第 2 章 群論
多くの小分子の構造には対称性がある。水H2O は二等辺三角形、アン モニアNH3は正三角錐、メタンCH4は正四面体、ベンゼンC6H6の炭素 骨格は正六角形である。分子の諸性質は、構造の対称性を反映した特徴 を示す。例えば、分子の電子状態や振動状態は対称性に基いて分類され る。これに光との相互作用の対称性を掛け合わせると、光吸収・放出の 選択則が決まる。また、化学結合の生成や切断において影響し合う分子 軌道の組も、対称性により判別される∗。これを利用して反応性を議論す るのが、フロンティア軌道理論やWoodward-Hoffmann 則である。
2.1 対称性の例
対称性の重要性を示す身近で簡単な例に、関数の偶奇性がある。実変 数関数f (x) が f (−x) = f(x) を満たすならば偶関数、f(−x) = −f(x) を 満たすならば奇関数である。これらは次のような性質を持つ。
• f(x) が偶関数ならば
∫ L
−L
f (x)dx = 2
∫ L 0
f (x)dx (2.1) f (x) が奇関数ならば
∫ L
−L
f (x)dx = 0 (2.2) L → ∞ としても上は成り立つ。
∗本章の表題は「群論」となっているが、実際の内容はむしろ「分子の対称性と点群 表現」といった限定的な表題が適している。分子構造への「対称操作(2.3 節)」は数学 的な「群」をなすが、群論自身は本章の扱いよりも広い内容を持つ。
• 偶奇の等しいもの同士の積は偶関数、偶奇の異なるもの同士の積は 奇関数。f (x) と g(x) の偶奇が異なれば、
∫ L
−L
f (x)g(x)dx = 0 (2.3)
• べき級数に展開したとき、偶関数の展開には偶数次の項だけが現れ、 奇関数の展開には奇数次の項だけが現れる。例えば、
cos x = 1 − x
2
2 + x4
4! + · · · =
∞
∑
n=0
(−1)nx2n
(2n)! (2.4)
sin x = x − x
3
3! + x5
5! + · · · =
∞
∑
n=0
(−1)nx2n+1
(2n + 1)! (2.5)
注意 上のcos xとsin xの展開は
cos x + i sin x = eix=
∞
∑
n=0
(ix)n
n! (2.6)
の実部と虚部から得られる。
偶関数と奇関数への分類と同様に、分子波動関数も対称性に基いて分 類できる。そして、分子波動関数を基底とする種々の行列要素(積分) が 値を持つか否かを、計算を実行せずとも式(2.3) と同様に対称性から判定 できる†。
また、偶関数は偶関数のみで展開されるのと同様に、ある対称性をも つ波動関数は同じ対称性の関数のみの重ね合わせで表され、異なる対称 性の波動関数は混合しない。これを利用して、最初から対称性を反映さ せた基底関数を用いることで、分子波動関数を決定する計算を簡略化で きる。次節でこれを概説し、群論への導入とする。
2.2 対称化分子軌道による簡約
前章で扱ったH¨uckel 法を題材とし、分子の対称性を利用することで、 永年方程式の行列式の次元を低減させることが出来ることを見る。
†対称性からゼロとなるべきである場合には、必ずゼロとなる。判定できるのはここ までで、対称性からゼロとなると言えない場合でも、他の理由でゼロになることはある。
2.2.1 ブタジエン
ブタジエンの炭素原子に端から1 から 4 の番号を振る。分子面に垂直 な炭素2p 軌道を φ1 ∼ φ4とし、それらの分子軌道係数をc1 ∼ c4とする。
分子構造の対称性から、|c1| = |c4| および |c2| = |c3| が言える。シス・ ブタジエンの場合は、C2− C3軸を垂直二等分する平面、トランス・ブタ ジエンの場合は、C2 − C3の中点を通り分子面に垂直な軸周りの180◦回 転に関して対称(c1 = c4, c2 = c3) または反対称 (c1 = −c4, c2 = −c3) と なる。
対称の場合、分子軌道は
ψ = c1(φ1+ φ4) + c2(φ2+ φ3) の形となる。そこで、新しい基底ϕ1, ϕ2を
ϕ1 = √1
2(φ1+ φ4), ϕ2 =
√1
2(φ2+ φ3) で定義する。1/
√2 の因子は、ϕ1, ϕ2を規格化するためである。すなわち、
⟨ϕ1|ϕ1⟩ = 12⟨φ1 + φ4|φ1+ φ4⟩ = 12(⟨φ1|φ1⟩ + ⟨φ4|φ4⟩) = 1 となる‡。同様に、⟨ϕ2|ϕ2⟩ = 1 である。
このϕ1, ϕ2によるHamiltonian 行列要素は
⟨ϕ1|H|ϕ1⟩ = ⟨φ1+ φ4|H|φ1+ φ4⟩/2 = α
⟨ϕ2|H|ϕ2⟩ = ⟨φ2+ φ3|H|φ2+ φ3⟩/2 = α + β
⟨ϕ1|H|ϕ2⟩ = ⟨φ1+ φ4|H|φ2+ φ3⟩/2 = β よって、係数d1, d2を決める永年方程式は
α − E β β α + β − E
= 0 ⇒
x 1 1 x + 1
= x2+ x − 1 = 0
となり、式(1.10) の因子の 1 つが得られる§。
同様に、反対称の場合はc1 = −c4, c2 = −c3となるので、基底関数は ϕ3 = √1
2(φ1− φ4), ϕ4 =
√1
2(φ2− φ3) の2 つとなる。
‡H¨uckel 法では、相異なる原子軌道間の重なり積分は無視すること、すなわち ⟨φ1|φ4⟩ = 0 を用いた。
§第1 章と同様、(α − E)/β = x とおいた。
練習問題 ϕ3, ϕ4による行列要素を計算し、永年方程式が式(1.10) のも う1 つの因子を与えることを確かめよ。
上のように、対称の場合と反対称の場合を別々に取り扱ってよいのは、 次の理由による。上で導入した対称な基底ϕ1, ϕ2と反対称な基底ϕ3, ϕ4 の間の行列要素を計算してみると、例えば
⟨ϕ1|H|ϕ3⟩ = ⟨φ1+ φ4|H|φ1− φ4⟩/2 = α − α = 0
のように、全てゼロとなる。従って、ϕ1 ∼ ϕ4を基底とした場合の永年方 程式は
x 1 0 0 1 x + 1 0 0 0 0 x 1 0 0 1 x − 1
= 0
となる。このように、対角行列ではないが、小さな正方行列の塊(ブロッ ク) が対角線上に並び、残りの要素がゼロとなる形を「ブロック対角形」 と呼ぶ。このとき、定理1.2 のように行列式は因数分解されるので、永年 方程式を別々に扱える。このように、対称性を考慮することで、4 次元の 問題が2 次元の問題 2 つ (2+2) に分解される。
練習問題 上と同様の考察をアリルカチオンについて行う。中心の炭素 原子を通り分子面に垂直な対称面を考える。この面に関して対称な分子 軌道は、次式で定義される基底関数ϕ1, ϕ2から成る。
ϕ1 ≡ (φ1 + φ3)/√2, ϕ2 ≡ φ2
これらから永年方程式を作り、分子軌道エネルギーと分子軌道係数を求 め、第1 章で得た結果と一致することを確かめよ。次に、この対称面に 関して反対称の分子軌道について考察せよ。
2.2.2 ベンゼン
ベンゼンの六つの炭素原子に右回りにC1からC6まで番号を付ける。分 子はxy 平面にあるとし、分子の中心を原点、C4–C1方向をy 軸にとる。xz 平面に関して対称(Symmetric) であることを Sx、反対称(Antisymmetric) であることをAxと書く。同様に、yz 平面に関する対称性を Sy、Ayとす
る。π 分子軌道は SxSy, SxAy, AxSy, AxAyの4 通りに分類される。分子 軌道係数の間には次のような関係がある。
• SxSyのとき、c1 = c4, c2 = c3 = c5 = c6
• SxAyのとき、c1 = c4 = 0, c2 = c3 = −c5 = −c6
• AxSyのとき、c1 = −c4, c2 = −c3 = −c5 = c6
• AxAyのとき、c1 = c4 = 0, c2 = −c3 = c5 = −c6
これらにおいて、独立な変数の数は上から順に2, 1, 2, 1 である。すな わち、ブタジエンの場合に4 次元の問題が 2+2 に、アリルカチオンの場 合に3 次元の問題が 2+1 に分解されたように、ここでは 6 次元の問題が 2+1+2+1 に分解される。特に SxAyとAxAyでは変数が1 つとなるので、 アリルカチオンの反対称分子軌道の場合と同様、永年方程式を解く必要 がない。
練習問題 上記の分解(2+1+2+1) に基づきベンゼンの H¨uckel 永年方程 式を簡約し、第1 章で得た結果との一致を確かめよ。
補足 試みにSx, Axの分類のみを考慮してみると、
• Sxのとき、c1 = c4, c2 = c3, c5 = c6
• Axのとき、c1 = −c4, c2 = −c3, c5= −c6
となり、6次元の問題が3次元の問題2つ(3+3)に分解される。
練習問題 Sy, Ayの分類のみを考慮した場合には、4次元と2次元(4+2)に分 解されることを説明せよ。
2.3 対称操作と群
2.3.1 分子の対称操作
前節のシス・ブタジエン、アリルカチオン、ベンゼンにおける平面に 関する対称移動や、トランス・ブタジエンにおける軸周りの180◦回転で は、その操作後の分子構造は元と重なる。このように、操作の結果が元
の図形に重なるものを対称操作という。分子の対称操作には、次の五つ がある。
分子の対称操作
✓ ✏
• 恒等操作 (E): 何もしない。
• 回転 (Cn): 軸の回りに 2π/n の角度だけ回転する。
• 鏡映 (σ): 平面に関して対称移動する。
• 反転 (i): 中心点から見た座標 (ベクトル) を反転させる。
• 回転鏡映 (Sn): Cn回転に続き、回転軸に垂直な平面に関して鏡 映する。
✒ ✑
練習問題 水分子H2O とアンモニア分子 NH3について、可能な対称操作 を全て挙げよ。
解 H2O: 恒等操作E、分子軸まわりの回転C2、分子面に関する鏡映、分子面 に垂直で分子軸を含む面による鏡映。NH3: 恒等操作E、分子軸まわりの回転 C3(回転の向きにより2つある)、分子軸と1つのH原子を含む面による鏡映(3 つある)。
分子軸に垂直な面に関する鏡映はσhと書く。(添字は ‘horizontal’ から 来る。分子軸を鉛直方向に取れば、これは水平面であることによる。) こ れに対し、分子軸を含む面に関する鏡映はσv と書く。(添字は ‘vertical’ から来る。) 上の H2O の例では、2 つとも σvである。両者を区別するた めに、分子面の方をσv′、もう一方をσvと書くことがある。または、分子 軸がz 軸、分子面が yz 平面となるように座標系を定義して、2 つの鏡映 面をσv(yz), σv(xz) のように書くこともある。
NH3の3 つの鏡面も全て σv である。回転の向きによる2 つの C3は、 C3+とC3−のように書いたり、−120◦回転は+240◦回転と同じ結果を与え ることからC3とC32のように書くこともある。C32の右肩の2 は、対称操 作を2 回続けて行うことを意味する。
H2O は C2v対称性、NH3はC3v対称性を持つという。(対称性の分類法 と命名法の詳細については標準的な物理化学の教科書を参照して貰うこ とにして、本書では省略する。)
練習問題 Sn2 = Cn2, S2 = i, S42 = C2, S44 = E, S33 = σ を示せ。
2.3.2 群の定義
対称操作を続けて行なうことにより、対称操作の積を定義できる。例 えば、上でも見たように、C3回転を続けて2 回行うことを C3C3または C32と書く。対称操作Riに続いてRjを行うことをRjRiと書くことにす
る。(このように、先に行う操作を右側に書くのが通例である。) 対称操 作を続けて行うことは、やはり対称操作である。例えば、C2回転を2 回 続けると元に戻る。これをC22 = E と書く。また、(C3+)2 = C3−である。 このように、対称操作には自然に積が定義される。一組の対称操作が、 以下に示す条件を満たすとき、それらは数学的な「群」をなすと言う。一 般的な群の定義は、次のようになる。
✓群の定義 ✏
集合G = {R1, R2, · · · , Rn} の元に積 RiRjが定義され、G において閉 じている(RiRj ∈ G) とする。以下の性質を満たすとき、G は (この 積に関して) 群をなすという。
1. 結合則 (RiRj)Rk = Ri(RjRk) が成り立つ。
2. G の任意の元 Riに対してRiE = ERi = Riとなるような元E が、G の中に存在する。この E を単位元と呼ぶ。(単位元の存在) 3. G の各元 Riに対して、RiRk = RkRi = E となる元 RkがG の
中に存在する。これをRiの逆元と呼び、R−1
i などと書く。(逆
元の存在)
✒ ✑
練習問題 C2v= {E, C2, σv, σv′} は群をなすことを確かめよ。
補足 ここでは、分子の対称操作を念頭に群を導入したが、群の概念そのもの は、一般的に抽象化されたものである。例えば、1.1.1節で扱ったn!通りの「置 換」の集合も群をなす。(n個のものの並べ替えを続けて行うことは、やはり一 つの並べ替えである。) この群は、「n次対称群」または「n次置換群」と呼ばれ る。化学においては、Pauliの原理を満たすような多電子波動関数を考察する際 に有用となる。
2.4 簡単な例 : H
3系と C
3H
+5本節では、H3系とアリルカチオンC3H+
5 を例にとり、分子に関する群 論的考察の1 つの雛形を提示しつつ、基礎的概念と手法を具体例に則し て解説する。H3系は二等辺三角形の原子配置をとっているものとする¶。 対称性はC2vである。基本的に本文はH3系で説明し、練習問題でアリル カチオンC3H+5 を扱う。
2.4.1 予備的考察
H3系について、各原子の1s 原子軌道 (φ1, φ2, φ3とする) から生成され る分子軌道を考える。基底が3 つなので、分子軌道も 3 つ生成される。分 子軌道の概形は、節の数と原子配置の対称性により決まる。
最低エネルギー軌道は節を持たず、3 つの 1s 原子軌道が同符号で重ね 合わされる。これを、ψ1 : + + + と書くことにする。2 番目の分子軌道 は中央に節を1 つ持つので φ2の係数は0 である。これを ψ2 : + 0 − と書
く。3 番目の分子軌道は節を 2 つ持ち、ψ3 : + − + のように書かれる。よ り具体的には、a > 0, b > 0 として、
ψ1 ∝ φ1 + a φ2 + φ3 ψ2 ∝ φ1 − φ3
ψ3 ∝ φ1 − b φ2 + φ3
(2.7)
の形となる。対称性より、φ1とφ3の係数の絶対値は常に等しい。 これらの分子軌道ψ1, ψ2, ψ3は分子の対称性C2vを反映している。例え ば、ψ2にC2vを構成する対称操作を演算すると、次のようになる。
Eψ2 = ψ2, C2ψ2 = −ψ2, σvψ2 = −ψ2, σv′ψ2 = ψ2,
上述のように、ψ2の位相構造は「+ 0 −」と表される。これは、回転 C2 により反転して「− 0 +」となるので、C2ψ2 = −ψ2となる。
練習問題 ψ1とψ3について同様な考察をせよ。
上の結果を表にまとめると、下記左側の表のようになる。
¶この系の安定性あるいは実在性は問わないことにする。
E C2 σv σv′ ψ1 1 1 1 1 ψ2 1 −1 −1 1 ψ3 1 1 1 1
C2v E C2 σv σ′v A1 1 1 1 1 A2 1 1 −1 −1 B1 1 −1 1 −1 B2 1 −1 −1 1 表 2.1: 分子軌道への対称操作 (左側) と C2vの指標表(右側)
右側の表は、C2vの「指標表」と呼ばれる。今のところは左側の表との 類似性にのみ着目すればよい。A1, A2, B1, B2と書かれているのは、「既約 表現」と呼ばれるもので、ここでは単なる名札と思えばよい。左右の表 の対応から、分子軌道ψ1とψ3にはA1というラベルを付け、ψ2にはB2 というラベルを付ける。正確には、
「ψ1とψ3は既約表現A1に属し、ψ2は既約表現B2に属する」 と言う。3 つの原子軌道基底 φ1, φ2, φ3から、A1に属する分子軌道が2 つ、 B2に属する分子軌道が1 つ得られたことから、これを
2A1+ B2 (2.8) と書く。
補足 物理化学の標準的教科書の多くには、代表的な対称性の指標表が巻末附 録として掲載されている。これらは、最左列にあるAi, B1などの名札を定義す るものと思えばよい。指標の定義は、2.5.1節で与える。当面は、与えられた指 標表を「どのように使うか」について述べる。
準備 s 原子軌道が球対称であるのに対し、p 原子軌道は節面を持つ。例 えば、pz軌道はxy 平面を節面とするので、σxypz = −pzである。また、
pz軌道はz 軸を含む平面による鏡映で不変なので、σxzpz = pz となる。
練習問題 アリルカチオンC3H+5 は、C2vの対称性を持つ平面共役炭化水 素である。この分子のπ 分子軌道に対し、H3系と類似の考察が適用でき る。それには、式(2.7) において φ1, φ2, φ3 を分子面に垂直な炭素2p 原子 軌道に読み替えればよい。これらから成るπ 分子軌道 ψ1, ψ2, ψ3 の属する 既約表現を判定せよ。
注意 以上では、分子軌道に対称操作を施した結果が元と一致するか符号を変え るかによって+1または−1を付与し、これと指標表との比較から既約表現を判 定した。実はこの手続きは、より一般的な手続きを簡略化したものであり、後で 説明する「既約表現の次元」が1次元の場合にのみ適用可能である。これについ ては2.5節以降の議論で明らかになる。その学習では、上の簡略な手続きが1次 元既約表現の場合にのみ可能な理由を理解することを1つの目安にすると良い。
2.4.2 群論的考察
前節の議論では、分子軌道の位相構造を表す式(2.7) は既知とした。す なわち、分子軌道を決定する計算は済んでいるものとした。しかし、分 子軌道が未知である状況から出発しても、用いる原子軌道基底の組に対 称操作を施すことにより、得られるべき分子軌道の対称性を判定するこ とが可能である。ここではその方法を述べる。ただし、理由は省いて手 続きのみを示す。背後の理論はxx 節以降で議論する。
既約表現への分解
前節と同様、C2v配置にあるH3系を例にとり、各原子上に1s 原子軌道 φ1, φ2, φ3を置く。このとき、C2回転によって両端の1s 軌道が入れ替わる ので、C2φ1 = φ3, C2φ3 = φ1 である。このような考察を全ての対称操作 について行うことにより、表2.2 を得る。
E C2 σv σv′ φ1 φ1 φ3 φ3 φ1
φ2 φ2 φ2 φ2 φ2
φ3 φ3 φ1 φ1 φ3 χ 3 1 1 3
表 2.2: 対称操作による原子軌道の変換と指標
この表の最下行に示した数字は、対称操作によって不変であった関数 の数を表す。例えば、E では φ1, φ2, φ3の3 つとも不変なので E の下には 3、C2ではφ2のみが不変なのでC2の下には1 とある。この 4 つの数字の 組を数ベクトルのように見て、χ = (3, 1, 1, 3) とおく。
C2vの指標表の各行も数ベクトルのように見て、 A1 = (1, 1, 1, 1)
A2 = (1, 1, −1, −1) B1 = (1, −1, 1, −1) B2 = (1, −1, −1, 1)
(2.9)
とおく。このとき、
χ = (3, 1, 1, 3) = (2, 2, 2, 2) + (1, −1, −1, 1) = 2A1+ B2 (2.10) となっている。これより、原子軌道φ1, φ2, φ3から生成される分子軌道は、 A1に属するものが2 つ、B2に属するものが1 つであるべきと判定され る。前節の結果である式(2.8) は確かにそうなっている。
準備 次の練習問題で、同様の考察をアリルカチオンC3H+5 について行 う。このとき、C2φ1 = −φ1のように、対称操作によって符号のみが変る ような基底関数が現れる。この場合には、χ には −1 の寄与を与える。 練習問題 上と同様の考察をアリルカチオンC3H+5 について行い、前節 の練習問題の結果(χ = 2B1+ A2) を確認せよ。
直交定理
ベクトルχ を式 (2.10) のように分解するのは、上のように目の子では なく、系統的に行うことが可能である。それは、
✓ ✏
指標表に並ぶ数ベクトルA1, A2, B1, B2 が互いに直交している
✒ ✑
ことによる。任意のベクトルを直交基底ベクトルの線形結合に分解する には、そのベクトルの基底ベクトルへの射影を考えればよい。
ただし、ベクトルA1, A2, B1, B2 の長さは規格化されていない。全ての 要素の絶対値が1 なので、例えば (A1, A1) = 1 + 1 + 1 + 1 = 4 のように、 長さの二乗が対称操作の数(E, C2, σv, σ′vの4 つ) に等しくなる。この対称 操作の数を位数と呼びh と表す。すなわち、C2vの位数はh = 4 である。 これを考慮すれば、ベクトルの射影によるχ = (3, 1, 1, 3) の分解は、
χ = 1
h[(χ, A1)A1+ (χ, A2)A2+ (χ, B1)B1+ (χ, B2)B2]
= 2A1+ 0 · A2+ 0 · B1 + B2
(2.11)
と 表 さ れ る 。1/h の因子は、基底ベクトルを A1/√h, A2/√h, B1/√h, B2/√h のように規格化したことによると考えてもよい。
練習問題 上と同様に射影を考えることにより、アリルカチオンC3H+5 に ついての結果(χ = 2B1+ A2) を確認せよ。
注意 上の議論の第1の要所は、指標表の各行からなる数ベクトルが互いに直 交する点である。このことを一般論として証明することも重要だが、分子に関 する種々の対称性の指標表は既知なので、まずは具体的に上記の直交性を確認 して慣れ親しむことも有効であろう。
練習問題 次表はC3v対称性の指標表である。2.3 節の練習問題で見たよ うに、C3は2 つ、σv は3 つあり、表中で 2C3、3σv と表されている。既
約表現の各行を数ベクトルと見なしたとき、それらが相互に直交してい ること、および自身との内積が位数に等しいことを確かめよ。
C3v E 2C3 3σv A1 1 1 1 A2 1 1 −1 E 2 −1 0 表 2.3: C3vの指標表
補足 本節の議論の第二の要所は、数ベクトルχを作る部分である。基底関数 (原子軌道)に対称操作を施した結果が元と同一の場合に+1、符号のみが変わる 場合に−1を付与し、総ての基底関数に関して和を取ったものをχの成分とし
た。2.5.1節で解説するように、このような計算をする理由は、対称操作の表現
行列というものの対角和(跡、trace)がχに相当することによる。行列の対角和 は、行列の相似変換によって不変であるという特性をもつ。このことから、χは 対称操作を特徴付けるものであり、「指標(character)」と呼ばれる。2.5節以降 で対称操作の表現とその指標について学習する際には、本節で示した計算手順 に説明を与えることを1つの目安にすると良い。
原子軌道基底の対称化
上では、原子軌道基底φ1, φ2, φ3に対称操作を施すことで、式(2.10) ま たは(2.11) が得られた。これは式 (2.8) と一致している。この式の意味は、
φ1, φ2, φ3から得られるべき分子軌道ψ1, ψ2, ψ3のうち、2 つが A1、1 つが B2の対称性(既約表現) に属することであった。このように、原子軌道関 数の組を設定し、上のような操作を施すことによって、
✓ ✏
どの対称性に属する分子軌道が幾つずつ得られるかを、具体的なエネ ルギー計算を経ずに知ることが出来る。
✒ ✑
これが群論の威力の1 つである。さらに一歩進み、分子軌道 ψ1, ψ2, ψ3の
概形や、分子軌道エネルギー図の大まかな様子まで議論することが出来 る。これを次に示す。
まず、表2.2 の各行を横ベクトルと見て、 t1 = (φ1, φ3, φ3, φ1) t2 = (φ2, φ2, φ2, φ2) t3 = (φ3, φ1, φ1, φ3)
とおく。これらは、原子軌道関数が対称操作によってどのように変換さ れるかを示したものであった。これらと、式(2.9) で定義した数ベクトル A1, A2, B1, B2との内積を考える。まず、A1 = (1, 1, 1, 1) との内積は、
(A1, t1) = φ1 + φ3+ φ3+ φ1 = 2(φ1 + φ3) (A1, t2) = φ2 + φ2+ φ2+ φ2 = 4φ2
(A1, t3) = φ3 + φ1+ φ1+ φ3 = 2(φ1 + φ3)
(2.12)
1 行目と 3 行目は同じ結果を与えるので、この操作から独立な関数が 2 つ 得られる。簡単のため係数は省略して、それらを
ϕ1 = φ1+ φ3, ϕ2 = φ2
とおく。次に、B2 = (1, −1, −1, 1) について同様の計算をすると、 (B2, t1) = φ1− φ3− φ3+ φ1 = 2(φ1− φ3)
(B2, t2) = φ2− φ2− φ2+ φ2 = 0
(B2, t3) = φ3− φ1− φ1+ φ3 = −2(φ1− φ3) これにより独立な関数は1 つ得られる。それを
ϕ3 = φ1− φ3
とおく。
練習問題 同様の操作をA2 = (1, 1, −1, −1), B1 = (1, −1, 1, −1) につい て行え。
練習問題 上で得られたϕ1, ϕ2, ϕ3について、表2.1 を得たのと同様の考 察を行え。
上のϕ1, ϕ2, ϕ3を
✓ ✏
「対称化された原子軌道」基底
✒ ✑
と呼ぶ。これらと式(2.7) の ψ1, ψ2, ψ3の間には、 ψ1 = ϕ1+ aϕ2
ψ2 = ϕ3
ψ3 = ϕ1− bϕ2
の関係がある。これらが示すのは、A1の対称性に属するψ1とψ3は同じ くA1に属するϕ1とϕ2の重ね合せで、B2に属するψ2は同じB2に属す るϕ3で表されることである。すなわち、
✓ ✏
異なる対称性の関数は混合しない。
✒ ✑
ψ1はϕ1 とϕ2を同位相(符号) で、ψ3は異位相で混合したものになっ ている。これは、結合性と反結合性の分子軌道を作る操作と同様である。 すなわち、ϕ1とϕ2からは、エネルギー的に安定化されたψ1と、不安定 化されたψ3が生成する。このエネルギー分裂にϕ3すなわちψ2は関与し ない。
練習問題 アリルカチオンC3H+5 のπ 分子軌道について、炭素 2p 原子軌 道を対称化し、上と同様の考察を行え。
対称化による積分の簡約
元の原子軌道基底φ1, φ2, φ3の間の重なり積分を Sij =
∫
φ∗i(r)φj(r)dr = ⟨φi|φj⟩
とおく。これらの基底関数は規格化されていて、Sii= 1 であるとする。い ま考察しているH3系(またはアリルカチオン) では、対称性より S12= S23
となる。簡単のため、これをS と書く。一方、S13はS′と書くことにす る。一般にはS ̸= S′である。これにより、基底φ1, φ2, φ3から作られる重 なり行列は
S =
1 S S′ S 1 S S′ S 1
となる。
次に、対称化された基底ϕ1, ϕ2, ϕ3 による重なり積分を考える。上と区 別するため、 ˜S と書くことにする。対角項については後から考えること にして、まず非対角項を計算すると、
S˜12= ⟨ϕ1|ϕ2⟩ = ⟨φ1+ φ3|φ2⟩ = S12+ S32= 2S S˜13= ⟨φ1+ φ3|φ1− φ3⟩ = S11− S13+ S31− S33= 0 S˜23= S21− S23= 0
となる。重要な点は、
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同じ対称性に属するϕ1とϕ2の間の積分は消えないが、 異なる対称性に属するϕ3との間の積分は消える
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ことである。適当に規格化してから行列で表すと、 S˜ =
1 S 0˜ S 1 0˜ 0 0 1
のようにブロック対角の形になる。
注意 上式では、ϕ1とϕ3を次のように規格化したものとしている。まず、重な り積分の対角項を計算すると、
S˜11= S11+ S13+ S31+ S33= 2(1 + S′) S˜22= S22= 1
S˜33= S11− S13− S31+ S33= 2(1 − S′)
となる。よって、 ϕ1 = 1
√2(1 + S′)(φ1+ φ3), ϕ3 = 1
√2(1 − S′)(φ1− φ3) と定義し直せば、ϕ1とϕ3は規格化される。ϕ2はそのままでよい。
このように、 ˜S13= ˜S23= 0 となるのは、ϕ1, ϕ2とϕ3が異なる対称性に 属するからである。これは、偶関数と奇関数の積の積分がゼロになるこ とに類似している。同様に、Hamiltonian 演算子の行列もブロック対角形 になる。これは、
✓ ✏
Hamiltonian 演算子は全ての対称操作に関して不変なので、被積分関 数の対称性に影響しない
✒ ✑
からである。すなわち、 Hij =
∫
ϕ∗i(r) ˆHϕj(r)dr
が値を持つか否かも、ϕiとϕjの対称性から決まる。よって、対称化され た基底関数によるHamiltonian 演算子の行列は
H =
H11 H12 0 H21 H22 0 0 0 H33
のようにブロック対角形になる。分子軌道法では、H (または Fock 行列と 呼ばれるもの) を対角化することにより、分子軌道係数や軌道エネルギー
を得る。✓ ✏
ブロック対角行列は、ブロック毎に別々に取り扱えばよいので、行列 が小さくなることにより計算が簡約される。
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ブロック毎に別々に取り扱えばよいということは、異なる対称性の基 底関数は互いに混合しないことに対応している。H の左上の2 × 2 行列 を対角化することにより、ϕ1とϕ2の線形結合から2 つの分子軌道が得ら れ、これらのエネルギーは分裂する。一方、この例では右下のH33は孤 立しているので、ϕ3とそのエネルギーがそのまま解となる。
まとめ
以上が、分子の電子状態計算における群論的考察の典型的な手続きで ある。改めて整理すると、
1. 基底関数の組 {φi} を設定する。
2. それらに分子のもつ対称操作を施した結果の表 (例:表 2.2) を作る。 ここから下の6 に飛んでもよい。
3. 対称操作によって不変または符号を変えるだけであるような基底関 数の数を数え、ベクトルχ を作る。
4. 分子の属する対称性の指標表を用意する。
5. 対称性のラベル (既約表現) 毎に指標表から数ベクトルを読み取り、 ベクトルχ をそれらの和に分解する。(例:χ = 2A1+ B2) 目の子 で可能ならばそれで良いし、そうでなければ、これらの数ベクトル の直交性を利用して、ベクトルの射影に相当する計算を行う。 6. 上記 2 の表の各行から、基底関数を要素とするベクトル (本節では
{ti} とした) を作る。これらと、指標表から読み取った数ベクトル との内積を計算する。これにより、基底関数は対称化される。独立 なものは、もとの基底関数と同じ数だけ得られる。また、得られた 対称化基底の組合せは、上記5 の χ の分解に等しい。
7. 対称化された基底関数を用いて、定性的に分子軌道や軌道エネル ギー図を描いたり、Hamiltonian 行列を計算し対角化して、これら を定量的に求めたりする。Hamiltonian 行列は対称性ごとにブロッ ク対角形になるので、別々に取り扱える。
注意すべきは、上の手続き3 が有効なのは、縮退のない場合、すなわ ち1 次元表現のみが含まれる場合だけということである。これについて は、2.6 節で改めて説明する。
ここでは、なぜそのような計算をするのかという理由は省略して、実 際にどのような手続きが実行されるのかを記述した。次節では、その背 後にある群論を理解するための鍵となる「対称操作の行列表現」につい て、ここまでと同じ例に則して説明する。
2.5 対称操作の行列表現
表2.2 の各々の列は、各対称操作によって関数の組 (φ1, φ2, φ3) がどのよ うに移るかを表す。例えば、
C2 : (φ1, φ2, φ3) → (φ3, φ2, φ1)
である。これを、操作C2を各関数に演算したものとして (C2φ1, C2φ2, C2φ3) = (φ3, φ2, φ1) と表したり、あるいは
C2(φ1, φ2, φ3) = (φ1, φ2, φ3)
0 0 1 0 1 0 1 0 0
(2.13)
のように横ベクトルに右から行列を掛けた結果として表記できる。右辺 の3 × 3 行列を D(C2) と書くことにする。これを、
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基底関数系{φ1, φ2, φ3} における対称操作 C2の表現行列
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と呼ぶ。容易に分かるように、恒等操作E の表現行列 D(E) は 3 × 3 の単 位行列である。
練習問題 D(σv) と D(σv′) を求めよ。
練習問題 対称化された原子軌道ϕ1, ϕ2, ϕ3について、同様に4 つの表現 行列を求めよ。また、ψ1, ψ2, ψ3の場合はどうなるか述べよ。
このように、
✓ ✏
表現行列は用いる基底関数系によって異ったものになる。
対称化された基底関数系による表現行列はブロック対角的になる。
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基底変換
2 つの基底の組 (φ1, φ2, φ3) と (ϕ1, ϕ2, ϕ3) は、変換行列 T により (ϕ1, ϕ2, ϕ3) = (φ1, φ2, φ3)T, (φ1, φ2, φ3) = (ϕ1, ϕ2, ϕ3)T−1 のように結ばれる。
練習問題 この行列T および T−1を求めよ。
練習問題 各対称操作R ∈ {E, C2, σv, σv′} について、2 組の基底に関する 表現行列の間には、
T ˜D(R) = D(R)T (2.14) の関係が成り立つことを確かめよ。
上式は次のように解釈される。この式を(φ1, φ2, φ3) に右から掛けると、 (φ1, φ2, φ3)T ˜D(R) = (φ1, φ2, φ3)D(R)T
⇒ (ϕ1, ϕ2, ϕ3) ˜D(R) = (Rφ1, Rφ2, Rφ3)T
左辺は、基底(φ1, φ2, φ3) を T により (ϕ1, ϕ2, ϕ3) に変換してから、対応 する対称操作の表現行列を掛けているのに対し、右辺ではその順序が逆 になっている。上式は両者が等しいことを示す。すなわち、基底変換し てから表現行列を求めても、表現行列を作ってから基底変換しても同じ 結果となる。上式は、
D(R) = T˜ −1D(R)T (2.15) と書くこともできる。これは、表現行列D(R) と D(R) は、互いに相似変˜ 換で結ばれることを示している。
補足 既に注意したように、対称化された基底関数による表現行列は一般にブ ロック対角形になる。言い換えると、
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基底関数を対称化することは、元の基底による表現行列D(R)をブロック対 角化する相似変換T−1D(R)T を求めることに他ならない。
✒ ✑
このことを群論では、
「可約な表現を既約表現に分解する」
という。実際の計算では、前節の式(2.12)等で実行したように、指標表を用い てベクトルの射影に相当する内積計算をすればよい。この手続と上の相似変換 の関係を理解するのが群論学習の鍵となる。
2.5.1 表現の指標
式(2.15) は相似変換なので、対角和 (トレース) は不変である。すなわ ち、tr[AB] = tr[BA] より、
tr[ ˜D(R)] = tr[T−1D(R)T ] = tr[D(R)T T−1] = tr[D(R)]
これをもとに、
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対称操作R の「指標」χ(R) を、
χ(R) = tr[ ˜D(R)] = tr[D(R)] (2.16) で定義する。χ(R) は基底関数の線形変換に関して不変である。
✒ ✑
練習問題 式(2.13) 以降で扱った例について χ(R) を計算し、式 (2.16) を 確かめよ。
この練習問題で得たχ(R) を並べたものが、2.4.2 節で主役を演じた数 ベクトルχ = (3, 1, 1, 3) に他ならない。式 (2.16) が示すように、この量 は基底関数の取り方によらない普遍性をもつ。
補足 2.4.2節で行った手続きは、原子軌道基底が対称操作によって不変であれ
ば+1、符号のみを変えれば−1、他の位置に移されれば0を付与することで、数 ベクトルχを作った。これは、表現行列の対角和を計算する手続きを簡略化し たものになっている。しかし、この簡略な手続きを適用できるのは、1次元の既 約表現のみを含む場合に限られる。その理由は、2次元の既約表現を含む場合を 次節で見ることによって、具体的に理解されることになる。なお、1次元の既約 表現とは、指標表でA1, B2などと表されたものである。これらに対し、Eは2 次元、T は3次元の既約表現を表す。
2.6 アンモニア分子 (C
3v)
アンモニア分子NH3は3 回対称の回転軸 C3をもつ。一般に、3 回以上 (n ≥ 3) の Cn軸を持つとき、分子軌道エネルギーには縮退が起こり得る。 群論の言葉では、これは2 次元以上の既約表現を持つことに相当する。こ の点が、前節までに見てきたC2vの場合と異なる。
2.6.1 s 軌道の変換
アンモニア分子の3 つの水素原子上の 1s 原子軌道を基底関数 φ1, φ2, φ3
とする。これらは対称操作により互いに移り合うので、指標を求める計 算には前節と同様の簡略な方法が使える。(これは s 軌道が球対称である ことによっている。) そこで、2.4.2 節の最後にまとめた手続きに沿って
考察する。
2. 基底関数に分子のもつ対称操作を施した結果の表を作る。
3. 不変または符号を変えるだけのものを数え、数ベクトル χ を作る。 E C3+ C3− σv σv′ σv′′
φ1 φ1 φ3 φ2 φ1 φ3 φ2 → t1
φ2 φ2 φ1 φ3 φ3 φ2 φ1 → t2
φ3 φ3 φ2 φ1 φ2 φ1 φ3 → t3
χ 3 0 0 1 1 1 4. 分子の属する対称性の指標表を用意する。
C3v E C3+ C3− σv σv′ σ′′v A1 1 1 1 1 1 1 A2 1 1 1 −1 −1 −1 E 2 −1 −1 0 0 0
5. 指標表から既約表現に対応する数ベクトルを読み取り、χ をそれら の和に分解する。
今の場合、上の2 つの表の視察により容易に χ = A1+ E が分る。 復習と練習のために、ベクトルの射影による計算を敢えてするならば、次の ようになる。C3vの対称操作の数すなわち位数はh = 6なので、
1
h(χ, A1) = 1
6{3 · 1 + 2(0 · 1) + 3(1 · 1)} = 1 1
h(χ, A2) = 1
6{3 · 1 + 2(0 · 1) + 3(1 · −1)} = 0 1
h(χ, E) = 1
6{3 · 2 + 2(0 · −1) + 3(1 · 0)} = 1
⇒ χ = 1
h{(χ, A1)A1+ (χ, A2)A2+ (χ, E)E} = A1+ E
6. 上記 2 で作った表の各行からなるベクトル (t1, t2, t3 とする) と、既 約表現に対応する数ベクトルとの間の内積を計算する。これにより、基 底関数は対称化される。まず、
(A1, t1) = (A1, t2) = (A1, t3) ∝ φ1+ φ2 + φ3
なので、A1に属する対称化基底は
ϕ1 = φ1+ φ2+ φ3
と取ればよい。(必要に応じて規格化する。)
5 で得たように χ = A1+ E なので、A2に属する対称化基底は現れな い。念のため計算してみると、
(A2, t1) = (A2, t2) = (A2, t3) = 0 となり、確かにそうなることが確認される。
既約表現E については、
(E, t1) = 2φ1− φ3 − φ2
(E, t2) = 2φ2− φ1 − φ3
(E, t3) = 2φ3− φ1 − φ2
の3 つが得られるが、これらの右辺の和は 0 となるので、独立なものは 2 つである。よって、任意の2 つを取ればよいが、これらは互いに直交し ていないので、1.2.3 節で説明した Gram-Schmidt 法などにより直交化す る。例えば上の3 つから 1 番目と 2 番目を取って
ϕ2 = 2φ1− φ2− φ3
ϕ′3 = 2φ2− φ3− φ1
とおく。これらを元に
ϕ3 = ϕ′3− ⟨ϕ2|ϕ
′3⟩
⟨ϕ2|ϕ2⟩ϕ2 とすれば、ϕ2とϕ3は互いに直交する。
具体的にϕ3を計算するには次のようにする。各φ1, φ2, φ3は規格化さ れているとし、相互の重なり積分は分子の対称性より等しいので、
⟨φ1|φ2⟩ = ⟨φ2|φ3⟩ = ⟨φ1|φ3⟩ = S とする。これにより、
ϕ3 = ϕ′3− 3S − 3
6 − 6Sϕ2 ∝ φ2− φ3 を得る。
ここで得たϕ2とϕ3は既約表現E に属するので、既約表現 A1に属する
ϕ1とは直交する。直交性は、分子軌道の概略図からも直ちに見て取れる。