鍵を握る意思決定の非対称性 ∗
安田 洋祐
†初出: 2009 年 11 月
人間の経済活動にはいろいろな非対称性が隠されている.有名な例は,2001 年 のノーベル経済学賞によって一般にもその有用性が広まった「情報の非対称性」だ ろう.他者の知ることができない情報を一部の参加者が握っているような,情報の 非対称性の存在する状況では,情報が対称的な場合には説明のつかない様々な興 味深い現象を説明することができる.「売りと買いの非対称性」も,市場の機能を 理解する際に欠かすことのできない非対称性だろう.先物市場が存在しない,あ るいは十分に機能していない資産市場では,売りを行うことのできる参加者は買 いを行うことのできる参加者よりも遥かに少ない.こうした市場では,売りと買 いが適切にバランスされず,買い圧力に引きずられてバブルが発生しやすい可能 性が指摘されている.このように,経済現象に潜む非対称性は,我々の経済活動 を理解する上で重要な鍵を握っているのである.
それでは,経済活動の原動力である,個々の参加者間の「意思決定の非対称性」 についてはどうだろうか? 同じ経済問題に直面していても,参加者によって答 えの探り方や予測の仕方は異なるかもしれない.戦略的な思考が苦手な投資家が 合理的な投資家の餌食になる,といった状況は,むしろ現実にはありふれている だろう.ところが経済学では,伝統的にこうした意思決定に関する非対称性はほ とんど分析されてこなかった.意思決定を行う個人が合理的であっても,非合理 であっても,暗黙のうちにすべての参加者が同じような意思決定ルールに従うこ とが仮定されてきたのである.
近年になって,経済実験や脳科学の知見を取り入れつつ,こうした意思決定の 対称性を打ち破る興味深い結果がじょじょに明らかにされてきた.たとえば,ど こまで相手の行動を先読みできるかに関する推論能力が個人間で異なる状況を扱 う「レベル k 理論」などが代表的である.レベル 1 は一段階の推論,レベル 2 は二 段階の推論,といった形で,k の大きさによって先読み能力の非対称性を表現しよ うとするアイデアだ.財政政策や金融政策の効果を予測する際にも,どの程度の
∗本稿は『現代用語の基礎知識 2010』の巻頭特集「2010 年代の新・常識」に掲載された記事を 転載したものです.
†(やすだ・ようすけ — 政策研究大学院大学助教授)
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家計が将来の政府の増税や中央銀行の政策変更を織り込んで消費行動を決定する かが,結果に大きな影響を与えることが知られている.
参加者同士の非対称性だけではなく,個人の中においても意思決定の非対称性 は存在する.たとえば,短期的な問題と長期的な問題を考える際には,結果に対 する評価の仕方がしばしば食い違うことが知られている.長期的には望ましくな いような選択肢を,その時点がやってくると誘惑に負けてついつい選んでしまう ような状況をうまくとらえた「双曲割引」の考え方は,すでに様々な分野で応用 されている.
個々人の意思決定をきちんと理解することは,それらの集合体である経済現象 を正しく理解する上でも不可欠である.2010 年代は,意思決定の非対称性に関す るアプローチや考え方がますます注目されていくだろう.
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