青木 清
吸引鋳造法によるバルク金属ガラス作製論文
の不正疑惑を再現性と実験データで検証
論 説
はじめに
本誌8 月号1),9 月号2)で紹介したように,井上 明久東北大学前総長(現 城西国際大学教授,本稿 は敬称略)と日野秀逸東北大学名誉教授らの間で 争われた名誉毀損裁判は最高裁が上告を棄却し, 日野らによる名誉毀損を認めた仙台高裁判決が確 定した.本件裁判で主に争われたのは,井上らの 96 年論文(吸引鋳造法)3)と07 年論文(キャップ鋳 造)4)に記載された直径30mm のバルク金属ガラ ス試料が作製されたか否かである.高裁判決は,「論 文の疑問は解消されていない」としながらも,「捏 造改ざんがあったと証明する責任は日野らにある. 井上が合理的な説明をしないことを理由に研究不 正とは判断できない」と判示した.また「科学者コ ミュニティーで議論すべき問題だ」とも述べた. 告発者(日野ら)が,該試料を作製できなかった ことを証明(真実性の証明)できなかったのみなら ず,作製できなかったと信じるに足る相当の理由
(相当性)が認められなかったので名誉毀損が認定 された.名誉毀損裁判にかかわる研究不正疑惑は
司法的には決着したが,しかし学術的には未解決 の点が多く残されている.本稿では,本誌8 月号, 9 月号の検証結果を踏まえ,裁判関係文書(口頭弁 論本人調書5)など)や両論文およびそれらと関連 する論文等を比較検討し,96 年論文の研究不正疑 惑を再現性と実験データの両面から検証する.科 学者コミュニティーで議論する際の一助になれば 幸いである.
匿名投書が提起した研究不正疑惑
と東北大学の対応
名誉毀損裁判の対象の96 年論文の不正疑惑 は,匿名の告発文書が2007 年 5 月に関係方面に 送られたことで表面化した.文書は,Materials Transactions(日本金属学会欧文誌)に掲載された 井上と張濤東北大学助手(当時,その後北京航空 航天大学教授)の2 人が著者の 4 論文に研究不正 の疑いがあると記されていた.4 論文は,93 年 論文(石英管中水焼き入れ)6),95 年論文(吸引鋳 造)7),96 年論文(吸引鋳造)1),および98 年論文(銅 鋳型鋳造)8)である.07 年論文は含まれていない.
研究不正疑惑に関する本件名誉毀損裁判は,直径30mm の Zr 基バルク金属ガラスが作製できたか否かが
焦点であった.再現性と試料のどの位置でガラスであることを確かめるかが問われた.吸引鋳造法(96 年論文)
とキャップ鋳造法(07 年論文)の鋳造原理は異なるが,それらが同一であるかのように東北大学の追加報告
書の説明図面が改ざんされていた.また,試料サイズ,原料金属の純度,論文の撤回申請などより,96 年論
文の再現性は07 年論文によって確認されていないことが明白になった.バルク金属ガラスが作製できたと
言えるのは,試料全体がガラスの場合である.しかし,96 年論文は試料の一部を調べただけで,つまりガラ
ス化が困難なインゴットの上部がガラスであることを示すことなく,バルク金属ガラスが作製できたと報告 した.ガラスであることを確かめないでそのように結論するのは虚偽であり,同論文の捏造改ざんの疑いは 払拭されないままである.
いずれの論文も,従来よりも大きなサイズのバル ク金属ガラスが作製できたと報告した.
匿名告発に関して,東北大学は予備調査と本調 査を行い,対応・調査報告書9)(以下,対応報告書 と略す)を文科省に提出し公表した.同報告書は,
「告発の指摘には合理的根拠がなく,本調査を開 始する必要はない」と研究不正を否定した.他方,
「継続研究過程における再現性については,最新 の素材,手法,装置等により,より大きなバルク 金属ガラスとして創製されており原理的に再現で きることは検証されている」と述べた.(下線は筆 者.以下同様).すなわち,07 年論文で最新の素材, 手法,装置等によりより大きなバルク金属ガラス が作製されたことで96 年論文の再現性は実証され た.よって96 年論文には研究不正はないとの論法 である.本件で科学的に再現性があると言えるの は,同等の鋳造原理の装置と同等の原料金属を用 い,同等の手順により,同一サイズ以上のバルク ガラス合金が作製できた場合である.最新の装置 によって作製しても,再現性があるとは言えない と批判されたためか,東北大は庄子哲雄委員長の 名前で追加報告書10)をインターネット上で公表 し,同じ鋳造原理の装置であると強調した.
匿名投書が指摘した疑義の概要
①93 年論文:石英管中で溶解した Zr65Al7.5Ni10
Cu17.5合金を流水中に焼き入れて,直径16mm, 長さ150mm の円柱形状バルクアモルファス合金 を作製したと報告し,初めてのセンチメーター級 非貴金属系バルク金属ガラスとして注目を集めた. ところが,ドイツの研究グループが,この方法で はアモルファスは直径4mm 以下でのみ得られる との論文11)を発表した.これ以降,93 年論文を疑 う論文が6 報以上も発表された.匿名投書は,X 線回折(XRD)図形に微細結晶の存在を暗示する兆 候が認められ,長さ方向の複数の場所でガラス形 成の可否確認を行っていないことを問題視した. 対応報告書は,「93 年の直径 16mm の論文は, 急冷法により結晶が均一に混じったガラス相が形
成する(光学顕微鏡写真として明示)ことを示して いるものであり,疑義は誤解―」と述べた.とこ ろが,井上の96 年論文は,「我々は,これまでに も石英管中の溶融合金を水焼き入れすることによ り,直径16mm の円柱状バルクガラス合金を作製 出来,直径20mm の水焼き入れされたバルク合金 インゴットでも結晶相の析出量はわずかであるこ とを報告した(11).」と記す.ここで,引用文献(11) は93 年論文を指す.この記述は直径 20mm で結 晶がわずかに析出するが,直径16mm は単相のバ ルクガラス合金であると理解するのが自然であろ う.他の研究者も同様の理解で追試を行ったとこ ろ再現性がなかったのである.
対応報告書が公表された翌日,北京航空航天大 学の張は庄子委員長の同席の下,記者会見をおこ なった.「他者が再現できなかったのは,従来の水 焼き入れ法しか知らなかったためで,改良した水 焼き入れ法によって直径16mm サイズのバルク金 属ガラスの再現が可能」,と対応報告書を否定した. この記者会見は,対応報告書の信憑性に疑いを抱 かせる一因になった.
②95 年論文:吸引鋳造法で Zr55Al10Ni5Cu30合
金(93 年論文とは異なる合金組成)で直径 16mm, 長さ70mm のバルクガラス合金が作製できたと報 告.直径16mm は 93 年論文と同じであり,95 年 論文は93 年論文を補足,補強する論文と思われ る.本誌8 月号で紹介したように,この論文は試 料重量が37%も増大し,質量保存則により大きく 反している.匿名投書は,ガラス形成の可否確認 に使わるXRD 図形が直径方向と長さ方向について 示されているが,長さ方向断面の複数の場所につ いて可否確認が行われていないなどと疑義を呈し た.図1 は吸引鋳造法で作製した直径 16mm,長 さ70mm の試料の XRD 図形を示す(95 年論文の Fig.2 の再掲).
③96 年論文:吸引鋳造で 95 年論文と同一組成 の合金で,直径30mm,長さ 50mm のバルク金属 ガラスを作製したと報告.この試料サイズは,当 時のみならず現在も最大である.匿名投書は,‘微 細な結晶が現れて結果は再現できない’,‘XRD 図
形に微細結晶の存在を暗示する兆候(本誌8 月号 記事の図2 参照)’などと疑義を呈した.本誌 8 月 号で紹介した疑義には言及されていない.それら は対応報告書の公表後に,論文精査によって明ら かになったのである.98 年論文は Ti 基合金の論 文であり,96 年論文と直接の関係はないので割愛 する.
本誌 8,9 月号で明らかにした
研究不正疑惑の要点
96 年論文(吸引鋳造法)
a)アーク溶解による合金重量の増大(質量保存則 違反)
200g の原料金属から,直径 30mm,長さ 50mm
(重量は240g)のバルク金属ガラスが作製できたと される.質量保存則に反すると批判されると,井 上は科学的根拠を示すことなく,試料の重量には 20%の誤差があるとの Erratum(訂正)を発表した. 同Erratum に記された井上に最も都合のよい条件 で作製される試料の最大長さは48.3mm であり, 50mm にわずかに足りない.成功するまでに数箇 月にわたり毎日のように試行錯誤して作製にこぎ つけた試料の長さが,実験条件の範囲外であるこ とは研究不正を疑わせる要因である.
b)作製試料の写真の掲載方法とガラスであること の確認方法
図2 は 96 年論文の Fig.1 の再掲である.「吸引鋳
造法によって作製した直径30mm,長さ約 50mm のZr55Al10Ni5Cu30バルク合金の外表面および断面 を示している(井上,横山翻訳)」と記されている. 1 枚の写真で切断前後の試料の像を示すことは絶 対に不可能であるから,図1 は切断後の写真と理 解するのが自然である.ところが,右の試料の長 さは約50mm で,切断前の長さ約 50mm と同じで ある.そのようなことはあり得ない.断面試料の 影の長さから,切断前の試料長さは65mm 程度と 推測できる.この疑問に対して,井上は「断面と 側面の写真を撮影するにあたり,成果物を二つ作 製した上で,その一つは切断して断面写真に利用 し,もう一つは横から撮影して,外観写真に利用 した」と弁明した.裁判官が96 年論文を作成する 際に,‘二つの試料を作製したということですね’ と念を押すと,井上は「いや必ずしもそこは,二 つのサンプルをというふうには必ずしも相談して いなかった―」と,曖昧に答えた.他方,吸引鋳 造法では上記サイズの試料は1 個だけ作製された と井上と高裁判決は認めている.
図2 の写真が別々の試料であれば,左の試料は XRD 測定により断面はガラスであると言えるが, 長さは分からない.他方,右の試料は50mm 長さ であることは分かるが,試料内部がガラスである とは言えない.それにもかかわらず,直径30mm, 長さ50mm のバルクガラス合金が作製できたと結 論したのは誤りである.この問題は96 年論文の研 究不正疑惑の核心であり,後で改めて検証する.
図1 吸引鋳造法で作製した直径16mm,長さ 70mm の
試料のXRD 図形(95 年論文の Fig.2 の再掲). 図2 96 年論文の Fig.1 の再掲.
c)異常に低いアルゴン圧で 240g のアーク溶解吸 引鋳造は可能か?
吸引鋳造法は,ピストンの急激な移動によって 生じる圧力差が吸引力となって鋳造されるから, アルゴン圧が高いと吸引力が大きく,好都合であ る.論文に記された,通常の10 分の 1 の,異常に 低い5.3kPa のアルゴン圧は,アーク溶解と吸引鋳 造の両方にとって極めて不利な条件である.最適 条件から著しくかけ離れた条件で試料が作製でき たことについて科学的合理的な説明がなされてい ない.研究不正が疑われる一因である.
d)吸引鋳造法で作製された試料形状とピストンの 移動距離の関係
吸引鋳造法は,ピストンの移動距離が試料長さ より大きければ,円柱形試料が得られる.96 年論 文の試料形状はキノコ状(右端がやや太い)である から,ピストンの移動距離は50mm 未満である. 50mm 長さの試料の作製を想定しなかったと考え られる.重量のみならず,形状に関しても想定外 の試料が作製された.捏造改ざんが疑わる一因で ある.
07 年論文(キャップ鋳造法) a)中心が定まらない4分割の断面写真
断面写真に4 分割写真が用いられているが,円 弧の垂直二等分線が交わらないので,中心が求め られない.中心がなければ円ではない.中心が定 まらないことから日野らは円柱状バルク金属ガラ ス試料の作製を疑い,日本金属学会や東北大学に 告発したが,完全に無視された.裁判の途中で, 井上側は操作ミスにより写真が8%縦長であるこ とを認めた.断面が円でないから中心が定まらな いのは当然で,日野らの疑問,批判は正当であっ た.それにもかからず,高裁判決は名誉毀損と認 定した.
b)筆頭著者によって取り下げ申請がなされた インゴットの上部がガラスになり難い傾角鋳造 法の欠点を改良したのがキャップ鋳造法ある.論
文の趣旨から,インゴット上部がガラスであるこ とを確認することが不可欠である.しかしインゴッ トの底面から10mm の位置がガラスであることを 確かめただけで,バルク金属ガラスが作製できた と結論した.横山は裁判の最終盤に,上部を調べ ていないにも関わらず07 年論文を書いたのは,科 学的に不十分で不適切であったとして,日本金属 学会に同論文の撤回を申し入れた.筆頭著者が撤 回を申し入れたことはきわめて重い.当該サイズ のバルク金属ガラスが作製できていないと同等だ からである.
c)07 年論文の試料サイズは 96 年論文の 60%に 過ぎないー再現性が認められたと言えない 07 年論文は直径 30mm のバルク金属ガラスを 作製したというが,試料長さは不記載である.写 真に付された物差し(スケール)から,長さは約 30mm と推定される.したがって,07 年論文の試 料の長さと体積は96 年論文の 60%に過ぎない. 大きなサイズの試料の作製が困難なバルク金属ガ ラスでは,小さなサイズの試料が作製できても, 大きなサイズの試料の再現性は保証されない.す なわち,試料サイズの点からも,07 年論文で 96 年論文の再現性が確認されとは言えない.
d)その他:既発表の三元合金の断面組織写真を 4 元合金で流用した疑い
三元合金の断面組織写真として既発表の写真 を,高純度合金でのみバルク金属ガラス単相がで きる根拠として,07 年論文(4 元合金)に流用した 疑いがある.写真を取り違えたと思っていると横 山は弁明したが,根拠は示されていない.
吸引鋳造法とキャップ鋳造法の
鋳造原理は同じか
大学や学会等が研究不正を調査する場合,実験 データや成果物試料などの一次資料の確認が不可 欠である.ところが本件ではそれらが海難事故で 失われ,調べることができないという.対応委員
会は,当時の素材,作製装置等が存在せず,担当 者もいないことなどの制約により再実験の実施は 困難であるとし,井上に再実験を命じることなく, 07 年論文で同等の試料が作製できているから 96 年論文の再現性は実証されたと認定した.対応報 告書は96 年論文と 07 年論文の鋳造法に言及する ことなく鋳造原理は同一であるとしたが,追加報 告書は,吸引鋳造法とキャップ鋳造法の鋳造原理 が同一であるとする図面を掲載した.
追加報告書のキャップ鋳造法の
模式図は改ざんされていた
図3 は東北大追加報告書の P8 の再掲(元図はカ ラー)である.図面の中央部に,当時の装置(吸引 鋳造法)と現在の装置(キャップ鋳造法)が「同じ 原理の装置」と記されている.しかし,この図から
‘同じ原理の装置’であるとは理解できない.井上
はこの図面に関連した口頭陳述を行っている. 一審の第8 回口頭弁論調書(本人調書)5)で,裁 判官が96 年論文(吸引鋳造法)の再現性は 07 年論 文(キャップ鋳造法)の実験結果によって実証され ているというが,その具体的な理由について井上 に補足的な説明を求めた.井上は以下のように答 えた.「吸引鋳造法は,水冷銅ハースで合金を溶か していてピストンを下すと,支え棒がなくなるか ら,中空でこう,で,アーク溶解されているから, 水冷で冷やされるところがなくなるから,全部溶 けて中に入ってくる.ほぼ重力に近いような感じ. 傾角鋳造法(注:キャップ鋳造法ではない)では, ハースを傾けて湯道から湯口に行くところでもう 一つのアーク電極で溶かす.重力に近い形で鋳型 に鋳込んでいくというところは,ほとんど同じで と思っている.」(傾角鋳造法の模式図は,本誌9 月号記事の図1 参照).」 この文章は,理解が容易 でないが,裁判官が吸引鋳造法とキャップ鋳造法
図3 東北大追加報告書のP8 の再掲.
の原理が同じかと尋ねたのに,井上は吸引鋳造法 と傾角鋳造法は原理的に同じであると答えた.単 なる勘違いか,キャップ鋳造法と傾角鋳造法を明 確に区別しないことの表れか不明である.重力に 近い形で鋳込まれることが同じなので,二つの鋳造 法の原理は同じと主張しているようである.‘中空’ がポイントと思われる.中空については後で論じる. 図4 はキャップ鋳造法の模式図であるが,(07 年論文のFig.1 の再掲,本誌 9 月号記事の図 2) キャップが存在することが特徴である.他方,図 3 の右の図面にはキャップが存在しない.図 4 の キャップ鋳造法の模式図のキャップ部分を消し去 り,溶湯を書き加えたのが図3 の右の図面である ことが確認されている.すなわち,図3 の右の模 式図はキャップ鋳造法の模式図を改ざんしたもの である.念のために付言するが,鋳造時における アーク放電が示されていないので,図3 の右図は 傾角鋳造法の模式図でもない.単なる普通の溶解 鋳造法の模式である.
模式図の改ざんを行ったのは,吸引鋳造法と キャップ鋳造法(傾角鋳造法では)が重力に近い形 で鋳込む,つまり両者の鋳造原理が同じであると 言いたいためであろう.しかし,傾角鋳造法の発 明者である横山(注:井上は発明者でない)は吸引
鋳造法と傾角鋳造法(キャップ鋳造法)の鋳造原理 は異なると考えるとの陳述書を裁判で提出してい る.他方,重力に近い形で鋳込むとの井上の主張 は,96 年論文の試料は吸引鋳造法で作製されたも のでないと同等である.その理由は後で述べる.
96 年論文の再現性は 07 年論文の
実験結果で裏付けられない
吸引鋳造法とキャップ鋳造法は鋳造原理が異な るから,たとえ07 年論文で同等の試料が作製でき たとしても,96 年論文の再現性が確認できたとは 言えないことを上述した.その上,本誌9 月号で 論じたように,07 年論文の実験結果は 96 年論文 の再現性を以下のように裏付けない.①07 年論文 の試料サイズは96 年論文の 60%に過ぎない.② 既発表の三元合金の断面組織写真が流用されてお り,07 年論文自体に研究不正の疑いがかけられて いる.③筆頭著者が論文の撤回申請をしており, 事実上,該試料の作製が否定されている.などで ある.さらに07 年論文は,原料金属の純度の観点 から,96 年論文を以下のように間接的に否定する と考えられる.07 年論文は,低酸素濃度(45 質量 ppm)の結晶 Zr を用いると,母合金の上半分に単 一のガラス相が形成されるが,しかし酸素濃度の 高い(約1500 質量 ppm)Zr を用いると,ガラス相 中に結晶粒子が析出し,ガラス単相が形成されな いと報告する.大学の研究室では1995 年頃,スポ ンジ状Zr 原料(酸素含有量:1400 質量 ppm 程度) をアーク溶解によりガス抜きして原料金属として 用いていた.96 年論文でも,そのような低純度の Zr を用いていたと考えられるから,ガラス相中に 結晶粒子が混在している可能性が大きい.
吸引鋳造法によって本件の試料が
作製できたことは実験データで裏
付けられない
―アーク溶解中の合金底部 の未溶解部分の解消法傾角鋳造法の発明者である横山はHP で,「アー
図4 キャップ鋳造法の模式図(07 年論文の Fig.1 の再掲).
ク溶解法では合金を完全に溶解することは難しく, 炉床と接している合金下部は溶けていないことが 多い.この未溶解部分が原因となって多くの樹枝 状結晶がバルク金属ガラス中にみられる.この樹 枝状結晶の混入を防ぐために,(ハースを傾けて湯 道を通して湯口から鋳型に)注ぎ込まれていく溶 融合金に直接アーク加熱(2 段階加熱)をする完全 溶解法(傾角鋳造法)を開発した」と記している. 未溶解部分の存在はアーク溶解に共通するから, 吸引鋳造法でそれをどのように解決できるかがポ イントである.しかし,このことと関連する事項は, 96 年論文には書かれていない.
先に引用したように,裁判官の質問に答えて, 井上は「水冷銅ハースで合金を溶かしていてピス トンを下すと,支え棒がなくなるから,中空でこう, で,(中略)全部溶けて中に入ってくる」.と説明 した.同調書で‘中空’は数回使用されている.中 空に関連して,「溶湯は下の銅ハースがない状態で アーク溶解されるから,すべて均一に溶けてしま う」や「水冷ハースのところの下のうけはなくなる から,加熱されていると瞬時に溶ける」とも記さ れている.また井上はアーク溶解法では合金下部 は未溶解のままであることを自明のこととして認 めている.以上のことを勘案すれば,吸引鋳造の 過程は,「ピストンを下しても合金下部が未溶解の ため鋳型に吸い込まれない.合金とピストンの間 は中空になる.中空になれば合金は水冷されなく なるので温度が上昇し,未溶解部も溶融し,鋳型 に落下して鋳造される」.であると考えるのが自然 である.このような過程を念頭に置いたので,重 力に近い形で鋳造されると裁判官に説明したと推 測される.
96 年論文は,ピストンを高速移動(5.0m/s)させ ることにより吸引力を発生させて,銅鋳型に溶融 合金を吸引してバルクガラス合金を作製したと明 記し,鋳造速度は22.1kg/s にまで至ったと記す. 鋳造速度は,ピストンの高速移動とともに溶湯が 鋳型に吸引されたとして計算されたはずである. もし合金下部が未溶解のままピストンが移動す ると‘中空’になるならば,鋳造速度はピストン
の移動速度と無関係である.鋳造速度を計算した ということは中空になることを否定する,つまり 96 年論文と井上の上記の陳述は相容れない.
試料全体がガラスであることを調
べていない
―論文が根底から否定口頭尋問で日野らの弁護人が,「キャップ鋳造 で作製した試料がガラスであることを調べたのは 下から10mm である.インゴットの上部がガラス にならないというのに,なぜそこを調べないのか」 と尋ねた.井上は,「上のところには,空隙などが 生じやすい傾向があるとういうことで,大体,今 まで統一的な場所で同定を行っていた―」と答え た.
また,裁判官がどこの断面を検査してバルク 金属ガラスであると論じるかについて,下から 10mm のところで見るのは,どの研究でも行って いることか,キャップ鋳造法だけかと尋ねた.井 上は,「大体下から10 から 15mm ぐらいが鋳込ん だ時の定常状態になって,非常に溶湯の安定性の 本質を見るのにいいということで,大体下から10 から15,大体ほぼ中央に近いところを切る方法を とっていたと思う」と答えた.すなわち,井上は どの研究でもインゴットの下から10∼15mm のと ころを調べている旨,陳述した.
溶湯の安定性の本質を見る研究ならば,下から 10∼15mm の場所を調べればよいかもしれない. しかし,匿名投書が取り上げた4 論文と 07 年論文 は,いずれも大きなサイズのバルク金属ガラスの 作製が主題である.試料全体がガラスであること を確認することが必須である.傾角鋳造法は,イ ンゴットの上部がガラス化し難いので,それを克 服するためにキャップ鋳造法を開発したと明言し ている.しかし,インゴットの上部がガラス化し 難いのは傾角鋳造法に限られたことでない.銅製 鋳型鋳造法に共通する問題である.上部は熱伝導 性に優れた銅に接していないからである.吸引鋳 造法でもインゴットの上部がガラス化し難いと考 えられる.断面と側面を示す試料が同一である場
合,切断面がガラスであることは確かめているが, インゴットの上部は調べていない.インゴットの 上部を調べていないにも関わらず,バルク金属ガ ラスであるというのは虚偽である.捏造改ざんが 疑われる.他方,断面と側面を示す試料が別々の 試料ならば,断面を示す試料はガラスであっても 側面を示す試料はガラスではない.調べていない からである.それにも関わらず,直径30mm,長 さ50mm のバルク金属ガラスが作製できたという のは虚偽である.なお,断面と側面を示す試料が, 別々の試料であるということは96 年論文を根底か ら否定するものである.
補足:新たに浮上した疑問
―試料サイズの記載間違いと多様な試料サイズ
96 年論文は ‘はじめに’で,「我々は,吸引鋳造 法を使用することによって,直径15mm の円柱状 Zr-Al-Ni-Cu ガラス合金の作製が可能であり,断 面全体にわたって明瞭な空孔は見られないことを 報告している(12).」(註:文献(12)は 95 年論文を 指す).と記す.しかし93 年論文(石英管中水焼 き入れ法)と95 年論文(吸引鋳造法)で作製した試 料の直径はともに16mm である.16mm は重みの ある直径であるが,それを15mm と記したのはミ スタイプか,勘違いのいずれであろうが,以下の ような疑問を孕んでいる.
96 年論文は直径 30mm の試料を作製したと報 告するが,直径15mm の試料のデータも示されて いる.
図5 は 96 年論文の Fig.5 の再掲である.吸引 鋳 造 法 で 作 製 し た 試 料( 直 径15mm と 30mm) の,ガラス遷移温度(Tg),過冷却液体域の温度 間隔∆Tx( =Tx−Tg), 結晶化熱(∆Hx),およびビッ カ ー ス 硬 度(Hv)の 値 を 示 す.直 径 5mm と7 mm の試料は銅鋳型鋳造法で作製された.ここで 5mm と7mm の区別がなされていることから, 15mm と 16mm も区別されると考えるのが自然 で あ る.95 年論文(直径 16mm)は,Tg=683K, Tx=767K と記す.他方,96 年論文(直径 30mm)は,
Tg=683K,Tx=767K である.すなわち,両者は 直径が大きく異なるにもかからず,TgとTxはそ れぞれ全く同一の値を示す.これらの∆Tx( =Tx− Tg) は 84K となる.図 5 に示された 96 年論文の 直径15mm の試料の Tgは約690K,∆Txは約90K と読み取ることができる.これらの値は95 年論文 の直径16mm の試料の値と異なる.したがって, 96 年論文の直径 15mm の試料は独自に作製された ものと考えられる.
吸引鋳造法では,上記以外に,Nd-Fe-Al 合金 で直径12mm のバルク金属ガラスが作製されてい る12).したがって,吸引鋳造法で作製されたと報 告されている試料サイズは以下のようになる. 95 年論文:直径 16mm× 長さ 70mm
96 年論文:直径 15mm(長さ不詳)と直径 30mm × 長さ 50mm
96 年(Nd)論文:直径 12mm× 長さ 70mm
図5 吸引鋳造法で作製した試料(直径15mm と 30mm)
の,ガラス遷移温度(Tg),過冷却液体域の温度間隔
∆Tx(=Tx−Tg), 結晶化熱(∆Hx),およびビッカース硬度
(Hv)の値(96 年論文の Fig.5 の再掲).
本誌7 月号の高橋禮二郎らの論説13)の補足(2) で論じられているが,吸引鋳造装置の製作資金は 新技術事業団(現 科学技術振興機構,以下JST) が提供し,真壁技研㈱が作製した.この装置の 仕様は,「汎用金属ガラス鋳造試験装置製作仕様 書,以下「仕様書」と略記」に記されているが,そ の仕様書には,鋳込み形状はφ10mm ×500mm,φ 20mm×200mm および φ 30mm×100mm と明記さ れている.
図6 は真壁技研製の 30mm 直径インゴット作製 用の差圧(吸引)鋳造装置の組み立て図である.上 記のφ30mm ×100mm の鋳込み形状に対応すると 考えられる.吸引鋳造装置はアーク溶解部と凝固 部が一体型である.インゴットの直径ごとに装置 のかなりの部分を作り変える必要がある.普通の 溶解凝固法では,溶解過程と凝固過程が独立して いるので鋳型のサイズや形状を,任意かつ容易に
変更できることと大きく異なっている.15mm 直 径と16mm 直径のインゴットが得られる装置の治 具は別物である.
JST の仕様書では,直径 10mm,20mm,30mm のインゴットを作製する治具の納入が明記されて いるが,しかし直径10mm と直径 20mm のバル ク金属ガラスの実験データの報告は見当たらない. 他方,直径12mm,15mm,16mm の治具は,一体, いつ,どこで作製されたものだろうか? との疑問 も生じる.鋳型は最初から作ると150 万円もかか るという.直径12mm,15mm,16mm 用の試料 の鋳型の作製費用は誰が負担したのだろうかとの 疑問が生じる.いずれも論文著者による明解な説 明がない限り,理解できないことである.
おわりに
本誌の8,9 月号および本号で,本件名誉毀損 裁判に関わる96 年論文と 07 年論文の研究不正 疑惑を検証した.裁判では告発者が研究不正であ ることを立証しないと名誉毀損が成り立つ,つま り科学者コミュニティーと司法では研究不正に 対する立証責任が真逆であることに注意が必要で ある.8 月号と 9 月号での検証を踏まえて,本号 では名誉毀損裁判に関わる大きなサイズのバルク 金属ガラス作製に関する96 年論文(吸引鋳造法) と07 年論文(キャップ鋳造法)を再現性と実験 データの両面から検討し,両論文にかけられた研 究不正疑惑は未だ払拭されていないことを明らか にした.主な結論は以下の通りである.
(1)両論文で用いられた鋳造法の原理が異なる から,07 年論文で同等の試料が作製できたとし ても,96 年論文に再現性があるとは言えない. なお,両鋳造法の原理が同一であるかのように東 北大追加報告書のキャップ鋳造法に関する説明図 面が改ざんされていた.
(2)07 年論文の試料サイズは 96 年論文の 60% に過ぎない.筆頭著者が科学的に不十分で不適切 であったと撤回申請した.また.既発表の断面組 織写真を流用した疑いがある.さらに原料金属の
図6 真壁技研製の30mm 直径インゴット作製用の差
圧(吸引)鋳造装置の組み立て図.
純度が低い可能性が高い.以上の事実は,07 年 論文で96 年論文と同等の試料が作製できたこと を裏付けない.つまり,実験データ等からも07 年論文によって96 年論文の再現性が実証された とは言えない.
(3)96 年論文は,アーク溶解によって合金重量 が増大するのみならず(質量保存則違反),通常 の10 分の 1 の異常に低いアルゴン圧で 240g の 試料のアーク溶解吸引鋳造が可能か疑問である. また作製された試料形状が科学的に不合理である など,論文自身に多くの疑問を包含している. (4)アーク溶解では水冷銅ハースに接する合金 底部が未溶解であるという共通な問題がある.未 溶解部分は吸引鋳造を妨げると考えられるが,こ の問題について,96 年論文は全く言及していな い.
(5)井上は口頭陳述で,ピストンが移動すると 合金の下が中空になり,合金底部が水冷されなく なり温度が上昇して溶解する旨,説明した.しか し,このようなプロセスでは,吸引力が生じない. つまり,吸引鋳造法を否定すると考えられる. (6)作製された試料の一部を調べただけで,つ まりガラス化が困難なインゴットの上部がガラ スであることを示すことなく,直径30mm,長さ 50mm のバルク金属ガラスが作製できたと結論し たことは虚偽であり,捏造改ざんの疑いは払拭さ れないままである.
本誌で96 年論文と 07 年論文の研究不正疑惑を 検証したが,多重投稿を含め研究不正疑惑を指摘 された井上の論文は非常に多い.不正疑惑が多種 多様であることが特徴である.井上は3,000 を超 える論文を発表している.こんなに多いと間違い が起こっても不思議はないとか,どこに発表した かもわからなくなり,使い回し・二重投稿が生じ ても不思議はないというたぐいの議論さえあるよ うだ.しかし,数多くの論文の一部だからと言っ て不正が許されることはない.しかも改ざん・捏 造などの故意性が認められる内容である.極めて
多数の論文作成の中で,たまたま生じた間違いだ として,うっかりミスや不十分な記述等で説明で きるものではない.これまで,写真をうっかり取 り違えた等の弁解がなされてきた.しかし,取り 違えを著者自身が証明できなければ,取り違えと は言えない.根拠なしの,‘取り違え’を認めな いことが,研究不正防止策の第一歩であると記し て本稿を終わりとしたい.
参考文献および出典等
1) 青木清:金属,86 No.8 (2016),744-751. 2) 青木清:金属,86 No.9 (2016), 847-853.
3) A. Inoue and T. Zhang: Materials Transactions, JIM, 37 No.2 (1996), 185-187.
4) Y. Yokoyama, E. Mund, A.Inoue and L. Schultz: Materials Transactions, JIM, 48 No.12 (2007), 3190-3192. 5) 第 8 回口頭弁論調書(本人調書)平成 25 年 5 月 27 日,
平成22 年(ワ)第 1314 号(本訴).
6) A. Inoue, T. Zhang, N. Nishiyama, K. Ohba and T. Mausumoto: Materials Transactions, JIM, 34 No.12 (1993), 1234-1237.
7) A. Inoue and T. Zhang: Materials Transactions, JIM, 36 No.9 (1995), 1184-1187.
8) A. Inoue and T. Zhang: Materials Transactions, JIM, 39 No.10 (1998), 1001-1006.
9) 東北大学匿名投書に関する対応・調査委員会:「井上 総長に係る研究不正等の疑義に関する匿名投書への対
応・調査委員会報告書」,2007 年 12 月 25 日
10) 東北大学理事庄子哲雄:「井上総長に係る匿名投書 への対応・調査委員会における報告書の公表後におけ
る関連研究と再現性について」,2008 年 1 月 31 日.
11) P. S. Frankwicz et al.: J. Non-Cryst. Solids, 205-207 (1996), 522.
12) A. Inoue, T. Zhang, A. Takeuchi and W. Zhang: Materials Transactions, JIM, 37 No.4 (1996), 636-640. 13) 高橋禮二郎,日野秀逸,大村泉,松井恵:金属,86
No.7 (2016), 637-644.
あおき・きよし AOKI Kiyoshi
東北大学工学部金属工学科卒業,同大学大学院修士課程および 博士課程修了.工学博士.日本学術振興会奨励研究員,東北大 学金属材料研究所助手,助教授を経て北見工業大学教授,現在 北見工業大学名誉教授.専門:金属材料工学および水素エネル ギー材料.