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平成25年度平和のための小中学生広島派遣団文集

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Academic year: 2018

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(1)

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(8)

    目    次

もう二度と…

青谷小学校 6年 一 樹 果乃子  1

広島で学んだ事

青谷小学校 6年 新 井 智 葉  2

広島派遣団に参加して

青谷小学校 6年 塚 本 琴 音  3

広島への思い、願い

青谷小学校 6年 南 口 海 音  4

広島への思いの変化

青谷小学校 6年 尾 瀬 茉亜紗  5

広島に行って

青谷小学校 6年 米 田 綺 良  6

広島派遣団に参加して

青谷小学校 6年 堀 口 蒼 斗  7 広島派遣団に参加して

今池小学校 6年 萩 原 蓮 太  8

戦争の恐ろしさと平和の大切さを知って

寺田小学校 6年 西   優 菜  9

広島派遣団に参加して

寺田小学校 6年 福 田 藍 子  

10

戦争のない社会にするために

寺田西小学校 6年 山 下 征 哉  

11

広島派遣団に参加して

寺田南小学校 6年 後 藤 美 結  

12

広島派遣団に参加して

寺田南小学校 6年 綱 井 優芽香  

13

戦争の恐ろしさ

寺田南小学校 6年 沼 田 琉 聖  

14

原爆のおそろしさ

寺田南小学校 6年 石 塚 知 帆  

15

広島に行って

寺田南小学校 6年 太 田 悠 貴  

16

(9)

戦争と平和 寺田南小学校 6年 土 居 千 晴  

17

家族・世界・命

富野小学校 6年 為 房 宏 樹  

18

広島・原爆の恐ろしさ

富野小学校 6年 市 原 誠 也  

19

広島派遣団に参加して思った事

富野小学校 6年 新 田 徹 平  

20

広島派遣団に参加して

富野小学校 6年 島 本   巧  

21

戦争のおそろしさ

深谷小学校 6年 原 口 優 花  

22

広島に行って

深谷小学校 6年 高 木 杏 菜  

23

広島派遣団に参加して感じたこと

深谷小学校 6年 三 崎 小奈津  

24

戦争・核兵器のおそろしさ

深谷小学校 6年 松 尾 夏 歩  

25

派遣団に参加して

古川小学校 6年 服 部 亜 美  

26

広島に行って

古川小学校 6年 有 田 美 結  

27

広島派遣団に参加して

西城陽中学校 1年 板 坂   輝  

28

広島から世界へ平和に願いを

南城陽中学校 2年 宮 﨑  風 花  

29

広島派遣団に参加して

南城陽中学校 2年 山 内 実 咲  

30

(10)

も う 二 度 と …

青谷小学校 6年

一  樹  果 乃 子

戦争はもう二度と起こってほしくありません。七月二十五日・二十六日、広島派遣団に参加しました。参加したのは、友達が行くと言っていて興味があったからです。一日目、約五時間バスに乗り広島へと行きました。とてもキレイだけど、原爆ドームとか少し怖いと聞いていてドキドキしていました。行ってみると本当にキレイで原爆が落ちたのが嘘のようでした。初めに平和記念資料館へ行きました。皮膚がただれた人の模型や黒こげになったお弁当、人が座っていた影のある石段など、見ていて悲しくなるようなものがたくさん展示されていました。その中でも忘れられないのは、言葉を失うような残酷な音声ガイドです。例えば、「○○さんはトマトが食べたいと言いました。お母さんが買出しに出かけて帰って来ると○○さんは亡くなっていた。」などです。丁寧に説明される音声ガイドの中には聞いていられないものがたくさんありました。その後、被爆した方の話を聞きました。生まれた時から戦争していたので、国が戦争しているのが普通だったそうです。戦争は国の人々全員が巻き込まれると教えてくださいました。先生と西の山に逃げ、建ちかけの小屋へ避難しました。先 生はその小屋で寝ろと言ったが寝る人はいませんでした。そして、家に行きました。いろんな人がたくさん亡くなっていて、男か女かもわからなかった。家に帰ろう、家に帰ろう。それだけを思って、何を見ても、何も思いませんでした。あの時は人間ではなかった。あの日のこと、次の日のことを忘れないで生きてきた、と思い出したくないと思うのに、丁寧に詳しく教えてくれました。そして、最後に、戦争をしていた歴史があるが、戦争をしない記録をのばしてほしい。そのために、いろんな人に戦争のことを伝えて、生きる知恵にしてほしいとおっしゃいました。私は戦争のことをたくさんの人に伝えていきたいと思います。そして、もう二度とこの恐ろしい戦争が起こらないようにしたいです。今、私達は豊かに暮らしているけれど、戦争があった頃はずっと貧しい暮らしだった。だから今、幸せに生きていることをありがたく思い、命を大切にしないといけないと思います。

(11)

広 島 で 学 ん だ 事

青谷小学校 6年

新  井  智  葉

私が広島で学んだ事は、戦争のおそろしさ、核兵器で苦しむ人々の事、親をなくしてしまった子ども達の事、また、今がとても平和であるということです。平和記念資料館では、原爆が落とされたことでできたきのこ雲の写真、放射能によって黒くなった雨、また、その雨にぬれて黒くなった服、どれも残酷でした。その中でも一番心に残っているのが、ひどいやけどで皮膚がたれ下がってしまっている人々の展示、やけて真っ黒になった三輪車、お弁当です。三輪車は、今にもこわれてしまいそうでした。見ているだけでも、心が痛みました。平和記念公園では、みんなで折りづるをささげました。私達だけでなく、城陽のいろんな人達も折ってくれました。みんな同じ気持ちなんだなと思いました。原爆ドームも見に行きました。これは、「核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボル」として、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。くずれ落ちたがれきが、今もそのまま残されていました。この建物を見るだけで、原爆のおそろしさが伝わってきます。私の願いは、「世界中の戦争がなくなること」 「核兵器がなくなること」です。この願いが叶うように、私も努力していきたいです。広島派遣団に参加できて、本当によかったです。

(12)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

青谷小学校 6年

塚  本  琴  音

私は友達に誘われこの広島派遣団に参加しました。私は友達に誘われたけど行けないと思っていました。理由は三十六人までで無料だし、青谷小学校の人はけっこう申し込みをすると聞いていたので、申し込みが多ければ抽選だと聞いていたので、広島派遣団に入れるとは思いませんでした。それで広島派遣団に応募してることすら忘れてた時、ならいごとから帰ってきてお父さんから、「じゃじゃーん」と言って一つのふうとうをわたされました。私あてのふうとうなんて初めてで、しかもうれしそうに言っていたので何だろうと思って見たら広島派遣団と書いてありました。その時は、すごくうれしかったです。そのあと友達にふうとう来た?って聞くと来たって言っていました。そして広島に行く日がやっときました。朝は友達のお母さんに送ってもらいました。少し進んだ所で私がカメラを忘れているのに気づき、もうスピードで家に帰ってもらい、お母さんに電話して用意してもらっておいたカメラをすぐに取りに行きました。そして再び出発しました。もうスピードで行ってギリギリまにあいました。そして市役所に着いて注意点やいろいろなことを聞きました。そしていよいよ出発。バスの席がすごく楽しみでした。でも一人席になってしまいま した。それで一人でおかしを食べてねむたかったけどねれなかって、ずーっと窓から外を見ていました。すっごくひまだったけどガイドさんがクイズやビンゴといろいろと楽しませてくれて、ひまやったのがだいぶましになりました。そのまま広島に着き、平和記念資料館に着きました。そして平和記念資料館の中でほうしゃせんにあたっていて黒くなったお弁当やほうしゃせんにあたってボロボロになった三りん車とヘルメット、それだけを見ても言葉はでなかった。ちょっと気分が悪くなりそうだったけどだいじょうぶだった。原爆があった時からずっと残っていることもすごいなあと思いました。私は広島派遣団に行って戦争はいやだ、おきてほしくないと思いました。私は広島のことをあまりしらなくてもっとしりたいなあと思って行ったけど、思ってたよりかんたんではなくむずかしかったけど帰りの広島焼きはすごくおいしかったです。

(13)

広 島 へ の 思 い 、 願 い

青谷小学校 6年

南  口  海  音

広島に行くまで広島の歴史については、戦争で原爆が落ちた都市というくらいしか知りませんでした。姉が六年生の時に広島派遣団に参加したことがあり、応募をすすめられ興味を持ち参加しようと思いました。そして広島に行くと姉の言う通り本当にたくさんの経験をし、得をしました。それを今から思い出してみよう。最初に見学した平和記念資料館には黒こげになった弁当や三輪車、くつ、8時

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(14)

広 島 へ の 思 い の 変 化

青谷小学校 6年

尾  瀬  茉 亜 紗

私はもともと広島のことをなにもしらなかった。でも7月

25日〜

26日にかけて、広島を見学した。

時8195年4月6日午前8 との毛全部ぬけたりが人害をあたえた。に 目だびとがヤ。ドケた大はしがりこまくやぶれたり。かみ人 。た自弁がいにあった転車やいお当なてっなに黒、真てびさど たいだたい、てせさ学見こ。ひの記念資料館には原爆の館を 25日料資念記和平は

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(15)

広 島 に 行 っ て

青谷小学校 6年

米  田  綺  良

私は、最初少しだけ不安な気持ちで参加しました。だけど、バスの中で友達としゃべったり、ビンゴゲームをしているうちに段々と広島に行くのが楽しみになっていました。最初に着いた場所は平和記念資料館でした。資料館のある場所に原子爆弾が本当に落ちたのかと思うぐらい綺麗な建物でおどろきました。資料館の中には、8時

15

分で止まった時計や黒こげになったお弁当箱などが展示してあり、地下展示場にも原子爆弾が落ちた時の絵がたくさんありました。やはりこの場所ですごく悲しい出来事があったんだなぁと感じました。その後、被爆者の方の話を聞きました。戦争は人の命、家、学校そして子どもや孫の時代の未来まで何もかもを奪ってしまうものだと感じました。そんな原子爆弾や核兵器が世の中からなくなってほしいと思いました。その後は旅館に着き、みんなでお風呂に入って夕食を食べてミーティングをしました。各自家から折ってきた千羽鶴を束ねて、一人ずつ今日の感想を言ったりしました。みんなの感想が聞けた事もよかったと思いました。2日目は広島平和記念公園に行きました。そこには原爆で亡くなった人の名前が入っていてお花を捧げて祈りました。 次に原爆の子の像の所に行き持ってきた千羽鶴を捧げました。次に原爆ドームに行きました。ガラス一枚もついていなくて、今にもつぶれそうでした。又原爆のおそろしさを感じました。その後、爆心地の所へ行きましたがそこは爆心地と思えないほど普通に見えました。お昼ご飯は班で広島焼きの体験をしました。初めて広島焼き作りをして楽しかったです。味もとてもおいしかったので家に帰ってから家族にも作ってあげようと思いました。広島派遣団に参加し、わからなかった事や貴重な体験談、実際に見に行けて良かったです。戦争が二度とおこることがないような平和な世界になるようにと思いました。今回引率していただいた市役所のみなさんありがとうございました。

(16)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

青谷小学校 6年

堀  口  蒼  斗

ぼくは、広島派遣団の参加が決まってとても楽しみでした。なぜかと言うとぼくは、広島に行くのが最初は旅行気分でした。しかしその日が近づいてくると、真けんに考えるようになりました。当日広島に五時間かけて行きました。そして、ぼくは少し広島の原爆のことを勉強をしてきました。なので、ぼくは原爆がどのような力を持っているのか、そしてなぜ原爆を広島に投下したのかを調べてきました。平和記念資料館についてはじめに目に飛びこんできたのは、黒こげになった三輪車や弁当箱です。なぜかというと、被爆した人達の苦しみや悲しみが伝わってくるからです。それを見てぼくが思ったことは、「原爆はおそろしい。」という言葉がまっ先に頭の中に飛びこんできました。このように、原爆のおそろしさ、力というものがわかりました。そして、その後被爆体験者の方のお話を聞きました。その方は、無事に無傷でしたが、ほかの人達は、四千度以上の爆風で皮がただれ死んだ人やガラスのはへんが体じゅうにささって死んだ人。そして、家の下じきになって火事がおきて身動きがとれずそのままやけ死んだ人など、さまざまな人達 がさまざまな方法で亡くなっています。そして、今でも、原爆の病になやんでいる人達がたくさんいるそうです。ぼくは、これを聞いて原爆は一度のしょうげきだけではなく、二度のしょうげきをもたらすという原爆のおそろしさをまた思いしらされました。次の日は、慰霊碑に花をささげました。そして、原爆ドームを見た時、ほとんど骨組みでした。少ししょうげき的でした。ぼくが、広島に来ていろいろなことを学んで強く思うことは、「全世界から核爆弾と戦争が消える平和な世界」がおとずれてほしいと思っています。いつかその日がくることを願っています。

(17)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

今池小学校 6年

萩  原  蓮  太

ぼくの姉2人は広島派遣団に参加していましたが、ぼくは興味をもてませんでした。どうしても姉に「行ったほうが良い」と言われて、お母さんに参加させられました。行ってみると、すごいためになる話があって、行ってよかったなぁと思いました。初めて会った人ともなかよくできたので、一石二鳥だと思いました。資料館で、被爆された人の話を聞きました。爆心地から1㎞以内だと、ほとんどの人の皮がはがれて、肉がずれおちて骨が見えるそうです。8月6日は雲ひとつない青空、飛行機が飛んできても、日本の飛行機だと思って、手をふっていたそうです。「ピカッ」となったときは、建物がなくなっていたそうです。原爆ドームは、核爆弾が落ちても、くずれないのが、すごいと思いました。原爆ドームが世界遺産だったのは、びっくりでした。広島風お好み焼きがすごくおいしかったです。すごく良い、2日間を過ごしたなと思いました。

(18)

戦 争 の 恐 ろ し さ と 平 和 の 大 切 さ を 知 っ て

寺田小学校 6年

西      優  菜

戦争のことを何も知らずに広島へ行った私は、とても楽しいバスで違う学校の友達もできて心がウキウキしていました。1日目の「平和記念資料館」で私は、とてもびっくりしました。そこには、8時

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(19)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

寺田小学校 6年

福  田  藍  子

私が広島派遣団に参加した理由は友達がさそってくれたので参加しました。広島にバスで行きました。広島に行くのに5時間かかりました。1日目のバスの中ではビンゴをしました。楽しかったです。1945年8月6日広島はいつもとおなじ暑い夏でした。午前8時

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(20)

戦 争 の な い 社 会 に す る た め に

寺田西小学校 6年

山  下  征  哉

僕たち、「城陽市広島派遣団」は、戦争や原爆について学びたいとの思いで、六十八年前の夏、人類初の核兵器が投下された広島に行きました。長いバス旅を終え、まず、ここで見た光景は、色とりどりの花や青々とした葉をつけた木々が立っていました。戦後、焼け野原だった広島の街は、うって変わって高層ビルの立ち並ぶ街になっていました。これがあの広島なのかと目を疑うほどでした。その後、昼食をとり、「広島平和記念資料館」に行きました。ここでは、「八時十五分で止まった時計」「中身が真っ黒に焦げてしまった滋君の弁当箱」など多くの遺品が戦争の恐ろしさを物語っていました。罪の無い人間を死に至らしめる戦争は二度とごめんだと思いました。僕は、戦争のない時代に生まれてきて、『平和』ということを特に意識せず生活していますが、これこそが『平和』だと改めて感じ、尊いことだと思いました。そして、この日最後の活動は講話を聴くことでした。戦争体験者の語り部さんは、その当時の様子を詳しく教えてくださいました。語り部さんにとってはつらく、思い出したくない過去の出 来事だと思います。戦争の悲惨さや恐ろしさは、体験した人しか分からないものでした。それを聴いた僕は、戦争は悲しみや苦しみしか生み出さないと思いました。せっかく聴いた話を無駄にすることなく、自分にできることは何かを考え、それを実行していきたいと思いました。翌日は、「平和記念公園」を散策しながら見学しました。そこでは、戦争関連の建物や石碑がありました。その中で一番印象的だったのが「原爆ドーム」です。爆心地から百六十メートルしか離れていない、まさに原爆の落ちた場所に立ちました。広島の街や、また、そこに暮らす人々の生活が一瞬で破壊されたと思うと、原爆や戦争といったものがどれだけあってはならないものか分かりました。現在、世界には、核兵器を持とうとする動きもあります。これからの社会に核兵器が決して存在してはいけないと思います。ぼくは、この「城陽市広島派遣団」に参加し、戦争について、ほんの少しですが、知ることができました。この活動こそが、戦争のない社会につながっていく一歩だと思います。だからこそ、この派遣団に参加した一人として、みんなに伝えていく役割があると思います。まずは、戦争体験者の語り部さんの思いをかみしめ、身近な人々から、平和について伝えていきたいと思います。

(21)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

寺田南小学校 6年

後  藤  美  結

私は、行く前とてもひどい物だけしかないと思っていました。そして行くと資料館にその時あった八時十五分でとまった時計や黒こげになったお弁当やこげた人の写真などがあり私の心の中は、とても苦しくなりました。その後被爆者の講話を聞きその内容は、晴れた日に原爆が落とされて「ピッカ」と光り、その時は、ほとんどの人が気をうしなうほどの光ですぐに爆発しいっきにたくさんの人が亡くなられたと聞き、何も関係ない人をまきこんでいたことがとてもかなしかったです。生きていても放射線がいっぱいで今でも苦しんでいる人もいるし、さだ子ちゃんは千羽つるをいっしょうけんめいおったけど亡くなってしまい、原爆の子の像の所に千羽つるをささげました。そして原爆ドームを見ました。とても強そうな建物を一回の爆発でしたのは、すごい力だと行って見たらすごく感じました。爆心地にも行き、その時の写真はとてもめちゃくちゃでした。けど、今の広島は大きい建物がたくさんあり、写真とはまったくちがいここまでするのに大変だったやろうと思いました。 最後に広島焼きを食べました。広島焼きを自分で作るのがはじめてだったのでドキドキしたけど広島の人が教えてくれたので、作ることができました。キャベツをいっぱいのせるのに、きじはうすい丸でぐちゃぐちゃにならへんのかなと思っていたけど、そばとたまごを入れると全然ばらにならないのでとても工夫された食べ物だと思いました。食べたらそばがいいかんじにパリパリになって上のキャベツにとてもあい、おいしかったです。また家に帰ったらやってほしいなと思いました。広島派遣団に入って思ったことは、今平和はあたり前だと思っていたけどあたり前じゃなく、この時間一つ一つを大事にし、ぎせいになった人のことを考えてもう戦争や核兵器のない世界になってほしいと思いました。

(22)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

寺田南小学校 6年

綱  井  優 芽 香

私は五年生の時に、学校で「はだしのゲン」というアニメ映画を見ました。見終わって、戦争はとてもこわいものだと感じました。特に原爆が落とされた後のシーンが印象に残りました。いつか原爆が落とされた広島を見てみたいと思っていたので、今回広島派遣団に応募することにしました。今の広島は「本当に原爆が落とされたのか」と思うほど、たくさんの建物が建ち並び、とてもきれいな街になっていました。しかし、資料館に行って、原爆が落とされたときの広島は思っていたよりも悲さんだったということがわかりました。資料館には、真っ黒こげになった弁当箱、黒い雨のシミがついたカベ、やけどを負った人の写真などがありました。どれも目をそらしたくなるようなものばかりでした。私が一番印象に残ったのがひばくした人のもけいです。かみの毛はチリチリになり、皮ふもとけていました。辺りは火の海でまるで地ごくのようでした。ほかにも資料館には寄ぞうされたものがたくさんありました。これらを寄ぞうされた人たちは、私たちに戦争のおそろしさを知ってもらい、二度と戦争をしないで平和であってほしいと願って寄ぞうされたんだろうと思いました。 広島には資料館だけでなく原爆ドーム、原爆の子の像など戦争について知れる場所が他にもたくさんありました。原爆ドームは建物を見ただけで原爆のおそろしさを感じることができました。屋根はなく鉄骨だけになっていて、原爆が落とされる前とは大ちがいでした。なにも知らずにいきなり原爆が落ちてきて辺りがいっしゅんで無残な姿に変わってしまう。もっと生きたかった人たちの命がいっしゅんでうばわれてしまう。生きのびた人たちも住む所、家族、友だちがうばわれてしまう。原爆は一発でたくさんのひ害を出し、多くの人々をくるしめるとてもおそろしいものだと改めて思いました。私は広島派遣団に参加して戦争のおそろしさ、そして平和の大切さを学ぶことができました。だからこれからは私たちがそれを伝える番だと思います。一人でも多くの人に戦争のおそろしさを知ってもらい、二度と戦争の起こらない平和な国になればいいなと思います。そして日本だけでなく世界の人々にも伝えていき、今起きている戦争もなくなればいいなと思います。そして、今こうして幸せに生活できていることに感謝しようと思います。

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戦 争 の 恐 ろ し さ

寺田南小学校 6年

沼  田  琉  聖

ぼくは、はだしのゲンなどの、戦争にかんする本などは、何度も読んで、戦争のことについてはよくしっていたと思っていました。だけどさすがに行ってみると、どれだけの人がなくなっているかなど、想ぞう以上でした。バスに乗って行った時は、まだましで、時間がたつにつれて、目的なども、わすれかけていました。ようち園の時の友達も来ていました。ひさびさにたくさん話していました。ビンゴなどもして、とっても楽しい状態でした。資料館につくと、むねやけと、腹痛がとまりませんでした。ガイドさんから、薬をもらって飲んだので楽になりました。いろいろと見てまわりました。すると、原爆のおそろしさや、八時十五分でとまっている時計などがあって、原爆のい力は、どれほどおそろしいかが分かりました。爆だんが落ちた場所から、少し歩いたら、原爆ドームがありました。その中の人たちは、一人のこらずなくなっていました。原爆の恐ろしさはあらためてこわいと思いました。いま、楽しく遊んだり、みんなとスポーツをできたり、昔、広島にいた人々は、原爆が落ちてからは、そういうことはできなかったと思うと、ぼくはとっても幸せです。友だちもうしなった人もいれば、今も苦しんでいる人たち もいます。広島に原爆が落とされた後、長崎でも落とされました。何万人となくなっています。昔の人々は、国のために強くなろうとか言いながらがんばっていました。戦争をやっているときは、民家をつぶしていき、大きな大きな空地をつくっていました。火事になって燃えうつらないように。戦争が始まると、関係ない人たちまで、みんながまきこまれて、たくさんの人がなくなってとってもかなしいです。さだ子さんは

、、いまし。しかした千以上おっても羽 の日毎、でとたれわ言るのそを苦ついっおをるて、ん飲薬で たるをおっ気ら病がなおでつ紙さ苦者のんにい薬を飲んでそ 薬ま飲をずい苦、時るに外たすてていまして。そしてお医い 12才したなくなりまし。院さだ子さんは入で

。なぼくはもう、戦争はくなってほしいと思います ま。たしいぼすました。思くはごだくかわいそうだとち 12才びたを世のこで

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原 爆 の お そ ろ し さ

寺田南小学校 6年

石  塚  知  帆

原子爆弾を落とされた広島は、原子爆弾の落とされた時を思いださない位、美しい場所でした。たくさんの高いビルがたちならび、たくさんの人もいて、笑い声も聞こえました。最初は原子爆弾のおそろしさがあまり分からなかった私。でも資料館へ行って、私はさっきとはちがう私になりました。資料館にはたくさんの物が展示してありました。1つ1つの物をていねいに見て、原爆のおそろしさを知る事ができました。資料館の中で私が印象に残ったのは2つあり、1つ目は8時

しいも私達のために話てくださましてし謝感くごすは私。た い痛思たっかとがねむは時すまい。思で苦すま。とっかした もあくな少い人うといなまり。」せをんいてしる話爆被。の 中爆原「で爆の達被た思人をしい。」くたいい「いなくたし出 講子原でそ者爆、被後の弾爆話のさ事。しまいただをてし話く うもは私る、とでら望絶せ的で声もでまんでし館。かた料資 、できない位おそろしいしも想思像たしまい。としなくたい あ、でういそるっいとものしけいよりおそろいのは、想像て 。を爆被爆原さしろおの原者えていき。」ま伝す害そはたなはでのもいか、「いたな実際はあん生あ 幸まび学をしせさ私た。次は私達がいるが達ら。家に帰ってか新で聞を読むと、すいてれしら暮で和平さけがった子のも親 こ、し2日間で、原爆おそろささ、1人1人の命の大切のなろまたがふ皮は目つ2。たしりしか分くよがのたっに姿いの 15分。で島はおしまきが、事る知ていつそ広たでほとまっで時計。たんいっしゅんの んいなゃじがるまと臓。」か爆とわに思原くしく。たしまい 人きを話のとたっに害被くあむな、「てっ心ねく苦く痛がし 広死爆原島し立。国たでう者没追ソ平和祈念館のパ、コンで悼 いてョて、っとたでとこのチずンてといましそれつばけつく 骨てれ割みなんはスラみ組いだのになってて、今もやっガけ 原ー爆から少しはなれ所にムたドりームがあドま爆た。原し ま爆。たしをしらなねか地心はこて今そ、ていっなに院病は 子行に像のての爆原後のそっで千し羽こそ。たまげささを鶴 原、花はに碑け霊慰者没死爆だいでりなたしま。あおも水てく おせましこ二と。」はなうん事とし心。たしま度返くで中りの をてじとッ目と安ュギ、は「にらかねむっ下さい。このよて 2目日っ。たしまささを花て行、に碑霊慰者没死爆原私げ 。いという、幸せさがよく分かりましたる てにらし暮気そ元が達私、さしろのい爆原、目日1。すまお

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広 島 に 行 っ て

寺田南小学校 6年

太  田  悠  貴

ぼくは広島のことは、知っていたけど、この、広島派遣団で、広島のことがもっともっともっとわかりました。原爆ドームやさだ子さんの石像も活きいきしていました。広島がかつて、荒れ地だと、思わせないぐらい、きれいでした。8時

。のは、もう平和です次は、他国々れくてしを言宣和平、が るをきで現実何れそ、もではのし、う本日も。でょで後年 のめない世界をまざしていす。 しうまい思平こ、はくぼ。た、世り界そらあいなに和が中 ののキセ、キいるそが人のセキはキうのをとこ。いキだキセと とるいてをい聞話の者るあまことが分かりした。今、被爆。思ないといます せれこ。た力。んもまれしらかいないてかし、中ないといけ努で本戦日にうよいなま争れし生にが母が争戦行って、ぼく き考えるとしまだづきで島広と一度思ういうと、平和っていもなと戦います。争そがな父、なくなやりにも残らない、れ うよしもけつの手、うながきくなり、ぞえれない数の人が、かもうにい。そ思かたいて行争れ戦、てしと士兵がくぼなっ な。っあが争戦に本日、今いはなれしもたっかなは言宣て、罪っとて、くき大んだんだがこの平いさ小し殺でま人いな和か 爆一戦たま、し化と地荒を県きがいでん死くなが家にい合争いいまは、バスの中でば思ぼしくた。この原、らたっかな た。のは爆気、延数万人以上を殺し、生きびうてもで、食べ物クリしまし平 広島争原、さしろそおの爆と戦に、とこたっか分てっ行原、が地キだと思いす。爆心はキ、今は病院だったのセまビッ 力。すまいてじ信をかぼそでのるいてっもこ、のくっ原たのは、なれぶつで爆心はのあ、くよ。すまい思が 15分せおんでした。つるを千羽っのたら、病気が治るのは、るい迫で止まった時計も大力でした。 く紙ぼのは、初しつるを見たりきふぎめでたまりまおてと 被爆者にの話も、ためな。る話だったです こてとと。たしまい思いしほっとじ感を がのリカの人ききんさくた、も達人てたらかく遠。たしまい にらうため平、島メアに館料資念記で和広。すまい思とたき れ館も、そもを伝き、より多にくの人々に知ってでえるため 島死念祈和平悼追者没爆広広島平和記念資料原も、国立館 だと。すまい思とだめいなし謝 ん。葉言感かだたら思、当をにり前とわず、平和と言う和平 国今で外もどがせまれしもかるいてれわなこお争う戦でし ら、うれしいです。た

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戦 争 と 平 和

寺田南小学校 6年

土  居  千  晴

広島に行く前は、テレビや本で戦争のことを知り、こわいものだと思っていました。でも平和記念資料館で資料などを見ていたら私が想像していた戦争をはるかにこえるおそろしいものだと思いました。八月六日原爆が落とされたときの八時十五分でとまった時計、黒こげになったお弁当、おもわず目をそらしたくなるような写真。戦争のおそろしさがとても伝わってきました。でも私は実際、生きていなかったので本当にこわい思いやつらい思いをした人の気持ちは分からないんだなと思いました。講話を聞いたとき、原爆が落とされた日だけでなく戦争中は、とても苦しい思いをしていたことが分かりました。そして当時は勉強できず、国のために働かなくてはいけないきびしい社会なんだと思いました。平和記念公園では原爆の子の像につるをささげました。原爆が落とされてから十年もたっているのに病気になるなんて本当におそろしいものだなと思いました。そして今でも原爆によってたくさんの人が苦しんでいるということをはじめて知りました。原爆ドームでは、れんががばらばらになって下に落ちていました。今は広島市はとてもきれいなのでここで実際、原爆 が落とされたなんて信じられませんでした。私はこの二日間勉強して今、私たちが幸せであるということを改めて感じました。お腹いっぱいご飯が食べられて家族といっしょに居られて学校へ行き勉強できて。でも、「あの時代があったから今があるんだよ」と体験者の人は話してくださいました。忘れたいくらいこわいけど人の体も心も傷つけた戦争は、けして忘れてはいけないことだと思いました。これから少しずつでも世界の戦争がなくなり、平和になりますように…。

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家 族 ・ 世 界 ・ 命

富野小学校 6年

為  房  宏  樹

家族は、大切です。でもこの家族をうばった原子爆弾。「リトル・ボーイ」この爆弾は、多くの放射能をふくむ1tもある爆弾です。この爆弾を知ったのは、平和記念資料館に展示してあるのを読んで、知りました。ぼくは、よく妹とケンカをするので、家族の大切さを学びたくて、学校にはってあるポスターを思い出しこの「広島派遣団」に参加しました。以前から友達にさそわれていることもあって、参加しました。城陽から広島まで片道5時間バスの中では、ビンゴゲームやおやつを食べたりして盛り上がっていました。しかし平和記念館に着くと、その盛り上りはなくなり、きんちょうが出てきました。中へ入ると一番目にとびこんできたのは、原爆が落ちる前と落ちたあとの模型でした。2つの模型は、まったくちがいました。2階には、黒こげた弁当箱や爆風でつきささったガラスのはへん、爆風でおれまがった鉄のとびらなどがありました。その中で1番目にやきついているのは、被爆者の人形です。手を前にしながら歩いている3人の人形で、皮はたれ下がり体の肉が見えていて、「水…水」ときこえてきました。目をそらしたくなるようなほどこわかったです。中には、「きも ちわる」とか「グロイ」とか言う人がいるかもしれません。でも被爆者の方は、そんなことを思ってほしくないと思います。なぜなら被爆を体験していない人は、原爆のこわさがわからない。体験した人は、自分がそういう目に合っているからだと思います。被爆者は、ケガしているとき「手を前に」とかいています。それには、こんな理由があります。みなさんは、こんな理由を考える人が多いと思います。「水をくれ…」ってことから手をさしだしていると、でも読んでわかりました。ケガをしている手は、ふつうに歩くと手と体があたりとても痛いから1番楽なしせいがこの「手を前にやる」しせいなのです。2日目は、平和記念公園へ行きました。最初に原爆死没者慰霊碑へ行き花をささげました。ささげるときにお願いしたのは「平和を心から願っています」です。次に行ったのは、原爆の子の像のさだこさんの所です。さだこさんは、学校で見た、アニメの映像でしりました。題名が「つるにのって」です。2才の時に原爆にあいました。像の近くのボックスの中には、全国各地から千羽づるがたくさんありました。昼食は、京都じゃできない広島風おこのみやきをつくって食べました。とってもおいしかったです。そこの店員さんと友達になれました。この広島派遣団に参加してとてもよかったです。平和のことが学べてよかったしちがう学校の人とも友達になれるし本当にありがとうございました。

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広 島 ・ 原 爆 の 恐 ろ し さ

富野小学校 6年

市  原  誠  也

ぼくが広島派遣団に参加した理由は、戦争の事、原爆の事など、色々勉強したかったから、参加しました。参加出来たのは、とてもうれしいので、平和のことをしっかり勉強しようという気になりました。待ちきれませんでした。最初に見学したのは、平和記念資料館でした。八時十五分でとまった時計・黒い弁当箱・さびこげた三輪車など色々かざってありました。「こわっ」「なんでこうなったん」など同じ言葉しか言えませんでした。あとは写真、実物をさわったりして、戦争・原爆の恐ろしさが少しでもわかりました。原爆が落とされた時、きのこ雲・黒い雨、原爆が落ちたから、こんな事になるんだなと、広島で、分かりました。次に資料館の地下展示場で火で燃えそうになる子どもたちや、火災からにげようとする人々、包たいでケガをなおす人たちが描かれていて戦争をやったら最後にはこんなことになるということを見てきました。一日目最後の見学は、原爆が落とされたとき体験した人の話を聞きました。八月六日は、中学生の人が大火事を防ぐための建物をつぶしたりしていて、片づけをしていたときに原 爆が落ちてきたそうです。とてもかわいそうだと思いました。平和でいられることに感しゃするとか平和のことをずっと続けてくださいなど、平和のこと原爆のことを中心に話してくれました。これから少しでも、感しゃの気持ちを伝えていきたいと思いました。こんなかなしい経験をしたんだなと、かなしく思いました。講話はとても心に残りました。夕食を食べたあと、折りづるに、メッセージを書きました。これからも、平和であるようにとメッセージに願いをこめました。2日目の朝は最初に慰霊碑の所で花をささげたり、爆心地の所で写真をとったり、折りづるをささげたりしました。全部見て、さらに、原爆の恐ろしさが伝わってきました。つるで、平和の文字が書いてあったり、地球の絵になっていたりしていました。最後はパソコンで体験者の話を聞きました。ピカーと光ったらすぐに、町中がすごいことになっていたと聞いていたらとてもこわいと思いました。広島風お好み焼体験をして、広島の勉強は終わりました。お好み焼、おいしかったです。食べたり、話したりできることは、平和だと思います。幸せなことだと心の中で感じることができました。原爆の恐ろしさ、町中の様子が伝わってきたので、それをみんなに伝えていきたいと思いました。これから、世界から戦争がなくなって、毎日が平和でいられるように!

(29)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て 思 っ た 事

富野小学校 6年

新  田  徹  平

ぼくは、広島派遣団に参加する前までは戦争はこわいと思っていたけど、実際に写真で見た事もなかったからどうこわいか何がこわいかわかりませんでした。だから広島派遣団に参加して実物や広島の町の中を自分の目で見てみたかったです。戦争と平和についても知りたかったし勉強したいと思いました。最初は平和記念資料館に行きました。中に入ると、とけて皮ふが焼けただれた人形や黒いつめ、こげた三輪車や一しゅんでたくさんの命をうばった爆弾などがたくさんありました。色々な物を見ていくうちに、ぼく達の生きている時代は平和で本当に幸せだと思いました。なぜ大人達は戦争をするんだろうと思いました。亡くなっていった子ども達には、僕たちと同じようにやりたい事や夢や未来があったはずなのに全部出来なくなってしまってとても悲しいと思います。他にも原爆ドームや原爆死没者慰霊碑や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館や色々な場所へ行ったけど、やっぱり戦争はこわいし必要ないと思いました。広島に原爆が落ちて、このような悲しい事が絶対におこらないように、世界中の人達が考えないといけないと思います。今もどこかの国で戦争がおこっていると思うと悲しいし、 かわいそうだと思います。今の日本の国は平和で幸せだと感じる事ができました。こういう事も広島派遣団に参加してわかったから良かったです。またこのように機会があれば、自分から参加したいと思います。

(30)

広 島 派 遣 団 に 参 加 し て

富野小学校 6年

島  本      巧

ぼくがこの広島派遣団に参加しようと思った理由は、戦争や核兵器のおそろしさを知りたいと思ったからです。以前にぼくのお姉ちゃんもこの広島派遣団に参加しました。広島には、5時間くらいかけて行きました。着いた時に初めて思ったのは、「広島の町はとってもきれいだなぁ」ということです。本当に原爆が落とされたのかと思うくらいきれいでした。まず、ぼく達は、平和記念資料館に行きました。「8時

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(31)

戦 争 の お そ ろ し さ

深谷小学校 6年

原  口  優  花

私は、広島の原爆について、学校で習っていましたが、もっと深く、くわしく知りたいと思い、この広島派遣団に参加しました。まずは平和記念資料館に行きました。そこで目に止まったのは、黒こげの弁当、ひふがたれ下がっている模型など本当に恐ろしいものばかりでした。黒こげの弁当などはもちろん初めて見ました。この世界でそんな事がおこるのかと本当に信じられませんでした。ひふがたれさがっている模型の前を通る時は怖すぎて、友達と手をつないで通った事を覚えています。それは資料館でのほんの一部の話です。そんな恐ろしくて、こわい事が一しゅんでおこり、広島をこわしてしまったと思うと本当に恐ろしく、戦争はおこしたくない物だしおこしてはいけないと思えました。次の日は、記念公園を見学しました。そして

慰爆霊碑 〟広島二中原

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(32)

広 島 に 行 っ て

深谷小学校 6年

高  木  杏  菜

私は、7月

25日・

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広 島 派 遣 団 に 参 加 し て 感 じ た こ と

深谷小学校 6年

三  崎  小 奈 津

私が広島派遣団に参加した理由は、本当の戦争の恐ろしさを知りたかったし、原爆ドームに興味があったからです。今の広島の町は、大きなビルが建ち並び、道路には、路面電車が走っていました。原爆が落とされ、火の海だったとは思えないほど、緑もたくさんあり、にぎやかな町でした。そんな町の中、私達は最初に、「広島平和記念資料館」に行きました。そこには、原子爆弾によって、「8時

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(34)

戦 争 ・ 核 兵 器 の お そ ろ し さ

深谷小学校 6年

松  尾  夏  歩

私が広島派遣団に参加した理由は、学校でこの企画を知り、興味を持ったからです。私は少しくらいなら広島であったことを知っているつもりでした。しかし、今回広島に行って、私が思っていた以上の戦争のおそろしさを知りました。私が特に、そのおそろしさを知れたのは、平和資料館です。そこには、八時十五分で止まったうで時計・黒こげになった弁当箱・ボロボロになった学生服など…。核兵器のおそろしさが、私でもわかりました。本当に見るのもつらい物もありました。今思い出すだけでもとてもつらいような物ばかりです。その、原子爆弾が落とされた時の広島は、建物はほとんどこわれていて、原子爆弾が一瞬にしてそんな光景にしたのだと思うととてもおそろしいです。そこで私は気付いたことが3つあります。一つ目は、今の私達は六十八年間戦争をせず、とても平和に暮らせているんだという、うれしさ、平和のありがたさ、私達はとても幸せだということ。二つ目は、一瞬にしてあんな光景にしてしまう戦争・核兵器のおそろしさ、こわさ。三つ目は、その被害にあった被爆者の方達は本当につらかったんだと、光景からも、わかるほどのおそろしさ。 私は、この三つを今回、平和記念資料館に行って気付きました。私は、広島派遣団に行く前にも学校で平和について勉強をしました。原爆ドームについての勉強です。そこで、爆弾が落とされたとき、爆心地から約百六十メートルだったが、今の形のような原爆ドームが残ったこと。原爆ドームを保存するか、取りこわすかで議論が続いたことを知りました。しかし、私はもっと、とてつもない被害だったことを知りました。六十八年前の出来事は、本当につらかったと思います。しかし、このことを伝えていくことで戦争はなくなっていくことを、私は信じています。私には、今回学んだことを伝えていく義務があるので伝えていきたいです。私は、戦争がなくなってほしいと願ってますので、私にできる戦争をなくす努力をしていきたいです。

参照

関連したドキュメント

(単位:千円) 平成22年度 平成23年度 平成24年度 平成25年度 平成26年度 1,772 決算 2,509 2,286 1,891 1,755 事業費 予算 2,722 2,350 2,000. 1,772 決算

連結会計 △ 6,345 △  2,963 △ 1,310 7,930 724 普 通会計 △ 6,700 △  2,131 △ 3,526 6,334 △ 970. 基礎的財政収支

[r]

/福島第一現場ウォークダウンの様子(平成 25 年度第 3

ると思いたい との願望 外部事象のリ スクの不確か さを過小評価. 安全性は 日々向上す べきものとの

※短期:平成 30 年度~平成 32 年度 中期:平成 33 年度~平成 37 年度 長期:平成 38 年度以降. ②

2013(平成 25)年度から全局で測定開始したが、2017(平成 29)年度の全局の月平均濃度 は 10.9~16.2μg/m 3 であり、一般局と同様に 2013(平成

平成 26 年度 東田端地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 26 年度 昭和町地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 28 年度 東十条1丁目地区 平成 29 年3月~令和4年3月