• 検索結果がありません。

データ 上越市の近代史に輝く先人たち(全件データ) 上越市ホームページ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "データ 上越市の近代史に輝く先人たち(全件データ) 上越市ホームページ"

Copied!
1
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

おおもり りゅうせき

医学と英語の英才

1846 年( 弘化 3) 大森隆碩は、高田藩医の長男として誕生しました。

幼名を繁三郎といいました。15 歳からは江戸で眼科の勉強をし、

1864 年(元治元)に高田で眼科医を開業します。そしてさらなる

医学の上達を志し、英語を学ぶため大学南校(現・東京大学の前身

の一つ)に入学します。ヘボン式ローマ字で知られる医師ヘボンに

も師事し、ヘボンの和英辞典編さんを手伝うまでに英語が上達しま

した。

「訓盲談話会」の設立

再び高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験したことから、 目の不自由な人たちの教育について考えるようになります。1886

年(明治 19)には医師や視覚障害者たちとともに「訓盲談話会」

を設立し、幹事長に就任。翌年には早くも高田寺町の光樹寺(寺町

2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器など

の授業を始めることになりました。この光樹寺の学校が、のちに高

田盲学校へと発展していくのです。この間、隆碩は「医事会」「高

田衛生会」などの医療団体の設立にも尽力しています。

高田盲学校

1891 年(明治 24)、隆碩は再三の申請の末ようやく県から認可を

受けて、私立高田訓矇

く ん も う

学校を設立し、校長に就任します。日本で三

番目の盲学校の誕生です。隆碩はその私財の多くを訓矇学校の運営

費に充てていました。またこの頃、隆碩は中頸城郡立産婆養成所の

設立にも貢献し、その所長も務めています。

1903 年(明治36)、療養中だった東京で亡くなりました。57 歳

の早すぎる死でした。

その後、1915 年(大正 4)に訓矇学校は高田盲学校へと改称され、

1949 年(昭和 24)には県立となりました。

2006 年(平成18)春、120 年の歴史を誇る盲学校は惜しまれな

がら閉校し、新潟県立新潟盲学校に統合されることになりましたが、

隆碩が障害者に向けた熱い思いは、現在も上越の地に息づいている

ことでしょう。新潟県立歴史博物館には、大森隆碩と盲学校の足跡

参照

関連したドキュメント

小学校 中学校 同学年の児童で編制する学級 40人 40人 複式学級(2個学年) 16人

土肥一雄は明治39年4月1日に生まれ 3) 、関西

神戸・原田村から西宮 上ケ原キャンパスへ移 設してきた当時は大学 予科校舎として使用さ れていた現 在の中学 部本館。キャンパスの

 高松機械工業創業の翌年、昭和24年(1949)に は、のちの中村留精密工業が産 うぶ 声 ごえ を上げる。金 沢市新 しん 竪 たて 町 まち に中村鉄工所を興した中 なか 村 むら 留

当法人は、40 年以上の任意団体での活動を経て 2019 年に NPO 法人となりました。島根県大田市大 森町に所在しており、この町は

「大学の自治l意義(略)2歴史的発展過程戦前,大学受難

①中学 1 年生 ②中学 2 年生 ③中学 3 年生 ④高校 1 年生 ⑤高校 2 年生 ⑥高校 3 年生

社会教育は、 1949 (昭和 24