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アラビア半島の情景
今日のアラビア半島を訪れると、砂漠を背景に 超高層ビルが建ちならぶ光景が姿を現す。サウジ アラビアの首都リヤドにしても、聖地マッカ(メ ッカ)への港町ジェッダにしても、きわめてモダ ンなビルが林立する現代都市である。いうまでも なく、これは石油収入を基盤として発展してきた。 油田地帯である他の湾岸の諸国にも、同じように 近代的都市空間が広がっている。
そこでは、暑い夏にも冷房が完備し、快適に暮 らすことができる。しかし、そんな近代生活に疲 れると、アラビア半島の人びとは絨毯を自動車に 積み、郊外の砂漠にでかける。茫漠たる風景の広 がる砂漠を見て、ほっと息をつき、心の安らぎを 覚えるのだという。花鳥風月の日本の感覚から見 ると、不思議な情景であろう。
イスラーム以前
7世紀にイスラームが興こったとき、アラビア 半島はすでに砂漠化が進んだ地域で、マッカも砂 漠に囲まれた町であった。ここには、かろうじて 人が住める程度の地下水はあったが、農業をする ほどの量ではなかった。マッカが商業で生計を立 てる人びとの町となった背景には、この過酷な風 土があった。
従来の通説では、ササン朝ペルシアとビザンツ 帝国の争いのために、ペルシア湾およびその北側 の陸路の貿易路が衰え、その分だけ、インド洋貿 易路が栄え、紅海沿いのルートを支配するマッカ
が勃興したとされていた。それに対して、マッカ の商業力はそれほど大きなものではなかったとい う説もある。確かに、当時のマッカの「無名ぶり」 を見れば、西アジアから地中海にかけての地域の 運命を左右するような貿易がここでなされていた とは考えにくい。文明的に見れば、ここはまだ、 ペルシアと地中海の文明圏の間で眠っていた地方 であろう。
しかし、イスラームは、マッカの商業の力に乗 って勃興したわけではない。したがって、イスラ ームが生まれる直前のマッカの商業は、その経済 力よりも、別の面に重要性があった。大事なのは、 マッカという商業都市で、貿易が繁栄し社会格差 のある社会が生まれ、それが一つのモデルとなっ たことであろう。イスラームはこのモデルをアン チテーゼとした。イスラームがやがて世界宗教に 発展すると、イスラームが批判したマッカ社会の モデルも、いわばアンチテーゼとして世界性を獲 得した。もし、イスラームが世界宗教にならなけ れば、イスラームが批判したマッカ社会も、文明 の周辺地帯のアラビア半島の、さらにローカルな 話題として歴史に埋もれてしまったに違いない。 マッカに暮らしていた商業の民は、もとは定住 した遊牧部族で、クライシュ族といった。「部族」 とは系譜を共有する集団で、傑出した祖先の名を 取って「〜族」と名づけることは、アラビア半島 では当時も今も行われている。クライシュは本名 をフィフルといい、11代下るとムハンマドに至る。 クライシュ族は、アラビア半島の他の諸部族と同 じように部族的血統を尊び、人間を生まれの尊卑 で判断した。彼らは、集団の名誉と結束を重んじ た。また、互いに勢力争いをしていた。クルアー 京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰
連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで
− − − − ン(コーラン)にも、「墓を訪れて(一族の死者 を数えて)まで多寡を争う」という表現が出てく る。そのような社会を、のちにイスラームは部族 主義として批判した。
イスラームと平等
イスラームの世界観では、人間は誰もが生まれ ながらに平等である。では、後天的な成功はどう であろうか。マッカの商人たちは、富と権勢を誇 り、経済的な弱者を軽んじた。高利貸しも跋扈し ていた。イスラームは、富そのものは神の恵みで あるとして認める。しかし、その恵みを受けた人 間は富の一部を弱者のために喜捨(ザカート)と して差し出さすべきと決め、経済的格差を人間的 な価値の上下とすることに反対する。
このような人間を平等とする思想は、人間が唯 一の創造主に作られたという一神教に根ざしてい る。したがって、宗教的にも、当時の多神教・偶 像崇拝とまっこうから対立した。アラビア半島の 諸部族は、それぞれの守護神というべき偶像を持 っていたから、この多神教は部族主義とも結びつ いていた。クライシュ族の場合、マッカが多神教 においても重要な聖地だったため、部族的矜持も 一段と高いものであった。
無明時代からイスラームへ
イスラームは、これらの特徴を持つマッカ社会 を「ジャーヒリーヤ」=「無知の状態」と呼んだ。 真の神を知らない、という意味である。日本では、 これは「無明時代」と訳されている。部族主義に よる高慢や血統による差別、富者の専横、弱者の 抑圧、女児を生き埋めにするような男尊女卑など を、イスラームは無明時代の悪徳とした。これを アンチテーゼとして、イスラームは社会革命を行 い、その新しいモデルによる社会像が、宗教とし てのイスラームの広がりとともに各地に普及して いくことになる。
しかし、その新モデルがどのようにして生まれ
たのかは、実はそれほど明確にはわかっていない。 ムハンマドがイスラームの布教を始めるまでの前 半生は、ほとんど記録に残されていないからであ る。前述したように、マッカ自体も無名の地であ ったし、ムハンマドも幼少期から青年期までは、 のちに中東から地中海地域の社会を一変してしま う大きな革命を起こす人物とはまったく思われな かった。
生誕前に父が亡くなり、6歳の時に母が亡くな り、祖父、ついで伯父に育てられたことははっき りしている。ムハンマドは孤児として育ち、のち にクルアーンも孤児の擁護を説いている。あとは、 青年期に隊商貿易に従事したことがあり、25歳の ときに富裕な女性商人と結婚したことなどが知ら れている程度である。結婚後は娘たちに恵まれた が、男児は夭折した。40歳のとき、天使の訪問を 受け、神から啓示を受け取る預言者としての活動 を開始した。西暦610年頃とされる。
これ以降は、かなり記録が重厚となる。史料の 信憑性の判断、時期の確定などがむずかしい場合 もあるが、前半生に比べると比較にならないほど 豊富な情報がある。しかし、二つの時期の境目が よくわからない。若き日のムハンマドが、社会的 義憤に燃える人物だったという記録はない。なぜ、 無明時代からイスラームへの飛躍が可能であった のか、どのようにして革命的な理念が生まれたの かは、そう簡単に説明がつけられないように見え る。
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マディーナでのイスラーム
マッカでの迫害に耐えきれなくなったムハンマ ドは、信徒の多くとともに、マッカから北北西 350kmほどのところにあるヤスリブの町に622年 に移住し、新しいイスラーム共同体を建てた。こ れをヒジュラ(聖遷)という。ヤスリブは砂漠に 囲まれているものの、農業ができるオアシス都市 であった。主たる農産品はナツメヤシである。 この町は「預言者の町」、略してマディーナと 呼ばれ、やがてマッカと並ぶ二大聖都の1つとな る。マディーナの民がムハンマドを招いたのは、 部族抗争に疲弊し、社会を再構築するために、新 しい調停者と新しい理念を必要としたためであっ た。行き過ぎた部族主義によって社会が危機に陥 っていたマディーナで、イスラームのモデルが有 効性を見いだしたのである。故郷マッカでは早す ぎた革命的理念であったが、マディーナでは時代 状況が追いついたともいえる。ちなみに、マディ ーナにはすでに一部にユダヤ教も入っており、一 神教を受け入れる土壌もより強かった。
マッカ勢は、新しいイスラーム共同体を破壊し ようとマディーナを攻撃したが、ついに果たすこ とができなかった。逆に630年に、イスラーム軍 によるマッカ入城が行われ、マッカ住民が大挙イ スラームに入信する事態となった。部族の合従連 携や享楽的な現世主義にもとづく打算に対して、 人間平等主義、同胞精神、自己犠牲などに立脚す るイスラームの方が、社会統合や政治的動員、さ らには軍事力において優れていたということであ ろう。約23年を費やして、二つのモデルの優劣の 争いに決着がついたのである。
イスラーム登場後の社会変化
ムハンマドが没する頃、アラビア半島はおおむ ね統一されていたが、後を継いだ正統カリフ時代 (632〜661年)にさらに軍勢はアラビア半島を越 えて四方に広がった。ササン朝ペルシアの滅亡、
ビザンツ帝国の大きな後退、それに伴って成立し たイスラーム国家の成長は、イスラーム・モデル が単にアラビア半島内での新モデルであるにとど まらず、より広範囲の有効性を持っていることを 如実に示した。
イスラーム登場後の中東・地中海地域では、き わめて大きな社会変化が生じた。宗教的に見ても、 すでにキリスト教によって広まりつつあった一神 教はこの地域で恒久的な地位を確定し、古代にあ れだけ栄えた多神教や偶像崇拝は消滅した。イス ラーム的な社会モデルは、アラビア半島の外で先 行する諸文明を吸収して、文明的な水準にまで昇 華し、その後中東を超えて東西に影響を及ぼすよ うになった。ローカルな言語に過ぎなかったアラ ビア語は、イスラーム文明とともに世界語の一つ となり、アラビア文字はイスラーム圏の諸語に採 用された。
さらにいえば、イスラームは前近代において諸 地域に影響を与えただけではない。近代西洋文明 が興こって、近代的な人間平等論や人権思想など がグローバルに広まるようになってからも、イス ラーム世界はしばしば独自の人間平等主義を掲げ て、それに対抗してきた。もちろん、近代思想と してのイスラームは7世紀のムハンマドの教えで はない。歴史のなかのイスラームは多くの人びと によって発展してきたものである。
しかし、それにもかかわらず、「元種」はとい えば、7世紀の啓典クルアーンであり、その文言 に依拠しながら現代の理念が展開されている。7 世紀の社会モデルが「使い回し」可能であるとす れば、そのこと自体が驚きであろう。