The Study Of Games (1971) Avedon, Elliott M.
Elliott Avedon Museum and Archive of Games (1971-2009) の創立者。 Univ. of Waterloo 名誉教授。
アーカイブは現在は閉鎖され、収蔵物は Canadian Museum of Civilization に移設されている。 Sutton-Smith, Brian
社会学者。1924 年生。ゲーム関連の著作で有名。 単著に「The Ambiguity of Play」(1997)など。
Univ of Pennsylvania を退職、現在は The Strong(研究機関)に在籍。
イントロダクション
■この本について
・学際的試み
・レクリエーション (recreation) ・心理学 (psychology)
・ビジネス(経営学?) (business) ・人類学 (anthropology)
・教育 (education) ・精神医学 (psychiatry) ・民族学 (folklore) ・軍事 (military science)
・2 冊シリーズのうちの最初の 1 冊。もう一冊は"Child's Play"(1971)この本で扱うのはおおまかに以下のとおり。各章は、当該分野の紹介文と代表的 な論文、参考文献へのリファレンスで構成される。
・ゲームの起源 ・ゲームの実用性
・ゲームの構造に関する科学的研究
■ゲームという言葉の定義について
学術書である以上は言葉の定義から入るのだが、ゲームという言葉は用法があまりに多岐にわたる。
「ゲーム」の語源を探すと"ghem"にあたり、これは「楽そうに飛び跳ねる」的な意味を持つ。ここから、gam-, gamb-, gambit-, gamble-, gammon-, etc. と色々派生語が出てくるが、最もポピュラーな意味は以下の 3 つに集約される。
1. プレイ(遊び)、娯楽、レクリエーション、スポーツ、戯れの一形態であって、特有のルールをもち、時に一揃いの用具を用い、また時にスキルや 知識や忍耐を要するもの。
2. 脚の状態。自由が効かず、怪我し、引きずっている状態。
3. 野生の動物、鳥、魚。スポーツとして、あるいは食のための狩りの獲物になる。
この意味のばらけかたは、文字以前の人類が ghem の語を人間だけでなく動物の状態にも使っていたことに由来する。動物について用いられる場合、 ghem の語は基本的には「野生の/自由な状態にある動物の、飛び跳ねる動作においての脚の動き、曲がり」に関することを指している。
この意味は[3]に直結しているが、[1]にも繋がっている。ただし、原題ではその意味は発散していて、これを全て綺麗に説明できる理論系は今のところ 無い。
■ゲームは普遍的なものか
19 世紀末の人類学者や最近の一部の行動科学者が唱える「ゲームの普遍性」の問題が在る。これには反証がある。つまり、競争的ゲームを持たない文 化、というのが存在している(そういうゲームを持ったことがない、またはそういうゲームが失われた文化)。こういうのは南洋の単純な、子供に社会 化の要請をあまり行わないような文化でよく見られる。ということは、ゲームは文化的発明であって、文化の発展段階と何らかの関係を持つというこ とになる。
近年のゲーム研究はここに関連したものになっている。
・19 世紀末の人類学者、民俗学者、心理学者が最初に研究をやりだした。この頃の研究はゲームの拡散の観点からの分類だったり、宗教的儀式の観点
からのものだったり、人格の発展段階に関するものだったり。
・社会科学者は確率論やゲーム理論により、運と戦略の伝統的ゲームに数学的是認を与えたり。
・最近ではピアジェ理論の人々が知育玩具をばかすか生み出している。
ここでのポイントは、それぞれの分類方法はそれぞれの分類者の目的に応じて作られているということ。とはいえ、同じ言葉を使うからには何かしら の共通項があるんじゃないのか、というのは自然な話ではある。できればあまりそういうことはしたくないが(定義するよりもそれぞれの用法をマッ ピングするほうが有用だし、この本でやっているのはそういうことだ)、この段階で読者に参照の枠組を示すため、いくつかの簡単な定義は出す必要が あるだろう。
「プレイ」はある種の振る舞いで、「楽しみのために」「行動自体の喜びのためのもので、結果に関する意識なしに」「非実利的な」ものだ。
生物学的には、このプレイにおける問題は、非機能的であるということだ。他方、系統発生論的には、これは進化と結び付けられている。つまり、高 度な種ほどプレイの量が多い。このパラドックスから、プレイに前適応的性質を見る者もいる。
これに対しては、パラドックス自体が適応能力の話を限定させすぎている、という反論が可能だ。適応に対する伝統的定義は、振る舞いの制御に関す る人間の能力を充分に捉えていない。この「充分に捉えられていない能力」は、結果の予想、複数ある器械的振る舞いからの選択、感覚器官による反 射的制御からの自由、振る舞いの方向性を一定に保つこと、逐次的組織化、リソース動員の技術など色々あり、これらは伝統的なゲームの取り扱い対 象だ。従って、生物学的観点から、このような能力の訓練としてゲームを捉えることは充分に可能である。同様の定義は心理学的にも可能であり、現 象学上も同様だ。プレイに関しては「随意(自発的な)制御系の訓練/活動」という方向からの定義を行うことが可能だと言える。ではゲームは?
ゲームを「プレイ」しているとき、プレイヤーは頭のなかに一定の目的を持っている。文化的観点からは、ゲームゲームはユニークかつ個人的なもの で、短期間のものであることが強調される。けれどもゲームは充分にシステマチックなパターンと予期できる結果を持つものであって、他の人と他の 場所で遊ぶことが可能だ。一方でプレイはそれほどシステマチックではなくオープンエンドだ。ゲームにおいて、参加者の随意制御は、定まった目的 を期待して、ただし保証されることはなく、動かされる。
また、ゲームはプレイヤー間に一定の対立を持ち込む。これはソリティアでも変わらない。対立要素の無いゲームの場合、対立は(例えば体育的なゲ ームなら)体を従わせるという要素の中にある。
最も基本的なレベルにおいて、ゲームは以下のように定義できる。「随意(自発的な)制御系の訓練/活動であって、勢力間の対立が有り、手続きとル ールによって進められ、不均衡的な結果を目指すものである。」
当面、この定義で、種々の活動を同じ「ゲーム」の語が使われる理由を説明できるだろう。理論的ないし文化的レベルにおける自発的振る舞いであっ て、人々が互いに対して、あるいは二者に分かれて行うようなもの、に対して適用される。