3
バブル・デフレ期における日本の通商政策
伊藤元重 下井直毅
要 旨
本稿では,通商政策をバブル・デフレ現象との関係だけに注目するのでは なく,1980 年代後半以降の日本経済の大きな動きのなかで考察する.
さまざまな分野での国内のあらゆる制度や慣行を見直すという「内なる国際 化」と呼ばれる開放政策につながっていった.小泉内閣の下で,より広範な 分野で規制緩和や民営化が進められていったのである.
1
はじめに
本稿の目的は,80 年代なかごろから最近に至るまでの日本の通商政策の 流れを追うことである.この間に日本の通商政策がどのように変化したのか, その変化がバブル・デフレ期の日本国内の経済構造や経済問題の変化とどの ような関わりをもっているのか,通商政策の変化が日本経済にどのような影 響を及ぼしたのか,そして今後の通商政策はどうあるべきか,などについて 考察する.また,この間のグローバルな経済の動き,とりわけ中国をはじめ とする近隣諸国の動きも考察のなかに含めなくてはならないだろう.
通商政策の動きは,このプロジェクトのテーマである「バブル・デフレ」 とは直接的な関係はない.ただ,80 年代の内需へのシフトとそこでの通商 政策の果たした役割,90 年代のデフレ期の通商政策の停滞,市場開放のな かでの国内経済構造の変化など,「バブル・デフレの時代」の日本経済を理 解するうえで通商政策を抜きにして語ることはできない.また,デフレから 脱却後の日本経済のあるべき姿を考えるうえでも,対外政策はその 1 つの鍵 となるはずだ.この論文では,とくにバブル・デフレという現象との関係だ けに注目するのではなく,80 年代後半以降の日本経済の大きな動きのなか での通商政策について考察する.
Komiya and Itoh[1988]では,戦後直後から 80 年代初めに至るまでの日本 の通商政策について記述した.この論文の主たる目的は,戦後の日本の通商 政策の変遷について,経済や貿易の構造の変化との関連のなかで記述するこ とであった.今回は,この論文のスタイルを継承して,80 年代後半以降の 通商政策を記述したいと考えている.
対内直接投資政策,航空政策,流通業の規制緩和など,貿易や投資に大きな 影響を及ぼしうる国内制度の変更なども,通商政策の延長線上で議論に含め る必要がある.本稿では,こうした実物経済活動(つまり金融的側面を除い た国際経済取引)全般における日本の対外政策を可能な範囲で視野に入れる ことにしたい.
以下,本稿の対象となる時期は,便宜上,4 つに分けることができる(そ れぞれの時期区分は重複をもって扱われる).第 1 は 1980 年代後半から 90 年代前半までの時期であり,急速な円高のなかで日本政府が内需拡大を打ち 出し,日本の多くの企業が海外展開を進めていった時期である.1970 年代 以降日本を苦しめてきた米国などとの貿易摩擦も,まだ日本の通商政策の重 要な部分を占めていた.
1985 年から 95 年の間に,円ドルレートはおおよそ 3 倍の円高になった. この急速な円高へのシフトは,結果的に経済構造を内需へ向けることにもつ ながった.ただ,その間に行われたマクロ経済政策などがバブルの生成につ ながった.
第 2 の時期は 90 年代の前半から 90 年代後半までの時期である.この間, 国内的には日本経済はバブル崩壊後の経済低迷に苦しめられることになる. 対外的には GATT(関税と貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウン ドが終結し,世界貿易は WTO というより強い組織の下で新たな歩みを始 める.貿易摩擦問題は日本にとって大きな問題ではなくなっていったが,こ の時期の日本の通商政策の展開は鈍い動きしか見せなかった.
第 3 の時期は 90 年代後半のアジア通貨危機から 2000 年代のなかごろまで の時期である.アジア通貨危機がきっかけになり,アジアで経済協力や市場 統合の新しい動きが出てくる.日本政府も通商政策ではアジアシフトに動き 始め,多国間の枠組みである WTO だけを中心とした通商政策から EPA (経済連携協定)に積極的に踏み込む姿勢にシフトし始めた.現実の貿易や 国際投資の動きでも,日本にとっても東アジアの重要性が増してきている. とくに,この時期から中国の経済規模の拡大が著しく,日本の通商政策は中 国を抜きに語ることができなくなってきている.
くなかで,市場開放がその有効な手段として意識され始めた.内なる国際化 とでも呼ぶべき規制緩和や開放政策は,伝統的な通商政策を超えて,より広 い分野での開放を志向するものである.こうした動きが今後も進んでいくの かは不透明である.ただ,2008 年なかごろのリーマンショック以降の輸出 企業の不振のなかで,再び内需拡大策の重要性がクローズアップされたこと は興味深い.
2
内需拡大の下での通商政策
個別分野の摩擦からマクロ経済問題へ
80 年代後半の日本の通商政策は,内需拡大の下で展開していった.高度 経済成長を通じて先進工業国に脱皮していった日本は,70 年代以降,次々 にいろいろな産業の輸出で米国などと激しい貿易摩擦問題を起こしていった. カラー TV,工作機械,自動車など,輸出が急速に増えて貿易摩擦問題が起 き,それへの対応として輸出自主規制のような個別産業で対応する政策を 行ってきたのだ.
80 年代の前半,レーガン政権の下でのマクロ経済政策を反映した急速な 円高の下で日本の米国への輸出は増え続けた.図表 3 1 は日本の貿易収支の 推移を見たものである.日本の貿易収支全体のうち,斜線部が米国に対する 貿易収支額を示している.80 年代の前半から,日本の貿易黒字のなかに占 める米国の割合が非常に大きくなっていく様子がわかる.こうした展開のな かで,日米貿易摩擦の内容も個別分野での摩擦を超えて,マクロ経済全体の 問題へとシフトしていった.とりわけ,80 年代前半に膨れあがった米国の 貿易赤字と日本の貿易黒字が大きな問題となった.
16 300 250 200 150 100 50 0
(兆円) (円/ドル)
14 12 10 8 6 4 2 0 −2 −4 −6
1977 79 81 83 85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 為替相場(右軸) 貿易支給額(米国以外)
(年) 貿易収支額(うち米国)
図表 3 1 日本の対米貿易収支の推移(1977 2006 年)
注) 1.財務省「財政金融統計月報」により作成. 2.ここでは財の輸出入のみ.
10 0 −10 −20 −30 −40 −50 −60 −70 −80 300 250 200 150 100 50 0
(兆ドル) (円/ドル)
1977 79 81 83 85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 07(年) 為替相場(右軸)
貿易収支額(日本以外) 貿易支給額(うち日本)
図表 3 2 米国の貿易赤字の推移(1977 2007 年)
商交渉では「貿易黒字を生み出す日本の経済構造」が問題にされることにな る.これが後で詳しく述べる内需拡大政策と深くかかわってくるのだ.
経常収支黒字問題と内需拡大要請
経済摩擦の交渉の現場やマスコミなどの論議のなかでは,次のようなイ メージが定着していたのではないだろうか.すなわち,「日本がこれだけ巨 額の貿易黒字を出す背景には,これまでも論議となってきた日本のアグレッ シブな輸出圧力もあるが,同時に日本の市場が非常に閉鎖的であり海外から の輸入の大きな障害になっている」という見方である.80 年代前半には為 替レートがドル高・円安であったのでこうした見方はまだそれほど広がって いなかったかもしれないが,プラザ合意を転機に 80 年代後半に為替レート が急激に円高になったにもかかわらず欧米からの日本への輸出が思うように 伸びなかったという認識が強く,それがますます日本市場の閉鎖性というイ メージを非常に強くしたのであろう1).
アカデミックの世界でもこの時期に日本の閉鎖性を検証しようとする論文 が出てきた.Lawrence[1987]は,重力モデル(Gravity Model)を使って主 要国の貿易パターンを分析し,日本だけが突出して市場の閉鎖性が見られる ということを検証しようとした2).ただ,ローレンスの研究に対しては,た とえばヘクシャー = オリーン型の貿易モデル3)を使って同じ検証を行うと, 日本はとくに突出した市場閉鎖性が見られないとする Saxonhouse[1993]の 研究もあり,アカデミックの世界でとくに日本市場の閉鎖性が確立していた
1) 現実には,プラザ合意以降の為替レート調整と軌を一にして,90 年代の前半にかけて米国の 貿易赤字は急速に縮小していくことになる.これは図表 3 2 からも確認できる.1,500 億ドルを 超えていた米国の貿易赤字も 91 年では 300 億ドル近くにまで縮小している.
2) 貿易問題で扱う重力モデルとは,2 国間の結びつきがそれぞれの国の経済規模に比例し,2 国 間の距離に反比例するというものである.経済規模が大きく,両国間の距離が地理的に近ければ, そうした 2 国間相互では貿易量が大きくなる.実証分析ではよく用いられる.ローレンスのモデ ルでは,各国の貿易パターンを距離や GDP など重力モデルで使われる標準的な変数で説明して いるが,それに加えて日本の貿易については日本ダミーという変数を入れて,そのダミー変数の 係数が有意に日本の輸入を減らす方向に効いていることを示した.日本だけが特異であるという 分析である.
わけではない.
米国の貿易赤字の原因を日本に求める議論は基本的に的外れであったとし ても,日本が自ら内需拡大政策をとることで日本の過度な経常収支の黒字を 縮小していくことは,日本の利益にかなっているという見方は日本のなかで も強く見られた.その 1 つの典型的な動きが,前川レポート(国際協調のた めの経済構造調整研究会)である.1986 年にまとめられたこのレポートで は,内需拡大策の重要性が強調されている.
内需拡大策には,その後のいくつかの大きな政策トレンドの基礎をなすも のが含まれている.第 1 に,輸入を拡大することが日本の経済的利益にかな うという見方が広がっていったことだろう.経済学的な立場からいえばこれ は当然のことであるが,それまでの日本の政策運営のなかにはそうした見方 は非常に弱かった.輸出を拡大することは日本の利益になるという考え方は 強かったが,輸入についてはできるだけ保護政策を維持していたいという思 いが強かった4).もちろん,経済学者は輸入を拡大することで経済的に大き な利益が得られると主張してきたわけだが,そうした学者の議論は世の中に 十分浸透していたとはいえなかった.「輸出は外貨をもたらすし,日本企業 の競争力を強化することになるが,輸入は日本企業に脅威になる」というよ うな重商主義的な考え方をもっている人が産業界にも政策担当者の間にも多 かったのではないかと思われる.別の言い方をすれば,経済政策の基本は産 業振興ではなく,消費者重視,つまり消費者主権的な政策観がまだ十分に浸 透していなかったのだ.ただ,この時期から少しずつ消費者重視の政策観が 強く見られるようになってきた.後で触れる内外価格差問題,すなわち日本 の一般物価が諸外国に比べて著しく高くなっているという問題などは,そう した見方を広げるうえで重要な役割を果たすことになった.
第 2 に,上の点と関連して,規制緩和の重要性がより広く認識されるよう になってきたことである.規制緩和の動きはレーガン政権(1981 89 年)の 下での米国やサッチャー政権(1979 90 年)の下でのイギリスなどですでに
現実化しており,それが世界的に広がるなかで日本もそうした動きに影響さ れることになるが,日本の場合にはとくに,海外からの商品の参入障壁の問 題と結びつけて考えられることが少なくなかった.日米貿易摩擦の論議が日 本からの輸出の問題から日本への輸出や市場参入の問題にその重点を移すな かで,国境での貿易障壁だけでなく国内制度や慣行が国際的に問題にされる ことが多くなってきた.後で詳しく触れる日米構造協議における小売業の規 制の問題や半導体・自動車・カラーフィルムなどにおける日本の市場閉鎖性 に関する論議など,国際的な論議の対象となった問題が規制緩和の論議にか かわってくるのだ.
輸出抑制から輸入拡大
以上のような流れのなかで,日米貿易摩擦は日本から米国への輸出を抑制 するという対応から,日本市場への海外商品の参入を促すべきであるという 輸入拡大の論議にその焦点が移っていった.これまでの個別産業の貿易摩擦 では,輸出自主規制や現地生産などで対応していたのだが,制度的枠組みの 構築へと議論が展開されていくことになる.こうした動きには,85 年のプ ラザ合意以降の円高への移行によって,外貨で評価した日本市場の規模が急 速に拡大し,海外の企業から見ても日本市場が魅力的に映ってきたという背 景もある.
すでに述べたように,規制緩和や市場開放によって日本への輸入が拡大す ることは,日本の消費者にとっても歓迎すべきことである.実際,この時期 の規制緩和が日本の経済構造を大きく変えていき,これが消費者利益の拡大 につながった.ただ,個別の通商政策の手法を見ると市場原理を重視すべき という本来のあるべき姿からはかけ離れた介入的な輸入拡大政策がとられる ケースも少なくなかった.その典型的なケースが半導体産業であり,その手 法は自動車やカラーフィルムなどにも受け継がれようとした.以下では,そ の象徴的な事例として半導体のケースについて触れておきたい.
半導体摩擦は,それ以前のカラーテレビ,鉄鋼,自動車などの分野の貿易摩 擦とその性格を大きく異にする.議論の中心が日本国内の市場の構造と政府 の行っていた産業政策となったからだ.米国半導体産業組合(SIA:Semi-conductor Industry Association)のレポートが米国の主張の性格を明確に 語っている5).SIA レポートによると,日本の半導体産業には 2 つの大きな 問題があり,この 2 つの点によって米国の半導体産業は不利な競争を強いら れているというのだ6).その 2 つの点とは次のようなものである.
⑴ 日本政府は半導体研究開発組合などを通じて日本企業に対して不当な 支援を与え,米国の企業は不利な競争を強いられている.
⑵ 日本市場では電気電子産業が垂直統合的になっており,半導体製造業 者が同時に大口ユーザーでもある.また垂直統合になっていない企業で も,「系列」と考えられるような日本企業間の緊密な関係があるので, 5) 詳しくは,Wolff [1985]を参照.
6) 米国企業が不利な競争を強いられているだけでなく,こうした不当な政策的介入や市場慣行に よって,日本や米国のユーザーも不利な環境を与えられているという議論もある.Baldwin and Krugman[1988]は単純なシミュレーションモデルを使って,もし日本の閉鎖的な市場環境や政 府の不当な介入がなければ,米国企業はより速いスピードで経験曲線に沿って費用を下げていく ことができ,その結果,米国のメーカーやユーザーだけでなく,日本のユーザーもより安い半導 体を購入することができたであろう,という結果を出している.
70
60
50
40
30
20
10
0 (%)
1980 82 84 86 88 90 92 94 96 98 2000 02 04 06 08(年) 米州
日本 アジア大洋州欧州 図表 3 3 世界の半導体市場の地域別出荷額割合の推移(1980 2008 年)
米国の半導体企業はなかなか日本市場に参入するのが難しい.一方の米 国市場では,半導体メーカーとユーザーは通常の市場取引の関係にある ので,日本の半導体メーカーが米国市場で販売を拡大することは可能だ. 2 つの市場の特性の違いの結果,米国企業は不利な競争を強いられている. この 2 つの論点が半導体市場の場合に正しかったのかどうかについて,当 時,激しい論争が繰り広げられた.ここでその論点を取り上げるスペースは ないが,政府による不当な介入,英語で という用語で呼ばれる外 からの参入が難しいということ,の 2 つの論点は,その後,さまざまな分野 での日米貿易摩擦で取り上げられることになった.自動車市場,カラーフィ ルム,小売り流通市場,保険市場など,次々に日本市場の閉鎖性や日本政府 の不当な規制や介入がやり玉に挙がった.たとえば,カラーフィルムに関し ては,米国は後で詳しく述べるような排他的な取引慣行が存在するほか,不 当な規制として大店法や景品表示法があると主張した.大店法がなくなり, 大きな店舗ができれば輸入品をより積極的に扱うだろうと主張したり,過剰 な景品や誤認を招く表示を規制する景品表示法は,それらのみならず,販売 促進を抑制したりしていると主張した.こうした政府の不当な介入によって, 自由化対抗措置がとられていると主張したわけである.このあと,90 年代 後半から医療・航空貨物・金融・通信などの幅広いサービス分野の規制緩和 の協議に重点が移っていく.また,解決についても後で詳しく述べるが,反 ダンピング法や制裁を前提としたスーパー 301 条の行使といった一方的な措 置や 2 国間協議から WTO 提訴へと解決方法も変化していったことが特徴 的である.
ここで半導体のケースに話を戻そう.半導体の協議は,80 年代後半から 90 年代前半にかけて見られた,2 国間協議の典型的な形をとった.すなわち, 米国の企業やその意向を受けた業界団体が米国政府に圧力をかけ,米国政府 はその問題を日本との 2 国間協議で解決しようとしたのだ.日本側にとって は,米国との 2 国間協議で報復の脅しをかけられた交渉を行えば,結果的に は非常に歪んだ対応をとらざるをえなかった.
ex-pansion)と呼ばれるものである.米国の当事者は,日本市場にはさまざま な輸入障壁があり,それが資源配分の最適性を阻害しているので,無理矢理 にも日本市場における外国製品のシェアを引き上げることは資源配分上望ま しいという見方をしばしば提起した.ただ,経済学的にはこの議論にはいく つか怪しい点がある.
第 1 に,障壁の存在がはっきりしないなかで,公的な介入で無理矢理に輸 入を拡大しようとすることが資源配分上好ましいとは考えられない.かりに 障壁の存在が資源配分をゆがめているとするならば,その障壁を撤廃するよ うな政策を行うべきであり,貿易に介入するような「結果主義」の姿勢をと るのは好ましくない.
第 2 に,米国側の主張は,日本市場において外国製半導体シェアの一定割 合を確保するようにという建前をとっていたが,現実には米国製の半導体の シェアを確保するという暗黙の了解をとろうとしたように思われる.そもそ も,交渉が日米の 2 国間で行われた事実そのものに米国の姿勢が表れてい る8).
第 3 に,Itoh and Nagaoka[1997]などでも明らかにされているように,寡 占的市場において輸入の一定割合を外国の企業が確保するような取り決めが なされることは,市場価格を必要以上に引き上げるカルテル的な効果をもつ ことになる.輸出自主規制については,このカルテル効果の存在はよく知ら れていたが9),輸入自主拡大も同様の効果をもっているのだ.輸入を拡大さ
7) 日本政府は半導体交渉の際に,「日本国内における外国製半導体のシェアを 20%以上にする」 というサイドレターを米国側と交わしたとされるが,この点について通産省(現在の経済産業 省)の交渉担当者はこのサイドレターの存在を否定している.サイドレターについては個人的書 簡であり,公式の政府間協定ではなく,法的拘束力はもたないという立場に立っている.サイド レターの存在の否定に関する文献としては,Prestowitz[1988],pp. 65 67(邦訳では國弘[1988], p. 96)や黒田[1989],pp. 68 70 がある.また,大矢根[2002]は,いくつかの非公式文書や内部 文書を入手したり,政府・産業関係者にインタービューを行うなどして資料の分析をしている. 8) 半導体協定が結ばれてから後は,米国と日本の業界の主たる企業が集まり,協定の約束が実現
せるということが重要ではなく,外国企業に一定のシェアを確保させようと する数量的な政策関与がこうした歪みを起こすのである.
半導体摩擦のケースでは,資源配分をゆがめる形になったが,この時期に 行われた日米間の協議のなかには,結果的に資源配分をより好ましい形にす る効果を強くもつものもあった.その代表的な事例が 1989 年から 90 年にか けて行われた日米構造協議のなかで取り上げられた流通市場の規制緩和であ る.輸入数量拡大という量的目標ではなく,規制そのものを是正するという 手法がよかった.この流通の規制緩和については,後で述べる 80 年代後半 の内需への産業構造のシフトを考えるうえでも重要な意味をもっている.
実質為替レートの変化と内需拡大
1985 年のプラザ合意は日本の貿易構造や産業構造を変える大きな転機と なった.図表 3 4 は 75 年 1 月以降の円の実質実効為替レートの動きを示し たものである.80 年台後半以降の円高への変化のスピードが非常に速いこ とがわかる.なお,この原稿を書いている 2008 年の時点の実質実効為替 レートもこの 80 年代なかごろの円高突入前の円安時代の状態と類似してい て,いろいろな意味で現在の日本の状況が 80 年代なかごろと比較されるこ
180
160
140
120
100
80
60
1973年3月=100(指数)
1975 77 79 81 83 85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 07 09(年) 円高
円安
図表 3 4 実質実効為替レートの推移(1975 年 1 月 2009 年 2 月)
とがある.この点については後で詳しく述べることにしたい.
実質実効為替レートが円高にシフトするということは,日本国内において 国内財と貿易財の相対価格が高くなっていくことでもある.資源配分という 観点から見れば,貿易関連産業から国内財産業へのシフトが起こることを意 味する.具体的には,輸出産業における国内生産・輸出から海外生産へのシ フト,輸入産業における輸入浸透率の上昇(国内需要に占める輸入比率の上 昇),安価になった海外の工業製品の輸入の増加にともなう製品輸入比率の 上昇などの動きが見られる.図表 3 5 は製品輸入比率の推移を見たグラフで ある.製品輸入比率は,輸入総額に対する製品輸入額の割合でとっている. この図表から,1983 年では 28.2%だったものが,89 年には 50.3%にまで上 昇するなど,80 年代後半から円高にシフトした動きに合わせて製品輸入比 率が上昇している様子がわかる.
85 年からの円高で,国内の産業は円高不況を声高に唱えた.政府もそう した円高不況に対応するための政策支援を考えた.この時期のマクロ政策の 動きはこのプロジェクトの他の論文のなかで明かされることになるが,円高 不況への懸念から行われたマクロ経済政策が 80 年代末に向けての資産バブ ルの重要な原因となったという見方は根強くある.
通商政策を分析するこの論文のなかで検討すべき点は,この間の実質実効 為替レートの変化のなかで,産業構造が内需関連産業に大きくシフトしたの ではないかという点である.図表 3 6 は内需関連業種と輸出関連業種の雇用 者数の推移を見たものである10).この図表を見ると,80 年代半ばから後半 にかけての実質実効為替レートの急激な円高の動きに合わせて,輸出関連業 種の雇用者数が相対的に大きく低下している.また,90 年代後半にかけて 実質実効為替レートが円高方向にシフトする動きに合わせるように,輸出関 連業種の雇用者数が低下傾向を示している様子がわかる.さらに,同図表で は製造業と非製造業の雇用者数の伸び率の推移も示している11).この図表 から,80 年代の半ばから後半の 87 年にかけて,非製造業と製造業の雇用者
10) ここでは輸出関連業種は,金属機械工業(鉄鋼業,非鉄金属製造業,金属製品製造業,一般 機械・精密機械・武器製造業,電気機械器具製造業,輸送用機械器具製造業)としている.また, 内需関連業種は輸出関連業種以外の産業としている.
70 60 50 40 30 20 10 0 (%) 1983 28.2 30.3 31.5 44.1 45.6
49.7 50.3 49.851.8 50.1
53.0 59.9
58.9
60.262.7 61.6 61.6 61.1 62.3 60.9 57.5 57.3 54.8 61.4 55.8
85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 07(年)
図表 3 5 製品輸入比率の推移(1983 2007 年)
注) 1.内閣府政策統括官室「日本経済 2008 2009」(2008 年)により作成. 2.製品輸入比率は,製品輸入額の輸入総額に対する比率としている. 3.原資料は財務省「貿易統計」による.
6.0 4.0 2.0 0.0 −2.0 −4.0 −6.0 (%)
1981 83 85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 07(年) 輸出関連業種
製造業 内需関連業種
非製造業(建設を含む)
図表 3 6 内需・輸出関連業種と製造業・非製造業の雇用者数の
伸び率の推移(1981 2007 年)
注) 1.総務省「労働力調査」により作成.
2.輸出関連業種は,金属機械工業(鉄鋼業,非鉄金属製造業,金属製品製造業,一般機械・ 精密機械・武器製造業,電気機械器具製造業,輸送用機械器具製造業).また,内需関連業種 は輸出関連業種以外の産業.
の伸びに大きな違いを見ることができる.円高が一気に進んだこの時期,非 製造業の雇用者数は伸びたものの,製造業は大きく低下している.また,90 年代のさらなる円高でも雇用者の伸び率は大きく低下した様子がわかる.85 年のプラザ合意後,円高不況が懸念されたにもかかわらず,現実には不動産 や流通などの内需産業が非常に好調であったことが,不動産バブルの動きと 軌を一にするようである(後で取り上げるダイエーの事例参照).マクロ経 済的には実質実効為替レートが高くなる(円高になる)ことは,需要サイド からは景気後退要因である.円高不況を懸念した産業界もそうした見方をし ていたといってよいだろう.また,現実的にも,輸出企業や海外からの輸入 との競争にさらされている企業は,円高によって厳しい状況にさらされる. ただ,円高によって,日本の交易条件が改善するという景気浮揚効果もあ ることを忘れてはならない.後で触れるように,円高のなかで海外の商品が 安価で大量に日本に入ってきたことは,日本の経済を活性化するうえで重要 な役割を果たした.円高がどれだけ景気へのマイナスの効果をもったもの だったのか検証することはこの論文の目的ではないが,この時期のマクロ経 済の動きを見るうえでは重要な論点である12).
すでに述べたように,為替レートが円高にシフトしていく時期と,政策目 標としての内需拡大政策や輸入拡大政策がいわれた時期が一致することに注 目すべきである.為替レートの円高へのシフトという市場の力と,規制緩和 や輸入拡大政策という政策の力が合体して,結果的に日本の貿易構造や産業 構造が大きく変化することになる.
事例考察――ダイエーなどに見られるビジネスモデルと不動産バブル
すでに述べたように,プラザ合意を契機にした円高への移行は,日本国内 の産業構造を貿易関連産業から内需関連産業へシフトさせる大きなきっかけ となった.通商政策との関連でとくに興味深いのは,流通業の変化である. 日本の流通はもともと,大規模小売店舗法をはじめとしたさまざまな規制が
かかっており,大型小売店や新規業態のチェーン型店舗が規模を拡大するこ とが難しかった.
円高による海外からの安価な製品の流入と,日米構造協議などを受けての 規制緩和は,大型小売業が飛躍する大きなチャンスを提供した.しかし,こ の時期以降に大きな投資を行った大型小売店のいくつかは,バブル崩壊後, 金融機関の巨額の不良債権の一角となった.ダイエー,そごう,マイカル, セゾングループ(西武百貨店など)などが,不良債権問題でしばしば話題に なったが,地方においても地方百貨店などで経営が立ちゆかなくなった所は 少なくない.不動産,ゼネコンと並んで不良債権御三家と呼ばれる小売業で あったが,不動産と深くかかわったそのビジネスモデルはバブル形成とその 後の崩壊で破綻を来した典型的なケースであった.
この業界でもとくに話題になることが多かったダイエーを例に,この点に ついてもう少し詳しく述べてみたい.戦後,関西の小さな薬局から出発した ダイエーであるが,1972 年には三越百貨店を抜いて日本一の売上げとなっ た.その後は急拡大を続け,80 年代半ば以降の円高のときに大きな問題と なった「内外価格差」問題13)にビジネスの課題として正面から取り組み, 「価格破壊」の名の下に急激な成長を続けてきた.ダイエーにとって価格破 壊という行為は,創業時に薬や家電製品などでメーカーの設定した価格を 破った大幅な安売りを行ったとき以来の会社の基本方針ともいえるものであ るが,80 年代後半の急速な円高の動きによって,安価になった海外製品を 積極的に取りこむチャンスでもあった.
安売り行為そのものはバブル形成や崩壊とは何ら関係はないが,ダイエー の場合には,この安売りビジネスが安易な規模拡大と深くかかわっていたの だ.ダイエーに限らず,そごうやマイカルなど,戦後急速に成長した小売店 に共通するのは,負債を有効に活用しながら店舗を急速に拡大していくとい う手法であった.
外部資金を確保しながらそれで不動産投資を行っていく.そこに店舗を設 けるわけだが,そこで重要なのは投資の採算性や小売業としての利益率より
は,売上げを伸ばしていくことであった.人が多く集まるという特性をもっ た小売業の場合には,大きな店をもつほど,そしてより多くの顧客が集まる ほど,店舗立地の価値が高くなるのだ.本業の小売業で十分な利益を上げる ことがなくても,店舗の不動産価値が高くなれば,それを担保にしてさらに 外から大きな資金を調達することができる.その資金でさらに店を拡張する という,拡大ゲームが繰り返されていったのだ.
ダイエーの場合には,「価格破壊」という安売り行為を行うことで,より 多くの売上げを上げることに注力した.そのような価格破壊行為が利潤を上 げることにつながらなくても,売上げが上がることには貢献する.ダイエー の比較の対象とされることの多かったイトーヨーカ堂が借地にこだわり,売 上げよりは利益追求型であったのと違い,ダイエーは不動産を購入してバラ ンスシートのなかに取りこみ,利益よりは売上げを重視する姿勢をとったの だ.こうしたビジネスの手法の違いが,結果的には,イトーヨーカ堂に比べ てダイエーの方がはるかに速いスピードで企業規模を拡大する結果につな がった.
もっとも,バブル崩壊で経営が厳しくなった他の多くの企業と同じように, ダイエーのこのような規模追求型で重いバランスシートの経営は,バブル崩 壊で破綻していくことになる.巨額の負債を抱えた一方で株価や不動産価格 が大幅に減少すれば,ダイエーの拡大型の経営はなりたたなくなる.もとも と,小売業として高い利益率を上げるような経営スタイルをとってこなかっ たので,巨大な資産も所詮は利益をあまり生まない存在であったのだ.
3
バブル崩壊と対外政策の低迷
ウルグアイ・ラウンドの合意と日本
1993 年,交渉が長引いた GATT のウルグアイ・ラウンドはようやく合意 に達することができた14).後で述べるように,ウルグアイ・ラウンドは日 本の対外経済関係に大きな影響を及ぼす重要な契機になったが,日本自身は この交渉に大きな影響を及ぼす立場にはなかった.
ウルグアイ・ラウンドにおける包括交渉は,それ以前の GATT のラウン ドに比べて,非常に意欲的なものであった.農業分野における本格的な交渉 が行われたこと,サービス貿易や知的財産権などの分野が交渉に加えられた こと,ブラジルやインドなどの途上国が交渉のなかで重要な役割を果たした ことなどがあった15).
また,交渉がなかなか合意に達することができないなかで,米国がカナ ダ・メキシコと NAFTA(北米自由貿易協定)を結んだこともその後の世 界の通商政策の展開を象徴する動きであった.GATT の条文のなかでは, 自由貿易協定は 24 条のなかで例外的な規定として設けられていたが, GATT(その後の WTO〔世界貿易機関〕)の場での多国間の枠組みと並行 して,自由貿易協定のような地域的な枠組みが共存することになったの だ16).
農業分野で手厚い保護政策を行っていた日本は,GATT の交渉において 重要な役割を演ずることはなかった.農業分野では農業のもつ多面的機能を 前面に出し,工業分野とは違った取り扱いが必要であると訴えたが,交渉の なかで大きな影響力をもつことはできなかった.日本国内では農業関係者を 中心に農業保護の存続を強く求めたが,農業関係者以外で日本の農業の保護 存続を強くサポートする者がいるという状況ではなかった.農業関係者以外 は,自由化に積極的でもなく,かといって農業保護を強く求めるものでもな かった.そうしたなかで,農業関係者に押されて GATT の交渉の場で農業 保護の存続を求めても,所詮は一部の強力な利害関係者に支えられた交渉姿 勢であり,交渉の流れを大きく変える力とはなりえなかった17).
ウルグアイ・ラウンドで見せた通商交渉における日本の消極的な姿勢は今
15) この交渉では,ブラジルやインドなどの途上国と先進国との間で,いくつかの対立が見られ た.サービス貿易の自由化や知的所有権における規範の確立をはかりたい先進国とそれらに消極 的な途上国との間で対立が生じ,交渉は困難なものとなった.
16) GATT24 条では,ある一定の条件のもとで自由貿易協定の締結を認めている.その条件とは, ⑴協定を結んでいない国や地域に対する貿易障壁は,締結以前よりも引き上げないこと,⑵締結 国・地域内では,関税などの貿易障壁は実質上すべて廃止することである.
回のドーハ・ラウンドでも大きく変わることはない.WTO の交渉はそれが 合意に行き着けば,日本の貿易や産業構造にも大きな影響を及ぼすものであ る.本来であれば,日本は国全体の利益を基礎にした戦略的な交渉を行うべ きであるが,農業保護にとらわれて消極的な交渉姿勢に終始せざるをえない. WTO の下での工業製品などの自由化の恩恵は受けるが,農業保護は簡単に は手放すことができない.ただ,WTO で決まったことについては,いやい やそれを受け入れて国内を説得するという姿勢である.
ウルグアイ・ラウンドの合意は日本の通商政策に大きな影響を及ぼしてい る.とくに重要であるのは,1995 年に GATT が WTO に組織変更が行われ, その機能強化がはかられたことである.この点については,後で事例をあげ ながら説明したい.機能が高まった背景には,紛争解決手続きの一部でネガ ティブコンセンサス方式が導入されたことがあげられる.これは,全加盟国 が異議を唱えない限り,決定案が採用される(反対というコンセンサス(合 意)がなければ決定される)というもので,これによっていくつかの手続き が自動的に進行するようになった.
農業交渉の行方も日本に大きな影響を及ぼした.とりわけ,「一粒たりと も米を入れない」という姿勢を貫いていた日本が,米の輸入のミニマムアク セスを受け入れたことである.ミニマムアクセスといっても,国内消費量の 4 8%という非常に低い割合である18).ただ,輸入ゼロという状況から海外 米の輸入のチャネルをつけたことは重要なステップであった.最初はミニマ ムアクセスという形で数量割当による輸入の解禁を行ったが,その後関税に シフトした.関税率は 778%という輸入禁止的な非常に高いものであるが, 将来,WTO の交渉によって最高税率が引き下げられるような動きが続けば, 米の輸入や国内価格が大きな影響を受けることも考えられる.
通商政策で重要なのは,国境での輸入障壁などを緩和することだけではな く,それを受けて国内の産業調整を促進することである.農業の場合でいえ ば,ウルグアイ・ラウンド交渉で自由化を進めていけば,国内の農業もより
競争力のある形にシフトしていくことが求められる.農地の集約化を進め, ばらまき的に兼業農家も含むすべての農家に支援をするのではなく,将来の 日本の農業を担うような競争力のある農業者を育成することに資金を使い, そして農業の構造調整の障害となる規制や管理を是正すべきであった.
残念ながら,ウルグアイ・ラウンド後,巨額のウルグアイ・ラウンド対策 費をかけたにもかかわらず,米をはじめとする農業の国際競争力を高めるこ とはできなかった.ウルグアイ・ラウンド対策費として使われた財政資金が, 農道空港に象徴されるような農業の生産性を高めることに大きく貢献しない ような分野に利用されたという指摘は多い.また,その後の米農家の状況を 見ても,あいかわらず減反政策という後ろ向きの政策が行われており,他方 で耕作放棄地が急速に拡大している.その背景には農家の高齢化の問題があ るが,そうした高齢化にもかかわらず農地の集約化はいっこうに進んでいな い.
弱体化する日本経済と通商摩擦問題の変質
1980 年代の後半から 1990 年代はじめにかけて,日米貿易摩擦は日本市場 へのアクセス問題を中心に展開していった.日米半導体交渉や日米構造協議 についてはすでに触れたが,この他にも,自動車,保険,カラーフィルムな どさまざまな分野で米国は日本に対して対応を迫った.象徴的な出来事とし ては,1992 年の正月明けにブッシュ大統領の訪日があり,そこに米国自動 車産業のビッグ 3 のトップがついてきたことだ.正月早々から日本市場への アクセスについての日本側の具体的なアクションについて,日米の自動車 メーカーのトップの間の話し合いがもたれたのだ.
ただ,こうした 2 国間交渉を通じた政策的な圧力は,WTO の成立を契機 に大きく変化していった.その象徴的なケースがカラーフィルム分野におけ る日米間の交渉である.米国のコダック社は,日本の流通市場が閉鎖的であ ることがコダック社の日本市場への参入を不利にしているという主張を盾に, 日本市場の改革を迫った.
半導体交渉において米国半導体協会が出した日本市場のレポートが重要な 役割を果たしたように,コダック社も日本市場が富士フイルムによって不当 に閉鎖的になっていると主張をした20).これに対して,富士フイルムは 「歴史の改ざん」というレポートを準備し,正面から論戦に挑んだ.ただ, もしここでも,半導体や自動車と同じように日米間で 2 国間協議が行われた なら,米国の交渉力を背景に富士フイルムに不利で,市場介入的な対応が押 しつけられたかもしれない.
しかし,この時期には WTO が成立しており,紛争処理の仕組みが成立 していた.日本政府は,カラーフィルムの問題で不満があるなら,2 国間協 議で対応するのではなく,WTO の場での裁定を求める主張を繰り返した. 通商摩擦問題を 2 国間協議に委ねるのか,それとも WTO のようなマルチ の場での裁定に委ねるのかには,大きな違いがある.
第 1 に,2 国間協議では当事者の間の交渉になるが,WTO の場であれば, より客観的に第三者が判断することになる.2 国間の力関係や当事者の介入 を排除し,純粋に通商ルールや通念を下に判断されるということは重要であ る.
第 2 に,かりに日本側に問題があるという裁定が下ったとしても,それに 対する対応は制度の変化(規制緩和や市場開放など)であるので,一般的に は消費者の利益など,日本の利益となることが少なくない.2 国間の交渉で
19) 女性や非白人が差別されてきたことを解消するため,一時的にせよこうした人たちに有利な 扱いをすることで差別の早期解消を狙おうとするのがアファーマティブ・アクションであるとす れば,同じように,日本市場から排除されてきた米国製品の非正常な状態を早期に解消するため, 非市場的な乱暴な手法をとっても米国製品に有利な対応をとらせようとする考え方だ.保険の分 野でも,新規分野である第 3 分野保険(第 1 分野(生命保険)や第 2 分野(損害保険)に属さな い保険で,がん保険や傷害保険などがある)については当初は日本の保険会社には認めないとい う逆差別をすることで,米国の保険業の日本市場への参入を実現しようとした.
対応が迫られる場合には,対応が米国企業の利益を中心に行われることが少 なくないので,半導体交渉で見られたように市場介入的な対応になることが 少なくない.
第 3 に,かりに日本に不利な判定が出たとしても,それが貿易相手国から の圧力ではなく,国際機関における裁定の結果であるということで,日本国 内の理解を得やすい.裁定を受けて国内でしかるべく対応を行うことがやり やすくなるのだ21).
カラーフィルムのケースでは,日本側の主張が全面的に受け入れられる結 果になった.1995 年 5 月にイーストマン・コダック社が米国の通商代表部 に提訴してから始まったカラーフィルムの日米貿易摩擦は,WTO の裁定 (1998 年 1 月に最終報告書)をもって終結することになる.
このカラーフィルムの件以降,日米貿易摩擦では目立った案件はほとんど ない.その背景にはいくつかの要因が考えられる.すでに触れた WTO の 成立とその枠組みのなかでの紛争処理の仕組みの強化は重要な要因であろ う22).バブル崩壊後の日本経済の低迷も,通商摩擦の退潮の 1 つの理由で あろう.80 年代に米国などで盛り上がった日本脅威論は 90 年代には影を潜 めてしまった.そして,もう 1 つ,日本をのぞく東アジア諸国の貿易国とし ての台頭という要因をあげておく必要があるだろう.日本にとっても,米国 との貿易からアジア諸国との貿易へのシフトが続いており,また,米国から 見ても,東南アジア諸国や中国など,新たな貿易相手国としての重要性が増 している.2000 年以降,米国と中国の間で繰り返されているさまざまな分 野における通商摩擦問題は,80 年代以降の日米の貿易摩擦問題のリプレイ を見ているようである.
21) WTO への提訴によって日本が負けた裁定として,焼酎への税の優遇の事例がある.欧州諸 国は,同じ蒸留酒である焼酎をウィスキーやブランデーと比べると,焼酎の酒税だけ低いのは欧 州からの輸出を差別するものであると主張していた.しかし,2 国間の交渉を続けていても,こ の状況への対応が行われることはなかった.焼酎を保護することには,国内的にも強い政治的な 圧力が働いたのだ.WTO の紛争処理の制度が確立したのを受けて,1995 年に EU,米国,カナ ダはこの件を WTO にもち込み,日本に不利な裁定が下った.しかし,これが WTO の裁定であ るということで,日本側も国内的な政治から比較的自由に,税率の修正をすることができた. 22) 実際,WTO 成立後,大量の案件がパネルにもち込まれている.2 国間の紛争が,2 国間の交
アジアシフトが進む日本の貿易・投資
1997 年,タイから始まりアジア全域を襲ったアジア通貨危機は,日本の 対外通商政策を大きく変える転機となった.アジアに対する関心や重要性の 認識が高まり,日本の通商政策のアジアシフトが始まったのだ.このころに は日米の貿易摩擦問題も沈静化していたこと,そして WTO の下での多国 間交渉の狭間にあったことも,日本の通商政策の転換の背景にある.
筆者は 1999 年に当時の小渕内閣が派遣したいわゆる奥田ミッションに参 加し,その政策提言の作成に加わった23).通貨危機後のアジアの主要国を 回って,日本とこれらの国がどのような形で連携できるか検討することがそ の主たる目的であった.
奥田ミッションが出した提言の中身を見ると,その後の日本のアジアの通 商政策の方向を示唆しているようで興味深い.提言のなかには次のような項 目が含まれている.
・アジア諸国と FTA(自由貿易協定)を締結していく.
・韓国の金浦空港と東京の羽田空港の間にシャトル便を創設する. ・アジアの通貨安定や金融協力の枠組みを強化する.
・アジア諸国との人材交流を拡大していく.
このリストを現在の時点から振り返ってみると驚くものではない.しかし, 1990 年代の前半までの日本の経済外交の姿を振り返ってみると,奥田ミッ ションの例に見られるような大きな政策的な転換がアジア通貨危機を経て起 きたのだ.
現実の貿易や投資の動きは,こうした政策的な動きよりも先行して動いて いた.日本の貿易や投資が欧米中心からアジアに大きくシフトしていたのだ. 図表 3 7 は日本と海外の主要地域との貿易総額(輸出入総額)の推移を見た ものである.1990 年代半ばころから日本と東アジア(ASEAN 6 カ国+中 国・韓国)との貿易額は日米の貿易額を超えて推移している.1997 年の通 貨危機の影響で,98 年は一時的に貿易額が落ち込んだものの,2000 年に
入ってからは主に中国への輸出が増えたこともあって,東アジアとの貿易額 が大きく伸びている.
1985 年のプラザ合意以降,円レートは急速に円高にシフトしていった. 円ドルレートで見ると,85 年にはおおよそ 1 ドル=250 円であったものが, 10 年後の 1995 年には 80 円を切るような水準まで上昇した.10 年で 3 倍の 円高になるような激しい動きであった.
こうした動きもあって,日本企業の海外での生産は拡大していった.最初 は貿易摩擦への対応から欧米への直接投資が多かったが,1990 年代に入っ て東南アジア諸国の産業が発展していくなかで,東南アジアへの投資が急拡 大していった.
1997 年に起きたアジア通貨危機は,90 年代前半にアジア諸国が過剰に資 金を受け入れすぎた結果ともいえる.ただ,そうした流れのなかで,日本の 企業が多く東南アジア諸国に進出するとともに,日本とアジア諸国との間の 分業関係もより緊密になっていたのだ.日本とアジア諸国との貿易量の拡大 は,こうした変化を反映したものであった.
60
50
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30
20
10
0 (兆円)
160
140
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40
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0 (兆円)
1980 82 84 86 88 90 92 94 96 98 2000 02 04 06(年) EU(左軸)
日本の貿易総額(右軸) 米国(左軸)
ASEAN(6カ国)+中・韓(左軸)
図表 3 7 日本の地域別貿易総額の推移(1980 2006 年)
注) 1.総務省統計局の「日本の長期統計系列」より作成.
2.ここでの ASEAN 6 カ国とは,インドネシア,シンガポール,タイ,フィリピン,ベト ナム,マレーシアである.
日本の東アジア諸国との経済連携の取り組みは欧州や北米にくらべて大き く遅れていた.2000 年の時点で世界の主要国(GDP で大きい方から 30 カ 国)のなかでいかなる自由貿易協定にも参加していなかったのは,日本・中 国・韓国・台湾だけであった.これらの国々・地域はすべて北東アジアに集 中していた.ASEAN(東南アジア諸国連合)の国々は AFTA(ASEAN 自 由貿易地域)の枠組みをいち早く打ち出し,域内の自由貿易の枠組みに取り 組んでいたものの,全般的にアジア地域の地域連携協定の動きは遅かった. 日本が自由貿易協定に積極的にならなかった背景には,日本が GATT= WTO を中心とした多国間の貿易枠組みに強くコミットしていたことと深く かかわっている.政府のなかでも日本が FTA に向かうことに慎重な立場の 人たちの影響力が非常に強かったのだ24).
経済学的には,FTA にはいろいろな問題がある.とくに,特定の国との 間でのみ貿易自由化を行うことによる貿易の歪みの問題が重要だ.貿易転換 効果やスパゲティボウル効果として知られている問題である25).こうした 問題点もあって 1980 年代のなかごろまでは欧州を除いて目立った形での FTA は存在しなかった.しかし,NAFTA(北米自由貿易協定)が成立し た 1990 年前後から世界の多くの地域で自由貿易協定などの地域連携協定が 次々に成立していった.
自由貿易協定の数が急速に増えていった背景にはいくつかの理由がある. 1 つには,GATT の下での通商交渉がなかなか進展しないなかで,各国が
24) あるシンポジウムで当時のある外務省の高官が次のように言っていた.「GATT のルールの 下で FTA を成立させるためには,GATT 24 条がクリアされているかどうかが問題となる.す なわち,ほとんどの財に関して FTA の相手との関税を撤廃するという条件だ.これまで日本は GATT のルールを守るという立場から,諸外国の FTA について 24 条の立場からいろいろ文句 や注文をつけてきた.その日本が自ら FTA を行おうにも,農業などの自由化への抵抗が強いな かでは,GATT 24 条の視点からは非常に中途半端なものしか作れないだろう.そうした FTA で海外から批判されるのは耐えられない」.
それ以外の方向で貿易自由化を進める方策を探っていたということがあるだ ろう.また,より多くの国が自由貿易協定を結ぶようになれば,自分だけそ うした流れの外に身を置くことが難しくなるという事情もあるだろう. FTA の流れが,ある時期から世界の貿易のなかでのゲームのルールになっ ていったのだ.
そしてもっとも重要な点は,世界貿易と投資の流れにおいて地域内の動き の重要性が増してきた点である.北米でも欧州でも,そして東アジア地域で も,域内の貿易や投資の割合が拡大してきたのだ.国境を越えた分業が拡大 していくなかで,産業内貿易,国境を越えた工程間分業,企業内貿易,中間 財貿易などが拡大している.こうした分業構造では,距離が大きな意味を もっている26).このような地域内における展開を支えるうえで自由貿易協 定のような地域連携協定は大きな役割を果たしうるのだ.
他の地域より少し遅れて始まった東アジア地域の自由貿易協定の動きでは あるが,2002 年に日本がシンガポールと締結した経済連携協定(EPA)を 皮切りに多くの協定が地域内で結ばれることになる27).とくに注目すべき であるのは,ASEAN 諸国と日中韓のそれぞれの国が自由貿易協定を結んで いるという点である.これはまだ ASEAN 諸国をハブとした協定の集まり にすぎないが,その先に東アジア全域を巻き込んだ経済連携協定が結べるの かどうかが注目される.
もっとも,この地域の大きなウェイトを占める日中韓 3 国の間にはいかな る自由貿易協定も結ばれていない.東アジア共同体という考え方が打ち出さ れているが,これはまだアイディア段階のものにとどまっている.ただ,ア ジア通貨危機後の通貨協力の枠組みの進展など,この地域でさまざまな連携 の動きが見られることから,今後の展開しだいでは東アジア共同体の実現に 向かってさらに動きが見られるかもしれない.
アジア通貨危機はこの地域に大きな困難な事態をもたらした.しかし,そ うした危機のなかから地域の連携を高めようという動きが出てきたことは大
26) 貿易理論における実証分析でも距離を重視した重力モデルを用いて多くの研究が行われてい る.より詳しくは,Feenstra[2004]の第 5 章を参照.
きな成果であった.危機が新たな秩序を創るということが当てはまる事例で はある.
FTA 政策の限界
日本が FTA を進めていくことは,日本と近隣諸国との経済関係を深めて いくうえではそれなりに有効な手法である.しかし,日本が行ってきた FTA にはさまざまな問題や課題が存在することも事実であり,今後の日本 の通商政策の基本方針が FTA 以降のあるべき姿を模索する時期に来ている.
日本は東南アジア諸国を優先して FTA(EPA)を締結してきた.しかし, 日本との貿易額ということでいえば,米国や中国の方がはるかに大きいし, 食料や資源の貿易という意味では豪州などとの関係も重要である.ただ,こ れらの国と FTA を締結することは非常に難しいし,米国や中国とは交渉さ え行われていない.欧州諸国や北米諸国が,自国にとってもっとも重要な貿 易相手国と FTA や関税同盟などを結んでいるのに対して,日本が行ってき た EPA 戦略は地理的には近い関係にあったとしても,貿易量では相対的に 小さな国々との協定締結であったのだ.
いうまでもなく,米国・中国・豪州などとの FTA の締結に日本が積極的 でないのは,国内に抱える農業分野の問題の存在がある.豪州や米国などと FTA を結ぶことになれば,酪農などの分野での市場開放を求められる.そ うした政策を行うことに対する農業関係者や農業地域の抵抗は大きい.
もちろん,現在のままの中途半端な貿易制限政策を維持していたからと いって,既存の農業が維持できるというものでもない.農業人口は高齢化を 続けており,海外からの競争がなくても国内生産は急速に減少していく可能 性がある.また,農業保護といっても,農業を専業にしている農家と,所得 の大半を非農業に依存している兼業農家をいっしょにして農業政策を論じる ことがおかしい.
闇雲に輸入制限をするのではなく,一方では海外から農産品を輸入すると同 時に,他方で日本の質の高い食品(農産品も含む)を積極的に輸出していく という双方向貿易を拡大していくという姿勢が問われている.経済学的にも, 市場を開放した方が,結果的に競争力のある農業生産者が育つという面もあ るのだ28).
EPA(FTA)を推進していくことは,依然として日本の対外通商政策の 大きな柱ではある.しかし今後,米国や中国などの主要な貿易相手国との EPA を進めていくためには,国内の農業政策を大きく変えていくことが求 められる.国内市場を強化することなく,本格的な開放政策を続けていくこ とは難しい.そこで,内なる国際化という形で国内制度を見直していく必要 がある.
EPA の限界を考えるうえで,もう 1 つ付け加える点がある.たしかに, 日本が行おうとしてきた EPA は,国境での関税を撤廃する FTA にとどま らず広い分野での自由化や協力を追求するものであった.しかし,現実問題 としては,FTA を超えた部分については,それほど突っ込んだ議論ができ るわけではない.結局,投資でも金融でも,個々の分野でより本格的な交渉 が必要となるのだ.
そうした流れのなかで,日本が今後アジア諸国との関係を深めていく上で, どのような分野での取り組みを強化していくのかということが大きな問題と なる.すでに多くの分野が,さらなる関係強化を進める上で重要な分野であ ると指摘されている.航空や物流などの交通ネットワークの強化,人的交流 の拡大,エネルギー・環境などの分野での協力,海賊対策やマネーロンダリ ングなどグローバル化の負の部分に対する対応策,金融や為替分野での協力 体制の構築などである.
こうした動きを受けて,日本のなかでグローバル化を日本の国内の問題と からめてきちんと議論しようとする機運が出てきた.それが小泉政権 (2001 06 年)の後半に行われたグローバル戦略であり,安倍政権(2006 07
年)の下でのアジア・ゲートウェイ戦略である.
内なる国際化の部分
バブル崩壊後,日本の政策は非常に内向きになってしまった.国内経済が 厳しいなかで,不良債権処理や景気対策への対応に追われ,積極的に対外経 済政策を行う余裕がなかったといってよいだろう.GATT のウルグアイ・ ラウンドの交渉が終了し,90 年代には大きな国際交渉も行われていなかっ た.また,90 年代の後半になると日米貿易摩擦は沈静化していた.
ただ,すでに述べたように,アジア通貨危機を転機に,東アジア地域との 連携を高めようという動きは見られた.しかし,EPA を締結しようとする 動きは活発ではあったものの,日本の政策課題の中心にあるとはいい難かっ た29).
もっとも,日本経済が不良債権問題から解放されようとする頃から,アジ アとの通商関係の構築を政策の中心におこうとする姿勢が少しずつ見え始め てきた.とくに興味深いのは,日本の国内の改革を進める手法として市場開 放政策を利用しようとする姿勢が見えてきたことだ.
これに関して 2 つの点を指摘しておきたい.1 つは,国内だけの論理で規 制緩和などを進めることが難しいとき,海外へ市場を開くことが有効な打開 策となりえるということだ.EPA の交渉を行う目的の 1 つが国内の改革を 進めることであるということが強く意識されはじめた.もう 1 つは,開放政 策を進めることがサプライサイドから経済を刺激する上で有効な手法である ということだ.政府の債務が膨れ上がっていくなかで,これ以上財政サイド から経済を刺激することが難しくなっている.そこで,財政的な負担が少な いサプライサイド政策を利用する必要性が高くなっているのだ.
内なる国際化というのが,開放政策を通じた改革を指したキャッチフレー ズになった.国内のあらゆる制度や慣行を,経済社会をオープンにするとい う視点から総点検するという政策アプローチだ.これが内閣によって大々的
に取り上げられたのが,安倍政権における「アジア・ゲートウェイ戦略」で ある.
アジア・ゲートウェイ戦略の考え方の第 1 は,社会や経済をオープンにす ることで,経済を活性化しようとすることだ.航空の自由化は人の交流を拡 大させ,地域経済を活性化させる.港湾の手続きをスムーズにすることで, 貿易や投資をさらに活性化させようと考えた.
第 2 には,農業や教育などこれまで国際化とあまり深く関係づけられな かった分野において,アジア地域への開放を進めることで,これらの分野で の活性化をうながそうと考えた.「日本人による日本人のための日本のなか の」制度ではなく,アジア全体に市場を広げることで産業が活性化するだけ でなく,その分野に多様性をもち込むことができる.教育については,政府 が進めてきた留学生を増加させていく政策とも合致するものだ.
そして第 3 には,これまで通商政策では意識されることの少なかったソフ トや文化の発信の重要性を強調した点である.日本の文化やデザインなどを 海外に積極的に発信していくことで,日本の輸出産業の幅を広げるという狙 いもあった.
安倍首相が早期に退陣したことで,アジア・ゲートウェイ戦略も尻すぼみ の形になってしまった.しかし,外に向かって市場を開放するという内なる 国際化の動きは,今後の日本の通商政策においても重要な位置を占めるはず である.航空分野では世界的に自由化が進んでいるので,日本もそうした動 きから独立であることはありえない.地域の活性化にとっても航空自由化は 非常に有効な手法である.農業分野の改革は遅遅として進まないが,食料自 給率が低下していくなかで,開放を前提としながら競争力のある農業を国内 で構築していくことが重要な政策課題である.ドーハ・ラウンドの農業交渉 に進展があれば,日本もいやおうなしに農業改革を加速化することを求めら れるだろう.
内需拡大をいかに実現するのか
ても,バブル期では日本の貿易収支や経常収支が減少している様子がわかる. 内需が過度に拡大したことが結果的に国内にバブルを形成する結果になって しまった.
4
結語
――世界的金融危機に直面して2008 年 9 月のリーマンブラザーズの破綻を契機に,世界経済の様相は すっかり変わってしまった.1990 年代に日本が経験した金融不安,デフレ の危機,不良債権問題などを,世界中の国が経験することになる.90 年代 には特異なケースとして語られてきた日本の経験が,いまや世界中で論議さ れることになる.
日本もこの金融危機によって厳しい不況にさらされている.ただ,その形 態は他の国とは少し違っている.世界的な需要の縮小と急激な円高への為替 レートのシフトによって,日本経済を牽引してきた輸出産業が苦境に陥って いるのだ.日本が直面するこの問題について詳しく論じるスペースはないが, いくつかの点を指摘することができる.
第 1 は,1995 年を境に円安方向に移行していった実質為替レートが 2000
35 30 25 20 15 10 5 0 −5 −10 (兆円)
1985 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 07(年)
貿易収支 経常収支
所得収支 サービス収支 経常移転収支
図表 3 8 日本の経常収支およびその内訳の推移(1985 2007 年)
年以降,さらに際だって円安になることで,輸出企業の国内生産の拡大と輸 出の増加が著しかったという点だ.これは俗に輸出バブルと言われている. しかし,金融危機以降の急激な円高によって,本稿で論じた 1980 年代後半 以降の円高での産業の対応と同じような変化が急激なスピードで起きると想 定される.すなわち,海外生産へのシフトと国内生産の縮小,そして産業の 再編である.製造業の雇用者数の伸び率の推移を示した図表 3 6 を見るとわ かるが,2000 年以降の円安によって製造業分野の回復ぶりは著しいものが あったが,08 年秋以降の急激な円高によって,再び 80 年代後半以降の円高 のときと同じ状況が懸念されるのだ.
第 2 は,輸出産業の縮小を補う意味でも,内需拡大への期待である.この 点も 1985 年からの円高と似た面がある.ただ,今回と 80 年代後半の大きな 違いは,いまの日本が高齢化の波にさらされていることである.すでに述べ たように,1980 年代の後半には円高へのシフトのなかで内需拡大を進める ことができた.しかし,人口の高齢化が進むなかで同じような形で内需拡大 が進むと考えることは難しい.新たな内需拡大モデルを確立するために,大 きな政策転換が求められているのだ.
第 3 に,今後もアジアを中心とした自由化がさらに進んでいくのかどうか 注目する必要がある.安倍内閣で議論されたアジア・ゲートウェイ戦略のよ うなアジアを想定した開放政策が今後も進展していくのかどうかが大きな注 目点である.また,世界的な景気低迷のなかで保護主義的な動きが強くなっ ていくのかどうかも懸念される点である.
これらの点について論じるのは時期尚早であるし,この論文の扱える範囲 を超えている.ただ,この研究プロジェクトの対象であるバブルの生成と崩 壊のプロセスは,今回の世界的な金融危機を理解するうえでも有益な情報を 提供するはずである.それは通商政策の分野についても当てはまるといって よいだろう.
参考文献
大矢根聡[2002],『日米韓半導体摩擦』有信堂.