平成 28 年度
成田市折り鶴平和使節団派遣事業
長崎訪問報告書
成田市
目次
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実施概要
1.目的
市では、昭和 33 年に「世界連邦平和都市」を宣言するとともに、戦後 50 年目を迎えた平成 7 年に は、「非核平和都市」を宣言するなど、平和啓発活動を進めている。戦後 70 年が経過し、戦争を体験 した方が年々少なくなり、その貴重な体験を風化させることなく、次世代に引き継ぎ、平和の大切さを伝 えていくかが課題となっていることから、市内中学生が被爆地を訪問し、直接、戦争の恐ろしさや平和の 尊さを学び、その感想や成果を多くの市民に伝えることで平和啓発を促進させるものである。
2.派遣先
原子爆弾の被爆地であり、原爆資料館のある長崎市・広島市のうち、全国から青少年が集い、被爆 建造物の視察や平和学習から平和意識の高揚を図る「青少年ピースフォーラム」が開催される長崎市に 派遣するものとする。
3.日程
平成 28 年 8 月 7 日(日)~8 月 9 日(火)
4.派遣使節団の編成
(1)団 員・・・市内の公私立中学校(11 校)から1名ずつ推薦された11 名とする。
(2)随行員・・・市教育委員会指導主事1名、平和啓発推進協議会員1名、市広報課職員1名 の合計 3 名とする。
5.費用負担
派遣にかかる費用(交通費、宿泊費、食費等)は、市が負担するものとする。
6.派遣者の責務
派遣される中学生は、派遣に関連する行事をはじめ、事前・事後研修会(7回程度)に出席するとと もに、派遣先においては被爆者からの体験講話を聞き、被爆関係資料館等の見学、平和祈念式典へ の参加などを通じて、戦争の恐ろしさや平和の尊さなどを学び、派遣後は感想文等を市に提出しなけれ ばならない。
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7.実施経過平成 28 年度 4 月 7 日 各中学校へ団員の推薦依頼 平成 28 年度 05 月 28 日 結団式・第 1 回事前研修会 平成 28 年度 06 月 18 日 第 2 回事前研修会
平成 28 年度 07 月 16 日 第 3 回事前研修会
平成 28 年度 08 月11 日 「折り鶴平和使節団・千羽鶴出発式」 平成 28 年度 08 月17 日 長崎市を訪問(8/7~8/9)
平成 28 年度 08 月 22 日 第 1 回事後研修会(台風の為中止) 平成 28 年度 09 月 17 日 第 2 回事後研修会
平成 28 年度 10 月 15 日 第 3 回事後研修会 平成 28 年 度 10 月 29 日 第 4 回事後研修会
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団員名簿(平成 28 年度 成田市折り鶴平和使節団)
学校名
氏名
備考
大栄中学校
藤
ふ じ﨑
さ き涼
りょう団長
遠山中学校
山田
や ま だ悠
は る貴
き副団長
玉造中学校
的
ま と野
の花
か菜音
な ね副団長
成田中学校
多田
た だ康
こ う祐
す け久住中学校
鈴木
す ず き愛
ま な海
み西中学校
久保
く ぼ颯
そ う真
ま中台中学校
石田
い し だ隆
りゅう真
ま吾妻中学校
野口
の ぐ ち心音
こ こ ね公津の杜中学校
藤
ふ じ﨑
さ き幸
こ う大
た下総みどり学園
染谷
そ め や美
み宝
ほ成田高等学校付属中学校 神嵜
か ん ざ き駿之
し ゅ ん の介
す け- 4 -
活動記録
成田市折り鶴平和使節団結団式 5 月 28 日(土)
成田市折り鶴平和使節団結団式を実施。市内各中学校の代表 11 名が成田市役所に集まり、長崎 派遣にあたって抱負を述べました。
事前研修
長崎への派遣に先立ち、DVD などの映像資料や戦争体験者のお話を通して、戦争についての知識を 深めました。そして気になるスポットや現地で感じてきたいことなど、自分なりにテーマを設定し、長崎訪問 に向けて準備を整えました。
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千羽鶴収束作業 6 月 27 日(月)~7 月 22 日(金)
17 日間、延べ 195 人の収束ボランティアの方々によって、中学生や市民から寄せられた折り鶴が、平和 の願いを込めて千羽鶴に収束されました。
折り鶴平和使節団・千羽鶴出発式 8 月 1 日(月)
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長崎派遣日程(概要)
8月7日(日)
8月8日(月)
8月9日(火)
9:00 成田空港 集合
10:20 成田空港 発
12:25 福岡空港 着
12:55 昼食【昼食後、小型バスで長崎市内へ】
15:45 長崎市内視察(山里小学校、永井隆記念館)
18:30 夕食
20:00 ホテル着、ミーティング
8:30 ホテル発【移動は路面電車】
9:00 原爆資料館及び周辺被爆建造物視察
12:30 昼食
13:30 青少年ピースフォーラム・交流会に参加(19:30 まで)
20:30 ホテル着、ミーティング
8:30 ホテル発【小型バスで会場へ】
9:30 青少年ピースフォーラム(平和祈念式典に参列)
12:00 昼食【昼食後、小型バスで長崎空港へ】
14:30 長崎空港 着
15:20 長崎空港 発 (15 時台)
17:15 羽田空港 着
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長崎 1 日目 8 月 7 日(日)
長崎市内視察
長崎へ出発
午前 9 時 成田空港第 1 ターミナルに集合
午前 10 時 20 分発、ANA2141 便で成田空港から福岡 空港に向かい、そこからバスで長崎へ移動しました。バスの 中ではガイドさんが、視察先の一つである永井隆博士が残 した歌の一説を披露してくれるなど、長崎についての紹介を してくれました。団員達も真剣に説明を聞き、長崎訪問への 意識を高めていました。
コース/山里小学校→永井隆記念館→平和記念公園
↑防空壕(山里小学校内) ↑原爆資料室(山里小学校内)
↑永井隆記念館 ↑平和記念公園
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長崎 2 日目 8 月 8 日(月)
被爆遺構巡り(午前)/青少年ピースフォーラムに参加(午後)
午前中は長崎市内の被爆遺構を巡ったり、原爆資料館を見学し、たった1発の原子爆弾の脅威を感じ ました。午後は青少年ピースフォーラムに参加し、被爆者の講話を聴き、ピースボランティアの案内のもと 午前中に見て回れなかった被爆遺構を巡りました。また、夕方からは交流会にも参加し、日本全国から 集まった参加者たちと交流し、意見を交換し合いました。
コース
(午前)/永井隆博士の墓→被爆仏像→二の鳥居→クスノキ→長崎医科大学→原爆資料館 (午後)/被爆体験講話→浦上天主堂→下の川→原爆落下中心地碑→被爆当時の地層→交 流会
↑被爆仏像(被爆当時の写真)
↑二の鳥居
↑被爆クスノキ
被爆仏像
長崎四国第八十三番霊場の中に安置されていま す。被爆後のがれきの中、まるで犠牲者の冥福を祈 るかのようにたたずむ被爆当時の写真が堂内に展示 されています。
山王神社 二の鳥居(一本柱鳥居)
山王神社にあった 4 つの鳥居のうち、一の鳥居と二 の鳥居が残りました。二の鳥居は爆風で笠石がねじ まげられ、爆心地側の半分が倒壊し、残った片方が 一本柱のまま現在でも立っています。
山王神社 被爆クスノキ
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↑旧長崎医科大学正門門柱(現:長崎大学)↑旧長崎医科大学旧配電室(現:長崎大学)
↑長崎原爆資料館
長崎原爆資料館
被爆の惨状を示す多くの資料が大切に保存・展示 されています。また、原爆が投下されるに至った経過 や核兵器開発の歴史など、ストーリー性のある展示 がされています。
旧長崎医科大学の旧配電室
戦前はゲストハウスとして利用され、戦時中は配電 室として使用されていました。分厚いコンクリート造り であったため、爆心地から近距離であるにもかかわら ず、原型を留めた形で残ったそうです。
旧長崎医科大学の正門門柱
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(午後)青少年ピースフォーラムに参加
被爆体験講話
講話者:永野 悦子(ながの えつこ)さん/被爆当時 16 歳 講話者紹介:1945 年 8 月 9 日、学徒動員として勤務中に、 16 歳で被爆。自宅は全焼し、戸外にいた 9 歳の弟は、全身火 傷のため、3 日後に死亡。自宅で被爆した母と妹は、原爆症に 苦しみ、母は一命を取り留めたが、13 歳の妹は苦しんだあげく、 1 か月後に死亡。生き残った者たちの、怒り・悲しみ・淋しさを伝 えたい。この目で見た原爆の恐怖、そして悲惨さを語ることによっ て、平和の尊さを訴え続けていきたいと思う。
(公財)長崎平和推進協会ホームページより
青少年ピースフォーラム・プログラム
(1 日目/8 月 8 日(月)) 1.開会行事 ・開会宣言 1.開会行事 ・被爆体験講話 2.被爆建造物等のフィールドワーク 3.交流会
(2 日目/8 月 9 日(火))
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フィールドワーク(ピースボランティアによる案内)
↑浦上天主堂(昭和 34(1959)年に再建) ↑浦上天主堂鐘楼ドーム
↑浦上天主堂の遺壁(移築) ↑原爆落下中心地碑 爆心地から北東へ約 500m の地点にあり、
当時は赤レンガ造りの、東洋一といわれた 大きな教会でした。原爆の日、一瞬のうちに 爆風で崩壊、火災で屋根と床の可燃物は 焼失し、石像もほとんどが大破しました。
原爆で崩れ落ちた双塔のうち、北側の鐘楼 で、重さ約 50 トン。天主堂北側の崖下に崩 落し、川の流れをふさいでしまいましたが、 川 を移設し、原爆の威力のすさまじさを物語る 貴重な被爆資料として公開されています。
長崎に投下された原子爆弾は、1945 年 8 月 9 日、午前 11 時 2 分、長崎市松山町 171 番地の上空約 500m で爆発しました。 現在の原爆落下中心地碑は、昭和 48 (1968)年に建て替えられました。
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↑被爆当時の地層 ↑夕食交流会
長崎 2 日目終了
長崎新聞文化ホールにて、日本全国から集 まった参加者たちと交流し、意見を交換し合 いました。ピースフォーラムという共通の体験を 通して、団体の枠を越えて相互理解を深めま した。
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長崎 3 日目 8 月 9 日(火)
(午前)折り鶴を献納・長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列 (午後)長崎空港から羽田空港を経由して成田へ
被爆 71 周年
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典
式次第
被爆者合唱
開
式
原爆死没者名奉安
式
辞
献
水
献
花
黙
と
う
長崎平和宣言
平和への誓い
児
童
合
唱
来
賓
挨
拶
合唱
千羽鶴
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(午後)
式典終了後長崎空港へ。羽田空港を経由してリムジンバスで成田空港へ(20 時 00 分着) 無事に 3 日間の長崎訪問が終了しました。
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事後研修~長崎訪問報告会
事後研修では、実際に長崎を訪問し、各団員が見て・聞いて・感じたことを整理し、市民の方をはじめと した多くの方々に、平和の尊さを伝える長崎訪問報告会に向けての準備に取り組みました。
事後研修
第 1 回 08 月 22 日(土)台風のため中止
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長崎訪問報告会
11 月 6 日(日)成田市文化芸術センター スカイタウンホ ールにて、長崎で学んだ被爆の悲惨さの実情や平和への思 いを報告しました。生徒たちによる報告と併せて、平和啓発 映画の上映、パラオで戦争を体験した岡山美奈子氏による 戦争体験講話も実施しました。
報告会式次第
Ⅰ 開会(13:30~)
Ⅱ 平和映画の上映 「夏服の少女たち」
Ⅲ 戦争体験者のお話
「私のふるさと パラオ共和国」 岡山美奈子氏
幼年期にパラオで太平洋戦争を体験された岡山さんから戦争体験のお話を聞きました。日に日に戦火が 激しくなり、生きるか死ぬかの状況を潜り抜けてきたこと、戦争が終わって日本に帰ってきても厳しい生活 が待っていたことなどを臨場感のある語りで伝えてくださいました。
Ⅳ 平和使節団による長崎訪問の報告
長崎を訪れて、見て・聞いて・感じたことを発表しました。(報告内容全文は次ページから)
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山里小学校
永井隆博士 成田市折り鶴平和使節団 長崎訪問報告
使節団員は、パワーポイントを使用し、3 日間の長崎訪問で見て・聞いて・感じたことを、グループごとにリ レー形式で報告しました。
第1グループ(野口・的野・神嵜) (野口)
まずはじめに、山里小学校からから紹介します。 山里小学校は爆心地から700mの地点にあります。 原爆により、鉄筋コンクリートの校舎は内部を全 焼し、外郭を残すのみで、ほとんどなくなってし まったそうです。今は新しく建て直されています が、校舎の裏には当時の防空壕が残されています。 第二次世界大戦の終わりごろ、山里小学校のこの 崖に、防空壕が掘られ、避難場所になっていまし
た。また被爆当時、新しい防空壕を掘る作業をしていた教職員や、避難してきた近隣住民 の方たちなどが、この防空壕の内外で亡くなっていったそうです。この山里小学校は二度 とこのようなことがないように平和を語り継ぐ場所として残されています。敷地内には原 爆資料室もあり、説明員の方が一つ一つ丁寧に説明してくださいました。そこには先ほど 紹介した防空壕の見取り図や、実際の被爆校舎の階段、当時山里小学校の生徒だった方の 作文などが展示されていました。また、原爆の熱により溶けてザラザラになった瓦を触ら せてもらうこともできました。瓦の表面を一瞬で沸騰させるほどの熱さだったことがわか ります。8月9日に行われた平和祈念式典では、山里小学校の児童による合唱が発表されま した。山里小学校について深く見て、当時の緊張感のようなものがひしひしと伝わってき ました。次は永井隆(ながいたかし)博士について的野さんお願いします。
(的野)
皆さんは永井隆博士を知っていますか。永井隆さんは長崎名誉 市民です。そしてこの永井博士が療養していた如己堂の見学をし ました。
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クローク・オブ・ピース いた本の中には、映画化されたものもあります。永井博士は、如己愛人(己の如く人を愛 する)という言葉を胸に最後の瞬間まで、人々のために全力を尽くしたのです。
そして永井博士の残した言葉はたくさんあり、私は永井博士の生き方は素晴らしく尊敬 できるものだと思ったので、その言葉を紹介しようと思います。「あの美しかった長崎をこ んな灰の丘に変えたのは誰か?…私たちだ。愚かな戦争を引き起こしたのは私たち自身な のだ。」
この言葉からわかるように、永井博士は原爆を落としたアメリカだけを責めず、自分た ちにも非があったと言っているように読み取ることができます。
「お互いに許しあおう…お互いに不完全な人間なのだから。お互いに愛し合おう…お互 いに寂しい人間なのだから。けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、後に残るのは後悔 だけだ。」
永井博士は戦争で大切な家族を失っているのにも関わらず、「許しあおう」と言っていま す。この言葉には許しあうことによって不完全な人間が、成長していくという考えが込め られていると私は思います。
このように永井隆という人は自分の危険をかえりみず、たくさんの人々のために全力を 尽くした名誉ある人間です。永井博士の平和を愛する気持ちはたくさんの人々の心に大き な感動を与えてくれました。
永井博士の生き方を知り、永井博士の残した言葉を知り、私にはできることがたくさん あるのではないかと思います。永井博士の言葉を胸に、学校生活でいじめゼロに努めてい こうと思います。
次は平和公園について野口さんと神嵜さんお願いします。 (野口)
3つめは平和公園です。そこには噴水があり、正面から見るとちょうど真ん中に平和記念
像が見えるようになっています。またその周りには様々な国から送られてきた、たくさん のモニュメントがあります。これらは平和と人類を象徴しているそうです。続きは神嵜さ んお願いします。
(神嵜)
私は平和公園で見た数々の像や石碑について報告します。 平和公園にある像や石碑は各国から寄贈されたものです。 中国やオランダ、イタリアなどから平和や未来の幸せを願い 作られ、一つ一つがその国や人々の思いを強く表していまし た。中でも自分が気になったのは、クローク・オブ・ピース という像です。ニュージーランドの6都市から寄贈されたも のです。多くの像や石碑から、文化や言語が違っていても、 平和への思いは皆同じだと思いました。
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被爆クスノキ
す。噴水の直径は約18m、高さ0.5m~6mで、刻々と変化する形は平和の鳥、ハトの羽ば たきを表しています。そして平和祈念像を見ました。高さは 9.7m、重さは約 30tの青銅 製で、天を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和、軽く閉じた目は原爆 犠牲者の冥福を祈っているそうです。
平和公園では、他の場所とは違う感覚になりました。ゆったりとした風や水の流れる音、 太陽の光といったものが重なって、別の世界のようなところでした。そこで自分は、自由 でなかったり、望みをかなえることができなかった人々のことを思いながら生きていこう と思いました。二日目の報告は次のグループの皆さんにしていただきます。
第2グループ(久保、石田、山田、多田) (久保)
二日目は使節団だけで被爆物を見ました。
旧長崎医科大学は爆心地から約600mという至近距離にあり、全壊全焼し、学生、教職員 890名余りが死亡しました。爆風の影響で正門門柱は約10度傾き、間へ9cmずれ、台座と
の間は最大16cmの隙間ができました。重い石柱が一瞬の爆風によって傾いてしますような 爆風とはどのようなものか、僕には想像もつきませんでした。今では旧配電室だけが残っ ていて、またゲストハスとして使われています。現在は「長崎大学坂本キャンパス」とし て大学が再建されています。
次に被爆仏像です。被爆仏像は長崎四国八十三番霊場の中に安置されています。被爆後 のがれきの中、まるで犠牲者の冥福を祈るかのようにうなだれてたたずむ被爆当時の写真 が堂内に展示されています。
次に山王神社の二の鳥居です。
この写真を見てください。この鳥居は爆心地から 800m の位置にある鳥居です。笠石は 捻じ曲げられ、爆心地側の半分が崩壊し、残った片方が一本柱のまま立っています。よく 見れば、柱の爆心地側の石の表面が溶けていて、刻まれていた奉納者の名前も読み取りに くく、熱線のすさまじさ物語っていました。
次に石田さんにこの山王神社のクスノキについて語ってもらおうと思います。 (石田)
それではこの写真を見てください。
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溶けたガラスと手の骨 います。そしてクスノキの内部を見ました。そこにはたくさんの石がありました。これは 爆風で石が飛んできたときに、入ってきたものだそうです。クスノキはこのように石が入 っていたり、傷がたくさんあります。そんな状態でもしっかりと生きてきたクスノキに僕 はとても感動しました。クスノキは71年前の悲しみを伝えるために、生きてきたと僕は思 います。二度と戦争が起こらないように、原爆を落とされないようにと自分が伝えていか なければならないなと感じました。原爆が落とされた時や、爆弾が落とされたとき、人は 逃げることができます。しかし木や草などの植物は逃げることができません。水がほしく ても動いて探すこともできません。僕はクスノキの気持ちになって考えました。「痛い、熱 い、苦しい」と叫んでいたと思います。でもしっかり生きていこうと思っていたから今も 生き続けていると考えました。これらを無駄にしないように、クスノキから学んだことを たくさんの人に伝え、日本をはじめ、世界が平和になるように努力していきたいです。そ のためにまずは皆さんに原爆の被害はどのようなものなのかを知っていただきたいと思い ますので、山田さんに説明してもらいます。
(山田)
それでは、長崎原爆資料館の話を始めます。長崎原爆資料館は長崎市の原爆被爆50周年 記念事業の一つとして、平成8年 4月に、それまで被爆資料を展示していた長崎国際文化 会館を建て替えて開館しました。皆さんも機会があったらぜひ行ってみてください。では、 長崎原爆資料館内の話に入ります。
みなさんは、これが何か分かりますか。これは原爆の三 大被害、放射線・熱線・爆風の被害を受けた展示物です。
3,000~4,000度に及ぶ熱線と爆風の被害を受けて、溶けた
ガラスと手の骨が一体化してしまったのです。この展示物 を見たとき、僕は驚きを隠すことができませんでした。
では、三大被害それぞれの被害と影響を大まかに説明し ます。一つ目は放射線です。放射線は多くの方々に後遺症
を残し、今でも病と闘っている人がいるほどです。主な病名として、①急性リンパ性白血 病、②白血病、③臓器ガン、④原爆白内障、⑤小頭症がありました。
二つ目は熱線です。先ほども言ったように、3,000~4,000度に達した熱線は1km離れた
場所でも1,800度を保ち、4km離れた場所でも火傷の被害を与えるようなものでした。爆
心地から 100m 足らずの場所では、体が一瞬にして炭になるような熱さが人間を襲い、物 などは形も残らないほどでした。
三つ目は爆風です。爆風は一番多くの被害を人々に与えました。三大被害の内訳を表す と、半分・50%にも及ぶほどでした。1km以内の建物はほぼ粉々に吹き飛び、鉄筋コンク リートなどでできた建物が少し残る程度でした。
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ファットマンの原寸大模型 (多田)
それでは、この写真を見てください。これは実際に長崎に投 下された原子爆弾「ファットマン」の模型です。直径1.52m、
高さ3.25m、高さ4.5t、21キロトンの火薬、トラック72,500
台分のダイナマイトに相当するものが仕掛けられています。し かし最も被害をもたらす核物質は、人の頭くらいの大きさしか ありません。
僕は、実際に長崎資料館に行ってファットマンの模型を見た ときに、何でたった3mの大きさ、人の頭くらいの大きさの核 物質が、仕掛けられた原子爆弾がこんなに多くの被害をもたら したのかなと思いました。
そして僕は、原子爆弾は絶対あってはならないものなんだと強く感じました。それが日 本だけに投下されたと聞いたときは、とても悲しくなりました。
しかし僕は、このほかにも驚いたものがありました。それは世界にはまだ核兵器を所持 している国があることを示していたものです。皆さんは世界にはどれくらい核兵器がある かわかりますか?
約15,700発の核兵器が世界にはあります。僕はこのデータを見て、びっくりしてしまい
ました。日本に原子爆弾を投下して、核兵器がいけないとわかっているのにも関わらず、 何で世界にはたくさんの核兵器があるのだろうと思いました。
(石田)
吹き上げる巨大なキノコ雲。 (多田)
人々はどうなってしまったのか。雲の下の真実を知ってください。 (久保)
忘れないでください。伝えてください。 (山田)
これは長崎原爆資料館内の写真です。この文から、僕は長崎市民の叫びが聞こえたよう に感じました。8月9日11時2分、成田市民がまさかと思うようなことが長崎市民を襲い ました。その一瞬、長崎市民がどれほど苦しい思いをしたことか。
なので、成田市民の何十倍も長崎市民は原爆の恐ろしさを知っている。そして伝えてほ しいと思っている。皆さんの協力が必要なんです。伝えていきましょう、後世に…
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第3グループ(藤﨑涼、藤﨑幸大、鈴木、染谷) (藤﨑涼)藤﨑からピースフォーラムについてお話しさせていただきます。今私たちができること は何でしょうか。そして今私たちがしなければいけないことは何でしょうか。
今回長崎の地で、戦争について触れることのできる場所をたくさん訪れました。まるで すべての場所、すべてのものが1945年8月9日11時2分で止まっているようでした。
2日目の午後、私たちは全国から子どもたちが集まり、平和について考える「ピースフォ
ーラム」に参加しました。その際考えたことがありました。実際に被爆されて、現在語り 部として活動されている永野さんという方が、私たちに多くのことを語ってくださいまし た。永野さんは学徒動員として仕事中に被爆されたそうです。当時16歳でした。学徒動員 とは、学生が働き手となり、仕事をする人を指します。弟と妹の二人は被爆し、亡くなら れたそうです。本当に体験した方からのお話は、言葉の重みが全く違いました。あの日の 青い空が脳裏をよぎったようでした。「国民同士は戦争なんてやりたくなかった。」永野さ んはこのような言葉を交わして、アメリカの方と泣きあったそうです。他にもご自分が経 験されたつらい体験を涙ながらに伝えてくださいました。
そして「平和な世界はいつか来ると思いますか。」という質問に、永野さん自身はこう答 えました。「来るか来ないかではなく、来なくてはならない。」と。
ただ祈るだけではいけない。私はそう言われたように感じました。そのために今できる こと、発信すること、伝えることをやめず、平和を訴えていかなければいけないと思いま した。ピースフォーラムのフィールドワークについて、藤﨑幸大さんお願いします。 (藤﨑幸大)
私たちはボランティアガイドさんの案内で、フィールドワークに参加し、「被爆当時の地層」 を見ました。これは、被爆当時に人々が暮らしていた跡が、そのままの状態で残されてい るものです。地層の中には、茶わんやベンチ、アイロンなどの生活用品が瓦やレンガのが れきに混ざって積もっていました。他にも回収しきれなかった死体がたくさん埋まってい るそうです。
これを見て、私は言葉を失いました。地層は原爆が一瞬にして人々の命や暮らしを奪い、 一変させたことを物語っていました。長崎の街並みはとてもきれいでした。しかし、実際 には、埋め立てられて見えないだけで、このような地層が長崎の街中に広がっているそう です。今自分が立っている足の下には、と想像するととても恐ろしくなりました。当時の 悲惨な状況、孤独に地下に埋まっている被爆者の「苦しい」、「助けてくれ」と訴える声が 聞こえてくるようでした。
何があったかもわからないまま、一瞬にして死んでいった人、被爆し、「水を、水を…」 と言って、もだえ苦しみながら死んでいった人の無念さが皆さんにはわかりますか。私は 涙が出るほど悲しく、悔しくなりました。
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フィールドワークにて
し合い、愛し合えば自然になくなっていくものだと考えています。だから皆さんも、ぜひ 今後の世界平和について考えていただきたいと思います。
次は同じく、フィールドワークで行った浦上天主堂と原爆落下中心地碑について、鈴木 さんに説明してもらいます。
(鈴木)
フィールドワークで次に行ったところは、浦上天主堂 でした。浦上天主堂は当時、高さ約26mで、東洋一を誇 っていました。しかし原爆の数千度の熱線と、炎により、 黒く変色した石像、秒速数百メートルの爆風でずれが生 じた石柱、目や鼻や腕をもぎ取られ深く傷ついたマリア 像、砕かれて散乱する赤レンガなどから、被害の大きさ がうかがえます。鐘楼ドームは天主堂左にあり、強烈な 爆風によって、下へと崩れ落ちました。その鐘楼ドーム
や熱線を浴びて表面が黒くなっていたり、かけているマリア像を実際にこの目で見て、今 までに感じたことのない熱さと爆風であったことが一目瞭然でした。
そして私が一番心に残っている場所は、原爆落下中心地碑です。長崎に投下された原爆 は、形状からファットマンと呼ばれました。原爆落下中心地碑の上空約 500m でさく裂し たことを表す円の広場になっていて、原爆殉難者奉安箱には、原爆死没者名簿をマイクロ フィルム化したものが納められています。この場所に来た時に、ここに原爆が落とされた という事実を知り、生きたかった未来、大切な人を奪われてなお自身の苦しみを背負って いる人々など、被爆された人々への思いが強くなりました。
続いて交流会についても私が説明します。
フィールドワークが終わると、夕方からは交流会です。会場の文化ホールまで歩いて行き ました。今日はずいぶん歩いた日でした。
私たちは、交流会で初めて会った日本中の方々と平和についての話をしました。ここで 自分たちが学んだ原爆の悲惨さなど、感じたことを話し合うというコミュニケーションを とることができました。最初何を話していいかわかりませんでしたが、バイキング形式の 食事はとてもおいしく、飲み物を飲んだり、ステージ上のパフォーマンスを見たりしてい るうちに自然と会話が弾んでいきました。初めて会った人でも、ちょっと勇気を出して話 しかけてみると仲良くなれるんだと感じました。「これって平和の原点?」と思いました。 交流会の楽しさが私に教えてくれたことでした。各地のゆるキャラ紹介や、場所の紹介も あり、充実した時間となりました。
次は折り鶴の献納について、藤﨑幸大さんに説明してもらいます。 (藤﨑幸大)
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さんや、市内の学校の生徒が心を込めて作ってくれた千羽鶴です。私たち中学生は市内に
3,729人おり、その全員が鶴を折って協力してくれました。総数は19,000羽にもなりまし
た。今年は市全体で約12万羽の鶴が集まりました。これは、成田市の人口に近いくらいの 数です。たくさんの折り鶴は、クロネコヤマトさんのご協力で広島と長崎へ運ばれました。 長崎へ運ばれた分は、団員全員が責任を持ち、少し緊張した雰囲気で、平和への祈りを込 めて献納をしました。
献納台を見ると、全国から集まった数えきれないほどたくさんの千羽鶴が捧げられてい ました。この鶴たちは、みんなが一羽一羽平和への祈りを込めて丁寧に折ったものだと思 うと、胸が熱くなりました。
(染谷)
71年前の8月9日11時2分。この時間は人々が一瞬にして幸せを失った二度と忘れて
はならない瞬間です。11時2分、黙とうをささげました。周りからは葉が風で揺れる自然 の音が聞こえてきました。それを聞いたとき、被爆者が求めていることはこれなのではな いかと感じました。長崎に原爆が投下されたとき、自然の音や鐘の響き、色とりどりの花、 鮮やかな青い空。すべてがそう簡単には思い出せなかったと思います。しかし、それを取 り戻したい一心でここまでさせた被爆者たちの心の強さをとても感じさせられました。
ですが、今まで私は長崎のために黙とうしたことなんて一度もありませんでした。同じ 日本でも長崎では、11時2分、たくさんの思いを持った人々が黙とうをしています。その 時、私たちはいつも通り過ごしていました。自分たちには関係ない、そう思っている人も 少なくないと思います。たった1分1秒の中で数えきれない人々が苦しみ、数えきれない 人々が家族や友達を失いました。そのことを知らないで過ごしていた自分が本当に情けな く感じました。小さな音からたくさんのことを感じさせられた1分でした。
長崎平和宣言と平和への誓いについて話したいと思います。長崎市長 田上富久さんの 平和宣言の中で、「被爆から71年が経ち、被爆者の平均年齢は80歳を超えました。「世界 が被爆者のいない時代」を迎える日が少しずつ近づいています。戦争、そして戦争が生ん だ被爆の体験をどう受け継いでいくかが今問われています。」と訴えています。私たちは今、 被爆者が苦しい思いを抱えながらも語ってくれるので、当時の貴重な話やどんな質問にも 答えが見つかります。ですが、同じ言葉でも本人ではなく、他人が話をすることで、伝わ りきらない部分も出てくると思います。被爆者の言葉・姿は、あの日何があったのかどん な光景が目に焼き付いたのか、たくさんの事実を残してくれました。私たちができる「受 け継ぐ」とはどういうことでしょう。私は「被爆の実相を語り継ぐこと」と、「戦争は絶対 にダメ、周りとの対話を大事にしよう」という自分の思いを合わせることで、被爆者の伝 えたいことに少しでも近づけると思っています。改めて私たちのしなければいけないこと を考えさせられました。
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原爆落下中心地碑にて 話の中に「原子爆弾の雲の下は、想像を絶する修羅場となり、日本人だけでなく、強制連 行 さ れ た 中 国 人 や 動 員 され た 朝 鮮 人 、 戦 時 捕 虜 のア メ リ カ 人 や 諸 国 の 人 々を 含 む お よ そ
74,000人が無差別に殺され、虫や鳥や植物など、すべての生き物が死滅しました。」とあり
ましたが、苦しんだ人や悲しんだ人も含めれば、想像をはるかに超える人数になると思い ます。それくらい恐ろしいものです。核兵器とは。
最後に、祈念式典の冊子には、日本語の隣に英語の文が載っています。たくさんの外国 人が式典に足を運んでくれていることをとてもうれしく思います。
井原さんは最後に、「武力で平和は訪れないと確信している。」と述べています。今年の5 月、アメリカの現職大統領として初めてオバマ大統領が被爆地・広島を訪問しました。大 統領は被爆者への接し方や演説から、自分の目と耳と心で感じることの大切さを世界に示 しました。私も長崎を訪問し、自分の目と耳と心で多くのことを感じました。「武力」を捨 て、信頼し合うことの大切さを私は学びました。信頼する勇気を一人一人が持つことで、 身近な友達にもそういう思いで接すれば仲良く楽しく生活が送れると思います。
(藤﨑涼)
原爆落下中心地で、ある光景を目にしました。数十人の 外国の方がゆっくりと何かを語りかけるように献花を さ れていました。様々な国から数十人の方々が、71 年前に 亡くなった方を想ってくださっていることがわかりま し た。
事前研修の際に教えていただいたのですが、ワシントン で30人に聞いたところによると、原爆を投下された都市 名を二つともに知っているのは18人。いずれも名前を知 らないのは3人となったそうです。ですが、投下された日 を二つの場所とともに知っているのは10人、いずれも知
らないのは11人となったそうです。これはとても悲しいことです。しかし今日本ではどう でしょうか。私は全員がわかっていなければならないことだと思います。
私たち11人は成田市の代表として、本当に貴重な体験をさせていただきました。実際に 原爆の恐ろしさを体験した方の生の声を聞き、当時の悲惨な状況を知ることができました。 悲惨な体験や思い、そして私たちが感じたことをいつまでも伝え続けることが、戦争とい う過ちを繰り返さないために必要だと考えます。私たちができることはとても小さいけれ ど、ゼロではないと思います。
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派遣生徒感想「成田市折り鶴平和使節団に参加して」
「私達は一人ではない」
大栄中学校 藤﨑 涼
私達11名は成田市を代表して、長崎へ行かせていただきました。この数か月間は、私の 中で一生忘れることのできない、忘れられない時となりました。
事前研修の際は、色々な思いがありました。不安だったり、緊張だったり。しかし、こ の研修で、生きていられることのありがたさを感じました。色々な方から、お聞きしたお 話が、私の中に響いてきたからです。
私が一番心に残っているのは、外国の方が献花をされている様子です。とてもうれしい 気持ちになりました。日本を想ってくださっている方々がいることが分かり、もっとたく さんの事を学ばなければいけないとも思いました。
私たちはあれから71年後の未来を生きています。昔は想像することもできなかったよう なことが、たくさん実現されています。しかし、平和な世界というのは、今現在も実現さ れていません。世界についての報道を聞くと、内戦や核実験、テロ…このような言葉が出 てきます。なぜなのでしょうか?平和な世界など来ないのでしょうか?私は違うと思いま す。
被爆者の方が、「平和な世界は来るか来ないかではなく、来なくてはならない」とおっし ゃっていました。
私達11名もはじめは他人でした。しかし、平和について学ぶことで仲間となっていきま した。この仲間の輪を広げることが私達ができる第一歩ではないでしょうか?そして平和 な世界は、私達が作らなければいけません。
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「長崎の偉大さ」遠山中学校 山田 悠貴(副団長)
5月28 日、初めて使節団メンバーと会ったときは、すごく緊張しました。しかし、3回
の事前研修を経て、長崎へと旅立つときには、もう深い友情、絆のようなものが生まれて いました。
長崎を訪問する前に、個人的に事前研修以外で原爆の情報を知りたかったので、調べて いると、ありとあらゆる驚くべき事実が体内に入ってきました。僕が思っていた「原爆の 知識」の量をはるかに超えていました。そして実際に長崎を訪問した後に、改めて長崎の 偉大さを実感しました。それは主に3つです。
一つ目は長崎の雰囲気です。成田とは違った風が吹き、花々が咲き、音が鳴り、8月9日 は特に違う世界にいるような感覚でした。
二つ目は物の扱い方です。長崎では被爆物はもちろん、一つ一つのものを大事に丁寧に 扱っているように感じました。世界で二か所しかない被爆地の責任を、言葉を通じてでは なく、動きや態度を通して表しているところに偉大さを感じることができました。
三つ目はコミュニケーションの取り方です。長崎の方々と会話をしていると、何気ない 言葉でも改めて考え直してみると、すごく意味が深かったり、一言一言がすごく重く感じ ました。長崎の方々は、普通に会話しているだけだと思いますが、そんなところに偉大さ を感じました。
このように長崎の方々と成田市民では、気持ちの面で大きな差があります。その差を埋 めてほしい一心で、成田市長は、僕たちを送り出したんだと思います。原爆に対する思い に日本の中で温度差をなくせるように、僕はこれからも大きな目標と希望を抱いて毎日一 歩ずつでも成長していきたいと思います。
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「長崎を訪れて」玉造中学校 的野 花菜音(副団長)
私たちは8月7日から9日までの間「成田市折り鶴平和使節団」として長崎を訪れまし た。
一日目は、山里小学校、平和公園、永井隆記念館に行きました。山里小学校では、原爆 の被害で表面が融けてざらざらになった瓦を見て、原爆の恐ろしさを感じさせられました。 次に行った永井隆記念館では、永井博士の心に響く数々の言葉を知り、「戦争」とは、「原 爆」とは、どのようにして人々を苦しめたのかを知り、それをたくさんの人々に伝えてい きたいと改めて思いました。
二日目には、戦争当時を思い出させるような建造物を見ました。被爆クスノキや二の鳥 居、原爆資料館を目で、耳で、体全てを使って感じることができました。
三 日 目 は 平 和 記 念 式 典に 参 列 し ま し た 。 被 爆 者の 方 々 の 合 唱 を 聞 い て いる と 被 爆 者 の 方々の気持ちがひしひしと伝わってきて、平和への強い思いを感じることができました。
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「長崎を訪れて…」成田中学校 多田 康祐
僕は、この半年間で原爆、戦争の恐ろしさ、そして命がどれほど大切なものか、という ことを改めて深く考えさせられました。
長崎を訪れたのは、たったの 3日間。しかし、その3日間は僕にとってはかけがえのな いものです。この 3 日間で今生きていられる幸せをとても感じました。水が欲しくても飲 めない人、寝たくても寝られない人、このような人がたくさんいたと思います。なので、 今生きている一日一日をもっと大切に生きなければいけないのだと強く感じました。
当たり前のことが当たり前にできる世の中…今はこれが日本では実現していますが、世 界ではまだ紛争や戦争をしている国があると考えるととてもかわいそうです。
僕が「平和を!」と祈っているだけでは、平和は来ないかもしれませんが、全世界の人々 が「平和」を願えば、必ず平和な世の中は来ると思います。
そのための第一歩として、長崎という地を訪れられたことをとてもうれしく思います。 そして貴重な体験だったと思います。
普段の生活では、平和への協力をする機会があまりありませんが、機会があるときは積 極的に参加し、「平和な世の中」を作るために協力できたらいいなと思いました。
そのために、まずは学校のいじめをゼロにすることから始め、そこから広い範囲で平和 を願えるようにしていくことが大切で、そのことが行えないで平和は来ないと思います。 なので、身近ないじめゼロから目指していこうと思います。
「長崎を訪問して」
久住中学校 鈴木 愛海
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「平和とは何か」西中学校 久保 颯真
「平和とは何か。」僕はこの使節団に入り、最初に疑問に思い、長崎から帰ってきていろ いろ学んだ上での最大の疑問でした。正直なところまだ答えは出ず、あいまいなところも 多々あります。でも、それだけ重要であること、そしてそれは人類で最も大切な疑問の一 つでもあると思います。「平和」この二つの小さな漢字の中にいろいろな意味があり、その 一つ一つは重く、大きなものであると思います。今、日本の人々は戦争を知りません。知 っていてもそれはつらい歴史のほんの数ページにすぎません。どんなものかも知らないが、 恐ろしいもの、やってはいけないものと、きれいごとを並べていく人ばかりです。そうい う人たちに「平和」とは何かを聞いてもきっとこういうと思います。「戦争がなくなること」 と。でも本当にそれだけでしょうか。今もテロや殺人事件、身近なものだといじめなどが 世界では頻繁に起こっています。このような世界でも、本当に平和だと思えるでしょうか。 自分が幸せなだけでそれを本当に平和といってもいいのでしょうか。今回、この使節団に 選ばれた方は考えてみてください。本当に平和を求めているのであれば、答えはすぐには 出ないと思います。これから行く方は、それを踏まえて長崎へ行ってみてください。きっ と何かを感じるはずです。その何かを自分なりに考え、伝えてください。
「争いをなくすために」
中台中学校 石田 隆真
僕はけんかや戦争などの「争い」というものが嫌いでした。いつかは日本が平和でなく なってしまうのではないかと不安になるときがありました。その時に「成田市折り鶴平和 使節団」として長崎を訪問しました。
長崎では多くのことを見て、感じることができました。山里小学校では、防空壕に入る か入らないかの一瞬で生と死が分けられたことを知り、とても怖くなりました。永井隆記 念館では、永井さんの平和の思いが心にささりました。クスノキは「無理」と言われても 何とか生き、平和を今でも伝えています。原爆資料館では、すべての展示物が平和とは何 かを語りかけてくるようでした。平和祈念式典では、長崎市長の田上さんの話や被爆者の 方々の合唱を聞き、平和でなくてはいけないということがより明確になりました。
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「長崎で学んだもの」吾妻中学校 野口 心音
私たちは成田市折り鶴平和使節団として、長崎を訪れました。そこでは、被爆者の方の お話を聞いたり、当時の資料を見たりと、貴重な体験をたくさんさせていただきました。 私が特に心に残ったのは、原爆資料館の中にあった、「長崎を最後の被爆地に」という言葉 です。私は、その言葉の前でふと足を止めました。もう二度と被爆地を作ってはいけない、 という強い気持ちが込められているように感じたからかもしれません。
長崎を訪れて、私は原爆の想像を超える悲惨さが分かりました。前から原爆がどれだけ ひどい兵器であるかは知っていたつもりでした。ですが、実際に長崎を訪れ、深く勉強し てみて、「今まで私が知っていたのは、原爆の恐ろしさのほんの一部だったんだ」というこ とがよく分かりました。原爆は71年前に広島・長崎に投下されて以降、今この瞬間も人々 を苦しめ続けているんだということに改めて気づかされました。折り鶴平和使節団で得た ものはとても大きいです。でも私たちの使命はただ学んで終わりではありません。この貴 重な経験を絶対に無駄にせず。今度は私たちが伝える側となって、たくさんの人に原爆の 事を知ってもらいたいと思います。
「長崎を訪れて」
公津の杜中学校 藤﨑 幸大
私は今年、成田市折り鶴平和使節団に参加し、長崎を訪問しました。長崎では、様々な 原子爆弾の爪痕を見学しました。
その中でも印象に残っているのは、「被爆当時の地層」です。これは、長崎が被爆した時 の様子が地層として残っているもので、ほぼ当時のままの状態で残されているそうです。 地層の中には、茶碗やペンチ、アイロンなどの生活用品が、瓦やレンガのがれきに混ざっ て積もっていました。中には、回収しきれなかった死体も埋まっているそうです。
地層は、原爆が一瞬にして人々の命や生活を奪い、一変させたことを物語っていました。 亡くなっていった被爆者の方々の「苦しい」、「助けてくれ」といった悲痛な声が聞こえて くるようでした。
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「長崎から得たもの」下総みどり学園 染谷 美宝
戦争とは何か、平和とはどれほど尊いものなのか。それを知りたくて、自分だけの答え を感じたくて長崎を訪れました。
私はアンネ・フランクの伝記を読み、戦争の怖さを知ったのにもかかわらず、何もでき ずにいました。その時、成田市折り鶴平和使節団の話を聞き、これを逃したらもうないか もしれないと思い、立候補しました。
長崎には目を背けたくなるような写真や展示物が数多くありました。その一つ一つに優 しさ、悲しみ、後悔などが感じられました。私が過ごした 3 日間の間、平和とは?という 問いに一番近づけたのが、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での約1分間の黙とうでした。 風の音、葉の音、鳥の声。一瞬で目をつむりたくなるなるような地へと変わった長崎が、 今、こんなにも美しいのはなぜでしょう。それは平和を願う人たちの姿があったからだと 私は思いました。誰もが失いたくなかった命と未来。それは戦争が奪っていったことを改 めて感じさせられました。本当に貴重な体験でした。これからは願うだけでなく、思いや りの心を持ち、平和への思いを一人でも多くの人に伝えていけるよう、今を精一杯生きて いこうと思いました。
「発表会を通じて」
成田高等学校付属中学校 神嵜 駿之介
私たちは発表会にむけて資料の準備や、リハーサルを行ってきた。しかし、私は最後の リハーサルの日、熱を出して欠席してしまった。本番前日、とても不安だった。上手くい くか、人前で発表するとき、早口になってしまったり、声が出なくなってしまうのではな いかと。発表当日、直前のリハーサルでは、細かな時間調節、声の大きさやペースなどを しっかりと確認しながら、本番で失敗しないかとても不安だった。
そして、本番。発表会が始まった。最初の平和映画の上映が終わるときも緊張が収まら なかった。私たちの発表する時が来た。多くの方々に自分たちの経験したことを伝えるの は、とても緊張した。最後に一人一人がまとめをし、成田市長のお話があり、無事発表会 は閉会した。
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長崎平和宣言
核兵器は人間を壊す残酷な兵器です。
1945年8月9日午前11時2分、米軍機が投下した一発の原子爆弾が、上空でさく裂し
た瞬間、長崎の街に猛烈な爆風と熱線が襲いかかりました。あとには、黒焦げの亡骸、全 身が焼けただれた人、内臓が飛び出した人、無数のガラス片が体に刺さり苦しむ人があふ れ、長崎は地獄と化しました。
原爆から放たれた放射線は人々の体を貫き、そのために引き起こされる病気や障害は、 辛うじて生き残った人たちを今も苦しめています。
核兵器は人間を壊し続ける残酷な兵器なのです。
今年5月、アメリカの現職大統領として初めて、オバマ大統領が被爆地・広島を訪問し ました。大統領は、その行動によって、自分の目と、耳と、心で感じることの大切さを世 界に示しました。
核兵器保有国をはじめとする各国のリーダーの皆さん、そして世界中の皆さん。長崎や 広島に来てください。原子雲の下で人間に何が起きたのかを知ってください。事実を知る こと、それこそが核兵器のない未来を考えるスタートラインです。
今年、ジュネーブの国連欧州本部で、核軍縮交渉を前進させる法的な枠組みについて話 し合う会議が開かれています。法的な議論を行う場ができたことは、大きな前進です。し かし、まもなく結果がまとめられるこの会議に、核兵器保有国は出席していません。そし て、会議の中では、核兵器の抑止力に依存する国々と、核兵器禁止の交渉開始を主張する 国々との対立が続いています。このままでは、核兵器廃絶への道筋を示すことができない まま、会議が閉会してしまいます。
核兵器保有国のリーダーの皆さん、今からでも遅くはありません。この会議に出席し、 議論に参加してください。
国連、各国政府及び国会、NGOを含む市民社会に訴えます。核兵器廃絶に向けて、法 的な議論を行う場を決して絶やしてはなりません。今年秋の国連総会で、核兵器のない世 界の実現に向けた法的な枠組みに関する協議と交渉の場を設けてください。そして、人類 社会の一員として、解決策を見出す努力を続けてください。
核兵器保有国では、より高性能の核兵器に置き換える計画が進行中です。このままでは 核兵器のない世界の実現がさらに遠のいてしまいます。
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知」を行動に移すリーダーシップを発揮してください。核兵器の歴史は、不信感の歴史です。
国同士の不信の中で、より威力のある、より遠くに飛ぶ核兵器が開発されてきました。 世界には未だに1万5千発以上もの核兵器が存在し、戦争、事故、テロなどにより、使わ れる危険が続いています。
この流れを断ち切り、不信のサイクルを信頼のサイクルに転換するためにできることの ひとつは、粘り強く信頼を生み続けることです。
我が国は日本国憲法の平和の理念に基づき、人道支援など、世界に貢献することで信頼 を広げようと努力してきました。ふたたび戦争をしないために、平和国家としての道をこ れからも歩み続けなければなりません。
市民社会の一員である私たち一人ひとりにも、できることがあります。国を越えて人と 交わることで、言葉や文化、考え方の違いを理解し合い、身近に信頼を生み出すことです。 オバマ大統領を温かく迎えた広島市民の姿もそれを表しています。市民社会の行動は、一 つひとつは小さく見えても、国同士の信頼関係を築くための、強くかけがえのない礎とな ります。
被爆から71 年がたち、被爆者の平均年齢は 80歳を越えました。世界が「被爆者のいな い時代」を迎える日が少しずつ近づいています。戦争、そして戦争が生んだ被爆の体験を どう受け継いでいくかが、今、問われています。
若い世代の皆さん、あなたたちが当たり前と感じる日常、例えば、お母さんの優しい手、 お父さんの温かいまなざし、友だちとの会話、好きな人の笑顔…。そのすべてを奪い去っ てしまうのが戦争です。
戦争体験、被爆者の体験に、ぜひ一度耳を傾けてみてください。つらい経験を語ること は苦しいことです。それでも語ってくれるのは、未来の人たちを守りたいからだというこ とを知ってください。
長崎では、被爆者に代わって子どもや孫の世代が体験を語り伝える活動が始まっていま す。焼け残った城山小学校の校舎などを国の史跡として後世に残す活動も進んでいます。
若い世代の皆さん、未来のために、過去に向き合う一歩を踏み出してみませんか。 福島での原発事故から5年が経過しました。長崎は、放射能による苦しみを体験したま ちとして、福島を応援し続けます。
日本政府には、今なお原爆の後遺症に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、被 爆地域の拡大をはじめとする被爆体験者の一日も早い救済を強く求めます。
原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、世界の人々 とともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くすことをここに宣言します。
2016年(平成28年)8月9日
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成田市都市宣言
世 界 連 邦 平 和 都 市 宣 言
( 昭 和 3 3 年 1 0 月 3 1 日 宣 言 ) 成 田 市 は 、 宗 教 観 光 都 市 と し て 、 世 界 連 邦 建 設 の 趣 旨 に 賛 同 し 、 自 ら 永 遠 の 平 和 都 市 と な る こ と を 決 意 し 、 全 世 界 の 恒 久 平 和 確 立 と 人 類 の 福 祉 増 進 に 努 力 せ ん と す る も の で あ る 。
右 宣 言 す る 。
非 核 平 和 都 市 宣 言
( 平 成 7 年 2 月 2 1 日 宣 言 ) 世 界 の 恒 久 平 和 は 、 全 世 界 の 人 々 の 共 通 の 願 い で あ る 。 我 が 国 は 世 界 で 唯 一 の 核 被 爆 国 と し て 、 広 島 ・ 長 崎 に 原 爆 が 投 下 さ れ て 本 年 で 5 0 年 目 を 迎 え る 。
我 々 は 、 被 爆 者 の 苦 し み を 全 世 界 の 人 々 に 訴 え 、 再 び こ の 地 球 上 に あ の 惨 禍 を 繰 り 返 す こ と の な い よ う 強 く 望 む も の で あ る 。
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平成 28 年度成田市折り鶴平和使節団派遣事業 長崎訪問報告書
平成 29 年 3 月 発行
発行 成田市 〒286-8585
成田市花崎町 760 番地