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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2008年 10月号

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はじめに

 イブン・バットゥータは、1325年6月14日、21歳の

時に聖地メッカの巡ハ ッ ジ礼を志して故郷の町タンジールを

出発し、北アフリカ、エジプト、シリアを経て、次年 の聖地での巡礼大祭(1326年11月4〜7日)に無事参 列した。その後も、メッカを拠点にして、イラク、イ ラン、イエメン、東アフリカ、南アラビア、小アジア、 中央アジア、インド、モルディヴ諸島、スリランカ、 東南アジア、中国など、3回の大旅行を行った。  イブン・バットゥータの東方の旅のなかでも、とく にイエメン・東アフリカ・南アラビアの旅、さらにイ ンドのデリー滞在のあと、南インドの海岸地帯、モル ディヴ諸島、スリランカ、ベンガルと東南アジアの各 地を経て南中国の泉州(ザイトゥーン)に至る旅、そ して中国を離れて、ジャンク船とダウ船を乗り継ぎ、 スマトラ島とインドのカリカット(カーリクート)経 由、南アラビアのザファーリ(ズファール)、ホルム ズに至るインド洋横断の旅の記録は、彼の『大旅行記』 全編のなかでも最も波乱万丈の興味深い部分であり、 当時のインド洋海域世界を舞台とした海上交易や港市 社会の様子を躍如として写し出している。そこで連載 の第2回では、以上のイブン・バットゥータの体験と 目撃にもとづく旅の記録をとおして描き出されたイン ド洋海域世界について考えてみたい。

東方諸国への旅の動機

 多くのメッカ巡礼者たちは、念願の聖地巡礼を果た

したあと、帰路にメディナの聖モスク内の預ラ言者廟をウ ダ

参拝することもあったが、一般にはほぼ同じルートを 通って故郷に向かった。しかし、イブン・バットゥー タにとっての旅は単に出発地と目的地を結ぶ最短距離 の移動ではなく、そのときどきの交通条件、政治・経済・ 社会の状況、さらには彼の抱いていた旅の哲学、時と して思い浮かぶ目的や興味などによっても、大きく変 化したと思われる。彼の場合、最初のメッカ巡礼を果

たした直後に、巡礼キャラバン隊と一緒にアラビア 半島を越えてイラクとイランに旅し、再びメッカに

戻ると、まる3年間を寄ムジャーウィル留者として過ごした。アラ

ビア語のムジャーウィル、あるいは複数形のムジャー ウィルーンとは「ジワール(相隣関係と相互保護)の もとにある人」の意味であって、一時的な被保護者、

寄留者、居いそうろう候をさした。この言葉は、アラブの遊牧

社会の間では古くから使われた社会的慣行の一つで あって、道に迷った旅の者、政治的亡命者、あるいは たとえ盗人であっても、一時的に自分のテント内に迎 え入れて、食事と宿泊場所を提供し、滞在中はその部 族の者と同じ条件のもとに身の安全を保障するもの である。メッカには、イスラーム世界の各地から巡礼・ 学問修得・商売など、さまざまな目的をもって集まっ た多くの旅の人びと(ムジャーウィルーン)が滞在し ていた。したがって、そこは巡礼の聖地であるばか りでなく、学問と情報交換の一大センターであって、 メッカを軸心として、ひと・モノ・情報のネットワー クがイスラーム世界の四方に広がっていた。

 イブン・バットゥータは、この期間に多くの学者・ 修行者・商人と交流して各地の情報を得ることで、 一つの共同体としてのイスラーム世界の存在を知り、 マーリク派法学の知識人の一人として、広くその世 界に生きる可能性を見出したと思われる。そして再

び旅に出た理由について、彼はメッカの聖域内で殺さつ

戮 りく

をともなう騒乱が起こったためと説明しているが、 実際にはインドのデリー・トゥグルク朝においてア ラブ人やイラン人などの外国人が「貴人」として優 遇され、高給で仕官しているとの情報を得たことか ら、インドに向かうことを決めたのであろう。そこで、 ジッダから船でイエメンを経由、アラビア海を横断し てインドに向かおうとしたが、アデンに到着したと き、すでにインドに向かう船が出港するモンスーン航 海期は終わっていた。やむなく東アフリカ海岸に沿っ て南下し、クルワー(キルワ)王国に至り、復路はふ たたび船で南アラビアまで北上、ペルシア湾岸を経 14世紀の世界旅行 イブン・バットゥータをめぐるユーラシア世界  第2回

イブン・バットゥータの見たインド洋海域世界

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由して、メッカに戻ることになった。そして1332年8 月の巡礼大祭に参加したあと、前回と同じようにイエ メン経由インドに行く予定でジッダに向かったが、ま たもインドへの航海シーズンが終わっていた。そのま ま無駄な1年を過ごすよりも、エジプト、シリア、ア ナトリア、中央アジアを経由してインドに至る壮大な ユーラシア大陸横断の旅を思いついた。こうして、イ ブン・バットゥータによる旅は、インドに8年の滞在 後、今度はトゥグルク朝のスルタンの要請によって答 礼使節団の一員として、中国に向かうことになったの である。

つなぎの場としてのインド洋海域世界

 13・14世紀は、陸上におけるパクス・モンゴリカ(モ ンゴル帝国を中心とする平和)の世界とインド洋海域 世界(ユーラシア大陸の東と南、アフリカ大陸の東を 縁取るように広がる南シナ海・ベンガル湾・アラビア 海・インド洋西海域にまたがる海域世界)の二つの世 界が相互に交流を深めた「国際的交易ネットワークの 時代」として注目される。イブン・バットゥータは、 そうした時代背景を利用して、長期にわたって、しか も西ヨーロッパを除くユーラシアとアフリカの既知の

世界のほぼ全域を踏破することができたのである。  彼が旅した14世紀のインド洋海域世界では、人の移 動、モノや情報の交流関係が緊密化するなかで、交易 ネットワーク・センターとしての大港市(エンポリウ ム)が成立し、港市には各地から集まった人びとによ るコスモポリタンな多民族共生社会、イスラーム、交 易活動、リンガ・フランカ(地域共通言語)などを特 質とした地域文化・社会圏が各地で誕生していた。た とえば、東アフリカのスワヒリ社会、南アラビアのザ ファーリやペルシア湾岸のホルムズに見られた港市国 家、インド南西海岸のカリカットを中心とするマー ピッラ社会やカンバーヤ(キャンベイ)のシーア・イ

マリンディ アデン メッカ ジッダ

シーラーフ シーラーフ

サマルカンド

ホルムズ

ホルムズ

マスカット

ザファーリ (ズファール) ザファーリ

(ズファール)

スムトラ・ パサイ

カイロ

カイロ

コンスタンティノープル

コンスタンティノープル

バスラ

サワーキン アレクサンドリア

モンバサ モガディシオ

キルワ(クルワー)

カリカット

マーレ

クーラム=マライ (クイロン)

クーラム=マライ (クイロン)

ナディヤ

アンコール

アンコール

ヴィジャヤ 福州 明州

博多 開城

大都 (ハーンバリク) 大都

(ハーンバリク)

十三湊

杭州

広州

広州 泉州

泉州

ペグー

ペグー デリー

カンバーヤ

カンバーヤ

オケオ

オケオ

クディリ

クディリ

パレン  バン

パレン  バン

ジャンク船

ア ラ

ビ ア

ナツメグ くじゃく

こう ら

べっこう タイマイ とよばれる亀の甲羅 からつくられる 犀角    サイの角 中国の腰帯の飾 りになった    サイの角 中国の腰帯の飾 りになった

さいかく つの つの

胡椒 こ しょう 胡

こ  

し ょ う

綿織物 ナ

 ツ   メ    ヤ     シ

乳香 乳香樹の 樹液からできる香

にゅうこう

ホルムズ      14世紀 に台頭 15世紀に は 和も訪れている      14世紀 に台頭 15世紀に は 和も訪れている てい わ てい わ

奴隷

太  

平  

ア ラ ル 海

イ   ン   ド   洋

ベ ン ガ ル 湾 コ

ロ マ ン デ ル 海 岸 コ ロ マ ン デ ル 海 岸 マ

ラ バ ル

海 岸

ア ラ ビ ア 海 紅

ペ ル

シ ア 湾

ア ム 川

シ ル

イ ン ダ ス

川 ガ ン ジ ス

メ コ ン

長 江 黄 河

黄 海

ナ 東

シ 海 日

本 海 カ

ス ピ 海

地 中

ワ デ

南 シ

ナ 海

セイロン

セイロン

ジャワ

ラ ボルネオ ボルネオ

崑 クン ルン 崙 山 脈

脈 脈 ヒ

ヒ マ マ

ヤ ヤ 山 山

モ ル デ ィ ヴ

モ ル ッ カ 諸 島   ︵ 香 料 ︶

モ ル ッ カ 諸 島   ︵ 香 料 ︶ ダウ船

ダウ船

ジャンク

(丁子) クローヴ (丁子)       内陸

の都市だったが河 川で海の道とつな がっていた アンコール 内陸 の都市だったが河 川で海の道とつな がっていた

象牙 ぞう げ

(竜涎香の原料)

マッコウクジラ (竜涎香の原料) りゅうぜんこう

テン シャン 天 山 山 脈

   宋・元の時 代に貿易港として 発展 アレクサンドリア と並ぶ世界最大の 貿易港とたたえら れた 泉州 宋・元の時 代に貿易港として 発展 アレクサンドリア と並ぶ世界最大の 貿易港とたたえら れた

チュワンチョウ せんしゅう

沈香 じん

象牙 ぞう げ イエメン

サマルカンド 陸路 の要衛 レバノン杉

p.51

海の道とは ユーラシア南辺の沿岸都市を結び,文物を東西に運んだ交易路。古代のローマと南インド

の季節風貿易にはじまり,のちムスリム商人と,やや遅れて中国商人が主役となる。東から運ばれたアジア

物産にちなんで 「香料の道」,「陶磁じの道」 ともよばれた。

 三角帆で船体に釘を用いない 木造縫合帆船。主にムスリム商 人が用い、季節風を利用するイ ンド洋貿易で活躍した。

インド洋の主役ダウ船 シナ海の主役ジャンク船

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スマーイール派ボーホラー(ボフラ)社会、東南アジ アの河川分岐点(クアラ)やマラッカ海峡周辺部に生 まれたマレー港市社会などに代表される。

 イブン・バットゥータは東アフリカ海岸の船旅で、 「マクダシャウ(モガディシオ)の町から船に乗り、 サワーヒル地方に向かった。ザンジュ人たちの地方に あるクルワー(キルワ)王国の町をめざしていた」と 述べている。すなわち、彼は東アフリカ海岸のモンバ サ周辺をさして、従来の呼称のザンジュ(黒人)地方 の代わりに、サワーヒル地方という新しい言葉を用い ている。ここでのサワーヒルは、単にアラビア語の一

般名詞としてのサーヒル(海岸、水辺、河畔、縁ふち)の

複数形サワーヒルではなく、固有の地域名称の「サワー ヒル(スワヒリ)地方」をさしている。周知のとおり、 スワヒリ語は現在、東アフリカ海岸のソマリア南部か らケニア、タンザニア、ザンジバル島、モザンビーク 北部までの地域、そして内陸部のウガンダやコンゴ(ザ イール)などで、リンガ・フランカとして広く使用さ れており、スワヒリ文化とかスワヒリ文化圏といった 場合、それは言語だけの問題でなく、アフロ・アジア の混血、多民族共生社会、イスラーム、インド洋の海 上交易などの共通要素を包摂した一つの文化複合体の ことである。

 当時、インド洋に突き出たインド亜大陸の南西部に 位置するマラバール(ムライバール)海岸のカリカッ ト、カウラム(クーラム)、ヒーリー、ファンダライナー などの港は、南中国の泉州や広州から来航した中国の ジャンク船が頻繁に出入りする交易港として繁栄をき わめていた。イブン・バットゥータはカリカットにつ

いて「そこは大港バンダル市の一つで、中国、ジャーワ、スィー

ラーン(スリランカ)とマハル(モルディヴ諸島)の 人びと、イエメンとファールス(イラン)の人びとが めざし、町には遠方の各地から来た商人たちが集まる ので、その寄港地は世界のなかでも最大の港の一つで ある」と述べ、さらに港内には13艘の中国のジャンク 船団が停泊していたこと、ベンガル湾や南シナ海では、 中国の船団によらなければ、けっして航海できないこ と、さらに中国の船団には3種類あって、そのなかの 大型船はジュンク(ジャンク、戎克)、中型船はザウ ウ(艚、船、艟)、小型船はカカム(舸舩)と呼ばれ、 ジャンクは3枚から12枚の帆を装備していたことなど の具体的情報を伝えている。これらの中国船について

は、マルコ・ポーロの伝えるところとほぼ一致し、当 時の中国船の構造、航海と交易の活動にかんする具体 的な資料を提供している。

 中国船は、中国および東南アジア産の陶磁器、銅銭、 高級絹織物、沈香・白檀などの香木類、香辛料・薬物・ 染料類などを舶載し、いっぽうアラビア海を渡ってき たアラブ系・イラン系のダウ船は、東アフリカ産の動 物歯牙類(とくに象牙、犀角)、皮革、金、べっこう、

南アラビア産の乳香、没もつ薬やく、竜涎香、ペルシア湾岸地

域の真珠、馬、毛織物類、ナツメヤシの実などを運ん できた。またインド・グジャラート地方の藍あい染せん料りょうと綿

織物、マラバール地方の胡椒・生しょう姜が・肉桂などの香辛

料類、ココヤシ(繊維、油)、チーク材、白檀香、米、 モルディヴ諸島の子安貝、スリランカの宝石類などの 国際商品がインド西海岸の諸港に集められ、さかんに 交換取引されていた。

 船の輸送の有利な点は、陸上のキャラバン輸送と

違って、底バラスト荷商品として、石材・レンガ・瓦・木材な

参照

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