2.8.1 遷移双極子と選択則
分子分光では、例えば可視光の波長が400∼700 nm程度であることか ら分るように、光と分子の相互作用V を双極子近似
V ≃ −µ·E
で扱うのは良い近似である。µは分子の双極子モーメントで、電子の座 標ri、原子核の座標RI および原子番号ZI、電荷素量eにより、
µ=−e
n
∑
i=1
ri+e
N
∑
I=1
ZIRI
と表される。Eは光の電場を表す。
分子波動関数ΨaとΨbで表される状態間の光学遷移強度は、遷移双極 子モーメント
µab =
∫
Ψ∗a µΨb dτ
の絶対値の二乗に比例する。Ψa,Ψbは(r1,· · · ,rn,R1,· · · ,RN)の関数で あり、dτ =dr1· · ·drndR1· · ·dRN である。
証明は省略するが、
✓ ✏
積分がゼロとならないのは、積分関数が全対称既約表現を含む場合に 限られる。
✒ ✑
全対称既約表現とは、C2vやC3vではA1のことで、全ての対称操作につ いて指標が1であるものを指す。
以 上 よ り、µab が 値 を も つ か 否 か を 判 定 す る に は 、Ψa,Ψb と xi, yi, zi, XI, YI, ZI との直積の対称性を調べればよいことが分る。
関数x, y, zの対称性を調べるには、p軌道の変換を考察した2.6.3節と 同様にすればよい。C3vの場合には、2.6.3節の末尾で指摘したように、z は既約表現A1、(x, y)の組は既約表現Eに属する。
次に、C2vについて考える。C3vについて調べた2.6.3節では、(x, y, z) の変換の表現行列と指標を求めたが、C2v は1次元表現しか含まないの で、より簡便にできる。通例に従い、z軸をC2軸、yz面をσv′ 面(分子面) とする。C2vの対称操作E, C2, σv, σ′vは、何れも自分自身が逆操作になっ ており、次表のように変換する。
R E C2 σv σ′v R−1x x −x x −x R−1y y −y −y y R−1z z z z z
表2.1の指標表と見比べれば、xはB1、yはB2、zはA1 に属することが 分かる。
2.8.2 電子スペクトル
まず、復習を兼ねて次の問題を考えよう。
練習問題 2.7.1節で考察したシス・ブタジエンについて、電子配置
Ψf : (ψ1)2(ψ2)1(ψ4)1 の属する既約表現を求めよ。
基底状態ΨgはA1、式(2.19)のΨeはB2に属すことを見た。ΨgとΨe
の積の直積表現は
ΨgΨe : A1×B2 = B2
であり、前節で見たように、B2はyの既約表現と一致するので、ΨgとΨe
の間の遷移双極子モーメントはy成分が非ゼロの値を持ち得る。このこ とを、「ΨgΨe遷移はµy許容である」と言うことにしよう。すなわち、
✓ ✏
状態間の直積表現が、x, y, zの既約表現と一致するものを含むとき、
その方向の遷移が双極子許容となる。
✒ ✑
練習問題 同様にして、ΨgΨf 遷移とΨeΨf 遷移について調べよ。
C3v の場合には、既に見たように、z がA1 の、(x, y)がEの既約表現 であった。よって、A1状態同士およびA2状態同士は、状態間の直積が A1となるので、遷移はµz許容である。A1状態とA2状態の間の遷移は、
A1 ×A2 = A2なので、x, y, zの何れとも一致せず、遷移双極子はゼロと なる。これを「(双極子)禁制」と呼ぶ。
一方、2次元表現Eの状態が関与する場合には少し注意を要する。E状 態とA1状態またはA2状態の間は、E×A1 = E, E×A2 = Eであるから、
(x, y)の既約表現と一致するので遷移は(µx, µy)許容となる。また、E状 態同士では、E×E = E + A1+ A2であるから、zの既約表現A1と(x, y) の既約表現Eをともに含むので、遷移はµx, µy, µzの何れも許容となる。
補足 上では、状態間の直積とx, y, zの対称性との一致を調べた。これは簡便 なので通常用いられる方法だが、より直接に遷移双極子の積分関数そのものを 考え、2つの状態とx, y, zとの積の対称性を調べてもよい。例えばE状態とA1 状態については、これらの波動関数でxまたはyを挟んだ積の表現が
E×E×A1 = E + A1+ A2
となって∗全対称表現A1を含むので、遷移はµx, µy許容となる。同じ状態間に ついてzを挟んだ積は
E×A1×A1= E となってA1を含まないので、遷移はµz禁制である。
練習問題 上と同様の考え方で、E状態同士の遷移について考察せよ。
2.8.3 基準振動の対称性
1.3.1節で見たように、分子の基準振動を求めるには、原子位置の微小
変位から定まる「力の定数行列」を対角化する。その固有ベクトルが与 える基準振動座標は、各原子の変位の線形結合となり、分子の対称性を 反映したものになる。このことは、Hamiltonian行列の固有ベクトルであ る分子軌道が、分子の対称性を反映したものとなることと類似している。
分子軌道法では、基底となる原子軌道の組を設定したら、Hamiltonian行 列の定量的詳細には依らずに、どの既約表現に属する分子軌道がいくつ 出るかを判定できた。基準振動の場合も、力の定数行列の定量的詳細に は依らずに、どの対称性(既約表現)に属する基準振動がいくつ出るかを 判定できる。
デカルト座標による方法
各原子の平衡位置からの微小変位ベクトルを考える。N 原子分子の場 合には、3N個の基底ベクトルとなる。これらについて、対称操作の指標 を求め、既約表現に分解する。得られた3N個には、分子全体の並進と回 転が含まれる。それらを除いた残りが、分子内振動の既約表現となる。
並進については、2.8.1節の遷移双極子の場合と同様に考えればよい。
回転についても、以下で例示するのと同様の方法で既約表現を判定でき る。しかし、通常は指標表にx, y, z, Rx, Ry, Rzと記されているので、そ れらを使えばよい。例えば、C2vの場合は下表のようになっている†。
∗E×(E×A1) = E×Eと考えてもよいし、(E×E)×A1= (E + A1+ A2)×A1と 考えてもよい。
†x2, y2, z2, xy, yz, xzといった2次の項は、ラマン分光の選択則を考察するのに用い られる。
C2v E C2 σv σv′
A1 1 1 1 1 z, z2, x2, y2
A2 1 1 −1 −1 xy Rz
B1 1 −1 1 −1 x, xz Ry B2 1 −1 −1 1 y, yz Rx
例として、水H2Oについて考える。酸素原子および二つの水素原子の微 小変位ベクトルを(∆x1,∆y1,∆z1), (∆x2,∆y2,∆z2), (∆x3,∆y3,∆z3) と する。これらの対称操作による変換は、次表のようになる。
R E C2 σv σ′v
∆x1 ∆x1 −∆x1 ∆x1 −∆x1
∆y1 ∆y1 −∆y1 −∆y1 ∆y1
∆z1 ∆z1 ∆z1 ∆z1 ∆z1
∆x2 ∆x2 −∆x3 −∆x3 −∆x2
∆y2 ∆y2 −∆y3 −∆y3 ∆y2
∆z2 ∆z2 ∆z3 ∆z3 ∆z2
∆x3 ∆x3 −∆x2 −∆x2 −∆x3
∆y3 ∆y3 −∆y2 −∆y2 ∆y3
∆z3 ∆z3 ∆z2 ∆z2 ∆z3
χ 9 −1 1 3
この最下行の指標χ= (9,−1,1,3)を既約表現に分解すると χ= 3A1+ A2+ 2B1+ 3B2
前頁の表によれば、x, y, z各方向の並進運動はB1,B2,A1に、x, y, z各軸 まわりの回転はB2,B1,A2に属する。これらを上の結果から除いた残りの 2A1+ B2が、振動の属する既約表現となる。二つのA1は対称伸縮と変 角、B2は反対称伸縮である。
練習問題 上の表と射影演算子の方法を用いて、微小変位の線形結合か らなる「対称化された微小変位」を求め、それらを並進、回転、振動に 分類せよ。
内部座標による方法
分子内伸縮や変角などの内部座標から出発して、同様の考察を行って もよい。上とほぼ同様の手続きによって、分子内振動の属する既約表現を
得ることができる。内部座標を用いれば、分子全体の並進と回転を始め から除外できる。例えば、水H2Oの場合には、二つのOH結合長とHOH 角の微小変位を考えればよい。これらを∆r1,∆r2,∆θとすると、対称操 作による変換は、次表のようになる。
R E C2 σv σ′v
∆r1 ∆r1 ∆r2 ∆r2 ∆r1
∆r2 ∆r2 ∆r1 −∆r1 ∆r2
∆θ ∆θ ∆θ ∆θ ∆θ
χ 3 1 1 3
指標χ= (3,1,1,3)を既約表現に分解すると χ= 2A1+ B2
となる。これは、デカルト座標から得た結果と同じである。