日の側手み読世品ろ界あを画春うる。があ必るせわ要 画春が層た容受しようをたり身近に感じるめにも、。そ ︶36
鉄杵を針にせんと昔の物語恋するといふもし 難にくきと こゝろをなしと 遂ぐるこそ実ならめ傾国にやりてあり野刕にこんかう。地女にか 家屋ほくなど風のさそふ妻戸のお 音とをもましやないかと思ふ心から 人めの関のむつかしき所もあればこそ面白き恋といふ字もあれかし 男女の秘曲にさま〳〵の傳受を知しむるは情を丸めて恋の三幅對と名
付
いかなるうち鼠も袖になつき懐に入て乳を吸ふもおかし もちろんここで記されているように、性愛の多様性のなかには遊女との恋も含まれる。とはいえ、廓の世界は江戸社会におけるさまざまな性愛の場面の一部分でしかない。そのうえこの世界は類型化した虚構の性愛を楽しむために、ただ恋を成し遂げるだけならよいが、恋をめぐる人間感情の変化には乏しい。おそらく箕山や淇園などの色道通人たちは、こうしたつくられた性愛遊戯を優雅に楽しむことに重きをおいたのであろう。それゆえに彼らは地女との﹁人め関のむつかしき所のある恋﹂のような厄介な人間感情を含む日常の性愛を忌避したのであろう。ところが江戸春画は、まさにこうした無粋な日常の性愛を描くことに重きをおいた。いうならば江戸春画は、廓のような非日常の世界ではなく、日常のなかの多彩な人間模様が織りなす性をめぐる感情の交わり︱実直さ、情けなさ、煩わしさ、心地よさなど︱を面白おかしく描くことをめざしたのである。このことは先の序文から読み取れるだけでなく、江戸春画に日常を生きる﹁地女﹂が非日常を生きる﹁遊女﹂と比べて圧倒的に多く描かれたことからもわかるだろう ︵
。 37︶
一.三 春画のなかの男たちそれでは一方、江戸春画に描かれた男性たちはどうであろうか。江戸春画が人間感情の交わりを表現するものであるならば、当然、描かれた男性たちも多様でければならない。主人と女中のような分限を越えた色事や、間男と女房による密かな逢い引きなど、身分や立場の異なる男女の情事のほうがより様々な人間感情を表現できるからである。現に、菱川師宣の艶本﹃小むらさき﹄︵延宝五︵一六七七︶年︶の序文では、男女の色事を身分の隔たりなく書き集めたことが記されている。
されは和合のことわさ みとのまくはひし給ひしより此方 さん屋の曙に至迄 おこたるべき道ならす 然るをゆふきやうのもてあそひ
とみる時は悪事と成 又天地かいひやくの根元とみる時はその重事こうまい也 かるがゆへに侍農工商の参會をかき集て 是を出す ︵
38︶
この記述によれば、色事を遊興のもてなしと見なす時は悪事となり、また色事を天地開闢の根元と見なす時は善事となる。それゆえに士農工商の情事をかき集めて、色事のすべてをここに描くとしている。そのほか葛飾北斎の小咄艶本﹃間女畑﹄︵寛政四︵一七九二︶年︶の序文にも色事の舞台では士農工商の身分などまったく意味をなさないことが説かれている ︵
紋無ずさるゆを事る用を袖小の等 ︵ 武様の違いがある。たとえば、﹃諸家は裏紫袷紫﹁練士に﹄度法武 ﹁町﹁﹂士武うつとひもたま﹂人とをと模装衣てしトンイポる見け分 てかれいる。 のや少元枕がどとんほのそ、くな床本間いに描が況る状てれか置が刀二 いが士武、はて本おに画春、だた二た差に面場ぶよおは事ままししを情 性いてれか描が無男の刀はたまばれ﹁。こ町るきでとがるす断判と﹂人 ばと性﹂士武﹁断れいてれか描が判とす方るし差刀一、一。るきでがこ いしうこ。た刀も者く歩ち持を理た、由二男のか差本しになの画春らか 防出時のて具とし、外がた人があっ。一方、町たはれ帯っかなさ許を刀 み武なしたは士江の代時戸。るしととての打風す差を刀習本の差脇刀二 はの方双、えいると。なくし難も最やわ刀かあで数本の点は違相いすり と後戸江にくし。いに難に上以る期な士人が別判のる﹂町﹁と﹂武﹁と 立の性男たれ女か描に画春戸江を場性見の分見を場立け分とこるけは 男の像図﹂性回、﹁も今だた分見のけ方。くおてれ触少多ていつに を算出してみい。た 春性るけおに画だ戸江。かうろ者交て︵つ量数のそい、に場立の︶性男 戸士はに画春れ江、際実はで工農が商を越えた色情描かれているのそ 。 ︶39
か春﹂と記されていること画ら、 40︶ るいてれさ記と ︵ 一﹁と記されており、方、﹁商人は﹂髪中﹂ぐ直にもすと後前髷くなく ﹂よ士武﹁ばれくに﹄稿謾貞守﹃﹁はく髪半﹂す高を多ば低後前く太、髷く イ型トとして髪﹂が考えられる。るポンけとらに﹁武士﹁町人﹂分を見さ る可であ性能がまる。高 袖逆なり入紋にれ。るらえ考とい小のを人﹂士武﹁物がのそばれいて着 紋着を袖小ののの色紫でかないてはれば、その人物﹁武士﹂では無袷や
衆てたえ考てしと﹂べ若﹁ ︵ 剃男ないてっ析を髪前、はでに性い関家しす、ずわを問町や家武、はて るていることがわか量。なお、今回の数分にし平ぐ直っ真を髷くな少水 く高こるいてくをば半の髷が多としわ人かが毛のは﹂髪商、﹁方一、り ののことから江戸時代毛﹁武士﹂は髪のの量が。こ 41︶
8︵う図︱を対象に、性交を行男性の立場を算出してみた︵図 一画七〇江三れらのことを踏まえて、戸春画の性描写の画図︱総数こ 。 42︶
p. 52 参照︶︶。結果は、﹁庶民男﹂が全体の三二パーセントと最も多く、続いて﹁夫婦﹂が一四パーセントと二番目に多い。その次が﹁若衆﹂で全体の九パーセントを占めている。ちなみに、﹁武士﹂は六番目であり、全体の六パーセントであった ︵
︶﹃えば、この認識につて増穂残口はい艶︵道︶五一七一年五徳正﹄︵鑑通 いく深が識認うると﹂わあに婦夫関だっろてた。かうといなはでのたい だに外れそ、れた。る、らげ上も以江﹁戸は根の愛性元のび人の代時と 常愛性の活生春日が画れふ面ど場たをお描が点たいいてをき重にとこく 婦れか描が﹂ぜ夫﹁に画春戸江きて。たとほ先のにつ、ひ由理のそかの そある。なれではうでよと示のセント高い数を値して柄絵の番定、りお て戸いおに画春る江。あでとこ夫﹁性婦と﹂パ四一に共ー女の者交は男 べ性男、はきにす目注くとた場のま合のは多が合割い像の﹂婦夫﹁図 立的量数は場ものそ、か見しに。てらもるいてれ振り割に等均 士分身商工農多、りあが性様にに差のよるっ。いもとこなれけ分き描らて る画春としみてう描に性かれた男性は、女以上。こ ︶43
のなかで﹁凡人の道の起りは、夫婦よりぞ始まる﹂と前置きしたうえで、次のように記す。 男女の形出来るまでは造化の妙にして、交合の情は人の作業に成れば、人道立ちての仏法・神道、老・孔・荘・列なり。然らば夫婦ぞ世の根源と知れたる歟。その夫婦和せずして、一日も道あるべからず。道なけらば誠なし。誠なければ世界は立ず。件根本たる夫婦の事の疎かに成行ば、道も誠もなくなりて、後は考も失せ忠も絶なんずらんと悲しゝ。 ︵
44︶
つまりここでは、あらゆる諸学の根源は夫婦の性愛にはじまると説かれている。交合の情は︿人をつくる作業﹀であり、人がこの世に生まれてはじめて、仏教、神道、儒学などの教えも成立する。いうならば、交合せずに人が生まれなければ諸学の教えなど存在しないと説く。こうした﹁夫婦和合﹂の性愛を仏教・神道・儒学などの諸学の教えの前提におく考え方が江戸時代の中頃には存在し、春画に﹁夫婦﹂の性交図が数多く描かれている事実から、このような考え方が江戸春画にも影響を与えたと考えることもできよう。
一.四 春画に描かれた人びとの年齢ところで、江戸春画の特徴のひとつにさまざまな年齢層の描写が上げられる。江戸春画には、若い男女はもちろんのこと、年増の男女も数多く描かれており、場合によっては稚児や老人なども描かれている。このことはすでに先行研究で説かれているが ︵
男交禄四︵一七二一︶年︶の﹁男女〇合﹂年、﹁ばれよに十事数の々の 〵〳 な出してみた。ち陰みに、﹃陽師調法﹄︵元記算を区数年﹂に量分けのし、そ が最も多物のか、描れたいかを年﹁﹂、﹁年壮﹂、﹁老青年﹂、﹁幼人﹂、﹁若年 写描の齢年のど、回今、層 45︶ また 。るなと ばしつにれ。たと断判て﹂年若﹁いこは次﹃参が述記の考の稿謾貞守﹄ え性の性女、ば。とたいたきお者交けの身れいて場につを﹀袖振、︿合 に回析分量数の今、でここおなけおにるつ年てれてい触齢準基の分区 数限制てっ年に齢などきでよるのではないだろう。も 準に実忠をと基のこがっび守でていたわけはなく、おそらのく人性交回 り準なっている。ただ、この基は、の当時あで安目記あ法調もでまくの もに、がって性交の回数減少してきい老をとこいなわ年行交性はに期 江に、ばらな従い述記のこ。る時戸う代がのしにるえ増た齢年、は性男 度後の歳十六。目一に後日七、ははみ、ずだてし記と﹂らかべす漏にり 度十三。つづ歳一に目日三、の歳は後は、五日目に一度。四十歳のの後
江戸土民の処女、大略十歳未満の者には礼褻ともに振袖を着すこと、大戸より小戸に至りこれを用ふ。︵中略︶また古より三都ともに婦は振袖を用ひず。少女のみこれを用ふ。しかりといへども、すでに嫁してあるひはいまだ嫁さざる者も、歯を染めて眉いまだ剃らざる︵京坂、かほをなほすと云ひ、江戸にて半元服と云ふ︶新婦はこれを着す。 ︵
46︶
この記述から、江戸時代において︿振袖﹀はおもに若年の少女が着していたことがわかる。同時に、婚姻をした女性でも若ければ振袖を着ていたようである。また遊廓の世界でも、︿振袖﹀は京坂や江戸を問わず、十四、五歳以下の娼妓に用いたようである ︵
るあでう ︵ に芸増年とな戸期後が江、りあ者る振俗袖よたれらが見習ういとる着を ま。でに想定したもただ、若干の例外七歳一をか歳六一そよおお疇範の 振袖るを着かで今なの画春、回てて女い年そ、定と﹂め若を齢年の性﹁ 記れらのま述を踏え。こ 47︶
。 48︶
また春画における女性の︿眉を剃る﹀の描写も、その人物の年齢を判断する基準となる。たとえば﹃守貞謾稿﹄によれば次のように記されている。 江戸はいまだ嫁さざる、すでに嫁する女も歯を染むる者は、専ら髪を丸曲に更め、眉を剃るなり。江戸も武家の新婦は歯を黒め、髪を丸曲に結べども眉を剃らず、二十三、四才に及んで始めて眉を剃る。京坂の新婦もし二十一、二才に至りて妊まざる者は、孕まずといへども曲を改め眉を剃る。 ︵
49︶
この記述を参考にすれば、京坂や江戸を問わず、︿眉を剃る﹀女性の年齢がおおよそ二十歳以上と判断できる。また江戸時代には婚姻の有無に関わらず女性は二十歳を過ぎれば眉を剃ったようである。そこで、春画のなかで眉を剃っている女性が描かれていれば﹁青年﹂か﹁壮年﹂と判断した。ただこちらも若干の例外があり、上方では年増芸子などは四十歳以上になっても眉を剃らない習慣があった ︵
たっあが ︵ 眉風に描く目的できを描美加えること人、絵風浮世合が師俗画を描く場 。、もにかほたま ︶50
。よ貞謾﹄には次の稿う記されているに いを歯が女少婚ないてしはにく黒姻染ため、﹃でうよ守れみがる習風ら はか﹂年青﹁そ齢年の、での壮る﹁と年だ代﹂戸江、時たるきで定想。 考女房﹂とてえられいは﹁性断な女を判する基準とる。一般的に歯黒の 黒頻が性女の春歯はに、たまに繁画描の齢年も無有黒か歯。るいてれ 重慎るきと成にはらるを得ない。ざ よの眉るめに像図無たの有人でその物の年齢を推察す。そ ︶51
今世も前に云へるごとく歯染めて始めて嫁するを本とす。しかりといへども、民間に至りては京坂の女二十歳、江戸は二十未満の少女も いまだ嫁さずして歯を染むる者太だ多し。 ︵
52︶
このように歯黒の有無だけでは、その人物の年齢は特定できない。とはいうものの、春画には歯黒の女性が数多く描かれており、そのほとんどが年増女性である。なお、一般女性だけでなく、遊廓の女性たちも歯を黒く染めたようである。﹃守貞謾稿﹄によれば、京坂ではお付きの客の有無に関わらず一五、六歳で必ず歯を黒く染め、一方、江戸では吉原の遊女は歯を黒く染めたが、天保以降、岡場所の女郎は歯を染めなかったことが記されている ︵
図場わり﹀に数本の皺寄っているが合断は9図︵たし︶・︵判と﹂年壮﹁ れそ。いならなけけなで設を準基こば今首回腹︿や﹀筋ま︿にもと女男、 あえいはと。るしで点た最労苦も、図像にをの定一必ず際るす化ターデ 分。るあで方け女見の﹂年壮﹁と男回を問析分量数ので今くし難ずわ、 か読を齢年ら画像図の春、お取みなるい﹂際青﹁がの年しもとっもに難 い、めたた髪てしに総はどその判る断。い得をなざせに重慎は もらなかった場合伏あり、医師や山なを剃髪にてっよに場立は代時戸前 を物髷元服る人月くつをや代﹁後の青断年だた。たし江判﹂年壮﹁﹂、と はてっ剃を髪前にてし関像図のないしい若、断判と人年﹂﹁の前服元を物 の服元を無有髪前、一唯だた後前のと見男、回今。る性きがとこすなで るいなはでけわ違あがいに飾装での、。るそいし難のはけ分見を齢年の ポ男、がろことの。るあがトンイ性代図にや装服てよっ年はてし関に像 図てし関に像のの性女にうよそはるの年齢を見分けのにいくつかのこ 。 ︶53
るの画では︿書き入れ﹀︿詞書き﹀や文の字み読を齢年取物らか報情人 し図は齢年たもうこ、とっもの像はみけ春。かなでいわきで断判らる と﹁青年﹂た判断し。合は場いかど皺描がれていな よ顎重二てっの、に皺のこ表れが線現、さんほに筋首と方れ一。るいて 表を性女増の年は皺に筋首す現らる目的で描き加えれたと考えらとく ︶。10
ことができる。したがって今回の数量分析では、まず文字情報からの判断を最優先し、それでも人物の年齢が読み取れない場合は図像から判断するにいたった。こうしたことを踏まえて、江戸春画の性描写の画図︱総数三〇一七画図︱を対象に、性交を行う男性・女性の年齢を算出してみた︵図
11︵
p. 53
参照︶︶・︵図
12︵
p. 53
参照︶︶。その結果とくに注目すべきは、男女ともにほとんど同じ割合を示したことである。最も多いのが﹁青年﹂で、全体の約五〇パーセントと半分をしめている。つぎに多いのが﹁壮年﹂で全体の約三〇パーセントに描かれている。意外に少ないのが﹁若年﹂で男女ともに十数パーセントしか描かれていない。こうして見てみると、江戸春画には男女ともに﹁青年﹂・﹁壮年﹂の年齢層の人物が多く描かれていることがわかる。一方、男女の相違点を考えれば、男性は女性に比べて﹁壮年﹂の年齢が多く、﹁若年﹂の年齢が少ない。逆に、女性は男性に比べて﹁若年﹂の年齢が多く、﹁壮年﹂や﹁老年﹂の年齢が少ない。このことから、江戸春画では女性の方が早熟に描かれる傾向にあり、他方、男性は老齢に描かれる傾向にある。ただ、双方を通じてやはり多いのが青年期の男女である。先ほどの﹃陰陽師調法記﹄の記述からもわかるように、江戸春画は日常生活のなかで最も盛んに性交を行う年齢層を積極的に描いたといえよう。
二.春画に描かれた脇役たち二.一 春画表現における第三者の存在江戸春画の特徴のひとつに︿第三者﹀の描写が考えらえる。︿第三者﹀とは、春画のなかで性行為をする男女以外に描かれた人物のことである。たとえば、窓から覗きをしている人物や︵図
現ことが多く、ときには子供や動物がのも表画春。るあとこう担を割役 描こるれかがる春した女房などであ﹀。江戸画には、こうした︿第三者 気夫の浮︶、現場に遭遇13
図 9 葛飾北斎『喜能会之故真通』 首の皺
図 10 鳥居清信『欠題艶本』 お腹の皺
の目的が性交描写であるならば、なにもその周辺に余計な人物を描かなくてもよいであろう。また、春画表現の目的が性欲処理の慰み物であるならば、なおさら︿第三者﹀の描写は不要である。それではなぜ、江戸春画に︿第三者﹀が描かれてきたのか。先行研究では︿第三者﹀の描写の理由として﹁笑ひ﹂の要素に注目している。たとえば、江戸春画にはしばしば子供が登場するが、性愛の現場に性に対して無頓着な子供を持ち込むことで﹁笑ひ﹂を誘うと考えられている ︵
と誘るいてれらえ考をう ︵ む人物を描き込﹁ことで笑ひ﹂ 事く覗に心熱を情人他に場の 描るがれていかが性愛の現、 春のほか江戸は画に覗く者そ 。 ︶54
者をとしに邪魔しかける悪戯 はらず彼ら楽性戯をしむ男女 かかもに。るあわ者そでばよ 男わ楽しむを女ら見ればいか 子こうしたく供や覗者は性愛 。 55︶ るすとたしだりくつをて立手る ︵ 賞性に覗く者を描き、鑑者の誰しがも愛るえわ味を覚の感見き覗を場現 るれあでらかるはくてし行代が物いとなう師かの画春。、絵にめたのそ 感そに者く覗のしが者賞鑑の画春移情望入願写描のそを人き覗のら自、 る、ばえとた。もあでのるういと画春に、描たはのるれかが者く覗びたび に賞者が画中三描かれに︿第は鑑たれそ。るあが方え考感情移入す﹀者 第方かの一、江戸春画に︿者﹀が描三れ、別つるひうもとて理と由し 者る見てっによ差落﹁のをえ笑い。うひよとう誘に﹂ の落す対に性る方双でとこくを描差る表あ現表のこ。る現でかいてしら る愛性﹁と﹂者事きで従に愛性﹁に事従者でに時同を︶三第﹂︵者いなき 。悪たしうこてるいてれか描か戯描れるのはひとつの画面のなかに者が
感法ある輸情移入の鑑賞に入は向かないとしているで ︵ 客つの見世物であって笑いという観性たのら欧西にめかるてし拠依にい みに方見る移てし入情感判批、的な意見もあり画春画はひとに春はに中 画感に物の中人ど移のそに際るつ情入かの究研行先し。うろだのたいて 。るあで要必がが証検いし詳しもそ春そとも賞観を画すびの代時戸江人 にだ、この理由は関してもう少。た 56︶
図描画図︱を対象、︿第三者﹀がにか出れ︵たみして算を合割る 、数はで析分量ろの回今。かう戸江画春︱画一〇三数総七図の写描性の いは者三第︿はたっいのでれそど﹀くからだるいてれの描合割のいで 傍つじにらたの交性うそ多にしく描の。たきいてを﹀者三第︿ 江たは画春戸い、よせにれずにん交男の、く女はでなたい描をりわの 。いな んいがちにだし性落楽な子供﹂のへの執の着差かをい笑るにれ導てっよ 性的、﹁えらとに婦瞰俯を況状るに愛性のり込む夫心﹂と﹁め愛に無関 者しは子供ろ鑑む。いなえ思夫が賞婦邪のいん遊に気で無ら傍の戯で性 親覗を戯性の入両、移情感見にきしる者こはとうよがいるす験体追をと 婦傍の戯性の春夫が者る見を画でらぶ無め供子のそ邪、眺を供子遊に気 。、にかした ︶57
14︵
p. 53
参
図 13 北尾重政『吾嬬土産』
照︶︶。結果は、江戸春画には︿第三者﹀が約四〇パーセントの割合で描かれている。一方、残りの約六〇パーセントの画図には︿第三者﹀が描かれていない。こうしてみると、江戸春画は必ずしも男女の性交表現のみに焦点を絞ってきたわけではないことがわかる。江戸春画の約四割の画図に︿第三者﹀が描かれていることから、春画表現の目的が男女の性描写以外にも何かあることを想起させる。こうした結果をふまえて江戸春画に︿第三者﹀が描かれた理由を考えてみると、江戸春画は﹁男女の性交﹂はもちろんのこと、それに加えて﹁男女の性交をめぐる状況﹂までも表現の目的としたからではないだろうか。かりに春画表現の目的を﹁男女の性交﹂のみに限定するならば、約四割の春画に︿第三者﹀が描かれている理由が見つからない。むしろ、春画表現の目的を﹁男女の性交をめぐる状況﹂まで広げるならば、︿第三者﹀の有無に関わらず、性交者のみでも十分にその状況は表現できる。つまり江戸春画は、人物描写よりも、状況描写に重点をおいたと考えられる。江戸春画の約四割に︿第三者﹀が描かれていることから、こうした春画表現の隠された目的も見えてこよう。
二.二 第三者の立場と年齢それではいったい、どのような立場の人びとが︿第三者﹀として描かれているのだろうか。江戸春画の性描写の画図︱総数三〇一七画図︱を対象に、︿第三者﹀の立場の割合を算出してみた。ところが、江戸春画にはじつに様々な︿第三者﹀が描かれており、ときには仙人や化物までが︿第三者﹀として描かれている。そのため、描写の類型化がひじょうに難しく、パーセントによる算出ができなかった。ただ、そうしたなかでも︿第三者﹀として最も多かったのが﹁女中﹂である。︿第三者﹀の﹁女中﹂は、総数に対して一一二画図に描かれており、その他と比べて圧倒的に多い。二番目に多かったのは﹁庶民女﹂ であるが、こちらは総数に対して五四画図であり、﹁女中﹂の約半分ほどしか描かれていない。こうした数値からも、江戸春画の︿第三者﹀に﹁女中﹂が数多く描かれたことがわかる。ただ、今回の数量分析では、主人夫婦の身の回りの世話をする﹁女中﹂と他家で家事や雑用をする﹁下女﹂の区別を厳密にせず、女性の奉公人をすべて﹁女中﹂と判断した。というのも、江戸春画においては﹁女中﹂と﹁下女﹂の判別がつきにくいことが多く、絵柄としては﹁女中﹂であるのにじっさいの書き入れには﹁下女﹂と記されている例も見られたからである ︵
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多くなる。江戸春画に﹁子供﹂が多く描かれていることはすでに先行研究で言われているが、そこで春画に﹁子供﹂が描かれた理由として﹁笑ひ﹂の趣向が指摘されている。江戸春画に描かれた﹁子供﹂にはおもにふたつのパターンがあり、ひとつは男女の性交を傍らから冷やかす悪戯者の場合と、もうひとつは男女の性交にまったく気づかない無邪気者の場合である ︵
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15︵
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参照︶︶。結果は、やはり﹁青年﹂と﹁壮年﹂が多く、双方で約六割以上を占めている。また注目すべきは﹁子供﹂の年齢にあたる部分であり、﹁幼年﹂︵赤子︶が全体の四パーセントも描かれており、﹁少年﹂が全体の三パーセントも描かれている。したがって、﹁幼年﹂と﹁少年﹂をあわせた年齢層は第三者の全体の約七パーセントを占めている。この結果から、江戸春画の第三者には﹁老人﹂よりもむしろ﹁子供﹂を多く描いてきたことがわかる。
二.三 覗きと手淫ところで江戸春画には、第三者の行為として︿覗き﹀や︿手淫﹀が描かれることが多い。なかでもとくに第三者が︿覗き﹀をする表現が目立つ。第三者が襖の隙間から性交者を覗きみる描写や、壁に開けられた覗き穴から閨房を覗きみる描写などがある。現に日本の性風俗を研究する欧米の研究者は、日本の春画を紹介する文章のなかで中国秘画には見られない特徴として引き戸の隙間から覗き見をしている傍観者の描写を上げて いる ︵
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り ︵ 研おてれさ摘指で究16︶。先にですはとこのこ行 図年けを抜き出、その男女比とし齢しの︵たみて出算を合割 のか者三第︿ら〇︱図画七一三き覗画﹀二だ︱図一八︱が図画たれか描 総数︱場こ図面が多く描かれいる。そてでの画今写描性の画戸江、回春 世に画春絵初浮の期にく女はる中が主人夫婦の情交を覗き見、と ︶62
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参照︶︶。その結果、江戸春画には男性の︿覗き﹀よりも女性の︿覗き﹀の方が圧倒的に多く描かれていることがわかった。女性の覗きは約六割近くも描かれているのに対して、男性の覗きはわずか三割程度しか描かれていない。またその表現の傾向にも男女の間で違いがあるように思われる。江戸春画に描かれた女性の覗きは、自己の性欲を満たすためというよりも他人の性への興味関心によるものが多く、うわさ話をする場面を偶然盗み見するような日常生活の点景を描いたものが多い。それに比べて江戸春画に描かれた男性の覗きは数は少ないが奇抜な表現が多く、屋根の上から体をくねらせて閨房を覗く者など、自己の性欲を満たすための変態行為を描いたものが多い。われわれが︿覗き﹀という言葉からイメージする嫌らしさはもっぱら男性の覗きの描写にみられる。もっとも﹁のぞき﹂が愚かな男性の軽犯罪として位置づけられたのは明治以降のことである。明治の風俗取締まりのなかで男女混浴が禁止され、その反動として湯屋を覗く男性があちらこちらに現れたとされている。また﹁のぞき﹂が﹁窃視症﹂として病気と扱われたのは大正から昭和のはじめにかけてのことである。およそこの頃から﹁のぞき﹂が犯罪や病気として人びとに認知されるようになった ︵
好女を生みかねな。江戸春画に覗きい性たがの性女んに、はのたれか描 とちすると、絵師たるの意図とは異な誤解ようえっ捉を現表のそてもを われ覗われだんめふ、に際る眺をがき﹁メ識認るジーすイらか葉言の﹂ 。画春戸江めたのそ ︶63