の
墓
帯け
限る 山 み のす
津試 上にた定立
の 撒 い く のを ち昇神と たによる上場と
が遭
いの立
っ と の は にして天
あった 神学を う僻遠 であろ って神 て拡大 ころに 事実と 神典 絶
文鳥町の 出 ︑金見︒ 手 々もこの例︶︒いわば二次 葬と して 洗骨 か 行なわれている︒この二次 葬 における洸貴 は ︑彼之 島の南部 にあたる伊仙町の場合が ︑ 最も典型的に行なわれてい る ︒即ち 年忌の時︵主に三︑五︑ セ 年忌︶にきまって洸貴して いるので ある︵徳之島町の白井︑尾母もこの例︶︒一身にこれ だけの 地 域 差があることは︑他の豊年祭りの場合もみられるこ とであ り ︑注目すべきである︒墓地は村共同一力 所 ︑村に数 力所 ︵ 組 ︶ 分散︑ ヒキ︑ ハコ ジ 毎に分散︑個 家 毎に分散などの 別 がある︒
さらに島の墓地には石塔が林立している︒型式は変型 堂塔婆︑
五輪塔︑位牌型︑方柱型︑十字型︵キリスト教︶ 墓な ど ︒それ が 改葬 骨 ︵ 壷 ︶上に建 塔 されるか︑遺骸の上に建 塔さ れるかの 別 はあるにしても︑石塔 墓が 一般である︒これは 洗骨 改葬をし ながらも石塔墓の極めて少ない沖縄諸島と︑全く対照 的なもの である︒また徳之島では石塔はハロ ジ 毎に一基あるの が 一般的 であり︑それもふつう 五 ! 六軒︑多いところで 一 0! 二 0 軒に 一基となっている︒マークン︵ 組 ︐ 五 ! 六軒︶で一石 塔を所有 している所もあり︑最近の傾向として︑佃家で一石塔 をたてて いる︒新分家も自家の石塔をたてるようになりつつあ る ︒石塔 銘は調査中判明した有紀年石塔最古のものとして︑ 平 上野 のカ ムシシ バ カ にある石塔で享保十八年︵一七三三︶であ った ︒ 埋葬地と改葬地の墓の装置をみると︑埋葬地は ︑ ㈲ 土 盛 のみ ㈹自然の石を安置︑㈹水棲をたてる︑㈲屋形をたてる ︑
㈱石塔㈹
をたてる︑改葬 地は︑ ㈲改葬 壷 ︵上上・上下︶ ︑ ㈲ 改 葬揃 ︵
セ竹
メント製︑焼物︶ ︑ ㈹石塔︒この仙モ一ヤ 0 例がある︒ 即ち モ| ヤ内に風葬して︑改葬 骨をツ ボに入れ︑モーセ内な いし モ i
ャ 外に安置する例である︒一般に新しい傾向として 石 塔の下に
五壇を築き︑そこに空間をつくって改葬 骨 をおき︑ 地 下 に土葬
︵風葬︶するという墓の装置の一元化が行なわれている
以上が調査による徳之島墓制の概要であるが︑沖縄 諸 島では
第一次 葬 が風葬︑第二次 葬 が洗 骨 改葬︑徳之島では 第 一次 葬が
土葬︑第二次 葬 が洗 骨 改葬という︑第一次 葬 に風葬︑ 土葬の差
が 生じたのは︑徳之島に薩摩流の石塔が建立され出し た 為に ︑
土葬化の道を辿ったように思われる︒すなわち慶長 十六年以
降 ︑薩摩藩の行政不に奄美諸島がおかれたことにより ︑薩摩の
建塔 知識︑技術が奄美諸島に流れ込み︑土葬習俗を ぅ み︑二次
葬 として 洗骨 改葬が行なわれたのではなかろうか︒ 本 果南西 諸
島は風葬が一般的であった︒そしてその風葬地も村外 の 崖下や
原野の洞穴に求められ︑この風か長い間つづき︑やが て 庶民の
﹁ 家 ﹂がおこり︑本家を中心とした祖先崇拝が行なわ れるよ う
になるにつれ︑先祖祭りの対象として村内に基地が 升 生するに
至る︒ 徳 Z 島では 建塔 知識︑技術の伝播により︑土葬 が 一般化
した︒これも近世的なものである︒改葬 肯 は﹁ 家 ﹂ の タ ママ ツ
リの 象徴 物 として発生したものであり︑それは村の開 発 先祖の
埋葬地が︑オタ キ として祭られていくケースの︑その ウタキに
淵源は求められ︑改葬骨の発生そのものは︑そう 古 いもので
はなく︑内地の両墓制地区の諸墓石塔と同じ性格のも のであろ
う ︒
佐渡浜端洞穴のト骨について
椿 実
佐渡のト骨としては︑昭和釘年に金沢村 ヂ秘 貝塚で︑ 本間 嘉
沢 和夫氏により報告されている︒ 会 ︶︑抄録は考古学研究年報 托 ︵第二部㌧Ⅱの 07 目 こト 示せられている︒報告は﹁郷土相川第 2 集 ヒ ︵相川町 治 ︑二見半島考古歴史調査団︑新潟大学医学部第一 解 晴茂等により発見された︑日本鹿の肩肥育基部 f3 が
により︑調査発掘せられた︑相川町大字高瀬 字 ハマ バ
の 1 ︑浜端洞穴出土のト骨 2 例が︑相川町郷土博物館 いる︵新潟県文化財報告 1 ︶︒
その後︑昭和也年 9 月お目Ⅰ幼目 に ︑金沢和夫︑申 川
教育委員
の べ のに 金 剖 学教室 知︐う れ て
二階に展 カントいの 鏑
喜代
私は昭和何年秋︑同地をおとずれ︑金沢氏等に︑直接 出土 状
呪る御 教示いただいたので若干の所見を述べたい︒
①ト骨の数 2
例以上元
数 片の破片は立教大学博物 館 研究所所蔵︑同所の発表を望みたい︶︒
宗教研究㏄ 呂セ日 ・㌫ 之 0 ・ びワ おっ拙稿の表は 2
以上と訂正
②素材日本鹿
肩 胴骨 fl?f2 ︑白色③整治鋭い刃物で︑
肩押 骨の基部および緑郎党 端を平滑に そいで薄くしてある︒︵おそらく鉄器による 整
第セ 部会
呵
f
1
f 2
仏物,
// サ
/ @
ウ Ⅰ
柑孔
佐渡高瀬浜端洞穴ト
骨
畳一体︒ 岩片をつ
み上げ︑朱
硯︑高林︑壷が配された埋葬 郭
が区切られていた︒入口に小型
条痕 丸底壷 があり︑高林ととも
に幼児畳一体︒入口の幼児 骨
︵古墳初期︶と奥の成人骨︵弥生
後期︶の中間 壁 ぎわに 岩肩 には
さまれて発見︒
見 二次焼成をうけたカメ 1 個分の
破片︑ト骨カメの周辺は灰が 多
ノヘ ︑カメの口は大型アワビで お
おわれていた︒ということか 治 ︶ ④
墳痕
円形 鐙 b 形式でなべ ぞ こ形の穴を憤とい ラ キリで掘ってある︒
fl は 基部を整治して︑三角形に 3 個の墳 乱る残
し ︑これには 火 灼の痕は認められない︒
緑郎の 一 縁を存し︑その外側先端は鋭くそがれ︑
内側の薄い部分に 3 個以上の鎮痛が一列に認めら
れる︒欠失した中央部および一方の縁にはなお 多
くの道 孔 をもっていたであろう︒
f2 従来報告されなかったのは 鋒痕 不明瞭のためト骨
と 判定されなかったからであろう︒
整治の状態は︑基部の関節部分を切り︑薄く整治 してト兆を見易くしてあるのでト骨たることは 明
白である︒三角形の肩 押 骨中央の薄い部分を欠い
ているが 両 緑の先端は鋭く切り落され︑整治の状
態は船橋市印肉貝塚出土の 6 世紀のト骨と相似て
いる︒内縁には円墳の痕と認められる円形のくぼ
みが数 箇 残っている︒
⑤出土状況浜端洞穴は縄文・弥生・古代遺物を包含
岩洞穴という祭祀遺跡の近傍に︑海浜から㏄ m は
なれた海岸段丘のつけ ぬ にある︒北西に開口 し︑
間口Ⅵ m ︑奥行 7m の 鍾 乳洞穴であった︒砂利 取
り 作業のため崩れ落ち︑現在は︑最奥部の幅 4m
深さ 4m ︑高さ㎡ m ︒最奥部に伸展葬の成人男子
179 (427)
一 ︑
序網
︵くぬぎ︶古墳は福井県坂井郡金津町 糾社 敷地内に現存し︑その横穴式石室の奥 壁に 梵字 群が 刻されて
いる︒この梵字舞が本研究の対象である︒
二 ︑梵字群の内容 奥 壁の梵字群は第一表の如くで
梵字は悉曇文字でローマナイズして表示したので厚手 は 発表時
プリントを参照されたい︒この内容は三区分して推論 する事が
出来る︒第二表︑即ち弥陀信仰を中心に上下より 金胎 の 両部で
斎藤唐松 杷 古墳英聖梵字群の研究
ら ︑弥生時代の住居 柾が 古墳時代に埋葬穴として使用された三浦半島の例がそのままあてはまるも
のか︒埋葬鎮魂の儀礼としての 鹿トが 考えられる
︵出雲 古浦 遺跡の埋葬 骨と ト骨 伴 出の例からも︶︒ ⑦円鏡 b 式 同様の例は︑長野県生 仁 遺跡出土ト骨に 見られ︑ 東海地方の方形 竪 e 形式のもの︵ 6 世紀以降天平
時代に至る︶に先行する北朝鮮 式 のものである︒
︵ 威鏡 北道茂山部茂山色︑虎谷 洞 ︶弥生 式 文化の流入路 として︑
北九州のみが考えられているが︑佐渡島は㏄ 皮 線上に あり︑ 直
接の流入が考えられるところである︒なお︑千種貝塚 の ト骨を
も 同様の円鏡 b 式で三連岡 鎮 とみることは︑このト骨
不可能のように思われる︒ 二 即ちムロ密の流れを 掬
尊侍
界界第
むものである事が理 蔵 解される︒ 月ム 口 金 三 ︑形式とその 原流 是等彫刻形式
第三表 Ⅱ ﹃・ 笘ヨ 片 ・
ド命祭汁郎露
食封 今 下田斉く母 ppド 片羽 キざ 冊封
楠錨判瓶 鞘口目のり
みゴ ﹁ロが き肝 凌が 冊
正日封冊眩く
不動 摩ク 動 明王︑毘沙門天が クア払 観音 三ン
界 と一
vai
それを支え又は擁立 0
am
している配置となっ㎎
sa 内 市 k h で b" a am 第 に根差したもの即ち五
密教弥陀信仰である事 が理解される︒ 又
弥陀三尊の両脇に 不
第セ 部会
刻 うる成るの 与 てか史の薬手械 し表薄め
0
合点
りイソドネシアには
ヒソスー教 ︑仏教︑イスラム教等が 伝わっ たが固有の風土の中で複合し︑インドネシア的信仰を 形成し た ︒ 楠 教授が︑論文﹁ジャワ島の宗教﹂で説明してい るが︑ こ れを参照しながら複合的な庶民的信仰の特徴を考えよ っ ︒信仰
181 く 429)
シチィ ・ダシアル
死者1枠
イ ソドネシアの庶民信仰について
字が 刻された事になる︒ 五 ︑信仰 と 宗田この月輪グループは何れも密教 信 仰から所出されたものと推定される事は再論する迄もないが 前記大谷 寺 刻銘中に﹁余資 行現 ﹂とあるが行現は借名で金 資は ︑金剛 資 祐海 ︵大阪府獅子 窟寺 出土商容器 銘 ︶︑縛日羅 僧円バ ン ︵熊本 県 旧栖山寺五宝塔 銘 ︶などと同義語で︑何れも密教 僧 の 意で︑
行 現が密教 僧と 自称している事は重要である︒大谷 寺 は 白山信 仲 の 祖 泰澄の本拠 手 であり薬王院は加賀白山王院の
一
である事 とこのグループの全部が白山信仰の中心的地域に在る 事から 金 沢 大学 蔵も当棚 梵字共に当時最盛期に在った白山信仰 と 大きな繋りを持つものとの推定は許されるであろう︒
六
︑結白山信仰の主要が十直観音から中世に入る
と 弥陀 に 移行するかの観があるがその弥陀信仰もあく 迄 密教 に 基点が在る事をこの 杷 古墳輿望梵字群は明示している︒