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井崎正敏著「〈考える〉とはどういうことか?」 「特技懇」誌のページ(特許庁技術懇話会 会員サイト)

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tokugikon

2008.8.22. no.250

 あとがきから読むと,そのような多くの読者のためと

して,本書の特色が紹介されている。「論理学・言語学・ レトリック論・倫理学などの垣根を越えて眺めると,ロ ジックとはレトリックという雄大な山脈に聳え立つ切り 立った頂きのようなものであることが分かる。両者は一 般に考えられているように氷炭相容れざるものではな く,しっかりとつながりあっているのだ。これが第一の ポイント。第二のポイントは,換喩,隠喩,提喩という 基本的な喩(転義)の構造を思考の構造としてあらため てとらえなおし,定義しなおしたこと。このことで喩と ロジックとの接点もはっきりしたはずである。第三のポ イントは,どんなにクールで抽象的な論理の根底にも倫 理が存在していること,すなわち論理は倫理であるとい う視点をはっきりと打ち出したことである。」(215−216 頁)

 思考はどこから始まり,どのように拡がっていくのか。 著者の体験(カエルの話)や小説の引用(夏目漱石「坊っ ちゃん」)を交えつつ話は進む。人間の意識にある不定形・ 非言語的なものは,言葉で表現されカテゴリーが明確化 される。そして,言葉の意味は,「喩」の作用によって拡 張していく。カテゴリー内を移動する換喩(メトノミー), カテゴリーを超えて移動する隠喩(メタファー),そし てカテゴリーの階層化である提喩(シネクドキ)により, 人間の思考も豊かになっていく。こうした思考の表現方 法が,言葉にかぎらず映像的にも多用されるとの指摘は, 興味深い。「満開の桜を映し出すことで春の到来を表現 し(換喩),花瓶に挿した一輪の椿の花が畳に落ちるこ とで病床の主人公がこと切れたことを表し(隠喩),食 卓の目刺しの映像で粗食を表現する(提喩)のは,きわ めて常套的な手法である。」(127頁)

 喩と思考との関係に続いて,推論過程をめぐる考察が 展開される。アイデア段階の仮説を客観的に証明するた めの方法として,あるいは個人的な確信を多くのひとに 説得するための方法として,帰納法は演繹法と互いに補 完しあいながら循環し,世界についての真理を描き出す。 帰納法による推論は,新たな考え方を導き出す一方で確 率的・飛躍的なものを含むものであり,他者に対する説 得力,普遍性の担保が重要となる。論理は倫理,という 著者の視点が,ここに重奏する。

 そして,論理的思考力は飛躍の力であり統合の力であ ると著者はいう。「科学的思考における仮説発見から実 証にいたる道筋も,この戦略的な決断と飛躍によって駆 動される。既成の思考を離れて別様に考えるこの飛躍の なかから,新しい情報や新しい思想が生み出される。 シャープな演繹能力だけでは創造的な思考力を構成する ことはできないのである。しかし飛躍によってもたらさ れた新しい情報や思想が新たな水準で整合性を獲得でき なければ,論理における飛躍の価値は実現しない。飛躍 によってあたえられた新たな水準に新たな整合性を追求 すること,これが重要な仕事として論理につねに課せら れる。果敢な飛躍と丹念に整合性をもとめる努力。この 不断の運動を可能にする力こそ,論理的思考力と呼ばな ければならない。」(212−213頁)

 言葉が媒介する人間関係のあらゆる場面において,論 理的に考えることは重要である。本書は,論理が単体で 存在する無味乾燥なものではなく,レトリックを前提し たうえで意義を有するものであること,自己中心を排除 し他者理解に配慮した倫理であることを教えてくれる。

紹介者  東北大学大学院法学研究科 平塚 政宏 井崎正敏著

洋泉社

「〈考える〉とはどういうことか?」

参照

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