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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2007年 10月号

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Academic year: 2018

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  はじめに

 イスラーム文明は、イスラームが、古代からの 文明がすでに存在し広がっている世界に登場し、 それを受け入れた人々によってイスラームとアラ ビア語を核としてその時代の技術と地域の特質を 融合してつくりあげられた文明のことをさす。教 科書学習だけでは欠落しがちなイスラーム独自の 文化の起源、発展し洗練され広がっていく過程を 理解させるためにタペストリー*を使用し授業を すすめた。このなかで留意したのは、イスラーム 政権の広がりと技術者の移動・交易ネットワーク によって伝播した文化の共通性と地域性に着目し た点である。取り扱う文化は7〜14世紀と約700 年に渡るが、タペストリーの年代ごとの世界地図 を使用することで時代の流れをコンパクトにまと め、空間的な広がりを把握することができた。

 

1.ムハンマドの時代

 タペストリーp.107をみてモスクの構造を確認 し、広い中庭・ドーム型の屋根・ミフラーブ・ミ ンバル・ミナレットとその意味を把握する。イス ラームの初の建築はムハンマドが622年にメディ ナへ移住し、ウンマを形成した時にはじまる。そ れは現在でもオアシスの集落でみられるような日 干し煉瓦とナツメヤシでできた広い中庭を持った 簡素なものであった。礼拝は神の啓示をうけた 624年2月まではイェルサレム(北)に向き、そ の後はメッカのカーバ神殿(南)に向かって行っ た。祈りの方向をさす槍を置き(ミフラーブの原 型)、その隣の柱の根本に椅子(ミンバルの原型)

を置いて神の言葉を伝えた。

 

2.大征服時代とウマイヤ朝の成立と広がり

 ムハンマドの死後、アブー=バクルがカリフと なったが政治的離脱・背反をリッダ(背教)とみ なし、討伐軍を推進した。翌年にはアラビア全土 を征服し、約10年でビザンツ帝国支配下のシリア 諸都市、ササン朝全土を支配した。656年シリア 総督ムアーウィアは後継者選びの内乱の結果唯一 のカリフとなりウマイヤ朝を開いた(タペストリ ーp.14〜15)。内乱のなかで、その後シーア派と なる派閥が生まれた。当初、ウマイヤ朝ではビザ ンツの官僚に負うところが大きく、また、その文 化も古代からの地中海世界の技術が利用された ものが多い。征服戦争で拠点都市となったのは軍 営都市「ミスル」である。「ミスル」はウマイヤ 朝の大ネットワークの政治的・経済的拠点となり、 イスラームとアラビア語が拡散していく文化セン ターの役割もはたした。670年にはチュニスの南 にカイラワーンが建設され北アフリカの拠点とな り、翌年にはホラサーンのメルヴへの移住が行わ れ中央アジア支配の拠点となった。

 5代目カリフ、アブド=アルマリクはカリフ権 を強化し、それを背景にアラブ式貨幣の統一を行 った。旧ササン朝支配下で同朝の銀貨、ビザンツ 帝国支配下だったシリア・エジプトでは同帝国で の金貨が使用されていたが、それをアラビア文字 が刻印してある金

貨(ディナール) と銀貨(ディルハ ム)に統一し交易 が促進された。

タペストリー活用の授業案

イ ス ラ ー ム の 文 化 と 交 易

鶴川高等学校(東京都) 向 山 裕 子

スト

リー

を使って

(2)

 また、行政用語もイラクでペルシア語から、シ リアでは700年にギリシア語から、エジプトでは 705年にコプト語からアラビア語に改変された。 しかし、両語併記で書かれた文書も多いことから 住民のアラビア語化はすすまなかったものと推測 される。

 ウマイヤ朝の広がりについては、タペストリー p.14〜15で確認しておきたい。

建  築

 ウマイヤ朝の建築物で代表的なのは一つはイェ ルサレムにある「岩のドーム」で現在も7世紀末 に建てられた姿を留めている(外壁などの改修は その後に行われたが)。外観は八角形で鉛の屋根 を持つドームが中央にかかり、ドームを支えてい るのは4本の石像角柱と12本の円柱に支えられた 円筒の壁である。内装はモザイクや大理石の飾り 板でおおわれている。モザイクの絵の題材は人物 は排除されイスラーム的ではあるが、その形態は キリスト教建築の殉教記念堂(マルティリウム) に由来している。

 もう一つはダマスクスのウマイヤ・モスクであ る。もともとローマ神殿のあった場所にビザンツ が教会堂を建て、ウマイヤ朝成立当初はそのまま その一部を利用していたが、人口増加のため囲い 地の壁を残しなかの教会堂をつぶし広い中庭をと り、再構築したものである。礼拝所はバシリカ式 シリア教会堂様式とビザンツ様式の混合で三つの 空間を持つ長方形の建物で、中央にドームをいた だきキブラ壁とカリフのための半円のくぼんだ壁 籠(くぼんだ壁籠はユダヤ教では律法を置く場と して、キリスト教会では宗教的像を置くのに使用 する、地中海世界では聖域を示す方法)を持って いる。内装は岩のドームと同様、モザイク・大理 石の飾り板で装飾されていてビザンツの技術を利 用したイスラーム文化を構築していた。

 

3.アッバース朝の成立と初期の文化

 700年頃からホラサーンを中心のシーア派ムス リムと異教徒が手を結びクーファを中心に反ウマ

イヤ朝運動が活発になった。749年ウマイヤ朝軍 を破ったなかでアブー=アッバースがカリフに就 任し、クーファなどのシーア派勢力はアリーの血 統から新たなカリフを選ぶことができず、新政権 から血の粛清を受けた。マンスールは政治的・軍 事的必要性から首都移転を計画し、交通の要所で 水も豊かなバグダードに新都を建設した。新都は 強固な守りに囲まれた円城(タペストリーp.108) で、そこから4つに開いた門は国際商業都市をめ ざした姿勢が現れている。4つの門とは①ホラサ ーン門(北東部)「ティグリス川を渡り、ホラサ ーン街道を東にすすみ、絹の道を通って唐の長安 へ」②バスラ門(南東部)「ティグリス川を船で 下り、ペルシア湾を通じインド・東南アジアへ」 ③クーファ門(南西部)「クーファ道を通り、メ ディナ・メッカへ」④シリア門(北西部)「シリ ア道を通り西に向かえばダマスクス、北に向かえ ばアレッポを経由しコンスタンティノープルま で」である。商人たちはイスラーム諸国だけでは なく、中央アジア・インド・東南アジア・アフリ カなどの遠距離貿易にたずさわり、バグダードは 9世紀には「3万のモスクと1万の公衆浴場」が 立ち並ぶ巨大都市となった。バグダードでは中国 とアラブ系・ペルシア系ムスリムの直接取引は盛 んで、広州の懐聖寺(現在も巨大なミナレットが 目をひき、光塔通りと呼ばれ

ている)、杭州の鳳凰寺、西 安の化覚寺がつくられた。ア ッバース朝の初期は巨大帝国 と国際商業によるネットワー クを通じ、イスラーム文化が 拡散していった時代というこ とができる。

 拡大期のアッバース朝につ いては、タペストリーp.16〜 17で確認をさせたい。

建  築

 アッバース朝初期に共通してみることができる のは、ミナレットの導入である。ミナレットはム スリムに祈りの時間を呼びかける塔とされてい

(3)

るが、当初はモスクの位置の目印となっていたと 考えられる。サーマッラーに残存するアル=ムタ ワッキルの金曜モスクは世界最大(モスクだけで 240m×156m、囲い地はその倍)のものであった が、モスクの礼拝所と反対側の外にミナレットを 築いた。それは50m以上の高さで頂部に向かい螺 旋状の階段が渦巻き、頂部ほど傾斜角度が増し ている(この塔の形はヨーロッパでイメージされ たバベルの塔にインスピレーションをあたえた)。 この形式のモスクは北アフリカからインド国境に 普及した。この様式の残存として現在見られるの はカイロに建設されたアフマド・イブン・トゥル ーンのモスク、チュニジアのカイラワーンのモス クである。カイラワーンのモスクでは材料調達が 広範域から行われ、アッバース朝の交易ネットワ ークの広さを感じさせる。内装はイラクのタイ ル、ジャワからのチーク材をイラクで加工した木 材、ミンバルはメソポタミアの木材からできてい る。ミナレットは9世紀末〜10世紀になるとスペ インのコルドバからシーラーフまで多くの場合一 本のミナレットがつくられるようになった。

学問の発達

 アッバース朝期に発達し、以後西欧のルネサン スにも影響を与えることとなったのは学問の発展 である。とくにビザンツで禁止されていたギリシ ア語文献のアラビア語翻訳は後世に大きな影響を 与えている。哲学・数学(アラビア数字・十進法・ ゼロの概念)・天文学・医学などの「外来(ギリ シア・インド・イラン)の学問」と法学・歴史学 などの「イスラーム固有の学問」については、タ ペストリーp.110に図表化してあるが、その学問 を追究する姿勢はアッバース朝を支えた人々の出 自にも関連する。アッバース朝がウマイヤ朝に勝 利するのに不可欠だったのがペルシア、ホラサー ンの出身の人々である。ペルシア系の人々は全 学問をササン朝から受け継いだ遺産と考えていた。 また、近世ペルシア語が確立するなかで、中世ペ ルシア語から自分たちの読める言語に文書を訳す 使命感を持っていた。マンスールやその後の後継 者もペルシア人をカリフおよびアッバース朝の忠

実な僕と考え、最高位の行政職につけている。外 来文化の翻訳運動は『知恵の館』というと、学問 センターのようなところで行われたという印象を 与えがちだがそれは誤解で『知恵の館』は図書館 をさすササン朝の翻訳に過ぎない。ただ、翻訳運 動は広く継続して行われた。

 イスラーム法学が系統立てられるのもこの時期 で8世紀半ばに最初の法学に関する文献が現れ、 高度な知的省察により形成された法準則が形成さ れ、スンナ派法学に関する限り10世紀ごろまでに は四法学派が正統として認められるようになった。

 

4.アッバース朝の減退と地方に拡散した文化

 9世紀、カリフはマムルーク(アトラークはト ルコ人の複数形)を親衛隊として置くようになっ た。彼らは地方ではアッバース朝に忠誠を誓って はいるが経済的・政治的に独立した。945年ブワ イフ朝がバグダードを支配するとカリフの地位は 傀儡化した(タペストリーp.18〜19)。

 交易は直接取引は9世紀末には減退し、チャン

    固 有 の 学 問   ア ラ ビ ア

  外   来   の   学   問

  そ の 他

コーランの注釈,ムハンマドの言行(ハディース)を基礎として, 両者合体して発達 ガザーリー(1058∼1111)     ムハンマドの伝記研究から発達

ラシード=ウッディーン(1247ころ∼1318)『集史』(イル=ハン国の宰相) イブン=ハルドゥーン(1332∼1406)『世界史序説』

タバリー(839∼923)『諸預言者と諸王の歴史』 文法学・修辞学・詩学などコーランを正確に読むための研究 ギリシア哲学(アリストテレス注釈学)中心(知恵の館でアラビア語に翻訳) イブン=ルシュド(アヴェロエス)(1126∼98)

ギリシアのユークリッド幾何学・インドの代数学を吸収・発展 →アラビア数字・ゼロの記号を完成。代数学・三角法,12世紀以降ヨー  ロッパへ フワーリズミー(780ころ∼850ころ)

占星術から発達。ムスリム商人の活躍で航海術・暦学も発達 バグダード・ダマスクス・サマルカンドに天文台設置 イドリーシー(1100∼65ころ)

イブン=バットゥータ(1304∼77)三大陸周遊記 イブン=シーナー(アヴィケンナ)(980∼1037) 『医学典範』ギリシア・アラビア医学の集大成

錬金術から発達 昇華作用の発見 蒸留・ろ過の方法を発明 論理学・音楽・機械学・光学・博物学など

千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)

フィルドゥシー(940ころ∼1025)『シャー=ナーメ』宮廷文学・詩発達 オマル=ハイヤーム(1048∼1131)『ルバイヤート』

モスク建築(ドームとミナレット) アラベスク 細密画(ミニアチュール) ちゅうしゃくがく

せんせい

てんぱん れんきん しょう か

◆イスラーム起源の英単語…alcohol アルコール alkali アルカリ bazaar バザール caravan キャラバン cotton コットン lemon レモン magazine マガジン orange オレンジ peach ピーチ shawl ショール sofa ソファー sugar シュガー syrup シロップ tambourine タンバリン など

◆ヨーロッパに影響を与えた科学以外の文化 火薬・磁針(羅針盤)・紙・印刷術…以上は中国起源

築城法・石弓の使用・伝書鳩の利用・じゅうたんやカーテンの装飾・軍楽隊の打楽器・ 甲冑や紋章・戦勝祝賀のイルミネーション・さとう・コーヒー飲用など

ら しんばん

かっ ちゅう  神学  法学

  歴史学

その他  哲学

 数学

  天文学   地理学  医学

 化学 その他 文学

美術 2

3 1 AB

C

A

B C D E p.26 p.108 p.290 p.146

(4)

パ、カラを中継点としてダウ船(アラブ・ペルシ ア系)とジャンク船(中国系)による新たな海 上ネットワークが築かれていった。新たなネット ワークが構築されたのはアッバース朝内部での 政治的混乱、10世紀後半の中継港シーラーフの地 震、ファーティマ朝の設立でカイロやフスタート を起点とする紅海航路を利用した地中海とインド 洋をつなぐ新たなネットワークができたためであ る。新たに進出したファーティマ朝は東地中海・ 紅海に護衛船を編成し、商船の安全航行をはかり、 港湾の整備、サハラ・キャラバンルートの安全の 確保をすることで商業・交易を盛んにしていった。 その後12世紀のエジプトではアイユーブ朝ができ、 インド洋周辺の交易が盛んになり、インドからイ タリアへの貿易を手がけ巨大な富を得た「胡椒と 香料の商人」と呼ばれるカーリミー商人の活動が 活発となった。このようにして、エジプトはイス ラームの世界経済の中心となっていった。  イスラームの世界経済の再編とアッバース朝の 権力の減退は、人の移住を促進した。富裕な商人 だけでなく織物職人、工芸細工師などの専門的技 術者たちは西方イスラーム地域に拡散していった。  また、イラン系の諸王朝、トルコ系の王朝でも 文化はペルシアにならうことが多かった。  イスラーム内での交易の変遷や文化の流れにつ いては。タペストリーp.18〜23を見て、生徒たち に確認をしてもらいたい。

建  築

 アッバース朝の権威が減退しイスラーム世界で 諸王朝が興亡すると文化の担い手は地方に拡散し、 その地方独特の様式を組み入れた。イランでは、 11世紀ごろから礼拝堂の上に高いドームが架けら れるようになり、回廊の中央にイーワーンと呼ば れる独特のアーチがかけられるようになった。装 飾でもムカルナスが見られるようになり、これは 中央アジアで12世紀半ばにはシリア・モロッコに も広がっていく。ミナレットも変化し、トルコ系 諸王朝が支配した地域では、高い円筒のものが多 く見られるようになった。また、権力者の記念碑・ 戦勝塔にはフリンジと呼ばれる縁飾りが見られる。

代表としてデリー= スルタン朝のアイバ クがつくったものが あげられる。中国で も泉州に清浄寺が創 建され(1310〜1401

年に大改修)、アーチ、ムカルナス、フリンジな ど建築学的価値が高い。イランで12世紀には入り 口の門の上に二基一対のものを建てるドゥ・ミナ ールが出現した。この形式はセルジューク朝でも 見られるが14世紀以降、爆発的にイラン・中央ア ジアで支持されるようになり、中央アジアでは対 の塔が建物の隅に作られた。

 建築文化では、技術や流行だけではどうしよう もない資材の供給、その土地の気候に影響されて いる面もある。後ウマイヤ朝では、材料の石材の 調達を手近なところですませるためコルドバの大 モスクはイスラーム以前に西ゴートが使用してい た太くて短い列柱を上下二本つなぎ合わせ、その 不安定さを解消するために中間にアーチを加えた。 また、モザイクをつくりあげるためビザンツ皇帝 に大使をおくり、16,000kgのモザイク片と職人を 調達した。ナスル朝のアルハンブラ宮殿では中庭 を囲む建築群をつくり、庭園建築として優れたも のが完成した。トルコのアナトリアでは冬は雪が 多く屋根のない中庭式の建物がそぐわなかったの で、屋根をかけ、中央空間だけは採光のために空 間を空け、その下に身を清めるための水場をつく った。インドでは気候が温暖なため開口部を広く 取り、ヒンドゥー寺院の柱では足りない部分を2 〜3本積み重ねて使用し、柱は梁を支え梁は平屋 根を支えた。インドではアーチやヴォールトは不 慣れだったため、伝統的な梁によって支えた。

学問・文学の発達

 10世紀前後は、政治的混迷はあったがイスラー ム文化の古典期の最盛期といってよい。後ウマイ ヤ朝(最大40万巻蔵)、ファーティマ朝(最大10 万巻蔵)では巨大な図書館がつくられた(トレド は11世紀にキリスト教国に征服され西欧への文化 伝搬の拠点となった)。文学ではサーマーン朝が

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できるとブハラを都とし、『ペルシア文芸復興』 を行い、ペルシア語によるイスラームとペルシア 伝統文化の融合を行った。「ブハラの華」「ペルシ ア詩人の父」のルーダキーが活躍し、フィドルシ ーが『シャー=ナーメ』(王書)をつくりあげた(サ ーマーン朝のためにつくったが10世紀末に同王朝 がほろんだためガズナ朝に奉じた)。オマル=ハイ ヤームが四行詩『ルバイヤート』、タバリーが初 の年代記として『諸預言者と諸王の歴史』、イブ ン=シーナーが『医学典範』を著した。マドラサ は10世紀のホラサーン地方で建設されはじめたと いわれているが、11世紀にはセルジューク朝の宰 相がスンナ派復興・ウラマー層の保護統制を目的 に各都市部にニザーミーヤ学院が創立された。の ちにスーフィーとなったガザーリーもニザーミー ヤ学院の教授であった。シーア派はファーティマ 朝でイスマーイール派が政権をにぎり、十二イマ ーム派は神学が体系づけられた。

 宗教の面で大きな変化があり、スーフィズムが 始まった。茗芽は9世紀の中頃だったが民衆化・ 組織化されるのは12世紀半ばになってからである。 12世紀にはカーディリー教団、13世紀にはメヴレ ヴィー教団が設立された。海上商業に携わる者 の支持を得たのが、10世紀末に始まったカーザル ーニー教団で14世紀までに西はアナトリアから紅 海・ペルシア湾、東はインド、中国まで広がった。 創始者のカーザルーニーは「船乗りの守護神」と して信仰され、教団は主要港にハーンカーを設置 してネットワークを形成していた。イブン=バット ゥータによれば、泉州での記録の中で「海上貿易 商人は願掛けの際に教団に献金を行っていた」と している。様々なスーフィー教団(タリーカ)は新 たなムスリム・ネットワークを構築し、非イスラ ームの地域にも活動範囲を広げ、イスラーム世界 の拡大とムスリム商人の商業活動の基盤となった。

工  芸

 陶器・金属器・ガラス器の発展が著しかった時 代で、エジプト・シリア・イランで発達をした。 文様ではアラベスクが使用されるようになり、東 西交易の影響から中国の磁器を模倣して胎土の変

化が見られた。12世紀にファーティマ朝が倒され た後、多くの陶工たちはイラン・メソポタミアに 戻り黄金に輝くラスター彩を洗練させた。その後 イランではミナイ彩画陶器も確立され、モンゴル 族が侵入してからも発展を続けた。

 

5.モンゴル帝国下のイスラーム文化   (おわりにかえて)

 モンゴル帝国の成立に伴って交易ネットワーク は盛んになった。海洋貿易ではインドの南西部の 海岸を中軸として、ダウ船とジャンク船が相互に 出会って行われた。インドでは、11世紀のチョー ラ朝からも出土、13〜14世紀の中国陶磁器の破片 が大量に見つかっている。陶磁器、銅銭、ガラス、 木材、香辛料、染料が多量に出回った。14世紀末 から港市が東南アジアに出現し、外来のムスリム を保護し登用することで経済的繁栄を得て、政治 的にも利用していった。イスラーム化がすすむな かでスーフィズムを利用し国王の権威を高めてい る国もあらわれた。ダイナミックな交易によりイ スラームと中国の文化が双方向で取り入れられ、 新たな文化や美術を生み出した。イスラームでは 中国絵画の技法が組み入れられたミニアチュール が、中国ではイランのコバルトを利用し染付の技 法が大成し、景徳鎮の銘品をつくりあげていった。  イル=ハン国をはじめ、この時代の文化はペル シアの影響を強く残し、それぞれが持つ地方の特 色を組み入れていった(たとえばモンゴル史を中 心とした『集史』がペルシア語で書かれた)。そ の後、文化はイラン・イスラーム文化、トルコ・ イスラーム文化、インド・イスラーム文化に分か れ発展していったがいずれもペルシアの高度な技 術を取り入れ、支配層の民族、土着の伝統技法を 受け入れながら発展していった。この授業を通じ、 イスラームという共通性を持ちながら拡大し融合 していった過程を概観できたと思う。

参照

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