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七  % 

口 

部  七 

式 

祝 

不昧 

詞 

と 

幣 

吊 

酒部奉文 

第三型 ハ准勅窪已 

広瀬大忌祭︑ 龍 国風神祭 

第四型 ロ 班幣式リ 

祈年祭︑ 六 ・十二月月次祭︑大嘗祭 

なお︑右の分類には︑官幣を奉る祭祀とは趣を異にす る︑大 

祓 ︑東西友忌寸部 献 横方 時呪 ︑伊勢大神宮のうちの 宮 司 が読む 

四月神式 祭 ︑ 六 ・十二月月次祭︑神嘗祭の祝詞を除 い ‑@ ナハ ︒ 

次にこれらの分類によって︑祝詞の表現形式について みると 

次のごとくである︒ 

第一型 

白 ︵ 中 ︶ 久 白 ︵ 申 ︶︒ 

  白 ︵ 申 ︶︒ 第二型 

天皇 我 大命藤生 世 ・・・⁝白人 白 ︒ 

天皇 我 大命南至 世 

⁝⁝自給人車︒ 

天皇 我 

御食以ュ中入牢 

給 人士 申 ︒ 

天皇 我 御念 

以ュ申給  入牢給人士 

申 ︒ 

皇御孫命御念 以 ⁝・・・ 申給 

人中 

給 入山車︒ 

皇御孫草籠御合 

以ュ申賜  入牢︒ 

第三型 

白人・・・⁝⁝ 王 ・直筆平馬 使 ︐ ︑ ⁝・・・詰問合資 宣 ︒ 

第四型 

諸間 食 登宣 ︒⁝⁝ 宣 ︒⁝⁝常常 乎 神主祝部等 

受賜 ︵ 請 ︶︐ 事不レ過 ︵ 落 ︶捧持春登 宣 ︒ 

( 串 6)  16 び 

第七部会 

   一  官人間接奈緒  祭在 

右の表現形式を見れば明らかなよ う に︑第一・二型は ︑﹁申す  型 ﹂の祝詞であり︑第三・四型は︑﹁宣る型﹂の祝詞で ある︒ 更  に ︑第一・二型を比較してみると︑第一型は︑それぞ   

対して︑単に " 申す " と表現しているのに︑第二型で は ︑起首 

章句において︑天皇の大命であることを明記し︑結尾 章句にお 

いては︑上代の詔にも用いられているよっに︑その 多 くが﹁ 申  し 給はくと申す﹂︵言上する由を申す︶と︑特殊なる 用法をも  って表現している︒また︑第三・四型の﹁宣る型﹂に ついてる  ると︑第三型では︑使をして 宣誌 せしめることが明記 され︑ 第 

官人直接 

ゑ僻篆 げ祀 清祓について︑こと新しくとこに述べるまでもなく 種 々の 丸 主日 

物や辞典等に記されており︑相当に詳しく知ることが できる︒ 

ところで私がここで問題とするのは︑清祓を法史的見 地から 倹  訂 することである︒従来ハラへに関して 法 史的にふれ られたも  のもあるが︑みな時代的には古代以前に限られている ︒然らば  中世の ハラへ はいかに︑その点を南都春日社の清祓に 焦点を合 

わせてみることにする︒ 

本来不浄を除去するために ハラへ を行なうわけである が︑中 

世において記録に﹁ 遂 清祓﹂とか﹁ 行 清祓﹂等と散見 している 

この清祓とは︑蔵した犯人にその ハラ への費用を負担 せしめて 

その 罪償 とする方法で︑つまり一種の科料即ち財産刑 を 科すこ   とであった︒そこでまず清祓の対象とされる行為ある 

いは事件㈹ 

の 範囲をみると︑ 便 ・ ロ ・酒宴乱舞・ 打費 刀傷・放火 神鹿殺 9 

害 ・神木汚 糠 等の具体的垣下された場合と︑単に猿籠 

等と綜括Ⅰ  清田義 

英 

中世の清祓について 

四型では︑神主・祝部等に対して︑奉幣に過失のな い よう︑ 特 

に 追記していることは︑三善清行の意見十二条など︑ 当時の実 

情を併せてみる必要があろう︒ 

終りに︑これらの分類を整理して︑図式化するならば ︑およ  そ 上図のようになると思うが︑如何なものであろうか   

的に記されその内容を正確に知り得ない場合とがある ︒ここで 

は神木汚 責 についてのみみることにする︒ 

南部春日社の神木は当時北嶺の神輿と並ぶ権威をも って お  り ︑強訴等の大衆運動の際には神木が利用された︒ 神 木は神聖  にして犯すべからざる神威の象徴であった︒それ放神 本清 磯っ  まり振った神木を奪ったり抜いたり切りつけたり等し た場 ムロは  その犯人ほ重科に処せられたのである︒興福寺は宗教 的 制裁 カ  を 有する神木を個人の制裁とか所領の統制等に利用し たが︑ 在  他人が直ちに承伏するということは鎌倉期以降まれに なってき  ており︑神木汚 礒が 常であった︒それ故神木汚 敬 の 清 祓も記録  に 多く散見されるのであ 旺 ︒文永二年︵一二六五︶ 八 月の ﹁ 社  解案 ﹂ 宅 春日 社 記録﹂文永二年八月什一日の条︶を み ると︑ 

社解案 春日 社 同等 謹解 

申請長者殿下政所我事 

請被殊蒙 恩裁 ︑  為実 同法師乱入神宮 預祐貫 住宅︑ 依奉穣 所持神木 丼    所 ︑各 任 先例 被 禁獄 其身 ︑懸親類等 可 板行御祓 由 ︑ 仰 丁子 

網状 

右 社司等諜者恒美︑奉 磯 当社 御 神木 之輩 ︑被 処其身於 遠流 禁  獄之 重科︑付録合級 行 清祓者古今文流例 也 ︑ 鼓為実阿 奇事 於  ぬ 公相論篇︑ 任 雅意 無 是非押入神 貫之 住宅︑独繭所出 ホ之神  木 ︑検封御供所神館 畢 ︑ 九 重畳 之狼籍 ︑ 所犯之 悪行︑ 頗 網子  常篇︑ 於桐 盲者︑異夏 縦 有罪科 2 時︑先奉上所持 之 神木 之  後︑被 数 次第二沙汰者定法位︑ 而忽忘 先規︑無さ 右 不 

悪神 

威 ︑怒 現 濫吹 2 条︑古今木曽百二重科 也 ︑神 勢之凌夷 ・社家  大話何事知之 哉 ︑就中段 犯械 当社神木 之輩 者︑縦 雄為   猶 以下道所当 之 罪科︑何 況 放下 践之属哉 ︑急々無病識 之御沙 Ⅰ 

昧者︑向後悪行 殊以 不可断絶︑望 

請恩裁 

︑字体 所犯 ︑ 任先   例被 禁固 実 同族獄舎︑ 懸 縁者 可 遂行御祓 之出 ︑ 為被 柳下︑ 

勅事 状以解 ︑ 

文永二年八月日 

二王 惣官 以下九名連署 ロ 

実 同法師なる憎が神宮 預 社員 宅 に乱入し︑神木を槻 し   

先例により 実 阿を禁獄 し ︑かっ縁者に清祓を科すべき であると  二級 官 以下九名連署して氏長者政所の裁断を請うてい る ︒神木  汚 歳の犯人は普通遠流禁獄の重科で︑更に清祓つまり 縁者に財  産 刑として︑ 祓 祭物︵ 料 ︶が科せられたのである︒ 神 木浦 椋の  清祓は﹁竹縁台板行清祓者古今二流例 也 ﹂であって ︑ ﹁就中段  犯蔵 当社神木 之輩 者︑縦 雄為 重臣︑ 猶 以下通所当之男   

旗下 践之属哉 ﹂と先の﹁ 社解案 ﹂は記している︒ 

ハラ へは原始社会から古代社会べの移行にともなって ミソ  ギハラへと ハラヘ ツ モノをある人に科する ハラ へとに 分離し︑ 

更に ミソギハラへ が宗教的色彩から政治的な刑罰 |身 体刑・ 追  政刑・生命刑 | へと︑これに対応して一方ハラヘ ツモ   

刑 へと変化して行ったものと理解される︒このような ハラへ の  浩史的変遷において中世南都の清祓をとらえることが 

できよ 

う ︒ 猶 ・詳細は後日を期している︒ 

日本の原始時代の宗教では自然の中に精霊を認める  段  階から  やがて神として捕え︑いつか自記・  紀  L  にみえる神に  統合され  ている︒例えば筑波山の神  は弓  万葉集  b  巻  三では﹁  明  神の貴  山  ︵ た  ふときやま︶﹂としているが︑  巻九  には﹁男神﹂﹁  女  神  ﹂と  あり︑﹁続日本紀  ヒ  には﹁筑波  女  大神﹂などとみえる  が  ︑寛政  十一年︵一七九九︶﹁常陸  国  十八社  考  しには﹁イザナ  キミコト﹂ 

﹁イザナミノミコト﹂となっていろ︒筑前因  竃  門出  の  神は﹁  続  日本後記口承和七年には﹁  竃門神  ﹂とあるが︑正和二  年の  ㍉ 宇  佐託  宣  集  L  では﹁竜門明神波音  媒  ﹂として︑玉依姫に  なって  い  る  ︒常陸の香鳴神は  タ  ケミカツ  テ  ︑香取神は  フツヌシ  となって  いて︑出雲神に国土を献上させたとあり︑コ常陸風土記  し  @0 z ︐ ﹂ ・﹃  @ 4 よ  中臣の祖の神話のことがみえる︒しかし  フツヌシ  は  大  ね  石上神  宮の祭神であるので︑中臣民が司祭者になったので︑  フツヌシ  になったのではないかと思われる︒諏訪神の場合は  タ  ケミカツ  チとフッヌシ  が大国主命と強硬な談判の末︑出雲  回る 

天孫に譲 

られたが︑大国主の御子タケ  ミ  ナカタは反対したので  信濃まで 

  

︒出雲神はは出雲杵築を ぅ  第  中心に出雲神話が成立したので︑国造果宏臣  は杵  案  に移った  と 

ヰ @P  々  の  約 

合 

中 

野  幡 

ぬ肛 

いわれる︒しかも宮司である国造 は 天照大神の御子 と いわれる  天穂日命の後 商 出雲 臣 になっている︒八幡神も︑もと もとは 宇  佐 ︑辛 嶋広 が祀っていた ヒメ 神であったが大和から派 遣された  大神地 義 により応神天皇が祭神になり︑その司祭は大 神民にな  った ︒応神天皇が八幡大菩薩とよばれると正史に全く みえない  耳 シモン菩薩という信仰が生まれている︒ニシモンに ついては  太母であり 神 母といわれてきた︒そこで私はそれは 古 来の祭神 

ヒメ 神であるとした︒ 

日本と可成り事情は異っているが︑ヨーロッパはキリ スト 教  信仰 圏 てある︒しかしこのようになるためには可成り   

趣 こったであろうと思われる︒事実エジプト︑ギリシ ヤの 諸島  にはず ぱ らしい神殿が遺っている︒それぞれの栄えた 民族宗教  のあとが偲ばれる︒それだけにこれらの宗教がどのよ︐ つに キリ  スト教に統合されたかという点は日本人には関心があ る ︒西欧  諸国のキリスト教寺院︑博物館で︑ め だつのは聖母 マ リアの 像  である︒教団ではマリア信仰とはいわず崇敬といって いる︒ イ  ヱス の母マリアを聖母として尊崇するのである︒新約 にも既に  数ケ 所にみられるので古くから生まれていたことが 解 る ︒聖母  信仰の起こりについてはヨーロッパ諸民族の民族宗教 には女神  信仰︑聖者信仰が強かったために遂に教団から聖母 信 仰が認め  られたという︒   ヱ チオピア コ ソダ l ルの教会では円形の教会堂に内陣 

外陣が④ 

あり︑外陣に籠る信徒は断食をしている︒キリスト教     は 聞いたことがはいが︑ ェ チオビアの民族宗教の名残 りであろ 

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