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17「イギリス文化論」 英国の恋愛と結婚 xapaga

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はじめに

本稿は、1885年の刑法改正法(Criminal Law Amendment Act)の成立以後、イギリス1において

犯罪化されていた男同士の親密な関係が、20世紀後半に成立した性犯罪法(Sexual Offences Act)

によって脱犯罪化された経緯を検証し、そのことによって「同性愛(homo-sexuality)」2の脱犯罪

化が可能になった社会的・歴史的背景、およびその含意を再考することを目的としている。 2005年12月、イギリスにおいて、市民パートナーシップ法(Civil Partnership Act)が施行(2004 年成立)され、「同性愛」のカップルに「異性愛」の婚姻関係と同様の権利と義務が付与された。 このような「同性婚」の合法化という出来事は、現在の視線からは、「同性愛」というアイデン ティティに基づくマイノリティの人々による権利要求の政治的運動、つまり近代において絶対不可 侵のものとされている人権の保護という文脈において隆盛したアイデンティティ・ポリティクスの 成果のひとつとして把握され得るものであろう。しかし「同性婚」という「同性愛者」の積極的な 権利の獲得が実現される以前、その四十年程前までのイギリスにおいては、あらゆる形態の男同士 の「同性愛」が犯罪化されており、その消極的な権利の獲得、つまり「同性愛」の脱犯罪化すら達成 されていなかったということは、市民パートナーシップ法成立の歴史的経緯を考察する際にも看過

することのできない重要な事実であろう。いったいどのような背景において、20世紀後半において、

それまで犯罪化されていた男同士の親密な関係に対して、アイデンティティというレトリックが可 能になり、それが社会において有効性を持つようになったのかという問いの探究には、「同性愛者」 という政治的主体を立ち上げることによって、イギリスにおける「同性愛」をめぐるアイデンティ ティ・ポリティクスへの道を根本的に切り開いたと考えられる、「同性愛」の脱犯罪化の過程を検 討することが必要であるように思われる。

イギリスにおける「同性愛」をめぐる研究において、男同士の親密な関係の脱犯罪化という事実 は少なからず指摘されている。だがそれらの研究の多くが、「同性愛者」という主体を前提として、

男同士の「同性愛」の脱犯罪化という出来事を、20世紀後半の性に対するリベラリズムや「寛容な

社会」の生成という観点から簡単に指摘するに留まり、「同性愛」という概念に基づく主体の生成 過程やその歴史的背景などを検討することはしない。もちろん「同性愛」の犯罪化から脱犯罪化へ の過程を、当時の文脈において捉えなおそうとする研究も存在しないわけではない。例えばイギリ

スにおける「同性愛」の歴史的研究で著名なジェフリー・ウィークスは、19世紀から20世紀後半に

かけての「同性愛」をめぐる歴史を通時的に検討し、その中で、性犯罪法による男同士の「同性愛」

イギリスにおける「同性愛」の脱犯罪化とその歴史的背景

――刑法改正法と性犯罪法の狭間で――

野田 恵子

G

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の脱犯罪化の過程を、具体的な歴史から明らかにする試みを行っている(Weeks 1990)。ウィーク スの研究においては、性犯罪法の成立へと至る過程が、当時の歴史的出来事との関連において考察 されており、その意味において、本稿の立場は、彼のそれと重なるものである。しかしウィークス もまた多くの研究と同様に、リベラリズムという政治的理念に基づいた「寛容な社会」の生成とい う観点に依拠しすぎるあまり、そもそも人権という観念に基づくリベラリズムを適用する対象やア

イデンティティ・ポリティクスの政治的主体としての「同性愛者」という存在自体が、20世紀のイ

ギリスにおいてどのように生成したのか、その歴史的背景を検証することはない。そのため性犯罪 法を支える論理の背後に潜む、「同性愛」という現象に対する人々の認識の様態やそれが持つ含意 などは不問に付されたままである。だがそのような考察なしには、「同性愛」の脱犯罪化という出 来事を、性に対するリベラリズムの誕生やそれに付随する人々の性に対する態度の変容という観点 のみには還元できない位相において捉える視野が閉ざされてしまうのではないだろうか。

このような問題意識のもと、本稿では、性犯罪法による「同性愛」の脱犯罪化という出来事を、 市民パートナーシップ法の成立へと至る、「同性愛」をめぐるアイデンティティ・ポリティクスを 可能にした端緒として理解することによって、それが持つ効果と含意を考察する。その際に注目す るのは、同性間の親密な関係に対する人々の認識形態の変容である。というのも同性間の親密な関 係自体はどの時代にも存在していたはずであり、そのような関係の犯罪化/脱犯罪化という出来事 の背景には、社会がそれを把握する認識形態やそれに伴った態度の変容が見出せるはずだからであ る。同性間の親密な関係に対する人びとのまなざしの変容を跡付けることによって、「同性愛」の 犯罪化から脱犯罪化という過程を、当時の人々の性や親密性に対する認識のありようという観点か ら再検討することができるであろう。

1.刑法改正法と性科学―「著しい猥褻行為」から「同性愛」へ

イギリスにおける男同士の「同性愛」の犯罪化/脱犯罪化の歴史的背景を検討する際に、その端

緒として挙げられるのが、1885年8月14日の刑法改正法の成立という出来事である。刑法改正法は、

19世紀後半のイギリスにおいて巻き起こった「社会純潔運動(Social Purity Movement)」3と呼ばれ る社会運動によって成立に導かれたものである。刑法改正法の直接的な目的は、法や警察などの直 接的な国家権力によって、当時大きな社会問題であった少女を対象とした売買春行為の取締りを強

化することであったが、その第11条に、イギリスにおける「同性愛」の歴史に刑法改正法の存在を

刻み込むこととなる、「ラブシェール修正条項」という条文が存在した。そこでは、男同士の親密 な関係を示唆するあらゆる行為が、公的なものであろうと私的なものであろうと関係なく、「著し

い猥褻行為(gross indecency)」という名のもとに軽犯罪として取り締まられることが規定されて

いた。

社会問題としての少女売春/買春問題を解決に導くために成立した刑法改正法の一部に、男同士 の「著しい猥褻行為」を取り締まる条文が差し込まれた背景には、少女売春/買春とともに当時、 特に上層階級の男性のあいだで盛んであった少年売春/買春をもまとめて取り締まるという意図が

存在した(野田2004、224頁)。というのも19世紀後半のイギリスにおいては、少女を含む女性の

みならず、規範的な「男性」に未だ到達していないと見なされていた少年もまた、情欲を持つ性的 主体としてではなく、成人男性の性的欲望の対象、ひいては法によって保護されるべき対象として

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男同士の性的なものを匂わせるような親密な関係も、性と愛の対象が一致することを前提とし、そ のことによって個人の身体を「同性愛者」/「異性愛者」というカテゴリーへ振り分ける、近代的 な性愛の位相においては捉えられておらず、社会の秩序を乱す堕落した行為という道徳の問題、つ まり広義の売買春問題のひとつとして認識されており、そのようなものとして裁かれていたと考え

られる(野田2004; 2005)。そしてそのような道徳の位相において認識されていたからこそ、男同

士の親密な関係が刑法の対象になることが正当化され得たのであろう。

だが法は、往々にして成立当初の目的とは異なった場にその機能を見出すことがある。「ラブ シェール修正条項」もまた例外ではない。成立当初はその本来の目的通り、少年/少女を対象とし た売買春行為を取り締まる法としての機能を果たしていた「ラブシェール修正条項」であったが、 「著しい猥褻行為」という犯罪が具体的にどのような行為を指しているのかが明確に規定されていな

かったこともあり5、時が経つとともに、法の成立当初の意図を超え、たとえそこに具体的な性的行

為が存在していなくとも、男同士のあいだに存在するあらゆる形態の親密な関係を取り締まる法と

して機能し始めた(野田2005)。このような法の拡大解釈による「乱用」の結果、19世紀末から20

世紀半ばにかけてのイギリスにおいては、現在では「同性愛者」と見なされるであろう人々が、警 察の監視のもと孤独と恐怖のなかに生きていたのである。男同士の親密な関係をめぐるこのような 状況を打破すべくその思想や行動を展開したのが、「同―/異―性愛」という概念を提示し、その

普及に努めた世紀転換期イギリスの性科学6である。

イギリスにおける性科学は、刑法改正法が体現した問題認識、つまり過剰な情欲を持つ自堕落な 男性が陥る犯罪行為という刑法の範疇から男同士の親密な関係を救い出すため、生得的に同性へ惹

かれる、人の内面における根絶不可能な「状態(state/condition)」という新たな枠組みにおいて、

そのような関係を提示した(Ellis 2001; Carpenter 1897; Symonds 2002など)。そして生得的な「状 態」としての「同性愛」は、可視的な行為の次元、つまり道徳の位相において把握できるものでは

なく、「個人の生の根源に織り込まれた」(Carpenter 1980, 11)特質であり、その人物の「人格」の

核となる要素であると見なし、それを自堕落な男性による性的放埓としての男同士の親密な関係と 厳密に区別した。イギリスの性科学の関係者たちは、自らと同じ性に惹かれるという現象の根拠を、 医学的知識を介して個別身体の内部に位置付けること、つまり「同性愛者」という身体を構築する ことによって、男同士の親密な関係を道徳という呪縛、ひいては刑法の範疇から解放することを意 図したのである。

このような医学的知識に基づいた「状態」としての「同性愛」という概念は、「病理」としても 位置付けられ得るものであり、実際そのような動きは、性科学以降のイギリスにおいても存在しな

かったわけではない。しかし「同性愛」を「病理」とする解釈は、20世紀前半の一時期に、一部の

精神病理学者によって提唱されたのみで、それがイギリス社会において一般的、あるいは支配的な 見解となったことはない。イギリスの性科学は、特に精神病理学の領域において顕著に見られた 「同性愛」を「病理」と見なす医学的な認識を、既存の宗教的信念に基づいた道徳的観点に比べる と、脱犯罪化という観点からは「人道的である」としつつも、誤った解釈であるとして退けている (Schueller and Peters 1969, 693−694)。また次節で検討する「同性愛」の脱犯罪化に関する政府に

よる調査委員会も、「同性愛」は「十分に健全な精神と両立」が可能であることを理由に、「同性愛」

を「病理」と見なす見解を支持していない(Menninger 1964, 31)。

世紀転換期の性科学やその関係者によって創出・流布された「同性愛」という概念は、その後20

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が伴っていたわけではないが、少なくとも用語としては広く普及し始めたようである(Boswell

1980, 43)。そして「同性愛」という概念の普及の効果として、男同士の親密な関係を道徳の問題と して裁く刑法の存在の妥当性や刑法と「同性愛」という現象との関係性が、社会の一部において問 題を形成し始めた。しかしそれが社会問題としてイギリス社会の前面に押し出され、一般の人々に 問題として認識されはじめたのは、イギリス中を騒がせた「モンタギュー事件」という出来事を通

してである。以下では、20世紀に入り、「同性愛」という概念が普及しはじめたイギリスにおいて、

どのような経緯をたどり「同性愛」の脱犯罪化が達成されたのかを、「同性愛」をめぐる議論を引 き起こす契機となった出来事である「モンタギュー事件」やその後のイギリス社会の動向を通して 見ていく。

2.性犯罪法の成立とその歴史的背景

1)刑法改正法と「モンタギュー事件」

1930年代に普及し始めた「同性愛」という概念の効果が目に見える形で表れ、その後の「同性愛」

に対する社会の態度の変容に影響を残したのが、1954年に起きた「モンタギュー事件」と呼ばれる

出来事である。この事件をめぐる裁判の過程において、性科学によって創出・流布された「同性愛」 という概念や同性間の親密な関係をめぐる問題がイギリス社会の前面に押し出されることとなり、

それはメディア7を介して広く一般の人々に伝えられることになった。その結果、「モンタギュー事

件」の直後に、「ラブシェール修正条項」の正当性をめぐる議論やその撤廃を求める運動が活発に なったのであるが、そのような男同士の親密な関係をめぐる社会の態度の変容や法の改正を求める 世論の動向は、「モンタギュー事件」が及ぼした効果として把握できるものである。以下ではまず、 事件の概要を確認しておこう。

1953年12月、モンタギュー男爵と彼の友人が、同年8月の祝日に一般に開放されていた彼の領地

において、その案内役をしていたボーイ・スカウトの少年たちに、「反自然的」な犯罪行為、およ び「著しい猥褻行為」を犯したという理由により逮捕され裁判にかけられた。この裁判は、陪審員

の評決が割れたため、別の日に再び公判が開かれることが決定され閉廷された。そのおよそ3週間

後の1954年1月、2年前にモンタギュー男爵の領地で催されたパーティが乱交パーティまがいのもの

であり、そこにおいて男同士の「著しい猥褻行為」があったとして、モンタギュー男爵の他、

ジャーナリストのピーター・ワイルドブラッドとモンタギュー男爵のいとこが逮捕され、3人が共

に裁判にかけられた。この裁判は、「モンタギュー裁判」として有名になり、その裁判の経過は新 聞各紙で大きく報道され、広く一般の人々の注目を集めた。

1954年3月に行われた裁判において、最も人々の関心を集めるとともに、その言動が後の「同性

愛」をめぐる動きに強い影響力を持った人物が、被告人席に座ったワイルドブラッドである。彼は、 性科学によって創出された「同性愛」という概念が一般に流布しはじめた当時のイギリスにおいて、

自らが「同性愛者」(「転倒者(invert)」)8であることを公的な場において明言したはじめての人物

であり、そのことによって裁判の「主要な人物」として注目を集めた(The Times 1954/3/23)。

1954年3月19日の『タイムズ』紙には、次のような検察官とワイルドブラッドのやりとりが載っている。

検察官:あなたは品性の立派な人であり、、、、、、、、、、、、、、、あなたの性質に対する非難などあり得ないことに私も、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

(5)

ワイルドブラッド:私は転倒者です。

検察官:あなた自身の責任では決してありませんが、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、あなたは普通の男性が感じない感情や欲望 にさらされていますね。

ワイルドブラッド:はい、その通りです。

検察官:そしてあなたには、あなたの性質の感情的な側面を、同性の人に表現したいという欲望 がありますね。

ワイルドブラッド:はい、その通りです。しかし必ずしも身体的というわけではありません。 (The Times1954/3/23,[ ]部、傍点引用者)

ここでは性科学によって提示された「同性愛」という概念をめぐる議論がなされているが、このよ うなワイルドブラッドの「同性愛」という性質に焦点を当てた尋問は、裁判中、何度も行われたも のである。

ここで興味深いのは、性科学による「同性愛」概念の創出・流布以前には対立するものとして認 識されていた、道徳的人物であるということと、男同士のあいだで性的な行為を行うような人物で あるということが、個人の性質として矛盾することなく並存するものとして語られていることであ る。「ラブシェール修正条項」が、売買春という行為に代表される公序良俗を乱す反道徳的行為と いう道徳の次元において男同士の親密な関係を取り締まることを目的としたものであったことは、

第1節において確認した。だがそうであるならば、この事件もまたそのような道徳の問題として捉

えられるべき出来事であったはずである。実際、これ以前に「ラブシェール修正条項」によって裁 かれた事件をめぐる裁判においてその基本的な問題枠組みを形成していたのは、刑法改正法の目的 であった少年をめぐる売買春問題であり、そのような裁判での尋問も、自堕落な男性の過剰な情欲 やそれを肯定する上層階級の退廃的な生の様態という、従来の道徳の枠組みの内部においてなされ

ていたのである9

ではこの裁判が、他の「ラブシェール修正条項」で裁かれた事件とは異なった性質のものとなり、 その後のイギリスにおける「同性愛」の歴史にその痕跡を残す出来事として人々に記憶されること になったのは、いったいなぜであろうか。おそらくその背景には、その頃にはすでに広まりはじめ ていた性科学による「同性愛」という概念に依拠し、「ラブシェール修正条項」の撤廃を訴えると いう政治的意図を持って、裁判という公の場において、イギリスではじめて自らを「同性愛者」で あると明言し、その存在を裁くことの不当性を強く訴えたワイルドブラッドの存在が見出せるので はないだろうか。ワイルドブラッドという、自らの「同性愛」を強く意識していた人物による明示 的な言動によって、この裁判においては、それまで公の場で言及されることがほとんどなかった、 「同性愛者」という概念をめぐる尋問が度々なされている。そしてその詳細はメディアを通して広

く一般の人々にも伝わり、後の「同性愛」をめぐる動きに大きな影響を残すこととなったのであ る。

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の売買春問題)に回収されることになったのである。しかし「モンタギュー事件」は、事件の終結 とともにその存在を忘却されるような出来事ではなかった。イギリスではじめて裁判において「同 性愛者」であることを公言するとともに、裁判後に自らの「同性愛」についての告白本を出版し、 「同性愛者」と呼ばれる個人の擁護を主張したワイルドブラッドの言動がメディアを通して大きな

注目を集めたことによって、それまでその存在の根拠を公に問われることのなかった「ラブシェー ル修正条項」や「同性愛者」という存在をめぐる議論が、イギリス社会全体において巻き起こり、 法の改正へと向けた動きが加速していくことになったのである。そのことを端的に示すのが、事件 が終結した数日後の『タイムズ』紙に掲載され大きな話題を呼んだ、「法と偽善」というタイトル の次のような記事である。

法は多くの私的な意見と歩調を合わせていないように思われる。……成人同士の私的な行為 に関する法の改正への要求は大きい……。当局による調査に対する要求が高まっている。…… そのような[「同性愛」の]行為は、公然猥褻や売春、反道徳的な目的での誘惑、そしてとり わけ少年の堕落という問題から明確に区別されなければならない。現行の刑法の再検討を要求 する議論は、それが果たされなければ、人々の意識は、法的に寛大に取り扱われるべきものと、 非難され根絶されるべきものとのあいだに明確な区別ができないことを主張しているのであ る。……同性愛の転倒は、現在ではほとんどの心理学者によって、生得的のものと見なされて いる……このことは、ここ数ヶ月のスキャンダル[「モンタギュー事件」]から我々が学ぶべき であった、最も重要な教訓である。(The Times1954/3/28,[ ]部引用者)

ここでは、生得的な「同性愛」という性科学が提示した概念を踏襲するかたちで、それを法によっ て裁くことの不当性が主張されている。そしてそのような認識は、「モンタギュー事件」というス キャンダルによってもたらされたものであることを指摘し、新たな概念として当時のイギリスで流 通しつつあった「同性愛」と、刑法改正法がその取締りの対象としていた反道徳的行為とを明確に 区別する必要性を訴えている。

上記のような見解からも、「モンタギュー事件」がイギリス社会に与えたインパクトの大きさが 看取できるであろう。それまで口にすべきでない反道徳的行為として公に言及されることのなかっ た男同士の親密な関係が、「同性愛」という概念によって再解釈されることによって『タイムズ』 紙のような保守的な高級紙に掲載されたこと自体、この当時には、法が体現していた見解と人々の 「現実」に対する認識のあいだにある種のずれが生じ、そのことが社会的な問題となりつつあった ことが窺えるのではないだろうか。刑法改正法の成立当初は、性的退廃や堕落の根絶という目的の もとに成立した法の問題認識の内部において、売買春問題を扱う他の条項と並存していた男同士の 親密な関係をめぐる問題であったが、裁判において自らを「同性愛者」と公言したワイルドブラッ ドの言動によって、「モンタギュー事件」を契機として、知識人を中心とした人々のあいだで、あ らゆる形態の男同士の親密な関係を裁く法の正当性に対する疑問が生じはじめたのである。

ここで確認しておく必要があるのは、いったいなぜ「同性愛」の脱犯罪化を要求する動きが、20

世紀半ばのイギリス社会において受け入れられることになったのかということである。おそらくそ の背景には、冒頭で指摘したリベラリズムという政治的信念に基づく「寛容な社会」の台頭ととも

に、20世紀半ば以降の急激な世俗化による宗教的価値観の凋落や人権という観念の絶対化など、大

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性愛」の脱犯罪化に向けた言動を受け入れる土壌は、当時のイギリス社会にすでに存在していたと いえる。そして「同性愛」の脱犯罪化への道を切り開くために、そこに必要であったのは、ワイル ドブラッドがそうであったように、同性間の親密な関係に対する社会的沈黙を破り、それに対する 議論を巻き起こすことによって、「同性愛」への理解を広める契機となるような出来事や人物の存 在であったのではないだろうか。いつの時代にも、時代の変わり目には、それを象徴するような出 来事や人物が存在するものであるが、イギリスにおける「同性愛」をめぐる歴史において「モンタ ギュー事件」やワイルドブラッドの存在は、まさにそのような出来事と見なし得るものだと思われ る。

「モンタギュー事件」からおよそ1ヶ月後、刑法の改正を求める人々の要請に対してその重い腰を

上げざるを得なくなった政府は、当時レディング大学の学長であったジョン・ウルフェンデンとい う人物の指揮のもと、それまで刑法改正法において広義の売春問題として同じカテゴリーの内部で 取り扱われていた「同性愛」と売春(刑法改正法が扱う問題)を、別個の問題として再検討する調

査委員会(「ウルフェンデン委員会」)を設立し、3年後の1957年にその調査報告書である「ウル

フェンデン報告(Wolfenden Report)」を公表した。「ウルフェンデン報告」の内容の詳細は、報告

書が公表された翌日には、『タイムズ』紙などの高級紙を含むあらゆる新聞の一面で取り上げられ 大きな反響を呼んだ。メディアによって大きく取り上げられた「ウルフェンデン報告」を契機とし て、イギリスにおいてはじめて社会全体を巻き込んだ「同性愛」に関する公の議論が巻き起こった が、それは人々の男同士の親密な関係に対する認識の変容を促し、結果として「同性愛」の脱犯罪 化へと事態は加速していくこととなる。以下では、「ウルフェンデン報告」の内容を検討し、そこ で「同性愛」がどのように認識されていたのか、そして一般の人々がどのようにそれを受け止めた のかを見ていこう。

2)「ウルフェンデン報告」とその効果―「人格」としての「同性愛」と性犯罪法への道

1954年8月、内務省は、各界の代表者15人からなる委員会を招集し、3年間(62回)にわたり、刑

法改正法の改正に関する議論を重ねた10。その成果は、

1957年9月に「ウルフェンデン報告」とし

て公表された。「ウルフェンデン委員会」では、会議の半分以上(32回)が参考人へのインタ

ヴュー調査にあてられたが、その中には、1955年3月に18ヵ月の刑期を終えて出所したワイルドブ

ラッドも存在した。ワイルドブラッドは、委員会において自らの「同性愛」について証言する傍ら、

彼を「社会の敵、犯罪者」(Wildeblood 1956, 89)へと追いやった「同性愛者」を裁く刑法の不当性

を訴えるとともに、「同性愛」に対する「正しい」理解を求めて、1955年に『刑法に反して』とい

う著作を執筆した。彼自身の「同性愛」についての赤裸々な告白がなされていたその著作は、社会 的にも大きな反響を呼び、「ラブシェール修正条項」の撤廃へ向けた世論を形成する一助となるこ とによって、その後の男同士の親密な関係をめぐる刑法の改正への動きを大きく加速させていくこ とになる。例えばワイルドブラッドが亡くなった際の以下のような記事からも、彼の活動が持ち得 た影響やそれに対する後の人々の評価が見て取れる。

[モンタギュー]裁判に引き続いて、大衆の抗議があった。法の不当性が非難され、『刑法に

反して』の出版とともに、抗議はいっそう激しくなった。(The Times1999/11/16,[ ]部引用

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ピーター・ワイルドブラッドは、1955年に出版された彼の処女作である『刑法に反して』が、 法の劇的な変容に大きく貢献したという意味において、イギリスにおいて数少ない特異な著作 家のひとりである。(The Guardian1999/11/16)

ワイルドブラッドは、「ウルフェンデン委員会」において、「私のような男性を投獄することは、論 理的に弁護の余地のないものであり、道徳的に正しいことではない。このことは、我が国における

正義という観念に対して懐疑を抱かせるもの」(Higgins 1966, 40)であると証言し、「同性愛」の

脱犯罪化を要求している。しかしいったいワイルドブラッドは、彼のような「男性」、つまり「同 性愛者」をどのような人物として提示し、どのような根拠によって「同性愛」の脱犯罪化を正当化 したのであろうか。ワイルドブラッドの「同性愛」に関する自伝は、「ウルフェンデン委員会」へ の直接的な影響のみならず、社会的にも大きな反響を呼び、一般の人々の「同性愛」に対する認識 の基礎を形作ることによって、「同性愛」の脱犯罪化の過程において中心的役割を果たしたもので あることから、以下では、彼がどのように「同性愛」という現象を解釈し、それを人々に提示した のかを確認しておこう。

まずワイルドブラッドは、自らが「同性愛者」であるという認識のもとに、「同性愛」という同 一性がその核を成す彼の人生についての「告白」を、次のように位置付けている。

自らの死が近づくと、その苦痛と死の原因が調査され、その知識が他の人々の助けとなるよ うに、その身体を医者に差し出すように言い遺す人がいる。私はまだ自らの身体を差し出すわ けにはいかない。ただ私は、私のような男性に希望と勇気を与え、人々の理解を得ることがで

きると信じて、私の感情と精神を差し出すのみである。(Wildeblood 1956, 1)

ワイルドブラッドは、未だ「同性愛者」に対する理解が十分でなく、彼らが道徳的に堕落した人物 という枠組みにおいてまなざされていることに対して、自らの「感情と精神」を「献体」すること によって、その「真実」を開示しようというのである。その際に彼が重視したのが、中産階級的道 徳観念に適った、つまり規範的異性愛に抵触することなくその内部において理解可能な「同性愛者」 という像の提示である。

ワイルドブラッドは、男同士の親密な関係をとりまく「偏見」、つまり「同性愛は意図的に選択

される恐るべき倒錯(p e r v e r s i o n)であり、そのような選択を行う男性は刑罰に値する」

(Wildeblood 1956, 5)という法が体現している道徳的観点に対して異を唱えるのであるが、その際に

彼が依拠するのは、自身の生を規定する「状態」としての「同性愛(者)」という概念である。彼は、

「同性愛は精神/心の状態であり、私の全てを特徴付けるもの」(Wildeblood 1956, 34)であるとし、

「同性愛」が表層的な性的行為に還元されるものではないこと述べつつ、それへの理解を求めてい る。

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という概念によって、男同士の親密さに付きまとう堕落や退廃といったイメージを払拭し、その対 象の転倒以外は「異性愛」と同様の基盤に立つ性愛の形態のひとつとして、「同性愛」を提示した のである。このようなワイルドブラッドの見解は、「ウルフェンデン委員会」によって政府に提出 された「同性愛」に関する報告書にも大きな影響を与え、最終的には、イギリスではじめての「同

性愛」に関する固有の法である性犯罪法11に反映されることになる。その経緯を次に見ていこう。

「ウルフェンデン報告」は、ワイルドブラッドや委員会に召集された他の参考人、また委員会の メンバーである医師たちの見解を受け、次のように指摘する。

「同性愛の犯罪行為」と「同性愛」を明確に区別することは重要である。……後者について は、同性愛は同性へ性的に惹かれる生まれつきの傾向であるという、辞書的な定義に留めてお く。したがって同性愛は状態であり、そのようなものとして刑法の範疇には入らないし、入る ことができないのである。(Menninger 1964, 25)

ここで「同性愛の犯罪行為」とされているのは、自堕落な男性が行う性的放埓であり、そこには同 性を「愛する」という含意はない。それと明確に区別されるべきであると指摘されている「同性愛」 という「状態」は、個人のあらゆる領域に顕在化する核として身体の内部において実体化されてお り、それが身体の外において何らかの形で可視化されなくても、その奥深くに潜んで個人を規制す

る力を持つとされている(Menninger 1964, 29)。そしてそのようにして「同性愛者」と性的放埓者

を完全に切り離すことによって、それらを同じ次元で捉える認識を退けるのである。つまり「同性 愛者」とは、同性に惹かれる生得的な傾向を内に秘め、それがその生全体を規定するような個人の ことであり、「同性愛」行為を行うかどうかは二次的な問題でしかないというのである。いったん このように「人格」という位相において認識されると、それまで倒錯行為として見なされることに

よって公的性格を帯びていた男同士の親密な関係は、それが2人の成人男性のあいだで行われてい

る限り(規範的な「異性愛」の構造を踏襲している限り)、「異性愛」と同様に私的なもの、つまり 「同性愛」の「愛」の行為として再定義されることとなる。そしてそのような「同性愛」の行為は、

私的な領域に留まる限り個人のプライヴァシーの問題となり、法の規制の対象から外れる方向へと 向かっていくことになるのである。

「ウルフェンデン報告」の内容の詳細は、公表の翌日には高級紙からタブロイド紙まであらゆる 新聞の一面で大きく取り上げられたが、ワイルドブラッドの著作やその言動との相乗効果により、 それまで可視化されなかった、「同性愛者」という法的に不当な扱いを受け虐げられている人々の 存在を、イギリスの人々の心に強く印象付けることになった。「同性愛」に関する議論は、「ウル フェンデン報告」の公刊以後もメディアを中心に収まることなく続き、報告書の公刊から半年後の

1958年3月7日の『タイムズ』紙には、報告書の見解に基づいた法改正の必要性を広く世論に訴えた、

次のような投書が掲載され大きな反響を呼んだ。

我々は、……成人同士の間で行われる私的な同性愛行為は犯罪行為にすべきではないという ウルフェンデン報告の提案への概括的な同意を表明する。……ほとんどの信頼できる新聞や雑

誌、2人の大主教、教会、ローマ・カソリックの委員会、非国教会の代表者や世論に精通した

多くの他の機関によって、改革の論拠は承認されたのである。このような観点やウルフェンデ

(10)

く提案された改革を実行に移すことを求める。そしてもしそれが実行されたならば、あらゆる

人道的な人々からの幅広い支援を得られるであろうと、我々は確信している。(The Times

1958/3/7)

投書の下には、労働党党首を務めたことのあるアトリー卿や哲学者のバートランド・ラッセル、ア

イザイア・バーリンなど、33名の著名人(そのほとんどが「異性愛者」)のサインが記されていた。

このような投稿が『タイムズ』紙に掲載されたことや、法改正の運動が教会を含む多くの団体に よって支持されていたという事実からは、このときにはもうすでに、「ウルフェンデン報告」が提 示した「同性愛(者)」という概念が人々に共有されつつあること、またそのような観点から「ラブ シェール修正条項」の存在が不当であると見なされていることが窺えるのではないだろうか。

この後も「同性愛」をめぐる議論は断続的に新聞紙面を飾り、「同性愛者」という存在が自明の ものとして人々に語られ始めるようになった。このようなメディアを介して形成された刑法の改正 を求める世論の流れを、議会においても決定的なものとさせるべく、「ウルフェンデン報告」の公

表からおよそ8ヵ月後の1958年5月、イギリスにおける最初の「同性愛」に関する運動団体である

「同性愛に関する法の改正を求める会(The Homosexual Law Reform Society、以下HLRS)」が設立 され、報告書が提案した改革の実行を求めて動きだした。この団体は、「同性愛」をマイノリティ の問題であると明言し、「同性愛者」という抑圧される存在が実体として存在するという認識を強 く打ち出すことによって、その「解放」を求めるとともに、ワイルドブラッドが執筆した著作や 「同性愛」に関するパンフレットを議員へ配るなどして、「同性愛」に対する理解の普及のため議員

への直接的なロビー活動を積極的に行った。このようなHLRSによる活発な運動が功を奏し、1967

年、報告書の提案通り合意のある2人の成人男性のあいだの「私的」な「同性愛」関係12を合法化し

た性犯罪法が成立した。「同性愛」の合法化というにはあまりに厳しい制限付きではあるが、この

ような制限は、ワイルドブラッドやHLRSが提示した、規範的異性愛の構造(一対の男女による愛

の交換に基づく性的関係)を踏襲する道徳的「同性愛者」という概念の論理的帰結と見なすことが できる。つまり自堕落な男性による倒錯行為とは異なった、性愛のひとつの形態としての「同性愛」 という概念を適用できる最小の範囲が、上記のような制限の範囲内における同性間の関係なのであ ろう。このように見たとき、自堕落な男性による倒錯行為という認識は、性犯罪法においても消え 去ることなくその信憑性を保持しており、だからこそ上記のような制限がかけられたとも考えるこ とができる。

ここで留意する必要があるのは、刑法の範疇に入る犯罪行為と見なされる公序良俗に反する行為 を規定する基準自体は、刑法改正法の成立当初から性犯罪法までほとんど変容していないという事

実である。刑法改正法が成立した19世紀後半のイギリスにおいては、男同士の親密な関係は、公序

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おわりに

市民パートナーシップ法の成立、およびそこに至るまでの「同性愛」に対する差別的な法規制の

撤廃により、刑法改正法による男同士の親密な関係の犯罪化から1世紀を経て、イギリスにおける

「同性愛」をめぐる権利獲得の運動は、一応の収束を迎えたかに見える。

「同性婚」が可能になった現在の地点から振り返ると、「ウルフェンデン報告」も性犯罪法の成立 もすべて、リベラリズムという政治的理念に基づく「寛容な社会」において起こるべくして起きた 出来事であるかのように見えるかもしれない。もちろんそのような視点は重要なものであり、本稿 はそれを否定するものではない。しかし刑法改正法から性犯罪法の成立に至る過程を当時の文脈に おいて捉え直してみると、そこには性に対するリベラリズムという社会の風潮の変化のみには還元 できない、イギリス特有の歴史的・社会的文脈、また当事者たちや彼らを取り巻く人々の動きが見 出せるのではないだろうか。

人権が絶対不可侵のものとして存在する近代という時代において、それまで差別の対象とされて いた人々に対しても人権という名のもとに様々な権利が与えられるようになったことは事実であ り、「同性愛」の脱犯罪化もそのような時代の流れの一部に位置付けられるものかもしれない。し かし「同性愛者」は、社会からその存在を承認され人権という名の自由や権利を付与されることを、 何もせずに待っていたわけではない。彼らは、性科学による知識を援用しつつ「同性愛者」が人権 に値する個人であるということを証明し、それを社会において承認してもらうために、性的放埓者 としてひとつのカテゴリーにまとめられていた人々の中から、「同性愛者」という、社会がその 「寛容さ」を適用できる個人の存在を析出し、それらの人々を法で裁くことの不当性を訴えたので ある。世紀転換期の性科学による「同性愛」概念の創出・流布以降も、男同士の親密な関係に対す る性的退廃や堕落といった従来の認識枠組みは根強く人々のあいだに残り続けたことはすでに指摘

したが、そのように「同性愛」が行為と「人格」の間を揺れ動いていた1940−50年代のイギリスに

おいては、権利を剥奪されたマイノリティという立場の確立はおろか、「異性愛者」と同様の人権 が付与されるべき「同性愛者」という個人が存在するという考えが想起されることさえ困難な時代 であったのではないだろうか。もし男同士の親密な関係が従来通り、堕落した行為という道徳の位 相においてのみ認識されていたならば、そこへは人権という観念もリベラリズムに基づく自由放任 という態度も適用は不可能であったはずである。「人格」としての「同性愛者」という概念によっ てはじめて、不当に差別されている人々が実体として可視化され、そこに人権を奪われた人々の存 在が見出されたのであろう。いったん実体化されると、「同性愛者」というマイノリティの問題と して、主体(アイデンティティ)の政治学への回路が開かれるのであるが、そのような地点から、 「同性愛」の脱犯罪化すら達成されていなかった時代を遡及的に振り返ってしまうことによって、 「同性愛」の脱犯罪化に尽力した人々の困難やそこでの政治的課題/問題を当時の文脈において捉

える視角が失効する危険性があるように思われる。

1970年代以降活発になる、「同性愛」の政治的運動が拠って立つ基盤である「同性愛者」という

アイデンティティは、ワイルドブラッドやHLRS、またその関係者たちが、性科学の知識に依拠し

つつ道徳的「同性愛者」という像を提示することにより、既存の道徳観念に抵触することなく異性 愛規範の内部に取り込まれることを選択したからこそ可能になったものであろう。その意味におい

て、1970年代の「同性愛者」のアクティヴィズムから現在の市民パートナーシップ法の成立まで、

(12)

た「同性愛者」やその関係者たちの運動の痕跡が見出せるのではないだろうか。そのことによって、 現在の視線からはリベラリズムという政治的理念に基づいた「寛容な社会」の生成という観点から のみ語られることの多い「同性愛」の脱犯罪化という出来事を、「ラブシェール修正条項」の時代 を生きていた当事者たちの視点から再検討できる視角が開かれるのではないだろうか。

本稿においては、男同士の「同性愛」の脱犯罪化という出来事の意味を、性犯罪法の成立過程を

検証することによって考察したが、性犯罪法の成立以後、特に1970年代から活発になった「同性愛」

の解放運動の動向や彼/女らの「異性愛」に基づく社会との関わり方、そこで問題となっていた事 態、また脱犯罪化された男性「同性愛」と女性「同性愛」との関係性などをより深い次元において 検証することによって、市民パートナーシップ法の成立へと繋がる、イギリス社会における親密性 に対する人々の認識の変容がより鮮明に描き出せると思われる。その探究は今後の課題である。

【注】

1 本稿の対象は、イングランドであるが、便宜上、日本語で通用している「イギリス」と表記する。

2 「同性愛」とは、現在そのように把握されている概念や事象を指し示すのであって、そこに歴史横断的に存

在する何らかの実体を想定しているわけではない。

3 「社会純潔運動」は、福音主義と呼ばれるプロテスタントの一派の人々が中心となって起こした社会運動で

ある。「社会純潔運動」と刑法改正法成立の関係については、野田(2004)に詳しい。

4 同性間の親密さが道徳の観点において捉えられる現象であったからこそ、過剰な情欲を持たないとされて

いた女同士の親密な関係は、刑法改正法の問題圏に入り得ず犯罪化されなかったという事実も、イギリス における「同性愛」の犯罪化を考察する際に無視できないものである。女性「同性愛」の不可視性の歴史

的背景については、野田(2006)に詳しい。

5 「ラブシェール修正条項」を案出したヘンリー・ラブシェールは、少年売春/買春の徹底した取締りという

目的を達するため、条文の内容を特定の行為に照準したものとせず、意図的に曖昧にしたようである(野 田2004, 224−225頁)。

6 性科学とは、ある特定の専門分野というよりも、主に19世紀後半に生成した、様々な分野の専門家によっ

てなされた性に関する学術的探究の総称といえる。

7 十九世紀後半に出現した「大衆ジャーナリズム」による世論の形成は、「同性愛」の歴史を考察する際にも、

無視できないものである(野田2004)。

8 「同性愛」という言葉が広まり始めた当初は、ジェンダーの転倒を示唆する「転倒者」という用語も頻繁に

使われていた。それらは共に性科学によって創出された言葉であるが、当時のイギリスにおいては、「同性 愛」という言葉にも、同性を「愛する」という意味だけでなく、その根拠としてのジェンダーの転倒とい う含意があり、それらはほぼ同じ意味において使用されていた。

9 最も有名な裁判は、19世紀末に起きた「オスカー・ワイルド裁判」である。刑法改正法と「オスカー・ワ

イルド裁判」、またそれらと性科学との関係性については、野田(2005)に詳しい。

10 委員会は、国教会関係者、法律家、医師、国会議員、研究者などから構成されていた。

11 性犯罪法は、「同性愛に関するイングランド、およびウェールズの法を改正する法令」と規定されている。

そこでは「ラブシェール修正条項」のみが、刑法改正法の他の条文から切り離され、「同性愛」に関する法 という新たなカテゴリーのもとに置かれた。

12 「私的」という言葉が指し示すのは、①2人以上の者が参加・存在していないこと②第三者が立ち入ること

(13)

【参考文献】

野田恵子 2004 「十九世紀イギリスにおけるセクシュアリティの政治学――社会純潔運動と刑法改正法の

成立をめぐって――」『現代社会理論研究』第14号、218−229頁。

―――― 2005 「十九世紀イギリスにおける性と愛――オスカー・ワイルド事件の歴史的位相とその効果

――」『ソシオロゴス』第29号、127−146頁。

―――― 2006 「イギリスにおける性とジェンダーの政治学――女性同性愛の不可視性とその歴史的背景

――」『女性学』第13号、59−75頁。

Boswell, John. 1980. Christianity, Social Tolerance and Homosexuality. Chicago: The University of Chicago Press. Carpenter, Edward. 1980 [1897]. Homogenic Love and Its Place in a Free Society. London: Redundancy Press.

―――― 1897. An Unknown People. London: A. and H.B. Bonners.

Ellis, Havelock. 2001 [1906]. Studies in the Psychology of Sex: Sexual Inversion. Honolulu: University Press of the Pacific.

Menninger, Karl. ed. 1964. The Wolfenden Report: Report of the Committee on the Homosexual Offences and Prostitution. NY: Lancer Books.

Symonds, John Addington. 2002 [1928]. A Problem of Modern Ethics: Studies in Sexual Inversion. Hawaii: University Press of the Pacific.

Weeks, Jeffery.1990. Coming Out: Homosexual Politics in Britain from the Nineteenth Century to the Present. London and New York: Quartet Books.

(14)

De-criminalization of Same-Sex Relations in England:

Between the Criminal Law Amendment Act and Sexual Offences Act

NODA Keiko

The purpose of this essay is to interrogate the socio-historical background against which

male-male intimate relations were decriminalized in late twentieth-century England, focusing on how the

perception of same-sex relations changed in response to the rise of the concept of

“homo-/hetero-sexuality,” and how this affected the change in the criminal law against male-male intimate relations,

which had previously been criminalized since 1885.

Since the 1980s, a number of research projects, highlighting issues concerning the

criminalization and/or de-criminalization of male-male intimate relations in England, have been

carried out on the history of “homosexuality.” Most of the research depicts the process of

decriminalizing of such relations in the context of a rise of the so-called “permissive” society based on

liberal political thinking. Although this essay does not deny the importance played by the emergence

of liberal attitudes towards human sexuality in general, it is argued that there must be other

characteristics of this process, which cannot be wholly explained by the emergence of the

“permissive” society. That is, there was a transformation of the perception of same-sex intimate

relations from an immoral and degraded act to “homosexuality” as an ontological state or identity

which claims that the “homosexuals” are individuals who deserve the right to exist just as the

“heterosexuals”.

This essay examines the historical circumstances under which the concept of

“homo-/hetero-sexuality” was made, and how it circulated and subsequently changed the way people perceive human

sexuality, especially male-male intimate relations. Although the emergence of the “permissive” society

was a vital factor in laying the framework in which other factors could operate, by itself it cannot

explicate whole story of the decriminalization process. Along with the liberalization of the general

political atmosphere of society, it is crucial to examine the historical circumstances under which the

change in people’s perceptions of same-sex relations occurred, as well as how this in turn changed the

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