− 20 − 体現する西欧と、「世界=帝国」なる前近代的な世界 にとどまる非ヨーロッパ世界が過度に峻別された。後 者は前者によっていずれ「包摂」される「外部世界」 とされた結果、15世紀から18世紀の「近世」というグ ローバルな時空間は、学問上認識されず分断されてし まう。とりわけ、西欧=近代なる史的システムと、非 ヨーロッパ世界=前近代なる外部世界とを分節するま なざしは、そのいずれにも分類不可能な日本の近代化 を例外化する。つまり近代化における「日本特殊論」 こそが、従来型の世界システム論の限界を象徴してい るのだ。
「近世帝国」と「グローバリティの句切れ」 ここで 山下氏は、新たな時空間把握を導入し、新しい史的シ ステムを提示する。従来「世界=経済」の外部とされ てきた空間には、いくつかの「世界=帝国」が共存す るグローバルな近世空間が広がっており、さらにそれ は理念的な空間秩序を共有しつつ共通の空間分節様式 をもつ五つの「近世帝国」によって安定的に分節され ているとする。この「近世帝国」とは、あくまで空間 的想像力や凝集を共有しつつ求心力を帯びていく認識 上のまとまりであって、実体ではない。それゆえ、18 世紀後半に域外交通が増大すると、「近世帝国」にお ける空間認識は動揺し、それが「近世帝国」の崩壊を 導いた。しかしこの事実は、その直後に近代が到来す ることを意味しない。山下氏はポランニーの「転換」 概念を援用しつつ、この時点で「グローバリティの句 切れ」という一種の「空間的文脈の真空」状態が出現 したとする。各主体には、「近世帝国」内で占めてい た位置に影響されつつも、近世的秩序崩壊後の空間的 な真空状態において、進路選択の余地が残された。し かし、ポランニーがいうように、その後訪れる近代と
いう時代は市場化の過程にほかならない。そのためグ ローバルな空間における個々の主体が占めた位置の差 異が、文明−未開、進歩−停滞といった時間軸にそっ た関係に置き換えられた。個々の主体の空間認識は国 民国家に限局されるようになり、社会間の差異は市場 化の過程における競争の結果として事後的に秩序化さ れていく。つまり「近代化の過程」は「グローバリテ ィの句切れ」なる真空状態での選択によって決定され、 それゆえ日本の近代化の「特殊」な経験もまた、選択 の一つの結果として相対化されるのだ。
空間と時間、そして認識 本書の特色は、システムの 実体よりもむしろ、システムが存続する要素として「シ ステムへの認識」を重視した点にある。とりわけ、近 世から近代が「グローバリティの句切れ」を介して不 連続に生み出される中で、主体間の関係性が安定的な 空間秩序から競争をともなう時間秩序へと変質すると いう指摘は重要だ。ウォーラーステインがいうように、 こうした国民国家単位の時間秩序に基づいて構成・認 識された近代の学知そのものが、「近代世界システム」 のイデオロギー的支柱=19世紀的な学知にほかならな いことを想起するならば、彼は「近代世界システム」 を認識しえない19世紀的学知の限界を強く主張しつつ も、じつは根底でそれに絡めとられていたともいえよ う。また彼は、16世紀から「『近代』世界システム」 が存在したというが、フランス革命以前のそれを支え たイデオロギー=「システムへの認識」については、 ほとんど言及しない。本書が衝いたのは、まさにこれ ら二つの点である。「近世」と「空間」をキーワードに、 師のパラダイムを根底から脱構築しようとする著者の 着眼は、秀逸である。
(京都大学人文科学研究所助手 坂本優一郎) 非ヨーロッパ世界についての実証研究が蓄積され、「ポスト・モ ダニズム」がまがりなりにも定着してきた現在、近現代の学知を強 く拘束してきた「ヨーロッパ中心主義」を批判することは、もはや 難しい仕事ではないのかもしれない。しかし、声高に繰り返される 「ヨーロッパ中心主義」批判から一歩進めて、それに代わる新たな「世 界史」像を提示するとなると、たちまちことは容易でなくなる。本 書は、その困難な課題を果敢に実践しようとした作品である。著者 山下範久氏がターゲットに据えるのは、彼の師イマニュエル=ウォ ーラーステインによって提唱された「世界システム論」である。日 本の経験を切り口に、魅力的な議論が展開されるが、紙幅の制限か ら理論的な側面を中心にその主張を概観したい。
「世界システム論」批判 本書の批判は、従来の世界システム論の 時空認識が「世界=経済」と「世界=帝国」の二分法に基づく点に 向けられる。従来型の世界システム論では、「世界=帝国」から「世 界=経済」への移行が強調されため、近代として「世界=経済」を
書評 わたしの一冊
山下範久
世界システム論で読む日本
講談社選書メチエ 2003年